2021年5月30日日曜日

本当の幸せ


ほとんどの人は、幸せを求めて生きていると思います。

何に幸せを感じるのかは、人それぞれです。

20年前の私は、社会的に成功し、人並み以上の収入を得て、余暇は海外旅行に行く、そんなことに幸せを感じていたような気がします。

今から考えると、随分と地上的なものにこだわっていたようです。

霊的真理を知り、そんなこだわりが死ぬまで続かなくて良かったと、胸を撫で下ろしています。



もし、続いていたらどうなるのでしょうか?

死んだ後直ぐに、その性分が変わるはずもありません。

次の世界でも、同じものにこだわり続けるでしょう。



次の世界には、階級も肩書も身分もありません。

あるのは、あるがままの自分(魂)だけです。

社会的な地位にこだわっていた人は、周囲の人に「私は○○だった」と言って、自分を誇示するでしょう。

もう存在しないものにこだわっている姿は、滑稽に映ると思います。

まるで「裸の王様」のようです。



1番大切なものはお金と、信じて疑わなかった人はどうでしょう?

次に行くのは、思念の世界です。

思い描いたもの、欲したものが、すぐ目の前に現れます。

お金が欲しいという願望により、その人の周りにはお札がうず高く積まれているでしょう。

大金に囲まれて、その中で喜んでいる姿が想像できます。

しかし、そのお金の使い道は全くありません。

意味のないものに喜んでいる姿に、哀れみを感じる人もいるでしょう。

遺して来たお金のことが気になれば、地上に縛られることになります。

それが原因で、家族が分裂する様子を、目の当たりにするかもしれません。



この世で終わりだと信じている人が多いので、次の世界ではこのような光景が頻繁に見られると思います。

地上的なものは、全く価値がないことを知った時に、愕然とするでしょう。

幻影を追い求めて、大きな労力を費やしてしまったことを、きっと後悔すると思います。



旅行に行くのが楽しみな人は多いです。

美しい景色を観たりすると感動し、私も幸せを感じていました。

シルバーバーチの霊訓には、霊界の様子がこう書かれていました。

「地上の誰一人として見たことのないような花があり色彩があります。その他小鳥もいれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つをとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。」

この文章を読んで、昔のように旅行に行く気は失せてしまいました。

地上とは比べ物にならないくらい素晴らしい光景が見られる日を、楽しみに待つことにしました。



多くの人が追い求めている幸せは、死と共に消滅してしまうようです。

本当の幸せとは、次の世界にも持って行ける、永続的なものでなければいけません。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「この地上で学んだ知識、体験から得た叡智が、俗世で追い求めている物的なものに比べて、その永遠の魂にとっていかに大切であるかが分かるはずです。」

私たちが地上の体験を通して学んだことは、何にも増して大切なようです。



そして、次のように書かれています。

「そのうちあなたも、地上人生を明確な視野のもとに見つめ直す時がまいります。苦難こそ最も大切な教訓を教えてくれていること、もしあの時あれだけ苦しまなかったら、悟りは得られなかったであろうこと、しみじみと実感なさいます。辛い教訓ではあります。が教訓とはそういうものなのです。もしも教訓がラクに学べるものだとしたら、もしも人生に苦労も誘惑も困難もなく、気楽な漫遊の旅だったら、それは頽廃への道を進んでいることになります。」(地上人類への最高の福音より)

いろいろな体験の中でも、誰もが避けたい苦難から最も大切な教訓が得られるようです。



さらに、こう書かれています。

「霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまう事は絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努める事です。耐え切れないほどの苦難を背負わされるような事は絶対にありません。」

