2023年4月30日日曜日

真に幸せな人


私たちは、役者のような存在かもしれません。

地上と言う舞台に立ち、与えられた役を果たそうとしています。

         

決定的に違うところもあります。

役者は舞台を途中で降板することができます。

ところが、地上を生きる私たちはできません。

代役がいないので、幕が下りる(死ぬ)まで演じ切らなければいけません。



この人生の主役は自分です。

周りの人たちは脇役です。

周りの人たちも、それぞれの人生で主役を演じています。

その脇役の1人として、自分がいます。



劇にシナリオがあるように、人生にもあります。

劇のシナリオは、観る人を楽しませるためにあります。

人生のシナリオは、自分(魂)を成長させるためにあります。



役者は、気に入らなければ役を引き受けなくてもかまいません。

私たちは、自分の役を決めて生まれて来たので、やめたいと思っても、降りるわけに行きません。



私たちは、わがままで、弱い存在です。

そのために、決めていた人生から逸れてしまう可能性があります。

シナリオに沿った人生を歩んで行くために、守護(背後)霊が生涯に渡って付いています。

ここぞと言う時に、インスピレーションを与えて、成長する方向へと導いています。



劇の醍醐味は、主人公の人生を疑似体験することにあります。

一般的に、主人公の人生は平凡よりも波乱万丈の方が、そこから生じるさまざまな感情を味わえるので面白く感じられます。



ところが、実際の人生では波乱万丈を望む人はあまりいません。

大きな変化は、苦しみや痛みを伴うことが多いからです。

予測不可能な出来事が起きれば、慌てふためきます。

不幸や凶事と言われるような出来事が起きれば、生活が一変します。

あまりの理不尽さに憤りを覚えることもあるでしょう。

平穏な人生を送っている人たちを見ると「何で自分だけが」と妬んだりする時もあります。



幕が下りれば、舞台は終わりです。

役者は役から解放され、素の自分に戻ります。

けれども、私たちの人生は、幕が下りて(死んで)も終わることはありません。

この世で被っていたマスク(自我)を脱ぎ捨て、本来の姿に戻ります。

もう次の幕が始まっています。



しばらくすると、この世の人生を振り返る時が来ます。

自分に起きた出来事の全てを思い出します。

楽しかった自分、うれしかった自分、苦しかった自分、悲しかった自分、悔しかった自分、言葉にできなかった自分の姿を見ることになります。

その時に取った自分の行動も、続けて見ることになります。



自分が取った行動の1つ1つに自然法則が働いています。

相応の結果をもたらしていたことを知ります。

1つ1つの出来事が密接に関連しながら、過去から現在へと連綿としてつながっているのが判ります。

偶然の入り込む余地が全くないことが判ります。



楽しい出来事は、ただ楽しいだけで、学ぶことが少なかったことに気付きます。

人生を変えた出来事を思い出します。

いくら頭で考えてもどうにもならず、徹底的に追い詰められて行く自分の姿を見ます。

万事休すとなった時に、本当の自分(魂)が目覚めているのが判ります。

目覚めた魂が、大切な教訓を学んで、生き方や考え方が変わって行く姿を見ます。

あの時、逃げ出さなくて良かったと、ホッと胸を撫で下ろすでしょう。



生まれて来た目的は、この世でしか経験できないことを通して、学び成長するためです。

過去生で犯した罪を償うために、生まれて来た人もいます。

居心地の良い霊界よりも、さまざまな出来事を経験できるこの世の方が、目的を果たすのに適しています。



目的を果たすためのシナリオが計画されますが、人それぞれ目的が違うために、自ずと人生も違って来ます。

人と比べては、苦しんでいる自分を見て、間違っていたことに気付きます。



役者の良し悪しは、どれくらい観客に楽しんでもらえるか、喜んでもらえるかで決まります。

人生の良し悪しは、どのような人生を歩んで来たかで決まるのではありません。

予定されていた人生を歩めたか、どれくらい学び成長できたかで決まると思います。

生まれた時に自分になかった資質を、死んだ時に身に付けていたのならば、この世に生まれた意味があったことになります。



大切な資質を身に付けるためには、それ相応の経験をしなければいけません。

「シルバーバーチの霊訓」にはこう書いてあります。

そのうちあなたも、地上人生を明確な視野のもとに見つめ直す時がまいります。その時、苦難こそ最も大切な教訓を教えてくれていること、もしもあの時あれだけ苦しまなかったら、悟りは得られなかったであろうことを、しみじみと実感なさいます。

辛い教訓ではあります。が、教訓とはそういうものなのです。もしも教訓がラクに学べるものだとしたら、もしも人生に苦労も誘惑も困難もなく、気楽な漫遊の旅だったら、それは頽廃への道を進んでいることになります。



次の世界に行くと、考えは一変します。

この世を生きていた時は、上辺だけを見て判断していたことに気付きます。

「苦労のない人生だった」と羨ましがられた人の魂は、思うほど成長していないのかもしれません。

「苦労ばかりの人生だった」と哀れみを込めて言われた人の魂は、思いのほか成長しているのかもしれません。



地上的な価値感で、幸、不幸を決めてしまうのは、全くの早合点です。

外からは窺い知れない、自分でも気付かない、深い部分の変化こそ最も重要です。

変化させる触媒になっているのが苦難の経験です。



真に幸せな人とは、この世でさまざまな出来事を経験して、望ましい方向に自分を変えることができた人、大切なことを学んで魂の円熟度が増した人のことを指すのかもしれません。





2023年4月23日日曜日

苦しみを伴う感情から解放されるために


私の家では親子の犬3匹を飼っています。

母犬は元保護犬で、放浪していた時に身籠り、家の中で2匹を出産しました。

見ていて思ったのですが、犬は子育てが終わると親子の関係は消滅し、仲間になるようです。

何歳になっても親子の関係が維持される人間とは大違いです。



犬を飼っていて大切に思うのは、平等に接することです。

1匹だけを可愛いがると、他の犬は嫉妬したり、拗ねてしまいます。

人間のような感情を持っているので親しみを感じますが、気を付けなければいけません。



人間も犬も、最も味わいたい感情は「喜び」でしょう。

一方、「怒り」や「嫉妬」はできれば抱きたくはありません。

苦しみを伴う感情だからです。



そんな苦しくなるような感情など、初めからなければ良いのにと思ってしまいます。

けれども、この世に必要のないものは存在しません。

肉体を持つことで地上の自我(以下自我)が形成され、そこから感情が生まれると考えられます。

高いところに立つと、恐怖を覚えます。

もし、恐怖を覚えなければどうでしょう?

注意を怠り、落ちてしまう人がいます。

つまり、地上を安全に生きて行くために、恐怖という感情は必要と考えられます。



嫉妬はどうでしょう?

