2020年12月27日日曜日

今年1年を振り返って


今年は、新型コロナウィルスの流行に始まり、収束しないまま終わろうとしている1年だと思います。

世界中が同時に危機に見舞われるのを、私は初めて経験します。

既に全世界で175万人もの人が亡くなっています。

早く収束することを、ただ願うばかりです。



世の中で起きる出来事は、全て因果律の働きによるものです。

今回のウィルスの流行も、偶発的なものではなく原因が存在します。

同じことを繰り返さないためにも、原因を突き止めなければいけません。



前にも書きましたが、流行が広がったのは、元を質せば人間の利己心が原因だと思います。

人間が最初にウィルスに感染したのも、本来、接触するはずのない動物たちと接触したためです。

未開の土地に入って行くのも、そこに住む動物たちを侵害するのも、利己的な動機からです。

資源開発と言えば聞こえが良いのですが、地球全体から見れば侵略行為であり略奪行為です。

人間中心に物事を考えているので、そのことが判らなくなっています。



人から人に感染するリスクが大きいのは、生きて行く上でどうしても必要な行為以外の時が多いようです。

(海外)旅行や飲食等はリスクが高い行動です。

特にアルコールが入ると理性が失われて、感染のリスクはさらに高まります。

地上的な欲求を満たす行動に乗じて、ウィルスは伝搬されて行くように感じられます。



それらの行動を否定してしまうと、仕事にしている人の生活が成り立たなくなり、面白味のない人生になるような気がします。

しかしながら、この世界には飢えた人たちがたくさんいます。

ほとんどの人はそのことを承知しています。

飢えた人が多い、貧しい国々ほど、紛争が起きています。

誰かがこんなことを言っていました。

「野蛮だからではなく、お腹が空いていると、イライラして争いが起きるんだ」

全くその通りだと思います。

世界平和を願うのであれば、まず飢えている人たちを何とかしなければいけません。



霊界の人たちは、そんな地上の光景を見て憂いています。

「同じ世界に住んでいて、見て見ぬふりをして、自分たちだけそんな楽しい思いをして良いの」と。

ウィルスが動物から人間に感染するのも、人から人に感染するのも、利己心と欲を満たすための行動が原因になっているように思います。

感染が急速に拡がっている国は、貧富の差が大きく、差別など多くの問題を抱えているようです。

ウィルスの流行と言う自然現象を通して、犯している過ちに気付かせ、正そうとしている気がしてなりません。



欧米では、ワクチン接種が始まったようです。

性急に作ったために、有効性や副反応に対する評価が不十分なところがあるのは否めませんが、流行を収束させるために最も確実な手段がワクチン接種であることは、過去の事例から見ても明らかです。

たとえ感染したとしても重症化しないために、亡くなる人は劇的に減るでしょう。

そんなこともあり、経済的に豊かな国々が、先を競ってワクチンを確保しているようです。

その行為は、国民を守ると言う観点から見れば当然です。



しかし、世界には自国でワクチンを作ることも、他国から買うことも出来ない国がたくさんあります。

一定の割合以上の国民がワクチン接種を受けたのなら、ウィルスの流行は収束に向かうはずです。

日本や欧米などの経済的に豊かな国々では、近い将来普通の生活に戻れる可能性は高いと考えられます。

しかし、貧しい国々では、一部の特権階級のみがワクチンを接種して、多くの国民はそのままにされてしまうと思います。

「民衆のワクチン連盟(People's Vaccine Alliance)」という組織が、「現状では経済力に劣る70近い国では、国民の1割ほどしかワクチン接種を受けられない」と警鐘を鳴らしています。

経済的に貧しい国の人たちほど、感染して症状が悪化しても、適切な医療を受けることが困難です。

本来は、そんな人たちほど早く受けて、ウィルスから守らなければなりません。



普通の生活を取り戻した国々は、ウィルスの流行は過去のものとなります。

経済的に貧しい国々でウィルスの流行が続いていたとしても、遠いところで起きている対岸の火事になります。

今までもそうであったように。



そんな状態が続く中で、ウィルスの突然変異が起きない保障はどこにもありません。

より強い感染力、毒性を持ったウィルスに変異して、既存のワクチンが効力を失い、獲得した免疫が働かなくなる可能性は十分にあります。

そうなれば、世界は振り出しに戻ります。



ウィルスの変異は、偶発的なものではありません。

自然法則の働きによるものであり、変異の中にも神の意図が隠されています。

同胞意識が欠如し、利己的になっている、人間が犯している過ちに気付き改めない限り、流行が止むことはないのかもしれません。



自分や自国のことだけでなく、人類全体でどうすれば良いのかを考えれば、自ずと方向が決まり、問題は解決されて行きます。

地球を1つの運命共同体と捉えて、対応しなければいけません。

それが、この自然現象を通して、人間が学ぶことだと考えています。



地球を身体に例えてみます。

地球に住んでいる多種多様な生命は、身体を構成している細胞1つ1つに当たります。

それぞれの細胞には役割があります。

脳細胞には脳細胞の、肺の細胞には肺の細胞の、皮膚の細胞には皮膚の細胞の役割があって、それが協調的に働くことによって調和が生まれ、身体の健全さが維持され、活動することが出来ます。

いかなる細胞も、身体にとって必要な存在であり、優劣などありません。

同じ様に、地球上の生命にはそれぞれ果たすべき役割があります。

名もない道端の雑草であっても、日を浴びて酸素を作りだし、動物たちが生きて行くために必要な営みをしています。

絶妙の調和の中で、地球上の生命は生きています。



足先にばい菌が入り、腫れ上がったとしたらどうでしょう?

きれいに消毒をして、抗生物質を飲むと思います。

「これは足先で起きていることだから、放っておいても構わない」と思う人はほとんどいません。

もしそんなことをすれば、全身にばい菌が回って、死んでしまうかもしれないからです。

当然ですが、足先も自分の一部です。



話は少しそれますが、この宇宙にはどれ位の星があるのでしょうか?

地球が属している銀河系には、約2000億個の星があるそうです。

そんな銀河が、宇宙にはどれ位あるのでしょうか?

最新の研究では、何と2兆個存在すると言われています。

130億光年の彼方にある無数の銀河

目眩がするほど宇宙は広大です。

無限大とも言える宇宙では、地球は極小の星の1つに過ぎません。

極小の星の中の、極小の存在が、私たち人間です。



宇宙を創ったのは神です。

神は広大な宇宙の中で、1つのユニットとして、地球を創ったと考えられます。

その中に多種多様な生命を散りばめたのは、お互いが協調し、調和しながら生きて行く過程で、霊的な成長を促す意図があったと考えられます。



1つのユニットとして創られた星の中で、同胞であるべき人間同士が争いをして、傷つけ合っています。

想定されていたことでしょうが、神の意図に反したことをして苦痛を感じながら、改めて行かざるを得ないのは虚しい限りです。

無用な苦痛を地上からなくすために、霊界から真理が降ろされました。



あらゆる生命は霊的につながっています。

しかし、そんな重要なことが、唯物的になり過ぎたために、全く判らなくなっています。

進化の頂点に立つ人間が、自分たちのことしか考えなくなったために、地球全体に悪い影響を与えています。

利己的な行動に対して、因果律が働き、苦痛を伴う現象が起きていると考えられます。



もしそうであるのならば、他者のこと、地球全体で考えることによって、健全さが取り戻されるはずです。

全ての人に、ワクチンを行き渡らせなければならないのは、そのためです。



良くなったこともあります。

地球全体のCO₂の排出量が約7%減ったそうです。

ウィルスの流行により、強制的に温暖化に歯止めがかかった形です。

命の危機にさらされている、罪もない動物たちにとって、ウィルスの流行は歓迎すべきことなのかもしれません。




ウィルスの流行は災いではなく、地球全体を良い方向に向かわせるために起きていると考えられます。

大きな苦痛を伴いながらも、私たちは神の意図している方向に変わって行きます。

今年は、大きく変わり始めた1年なのかもしれません。




2020年12月20日日曜日

霊的な能力は何のためにあるのか?


今から30年前位でしょうか、目の細い中年の主婦らしき女性がテレビに出ていました。

出演していた芸能人の背後をじっと見つめながら、その人が抱えている悩みや将来の起きるかもしれない問題などを話していました。

自分しか知らないことを言い当てられたようで、本人はとても驚いていました。




世の中には、霊的な能力を持った人がいます。

何故、そんな人たちが存在しているのでしょうか?