苦難から学んだことは、次の世界にも持って行ける、永続的な宝となるようです。

苦しみには、地上の人には分かり難い、深い意味があるようです。



私たちは、自分を成長させるために、地上に生まれて来ました。

そのために、さまざまな出来事を経験しなければいけません。

苦を伴う経験によって、人(魂)は大きく成長するようになっています。



本当に価値があるものは、目に視えるもの、形あるものではありません。

それらは、いずれ消えてしまう、あるいは手放さなければならないものばかりです。

人に優しくしたり、思いやったり、労わったり、親切にしたりするのは、形あるものではありません。

人を認めたり、許したりするのも、形はありません。

それらの行いの中には、愛情、友情、信頼、寛容、そして自己犠牲などが隠されています。

何の得にもならないような行いによって、目に視えない霊的な財産が魂に蓄えられて行きます。

霊的な財産は、消えてしまったり、手放したりすることはありません。



最も価値があるのは、人や動物や社会のために役に立つことです。

愛を表現することであり、悦びを与えることです。

その行為に対し、因果律が働いて、霊的に成長します。



地上で生きている時には、自分が成長していることは実感できません。

死んで次の世界に行って、どれほど成長したのかが判ります。

人生の一部始終を見せられて、何が自分を成長させていたのかを知ることになります。

出来事が起きて、もがき苦しんでいる中で、大きく成長していたことを知ります。

誰かのためにしたことが、自分を成長させていたことを知ります。



本当の幸せは、追い求めるものではありません。

苦しみの中で育まれるものです。

他者の喜びの中にあります。



本当の幸せは、次の世界に行って、噛みしめるものなのかもしれません。

成長できた幸せに優るものはありません。




2021年5月23日日曜日

明日どんなことが起きるのか判らない


明日、どんなことが身に起きるのか、誰にも判りません。

十数年前に、ある日突然、ヒーリングの力が現れました。

そんな力の存在など知らず、望んでもいないことでした。

ほどなく、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に出会いました。

直後に、それまで経験したことのない出来事が起きました。



人生は運命に支配されているのではなく、自分次第でどうにでもなると思っていました。

ところが、人生を変える3つのイベントが、わずか1ヶ月の間に立て続けに起きて、その考えが変わりました。

人生には、抗えない計画のようなものが存在していると実感しました。



私たちは、それぞれ目的があって生まれて来ています。

持ち合わせていない資質を身に付けるためであり、地上で作った過去の借りを返すためです。

相応の出来事を経験することによって、その目的は成就されます。



学校の勉強は、計画的に行われています。

小学1年生の時に足し算、2年生で掛け算、3年生で割り算、4年生で分数を教わった記憶があります。

1年生に、いきなり分数の足し算を教えても理解できるはずはありません。

1つ1つのステップを踏んで、初めて理解することができます。



生まれる前の記憶は表に出ませんが、私たちは何度か地上に生まれて来ています。

地上で学ぶことがなくなるまで、霊界との行き来が繰り返されます。



地上が初めての人もいれば、もう何十回も経験している人もいます。

初めての人は人間として1年生であり、学ぶことばかりでしょう。

何十回も経験している人であれば高学年になっていて、学ぶことはだいぶ少なくなっているはずです。

魂の成長度は、地上の年齢では計れるものではありません。

地上を多く経験している幼い子供の方が、経験の少ない老人よりも霊的に成長していることは、往々にしてあります。



数学者に、簡単な足し算をテストしても意味はありません。

ヒマラヤに登るような人が、なだらかな山に登っても技術は向上しないでしょう。

今まで経験して来たものよりも、難しいものに挑戦して、初めて自分の能力を高めることができます。



人生も同じです。

お金も時間もたっぷりとあって、好きなことだけをしていられる、苦のない人生に憧れる人は多いでしょう。

しかしながら、そんな安楽な人生では、自分を成長させることはできません。

人生で起きる出来事に、時に翻弄され、追いつめられ、しごかれる中で、成長して行くようになっています。

安楽と成長は両立しないと考えられます。



地上で生きている人の、魂の成長度はそれぞれ違います。

そのため、ある人にとって簡単に乗り越えられることが、ある人には難しい場合があります。

学習が進むほど難易度の高い問題が与えられるように、魂の成長度が高くなるほど、難易度の高い人生になるのは当然です。

困難や障害が大きかったり、果たすべき役割が重くなる人生になると考えられます。


JFAのHPより

「乗り越えられない困難は与えられない」と、霊的真理では言われています。

どうしてなんだろうと思いました。



誰もが、平穏無事に生きて行くことを望んでいます。

残念ながらそうはならず、さまざまな苦難が生じます。



地上の人生には、おおまかな計画(シナリオ)があります。

人生にシナリオがあるのは、自分に足りないものを効率良く学び、成長するためと考えられます。



ある日突然、何の前触れもなく、想像もしなかった出来事が起きることがあります。

それは偶然ではなく、因果律の働きによって、シナリオに従って起きている可能性があります。




シナリオがどのようにして決められるのかは判りません。

しかし、完全なる叡智によって計られているのは確かです。

完全なる叡智は、完全なる愛です。

従って、シナリオに従って起きた出来事が、人を挫折させたり、打ちのめすためであるはずがありません。

私たちを霊的に向上進化させて、より高みに導くためと考えられます。



大切なことを学ぶために、個々に相応しい出来事が起きて、乗り越えて行くことで、霊的に成長して行きます。

難しく感じ、かろうじて解けるくらいの問題の方が、その人にとって有益です。

最大限に成長させるために、徹底的に追いつめて、ギリギリのところで乗り越えられるような出来事が、完全なる叡智の働きによって設定されている時もあるでしょう。

地上的に見れば、それは悪夢のような出来事かもしれません。



命あるものが、一か所に留まっていることは許されません。

絶え間なく、進化(変化)するように定められています。

留まっていると、苦しみのようなものを感じるようになっています。

苦しみを感じたくないので、否が応でも変わって行かざるを得ません。

生まれる前の自分は、それがどんな出来事であったとしても、変わることを望んでいたのかもしれません。

その結果が、今の人生かもしれません。



この世の出来事の意味は、次の世界で明らかになります。

因果律(神の法則)の働きによって、自分を望ましい方向に変えるために起きていたことを知ります。

地上では不運な人と思われたり、苦難ばかりの人生と言われても、霊的に見れば全く不幸でなかったことが判ります。



成長する人生を、自らが選択していただけです。

生きるのがつらいほどの経験が、生きる意味を成就させていたことを知ります。

人生が変わるような出来事は、人間を変えるために起きていたことを知ります。

生き抜いた先に待っているものは、予定していた通りに成長することができた悦びです。



今日、何もなかったとしても、明日、人生を変えるような出来事が起きるかもしれません。

計画されていた出来事は、霊的に最善のタイミングで起こります。

どんなことが起きようとも大丈夫なのは、全ては自然法則の働きによるものだからです。

乗り越えられることが、神によって保障されているからです。







2021年5月16日日曜日

宇宙全体が神


昔の私は、神はいないと思っていました。

正確に言うと、いてもいなくてもどちらでも良かったのです。

神、神と言っている人の気持ちが、全く判りませんでした。

宗教が作り出した空想上の産物であり、弱い人間がすがるものだと思っていました。



そんな私でしたが、霊的真理と出会い、神について学ぶことになります。

想像していたような、空から睥睨(へいげい)している存在とは違っていました。



判ったのは、想像を絶する存在だと言うことです。

イスラム教では、こう言い表しているようです。

「仮に地上の全ての木がペンで、7つの海が墨であっても、アッラー(神)の言葉を書き尽くすことは出来ない。」

決して大げさな表現ではないと、今は思っています。



「神は法則である」シルバーバーチの霊訓には、そう書かれていました。

当初は理解に苦しみましたが、「神の心が自然法則となって宇宙に顕現している」と言った方が判りやすいのかもしれません。

法則は、神の属性の1つです。



そして、神は私たちから独立した存在ではないようです。

神によって創造されたのが宇宙です。

全宇宙が神のエネルギーによって創られています。

私たち人間は、宇宙の中で極小の存在です。

極小であっても、宇宙の一部であり、神のエネルギーであることに変わりありません。



自分も本当に神なのか? 首をかしげてしまうかもしれません。

生命とは神のエネルギーの塊です。

その塊を、魂と呼ぶことにします。

神のエネルギーによって、生命(魂)は自己表現をしていると考えられます。



神は無限の愛です。

神のエネルギーは愛を帯びているので、魂は自然に愛を表現しようとします。



水に溺れている子供がいたら、どうでしょうか?

何とかして助けようとします。

けれども、地上の人間には肉体があります。

魂と肉体の間には精神(自我)が介在しています。

自我には肉体を守ろうとする働きがあります。

自分が溺れてしまうと考えて、助けたい欲求を抑えようとします。

それでも、魂の欲求が打ち克つと、子供を助けるために水の中に飛び込むでしょう。



この宇宙は、法則によって経綸されています。

あらゆる次元に法則が存在しています。

リンゴが地面に落ちるのは、物的次元の万有引力の法則です。

目に視えない霊的次元にも法則が存在しています。

神の心に適った行いをすれば魂は向上し、反した行いをすれば降下するのも、霊的次元の法則の1つです。



霊的次元の法則は、魂を向上進化させるように創られています。

法則に反した行いをして降下しないように、神の監視装置が埋め込まれています。

後ろめたい行動をする直前に、「やってはいけない」と心の中で声なき声を感じます。

憎んだり恨んだりしようとすると、良くないと心の中で声がします。

その声が良心であり、魂に内在する神です。

自分にも神がいるのです。



魂には完全な神がいます。

しかし、表現するための媒体(精神)が不完全なので、完全な神の心を表現することはできません。

精神を表現するためにある媒体(肉体)は、さらに不完全です。



精神は肉体と密接不可分の関係です。

意識が肉体の方に向いてしまい、その要求に従ってしまいやすくなります。

自分のことが心配になり、かわいくなるのが、地上です。



死んで肉体から解放され、霊体によって自己表現をするようになると、自分の心配や生きるための労力が必要なくなります。

すると、外に意識が向いて、周りのために何かをしようとする気になります。

地上の人たちのために、何かをしようとする人もたくさんいるでしょう。



目的を成就しようとする時に、神に向かってお祈りすることがあります。

その目的が、神の心に適ったもの、自分以外のためであれば、魂はより多くの神のエネルギーを受け取ることができます。

また、地上の人たちのために何かをしようとする霊界の存在から、援助の力を得られることになります。

そんなこともあり、自分の持っている力以上のものが出て、目的が成就されて行きます。



自分のために何かを成就したいのであれば、神に向かって祈るよりも、自分を信じて力を尽くす方が良いと思います。

なぜなら、自分を信じることは、内在する神を信じることにつながり、より多くの神のエネルギーを受け取ることができると考えられるからです。



平気で人を裏切ったり、傷つけたりする人も世の中にはいます。

そんな人にも、神はいます。

今生で罪が問われなくても、自らの中にいる神に裁かれる時が来て、相応の苦痛により償いをすることになります。

従って、恨む必要は全くなく、哀れみを捧げるべきです。




宇宙全体が神です。

私たちは全体の一部として、神性でつながっています。

地上で生きていると霊的な感覚が弱くなってしまうので、そのことが判らなくなります。

何かをきっかっけにして、霊的な感覚が戻って来ると、つながりが強烈に意識されるようになります。



様々な出来事を経験したり、他者のために何かをするのは、霊的に成長するためです。

死後、私たちが行く霊界は、無限の界層を成しています。

成長して上に行きたい欲求が魂にあります。

そのために、穏やかな世界を離れて、喧騒の地上に生まれて来ます。

上の界層に行くほど、媒体(精神)は精妙になり、輝きが増して、より神に近い愛が表現されるようになります。



神の愛は完全です。

完全な愛を表現するようになるには、無限の時が必要なようです。

従って、私たちは完全に向かって、永遠に生き続けることになります。




2021年5月9日日曜日

大切なものが視えなくなる世界で生きている


最近、鏡をあまり見なくなったような気がします。

年のせいもあるでしょうが、そこに映っているのは自分の「外側」なので、関心が薄れて来たのかもしれません。



人間は、目に視える「肉体」と、目に視えない「精神」と「魂」から構成されています。

目に視える肉体は物的な世界の存在であり、目に視えない魂は霊的な世界の存在です。

私たちは物的な世界に生きていると同時に、霊的な世界に生きているのです。



目に視えるもの、例えばお金は物的な世界の存在です。

目に視えないもの、例えば愛は霊的な世界の存在です。



お金が大切に思える時は、物的な世界に意識が向いています。

愛が大切に思える時は、霊的な世界に意識が向いています。

地上の人の意識は、物的な世界と霊的な世界を、絶えず行き来しています。



様々な思念(想い)は、魂から発せられています。

死後に赴く霊的な世界では、発せられた思念は、同次元にいる魂に直ちに伝わります。

今いる物的な世界では、思念を言葉など肉体的な表現に置き換えて伝えています。



私たちは、言葉や表情やしぐさから、相手がどんな想いでいるのかを間接的に判断しています。

同時に、わずかですが、そこに含まれている思念(想い)を、直接感じ取っています。



相手の顔が笑っていても、内心は悲しんでいると感じる時があります。

私たちは霊的な存在であり、霊的な感覚が備わっているので、表情や言葉とは違う想いを察知することができます。



怒りや憎しみなどの不穏な空気を放っている人の傍に行くと、落ち着かないような、胸騒ぎがする時があります。

そんな時も、霊的な感覚で空気を感じています。



ドアを開けた瞬間、いつもと違う空気を察知し、部屋を間違ったと慌てて閉めてしまうことがあります。

その空気を醸し出しているのが、人間から発せられているオーラです。



人間よりも動物たちの方が、オーラを察知する能力が高いと考えられます。

攻撃的なオーラを察知すれば、他の動物に襲われる前に逃げられるからです。



行間から、書いた人の想いを察することができるのも、霊的な感覚があるためです。

絵を観て美しいと感じたり、音楽を聴いて感動するのも同じです。



何となく行きたくないと、直感的に感じる時があります。

そんな時は、自分を守り導いている霊的な存在が、霊的な感覚を通して、思念を伝えているのかもしれません。



人間の本質は魂です。

けれども、地上では肉体しか視えません。

魂から生じている思念(想い)も、感じ取りにくくなっています。

それは、五感を頼りに生活をしているので、霊的な感覚が衰えてしまっているからです。



生き方、考え方、性格、価値観が自分と違う人たちと共に生きるのが地上です。

しかも、何を想っているのかも判りません。

判り合えるのが難しい世界に、私たちは生きています。

そのため、認め合えなかったり、人を疑ったり、警戒してしまいます。



どうして、そのような地上が創られて、生れて来たのでしょうか?

信じることの意味、大切さを学ぶためではないかと思っています。



信じ合えなければ、行き違いが起こり、時に諍いに発展してしまいます。

そんな苦しみや痛みや悲しみを伴う経験をしながら、人間の本質が視えないこの世界で、信じることの大切さを学んでいると思います。



神が望んでいるのは、全ての生命(魂)が愛し合うことです。

全てが、信じることから始まります。

信じ合うことで、互いが結びつき、初めて愛し合うことができます。



「生命」「愛」は目に視えません。

それよりも大切なものが、この世界に存在するのでしょうか?