他人にあって自分にはない、あるいは他人に与えられ自分には与えられない、そんな差を感じた時に、嫉妬心を抱くことがあります。

肉体を持つと、自己を保存しようとする欲求が生まれます。

いわゆる本能と呼ばれるものであり、幼い子供でもその欲求はあります。

一人で生きて行けない子供は、親に保護され、育ててもらわなければいけません。

愛情を受けるのは、子供にとって死活問題です。

より多くの愛情を受けようとする欲求の触媒となっているのが、嫉妬心と考えられます。



自分にない才能が他者にある時も、嫉妬をすることがあります。

才能が周囲に活かされると、他者から評価されることが多いです。

両者に利害関係があると、評価されている人を見ると、自分の立場が脅かされるようなような感覚になり、自己を保存しようとする欲求が刺激されて、嫉妬心が生まれる時があります。



他者と比べることによって生じる、苦しみを伴う感情を嫉妬と呼ぶのかもしれません。

それでは、なぜ苦しみを伴うのでしょうか?



宇宙の隅々にまで、自然法則は働いています。

自然法則の根本原理は「愛」です。

愛が自然法則の働きの中に顕現しています。

嫉妬は愛に反した、他者を排除しようとする感情です。

そのような成長を妨げる感情に捉われることのないように、自然法則の働きによって苦しみが生じると考えられます。



嫉妬による苦しみを感じたくなければ、他者と交わることのない環境に身を置けば良いのですが、そんなわけには行きません。

環境が変えられないのであれば、自分が変わるしか方法はありません。



私たちの中には、神が宿っています。

そのために、溺れている人を見ると助けたくなる衝動が生まれます。

同時に自我が働いて、意識が自分に向かいます。

自分まで溺れてしまうと考え、助けようとする衝動を抑制しています。



嫉妬が生まれるのは、自我の働きによるものであり、意識が自分に向いています。

従って、自分から意識を外すことができたのなら、嫉妬は生まれなくなるはずです。



それでは、どのようにすれば自分から意識を外せるのでしょうか?

意識を他者(周囲)に意識を向けるようにすれば良いと考えられます。

それは他者と比べることではありません。

他者のことを思ったり、考えたりすることです。

自分の意志でそうならなくても、自然法則の働きによって、他者に向かうようになる時があります。




随分前の話です。

道路を横断中に車にはねられて、お子さんを亡くされたご両親がいました。

深い悲しみは言うに及ばず、「何で自分の子供が、こんな目に遭わなければいけないのか」と言う想いに苛まれて、大変な苦しみを味わっていたと察せられます。



過酷な現実に追い詰められ、どうにもならないと自我が観念した時、その奥で眠っていた魂が目を覚まします。

魂が目覚めると、意識は自分から他者に向かいます。

そして「死を無駄したくない」「世の中のために活かしたい」と、ご両親に内在している神性が発揮されたと考えられます。

子供でも意味が分かるように、横断禁止の標識を変える運動を始められました。

その運動によって行政が動かされて、全国の道路標識に「わたるな」の文字が併記されました。


ご両親の悲しみがなくなることはないでしょう。

けれども、同じ思いをする家族がいなくなって欲しいと願うことで意識が他者に向かい、苦しみを伴う感情は和らいだと考えられます。

人や社会のために役に立つことをすれば、魂の成長にもつながります。

お子さんの死は、霊的に1つの意味を持ったことになります。



この世は、自分と違う人たち、果たすべき目的が違う人たちが、同じ平面で暮らしている特殊な場所です。

誰一人として同じ人はいません。

歩む人生も、当然のことながら違います。

ところが、その違いにばかりに目が行ってしまいます。



初めから違っているものを比べてしまうのは、明らかに間違っています。

間違ったことをすると、因果律の働きにより、苦しみが生じることになります。



私たちは物的にばらばらに存在しています。

けれども、霊的につながっています。

言葉を介さずに、想いが判る時があるのはそのためです。

世の中全体を揺るがすような出来事が起きると、連帯感や結束が生まれるのもそのためです。



全ての生命は霊的に1つです。

地上に生まれると、霊的な意識が希薄になり、つながりが感じられなくなります。

物質的な違いばかりが目に付いて、比べてしまいます。



もし、周りにいる人を、この世を共に修行をしている同胞と心から思えるような、霊的な意識を取り戻したのなら、比べることにより生じる苦しみを伴う感情から解放されるはずです。





本をご紹介します。

タイトルは「探すんだ!もう1度生まれて僕の死んだ理由を生きる意味を」です。

著者は石田裕子様で、このブログを読んでいただいています。

石田様ですが、去年の3月19日、大学進学を控えたご長男の龍之介君を病気で亡くされました。

元気だった子供がわずか1ヶ月で亡くなると言う、受け入れ難い現実を目の当たりにする中で、脳死状態にあった龍之介君の思念(想い)がご自身の魂に伝わって来るようになりました。

そして、ご長男が生前書き溜めていた文章が多数見つかり、それを基に2冊の本を書き上げられました。

ご長男の文章は、霊的真理に通じるものがあり、高校生が書いたものとは思えません。

親子の関係は死後も続いています。

龍之介君が早く逝った理由を、今も探しています。

新聞にも紹介されました。《リンク先》

ご興味がある方は、是非読まれて下さい。

遊行社¥1,980(税込み)





2023年4月16日日曜日

原因(目的)があって出来事は起きている


最近、小説を読む機会がめっきり少なくなりました。

読みたい本がないわけではありませんが、年を取り目の機能が衰えて来たので、小さな文字を追って行くのが大変になったのが主な理由です。


ところで、小説には山場(クライマックスシーン)があることが多いです。

全部読むのは大変なので、そこだけを拾い読みをしても意味はさっぱり分かりません。

もちろん、感動することもありません。



人生は、小説と同じような気がします。

果てしなく続く物語の1章として、この世を生きています。

ほぼ全ての人に、前の章(過去生)があります。

そして、次の章(来生)へと続いています。

章と章は、密接に関連していて、不可分です。



有名な民話に「鶴の恩返し」があります。

知らない人のために簡単にあらすじを書きます。

昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが暮らしていました。

ある日のこと、おじいさんが薪拾いに行くと、1羽の鶴が罠にかかっていました。

可哀想に思ったおじいさんは鶴を助けてやりました。

雪の降る晩に娘が現われ、泊めてほしいと言われたので、家に招き入れました。

その後も雪は降り続き、娘は泊めてもらう代わりに機織りをしたいと言い、覗かないように約束をして部屋にこもって織り始めました。

出来上がった布はとても美しく、高値で売れました。

どのようにして織っているのかを、おじいさんとおばあさんはどうしても知りたくなり、約束を破って部屋を覗いてしまいました。

娘は鶴の姿になって機を織っていました。

本当の姿を見られた娘は、2人の元から飛び去って行きました。


この物語のクライマックスは、鶴が機を織っている場面です。

もし、この物語が鶴が機を織っている場面から始まったのならどうでしょう?