悲しんでいる人が、故人からのメッセージを受け取ったら、大きな慰めとなります。

病気に苦しんでいた人が癒されたとしたら、大きな喜びになります。



霊的な能力は、人に慰めや喜びや癒やしを与える他に、秘められた目的があります。

それは、霊的に覚醒させるためです。



人間は肉体を超えた存在です。

しかし、私たちは五感に頼り切った生活をしているので、そのことに気付くことが出来ません。

気付くためには、肉体(物質)以外のものに、意識が向かなければいけません。



夢物語のように感じるかもしれませんが、霊的な覚醒を促す計画が霊界で立てられました。

私はもちろん事実と認識しています。

何故、そのような計画が立てられたかと言えば、地上に唯物的な考えが蔓延したことによって弊害が生じ、それが看過できないほど大きくなってしまったからと考えられます。



唯物的な人は、死ねば終わりだと信じています。

生きている時に、せいぜい楽しい思いをしようとします。

(この世の)自分の人生に執着してしまうと、他人のことに関心がなくなります。

それが高じると利己的になってしまいます。

利己的な人同士がぶつかると、争いになります。

利己的な国家が台頭すると、戦争になります。

悪いことをしても、死ぬまでばれなければ良いと思う人も出て来るでしょう。

唯物的になるほど、物質的に豊かになろうとする欲が強くなります。

その結果、富が片寄り貧困が生まれ、環境が破壊されます。

動物たちは虐げられ、地球全体の平和や調和が乱されます。

そんな悲惨な状況を、霊界は大いに憂いています。



霊的な覚醒を促す計画が、初めて実行に移されたのは、19世紀半ばのアメリカです。

ラップ音による死者との交信であり、後に「フォックス家事件」と呼ばれています。

その後、イギリスにおいて様々な霊的な現象が起きました。

中でも、エクトプラズムは驚異的な現象でした。

霊媒の口や鼻から煙の様なものが現れて、かつて地上にいた人物に形を変える時があります。

現れた人物は、半物質化したものであり、触れると人間と同じような感触があったそうです。



それらの現象の検証に、著明な科学者らが立ち会いました。

その中に、蛍光灯の原理やタリウム原子を発見したクルックスがいました。

当初、彼はトリックだと思っていたのでしょうが、エクトプラズムなど自分の理解をはるかに超えた現象を何度も目の当たりにして、すっかり参ってしまいました。

周囲の人は、トリックをあばいてくれると思っていたのに、逆に霊の存在を完全に肯定したので、大変驚くと共に失望したと思います。

その後、科学者仲間からは異端児扱いされましたが、終生、自分の主張を変えることはありませんでした。

クルックスは生命の真実を知り、唯物的な考えを改めたのです。

他にも多くの人が、科学者は万能と言う考えに見切りをつけました。



日本においても、目を見張るような霊的な現象が明治から昭和初期にかけて起きていました。

世界各地でこのような霊的な現象が起きていたのは偶然ではありません。

霊界で立てられた計画が実行に移されていたのです。

この時期に集中したのは、唯物的な考えから引き起こされる、後の2つの世界大戦を霊界が予見してのことなのかもしれません。



現代において、その時の様な世間を賑わす派手な霊的な現象は起きていません。

それでも計画は着々と進んでいます。



魂は、知性を刺激することによって目覚めるものではありません。

さまざまな出来事を経験する中で、自然に目覚めると考えられます。

絶望的な状況に陥った時ほど、その好機と言われています。

私もそうでした。

精神的に追い込まれ、思考が停止状態になった時、それまで奥で眠っていた魂が目覚めます。



霊的な能力は、魂を目覚めさせる引き金になると考えられます。

大切な人を亡くし、生きる希望を失い、悲嘆に暮れる日々を送っている人がいたとします。

導かれるようにして霊媒に会い、メッセージを伝えられ、それが故人からのものと確信します。

肉体はなくなっても生命は存続していると言う事実に気付くと同時に、唯物的な考えは吹き飛び、魂が目覚める人がいます。

病気になり医者から見放されて、途方に暮れている人がいたとします。

縁あってヒーリングを受けて病気が癒されたとします。

この世のものではない力が存在しているのを認めると同時に、魂が目覚める人がいます。

自我に覆い隠されていた本当の自分(魂)が表に出て来て、人生の主導権を握ります。



人の本質は、肉体ではなく魂です。

唯物的な考えの人は、肉体しか目に入りません。

そのため、肌の色、容姿、肩書きなどの外面が気になります。

魂が目覚めると、意識の焦点が大きく変わり、人の外面よりも、内面を視るようになります。



しかし、魂が目覚めて終わりではありません。

霊界が望んでいるのは、地上の人に霊的真理を受け入れてもらうことです。



地上に大いなる恩恵をもたらすものが霊的真理です。

大切なことを要約すると「生命は永遠であり、互いにつながっているので、慈しみ合うべし」と私は思います。

慈しみ合うことよりも大切なことは存在しません。

戦争や貧困や差別などの問題が立ちどころに解決されます。

恥ずべき動物の虐待もなくなります。



もう1つ大切な真理があります。

それは「因果律」です。

起きていることには必ず原因があります。

原因を作れば、必ず結果が生じます。

神の摂理に反した行いには苦痛が、適った行いには悦びがもたらされます。

真理を知れば、経験しなくても良い、地上の苦しみや痛みが避けられます。



個々の人間はれぞれ違う形態をして、ばらばらに存在しています。

それは肉体の話です。

肉体を動かしているのが魂です。

魂は生命そのものです。



神によって創られた魂には、神性が宿っています。

全ての生命は、同じ神性でつながっています。

ばらばらに存在している個々が、魂に目覚め、神性を発揮して慈しみ合うことで、1つになって行きます。

慈しみ合う力は、魂と魂を引き付け合う力だからです。



全ての生命は霊的に1つです。

それが神です。



霊的な能力は、唯物主義を打ち砕きます。

打ち砕かれた後に、魂が目覚めます。

目覚めた魂が、真理を見つけます。

真理を受け入れて、実践することにより、神や霊界の望む世界になって行きます。

生命の進化を促し、1つになるためにあると思います。


2020年12月13日日曜日

ある双子の兄弟を通して感じたこと


世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るっています。

感染した人は7150万人を超え、160万人が亡くなっています。(2020年12月13日現在)

一刻も早い収束を願うばかりです。



この感染症は、原因がはっきりしています。

ウィルスの侵入さえ防げれば、病気になることはありません。

しかしながら、世の中にはこれと言った原因も見当たらずに、病気になる人がいます。

「何で私が?」と、戸惑いや憤りを感じている人もいます。



人は、肉体と精神と魂(霊)の3者から成り立っています。

3者はそれぞれ次元が異なり、そのどこかに病気の原因が存在しています。

感染症は、物的なウィルスや細菌の増殖が原因なので、肉体(物質)的次元の病気と言えます。

胃潰瘍は、主にストレスが原因なので、精神的次元の病気と考えられます。

精神と肉体は密接に関係していますが、物質を超えた精神的次元は医学の対象外であり、踏み込んだ研究はされていません。



原因不明の病気は数多くあります。

多くの人を苦しめているガンや膠原病も、残念ながら根本的な原因は解明されていません。

悪いところがあれば切り取ったり、薬で症状や痛みを抑えたりするしか方法はありません。



肉体、精神の上位にあるのが魂(霊)です。

魂から指令が出され、精神を介して、肉体で表現されています。

しかし、魂(霊)の存在は医学的に認められていません。

そのために、霊的次元に原因が存在する病気は、医学的に原因不明とされます。



解明されてない病気の1つに、遺伝性疾患があります。

遺伝性疾患は、生まれつきの病気です。

親の遺伝子に異常がなければ、突然変異とされてしまいます。



発病は、精子と卵子が結合した瞬間です。

病気は結果であり、必ず原因が存在します。

発病が結果ならば、原因は受精時以前にあることになります。

身体(受精卵)が誕生するより前に、私たちは存在していなければなりません。



記憶には昇って来ませんが、ほとんどの人は過去に地上を生きた経験があります。

そこで、何らかの原因が生じていたと考えれば、突然変異として片付けられることはありません。



数年前になりますが、ある障がい者施設にボランティアに行っていました。

そこに重度の身体障がいを持つ20代の一卵性の双子の兄弟がいました。

この兄弟と接して、病気や障がいの意味について、思いを巡らすことになりました。



2人には脊椎に遺伝性疾患(奇形)があり、手足の自由が利きません。

背骨が曲がったままであり、食事も排せつも入浴も着替えも介助が必要です。

知性は正常であり、普通に会話が出来ます。

幸いにも、わずかに指を動かせるので、電動車いすに乗っての移動が可能でした。



2人の性格は対称的でした。

お兄さんと話をする機会が多かったのですが、今の自分の境遇に大きな不満を抱いているようでした。

集まりにも参加しないで、部屋でテレビを観ていました。

いつも不機嫌そうで、愚痴や不満ばかり言っているので、周りにいる人が少なくなり、ベッドの上で一人ぼっちで過ごしていることが多かったです。



一方、弟さんは明るく快活です。

車椅子スポーツにも参加していて、不平不満を言っているのを聞いたことがありません。

時々、お兄さんの所に顔を見せては、励ましていました。

お兄さん思いの、心優しい青年です。



同じ遺伝子を持ち、同じ障がいを持ち、同じ環境で育ち、顔もそっくりなのに、これほどまで性格が違うのには驚きました。

性格は大脳を超えたものによって形作られている、そんな思いを強くしました。



人間の本質は魂です。

一卵性で肉体は同じ作りであっても、別々の魂が宿っています。

性格の違いは、宿っている魂が違うことに起因していると思いました。



因果律の働きによって、全宇宙は経綸されています。

従って、世の中に偶然起きる出来事はありません。

病気を抱えて生まれて来たのも、何かしらの原因が存在していたはずです。



私たちの人生には、計画があります。

オリジナルな計画であり、目的は自分(魂)を成長させるためですが、地上にいる私たちは窺い知ることは出来ません。



前々回のブログで、計画された出来事には「償い」と「挑戦」があると書きました。

お兄さんは、ため息をつき、嘆いて、いつも精神的に苦しそうです。

憶測になりますが、自分の運命を呪い、周囲を手こずらせ、辛そうに生きている姿を見ていて、ついこんなことを思ってしまいました。

過去生で何かしらの過ちを犯して、その償いのために、この身体を選ばざるを得なかったのではないかと。



弟さんは、ため息をつくことも、嘆くこともありません。

自分に起きていることを受け入れていて、精神的に苦しくなさそうです。

その前向きな姿から、償いのためではなく、より大きな成長を促すために、この身体で生きることに挑戦しているように感じました。

同じ病気(障がい)を持っているにも関わらず、生き方が違うのは、そのためだと思いました。

双子として生まれて来たのは、お互いの成長のために必要だったと考えられます。



ところで、お兄さんの苦しみは、死ぬまで続くのでしょうか?

そうとは限らないと思います。



肉体の病気(障がい)は不変であり、生涯付き合わなければ行けません。

けれども、苦しみを感じているのは、肉体ではなく精神です。

自分の病気(障がい)をどう捉えるのかで、苦しみの感じ方は大きく違って来ます。

そのことが、2人を見ていてはっきりと判りました。



不幸、不運として捉えれば、苦しみは付いて回ります。

自分の運命を呪っている限り、苦しみから逃れられません。

人を妬んだり、怒りを覚えれば、余計苦しくなってしまいます。

それらの想いは、自然法則(神の摂理)に反しているからです。

成長を妨げてしまう、それらの想いに対して因果律が働いて、苦しみが生じてしまいます。



もし、過去生で何らかの過ちを犯していたのならば、怒りや憎しみや恨みや嫉妬など自然法則に反する想いが生じやすい性分が原因になっている可能性が高いと考えられます。

苦痛は、過ちに対する償いの一環であると同時に、自然法則に反した性分を改めるために存在すると思います。

生まれる前、今生の計画が立案される時、身体的な病気(障がい)を抱えて生きることが、性分を改めるために最善と判断されたと思いました。



苦痛を感じなくなるには、結局は自分が変わるしかありません。

自分の意思で変えるのが難しいのであれば、自然法則の働きによって、強制的に変えられて行くと考えられます。

変わったのならば、苦痛が存在する理由がなくなり、解放されるはずです。

解放された時点で、償いは終わっていると思います。

たとえ肉体上に病気や障がいは残ったとしても、霊的な負債が返済されたならば、精神的な苦しみはなくなると考えられます。

妨げているものがなくなり、それからは伸びやかに成長して行くでしょう。



自分を苦しめているのは、自分なのかもしれません。

原因を作っていたのは、自分だったのかもしれません。

自分に必要なことが、起きているだけなのかもしれません。

地上に生きていると、そんなことが全く判らなくなってしまいます。



お兄さんの償いが終わったらどうなるでしょうか?

周りで自由に動いている人を見て、妬ましく思うことはなくなるはずです。

支えてくれている人と思えるようになり、感謝の気持ちが湧いて来るはずです。

出来ないことを嘆くのではなく、今の自分に出来ることを見つけて、挑戦するようになると思います。

その時のために、弟さんがいるような気がしました。



苦しみを少しでも和らげるために必要なのは、やはり霊的真理です。

「この世で終わりなんかじゃないよ。」

「今の体から解放されて自由になる時が来るんだよ」等々、ベッドサイドで伝えました。

神妙に聞いていた横顔が、今も印象に残っています。



ウェザーニュース(weathernews.jp)より

2020年12月6日日曜日

誰かのために生きている



早朝、犬の散歩に行った時、まだうす暗い空に満月が光っていました。

月は地球の引力によって、地上から37万km離れたところを回っています

私自身は極小の存在です。

しかし、宇宙から見れば地球の一部には違いありません。

ほんのわずかであっても、月との間に引き付け合う力が働いています。

月は、自分とは全く関係のない存在ではないようです。



私たちは、多くの人に囲まれながら暮らしています。

時に、人間関係が煩わしく感じ、1人になりたいと思う時もあるでしょう。

地球でたった一人になったらどうでしょうか?

生きて行くためには、食料は欠かせません。

しかし、毎日食べている米も、自分で作ることは出来ません。

電気やガスも使えなくなれば、真冬の寒さには耐えられないでしょう。

とても生きて行けるようには思えません。



私たちが普通に生活が出来ているのは、自分のために働いてくれる人たちがいるからです。

私自身も、周りの人のために働いている1人です。

ひとり1人は独立して生きているように見えますが、密接に関係しています。



人間だけではありません。

植物がなくなれば、ガス交換が出来なくなり、動物は窒息して死んでしまいます。

地球上の生物は、お互いがお互いのために生きていていると言えます。



SFみたいな話ですが、インフラはそのままで、食料も調達されて、今と変わらぬ環境で、自分一人だけだとしたらどうでしょう?

全てが自分のものなので、好きなことをし放題になります。

遊園地に行って大好きなアトラクションを待たずに乗ったり、デパートに行けば好きな物がいくらでも手に入ります。

誰に煩わされることも、干渉されることもありません。

自由気ままに、好きなことが出来るので、楽しくて仕方がありません。

しかしながら、それは一時だけかもしれません。



無人島や周囲から隔絶された環境で、誰とも接触しないで一人で暮らしている人がいます。

そんな人たちは、それほど孤独を感じているように見えません。

人から離れた生活を敢えて選んだのであり、その場所を離れれば、また人に会えることが保証されているからだと思います。



もし、地球に自分だけしかいなかったらどうでしょう?

