小学校5年生の夏休みに、父親に連れられて富士登山をしました。
富士吉田側の五合目から登り始めましたが、八合目を過ぎてから急に節々が痛くなり始めました。
吐き気も催してしまい、動けなくなってしまいました。
高山病に罹ったようで、登山を断念せざるを得なくなりました。
山頂からご来光を見れなかったのは残念でしたが、その夜はたまたま流星群の日だったようで、満天の星空にいくつもの流れ星を観ることができ、良い思い出となっています。
富士山もそうですが、一般的に山の麓はなだらかです。
標高が高くなるのに従い、勾配がきつくなります。
気温は低下し、酸素も薄くなるので、登る人にとって大変です。
人生も同じような気がします。
年を重ねるのに従い、背負うものが重くなります。
さまざまな経験を積み重ねながら、魂が成長して行きます。
成長に応じた難度の高い出来事が、その先で起きるようになっているので、大変さが増しているように感じるのかもしれません。
登り坂がようやく終わります。
楽になると思ったら、目の前にまた登り坂が現れます。
いつになったら平坦な道になるのかと思いつつ、息を切らしながら登って行きます。
突如、絶壁が立ちはだかる時もあります。
見上げると、険しくてとても自分には登れないと思ってしまいます。
登ることができるからこそ、自分の前にこの絶壁が現れたはずです。
そう言い聞かせ、勇気を出して一歩を踏み出すしかありません。
途中で、楽しそうに遊んでいる人たちの姿が見えます。
こんな疑問が頭の中に湧きます。
「何でこんな苦しい思いをしてまで、登らなければならないのか?」
登ろうと思わなければ、山にいるはずがありません。
自分自身で決めたので、今、こうして登っているのです。
楽しそうにしている人を見て羨ましがったり、嘆いてしまうのは、そのことをすっかり忘れているからです。
道が樹木で覆われている時もあります。
その先がどうなっているのかは分かりません。
目の前に道が続いているだけです。
霧に包まれて、道に迷ってしまいそうになる時もあります。
私たちは1人で登っているのではありません。
迷わないように、専属のガイド’(背後霊)が付いています。
直感(導き)を信じて、登って行くしかありません。
道は険しさを増して行きます。
けれども、1度登り始めたら、退路は断たれ、後戻りはできません。
one-wayです。
ずり落ちながら、這いつくばりながらでも、何とかして登ろうとします。
そこまでして登ろうとするのは、自分で自分に約束をしていたからです。
自分にした「登る」という約束を破りたくないからです。
肉体は限界に達しつつあります。
終わりが近づいています。
山頂です。
今までの苦しみが嘘のようになくなっています。
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