何のことだか、意味がさっぱり分かりません。

混乱してしまいます。

鶴が機を織っていたのは、おじいさんに助けてもらったからです。

その場面が抜け落ちていたら、物語として成り立ちません。



ある日突然、何の前触れもなく出来事は起きます。

不運を嘆いたり、神を恨んでしまうこともあります。



宇宙の隅々まで、自然法則が働いています。

自然法則の根幹を為しているのが「因果律」です。

起きた出来事には、必ず原因(目的)があります。



出来事の原因がさっぱり分からない時、記憶に上って来ない過去に何かしらの原因があって、あるいは明確な目的があって、この人生で起きている可能性があります。

残念ながら、この世を生きている時に知るのは、極めて困難です。



私たちは、自分に足りない霊的な資質を身に付け、成長するために、この世に生まれて来ています。

スキーの滑り方は、どうやって覚えるのでしょうか?

本やインターネットで、滑り方を知ることができますが、それだけではだめです。

スキー場に行って、実際に滑って、体で覚えなければいけません。



霊的な資質を身に付けるのも同じです。

それ相応の出来事を、実際に体験しなければいけません。



転んでは立ち上がって滑ることを繰り返しながら、スキーは上手くなって行きます。

同じように、起きた出来事に悪戦苦闘しながら、それを乗り越えようとする過程において、霊的な資質が身に付いて行きます。



過去生で犯した過ちを償うために、苦痛を伴う体験をしなければいけない時もあるでしょう。

償いが終わりかけた時に、背いてしまった自然法則の働きを学んでいると考えられます。



人との出会いもそうです。

おじいさんとおばあさんの前に、偶然、娘が現れたのではありません。

その前に、鶴を助けていたからです。



過去に何かしらの原因(縁)があって、この世で出会うことになる人がいます。

親子や兄弟になったり、あるいは配偶者や恋人や親友になったり、時に敵対者になったりする場合もあるでしょう。

目的を果たすために、その関係が最適だったと考えられます。



肉親になれば、ほぼ確実に関わり合いを持つことになります。

血縁を超えた、深い部分での結びつきを自覚する人もいるでしょう。



しばらくしてから、因果律の働きにより、引き寄せられるようにして出会う人もいます。

出会った時、魂の記憶が呼び覚まされて、前に会ったような感覚が生じるかもしれません。

何か特別な意味を持っている人のように感じられるかもしれません。

過去の感情の余韻が残っている場合もあるでしょう。



シルバーバーチは、神の叡智の見事さに感嘆せずにはいられないと言っています。

学びや成長にとって、最適な人が、最適な形で、地上で出会います。

そして、最適な出来事が、最適なタイミングで起こります。

霊界から見るとその様子がはっきりと判り、神の計画の完璧さを感じずにはいられないのだと思います。



けれども、地上の人には、真逆に感じられる時もあります。

「最悪のタイミングで起きた」「1番起きて欲しくないことが起きた」あるいは「出会わなければ良かった」と嘆くことになるかもしれません。



シルバーバーチはこう言っています。

「あなた方もそのうち肉体の束縛から離れて、物質的な曇りのない目で地上で送った人生を振り返る時が来るでしょう。その時、その出来事の一つ一つがそれぞれに意味を持ち、魂の成長と可能性の開発にとって、それなりの教訓を持っていたことを知るはずです。」

そして「私がこれまで送ってきた霊界生活で、”自分は神の法則によって不当に扱われている不公平だ”と真剣に言える人を一人も知りません。」とも言っています。



過去を知れば、出来事の原因(目的)が判ります。

合点が行き、納得する人もいるでしょう。

しかし、地上の人には自我(エゴ)が存在しています。

「そんなはずはない」と容認できない人もいるでしょう。

成長を妨げてしまう無用な感情に振り回され、人生を台無しにしてしまうかもしれません。

「鶴の恩返し」ではありませんが、真相は知らない方が良いのだと思います。



偶然は存在しません。

生まれる前にも、出来事の原因が存在していることを、知っていれば良いのだと思います。





2023年4月9日日曜日

信じることで愛することができる


霊的真理と出会い、死が怖くなくなりました。

あの世があることを確信したからです。



生命の本質は魂です。

肉体と魂が永続的に分離する自然現象が死です。

死後に、意識や記憶がなくなってしまうことはありません。

煩わしい肉体から解放され、自由にどこへでも行けるようになります。



死によって、大きく変わることが他にもあります。

この世にいる私たちは、言葉でコミュニケーションをしています。

生じた思念を言葉に変換し、その言葉を肉体を使って表現しています。



思念は無限ですが、言葉は限られています。

そのために、適当な言葉が見つからなかったり、上手く表現できないもどかしさを感じる時があります。



あの世では、思念が直接、相手に伝わります。

送り手と受け手の間に、齟齬が生じることはありません。



その人の前では褒めていたのに、いなくなった途端にけなす人がいるように、言っていることと想っていることが違う人を見かけます。

あの世では、思念(想い)が光となって、魂から放たれています。

何を想っているのか、一目瞭然となるので、嘘の付きようがありません。



あの世は、真実の世界と言われます。

それは、本当の自分(魂)を隠す肉体がなくなり、全てが知れてしまうからです。



けれども、地上に生まれ瞬間に、肉体しか視えなくなり、他者の想いが判らなくなります。

嘘偽りが存在するようになり、自分の想いを伝えるのも難しくなります。



あの世では、自分と似通った人たちしか周りにいません。

この世では、自分と違うと交わりながら生きています。

そのため、エゴがぶつかり合ったり、争いが起きることがあります。

そんな生きづらい世界に生まれて来たのは、何か理由があるはずです。



ところで、目の前にある車を見てどう思うでしょう。

自然発生したと思う人などいません。

人間が設計して、人間が作ったことを誰もが知っています。



宇宙も同じです。

自然発生して、偶然が重なり、こんな精緻な宇宙ができるはずはありません。

何者かが、何か意図があって創ったはずです。

宇宙を創った存在を、多くの人は「神」と呼んでいます。



宇宙が創られたと同時に、宇宙を経綸するために自然法則が創られました。

自然法則の働きの中に、神の意図が顕現しています。



宇宙から見れば私たちは極小の存在です。

けれども、宇宙を構成している一部に変わりありません。

私たちは、神が意図した計画の中に組み込まれています。


生命は元々一体だったと考えています。

宇宙が開闢したことにより、物質の中に別々に宿るようになったと考えています。

別々に存在している生命が進化しながら、霊的に再び1つになって行く、それが神の意図と考えています。



生命が1つになって行くために必要なものは何でしょう?