絶望的な孤独感に襲われると思います。

自分と言う存在が、良く判らなくなってしまうと思います。

何故なら、人は人との関係の中で、自分を認識していると思うからです。



朝日が昇るころ、小鳥たちの鳴く声で目覚めることが多いです。

お互いが呼応して、存在を確認し合い、生きている歓びを伝え合っているように聴こえます。

人間も同じであり、他者と関りを持ち、自分を分かってもらえることで、歓びを感じていると思います。



人間とは上手く言ったものです。

生物としての「人」は食料さえあれば1人で生きて行けますが、「人間」は他の人がいることで生きて行けると思います。

人がいることで、人間として成立していると考えられます。

人間は、物的にも精神的にも、1人では生きて行けないと考えられます。



人がこの世に生まれて来た目的は、人間として成長するためです。

困難や障害に直面した時に、それを乗り越えて行く中で成長します。

また、他者のために奉仕をすることで成長します。



地球上で、たった1人で生きているとしたら、誰に対しても、何もしてやることが出来ません。

他者に奉仕することが出来なければ、人間として成長することもままならなくなります。

人間には成長したいと言う欲求がありますが、それが満たされなくなります。

そのために、生きているのが苦しくなってしまうかもしれません。



そんな世界に置かれ、何をすることもなく生きていたとしたら、自分が生きている意味、存在する価値を見い出せなくなってしまいます。

そんな時に、地面にヒマワリの芽が出ているのを見つけたとします。

気になって、水を与えると思います。


自力では生きて行けない子猫がいたとします。

何もしなければ死んでしまうので、食べ物を与えると思います。


そのうちに、成長して行く様子を見るのが楽しみになります。

そして、生きがいとなるような気がします。

他者のために何かをすることが、この世界に自分が存在する、確かな意味になるからです。

ささやかな喜びを感じながら、生きていられると思います。

どんな物を手に入れたとしても、同じような喜びを感じることはありません。

物的な喜びは束の間であり、際限がありませんが、他者のために何かをすることで得られる喜びは霊的なものであり、永続性があります。



私たちは、労働することによって、お金を得て生活しています。

家事もお金を介さない労働です。

人や社会や家族のために、何かしら奉仕をしないと生きて行けないようになっていると言えます。

生きるために必要なことをする中で、知らずに成長が得られているのが地上と考えられます。



死んだ後の世界では、肉体はなくなります。

生きて行くために、労働する必要はなくなります。

自分の好きなことが、いくらでも出来るようになります。



死んだ後の世界においても、生きる目的は全く変わりません。

自分を成長させるためです。

自分の好きなことをいくらしていても、他者のために何かをしなければ、神の摂理により成長は叶いません。

従って、他者のために何かをしようとする気持ちが起きない限り、同じ場所に留まったままです。



地上に生まれるのは、他者のために何かをする習慣を身に付けるためと考えられます。

その中に悦びを見い出すことも、大きな目的の1つと考えられます。

地上にいる時に悦びを見い出せれば、霊界に行って自発的に成長して行くことが可能になります。



多くの人は、他者のために何かをすることは良いことだと、漠然と思っています。

それは道徳的に良いと言う以上のものであり、全宇宙を貫いている大原則(神の摂理)に適った行為です。

適った行いをしている時に人は成長し、生きていることを実感し、満たされた気持ちになります。

自分のためだけに生きていると、どうしても虚しさを感じてしまうのはそのためです。



生きる目的を見い出せずに苦しい思いをしている人は、自分以外に目を向けて、何か出来ることを見つけるのも大切かもしれません。

大きなことをする必要はなく、身の回りで、自分に出来る範囲ですれば良いはずです。

実行に移すことで、苦しみは和らぐと考えられます。

人間は成長していない状態を苦しみとして感じ、成長することに悦びを感じるようになっていると思うからです。






2020年11月29日日曜日

生まれて来た目的


魂が存在するのか?、それともしないのか?

遠い昔からある命題です。

客観的に証明されないものは、いかがわしいと感じていた私は、魂の存在を信じていませんでした。



望んでいたわけでもないのにヒーリングの力が出現し、唯物的な考えは吹き飛ばされました。

証明されていないものでも、実際に存在していることが、はっきりと判りました。

その後すぐに、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に辿り着き、その力について合理的な解釈が出来ました。



科学は万能ではありません。

生命について何の説明もなされていません。

それは、唯物的な科学の対象外のものだからです。

生命とは魂です。

至って単純なことですが、未だに認められていないのは残念です。



物理学に詳しいわけではありませんが、物質を極限まで突き詰めて行くと波動になるようです。

物質には硬さや重さがありますが、実はそれも波動が作り出した錯覚のようなものです。

魂が目に視えないのは、物質(肉体)よりもはるかに波長が短いためと考えられます。

物質と非物質の差は、もしかしたら波長の違いだけなのかもしれません。

荼毘に付されて肉体はなくなります。

しかし、生命の本質である魂は物質ではないので、燃えて消えてしまうことはありません。



魂が存在し、死んだ後にも生が続いているのならば、この世に生まれる前にも生があるはずです。

しかし、その内容は全く判りません。

判っているのは、前生と今生は、密接に関係していると言うことです。

前生、現生、来生は「因果律」と言う法則によって、つながっています。

前生で原因を作れば、現生で結果が生じることになります。

現生で原因を作れば、来生で生じることになります。

遠い過去から、因果の連鎖を繰り返しながら、現在の自分がいます。



人生は楽しいことばかりではありません。

時には、とんでもない苦難に遭遇します。

何の脈絡もなく、突発的に出来事が起きたのなら、それは生まれる前から決まっていたことなのかもしれません。



何のために、出来事が起きるのでしょうか?

目的は1つであり、自分(魂)が成長するためです。

成長するために、必要なことが起きています。



決まっていた出来事は、大まかに「償い」と「挑戦」に分かれると考えています。

宇宙の隅々まで、自然法則が働いています。

自然法則に反する行いをすれば、因果律の働きにより「償い」が生じます。

例えば、人を裏切って大きな苦痛を与えるようなことをすれば、それは自然法則に反した行いなので、寸分の狂いもなく、同等の苦痛が生じる出来事が起こります。

生きている内に起きなければ、来生に持ち越されます。

裏切られたらどうなるのか、思い知らされる出来事が起きて、苦痛を味わうことでその罪を償いながら、自然法則を学んで行きます。



私たちには、成長しようとする根源的な欲求があります。

苦痛が生じる出来事など、誰でも嫌に決まっています。

しかし、償いをしないと成長することが許されないので、受け入れるしかないのです。

出来事が起きたのは、そんな理由の時もあります。



私たちが次に行くのは、肉体が取り払われた、本質(魂)の世界です。

地上では判らなかった神の存在を、ひしひしと感じられるようになります。

完全(神)とはどんなものなのかを理解するようです。

魂と向き合うことになり、否が応でも不完全(未熟)さを強烈に自覚するようになります。



自転車に乗れるようになるには、本を見たり、口で教えてもらってもだめです。

実際に、自分で乗って覚えるしかありません。

何回も転んで痛い思いをしながら、乗り方を覚えて行きます。



未熟さをなくして行くのも同じです。

相応の経験が必要であり、苦しい思い、痛い思いをしながら、成熟させて行くしかありません。

完全に少しでも近づきたいと願えば、その願いは叶えられ、地上に生まれて来ます。

そして、因果律の働きによって、最適な出来事が、最善のタイミングで起きます。



生まれる前の自分は、そのことを承知しています。

しかし、その時の記憶は、魂の奥深くにしまい込まれていて、表には出て来ません。

もし、出来事が起きることが判っていたら、全精力をかけて回避しようとするでしょう。

あるいは、生きる気力をなくしてしまうかもしれません。

私たちは未熟なために、知ることが許されていないと考えられます。



そのために、突然起きたとしか思えません。

何で私がと、思ってしまいます。

とても耐えられないと、思うこともあるでしょう。



偶然でも、不運でも、不幸でもありません。

挑戦するのを決めたのは自分です。

決めていたことが、予定通りに起きているだけです。



人間には自由意思があります。

挑戦するべきところ、乗り越えるべきところで逃げてしまったりすると、予定していた学びや成長が得られなくなります。

勇気を振り絞って挑戦するのも、つらくても逃げ出さないのも、成長する機会を逃したくないからです。

成し遂げられずに悔しい思いをして、再度、挑戦するために生まれて来た人もいるはずです。



乗り越えられられない出来事は絶対に起きません。

神によって創案され、挫折させるためではなく、成長させるために起きているからです。

乗り越えられることが分かっていたので、承知したはずです。

苦しませるだけ苦しませて、終わりになることは絶対にありません。



死んだ後に赴くのは、自分と同種の人しかいない、安らかで平和な世界です。

居心地の良い世界ですが、自分を大きく変えるのは難しいようです。

魂まで響く深甚な出来事を経験して、初めて未熟な自分を根本から変えることが出来ます。

そのために、この世に生まれて来たのです。

自分が変わった(成長した)時に、出来事の目的が成就されます。

どう変わったのかは、死んだ後にはっきりと認識されます。



人生は1度限りではありません。

望んでいる限り、何度でも生まれ変わります。



何の目的もなく、この世に生まれて来た人はいません。

全ての人に共通している目的は、自らの変革であり、進化です。







2020年11月22日日曜日

同胞意識


新型コロナウィルスの流行が止まりません。

世界では5560万人以上の人が感染し、134万人以上の人が亡くなっています。

慣れとは恐ろしいものです。

少し前は、感染者が増えると脅威に感じていたのに、今ではそれほど驚かなくなっています。



世界で1番感染者が多いのはアメリカです。

今までに1100万人を超える人が感染し、24万人以上の人が亡くなっています。

経済的に豊かで、医療水準が世界のトップレベルにもかかわらず、感染者や死亡者が抜きん出て多いのは何故でしょうか?



多くの人が感じている様に、マスクを着けない人がたくさんいるのも一因となっているのは間違いありません。

ソーシャルディスタンスを守っていない人も少なくないようです。

個人の自由を尊重する余り、感染のリスクを高めてしまっているように見受けられます。



他にも要因があると思います。

アメリカの医療費は信じられないほど高額です。

例えば、奥歯が虫歯になり日本の歯科医院で神経の治療をすると9400円弱ですが、アメリカで同じ治療をすると20万円位かかります。(日本は皆保険で患者さんの多くは3割負担なので、実質2820円の支払いです)

盲腸の手術で入院すると、日本では約53万円(自己負担は約16万円)、アメリカでは600万円もかかるそうです。

日本では、救急車で病院に運ばれても無料です。

アメリカで救急車を利用すると、後で数十万円の請求書が送られて来るそうです。

これでは、アメリカに行って病気にはなれません。



アメリカ人の多くは民間保険に入っていて、そこから医療費が払われます。

しかし、2750万人の人は保険に入っていないそうです。

保険に入っていない人が、もし新型コロナウィルスに感染して入院し治療を受けると、どれ位の治療費を請求されるのか?