物質しか視えないこの世界で、目に視えない本当に大切なものを見つけ出し、深く学ぶために、私たちはさまざまな経験をしています。



シルバーバーチの霊訓(6)の一節です。

飛行機事故で婚約者を失ったある女優に、シルバーバーチがかけた言葉です。

「あなたは本当に勇気のある方ですね。でも勇気だけではだめです。知識が力になってくれることがあります。是非理解していただきたいのは、大切な知識、偉大な悟りというものは悲しみと苦しみという魂の試練を通して初めて得られるものだということです。

人生というものはこの世だけでなく、あなた方があの世と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色のみでは成り立たないということです。

光と影の両面が無ければなりません。光の存在を知るのは闇があるからです。暗闇が無ければ光もありません。光ばかりでは光でなくなり、闇ばかりでは闇でなくなります。同じように、困難と悲しみを通してはじめて魂は自我を見出していくのです。

もちろんそれは容易なことではありません。とても辛いことです。でもそれが霊としての永遠の身支度をすることになるのです。なぜならば地上生活のそもそもの目的が、地上を去ったあとに待ち受ける次の段階の生活に備えて、それに必要な霊的成長と才能を身につけることにあるからです。

あなたがこれまでに辿られた道もけっしてラクな道ではありませんでした。山もあり谷もありました。

そして結婚という最高の幸せを目前にしながら、それが無慈悲にも一気に押し流されてしまいました。

あなたは何事も得心がいくまでは承知しない方です。

生命と愛は果たして死後にも続くものなのか、それとも死を持ってすべてが終わりとなるか、それを一点の疑問の余地もないまで得心しないと気が済まないでしょう。そして今あなたは死がすべての終りでないことを証明するに十分なものを手にされました。(中略)

本当に大事なもの─生命、愛、本当の自分、こうしたものは何時までも存在し続けます。死は生命に対しても愛に対しても、まったく無力なのです。」



大切なものは、灯りのようなものです。

明るい陽射しの中で、見つけるのは難しいようです。

真っ暗闇の中で、何も見えなくなった時に、光り輝いています。







2021年5月2日日曜日

ワクチン接種について


新型コロナウィルスの勢いは衰えることがありません。

この先の展開を予測するのは困難ですが、いくらロックダウンや緊急事態宣言を繰り返しても、ある一定数以上がウィルスに感染して集団免疫を獲得しない限り、解除と同時にまた拡がって行くような気がしています。

感染というリスクを犯さないで集団免疫を獲得するためには、今のところワクチン接種という方法しかありません。

世界中の国が競うようにワクチン接種をしているのは、一刻も早く集団免疫を獲得し、流行を収束させ、国家を元の状態に戻したいからです。



日本でも約1%の人がワクチン接種を終えました。

医療従事者の間から漏れ聞こえてくるのは、2回目の接種後の副反応の酷さです。

約2割の人が38度5分以上の発熱をすると言われていますが、次の日の仕事が出来なくなるほどの症状が出る人も少なくありません。

若い人の方が、症状が強い傾向があるようです。



九州の26歳の女性の看護師さんが、ワクチンを接種して4日後に脳内出血で亡くなりました。

因果関係ははっきりしませんが、それまで健康だったので、原因はワクチンにありそうです。

政府もマスコミも副反応について取り上げようとしないのは、これから受ける人たちに恐怖心を与え、拒否する人が続出するのを避けるためかもしれません。

受けない人が増えると流行の収束が遅れ、それだけ経済的損失が大きくなってしまうと考えているのでしょう。

正しい情報を教えないで、ワクチン接種を受けさせようとするのは間違っています。

真実をきちんと知らせた上で、個人の意思で決めるべきです。



私は医療従事者の枠で、5月12日に接種を受ける予定になっています。

所属する団体からは、特別な理由がない限り拒否しないようにとのお達しが来ました。

限られた情報の中で、自分で決めなくてはいけないようです。

そこで、もう1度ワクチンについて調べてみることにしました。



ご存知の方も多いかもしれませんが、ワクチンの原理はイギリスのエドワード・ジェンナー(1749‐1823)によって発見されました。

当時、世界中で天然痘が流行し、命を落とす人が多く(致命率が高いタイプは20~50%)、大変怖れられていました。

イギリスの農村部では、不思議な現象が起きていました。

乳しぼりをしている女性は、なぜか天然痘にかからなかったのです。

そんな女性の多くは、天然痘に似た症状で、ずっと軽い「牛痘」という感染症にかかっていました。



その事実に着目したのが、町医者であったジェンナーです。

牛痘にかかると手の皮膚に水疱が出来ますが、その成分の中に何か秘密が隠されているのではないかと考えました。

そこで、水泡中の液体を採取して、使用人の子供に何回も”接種”をしました。

後日、天然痘を”接種”したところ、病気を発症することはありませんでした。

これが、世界で最初のワクチンと言われています。

ジェンナーによる種痘

ジェンナーについての記録はあまりありませんが、田舎の町医者として多くの人が天然痘で命を落とし、後遺症で苦しむ姿を見ていて、何とかしてやりたいと思ったのでしょう。

そして、旺盛な知的好奇心も手伝って、世紀の実験を試みたのだと思います。

もし、実験が失敗して、天然痘を接種した子供が亡くなったとしたら、医者として立ち直れないほどのショックを受けただろうと察せられます。

それより8年前に、息子であるエドワード・ジュニアに軽症天然痘(豚痘)による同様な実験をして成功しているので、きっと自信があったのでしょう。



ジェンナーは、これだけの発見にもかかわらず、特許を取りませんでした。

その理由は、特許を取るとワクチンが高価なものになってしまい、多くの人に行き渡らなくなってしまうと考えたからです。

貧しい人たちにも、無償で1日で300人の接種を行ったと言われています。

ワクチンが誕生した「動機」は、1人の医者の疫病から人を救おうとする純粋な思いだったと、私は考えています。



世界中の人たちが打っている新型コロナウィルスのワクチンは、ジェンナーの種痘とは全く異なる方法で作られたものです。

現在、主流となっているのはm-RNAワクチンです。

ちょっと難しいのですが、人工的に作ったタンパク質の設計図(m-RNA)を細胞内に送り込み、細胞内にある工場の役割を果たしているリボゾームで(スパイク)タンパク質を合成させる方法です。

RNAと聞いて、私は遺伝子を操作するのかと思いましたが、そんなことはないようです。

ワクチンのm-RNAに相当する物質は体内で分解され、核内の遺伝子に組み込まれるようなことはありません。(アストラゼネカ社などのウィルスベクターワクチンは核内に入り遺伝子に組み込まれます)

ただし、長期的なデータがないので、将来、思ってもみなかった問題が起こらない保障はどこにもありません。



m-RNAワクチンの生みの親と言われているのは、カタリン・カリコという研究者です。

彼女はハンガリー出身で、1980年代に亡命してアメリカにやって来ました。

亡命する際には、娘さんのクマのぬいぐるみの中に、生活するための現金を隠していたそうですが、そこまでしてRNAの研究をしたかったようです。(その娘さんはオリンピックのボート競技で2度金メダリストになったそうです)

1985年テンプル大学の研究室のカリコ女史

当時の主流はDNAの研究でしたが、彼女はRNAにこだわったそうです。

RNAの研究は、ワクチンを作るために行っていたのではありません。

機能不全に陥っている組織に代わり、投与したm-RNAによって人体に必要なタンパク質を作らせることを目的に行われていました。

遺伝性の難病に苦しむ人たちに、希望を与える研究だったのです。

実用化にはいくつも障壁がありましたが、それを克服してきた彼女の業績はノーベル賞に値すると言われています。

ここで、彼女の人間性を表す1つの記事を見つけました。

若い研究者たちにアドバイスはありますか?と言う質問に対して

「お金や栄誉などの見返りを求めないこと。ベストを尽くして、それに満足することです。うわべだけのこの社会において、重要なのはあなたの見栄ではなく、あなたが創り出す価値なのです。一時の栄光は大切ではありません。」と彼女は答えています。

自分の研究が、人類の健康に大きく寄与すると強く信じて来た人だと、私は思っています。



偉大な発見や研究の多くは、芸術と同じで、インスピレーションによってもたらされます。

インスピレーションの発信元は、霊界の人たちです。

霊界の人たちが、地上にいる人の想いに同調して、インスピレーションによって叡智を授けます。

それを、地上の人は”ひらめき“として、受け取っています。



霊界の人たちは、地上の人の想いが判っています。

何かをしようとする時、その人の「動機」が一目瞭然です。

もし、地上の人の動機が自分の利益や名誉のためであれば、それに同調する霊は次元の低い存在となるでしょう。

公共の福祉や人類の健康のためならば、同調する霊は次元の高い存在となります。



ワクチン開発に大きな足跡を残した2人の「動機」を探ってみましたが、どうやら利己的なものではなさそうです。

旺盛な知的好奇心と、人々の健康のためという思いに基づいていたと思います。

ジェンナーの時代は、ウィルスの存在も、免疫の働きも全く判りませんでした。

牛痘の患者の水泡の中に秘密が隠されているという画期的なひらめきは、想いを同じくする霊界の存在から届いたインスピレーションである可能性が高いと考えられます。

もし、ワクチンが神の摂理に反していて、人類に害悪を与えるものであれば、高い次元の存在がそのようなインスピレーションを送ってくるはずはありません。

ワクチンの発見や開発は、霊界によって予め計画されていたことであり、想いを同じにする地上の人たちの手によって成就されていると、私は考えています。



摂理に反していることに、臓器移植があります。

血液も臓器の一部であり、そこには輸血も含まれます。

今回のワクチンはどうなのでしょうか?

少なくても血液(臓器)ではありません。

また、他の動物を全く利用せずに、科学の力によって作られたものです。

一刻も早く実用化するために、動物実験も行っていないでしょう。



細菌と同じく、ウィルスも物質的次元の存在です。

細菌感染には抗生物質という物質次元の対処法(薬)がありますが、残念ながらウィルス感染にはありません。

そんな状況を鑑み、ワクチンの原理が霊界からもたらされたのなら、接種することも予め計画されていたはずです。



ウィルスの流行は、利己的で調和を欠いた人間の行いが原因と考えられます。

人間は地球上で進化の頂点に立つ生命としての自覚や責任を持たなければいけません。

根本的な解決はワクチンではなく、人間の調和と協調によってもたらされると思います。

神の叡智に人間の叡智が及ぶはずはありません。

そうしない限り、人間が作り出すワクチンを無効にさせるようなウィルスの変異が、自然法則の働きによって起きる可能性があります。



気になるニュースがありました。

イスラエルのワクチン接種率は世界1です。

しかし、支配下にあるパレスチナの人たちへ接種をする気はないようです。

人種や宗教に関係なく、分け隔てなく、求めている人たちにはすべきです。

その利己性が、ウィルスを蔓延させる原因になっていることに気付くべきです。

これはイスラエルだけではなく、地球上の人間一人一人が問われている問題です。



自然法則の働きによってウィルスは流行し、自然法則の働きによって人から人へと感染し、そして自然治癒力によって癒されます。

全てが、神の手中にあることを忘れてはいけません。





2021年4月25日日曜日

300万余の霊


新型コロナウィルスの感染によって、既に世界中で300万以上の人が亡くなっています。

慣れとは恐ろしいもので、すごい数字なのにあまり驚かなくなっています。

慣れが油断につながらないように注意しなければなりません。

ブラジル・北部マナウス AFP時事


亡くなった人たちは、まさか自分がコロナに感染して死んでしまうとは思ってもいなかったでしょう。

そんな人たちは、今どうしているのでしょうか?