愛です。

愛は生命(魂)を引き付け合う力です。

愛し合うことにより、個々の魂が1つになって行くことができます。



地上で愛し合うために必要なものは何でしょう?

それは信じることです。

信じることで、別々に存在している魂と魂が、初めて結ばれます。

結ばれた魂の間を、愛という力が伝わって行きます。

愛を表現するほどに、魂は近づいて行きます。



あの世では、自分と似通った人たちに囲まれて生きています。

お互いを判り合えているので、あえて信じようとする必要がありません。



この世では、自分と違う人たちに囲まれながら生きています。

お互いを判り合えていないので、まず信じる必要があります。

信じることなしに、魂と魂はつながることはできません。

もちろん、愛し合うこともできません。



世の中には、ひどいことをする人がいます。

信じることなど、到底できないと思う時もあるでしょう。

そんな人の中にも神がいます。

エゴの奥に神がいると、強く信じて下さい。



人は何度もこの世に生まれて来ます。

さまざまな経験をしながら、霊的に成長して行きます。

霊的に成長するのに従って、エゴが取り払われ、内在する神が顕現して行くようになります。

どれくらい顕現しているのかは、それぞれ違います。

けれども、進んで行く過程は、皆同じです。


長い年月をかけて築き上げてきたものが、崩れてしまうのは一瞬です。

少しずつ結ばれてきたこの世界に、断裂が生まれています。

互いのことが判らなくなり、信じられなくなっています。



信じることから始めなければなりません。

互いが神の心を持った存在であると信じなければいけません。

信じることで、いつの日か再びつながることができます。





4月6日に、3回目の「霊的真理のお話と無料ヒーリングの集い」を開きました。

今回の参加者は2名でした。

少し慣れて来ましたが、限られた時間の中で、多岐に渡る霊的真理を話すことの難しさを感じます。

来られた方には、求めている真理が1つはあると考えています。

求めている真理、興味がある真理を探りながら、そこに絞って話をすれば良いのかもしれません。

最後はいつものように、「詳しいことはシルバーバーチの霊訓に書いてありますので、是非読んで下さい」と言って締めくくりました。

熱心に耳を傾けていただいたことに感謝しています。

真理が魂に届くことを祈っています。



2023年4月2日日曜日

霊界で成長するために


なぜ生まれて来たのか?

私たちの本来の住処は霊界です。

霊界で経験できないことを、地上で経験するために生まれて来ました。



霊界で経験できないこととは何でしょう。

霊界は完全な界層社会です。

周囲にいるのは、同じ霊性の高さ、魂が似通った人たちです。

似通っているので、意見の相違や争いもありません。



肉体がないので、食べて行く必要はありません。

働かなくても生きて行けます。

もちろん病気はなく、身体的な疲れや不調を感じることもありません。



平穏で快適な世界です。

天国と言われる所以です。

そんな世界ならば、ずっといたいと誰もが思うでしょう。



私たち人間(生命)は成長するように定められています。

植物の成長には、光と水が必要です。

霊的に成長するためには、困難や障害を乗り越えて行く経験と、他者へ愛を表現(奉仕)することが必要です。



霊界では、何もしなくても生きて行けます。

生きるのが極めて楽になりますが、一歩間違うと安逸を貪る状態がずっと続いてしまいます。

それでは成長することはできません。



地上はどうでしょうか?

生きて行くために働かなければいけません。

人や社会や家族のために何かをしなければ、生活が成り立たないようになっています。



望まない限り、困難や障害は存在しない霊界と違って、地上では望まなくても、さまざまな困難や障害が起こり、それを乗り越えて行かねばなりません。

地上に生まれると、自分の意志とは関係なく、成長するような仕組みになっています。



霊界は思念の世界です。

自分の意志が具現化して行きます。

言い方を変えると、何かをしようと思わなければ、何も始まりません。

奉仕をしようと思わなければ、いつまで経っても具現化することはなく、成長することもありません。



魂が成長するほど、奉仕に励むようになります。

霊界の高い界層は、尽くし合う悦びに満ち溢れた世界と想像されます。



何もしなくても生きて行ける霊界にいても、成長したい欲求がなくなることはありません。

けれども、成長するためには、それにふさわしい経験をしなければいけません。

そこで意を決して、居心地の良い霊界を離れて、生きて行くのが困難な地上に生まれます。



いったん地上に生まれると、霊界での記憶は一切なくなります。

魂や思念など霊的なものは、全く見えなくなります。

そのために、物質しか存在しないという誤った認識をしてしまう人も少なくありません。

生まれて来た目的を忘れて、お金や名誉などの地上的なものを追い求める人生を送ってしまう人もいます。



霊的に目覚める機会が、一生に1度は訪れると言われています。

過去の私がそうでしたが、解決不能な出来事が起きて、精神的に追い詰められ、眠っている魂が目覚める人がいます。

医者から見放され万策尽きた時に、霊的な力によって病気が癒され、目覚める人もいます。

愛する人と死に別れ、悲しみのどん底にいる時に、故人からのものと確信するメッセージを受け取り、目覚める人もいます。

目に視えている世界とは全く別の世界が存在していることに気付きます。



物的なものから霊的なものへと関心が移ります。

目に視えない「愛」や「生命」や「想い」などに意識が向かいます。

外面ではなく、内面を観るようになります。

言葉そのものよりも、そこに込められた想いを感じ取ろうとします。

エゴに隠されていた、本当の自分の想いに気付く人もいます。



霊性が発揮されるのに伴い、周りに意識が向くようになります。

お金のためではなく、人や社会のために役に立つことをしたくなります。

そして、役に立つことに、大きな喜びを感じるようになります。

それこそが、地上に生まれて来た大きな目的です。



                                       

肉体は衰えて、やがて朽ち果てる時が来ます。

宿っていた魂は、培って来たものを携えて、本来の住処である霊界に戻ります。

地上でのさまざまな経験を通して、役に立つ喜びを見い出した魂は、何もしなくても生きて行ける霊界においても、進んで役に立とうとするでしょう。

霊的な喜びを味いながら、自律的に成長して行けるようになります。






2023年3月26日日曜日

自分に必要なことが起きている


私の医院で3年目を迎えるスタッフがいましたが、今月いっぱいで退職したいと申し出て来ました。

これから職場を引っ張って行ってくれると、秘かに期待していた人でした。

どうしてもやりたいことがあるそうです。

その夢を叶えて欲しいと思う反面、残念でたまりません。



生まれる前に決めていたことに出会ったのなら、抗うのは困難です。

スポーツ選手のインタビューなどで「苦しいことはあったが、辞めようと思ったことは1度もない」と言っているのを聞きますが、この人は決めていたのだろうと思います。

私がこのブログを10年以上も書き続けていられるのもそうです。

何かに突き動かされるように行動しているのは、魂が予め決めていたことだからと思います。



何故、生まれる前に決めていたのでしょうか?