470~820万円と言う試算があり、中には1億2000万円もかかった人もいたようです。(高齢者で公的医療保険制度の対象であったため支払いを免れました)

保険に入っていない人のほとんどは所得が低いために、そんなお金など持っているはずはありません。

コロナに感染している可能性があっても、薬局で風邪薬を買って飲んで、家でじっとしている人が多いのではないでしょうか。

もし、一緒に住んでいる人がいるのならば、家庭内で感染するのは目に見えています。

体の調子が悪いからと言って休むと解雇されてしまう可能性があるので、無理を押して仕事にも出るでしょう。

今度は、職場において感染が起こります。



人種間でも、死亡率に大きな差があるようです。

シカゴ市では黒人の人口比率が約30%に対して、死亡者は約60%だそうです。

全米においても、人口10万に当たりの黒人の死亡率は、白人の2倍以上です。

この理由は、人種間の生物学的な差ではなく、適切な医療を受けられるかどうかの社会的な立場の差を反映していると思われます。

また、経済的な理由から適切な医療を受けられず、基礎疾患が放置されているために重症化し、死亡率を高めている可能性もあります。

こんな社会的な背景もあって、1日に2000人に迫る人が亡くなっていると推察されます。



次に、感染者や死亡者が多いのがインドとブラジルです。

やはり、経済的に豊かな人と貧しい人の格差が著しい国です。

格差に慣れ切ってしまい、同じ国にいる人がコロナの感染による生命の危機に晒されていても、どこか対岸の火事の様に感じている人が多いのではないかと思ってしまいます。



自由競争社会では格差が生まれるのは当然であり、それを否定する気はありません。

努力した者が、報われる社会であって欲しいと思います。

しかし、自分さえ良ければそれで良い、そんな利己的な考えが蔓延してしまうと、社会的な格差は予想以上に広がり、弱者は見捨てられることになります。

そんな弱者を狙って、コロナは拡がっているような気がしてなりません。

現状のままでは、流行は止まらないような気がします。



地上には、勝ち負けがあります。

霊界では、調和や協調を基調とした世界なので競い合うことはなく、そのために勝ち負けは存在しません。

あるのは、霊的な進化の程度の差だけであり、より多くのものを分け与える者が、自然法則の働きによって上に行きます。

持っている者が、持っていない者に分け与えることによって、神の愛が満遍なく行き渡る様になっています。

それに比べて地上では、勝ち負けにこだわり、持っている者が、さらに持とうとするために、格差が進んで行きます。

地上では仕方がないと思っている人も多いでしょうが、明らかに神の摂理に反した状態です。



霊界では、霊的な罪を犯せば、神の摂理の働きにより、直ぐに結果が現れます。

しかし、地上では物質が介在しているために、結果が現れるとは限りません。

そのため、罪を犯していても気付くのが難しくなります。



神の摂理は愛です。

利己的な行いや、貪欲さは、道徳的に良くないのではなく、霊的に罪なことです。

そのことに気付かないまま、生きている人があまりにも多いです。



地上的な欲望が強くなると、霊的な意識は希薄になります。

それに伴い、同胞意識が欠如して来ます。

自分のことだけを考えていると、街の片隅で助けを求めている人がいても、そのことに気付きません。

気付いたとしても、他人事であり、見て見ぬふりをしてしまいます。

それが当たり前になっている社会は、霊的に病んでいます。

コロナの流行が、人間が利己的になり、同胞意識が欠如したために、歯止めがかからないのであれば、その原因は霊的次元にあると言えます。



もし、人間が利己的になることで、コロナが蔓延するのであれば、利他的な行動を心がければ、終息に向かうはずです。

それでは、具体的にどの様な行動を取れば良いのでしょうか?

人に移さないために、マスクをするのは大前提です。

感染させる可能性があるので、多くの人との直接的な接触はなるべく避けます。

たくさんの人を感染させる可能性があるので、密集は避けるようにします。

旅行の動機が、観光施設を支援するためではなく、金銭的に得をするためであれば、良い結果をもたらすとは思えません。

ストレス解消のために飲酒をすると抑制が外れて、他者への配慮に欠けた行動を取ってしまいがちになるので極力控えなければいけません。

自分の楽しみのために、感染リスクのある行動は、今は控えた方が良いのかもしれません。

自分に移らないようにするのではなく、人に移さないと言う意識を持って行動すれば、神の摂理に適っているので、感染は拡がらないと考えています。



データは不足していますが、ワクチンは流行を止めるために、最も効果的な手段であるのは間違いありません。

世界中の人にワクチンを接種すれば、感染者も死亡者も激減すると思います。

しかし、ワクチンを開発している国は限られているので、開発することが出来ない国は、他の国に頼らざるを得ません。

国民全員に行き渡るための費用は莫大なものとなるため、経済力のない国は買えないかもしれません。



自分の国だけが良ければと思えば、アメリカと同じ状況になり、経済的に弱い国の間で蔓延して、終息することはないと考えられます。

世界規模で同胞意識を持って、経済的に豊かな国が、貧しい国のために支援しなければいけないと思います。



国はたくさんあり、人種もさまざまですが、人類は霊的に1つです。

人間だけでなく、動物たちも含め、あらゆる生命は運命共同体です

個人や自国のことばかりを考えていると、因果律の働きによって、それが過ちであることを知らしめる結果が生じます。

霊的に1つであると言う意識が生まれないと、富める国で流行が治まったとしても、貧しい国の間でくすぶり続け、因果律が働き、再び世界中に拡がる可能性があると考えています。



新型コロナウィルスの流行は、霊的に病んでしまった人類が、霊的な意識に目覚めて、健全さを取り戻すために、神の摂理の働きによって生じていると思います。

もしそうであれば、世界中の人々が同胞意識を持ち、助け合うことによって、克服できるはずです。




 

2020年11月15日日曜日

神の心を表現するために生きている


子供の頃、自転車に乗って町内を走っている若い白人男性の姿を良く見かけました。

口癖のように「あなたは~神を~信じますか~?」と尋ねていました。

ちょっと変わっている人だなと、子供心に思いました。



神がいるとは思いませんでした。

正確には、生きて行く上で関係なかったので、いてもいなくてもどちらでも良かったのです。

神は宗教が作り出した概念なので、信じないまま一生を終えるだろうと考えていました。



その考えを根本から変えるきっかけになったのは、ヒーリングの力の出現でした。

病気が癒される様子を間近に見て、大変驚きました。

未知の力の正体をどうしても知りたくて、辿り着いたのが「シルバーバーチの霊訓」です。

そこには神について書かれていましたが、私がイメージしていた神とは大きく違っていました。



シルバーバーチの霊訓には、神を「愛の極致」、「叡智の極致」と書かれています。

また、神は「法則」であると書いてあります。

そして、私たちは「神の分霊」であるとも書いてあります。

いくつもの神の側面があり、当初は戸惑いました。

しかし、今になってようやく結びついて来たように思います。



神の姿は目に見えるものではありません。

見えないからいないと言われればそれまでです。

しかし、神の力が働いている様子を見ることは可能です。



ナイフで指を切ると、肉が裂けて、血が出ます。

しばらくすると出血は止まり、傷口は徐々に塞がって行きます。

これは人間が持っている自然治癒力の働きによるものです。



自然治癒力は、生命力の一種です。

生命力とは何か?と科学者に問いただしても、明確な答えは返って来ないでしょう。

いかなる機器によっても、実体を捉えることはできない、科学の対象外のものだからです。



生命力は、物理(地上)的な力ではありません。

霊的な力であり、神の力です。

古代医学者のヒポクラテスが、「病気は神が治し、恩恵は人が受ける」と言っていましたがその通りです。

病気は医者が治しているのではなく、生物学的法則に則って、生命力と言う神の力が働いた結果として治ります。



人間は、霊(魂)、精神、肉体より成り立っています。

肉体は、口から食べたものをエネルギーに変えて活動しています。

魂は、それとは別経路の生命力によって活動をしています。

魂が電気製品で、神が発電所だとすると、発電所(神)から送られて来る電気によって電気製品(魂)が動くような構図を想像していましたが、それとは少し違うように感じています。

魂は神の一部であるため、自らも力の源泉となっていると、今は考えています。



宇宙を創造したのは神です。

何らかの意思(心)が存在し、宇宙は誕生したはずです。

私たち人間は、神の意思(心)によって創られた、宇宙を構成している極小の一部と言えます。



極小であっても、私たちには神の意思(心)が埋め込まれているはずです。

神の意思(心)など、どこにあるの?と、思うかもしれません。



こんなことを思い出します。

幼少の頃、道端で子猫が啼いていると「可哀想」だと思い、家に連れて帰りました。(また元の場所に戻すことになりましたが・・)

学校でいたずらをして騒ぎとなり、「いたたまれない」気持ちになりました。

人を傷つけて、後になってひどく「後悔」をしました。



そのような気持ちが生じるのは、どうしてでしょう?

「良心」が存在しているからです。

良心こそが、私たちに埋め込まれている神です。

良心に逆らって行動すると、心が苦しくなったり、後悔したりするのは、神の意思(心)に従って生きるように定められているからです。



神は空の上から監視をしていて、悪いことをしたら懲らしめるような存在ではありません。

自然法則として顕現していて、宇宙を経綸しています。

自然法則に反するような行いをすると、因果律の働きにより、それを改めるために苦痛を伴う事象が起きるようになっています。



例えば、自分勝手なことばかりしていたらどうでしょう?

周りから非難され、孤立してしまいます。

利己な行動は、神の意思(心)に反しているからです。

いけないことだと知らしめ、改めるために、非難や孤独と言う苦痛を伴う事象が、自然法則の働きにより起きます。



自らの中に神がいます。

そして、自然法則の働きの中にも神がいます。

内にも外にも神がいて、神の意思(心)が宇宙の隅々まで反映されています。

神の意思(心)が顕現したものがこの宇宙であり、宇宙全体が神であると言えます。



ここで、ある疑問が生じます。

神が無限の愛であるならば、神の一部である私たちの心に、相応しくない怒りなどが生じるはずはありません。

しかし、現実として生じています。

どうしてでしょうか?



今、このブログをご覧になっているのは、ご自身の意思によるものです。

私たちには、何でも決めることが出来る、自由意思が与えられています。

自由意思を行使して、自然法則に適った行いをすることも、良心に逆らって法則に反した行いをすることも許されています。

従って、人に傷つけられたり、騙されたり、陥れられてしまうこともあります。



怒りや怖れは、自分の身を守るために備わっている、原始的な感情と考えられます。

もし、存在しなければ、身に危険が生じても反撃や逃避もせずに、成すがままになってしまいます。

最悪の場合、命を落としてしまうこともあり、それではこの世に生まれて来た目的が果たせなくなります。



魂と肉体の中間に精神が存在しています。

魂から生じた想いを、肉体で表現するために、精神的次元に(地上的な)自我が形成されて行きます。

自我は肉体と密接に結びついているために、自己保存的な欲求が生じています。

高いところに立つと、身がすくむのも、自我の働きにより「怖れ」が生じているためです。

全ての人に自由意思が与えられているので、(過った自由意思の行使から)自らを護るように、怒りや怖れの感情も同時に与えられたと考えられます。



怒りが高じると憎しみとなりますが、神の心とは相容れません。

憎しみを抱いてしまうと、自然法則の働きにより、苦しみが生じます。

苦しみの中で、自分が変わることによって、怒りや憎しみから解放されて行きます。

怒りや憎しみは、進化の過程にある感情であり、媒体である自我が未発達なために生じると考えられます。

進化するのに従い、その様な感情は生じなくなり、進化の果てには、愛のみが表現されるようになると考えられます。



シルバーバーチは「魂は神性の火花」であると言っています。

人間の本質は、神性を表現しようとしているはずです。

しかし、地上では自我を通して表現しなければなりません。

火事になり取り残されている人がいて、助けてやりたくても、それが出来ないのは、自我から「怖れ」が生じて、神性の発現を妨げているからです。



こんなことも書かれています。

「人生の目的は、進化、発展、成長、学習です。進化するたびに、それまで役目を果たしてきた体が自動的に脱げ、その進化にふさわしい体をまとうのです。」

地上では肉体、死んで幽界に行くと幽体、さらに元の住処に行くと霊体をまとうことになりますが、その媒体に相応しい自我を通して自己表現をしていると考えられます。



神の心は完全なる愛です。

しかし、媒体を通過する時に、大きく変化してしまいます。

プリズムを通過すると光は屈折して、様々な波長の光に分かれますが、それと似ている様な気がしています。



自我と言う媒体の影響が小さくなればなるほど、神の心はそのままの形で表現されるようになります。

影響を全く受けなくなった時、神の心そのものが表現されるようになりますが、それには永遠の時を必要とするようです。


完全な神の心を表現するために、生命は永遠に続き、絶え間なく進化して行きます。

生命の進化こそが、神の意思(心)だと思います。




2020年11月8日日曜日

恥じることのない魂


一生を通じて、どれ位の人と会うのでしょうか?