死んだ後に辿るコースは、生前、死後の世界があると思っていた人と、死ぬと終わりだと思っている人によって違います。

私たちは死ぬと、既に亡くなっている親しい人たちと再会することになります。

死後の世界があると思っていた人は、その人たちと会うことで、もうこの世にいないことを自覚します。

死んだら終わりだと思っていた人は、再会しても、何が起きているのか理解できません、

その人たちから、この世にいないことを告げられたとしても信じられません。

自分の葬式が行われているのを見ても、夢幻のように感じます。



あると考えていた人は、しばらくすれば向こうの世界に順応します。

死んだら終わりと思っていた人は、相変わらず意識があるので、まだこの世に生きていると錯覚します。

その様子を見て、周りの人たちは死んだことを何とか理解させようとします。

しかし、思い込みが強く、何を言っても無駄だと分かると、放って置かれるようです。

どれくらい先になるのかは判りませんが、死んでも生き続けると言う現実を受け入れる日がやって来ます。



戦争や疫病が起こると、短い期間に何百万人もの人が霊界に送られて来ます。

地上に近い界層では、そんな人たちを介抱するために、慌ただしい状況になっていると推察されます。

生前から正しい知識を身に付けていれば、死んだ後、周りの人に余計な手間を取らせなくて済みます。



コロナウィルスに感染して亡くなったのであれば、呼吸が苦しかった人も多いでしょう。

しかし、死んで肉体が無くなると、嘘のように楽になります。

具合が悪かったところも全てなくなり、肉体のない軽やかさに驚きます。



死んで直ぐは、地上の習慣が残っているので、生前と同じ様な生活をしようとするでしょう。

住み慣れた家に帰り、いつもの場所で過ごす人も多いと考えられます。

もう肉体はないのに、眠気や空腹を覚えることもあるようです。



そこに、自分がいる場所をじっと見つめている人の姿を見つけるかもしれません。

苦楽を共にして来た、大切な人です。

いるのにも関わらず、自分の姿が全く視えていないことに、不思議な感覚を覚えます。

ここにいることを教えたくなるでしょう。

しかし、いくら声をかけても、気付いてもらえません。

触れようとしても、(霊体の)手が相手の体をすり抜けてしまいます。

自分がいることを知らせる術がなく、意思疎通が全く出来なくなっていることに愕然とします。



記憶はあります。

性格もそのままです。

想いも変わっていません。

肉体がないだけで、他は何も変わっていません。

しかし、地上にいる人は、そんなことに気付くはずもなく、いなくなったと思っています。



「いなくなっていない」

「遠くになんか行っていない」

「傍にいる」

「どうして判らないんだ」

そんな想いを伝えたい人たちが、今、地上近くで溢れているでしょう。



地上に残された人はどうしているのでしょう?

あまりに突然だったので、現実とは思えません。

死に目にも会えずに、いきなり骨(遺体)になって帰って来れば、信じられるはずもありません。



しかし、いくら待っていても何も連絡もありません。

家に帰って来ません。

少しずつ死んでしまったことを受け入れて行くしかありません。

それに伴い、悲しみが押し寄せて来ます。

感情を抑えられなくなり、涙となって溢れ出します。



向こうにいる人は、そんな様子を見ていて、傍に寄り添いたくなります。

しかし、悲しみの感情は地上の人を包み囲んでいるバリアのように感じられ、容易に傍に近づけません。

悲しみの感情を、自分にはどうすることも出来ないので、ただ傍観するしかありません。



今いるのは、思念の世界です。

地上にいる人の肉体はおぼろげにしか視えません。

しかし、想いは手に取るように判ります。

地上にいる人はその逆です。

肉体は視えますが、五感に触れない想いは判りません。



何とかして、自分の想いを伝えられないかと思います。

地上の人が、能力の確かな霊媒のところに行けば、代わりに伝えてもらうことができます。

それが無理ならば、地上の人の魂に直接、想いを投げかけて伝えるしかありません。

上手く行くと、地上の人の心の中に何かが突然、浮かび上がります。

それが精神上で具体化されれば良いのですが、何なのか判らないまま、受け流されてしまうことがほとんどです。



向こうの世界から想いは、インスピレーションの形を取り伝えられます。

せっかく伝わっても、思い付きとして片付けられてしまいます。

そんなむなしい試みが、何度繰り返されているのでしょうか?

成否を決めるのは、自分の存在を信じてもらえるかどうかにかかっています。



地上では、悲しむことよりも、生きることの方が優先されます。

悲しんでいる暇さえない人も、きっと多くいるでしょう。

そんな状況は、向こうにいる人たちには好都合かもしれません。

生きることに意識が向かい、悲しみのバリアが弱くなった時を見計らって、自分の想いを伝えようとしているかもしれません。

その想いが愛であれば、心の中がパッと明るくなり、何かあたたかいものが拡がって行くのを感じられるかもしれません。



向こうに行った人にとっても、意思疎通ができなくなるのはつらいものです。

しかし、いつでも地上の人に寄り添えます。

想いも判ります。

地上の人のような、悲しみはありません。



自分を想う思念が届いた瞬間、寄り添っているでしょう。

もし、地上にいる人の意識が、自分以外に向いている時には、どうしているのでしょうか?

今いる世界に、意識が向いていると思います。

そこに拡がっているのは、生命力が鮮やかな色彩となって、光り輝いている世界です。

言葉を介さずに、想いが通い合います。

煩わしい人間関係もありません。

食べるために、働く必要もありません。

精神的、肉体的に大きな負担となっていたものが、ことごとくなくなっています。

実に快適な世界です。

けれども、地上の人はそんなことなど知らないために、この世に生きていられなかったと嘆き悲しんでいます。



「まだすることがたくさんあったのに」

こう思う人もいるでしょう。

夢に向かって進んでいた人、果たすべき約束があった人、守るべきものがあった人もいるでしょう。



全ての現象は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則に則って、地上を去ったのです。

神が創った自然法則に則って起きたことで、不公正が生じるはずはありません。

ここに、シルバーバーチの言う「埋め合わせの原理(法則)」が働いていると考えられます。



私たちは、大切なことを学び、霊的に成長するために、地上に生まれて来ました。

地上的な経験はできなくなりましたが、霊界でそれに代わる経験を通して、同等の学びや成長が得られると考えられます。

違う形での夢、果たすべき約束が生まれると考えられます。



守るべき人が、生きるのが大変な状況になってしまうこともあるでしょう。

そんな人たちを、霊界から守り導くのも大切な役割となり、成長につながると思います。

失うことによって生じた苦難を、もがきながらも乗り越えようとする過程で、地上の魂は成長し、霊的に報われることになります。

自分が地上を去ったことで、不公正がないように完璧に計られていることを知り、安心すると共に、宇宙を経綸している大いなる存在に感謝するでしょう。



ところで、亡くなった300万を超える人は、寿命だったのでしょうか?

シルバーバーチの霊訓の中に、事故でご主人を亡くした夫人とのやり取りがあります。

そこに偶発的に見える事象で死んだ人と、寿命との関係が書かれています。

最も理解しにくい文章の1つですが、書いてみます。

夫人「主人が亡くなったとき私は、これも宿命だったと信じる用意はできていたので、そのことをある方を通じてあなたに伝えてもらいました。するとあなたは、これは事故(アクシデント)だとおっしゃったのです。私は、アクシデントと法則とが同居できるはずはないと思いました。」

シ「私がアクシデントだと言ったのは、神が過ちを犯したという意味ではありません。法則の内側にもさらに別の次元の法則が絡んでおります。その事実を、これから可能なかぎり判りやすく説明してみましょう。私が申しあげたかったのは、ご主人はあの日に死ぬ運命ではなかったということです。」

夫人「では私たちは何日に死ぬということまで決まっているわけではないということでしょうか?」

シ「非常に難しい質問です。というのは、それが決まっている人もいるからです。」

夫人「もし主人が私以外の女性と結婚していれば因果律もまったく別の形をとったはずです。もしかしたら、あの日のあの時刻に死ぬという結果を生み原因も起きなかったかもしれないーこの考えは考えすぎでしょうか?」

シ「いえ、私は考えすぎだとは思いません。人生はすべて法則によって支配されております。天命、宿命、運命ーこうした問題は何世紀にもわたって思想家の頭を悩ませてきました。では、真相といえば、法則の内側にも別の次元の法則が働いているということです。宇宙は何人にも動かしがたい基本的な法則がまず存在します。ただし自由意思が原因となってそれ相当の結果が生じます。それは絶対に避けることができないということです。お判りですか?」

夫人「判ります」

シ「さて、ご主人はあの日に地上を去って私どもの世界に来る必要がなかったという意味においては、あれは偶発的な事故でした。しかし、それでもなおかつ、因果律の働きによるものでした。」

夫人「原因の中にすでにあの事故が発生していたということでしょうか?」

シ「その通りです。私が言っているのは、あの日に他界するように運命づけられていたという意味ではないと言うことです。」



コロナウィルスの感染によって亡くなった人はどうなのでしょうか?