それは自分(魂)を成長させるためです。

自分に足りないものを手に入れるためです。

向こうの世界で、自分に足りないものを自覚すると、それを手に入れるために、地上に生まれることを志願します。



人生には、およその計画があります。

決めていた出来事が、因果律の働きによって正確に起こります。



もし、計画がなかったらどうでしょう?

偶然に支配され、その人の成長にとって不必要なことばかりが起きてしまうでしょう。

足りないものを手に入れるのは運まかせになり、極めて困難です。



無限の叡智が働いています。

足りないものを手に入れるために必要な経験をする人生が計画されます。



例えば、強さが足りない人がいたとします。

そんな人は、自分の力で何とかしなければいけない状況に追い込まれる人生が計画されるかもしれません。

力を振り絞り、逆境を乗り越えようとすることで、強さが増して行きます。



逆に、優しさが足りない人がいたとします。

そんな人は、自分の力ではどうすることもできない状況に追い込まれる人生が計画されるかもしれません。

追い詰められて、万事休すと思われた時に、誰かに助けられたとしたらどうでしょう?

この世界で1番大切なものが分かるはずです。



病気もそうです。

病気は自分自身に突き付けられた問題です。

自分の体なので、自分で何とかしなければいけません。

肉体的な苦痛を味わい、精神的な負担を強いられながら、克服しようとすることで、強くなって行くと思われます。



病気になり、不安や恐怖に押しつぶされそうな時、周りが支えてくれたり、励ましてくれたり、優しくされるのは何よりもうれしいです。

命に関わるような深刻な病気になれば、それまで追い求めていたものに価値を見い出せなくなるかもしれません。

病気になって、生き方や考え方が変わったと言う人は少なくありません。

そんな人は、目に視えない大切なものに気付いたと思います。

災禍と言われる病気ですが、強さと優しさを同時に手に入れることができたのなら、霊的には恩恵と言えるのではないでしょうか。


ぎりぎりまで追い詰められる出来事が、学び成長するために必要なのかもしれません。

そんな出来事が、魂を目覚めさせるからです。

目覚めた魂が、足りなかったものを見つけて、自分のものにすることができるからです。



足りないものは、人によって違います。

足りないものを、自分のものにするために必要な経験も違って来ます。

従って、人生がそれぞれ違って来て当然です。

比べても全く意味がありません。



人それぞれに生きる目的があります。

その目的を成就するための計画が存在することを知っていれば、不公平さを恨んだりすることはないでしょう。

自分の成長のために、この人生の計画を承知して、私たちは生まれて来ています。



もし計画が存在するのなら、教えて欲しいと思う人もいるでしょう。

知ったとしたら、その先で起きることが気になり、まともな精神状態でいられなくなるかもしれません。

回避しようと躍起になる人もいるでしょう。

絶望して(この世の)人生を自ら終わりにしてしまう人もいるかもしれません。

地上に生まれる人はそれほど強くないので、知ることはできないと考えられます。



自分に足りないものを身に付けるために必要な出来事を経験しています。

偶然として片付けてしまうのは、目的を知らないからです。

知らなくても、目的が果たせれば、それで良いのかもしれません。



いつの日か霊界に行きます。

そこで全てがはっきりします。

あの時に起きた出来事には、こんな目的があったと知ることになります。

それこそ、目から鱗が落ちます。

神を恨んでいた人は、無知だったことを恥じるでしょう。



2023年3月19日日曜日

愛とは?


「愛とは?」

「深い感情的なつながりや親密さ、そして他者への深い愛情や情熱を指します。愛は、人間の基本的な欲求であり、他者を支えること支援することを促進する力があります。愛は、家族、友人、パートナー、地域社会、国家、そして世界に対する愛など、さまざまな形を取り得ます。また、愛は行動に現れることが多く、他者の幸福を願い、尊重し、支援することによって表現されます。愛は、人々を幸せにし、生命を豊かにする非常に重要な感情であるとされています。」

今話題のチャットGPTというAI(人工知能)に質問すると、このような回答が返ってきました。

AIは、愛を理解しているわけではありません。

人間が抱いている愛の概念を学習しているのに過ぎません。



愛を、言葉で正確に表現するのは、なぜ難しいのでしょうか?

それは、物質的な次元のものではないからです。



不滅の魂(生命)から生まれている神的なエネルギー。

それが愛です。



なぜ生まれて来たのでしょう?