数え切れないほどの、たくさんの人と会います。

今まで会った人は、誰一人として同じではありません。



全てに渡って自分と似ていると思う人に会ったことは、まだありません。

似ている部分もあるけれど、違っている部分もある人がほとんどです。

シルバーバーチの霊訓を読み「アフィニティの関係」と言うのがあることを知りました。

ツインソウルとも言われていますが、ロマンティックな空想上の話ではなく、実際にあるようです。

これ以上似通った人は存在せず、もう一人の自分を見ている様な感覚になるのかもしれませんが、地上で出会うことはめったにないようです。



私たちは、自分と違う人たちに囲まれ、交わりながら生きています。

違うからと言って、目くじらを立てても仕方がないのです。

当然のことですが、差別をしてもいけません。



77億人の人たちがこの地球に生きていますが、考え方や価値観はそれぞれ違います。

世の中には、たくさんの意見が存在し、その中からどれかを選らばなければならない時があります。



迷ってしまいますが、絶対的な基準が存在しています。

それは「自然法則(神の摂理)」に適っているかどうかです。

より適っている方を迷わず選ぶべきです。



自然法則の大原則は愛です。

より多くの利益(恩恵)を与える、あるいは役に立っている方が、自然法則に適っています。

自分よりも相手の方が、より人や動物や社会のためになっていたり、喜びを与えるものであれば、悔しいかもしれませんが、その意見を尊重するべきです。

自然法則に適ってないのにもかかわらず、自分の考えを押し通すのならば、周囲の反発を招くだけではなく、良からぬ結果を生じさせることになります。



利益を追求するあまり、他者がどうなっても構わないと思う人がいます。

道徳的にいけない以上に、それは自然法則に反しています。

自由(競争)の名の元に、強い者だけが生き残り、弱い者が息絶えてしまうのも反しています。

一時的に、地上的な利益は得られるかもしれませんが、長くは続かず、霊的な借金を負ってしまいます。



力があったり、声が大きければ、わがままな意見であっても通ってしまうことがあります。

次の世界に行くとそうは行きません。

利己的な思念は、周囲との調和を乱すだけであり、その人を孤立させます。



地上的な強者とは、権力や富などの力を持っている者です。

その力で、物質的なものを、自由に動かすことが出来ます。

しかし、人の心まで動かすことは出来ません。



霊的な強者とは、自分より他者のことを、より強く想う人のことです。

想う心により、魂(心)を動かすことが可能です。



霊界には無限の界層があります。

自然法則の働きにより、他者のことを想う人が、より上の界層に位置します。

上の界層ほど、神に近いため、より多くの愛を享受します。

そして、享受した愛を、下の界層にいる人たちに分け与えようとします。

分け与えられた人は、そのまた下の界層にいる人たちに、分け与えようとします。

その様にして、神の愛が上から下へと行き渡るようになっています。



地上には界層はありません。

同一平面に生きています。

そのため、他者よりも自分を優先する人たちが、往々にして上の立場になります。

それによって、さまざまな不条理が生まれ、苦しみが生まれます。

上の立場の人に、富は集まりやすい仕組みになっていると考えられます。

集まった富を、必要としている人たちに分け与えれば、霊的な価値が生まれます。

しかし、自分を優先するあまり、分け与えようとはせずに、さらに集めようとします。

こうして不均衡が進んで行き、富める者はさらに富み、貧しい人はさらに貧しくなって行きます。


肉体を維持するだけの食べ物があれば十分です。

欲に駆られて食べ過ぎると肥満になり、やがて病気になります。

必要な分だけを食べて、余っている分はお腹を空かしている人に分けてやれば、肥満になる人も、あばら骨が出るほど飢えて痩せた人もいなくなるはずです。

分け与えることで、全てが上手く行くようになっています。

自分さえ良ければと思う人が多くなると、全員が享受できるはずのものが用意されているにもかかわらず、行き渡らなくなってしまっています。


自分さえ良ければと思う人ほど、霊的なことを知りません。

この世界が全てであり、死後の世界などあるはずはないと思っています。

そんな人が死んだらどうなるのでしょう?

まだ意識があるので自分が死んだとは思えずに、権力やお金の集まる場所に引き付けられるでしょう。

ようやく死んだことに気付くと、霊的に相応しい界層に向かうことになります。

そこには、自分と似通った人、自分さえ良ければと思う人たちが集まっています。


子供の時に読んだ「蜘蛛の糸」と言う物語を思い出します。

暗く、争いが絶えることがない世界でしょう。

平和で穏やかな境涯とはかけ離れ、あるのは我欲から生み出される不調和であり、苦しみです。



苦しめている原因が、自分の想念であることに気付くことが、抜け出すための最初の一歩です。

想念が、自然法則に反しているのです。



そのことに気付くと同時に、地上時代の行いを振り返ることになるかもしれません。

自分さえ良ければと言う想念が、いかに他者を苦しめていたのかを知り、愕然とするでしょう。

後悔の念に苦しむことになります。



この苦しみから何とか逃れたいと懇願していると、指導的立場の霊が現れて、償いの地上人生が提示されます。

地上で与えた苦しみを、地上で味わうことになります。

自分さえ良ければと言う思いが、いかに間違っているのかを学ぶための出来事が、どこかで起ります。

その出来事から生じる苦痛を通して、前生の過ちが償われることになります。



償いが終盤に差し掛かると、誰かから救いの手を差し伸べられて、苦しみから解放されるかもしれません。

否が応でも、他者のことを思う気持ちの尊さに気付くでしょう。



高い地位に付き、たくさんの人に大きな苦しみを与えてしまった人は、1回の地上人生では償い切れないかもしれません

償いが終わるまで何度でも生まれ変わり、魂に受け容れる準備が整ったら、ようやく学びが与えられると思います。

学びを得て、苦しみから解放されて、長い償いが終わります。

自分さえ良ければと思う人は、苦しみの経験を通して自然法則を学び、他者のことを思う人に少しずつ変わって行きます。



一方、他者のことを思っていた人が死ぬと、生前良くした、先に逝った人たちに助けられ、次の世界に直ぐに順応するようです。

次に赴く界層には、他者のことを思う人たちばかりが集まっています。

お互いがお互いのために生きるているので、悦びに満ち溢れています。

神の愛がふんだんに降り注ぎ、明るくて、穏やかで、調和の取れた平和な世界です。



人間の本質は魂です。

向こうに持って行けるのは、魂に蓄えた霊的な財産だけです。

巨万の富を得ても、高い地位を得ても、霊的な貧者になってしまっては、何にもなりません。



虚飾は剥ぎ取られ、嘘や誤魔化しが出来ない世界です。

裸になった魂を隠すものは何もなく、全てが知られてしまいます。

他者が喜ぶような生き方を心がけることで、誰に見られても恥じることのない魂になって行きます。











2020年11月1日日曜日

魂を成長させる約束


 今は、人生90年でしょうか。

そうであれば、私は3分の2を過ぎようとしているところです。

因みに、世界で一番長生きしているのは日本人の女性で117歳(2020年9月現在)だそうです。



世の中には、生後数か月、中には数時間で亡くなってしまう赤ちゃんもいます。

そんな赤ちゃんがいると、多くの人はせっかく生まれたのに可哀想にと思うでしょう。



それは大きな間違いです。

短い一生にも、大切な意味があります。



人には寿命があります。

生まれる前から決っていますが、知ることは出来ません。

それぞれの人生に予定されたシナリオがあり、寿命は自ずと決まります。



生きた時間によって、人生の価値が決まるものではありません。

予定されていた人生を、歩めたかどうかが問われます。

いくら長生きをしても、逸脱した生き方をしてしまえば何にもなりません。

どんなに短かったとしても、予定された通りの人生を歩み、その時が来て向こうの世界に行ったのであれば、哀れんだり、悲しんだりする必要は全くありません。



子供は、両親を選んで生まれて来ます。

その選定は、人智を超えたプロセスで行われ詳しくは判りませんが、自然法則の働きによって、最適な母体に宿ると考えられます。

偶然、親子になることは決してありません。



子供を亡くす以上に、過酷な経験があるとは思えません。

その衝撃、悲しみ、苦しみは、実際に経験した人しか判りません。

もし、生まれてわずかな時間で亡くなったとしたら、こんな疑問に苛まれるでしょう。

「何のために生まれて来たのか」と。



この世に生まれて来た理由は単純明確です。

自分を成長させるためです。

この世で起きる様々な出来事を乗り越えて行くことで成長して行きます。

そして、他者に愛を表現することで成長します。



もし、短い時間でこの世を去るとしたら、何も経験出来なかったことになります。

経験がなければ、成長も出来ないので、生まれて来た意味がないように思えてしまいます。



ある人は、こんなことを言うかもしれません。

「この子は大きなカルマを背負って生まれて来たので長く生きられなかった」と。

その人は、大きな誤解をしています。

もし、カルマを背負って生まれて来たとしたら、もっと長く生きて、痛みや苦しみを通して償いをしなければならなかったでしょう。

カルマがないからこそ、早く逝ったと考えられます。



早く亡くなる子は、優しく、思いやりがあり、純粋で、誰からも好かれていると感じるのは私だけでしょうか。

自分にはもったいない子だったと言う、ご両親の言葉を良く聞きます。

「憎まれっ子世にはばかる」と言う諺がありますが、その真逆の様な気がしてなりません。



陸上のトラック競技が思い浮かびます。

ある選手が自分の後ろを走っています。

しかし、後を走っていたその選手の方が、先にゴールをしてしまいました。

何故だろうと思い、レース全体を振り返ると、後に走っていた選手は実はスタートから自分の前に出ていたのです。

その後も、速いペースで走り続け、レース終盤では自分の後ろまで迫っていました。

実力に大きな差があると、こんなことが起こり得ます。

魂が成長しているお子さんであれば、親よりも先にこの世をゴールしてしまうことがあります。



この世のゴールは、次の世界のスタートです。

次の世界は、この世をどう生きるかによって変わって行きます。

生まれる前にも人生があるのですが、私たちは未熟なために窺い知ることは出来ません。

連綿として人生はつながっているのです。

しかし、全体が視えないので、この世だけで判断してしまうことになります。

先にゴールしたお子さんが不幸に思えて、嘆き悲しんでしまいます。



地上で学ぶことがあれば、何回でも生まれて来ます。

地上に生まれるのが初めての人もいれば、何十回も経験している人もいます。

何十回も経験している人の方が、初めての人よりも、多くを学んでいて、魂が成長しているのは当然です。

初めて地上を経験したご老人もいるでしょう。

何十回も経験している赤ちゃんもいるはずです。

従って、生まれた時から学ぶことの少ない赤ちゃんもいれば、学ぶことが多く残されていてるご老人もいることになります。



学ぶことのほとんどない赤ちゃんであれば、地上に長くいる必要はありません。

目的を果たして、直ぐに元いた世界に戻ることになります。



唯一の目的が、地上のあるご夫婦の子供として生まれる場合もあります。

ご夫婦にとって、可愛い赤ちゃんの誕生です。



赤ちゃんは皆、特別な存在のように感じます。

学ぶことのほとんどない霊的に成長した赤ちゃんは、それとは別の何か特別なものを感じるかもしれません。

瞳の奥に、強い意志や決意のようなものを感じられるかもしれません。



生まれる前に、通常の人生の何百分の1、あるいは何万分の1の時間で、地上を去ることを承知しています。

自分に起きていること、これから起きることも、もちろん承知しています。

短い時間であっても、強烈な印象を残しています。

言葉を超えた、たくさんの想いを伝えています。

そして、予定されていた通りに、次の世界に行きます。



ご両親は、あまりにも短い人生を嘆き悲しみます。

自分の子供にならなければ、こんなに早く死んでしまうことはなかったと、責めてしまう人もいるでしょう。



霊性の高い魂ほど、自分を犠牲にして、他者を思いやります。

この世に長く生きる必要のない霊性の高い魂が、人を悲しませ、苦しませるために生まれて来たはずはありません。

自分のためではなく、他者の学びや成長を促すため、そして生命の尊さを伝えるために生まれて来たはずです。



悲しみはとても深いものになるのは避けられません。

しかし、その先に待っているのは真理です。

新たな人生が始まり、学びながら、大きく成長して行きます。

それこそが、その子がこの世に生まれて来た目的です。



早く亡くなったお子さんのことを「天使」と呼んでいる人がいます。

それは、間違いではないのかもしれません。

天使的存在は、地上に生まれる必要がないほど高度に進化をした魂です。

そんな魂が、特定の人のために、地上に生まれて来ることがあると思います。

もしそうだとすれば、親として選ばれたのは、誇らしいことなのかもしれません。



何度も地上に生まれて来る中で、どこかで最愛の人との別れを経験しなければならないと思います。

神の心である愛を深く学ぶために、地上でこれ以上の経験はないと考えられるからです。

愛すれば愛するほど、学びは深くなります。



身も心も引きちぎられるような試練を乗り越えられない人であれば、子供として生まれては来ません。

これ以上ない悲しみにの果てに、魂が目覚めて、大きく成長してもらえると信じていたから選んだはずです。




地上を去る時が来ます。

暗闇の先で待っているのは、1日も忘れることのなかった、あの魂です。

魂から放たれている、眩しく、美しい光に圧倒されるかもしれません。



極限の悲しみ、苦しみの日々によって、魂が浄化されています。

慈しみの心が姿を現し、それを表現することによって、美しい思念(光)を放つようになっています。

出来事には霊的な意味があり、魂の成長と言う報いを受けていたことで、完全な公平、公正が保たれていることを知ります。

出会わせてくれた、偉大な存在に感謝をするでしょう。



悲しませる、苦しませるために、生まれて来たのではありません。

高い愛を携えて、悦びを与えるために生まれて来たはずです。



魂を成長させる約束をして宿ったのです。

最愛の人がいない現実に耐えながら、この世界を生きているだけで、魂は成長しています。




2020年10月25日日曜日

難しい方を選ぶ

 