その日に、亡くなることが決まっていたわけではないと考えられます。

人類全体に因果律が働いた結果としてウィルスが流行し、全体の一部として個が感染し、その個が持っている肉体的、霊的次元の原因に、さらに因果律が働いた結果として、地上を去ることになったと考えています。



生命は永遠に続きます。

地上で学ぶことがなくなるまで、霊界との行き来を繰り返します。

死とは、元いた世界に回帰する自然現象であり、決して不幸なことではありません。



全ては計られています。

先に逝った人は、霊界に戻るのに相応しい魂であったのに違いありません。



2021年4月18日日曜日

新型コロナウイルスの流行について 追記


春になれば、以前の生活に戻れると思っていましたが、その考えは甘かったです。

新型コロナウイルスは勢いを増して拡がっています。

これまでに、世界で300万人以上が亡くなっています。

一刻も早い終息を願うばかりです。



ウィルスの流行は自然現象の1つです。

全ての現象は因果律の働きより起きているので、何かしらの原因があるはずです。

シルバーバーチはこう言っています。

「そもそも人間の生命を奪うようなビールスが発生するということは、人類の生き方がどこか間違っていることの証拠です。人類の生き方は地上のすべてに反映するのです。生き方を正せば、そういう克服できない問題は生じなくなります。人類の行動と環境との間には不離の関係があるのです。」

人類の生き方が間違っているとウィルスが発生すると明言しています。

地球は人間だけのものではないのに、我が物顔で振舞っているのが間違っていると思います。

具体的には、人間が踏み込んではいけない地域に進入し、未知のウィルスの宿主となっている動物と接触してしまったことが原因と考えています。



コロナウィルスと同じ種類にインフルエンザウィルスがあります。

その発生源は鳥です。

水鳥がインフルエンザウィルスを運んで来て、農村にいるアヒルや豚やニワトリなどの家畜に感染し、変異したものが周囲にいる人間に感染すると言われています。

出典:flickr; Rikki’s Refuge

もし、アヒルや豚やニワトリを人間が食べなければ、インフルエンザウィルスは限られた生態系の中で閉じ込められたままです。

そう考えると、人間が自然環境を守り、動物の肉を食べなくなれば、新型コロナウィルスだけでなく、インフルエンザ、エイズ、エボラ出血熱等の、人類を悩ますウィルスの流行は起こらないと考えられます。



世界中でワクチンの接種が始まりました。

血栓等の副反応に注意を払わなければなりませんが、ウィルスの流行を終息させるのに、最も有効な手段であるのは間違いありません。

高齢者施設に優先して接種しているヨーロッパでは、施設での老人の死亡数は激減しています。

最も接種が進んでいるイスラエルでの調査では、発症を94%予防し、重症化が92%防げたと報告しています。

一刻も早いワクチン接種が望まれますが、これは一時的な対処療法に過ぎず、根本的な解決にならないかもしれません。



このウィルスには変異が起きるからです。

変異するとワクチンが効かなくなったり、1度感染した人が再び感染する可能性があります。

ウィルスが人間の体の中で増殖する際、コピーミスが起きると変異すると考えられています。

変異はミスで起きているのではないと思います。



ウィルスの増殖は自然現象です。

自然現象は自然法則に則って起こります。

自然法則を創った存在を「神」と呼ぶことにします。

もし、自然現象にミスがあったとすれば、神が創った法則の働きにミスがあったことになります。

それはあり得ません。



神が創ったこの宇宙は、あらゆる事態が想定されています。

ある原因が発生した時に、因果律が作動して、ある現象が起きる、自然法則はその様に創られていると考えられます。

突然変異と言われる自然現象も、偶然ではなく何らかの原因があって、自然法則に則って起きています。

変異を起こす自然現象の中に、神の意図が隠されていると思います。



隠された意図とは、人間が過った方向に進んで行くのを修正するためと考えています。

もし、ウィルスの流行がワクチンによって簡単に封じ込めることが出来たらどうでしょう?

何も変わらずに、しばらくすれば元の生活に戻ります。

変異が起こることで、難しくなったらどうでしょう?

生き方や考え方を、変えざるを得なくなります。



ウィルスは人と人との接触によって伝搬して行きます。

完全に接触を断てば、ウィルスは拡がることはありません。

しかし、仕事をしなければ生きて行けず、世の中も回って行きません。

この世界は、何かしら人と関りを持たなければ、生活を営めないようになっています。

今、求められているのは、生きて行く上で必要のない行動をなるべくしないことです。



多くの人は、これまで普通にしていた行動を控えるようになりました。

例えば旅行です。

海外や長距離の旅行をする人は、めっきり少なくなりました。

身近にあるもので、楽しみを見つけようとする人も多くなって来ました。

このことは、人間が移動をする時に出している二酸化炭素の量を減らすことにつながっています

極めて深刻な地球温暖化の進行が、新型コロナウィルスの流行によって強制的に抑えられているように思えます。(2020年は第2次世界大戦後最大の二酸化炭素排出量の減少)



また、ウィルスの感染は、アルコールの出る飲食店で頻繁に起きていることは、各国の共通した認識です。

アルコールを飲むと、ウィルスに対する恐怖心や警戒心が弱まり、理性的な判断が出来なくなるので当然でしょう。

多くの人は、外でお酒を飲むのを控える様になりました。



旅行をするのも、お酒を飲むのも、人生の楽しみの1つです。

私たちが普通にしていることです。

しかしながら、地球上には食べるものも食べられず、餓死している人たちがいます。

世界各地で紛争が起きています。

貧しい国で起こる紛争は、飢えと深く関わっているようです。

空腹が続くと、人のことなど考えられなくなり、争いが起きやすくなります。



自分が働いて稼いだお金で何をしようと自由です。

しかし、働くことも出来ずに、空腹にじっと耐えている人たちがいます。

そんな人たちのために、自分の楽しみの一部を犠牲にして、分け与える気持ちが求められているのかもしれません。

今回のウィルスの流行は、物質的に豊かな国の人たちの行き過ぎた享楽への戒めと、物質的に貧しい国の人たちへ意識を向ける意図が込められているような気がします。



ウィルスの感染者数の多い国は上から順に、アメリカ、インド、ブラジルです。

どれも貧富の差が激しい国ばかりです。

コロナウィルスの怖さや、感染を防ぐための正しい知識も持ち合わせていない人たちが感染の危険に晒されながら生活しています。

啓蒙を怠たり、健やかに生きる権利が侵さている人が多い国ほど、ウィルスが拡がっているような気がします。




私たちは、1人1人が独立した存在のように見えます。

宇宙から見ればどうでしょう?

地球は1つの生命体のように見えます。

出典:NASA

個々は独立した存在ではありません。

全体の一部として生命はつながっていて、何かしらの役割を担っています。

例えば、道端に生えている1本の雑草はどうでしょう?

二酸化炭素を酸素に変えて、動物たちが生きるために、ささやかな貢献をしています。


地球上の一部の人たちがぜいたくな暮らしをしながら、一部の人が飢えて死んでしまう、これは霊的に許されることではありません。

事実を知りながら、何もしないでいるのは、神の摂理に反しています。

「人間の窮地は神の好機」と言われます。

ウィルスの流行と言う自然現象により、人間は窮地に追い込まれて、多くの人が霊的に目覚めると思います。

霊的に目覚めれば、物質的な豊かさよりも、大切なものがあることに気付く人もいるでしょう。

自分の楽しみよりも、他者の笑顔の中に、悦びを見い出す人もいるでしょう。



霊的に目覚めれば、自分の中にある良心に忠実になります。

飢えに苦しんでいる人、破壊される自然環境、生命の危機に晒されている動物たちのことが放って置けなくなります。

そんな人たちが多くなれば、今まで変わらなかった世界が変わって行くはずです。



あらゆる事態が想定されて、この宇宙は創られています。

より多くの人を霊的に目覚めさせ、地球を健全な方向に向かわせるために、人類が作り出すであろうワクチンに抗うために変異というプログラムが、予め組み込まれていたと考えています。

徹底的に追い込まれた時、人は霊的に目覚めます。

ウィルスの流行という危機的な状況によって、地球規模で霊的な浄化が行われているような気がします。

嵐が去った後に、今までと違う世界が待っているのかもしれません。



ところで、ウィルスの拡がり方を見て感じたことはないでしょうか?

ウィルスには国境がありません。

人種も宗教も文化も関係ありません。

世界中の人はつながっているので、ウィルスは隅々まで拡がって行きます。



世界全体で起きていることであれば、世界全体でどう対処するべきかを考えるべきです。

自分さえ、自国さえ良ければでは済まされません。

もし、物質的に豊かな国がワクチンによって流行を抑えることができたとしても、行き届かない貧しい国で流行が続いてしまう可能性があります。

そんな中で、ワクチンが効かないような変異が起きれば、再び世界中で流行するでしょう。

こんな時こそ、世界全体に意識を向けることが大切だと思います。



人間が利己的になってしまい、地球全体の調和を乱したために、因果律が作動して、ウィルスの流行が起きたと考えています。

もしそうであれば、利他的な行動を取ることによって、終息に向かうはずです。



人に移さないような行動をする。

世界中の人に満遍なくワクチンが行き渡るように援助をする。

自然環境を守り、温暖化が進まないような生き方をする。

小さなことでも、みんなですれば大きな変化となります。






2021年4月11日日曜日

真実は内に隠されている


「自分とは一体何だろう?」と、漠然と思う時がありました。

そんな時は、目に視える自分とは違うと、何となく感じていたのかもしれません。



「自分とはいったい何だろう」と思う意識そのものが自分です。

そんな意識は、どこで生まれているのでしょうか?

多くの人は、脳で生まれていると考えています。



ところで、人の性格はどこで生まれているのでしょうか?

世の中には、怒りっぽい人もいれば、泣き虫な人もいます。

脳内伝達物質の働き方によって、性格が決まると考えている人がいます。

アドレナリンが出やすい人が怒りっぽいのでしょうか?

そんな単純なものではありません。



意識がどこで生まれるのか、性格がどのようにして決まるのか、現代科学で解明されていません。

それは当然です。

意識や性格は、脳から生じているものではないからです。



意識は魂から生じています。

魂の様相の一部が、精神に投影されたものが、地上の人の性格となります。



地上の人間は、魂、精神、肉体の3者から成り立っています。

肉体を動かしているのは脳です。

脳に指令を与えているのが、精神です。

精神の上位に魂が存在しています。

精神は魂と肉体(脳)の間にあり、両者の橋渡しをしています。

肉体を動かす元となる思念は魂から生じています。

それが精神により具体化され、肉体で具現化されています。



ほとんどの人は、物質的な次元に生きていると思っています。

肉体は物質的な次元の存在ですが、魂は霊的な次元の存在です。

つまり、私たちは物質的な次元に生きていると同時に、霊的な次元に生きていると言えます。

死によって肉体から魂が分離すると、物質的な次元と関りがなくなり、完全に霊的な存在となります。



鏡に映っている肉体を見て、これが自分だと思っている人は多いです。

けれども、本当の自分とは鏡には映らない、意識的な存在です。

肉体は、自分(魂)を表現するための媒体に過ぎません。



地上の人間は、肉体、精神、魂から成る多元的な存在です。

私たちが発している言葉も、実は多元的です。

言葉は文字として見え、声として聞こえるので、物質的な次元の存在です。

その言葉に、次元の違う想い(思念)が込められています。



私たちが良く口にする「ありがとう」を例に挙げてみます。

「ありがとう」は感謝の意味を表す言葉です。

言葉は、地上だけに存在する、他者に意味を伝える一種の記号です。

肉体によって発せられて、五感を通して相手に伝えられます。



もし、コンピューターにより合成された音声で「ありがとう」と言われたらどうでしょう?