目に視えず、触れることもできない「愛」を、地上でのさまざまな経験を通して体感し、深く学び、表現するようになるためと考えています。

その行程が、魂の成長へとつながっています。



地上に生まれてからしばらくの間、私たちは何もできません。

誰かに助けてもらわなければなりません。

物心が付く前にも、1人では生きられないことを、魂はしっかりと学んでいます。



少し成長すると、友達ができて一緒に遊んだりします。

学校に行くようになり、同じ年代のたくさんの人と交わるようになります。

そこで自分勝手なこと、我が儘なことをしていると、周りから反発を受けます。

時に、仲間外れにされたりします。

そんな心の痛みや孤独を味わう経験をしながら、自然に利己的な言動を慎むようになり、周りと「協調」するようになって行きます。




学校を卒業すると社会に出ます。

食べて行くために、人や社会や組織のために働いて、お金を稼がなければいけません。

結婚すると、自分以外の人のために何かをするようになります。

食事を作ったり、洗濯をしたり、家族が病気になったら寝る間を惜しんで看病しなければいけなくなるかもしれません。

私たちは、協調することを学びながら、他者に「奉仕」をする習慣を身に付けています。



死んで霊界に行くと、肉体はなくなり、生きるのが嘘のように楽になります。

何もしなくても生きて行けます。

かと言って、何もしなければ成長もしません。

自らが進んで周りに奉仕をすることで、成長することができます。

その予行練習を、地上で行っていると考えられます。


地上にいる私たちは、人間関係で苦労します。

自分と違う人たちと同じ平面で暮らしているので当然です。



違う人と交わると、反発し合うことがあります。

反発し合わないためには、互いを認めることが必要になります。



認めることができずに、争いになってしまうと、お互いを傷つけ合います。

傷つけられると、さらに怒りや憎しみが生じ、争いはエスカレートして行きます。

そうならないためには、どこかで許すことが必要になります。



けれども、認めなられない、許せない自分がいます。

それは、地上的な自我(エゴ)の働きによるものです。



一方、認めよう、許そうとする自分がいます。

それは、私たちに神性が内在しているからです。



内在する神性とエゴの間で、しばしばせめぎ合いが起こります。

そのどちらが克つかで行動が決まります。

エゴが克ち許せなければ、怒りや憎しみが生まれ、因果律の働きにより苦しみを感じます。



人は苦しみを感じたくありません。

苦しみを感じないようになるのには、自分が変わるしかありません。

苦しみの中でエゴの働きが次第に弱まり、それに代わり神性が顕現して、許せない自分が少しずつ変わって行きます。



全ての事象に自然法則が働いていて、完全な公正が保たれています。

起きている事象は、自分を成長させる方向に導いています。

そんな真理を受け入れることで、いきり立った心を鎮められるかもしれません。

認められないことが認められ、許せなかったことが許せるようになり、怒りや憎しみを手放すことができます。

「寛容」になることで、苦しみから解放されます。



「四海同胞、協調、奉仕、寛容───こうした精神こそ人生の基本であり、これを基礎としない限り真の平和はあり得ません。持てる者が持たざる者に分け与えることによって互いに奉仕しあい、睦みあい、援助しあうこと───この単純な真理は繰り返し繰り返し強調しなければなりません。」(シルバーバーチの霊訓より



生きながらにして、「協調」「奉仕」「寛容」の精神を身に付けています。

それらの資質は、大きな意味での愛です。



さまざまな地上での経験を通して、より大きな愛が表現できるようになって行きます。

自然法則の働き(神)によって、しっかりと私たちは導びかれているのです。



愛は魂を引き付け合うエネルギーです。

全体に調和が生まれ、バラバラに存在している個々が霊的に1つになって行きます。







2023年3月12日日曜日

霊的真理を伝える


ここ20年位で「スピリチュアル」という言葉を度々聞かれるようになりました。

一時の流行のように感じられるので、私はこの言葉はあまり好きではありません。

ただ、霊的なことに関心が高まって来ているのは確かなようです。



大きな書店に行くと、1つのコーナーが設けられ、たくさんの「スピリチュアル」関連の書籍が置かれていて、立ち寄る人も多くなって来ました。

書籍に関しては玉石混交です。

どれが正しいのか、間違っているのか、知識のない人にはさっぱり分からないのが実情です。



現在、最も良質な霊的真理が書かれているのが「シルバーバーチの霊訓」だと私は確信しています。

けれども、出版元が廃業してしまい、今は書店には置かれていません。

真理を学ぶのに最良の書籍が、直接、人の目に触れる機会がなくなってしまったのは残念です。(スピリチュアリズム普及会さんのご尽力で、インターネットで手に入れることができます)



