2023年2月19日日曜日

頂(死)に向かって歩み続ける


小学校5年生の夏休みに、父親に連れられて富士登山をしました。

富士吉田側の五合目から登り始めましたが、八合目を過ぎてから急に節々が痛くなり始めました。

吐き気も催してしまい、動けなくなってしまいました。

高山病に罹ったようで、登山を断念せざるを得なくなりました。

山頂からご来光を見れなかったのは残念でしたが、その夜はたまたま流星群の日だったようで、満天の星空にいくつもの流れ星を観ることができ、良い思い出となっています。



富士山もそうですが、一般的に山の麓はなだらかです。

標高が高くなるのに従い、勾配がきつくなります。

気温は低下し、酸素も薄くなるので、登る人にとって大変です。



人生も同じような気がします。

年を重ねるのに従い、背負うものが重くなります。

さまざまな経験を積み重ねながら、魂が成長して行きます。

成長に応じた難度の高い出来事が、その先で起きるようになっているので、大変さが増しているように感じるのかもしれません。



登り坂がようやく終わります。

楽になると思ったら、目の前にまた登り坂が現れます。

いつになったら平坦な道になるのかと思いつつ、息を切らしながら登って行きます。


                                                

突如、絶壁が立ちはだかる時もあります。

見上げると、険しくてとても自分には登れないと思ってしまいます。

登ることができるからこそ、自分の前にこの絶壁が現れたはずです。

そう言い聞かせ、勇気を出して一歩を踏み出すしかありません。


途中で、楽しそうに遊んでいる人たちの姿が見えます。

こんな疑問が頭の中に湧きます。

「何でこんな苦しい思いをしてまで、登らなければならないのか?」



登ろうと思わなければ、山にいるはずがありません。

自分自身で決めたので、今、こうして登っているのです。

楽しそうにしている人を見て羨ましがったり、嘆いてしまうのは、そのことをすっかり忘れているからです。


道が樹木で覆われている時もあります。

その先がどうなっているのかは分かりません。

目の前に道が続いているだけです。


霧に包まれて、道に迷ってしまいそうになる時もあります。

私たちは1人で登っているのではありません。

迷わないように、専属のガイド’(背後霊)が付いています。

直感(導き)を信じて、登って行くしかありません。


道は険しさを増して行きます。

けれども、1度登り始めたら、退路は断たれ、後戻りはできません。

one-wayです。



ずり落ちながら、這いつくばりながらでも、何とかして登ろうとします。

そこまでして登ろうとするのは、自分で自分に約束をしていたからです。

自分にした「登る」という約束を破りたくないからです。



肉体は限界に達しつつあります。

終わりが近づいています。





最後の力を振り絞って上に登ると、一気に視界が開けます。

山頂です。

今までの苦しみが嘘のようになくなっています。




あの苦しかった登り坂が、より高みへと導いていたのです。

いくつもの急坂を苦しい思いをして登って来た人ほど、山頂で待っている光景はすばらしいものになります。




地上での苦しみは、霊的な成長として報われています。

成長した悦びへと変わります。

そんな慈愛に満ちた法則を創った偉大なる存在に深く感謝します。






どれくらい経ってからでしょうか、もっと高い山に登りたくなります。

人間にとって、成長する以上に大切なものはないからです。

生きる意味そのものだからです。

再び山の麓に立ち、はるか先にある頂を目指します。










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