言葉そのものしか伝わって来ません。

人から心を込めてありがとうと言われたらどうでしょう?

言葉以上のものが伝わって来ます。

言葉の中に、想い(思念)が込められているからです。



人が発した「ありがとう」と、コンピューター音声の「ありがとう」の決定的な違いは、想い(思念)を含んでいるかいないかです。

想いは、魂から発せられています。

当たり前ですが、生命でない機械は言葉に想いを込めることは出来ません。

人間が発した言葉には、物質的な記号としての意味の他に、霊的な次元の想い(思念)が含まれています。

記号と思念が組み合わさった、多元的なものです。



発せられた言葉は、耳と言う感覚器官で受け取っています。

受け取った情報は脳で処理され、その意味を理解します。

けれども、言葉に込められた想いは、五感で感じ取ることは出来ません。

魂が感じ取っています。



人間が発した言葉でも、感謝の気持ちが込められた「ありがとう」と、社交辞令の「ありがとう」があります。

その微妙な違いを感じ取れるのは、私たちは霊的な存在であり、霊的な感覚があるからです。



もし、人間が肉体だけの存在だったらどうでしょう?

個と個の間で交わされるのは、機械的な情報の伝達のみです。

感情は無意味であり不要です。

ありがとうと言う、感謝の概念自体も存在しないでしょう。

魂が存在しているからこそ、私たちは喜んだり、悲しんだり、感謝したりするのです。



地上がやっかいなのは、発する言葉と、想いが一致しないところです。

思いもしていないことを口にされたり、口にしたりします。

相手に騙されたり、騙したりすることが可能です。



言葉はお粗末な思念の代用品です。

自分の想いを、完全に相手に伝えることは不可能です。

そのため、発した側と受け取った側の間に、どうしても齟齬が生じてしまいます。

地上にいる人たちが、お互いに分かり合えないのは、生き方や考え方が違う以外に、意思伝達が上手く行かないことも原因になっていると考えられます。



死んで、霊界に行くと肉体はなくなります。

言葉はなくなり、思念だけとなります。

思念が魂から魂へと、直接伝わります。

想いもしていないことを伝えることは不可能になり、意思伝達の齟齬も全くなくなります。



良く霊界は「真実の世界」と言われます。

それは、地上では嘘が存在し得るのですが、霊界では真実がそのまま表現されてしまうからです。

魂が剥き出しになり、想いが露わになるので、裏表や虚構が存在し得ないのです。



人はなぜ歌を歌うのでしょうか?

言葉や音楽という媒体を介して、自分の想いを伝えるためです。

優れた歌手は、たくさんの想いを歌に込められます。

込められた想いは、聴く人の心(魂)に響いて、共鳴させることが出来ます。



絵画はどうでしょう?

画家は、自分の想いを込めながら描きます。

込められた想いを、観る人は作品から感じ取ります。

芸術鑑賞とは、物的表現から作者の思念を読み取る、一種のサイコメトリーな作業です。

偽物はどんなに上手に描かれていても、観て感動しないのは、作者の想いが込められていないからです。



地上の人間も、霊的な存在です。

霊的な感覚は誰にでも備わっています。

しかし、肉体があるために、思念は直接伝わり難くなっています。

そのために、五感で判る言葉に変換して、肉体を介して伝えるしかありません。

別の言い方をすれば、人間はあまりにも言葉に頼ってしまったために、想いを感じ取る霊的な感覚が廃用退化したと考えられます。



目に視えるものが全てと思いがちです。

けれども、起きている現象や人が行っていることも、目に視えない意味や目的が存在しています。

私たちは、物質によって隠されている真実を探る作業を、日常的に行っています。

真実を隠すことの出来ない霊界では、その必要はありません。

地上でのその作業は、お互いが深く判り合えることにつながり、霊界において調和が促進されると考えられます。



今朝、小鳥の鳴き声を聴きながら起きました。

目覚まし時計のアラーム音は時に不愉快な気分にさせられますが、朝の小鳥の鳴き声からは、生きている歓びのようなものが感じられ、元気付けられます。





2021年4月4日日曜日

地上での目的

 

「終活」と言う言葉を、良く聞くようになりました。

一昔前は、死は忌まわしいものとタブー視されて、なるべく考えないようにしていたのに、随分変わったものです。

死も1つのライフイベントとして捉え、自分なりに人生のけじめを付けたいと考える人が増えていると思います。

旅先を訪れる前に、本やインターネットで現地の情報を集める人は多いです。

終活の後に訪れる世界についてはどうでしょう?

情報を集めようとする人は、あまりいません。

あるかどうかも判らないものを、考えても仕方がないと思っているのでしょうか。

死後の世界がなければ、それで良いのですが、あった場合には戸惑ってしまいます。

リスクを回避するために、知識を身に付けておいて損はありません。



地上での目的を果たした人が、生まれる前にいた世界に戻る現象が死です。

ところで、地上での目的とは何なのでしょうか?

それぞれ目的があって生まれて来ているのですが、残念ながら分かりません。

しかし、何かをきっかけにして表に出て来る時があります。



ある番組で、最も権威のある国際コンクールで優勝した女性ヴァイオリニストが、幼い時のことを話していました。

彼女は、3歳くらいの時にピアノを習い始めたそうです。

親の期待とは裏腹に、どうしても好きになれなかったそうです。

ある日のこと、おじいさんが子供用の小さなヴァイオリンを買って来ました。

それを持って、テーブルの上に立った瞬間に「私はこの楽器のソリストになる」と、大きな声で叫んだそうです。

こんな形で、地上での目的を思い出す人もいるのかと思いました。



目的に出会っても、なかなか気付かない人もいます。

野球の神様と言われるベーブルースは、幼い頃は手を付けられない、悪い子供のようでした。

親に見放されて、カトリック系の矯正施設に預けられたそうです。

自立するために洋服の仕立てを教わりましたが、そこで尊敬の出来る神父との出会いがありました。

人として大切なことを教えてもらうのと同時に、布を縫ったボールの様なものを使って野球の手ほどきを受けます。

その神父はとても体格が良く、遠くまでボールを飛ばすことが出来たそうです。

その姿に憧れたのでしょうか、ベーブルースは熱心に野球をするようになり、めきめきと上達して行きます。

噂を聞きつけたメジャーリーグの関係者が彼の元を訪れ、入団するように勧めますが、洋服の仕立て職人になると、1度は断ったそうです。

前置きが長くなりましたが、目的と出会ったとしても、その人を取り巻く環境や性格によって、直ぐに気付かない時もあるようです。



地上での目的とは、出会うべくして出会います。

運命的な出会いと感じるかもしれませんが、霊界の導きがあってのことです。

努力を厭わず、投げ出さないで続けようとするのは、生まれる前に約束していたことだからです。



多くの人は、ベーブルースは野球をするため生まれて来たと思っています。

彼にとって野球をする本来の目的は、富や名声を得るためではありません。

野球をしている自分の姿を見てもらうことで、たくさんの人に元気や勇気や夢を与えるためです。

人の役に立つ手段が、野球だったと考えられます。

才能を人のために活かすことで、自らの成長にもつながります。



もちろん、全ての人がベーブルースのように才能が与えられ、華々しい活躍をするわけではありません。

多くの人は、何らかの形で人の役に立ちながら、さまざまな出来事を経験することによって、生まれて来た目的を果たして行きます。



人生には、うれしい出来事もあれば、つらい出来事もあります。

出来事の1つ1つが、魂に何らかの影響を及ぼしています。

例えば、誰もが避けたい病気です。

ある日突然、原因も見当たらずに病気になったのであれば、予め決められていたのかもしれません。

病気の苦痛や障害に耐えて、克服しようとする中で、大切なことを学び、自分を成長させるために、その経験がどうしても必要だったのかもしれません。

地上で起きることには、霊的な目的が包含されていて、そのほとんどは自分の成長に関わっていると考えられます。



同じ成長をするならば、華々しい活躍をする人生を望む人がいるかもしれません。

人は人の表に出ている部分しか判りません。

もし、その人の全てを知ることが出来たなら、栄光の陰で苦労や犠牲がたくさんあり、今の人生で良かったと思うかもしれません。



歩む道が違うのは、必要とする経験がそれぞれ違うからです。

従って、人と比べても全く意味がありません。

自分のためであり、そのことを決めたのも自分です。



何故、そこまでして私たちは成長しようとするのでしょうか?