私の周囲では、シルバーバーチの霊訓を知っている人は全くいませんでした。

霊的なことに興味を持っている人は多くいますが、本を読んでみようとまで思う人はなかなかいません。

無理に読んでもらっても、受け入れる時期が来ていなければ、ただの意味の分からない文章にしか思えません。


人生のどこかで、霊的に目覚める機会が1度は訪れると言われています。

それは目の前が真っ暗になるような経験や、崖っぷちに立たされる経験をしている時かもしれません。

そんな時に読むと、それまで意味の分からなかった文章が、俄然、心に響いて来るようになるので不思議です。



今は必要なくても、人生のどこかで役に立つ時が必ず来るはずです。

身近にいる人の門出の時に「つらくて仕方がなくなった時に読んでみて」とシルバーバーチの霊訓(第1巻)を手渡す時があります。

何だこの本はと思ったかもしれませんが、その先で打ちのめされそうな出来事が起きた時に思い出して、開いてもらえると信じています。




このブログを訪ねて来る人のほとんどは、既に「シルバーバーチの霊訓」に辿り着いています。

そこで、今年の2月から新しい取り組みを始めました。

全く知らない人に、直接、お会いして霊的真理を伝えようとするものです。



「霊的真理のお話とヒーリングの集い」という小さな会を開くことにしました。

場所は、私が時々利用させていただく、赤城山の麓にある静かなヴィーガンのカフェです。

店のオーナーは霊的なことに理解のある方で、趣旨をお話したところ賛同して下さいました。

通路にあるテーブル上に、案内のハガキを置かせてもらいました。


木曜日の午後3時から、最初の20分間で霊的真理の話をして、後の30分間で希望があればヒーリングを行う予定です。

案内を見てもらえるのか?来てもらえるのか? 全くの未知数でした。

何を話すのか、5枚ほどの原稿にまとめておき、予行練習を行いました。



当日(2月)になり、お店に行ったところお客さんはいなかったので、今回はいないのかと思いました。

しばらくすると、店のドアが開き1人の女性が入って来て「案内を見たものですが参加させて下さい」と言われました。

来てもらうことができたので、うれしかったと同時に、身が引き締まる思いがしました。



席に座ってもらい、挨拶を交わしました。

手短に自己紹介をして、さっそく霊的真理について話し始めました。

一口に霊的真理と言っても、内容は多岐にわたります。

まず、ヒーリングの力が出た時のいきさつやその目的、なぜ生まれて来たのか?どのようのに生きれば良いのか?死んだらどうなるのか?など話を進めて行きました。

真剣に話を聴いて下さいました。



一通り話が終わり、少し話をしました。

その方は、「いつも(目に視えない誰かに)守られている感じがする」と言いました。

「それはあなたに付いている守護(背後)霊ですよ」とお伝えしました。

存在をはっきりと意識してもらった方が働きかけやすくなるので、この場に導かれていたような気がしました。



平穏な日々を過ごされていて、早急に霊的真理を求めているようではありませんでした。

けれども、これから先の人生で魂が目覚めるような出来事に遭遇すると思われます。

その時のために、真理の在りかを知っておくのは極めて大切なことです。

シルバーバーチの霊訓は知らないようでしたのでお伝えしました。



3月2日に、2回目の会を開きました。

少し前に、店に到着したところ、参加希望者の女性がもう来ていました。

2名で参加する予定でしたが、お連れの方が急に来られなくなったそうで、1名の参加となりました。



前回とほぼ同じ内容で、霊的真理の話をしました。

霊的な知識も少しある方で、私が話をした内容も納得が行くものだったそうです。

前月の方と同じで、真理を欲している状況ではありませんが、その時のためにシルバーバーチの霊訓の存在をお伝えしました。



その後で「どこかお身体の具合が悪いところがありますか?」と質問しました。

3年前より右膝の機能に障害があり、立ち上がった時にしばらくは動けないそうです。

ヒーリングを希望されたので、10分間ほど直接、患部に手を当てて行いました。



終わった後に、椅子から立ち上がり、右足を曲げたり伸ばしたりして、膝の動きが良くなった様子を見せてもらいました。

力の存在を実感していただけたのではないかと思います。

周りに具合の悪い方がいれば、私のブログのコメント欄にその旨を書き込んでもらえれば(遠隔)ヒーリングを行いますとお伝えして、会を終わりにしました。



面白半分で話を聴きに来る、あるいはヒーリングを試しに来るのではと思いましたが違うようです。

本人が自覚する、自覚していないにかかわらず、はっきりとした目的があるように感じられます。

必要としていた人が来たと思います。


シルバーバーチの霊訓(霊的真理)に辿り着いた人は、霊界の目的の大半が果たされたと考えられます。

後は、ご自身で真偽を確かめれば良いだけです。

私がそうであったように、さまざまな経験を通して、間違いないことを確信して行くと思います。



4月に、同じ店で3回目の会を行います。

それとは別に、懇意にしているドックトレーナーのオフィスをお借りして、4月中に行う予定です。

動物に関連する真理を中心に話をして、具合が悪い犬や猫たちがいれば連れて来ていただき、ヒーリングを行おうと考えています。



インターネットは、世界中に向けて霊訓真理を発信できる、極めて有用なツールです。

面識のない人から依頼を受けて、幾度となく遠隔ヒーリングを行って来ました。

ブログ上でのコメントのやり取りを通して、多くのことを学ぶことができました。



アナログ的にも、真理を広めて行けたらと思っています。

そのために、アクセスする場所を徐々に増やして行きたいです。

その方が、霊界も導きやすくなると思います。



自分で動かなければ、地上では何も始まりません。

取り合えず動いてみて、推移を見守ろうと思います。





2023年3月5日日曜日

あの時の想いを忘れない


霊的真理と出会い良かったことがあります。

死が怖くなくなりました。

死んだらどうなるのかが、はっきりと分かったからです。

その反面、この世を生きる大変さが、より一層感じられるようになりました。


死とは、魂が肉体から完全に分離する自然現象です。

思念を表現するために、地上だけに存在する媒体が肉体です。

生命の本質は魂です。

肉体は消滅しても、意識は変わりなく存在しています。



けれども、肉体が自分であると思っている人は少なくありません。

魂が存在するのならば、証明して見せてくれと言う人もいるでしょう。

残念ながら、誰にでもわかるような形で証明することはできません。

もし証明されたとしたら、与えられた地上の命を全うせずに、自らの意志で逝ってしまう人が続出すると予想されます。

生きるのがつらくても、自分の意志で逝ってしまうことは許されません。

死に対する怖れがあるからこそ、そんな過ちを犯さずに済んでいるのかもしれません。



死ねば終わりだと思っている人は、生きているうちにせいぜい楽しいことをしようと思います。

私たちは、楽しいことをするために、この世に生まれて来たのではありません。

さまざまな体験を通して、魂を成長させるためです。

終わりだと思っている人は、生まれて来た意味がわからないまま、生きていることになります。



魂の存在が信じられない人は、肉体のみに関心が行き、大切にしようとします。

どんなに大切にしても、肉体はいずれ朽ちてなくなる運命です。

一方、魂は存在し続けます。

大切にしなければならないのは、肉体よりも魂です。



この世界は自然法則の働きによって支配されています。

自然法則に反する行いをすると、魂に負債(カルマ)を抱えます。

抱えた負債を返済するためには、苦痛により償いをしなければいけません。

そんなことなど知らずに、過ちを犯してしまう人がたくさんいます。



魂は成長して行くように定められています。

けれども、償いをしている時には、成長することはできません。

魂の存在など意識せず、自然法則の働きを知らない人は、人生を遠回りしてしまう可能性が高くなると考えられます。


世の中には、霊的な能力を有する人がいます。

存在する目的は、霊的な力を顕現させて、眠っている魂を目覚めさせることにあります。

そして、目覚めた魂が真実(真理)を受け入れます。

地上に生きる人たちが、無用な遠回りをしないため、生まれて来た目的を成就する手助けをするために存在していると言えます。



魂が目覚める時期が来ている人がいたとします。

霊界の人たちは、さまざまな手段を講じて、霊的な能力を有する人のところへ導こうとします。

功を奏して辿り着くと、霊力が顕現することにより病気が癒されたり、亡き人からのメッセージを受け取ったりします。

この体験を通して魂が目覚め、意識が一気に拡がります。

そこから、生まれて来た目的を成就する人生が始まります。



ところが、霊的な能力を有する人の中には、高額の報酬を求めている人がいます。

時期が来た人と霊能を有する人を結び付けようとしている霊界の人たちにとって、お金は大きな障壁となります。

導くべき人を導けなくなってしまいます。

霊力の恩恵に与れる人はお金のある人に限られてしまい、ない人は目覚める機会を逸してしまうことになります。

そんな不平等なことを、霊界の人たちが望んでいるはずはありません。



高額の報酬を求めている人を見て、世の中はどう思うのでしょうか?

人のためではなく、自分の贅沢のためにやっていると思う人も少なくないでしょう。

自分が物質的なものを求めていて、霊的な愛を大切にしなさいと伝えたとしても説得力はありません。

霊的真理の普及の足かせとなっています。



地上は物質的な誘惑に満ち溢れています。

金銭欲、名誉欲などが満たされると幸福感が得られることを、霊界の人たちは承知しています。

過ちに気付かせようと、意図的に失敗をさせたり、窮地に追い込んだりするかもしれません。

幸運にも、その意図に気付いた人は、悔い改めることになります。



霊的な能力を有することは、諸刃の剣です。

人に喜びをもたらすことができると同時に、自分を貶めてしまう可能性もあります。

地上の人生を振り返る時が来て、行いの動機が明らかになります。

当初は人のためであったのに、次第にお金のためになって行く自分の姿を見せられたのなら、ひどく後悔するでしょう。

奉仕と言いつつ、蓄財のためであれば、その罪は倍加します。

慣れてしまうと、安易に考えてしまいがちですが、とても怖いことです。



生きて行くために必要なものは、霊界側が手配してくれるはずです。

他者に奉仕することで、霊的な報酬を得ているはずです。

持って行けるものはそれしかないことを、誰よりも知っているはずです。



真理を知って17年になります。

自分の中で革命が起きて、生き方が大きく変わりました。

1人でも多くの人に同じ経験をしてもらい、魂が救われるように祈りたいと思います。



自分への戒めの意味を込めて、シルバーバーチのこの言葉を再度書きたいと思います。

「真理普及の仕事を託された者に私から申し上げたいのは、現在のわが身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけてはいないか、今一度そのときの真撃なビジョンにすべてを棒げる決意を新たにする必要はないか、時の流れとともにけてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか…そう反省してみることです。霊力の地上へのいっそうの顕現の道具として、おのれの全生活を捧げたいという熱意にもう一度燃えていただきたいのです。」