人生は、選択の連続です。

小さなことでは、着る服を選んだり、ご飯を選んだり、読む本を選んだりしています。

大きなことでは、学校を選んだり、職業を選んだり、結婚相手も選んでいます。



こんな選択もあると思います。

思いもよらぬ役回りが巡って来た時に、引き受けるのか、辞退するのか。

壁が立ちはだかった時に、乗り越えて行こうとするのか、避けるのか。



そんな時に、相反する自分がいることに気付きます。

失敗を怖れ、無難で安全な選択をしようとする自分と、難しいけど挑戦してみようとする自分がいます。

両者のせめぎ合いがしばらくあり、最終的に優った方の行動を取ることになります。



失敗を怖れているのは、「地上的な自我」と考えています。

一方、挑戦しようとしているのは「霊的な自我」と考えています。

地上的な自我は、本当の自分である霊的自我と表現媒体である肉体との間に介在していて、霊的な自我から生まれた思念を、表現するべきかどうか、どう表現すれば良いのかを、頭を使って考えています。



「失敗したらどうしよう」と心配しているのは、地上的な自我です。

地上の自我は、自分の立場が悪くなったり、人から非難されるを嫌うので、挑戦を避けようとします。

「どうせ~だから」と言い訳を考えて、霊的な自我から生じている本当の自分の想いを否定しようとします。



そんな時に取るべき態度について、シルバーバーチの霊訓にはこんなことが書かれています。

「困難との闘いを前にして逃げ出すよりも堂々と戦って負ける方が立派です。」

判っていても、進むのをためらう時はありますが、後悔しないために挑戦した方が良さそうです。




この世に生まれて来たのは、自分を成長させるためです。

困難を乗り越えることで、成長するようになっています。

負荷がかかり、緊張を強いられ、苦しいのに決まっていますが、成長するためには挑戦する方を選んだ方が良いのです。




失敗したり、挫折したり、期待したほどの成果が得られない時もあります。

たとえ、結果が出なかったとしても、奮闘努力する中で霊的な成長が得られます。

地上的な結果よりも、霊的な成長の方が永続的な価値があります。




人一倍奮闘努力して挑戦しても、自分の望んでいる結果が得られない人もいます。

しかし、その姿を見て、勇気付けられ、元気をもらった人は、たくさんいます。

多くの魂に生きる力が与えられたので、努力以上に霊的な成長が得られていると思います。
ソチ五輪の浅田真央選手



私たちには、例外なく守護霊が付いています。

その目的は、地上の人が予定されていた人生を歩んで、学び成長するためです。

様々な手法を用いて、訴えかけ、時に警告を発して、導こうとしています。




ひとりぼっちで生きているように思えますが、それは大きな間違いです。

霊界から無形の援助を受けながら、私たちは生きています。

守護霊と二人三脚で、この世界を生きていると言っても過言ではありません。




人には自由意思が与えられています。

自由に決めることが出来ますが、その代わりに結果責任を取らなければなりません。

全責任は地上の人にあるので、守護霊は決定に干渉出来ないと考えられます。




地上の人の目の前に困難が生じた時、乗り越える方向に進んで行くことを、守護霊は切望しています。

乗り越えられないことは、この世で起きないことを知っているからです。

避けないで前に進むように、意念を送り促しているのですが、最終的に決めるのは地上の人です。




固唾を飲んで、地上の人の決定を見守っています。

もし、避ける方向に進んでしまったのなら、学びや成長の機会を失ったことになり、残念に思っているでしょう。

首尾よく、挑戦する方向、乗り越える方向に進んで行ったのなら、大いに喜んでいるでしょう。




難しい方を選んだ瞬間から、地上の人に意念という力を送り続けていると思います。

その意念を地上の人が受け取ると、内から力が湧き出て来て、前に進んで行けるような感覚になると考えられます。

挑戦しようとする意志が鮮明になると思います。




霊界から届く意念によって、地上の人の意志は強固で、新たなものになります。

「大丈夫だろうか?」と言う気持ちが、「何とかなる」と前向きな気持ちになります。

視界がパッと明るくなったり、心が急に軽くなって、前に進んで行こうとする気持ちになるのは、霊界から意念と言う力が届いたせいかもしれません。




せっかくの霊界からの援助の力を妨げてしまうものがあります。

それは、怖れであり、不安であり、心配であり、取り越し苦労です。

そんな気持ちが地上の人を支配してしまうと、援助の力が届き難くなってしまいます。




挑戦しようとする時に、どうしても不安や心配が生じてしまいます。

そんな時は、自分一人ではなく、霊界にいる人たちと一緒に挑戦していると思うことが大切です。

そうすることで、両者のつながりが再び強くなり、援助の力が届きやすくなります。




落ち込んでいる時に、人から励まされたり、勇気づけられたりすると元気になったり、気持ちが前向きになったりします。

それは、言葉や行動を介して、目に視えない力を人からもらっているためと考えられます。

励まそう、勇気付けようとする気持ちの根底にあるのは愛であり、それが相手に伝わると生きる力に変わると考えられます。




霊界にいる人も、地上にいる人と同じことが出来ます。

言葉や行動を介さずとも、意念という力を、地上にいる人の魂に伝えることが出来ます。

伝わった意念は、地上の人に生きる力を与え、気持ちを変容させます。




魂の存在を信じていない人でも、霊界の援助を受けています。

ふと思い付いて行動したり、無意識の内に行動したりする時は、霊界からの意念に促されていることが多いと思います。

逆に、何となく気が進まない、やってはいけないと胸騒ぎがする時は、霊界から止めさせるような意念が届いている可能性があります。




霊界からの援助は、明確な線引きがされていると考えられます。

地上の人が予定通りに学び、成長をしていくために守護霊が付いています。

守護霊が、無闇に助けてしまえば、その人の成長を妨げてしまうことになりますので、何にもなりません。




そうであれば、何かあった時に「助けて下さい」と祈るよりも、「乗り越えるための力を与えて下さい」と祈った方が効力があるはずです。

もちろん、お金や地位を手に入れるような、地上的な願望実現のための祈りは聞き届けられることはありません。

自らの学びや成長を望む祈りが霊界に届くのは、それがこの世に生まれていた目的そのものだからです。




全ての起点が、思念です。

思念から肉体的表現が生まれます。

動機が神の摂理に適っている、または成長させるものであれば、その時から霊界からの働きかけが始まり、表現するための援助が得られます。




人や動物や社会のためになることであれば、迷わずにやる方を選んで下さい。

地上的な努力と、霊界の援助によって、良い結果が必ず生まれます。

直ぐに結果が得られなかったとしても、当初の想いを持ち続けていれば、最終的に目的は成就されます。




1人で成し遂げようとするのではなく、霊界との共同作業と思って下さい。

難しく思えても、霊界からの援助があるので、そちらに進んで行けば大丈夫です。

想いを持ち続け、霊界とのつながりを信じていれば、それで良いのです。




振り返ってみると、どうなるだろうかと案じていたことが、何とかなっていることに気付きます。

自分を信じて取り組んだ時は上手く行き、失敗した時は決まって不安や心配が先行し、自分を信じられなかった時のようです。

それは、霊界からの援助を上手く受け取れたかどうかの、差なのかもしれません






2020年10月18日日曜日

美しい光(思念)を放つために


世の中の意識が、少しずつ変わっているのを感じています。

まだまだなところもありますが、総じて生命を尊重をするようになって来ていると、私は思っています。

社会的弱者に対する配慮が、以前よりもされるようになって来ました。

アフリカの子供への支援(ユニセフの㏋より)

人の権利や差別に対して、敏感になって来ました。
人種差別抗議デモ(時事通信)

毛皮のコートを着ている人は、めっきり少なくなりました。(牛革はまだまだですが・・)

北極狐の毛皮

100年前の日本の女性には、選挙権はありませんでした。

約80年前、600万人ものユダヤ人がナチスドイツによって殺されました。

今から、そんな時代に逆戻りするようなことはありません。

許されない世の中になっています。

これは、一時的な傾向ではありません。

一方方向に進んでいます。



人間は経験を通して学びながら、少しずつ進化しています。

進化とは、環境に適応するための肉体上の変化や、知性の発達を指しているように思えますが、そうではありません。

人間の本質は霊です。

進化とは霊性が向上することです。



霊性とは神性であり、神の心です。

私たちは、生まれながらにして神の心を持っています。

神の心が表現されている人ほど進化している人であり、自分ではなく周り(全体)に意識が向いています。

困っている人がいれば助けたくなり、社会のために何かをしようとします。

駅のホームから転落した人を、自分の命を犠牲にして、救おうとした人がいました。

神の心が発揮されるほど、我を忘れて、より次元の高い愛が表現されます。



散歩をしていると、レジ袋を片手に犬の散歩をしながら、ごみ拾いをしている女性に良く会います。

1日で拾うごみは、それほど多くはないでしょう。

しかし、それを何十年も続けていれば、すごい量になっていると思います。

車に道を譲ったり、電車で席を譲るのも、小さな親切です。

人を慰めたり、勇気付けたりするのも、優しさの表れです。

毎日のように、私たちは仕事や家事をしています。

社会や家族のために、何かしらの役に立っていることになります。

地味だけれども、長い間続けていれば、想像している以上に大きな奉仕となっていると思います。

日々の生活の中で、さまざまな形の奉仕をしながら、少しずつ霊性を高めています。



時に、災難や不幸と言われるようなことが起きます。

シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「地上生活の目的はきわめて簡単なことです。死後に待ちうける次の生活に備えて、本来のあなたであるところの霊性を強固にするのです。身支度を整えるのです。開発するのです。となれば、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることがあなたの霊性の成長の糧となるのです。その一つ一つが神の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も―暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが―克服できないほど強烈なものはありません。」

そして、こうも言っています。

解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。

苦しく、つらい日々が続いて、逃げ出したくなることがありますが、そんな時ほど魂は大きく成長して、神性が高められていると考えられます。



もし、死後に待ち受けている世界がないとすれば、苦しみは人生において全く不要なものです。

暗い体験は不幸でしかありません。

この世界は、余りにも不公平で不平等です。



死後の世界を、客観的に証明することは出来ません。

少なくても私の中では証明されていることであり、全く疑念はありません。



死後に待ち受けている世界こそが、真実の世界です。

この世界で表現されているものは、全て真実とは限りません。

嘘もあります。

虚飾もあります。

本音と建て前があります。

裏と表があります。



死後の世界では、肉体がありません。

魂が露わになり、白日の下にさらされます。

隠し立ての出来ない、ありのままが表現されてしまう、真実の世界です。



真実の想い(思念)が光となって、魂から放たれています。

肉眼で視えなかった思念が、霊的な眼によって視えるようになります。

美しい思念を放っているのか、醜い思念を放っているのか、その色彩によって一目瞭然です。

霊界に行くと、美の感覚はさらに鋭敏になると考えられます。

地上では、美しい外見の人に憧れる人が多いでしょう。

外見(肉体)がなくなる霊界では、露わになった魂が美の全てになります。



どんな思念が生じるのかは、霊の持っている資質によって決まります。

「慈悲」「慈愛」「寛容心」「協調的精神」「奉仕的精神」が、霊の持っている資質と言われます。

霊の資質が発揮された時、美しい思念が生じます。

美しい思念とは、大きな意味での「愛」と考えられます。



それでは、どの様にすれば霊的な資質が身に付くのでしょうか?