成長とは進化です。

生きている目的は進化することです。

進化するほど神の心、愛が表現されるようになります。

愛を表現することで、ばらばらになった個々の生命が再び1つになって行きます。

生命が1つになり、完全な調和の中で生きるようになるのが、神が立てた計画と考えています。

魂には神が宿っています。

成長しようとするのは、神の意思だからです。



私たちが表現しようとする愛には、2つの側面があると考えています。

1つは強さであり、もう1つは(次元の)高さです。

強い表現であっても、そこに愛が表現されてなければ何の意味もありません。

高い愛であっても、強さがなければ表現することは出来ません。



高さを求めるのか、強さを求めるのかによって、自ずと必要な経験は違って来ます。

高さを求めるのであれば、それに相応しい経験、例えば、自分が好ましく思わない人のために尽くすようになるのかもしれません。

強さを求めるのであれば、魂が鍛えられる経験、例えば、頼るものがなくなり、自力で生きる状況に追い込まれるかもしれません。



アスリートが成績を残すためには、厳しい練習を積まなければなりません。

何かを得るには、それなりの対価を払わなければならないのが、世の常です。

自らの成長のために、それに相応しい経験が必要です。



安楽な状況で、人間が変わるのは困難です。

変わる必要がないからです。

経験がもたらす苦しみや痛みによって人は変わろうとします。

同じではいられないからです。

地上に生まれる人の多くは、精神的、肉体的な苦痛を通して、変化して行くように定められていると思います。

その変化こそが、求めていた成長と考えられます。



自分が求める資質を身に付けるために必要な出来事が、神の裁量によって計画され、自然法則の働きによって生じていると考えられます。

その出来事は、不幸や凶事と言われるものかもしれません。

しかし、最悪に思えたことが、その人の成長にとって最善の出来事だったことが往々にしてあると考えられます。

シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「苦難は人間から見ればいやなものでしょうが、私たち霊の立場から見れば実にありがたいことです。凶事に出会うと人間は万事休すと思いますが、私たちの目から見ると、それが新たな人生の始まりであることがあります。」

地上にいる私たちと、霊界にいる人では、出来事の捉え方が全く逆のようです。



華々しい活躍を続け、オリンピックでは金メダルが有望なアスリートが、大会を前にして生命を脅かす病気になりました。

そして、病気をほぼ克服し、選手として復活しています。

もし、病気にならずにオリンピックで金メダルを取れたならば、もちろん応援している人たちは喜ぶでしょう。

本人の挑戦や努力は、自らの成長として報われます。



それよりもずっと大切に思えることがあります。

病気を克服して復活している姿は、今苦しんでいる人たちに、どれほどの生きる力、勇気と希望を与えているのでしょうか?

そして、夢を諦めてはいけないことを教えているのでしょうか?

その貢献度は計り知れません。



彼女は無宗教でしょうが、2年前の1番つらい時にこんなことを言っています。

「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。」

病気にならなければ、この叡智は与えられなかったのかもしれません。



東京オリンピックの開催は、日に日に難しくなっていると感じています。

彼女があの舞台に立つことがあるならば、その姿を見て魂に響くものを感じる人が、たくさんいるでしょう。

人に勇気と希望と生きる力を与えるのが、地上での目的だと思います。



魂の成長とは、平たく言えば、強く優しくなることだと思います。

地上を去った後、人生を振り返る時が来ます。

最もつらく、苦しかったあの時が、自分を1番強く、優しくさせていたことに気付くでしょう。

神の公正は完全です。



2021年3月28日日曜日

感謝の気持ちを表現する


感謝の気持ちを表現するのは人間だけである。

そうなのでしょうか?

今から20数年前のことです。

道端にツバメのヒナが落ちていました。


後で知ったのですが、ツバメのヒナはそのままにしておくのが良いそうです。

落ちているヒナの近くには親鳥がいて、餌を運んで来るそうです。

そんなこととは知らずに、このままでは死んでしまうと思い、家に連れて帰りました。



幸いにも、ヒナは人間の手から餌を食べてくれました。

すくすくと成長し、部屋の中を元気に飛び回るようになりました。

ある日、窓を開けておいたら、空に向かって勢い良く飛んで行きました。


数日後のことです。

居間にいると、窓の外でバタバタとホバリングをしている鳥の姿が見えました。

こんなところで何をしているんだろうと近寄ってみると、何と部屋から飛んで行ったツバメみたいです。

数秒間、部屋の中を覗くように見ていて、しばらくするとどこかに飛んで行きました。



餌をもらっていたので、ここを巣のように思っていたのでしょうか?

そうではなく、私には何かを伝えに来たように見えました。

不思議な体験でした。



相手が自分にしてくれたことに対するお礼の意を表すことが感謝です。

言葉にすると「ありがとう」になります。



けれども、相手がしてくれても、感謝の気持ちを口にしない時もあります。

例えば、職場で部下に当たる人に指示をして、何かをやってもらったとします。

上司の指示通りに部下がやるのは当然と思ってしまうと、ありがとうの一言が出なくなってしまいます。



地上では、何かしらの肩書が付いて回ります。

仕事では、課長、部長、社長などの肩書があり、上下関係が存在します。

家庭では、父親、母親、夫、妻、兄、弟、姉、妹などの関係性が存在します。

部下だから、夫だから、妻だから、やってもらうのが当然と思うと、感謝の気持ちは薄らいでしまいます。



私たちが、次に行く世界はどうでしょう。

地上的な肩書は、全てなくなります。

肩書がなかった人も、絶大な権力を有する肩書の人も同列になります。

もし、高い役職にいて命令ばかりをしていた人が、地上時代と同じ態度で他の人に接すれば、大きな恥をかくことになります。

意味もないものに拘り続けているように見え、哀れに思われるかもしれません。



次の世界で、その人を計る物差しは魂であり、霊性です。

魂から放射されているオーラには、その人の全てが刻み込まれています。

オーラの色によって、どんな想いでいるのかも知れてしまいます。

剥き出しになった自分(魂)を隠すものは、もうありません。



肉体がなくなると、状況は一変します。

食べて行くために働く必要はなくなります。

ローンや家賃、その他の金銭的苦労もなくなります。

想像するのが難しいかもしれませんが、思念が実体の世界なので、衣服や家など、必要と思ったものが直ちに具現化されます。

生きて行くために必要だった労力は、大幅に軽減されます。

そのために、自分から周囲に意識が向くようになります。

周囲のために何か役に立とうとする気持ちが、地上にいた時よりもずっと強くなると考えられます。



霊界は無限の界層が連なっています。

上の界層に行くほど役に立とうとする想いが強くなり、人々の光輝は増して行きます。

人のためになろうとする想いに満ち溢れている世界は、きっと天国のように感じられるでしょう。



全宇宙に、不変の自然法則が貫いています。

基幹をなしているのが因果律の働きです。

原因と結果であり、自分のやったことが、自分に返って来ます。

誰かのために何かをすれば、因果律の働きにより、誰かが何かをしてくれます。

感謝の意念がインスピレーションとして伝わって来ることもあるでしょう。



それに比べて、地上は不完全な世界です。

因果律の働きの顕現も不完全です。

誰かのために何かをしても、何も返って来ない時も多くあります。



霊界では、自分の想いは相手に直接伝わります。

地上では、言葉など肉体で表現しなければ伝わりません。

きわめて煩わしい世界に生きているのですが、それが当たり前と思い込んでいます。

表現して伝えるのは、気力と勇気がいるので、魂と精神を鍛錬する意味もあるのかもしれません。

どんなに思っていても、言葉や行動で示さない限り、地上では感謝の気持ちは伝わらないのです。



印象的な人がいました。

仕事でお会いしたご老人ですが、感謝の気持ちを会う人会う人に言葉にしていました。

この人は一体 1日に何回「ありがとうございます」と言うのかと考えてしまうくらいです。

しかも、口先だけの言葉ではなく、心のこもったものでした。

自分が受けるものを、何でもありがたいと感じられる徳性を持った人なのでしょう。



そんな人は幸せになれると感じました。

人は感謝されると、悦びのようなものを感じます。

その人のために何かをすると感謝されて悦びを感じるために、もっと何かしてやりたいと思います。

多くの人に感謝する人は、因果律の働きにより、多くの人から良くしてもらえます。

別に期待しているわけではありませんが、自然にそうなります。

けれども、いろいろな人がいて、そうなるとは限らないのも、また地上です。



もし、感謝と言う概念がなかったとしたらたらどうでしょう?

車を運転していると経験しますが、道を譲るとハザードランプを点滅させてお礼をされます。

それがないと、何か物足りないような感じがする時もあります。

求めてはいけないのですが、お礼をされた方が気持ちが良く、次も同じことをしようとする気になれるのは確かです。



ふと、思ったことがあります。

地上の人には、霊的に成長し、歩むべき人生を歩むように、一生涯に渡って守護霊が付いています。

物事が上手く行った時や、危険が回避された時など、無形の援助を受けている可能性が高いです。

それは守護霊に与えられた役割なのですが、同じ人間の心を持っているので、地上の人から感謝されればうれしいに決まっています。(霊性の高い霊ほど感謝は神に捧げることを望むようです)

地上の人との関係はより強固のものとなり、その先も喜んで守り導いてくれるでしょう。

お陰様で、という言葉をよく使います。

「陰」とは、神や背後にいる霊のことを指していて、先人はそのことを知っていて感謝していたと考えています。



良く考えてみると、食べている物のほとんどは、自分では作れません。

着ている服も、自分で作ることも出来ません。

この世界は、1人では生きて行けないのです。

自分が出来ることをしたり、自分が出来ないことをしてもらいながら、この世界は営まれています。

お金を払っているのだから、役割だから当然と考えてしまうと、感謝の気持ちを伝えるのを止めてしまいます。

自分が出来ないことをしてもらった時に、素直に感謝の気持ちを表現できるようになりたいものです。

何故なら、当たり前のようにお互いを活かし合う次の世界において、感謝の意念は円滑に生活を営むために必要不可欠なものであり、周囲との間に調和を生み出すと考えられるからです。



愛に唯一の報酬があるとすれば、それは感謝の意念かもしれません。

愛と同じく、感謝も神の属性だと思います。

そうであるならば、神が内在している魂(生命)には、元々感謝の気持ちが備わっているはずです。

あの時のツバメは、お礼をしに来たと思っています。







2021年3月21日日曜日

魂が目覚めるとは?


東日本大震災から10年の月日が経ちました。

先日のニュース番組で、津波で小学生6年生のお子さんを失ったご両親へのインタビューが流れていました。

その中で「あれから時間が止まったまま」と、お父さんは言っていました。

当時、小学校6年生であれば、生きていればもう成人しています。

しかし、ご両親の心の中でお子さんの姿は10年前のままです。

成長が止まっているお子さんと共に、ご両親の時間も止まっていると思いました。



亡くなった人は、跡形もなく消えていなくなりました。

存在を感じることは、もう出来ません。

それにもかかわらず、残された人の中に「見守ってくれている」、「また会える」と口にする人がいます。

いなくなってしまった、もう会えないと思うと、いたたまれなくなるので、希望を持つためにそう考えるようにしているのでしょうか?