2023年2月26日日曜日

夢想 ~この戦争の終わらせ方~


全国で大学入試が行われています。

神社に行き、合格祈願をする人は少なくありません。

祈ることで、不安な気持ちが和らぐような気がしますが、点数を取れば合格し、取れなければ不合格となる現実は変わりません。

もし、結果が変わってしまうのであれば、公正とは言えません。



この世界は、目に視えない自然法則(因果律)の働きにより、完全な公正が保たれています。

自然法則の働きに適った行いは成就し、反した行いは頓挫するようになっています。



読売新聞オンラインより
ロシアのウクライナへの侵攻が始まり、1年が過ぎました。

その動機は利己的です。

人を傷つけ、国土を破壊する行為は、自然法則の働きに反しています。

始めた時点で、頓挫する運命にあります。



今、私たちが生きているのは物質的な世界です。

そのため結果が直ぐに現れるとは限りません。

不公正がまかり通っているように見える時があります。

けれども、頓挫させる事象(結果)がどこかで生じます。

過ちに気付き、悔い改めることになり、公正さを取り戻すようになっています。



今の状況はロシアにとって想定外です。

自然法則の働きによるものでしょうが、そんなことなど知る由もありません。

思い描いていた通りになりそうもないと感じ始めています。

しかしながら、引くに引けません。

撤退すれば国家の威信は失われ、罪を問われることになるからです。

負けることが許されす、勝つこともできない、出口の見えないこの戦争を終わりにする方策は見当たりません。



トルコの地震で倒壊した建物 © Sputnik / Sertaç Kayar
トルコで大地震が起きました。

たくさんの建物が倒壊し、5万人以上の人が亡くなりました。

今もたくさんの人たちが助けを求めています。



今すぐに、ロシアはこう宣言したらどうでしょうか。

「隣国であるトルコを助けることを最優先する。」

ウクライナからロシア軍を直ちに撤収させて、その足で黒海の対岸にあるトルコの被災地に向かわせます。

銃をスコップに持ち替えさせ、戦車から重機に乗り替えさせて、瓦礫の前で助けを求めている人たちのために働きます。



復興には、膨大な人力を必要とします。

数十万の兵士の力は頼りになるでしょう。

たとえ本心からではなかったとしても、負けを認められないロシアの事情を察して、トルコの人たちは快く受け入れてくれるかもしれません。



人を傷つけ、街を壊す行為は、事態を悪化させるだけです。

これ以上戦況が悪くなると、(核兵器の使用など)起きてはならないことが起きてしまうかもしれません。

人を助け、街を建て直す行為は、自然法則に適っているので、事態を好転させます。

失墜した信用を、少しでも回復させることにつながります。

夢みたいな話だと笑われてしまうかもしれませんが、これが最善の方策だと私は思います。



自然法則の働きは完璧です。

犯した罪から逃れることはできません。

それぞれの人に、過不足のない償いが待っています。



償いをしている時、その人の魂の成長は止まります。

戦争で殺された人たちは、この世で予定されていた成長ができません。

大切な人を奪われた人たちには、怒りや憎しみや失望が生まれて、成長の妨げとなります。

良心の声を無視して引き金を引いた人は心に深い傷を負い、成長が妨げられてしまいます。

多くの人の成長を妨げてしまう愚かな行為が戦争です。



人は物的にばらばらです。

けれども、霊的に1つです。

人を傷つけるのは、自分を傷つけているのと同じです。

一蓮托生なのです。

人類の進化の妨げてしまう戦争を、一刻も早く終わりにしなければいけません。






2023年2月19日日曜日

頂(死)に向かって歩み続ける


小学校5年生の夏休みに、父親に連れられて富士登山をしました。

富士吉田側の五合目から登り始めましたが、八合目を過ぎてから急に節々が痛くなり始めました。

吐き気も催してしまい、動けなくなってしまいました。

高山病に罹ったようで、登山を断念せざるを得なくなりました。

山頂からご来光を見れなかったのは残念でしたが、その夜はたまたま流星群の日だったようで、満天の星空にいくつもの流れ星を観ることができ、良い思い出となっています。



富士山もそうですが、一般的に山の麓はなだらかです。

標高が高くなるのに従い、勾配がきつくなります。

気温は低下し、酸素も薄くなるので、登る人にとって大変です。



人生も同じような気がします。

年を重ねるのに従い、背負うものが重くなります。

さまざまな経験を積み重ねながら、魂が成長して行きます。

成長に応じた難度の高い出来事が、その先で起きるようになっているので、大変さが増しているように感じるのかもしれません。



登り坂がようやく終わります。

楽になると思ったら、目の前にまた登り坂が現れます。

いつになったら平坦な道になるのかと思いつつ、息を切らしながら登って行きます。


                                                

突如、絶壁が立ちはだかる時もあります。

見上げると、険しくてとても自分には登れないと思ってしまいます。

登ることができるからこそ、自分の前にこの絶壁が現れたはずです。

そう言い聞かせ、勇気を出して一歩を踏み出すしかありません。


途中で、楽しそうに遊んでいる人たちの姿が見えます。

こんな疑問が頭の中に湧きます。

「何でこんな苦しい思いをしてまで、登らなければならないのか?」



登ろうと思わなければ、山にいるはずがありません。

自分自身で決めたので、今、こうして登っているのです。

楽しそうにしている人を見て羨ましがったり、嘆いてしまうのは、そのことをすっかり忘れているからです。


道が樹木で覆われている時もあります。

その先がどうなっているのかは分かりません。

目の前に道が続いているだけです。


霧に包まれて、道に迷ってしまいそうになる時もあります。

私たちは1人で登っているのではありません。

迷わないように、専属のガイド’(背後霊)が付いています。

直感(導き)を信じて、登って行くしかありません。


道は険しさを増して行きます。

けれども、1度登り始めたら、退路は断たれ、後戻りはできません。

one-wayです。



ずり落ちながら、這いつくばりながらでも、何とかして登ろうとします。

そこまでして登ろうとするのは、自分で自分に約束をしていたからです。

自分にした「登る」という約束を破りたくないからです。



肉体は限界に達しつつあります。

終わりが近づいています。





最後の力を振り絞って上に登ると、一気に視界が開けます。

山頂です。

今までの苦しみが嘘のようになくなっています。




あの苦しかった登り坂が、より高みへと導いていたのです。

いくつもの急坂を苦しい思いをして登って来た人ほど、山頂で待っている光景はすばらしいものになります。




地上での苦しみは、霊的な成長として報われています。

成長した悦びへと変わります。

そんな慈愛に満ちた法則を創った偉大なる存在に深く感謝します。






どれくらい経ってからでしょうか、もっと高い山に登りたくなります。

人間にとって、成長する以上に大切なものはないからです。

生きる意味そのものだからです。

再び山の麓に立ち、はるか先にある頂を目指します。