お金を払えば、身に付くものではありません。

学問の様に、本を読んだり、誰かに教えてもらって、身に付けられるものでもありません。

自らの経験を通して、身に付けるしかありません。



私たちは、霊的な資質を身に付けるために、志願してこの世に生まれて来ています。

そのために、さまざまな経験をしています。

うれしい経験もあれば、楽しい経験もあります。

苦しい経験もあれば、悲しい経験もあります。



うれしい経験や楽しい経験をすれば、喜びとなります。

同じ経験をしている人たちと、想いを分かち合えます。

誰もが望んでいる経験ですが、それだけでは霊的な資質は身に付きません。



苦しみや悲しみを伴う出来事は、誰も経験したくありません。

それでも経験しなければならないのは、経験しなければ決して判らない、言葉では伝えられない想いがあるからです。

経験をした人は、経験をしている人の、想いを窺い知れるようになります。

想いが共有された時に、他者に対して「慈悲」の心が生まれます。

経験したくないことを、経験することによって、霊的な資質を身に付けられ、神性を発揮することが出来ます。



許せない様な事象が起きると、怒りが生まれる人もいれば、哀れみが生まれる人もいます。

どちらが生れるのかは、個々の霊の資質によって決まります。

怒りが生れると、平穏さが失われ、内に秘めると苦しみとして感じられます。

怒りが生まれないためには、「寛容心」を身に付けるしかありません。

地上でいろいろな人と交わり、さまざまな経験を通して、怒りに苦しみながらも、自らが成長することによって、寛容心が身に付けられると考えられます。



死後の世界では、肉体はなくなり、周りには自分と良く似た人しかいなくなります。

そのために、病気の苦しみも、争いによる痛みもありません。

あらゆるストレスから解放された世界です。

そんな居心地の良い世界であれば、ずっといたいような気がします。



魂には、完全に向けて成長したい欲求があります。

そのために、自分に足りない資質を、どうしても身に付けたくなります。

シルバーバーチはこう語っています。

「何もかもがうまくいき、鼻歌まじりののん気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。」



水で溺れて苦しい思いをした人は、真剣に泳ぎ方を覚えようとします。

快適な霊界にいるよりも、危機的な状況、追い詰められる状況になる地上に身を置いた方が、霊的な資質を身に付けるのには都合が良いと考えられます。

自分に欠けている資質に気付いて、それを身に付けたいと願う人は、苦しみや悲しみのある地上に生まれて、試練を経験することを望むようになります。

その記憶は生まれたと同時に封印されてしまうので、予定されていた試練の最中にいる時は、何で自分がこんな苦しい思いをしなければならないのかと思うばかりです。

過ぎ去ってみると、以前の自分と何か変わっています。

その変化こそが、霊的な資質を身に付けた証です。



霊界に行くと、望みを叶えるために、最適な経験であったことが判ります。

神の計らいの完璧さに感嘆して、感謝するようです。

この世で果たすべき目的を果たし、欠けていた資質を身に付けて、より美しい思念を放つようになっています。

究極の美である神へと続く無限の階段を、1つ上ったことになります。





2020年10月11日日曜日

愛は癒しの力


今も、やっている人がいるのでしょうか?

子供が怪我をすると、お母さんが手を当てて「ちちんぷいぷい~」と、お呪いをしていました。

そんなの効くはずはないと思っていましたが、中には痛みが確かに引いたと言う人もいました。

動揺した子供が、そうやってもらうと心が落ち着いて、痛みを感じにくくなるのかもしれません。



怪我や病気になった時に、「手当て」をすると言います。

一般的に、消毒して薬を塗るなど医学的処置のことを指します。

それ以外に、昔の人は、人の手から未知の力が出ていて、当てると傷の治りが早くなったり、痛みが少なくなるのを経験的に知っていたと考えています。

人は痛いところに無意識に手を当てますが、そのためかもしれません。


そう考えると、お母さんが傷口に手を当てながらお呪いを言うのは迷信でななく、実際に効力があるのかもしれません。




ところで、怪我や病気が治るのはどうしてでしょう?

自然治癒力と言う、身体を元通りにする力が働いているからです。

もし、その力が存在しなかったとしたら、細菌やウィルスに感染しても免疫機能が働かないために死んでしまうかもしれません。

傷口が塞がることはなく、医者は身体にメスを入れることは出来ません。




自然治癒力とは生命力の一種です。

その力は大始源である神から発せられていると考えられます。




人間や動物を含め、宇宙のあらゆる生命は、神によって創造されています。

それぞれの生命は物質的に独立した存在ですが、神を通して霊的につながっています。

神とのつながりを通して生命力が流れ込み、私たちは生かされています。

生命が永遠と言われるのは、神を構成する一部であり、つながりが断たれることがないからです。




しかしながら、神とのつながりが強くなる時もあれば、弱くなる時もあります。

それでは、どんな時に神とのつながりが強くなるのでしょうか?

神の心を表現している時と考えられます。




神の心とは愛です。

愛を表現しようとする時、神の心と同調し、生命力が流れ込みます。

人や動物を助けたり、社会のために奉仕するなど、他者のために何かをしている時に、生命力が流れ込み、目的を成就させて行きます。

予期した以上の結果がもたらされた時には、神との同調が成立し、より多くの力を授かっていたのかもしれません。

反対に、神の心に反した行いをしている時、つながりは弱くなります。

人や動物に危害を与える行為をしたり、世の中の平穏や秩序を乱している時に、神とのつながりは弱くなります。




そして、精神状態にも大きく影響されます。

自分を信じている時に、つながりは強くなります。

逆に、恐怖や不安を感じている時に、弱くなります。

生きていると、恐怖や不安を感じることがあります。

恐怖や不安を克服して、自分を信じることが、地上に生きている私たちに求められていると思います。




神の心に反した、悪と言われる行為をする時も、神の力は流れています。

何故と思ってしまいますが、私たちには自由意思が授けられていて、神の心を表現するのも、反した行いをするのも許されているからです。

ただし、自由には責任が伴います。

自分の行いの1つ1つに、自然法則が働いています。

神の心を表現すれば、自分が成長して、霊的な悦びを感じます。

反した行いをすれば、負の成長をして、苦痛を味わいます。

人は苦痛ではなく、悦びの中を生きたいものです。

結局は、神の心を表現するようになり、成長する方向に進んで行くことになります。




地上に生きていると、心が傷つけられてしまう時があります。

深い傷を負ったとしても、目に視えるものではないので、他の人には判りません。




その傷は、一生治らないのでしょうか?

シルバーバーチはこう言っています。

「自分と言う永遠の霊に傷を負わせる出来事も、害を及ぼす出来事も起こらないことを忘れてはいけません。」

「物的世界には自分を傷つけるもの、自分に影響を及ぼすものは何一つ存在しないことを魂が悟れば、真実、この世に克服できない困難は何一つありません。」

表現媒体である肉体は傷ついて、元に戻らないこともあるでしょう。

しかし、自分の本質である魂が、取り返しのつかない傷を負うことはなく、その出来事によって生きて行けなくなることもありません。




精神で対応できないほどの出来事であれば、その影響は魂にまで及ぶと考えられます。

肉体が侵襲を受けると血が出るように、魂が侵襲を受けると何らかの想いが生じます。

その多くは、怖れや不安、怒りや憎しみなどの感情となりますが、侵襲が強烈になるほど表現するのが困難になります。

表現されなかった想いは、精神下に滞ってしまうと考えられます。

成長を妨げるような想いであれば、それを苦痛として感じ、心の傷(トラウマ)として認識されると考えられます。




肉体の傷は、自然治癒力によって治って行きます。

心の傷にも、同じように自然治癒力が働いています。

時間の経過ではなく、神の力によって心の傷は癒され、苦痛が和らぎ、元に戻って行くはずです。




「完全なる愛は恐怖心を駆逐します」とシルバーバーチは言っています。

また「全き愛は怖れを締め出します」とイエス・キリストは言っています。

完全なる愛、全き愛とは神の愛ではないでしょうか。

自分の中にいる神を信じることが出来れば、怖れや不安は生じないと思われます。

そして、心の傷となっている、怖れや不安、怒りや憎しみなどの想いは、自らの愛によって、解放することが出来ると考えられます。




表現されなかった想いは、別の形となって表現されて、解放されます。

迷子になった子供は必死になってお母さんを探し、その姿を見つけたとたん泣き出すことがあります。

内に溜まっていた怖れや不安が、涙となって解放されたと考えられます。

迷子の子供を見つけたお母さんも、怖れや不安に隠されていた想いが、安堵して表に出て来て急に叱ったり、高じると涙となって表現されることもあります。

涙によって、想いが物質に昇華され、解放されています。




地上には様々な人がいます。

傷つける人もいれば、傷ついて助けを必要としている人、癒やしを求めている人もいます。

神性を発揮する機会に溢れ、成長する機会に恵まれているのが、地上と言えます。




全宇宙を動かしているのは、神的なエネルギーです。

私たちにも、神的なエネルギーが流れています。

良心あるいは道義心とは、何でしょうか?

私たちに内在している神です。

神的なエネルギーが、内在している神を通して流れているのです。

その力は愛を帯びているので、人を癒すことが出来ます。

傷ついている時に、慰めの言葉をかけられると心の痛みが和らぐ時があります。

それは言葉を通して愛が伝わって、魂が癒やされたからです。




内在する神は、しきりに愛を表現しようとします。

しかし、地上を生きている私たちには(地上的な)自我が存在し、その働きによって抑えられてしまいます。

溺れている人がいれば、内在している神(良心)は助けようとしますが、自我は自分が溺れてしまうと考えるために、それに負けると動けなくなります。

神の愛が流れているのですが、自我のために歪められて表現されてしまうのが地上です。




因果律の働きは正確無比であり、人を傷つければ、償いが生じます。

自らが傷つくような出来事が起こり、その苦痛によって過ちを知ることになります。

傷つけられた人には、埋め合わせがあります。

傷ついた心を癒すのは、愛しかありません。

他者に癒されることで、愛の存在を実感し、その意味を深く知ることになります。

誰にも癒されることはなかったとしても、その苦しみの中で魂の成長が促されます。

苦しみが触媒となり、魂が目覚めれば、より多くの神の力が流れ込むようになり、癒されると思います。




神の心は愛です。

神によって創られた自然法則を貫いているのも愛です。

不公正、不公平、不平等は一切ありません。

見捨てられることもありません。

見捨てられたと思えば、自らが見捨てたことになり、神とのつながりを弱めてしまいます。

信じて、つながりを強めた者が、その恩恵を享受することになります。





2020年10月4日日曜日

この世は怒りが生じる世界



以前は、人生は楽しむものと考えていました。

世界中を旅して、素晴らしい景色を眺めたいと思っていました。

行ってみたい場所が、いくつかありました。

1つはエベレストです。

もちろん登るわけではありませんが、間近でその雄姿を眺めてみたいと思いました。




もう1つはオーロラです。

北極圏に行って、心行くまで眺めてみたいと思いました。




霊的な事実を知ってから、その願望はだいぶ少なくなって来ました。

霊界に思いを馳せると、地上のいかなる絶景も色あせてしまうような気がするからです。

地上にない色彩や音が、霊界には存在するようです。

地上の枠から外れた、美が存在するようです。

表現が難しいですが、生命エネルギーに満ち溢れ、光輝いている世界のようです。

そこには、地上の何十倍、いや何百倍の神々しさを感じる光景が拡がっていると思うので、今から楽しみにしています。




霊界に行くと、肉体がなくなります。

肉眼はなくなり、霊的な眼で視るようになります。

生命(霊)が視えるようになります。

霊から思念が光となって放たれ、その色彩によって何を想っているのかが判ります。

電光石火で、ありのままが伝わります。




一方、地上の人に視えるのは肉体であり、思念は視えません。

そのために、思念を肉体によって言葉や行動に変換して、相手に伝えなければいけません。

当たり前の様に使っている言葉は、思念(想い)を伝えるための代替品です。

肉体によって思念を表現すると言う、煩わしい行程を繰り返しながら、私たちは生活をしています。




地上では、思念は正確に相手に伝わりません。

「赤い色」と言われても、トマトの赤を思い浮かべる人もいれば、夕日の赤を思い浮かべる人もいます。



涙を流している人がいれば、悲しみの涙なのか、うれし涙なのか、悔し涙なのかはっきりと判りません。




地上では、表現をした人と受け取った人の間に、どうしても齟齬が生じます。

齟齬から誤解が生まれ、誤解から諍いに発展することもあります。

今までに起きた戦争のいくつかも、齟齬から発展したと考えられます。




諍いにならないためには、どうすれば良いのでしょうか?

両者の間にある隔たりを埋めるのには、相手を信じることが必要です。

信じられなければ、誤解がさらに増してしまいます。




私たちは、自分とは違う人たちに囲まれて生きています。

それぞれの人に、それぞれの生き方や考え方があります。

そのために、交わると互いの相違から反発や軋轢が生じることがあります。




宗教や文化の違いから、今も世界では戦争が起きています。

争いに発展しないためには、相手の違いを認めることが必要です。

想いが正しく伝わらず、違う人間と生きているこの世界で、平穏無事に暮らして行くためには、信じること、認めることがどうしても必要です。




この世に生まれたのは、自分(魂)を成長させるためです。

他者に奉仕すること、困難や障害を乗り越えることで成長して行きます。

もし、相手を信じられず、認められなかったとしたら、人とのつながりは希薄となります。

助け合いながら、成長して行こうとしても叶いません。




想いを伝えるのは、誤解が生じたり、認められないかもしれず、勇気が要ります。

それでも、伝えなければ何も始まらない世界に生きています。

伝えられた方も、何を伝えたいのか推し量らなければいけません。

思惑があって、言葉や行動と想いが一致していない時があります。

嘘もあれば、社交辞令もあり、真に受けると、思わぬ事態に発展することがあります。

外国人が日本人から別れ際に「いつでも遊びに来てね」と言われて、実際に遊びに行くと怪訝な顔をされて困惑したと聞きます。

真意が伝わらない、真意が判らないために起こる事象に苦悩しながら、それでもお互いを理解しようとするところに、地上に生きている意味があります。




違う人たちと交われば、時に軋轢が生じます。

軋轢が、怒りとなって表れることもあります。

アンガーマネージメントと言う心理療法プログラムがあり、要約すると次の3つになるそうです。

1.怒りが生じた時のピークは6秒までで、やり過ごすように努める。

2.自分がするべきと思っていることと、相手がするべきと思っていることの間のギャップを自覚する。

3.自分で解決できないことを怒らないようにする。

この様な対処法も有効と考えられます。

しかし、大きな打撃や損害を受けたら、怒りは収まりません。

高じると憎しみや恨みに発展して行くでしょう。




事象が赦せないと、怒りは生じます。

しかし、いくら赦そうと思っても、赦せるものでもありません。

明らかな過ちであればなおさらです。




怒りが生じると、心の平穏が失われます。

その想いは、摂理に反した想いであるために、苦しみとなります。

苦しみから逃れるために、対象に向かって想いを表現したくなりますが、いざ表現してしまうと、因果律の働きによって、別の形となって苦しみが返って来ます。




同じ事象が起きても、怒りが生まれる人と、生まれない人がいます。

寛容心は、不滅の霊性です。

霊性が発揮されている人ほど、寛容心に富み、怒りが生まれにくいと考えられます。

大きな意味においての愛があれば、怒りは生まれないと考えられます。




どんな出来事であっても、克服できないことはありません。

「神性は自発的に表現を求めます。それが、あらゆる種類の美徳と善行、つまり、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛となって表現されます。」と、シルバーバーチは言っています。

赦そうとしないのは、(地上的な)自我の働きによるものと考えられます。

魂に内在する神性は、事象を赦そうとしています。

怒りが生じたら、赦そうとしない自分(自我)ではなく、赦そうとしている自分を意識した方が良いと思います。

怒りを鎮められるのは、自らの中にある神性しかありません。

内在する神から溢れ出ている霊力(愛)によって、怒りから解放され、事象は赦されるはずです。




怒りが生じなくなるのは、一朝一夕にとは行きません。

因果律の働きに委ねられるところが大きいと考えられます。

苦しみは無意味ではありません。

魂を成長させ、目覚めさせ、神性が発揮されます。

怒りの苦しみが、怒りから解放させる触媒になっています。




次に行く世界(霊界)では、周りに自分と類似した人しかいません。

そのため、自分と違うことで、怒りが生じることはありません。

怒りに苦しむことはありませんが、そこから学ぶこともありません。

霊界で学ぶことが出来ないことを学ぶために、自分と違う人がいる地上に生まれて、さまざまな経験をしています。

違う人たちを認められ、赦すことが出来るようになるほど、より次元の高い愛が表現されるようになります。

霊界において、互いを深く理解し、周囲との調和を増すことにつながると思います。




もし、全てを認められ、赦せるようになったとしたら、地上に生きる意味はなくなり、霊界において向上進化して行くようになると思います。





2020年9月27日日曜日

死によって失われないもの

 




人は言葉によって、コミュニケーションをしています。

言葉(文字)から受ける印象は、大きなものがあります。

「生」と言う漢字は、植物や木が地上に生じてきた様子を表しているそうです。



「死」はどうでしょう。

漢字の由来は、左側の「歹」が骨、右側の「ㇶ」が人の意味があるそうです。

人が骨になる説と、骨の前で人が弔っている様子を表している説があるようです。

そんな成り立ちがあるからでしょうか、正直なところ、この漢字から受ける印象は良くありません。

暗くて、終わりの様なイメージしか湧いて来ません。




それでは、「死ぬ」に代わる言葉として、何が適切でしょうか?

「亡くなる」は、無くなるに通じてしまうので、あまり良くありません。

「他界」は妥当です。

「旅立ち」も良いと思います。

死とは次の世界に移行する現象です。

行先は明るく自由な世界なのですから、暗さを感じさせる言葉は相応しくありません。




「死別」はどうでしょう?

どうもしっくりと来ません。

肉体はなくなり、視えなくなってしまうのは事実ですが、両者が思い合っていれば、別れることはないからです。




親しい人が、遠い国に行ったとします。

どんなに離れていても、電話やメールをすれば、コミュニケーションは取れます。

しかし、死んでしまうと、いかなる通信手段をもってしても、コミュニケーションは取れなくなります。

そのことで、死は永遠の別れと思ってしまう人がいます。




ところで、別れとはどんな時のことを指すのでしょうか?

信じていた人に裏切られて、袂を分かったとしたら、その時は別れです。

真の別れとは、心が離れてしまうことです。

たとえ傍にいたとしても、心が離れていれば、別れているのです。




では、思い合っている人が死んでしまったらどうでしょう?

肉体はなくなりますが、心はそのままです。

心が離れてしまったわけではないので、別れでも何でもありません。

生前と同じように、心はつながっているのです。




向こうに行った人は、「死」をどの様に感じていたのでしょうか?

肉体を失うことで、地上にいる時と状況が大きく変わったことに戸惑っていたでしょう。

意識があり、記憶もあり、性格も変わらずに居るのに、地上の人に骨になってしまったと思われています。

居ることを伝えたいのに、どうしても伝えられません。

そんことなど知らずに、地上の人はただ悲しむばかりです。




真実は2つに1つです。

死んで無になるのか、それとも生き続けるか、そのどちらかです。

どちらも決定的な証拠はありません。

白黒はっきりしないところに、神の意図が隠されていると思います。




無になるとしたら、生きている意味を見い出せません。

人生はうたかたの夢幻です。

どうせ無になるのなら、楽しいことだけをして、苦しいことは逃げてしまえば良いはずです。

人のことなど、どうでも良いはずです。




しかし、苦しくても逃げ出したくはありません。

人のために何かをしたいと言う気持ちもあります。

それは、生まれて来た目的と深く関わっていることであり、無にならないことを、心の奥にいる本当の自分(魂)が知っているためと考えられます。




無になるのなら、地上の人がどう思っていようと関係ありません。

生きているとしたらどうでしょう?

信じてもらいたい人に、存在を信じてもらえないのは、つらくないわけがありません。

いないことにされてしまったと、嘆き悲しんでいるでしょう。

もし死んだ人のことを思うのであれば、たとえ姿が視えなくなり、確証が得られなかったとしても、生きていると信じるべきです。




当たり前の話ですが、電球の明かりは、電気が流れて点きます。

明かり本質は、電球ではなく電気です。

しかし、電気は目に視えず、実体もありません。

電線を触ってビリっと来た瞬間、何かが流れているのが判り、電気の存在を実感します。




愛もそうです。

愛も目に視えず、実体もありません。

それでも、ほとんどの人が信じています。

その理由は、愛を実感したことがあるからです。




愛を実感しているのが、魂です。

そして、愛が生まれるのも魂です。

肉体は物質的次元の存在ですが、魂は霊的次元の存在です。

肉体は荼毘に付されて消滅しても、魂は不滅なため、愛は変わらずに存在しています。

愛の存在を信じられる人ならば、魂の存在も信じられるはずです。




魂を引き付ける力が愛です。

愛によって魂が引き付けられるので、傍にいるのです。

愛し合う者同士に別れはありません。

「死別」は誤りです。




人生にはシナリオがあります。

けれども、全く判らないようになっています。

一寸先は闇です。

出来事は何の前触れもなく起こります。




それが、死の場合もあります。

最愛の人の死であれば、これだけは起きて欲しくなかった出来事に違いありません。

変えようのない現実を前にして、全てが失われてしまったと思う人もいます。




肉体は失われましたが、霊的なつながりが失われることはありません。

両者の関係はそのままです。

愛されていた人は、引き続き愛されています。

けれども、想いを表現する肉体がもうないので、地上の人にどうしても伝えられません。




今、あるのは魂だけです。

1つだけ伝える手段が残されています。

それは、地上の人の魂に、自分の想いを吹き込んで伝えることです。




鍵を握っているのは、地上の人です。

魂の存在を否定したならば、自分の存在も否定されてしまいます。

せっかく想いを吹き込んでも、気のせいとして受け流されてしまいます。

そんな虚しい努力が、いたるところで、どれ位繰り返されているのか判りません。

声を聴きたくても聴けない地上の人の悲しみは、想いを伝えたくても伝えられない霊界にいる人の悲しみの裏返しなのかもしれません。

お互いに、涙を流しています。




神はわずかですが、地上と霊界のつながりを残してくれています。

信じてもらえれば、存在が肯定され、想いを伝えられる可能性が残されます。




人間は肉体を携えた霊的な存在です。

五感が圧倒的に優位になっている地上では気付きにくいのですが、元々備わっている霊的な能力があります。

その能力が発揮されれば、言葉を超えたコミュニケーションは可能です。




目に視えず、確証もないけれど、それでも信じられる人を神は祝福します。

次元を超えてつながることが許されます。

地上の人が条件さえ整えてくれれば、霊的につながれるのです。
          
変わらずに愛されていると、素直に信じて下さい。

信じることでリンクが張られ、そのリンクを通して伝わって来る幽(かす)かな想いを感じ取れる日が、きっと訪れると思います。




参考ページ:「亡くなった愛する人とつながる」