直感的にそう感じていると、私は思っています。

これ以上ない悲しみの中で、魂が目覚める人がいます。

目覚めた魂が、霊的な事実を見い出すことがあります。



それでは、魂が目覚めるとは、どんな状態のことを指すのでしょうか?

魂は生命そのものであり、永遠の存在です。

偶然ではなく、それぞれに目的があって、私たちは地上に生まれて来ました。

生まれたばかりの赤ちゃんは肉体をまとっていますが、少し前まで霊的な世界にいて、魂(霊的な自我)が剥き出しになっているように見えます。


しばらくすると、「地上的な自我」が形成されて行きます。

地上的な自我は、その人のパーソナリティとも言っても良い存在です。

魂(霊的な自我)から生じた思念を、パーソナリティである地上的な自我を通して、肉体を使って表現しています。

表現が適切か判りませんが、魂が外界と接触するためにある、地上だけの「顔」と考えられます。



地上的な自我は「顔」であると同時に、環境から自分を守ったり、より快適に過ごすために、重要な役割を果たしていると考えられます。

自己防衛本能と地上的な欲望を併せ持った存在と言えます。

危険を察知して逃避するのも、地位やお金を得ようとするのも、地上的な自我の働きと考えられます。

俗に「エゴ」と呼ばれているものは、地上的な自我のことを指していると思います。



日常生活のほとんどは、地上的な自我の働きにより営まれています。

仕事や作業をしたり、頭を使って考えている時は、地上的な自我が優位になっています。

そのために、多くの人は普段、表に出ている地上的な自我を自分自身だと思っています。



本当の自分とは、その奥に控えている霊的な自我(魂)です。

表には出て来ませんが、霊的な自我には生まれる前の記憶がしまわれています。

そして、生まれて来た目的、予定されている人生、寿命を自覚しています。

死ぬと、地上的な自我は消えてなくなり、霊的な自我が直接表現されるようになります。



普段の自分(地上的な自我)に取って代わり、霊的な自我が表に出て来る時があります。

目の前で溺れている人を見て、助けようとする時がそうです。

また、良くないことをしようとして、ためらっている時もそうです。

霊的な自我には良心(神)が内在されていて、そんな局面において呼び覚まされます。



私たちには、生まれる前に決めていた、およそのシナリオがあります。

決めていた人との出会いや、成長を促すような機会が巡って来た時に、何かひらめくものを感じるかもしれません。

予定された人生を歩むために、重要な局面が訪れた時に、霊的な自我が表に出て来て、道を指し示すと考えられます。

そんな時は、頭で考えないで、直感で行動しています。



他にもあります。

深刻な出来事が起きた時です。

日常生活のちょっとした出来事が起きたら、普段の自分(地上的な自我)で対処しています。

しかし、普段の自分で解決不能な出来事が起きた時に、霊的な自我が表に出て来て主導権を握ると考えられます。



朝、元気だった人が、物言わぬ姿となって帰って来る、これほど信じがたく、過酷な現実は見当たりません。

目の前にある現実は、寸毫たりとも変えることは出来ません。

役に立たない地上的な自我に代わり、霊的な自我が表に出て来た人も、多いはずです。



大切な人を失った人は、津波が悪魔の様に思えるかもしれません。

全ての現象は、自然法則の働きにより起きています。

津波は自然現象の一部であり、自然法則の働きによって起きています。



自然法則を創造したのは神です。

従って、神は津波によって作り出された現実の、全ての責任を負っていると考えられます。



神は、完全なる愛であり、完全なる叡智です。

神が完全なる愛であり、宇宙の隅々まで行き渡っているのであれば、大切な人を津波で奪い、絶望の淵に陥れる、こんな惨い現実を作り出すとは考えられません。

神の叡智が完全であるならば、ある人は津波を逃れ、ある人は巻き込まれて亡くなってしまう、こんな不公正な現実が作り出されるはずはありません。



もし、命が地上だけに限られているのならば、神などいないと思っても仕方がありません。

希望でも、慰めでもなく、亡くなった人たちは、生まれる前にいた境涯に戻り、元気に暮らしています。

自然法則の働きによって、地上を去ると生まれる前にいた境涯に戻ります。



最初は、何が起きたのか判らずに、戸惑ったかもしれません。

しばらくして、起きたことを理解し、その境涯で思う存分に自分を表現しながら、満ち足りた生活を送っていると考えられます。

生まれる前にいた境涯は、地上よりはるかに自由で快適な世界です。

神の公正は完全に保たれているのです。



もし、地上に戻りたいと思う時があるとすれば、それは未来が奪われてしまったと、嘆き悲しんでいる愛する人の姿を見ている時です。

願いは1つです。

元気でいて、未来は全く奪われていないと言う事実を、知ってもらうことです。



地上に残された人たちにも、自然法則は働いています。

突き付けられた解決不可能な現実により思考が停止し、それに伴って地上的自我の働きが弱くなります。

代わって霊的な自我の働きが強くなります。

深い悲しみは、心の奥深くに働きかけて、魂を目覚めさせます。



魂が目覚めると、地上的な自我が求めていた、地位やお金などはどうでも良くなります。

生命や愛など、霊的なものに意識が向くようになります。

自分を守るために、バリアのような役目を果たしていた地上的な自我の働きが弱くなると、相対的に霊的な感受性が高くなります。

目に視えないものを感じたり、霊界からインスピレーション(メッセージ)を受け取りやすくなります。


「見守ってくれている」、「また会える」と言っているのは、その人の希望ではありません。

変わることのない現実、そこから生まれる悲しみにより、魂が目覚めて、意識の焦点が変わり、直感的洞察力により霊的な真実を感じ取っていると考えられます。

理屈ではありません。

その人のオーラを感じたり、無意識の内に想い(インスピレーション)を受け取っていることもあるでしょう。

そこはかとなく存在を感じている人は、決して少なくないと思います。



いくら頭で考えても、分からないことがあります。

向こうにいる人たちの切実な願いは、地上の人の魂が目覚めて、霊的な真実を分かってもらうことです。



参考ページ:「魂(生命)に目覚める意味」





2021年3月14日日曜日

苦しみの中で変わって行く


何のために生きているのだろう?

若い時に、漠然とこんなことを考えることが良くありました。

しかし、答えは見つかりません。

その答えを宗教が示してくれるのかもしれませんが、良いイメージがなかったので、関わることはありませんでした。



そんな疑問などすっかり忘れて生きていましたが、40代半ばに差しかかった時に、突然、ヒーリングの力が出現しました。

直後に「シルバーバーチの霊訓」(霊的真理)に出会い、続けざまに人生を揺るがすような出来事が起きました。

無我夢中になって読んだその本の中に、若い時に抱いていた疑問に対する答えが書かれていました。



生きている理由は、至って単純でした。

自分を成長させるためです。

本当の自分とは、目に視える肉体ではなく、目に視えない魂です。

生命そのものである魂を成長させるために、私たちはこの世に生きています。



宇宙の中には、無数の知的生命体がいると考えられます。

その中でも、人類は高度に進化していると多くの人は思っています。

実際は、そこそこの知性と、未熟な霊性を併せ持つ、進化の程度の低い存在のようです。

その証拠に、同じ惑星の中で争いは絶えず、多くの生き物たちが虐げられています。



霊性の進化に伴って、知性が高まって行くようです。

霊性が未熟なのに、知性ばかりが発達してしまうと大きな問題が生じます。

その最たる例が、原子爆弾です。

アインシュタインに知的なインスピレーション(E=mc²)を与えるのが早過ぎたと、霊界はきっと悔やんでいると思います。



未熟な霊性を、少しずつ進化させて行くことが、生命に課せられた宿命です。

神と同じ霊性に到達したならば、進化の過程は終わりますが、それには永遠の時が必要なようです。

地上で生きる年月は90年位です。

死んで次の世界(霊界)に行きます。

次の世界においても、霊性を進化させる行程は続きます。



地上と霊界の大きな違いは、肉体があるかないかです。

肉体があると、意識が自然に自分に向いてしまいます。

霊界に行き、肉体から解放されると、意識は周囲に向かい始めます。



地上では肉体しか視えないので、個々の存在はそれぞれ独立しているように思えます。

霊界では、個々の存在の間に霊的なつながりを感じます。

自分は独立した存在ではなく、全体の中の一部であることが認識されます。




オーケストラは、それぞれの楽器がお互いに活かし合い、美しいハーモニーが生まれます。

人間も同じであり、お互いを活かし合う中で、全体に調和が生まれます。

死んで霊界に行くと、調和の大切さが身に沁みて感じられ、全体の中で自分をどう活かすかに意識の焦点が向きます。

より活かすためには、それ相応の資質を身に付けなければいけません。



霊界には周囲に自分と同じような人たち(類魂)しかいません。

お互いに考えていることが判り、同じような想いを共有しています。

人間関係の煩わしさは全くなく、生活は快適そのものです。



一方、地上は生き方や考え方が違う人たちの集合体です。

そのため、人と交わると自分との違いを感じます。

生まれる前にいた境涯がそれぞれ違うので、やむを得ないことです。



肉体を持つと、それに付随した精神(地上的な自我)が生まれます。

地上的な自我は、地上を安全に快適に生きることを志向しているので、多かれ少なかれ自己中心的な性質を帯びています。

そのために、自我を主張し合うと、相違から反発が生まれます。

反発を受けると、精神的な苦痛として感じます。

精神的苦痛を回避するために、自我を抑えて、周囲と協調することが求められます。



地上では、自分とは違う意見を認めて、尊重しなければいけません。

同類の人たちしかいない霊界では、自分と違う意見を認める行為はありません。

違いを認めるのは、ある種の苦痛を感じる行為であり、その中で魂の資質である寛容性が身に付くと考えられます。



地上では、肉体があるが故の苦痛が存在します。

電車の中で見知らぬ人に足を踏まれ、痛かったら、思わず怒鳴りたくなるかもしれません。

怒鳴ったら、周囲の調和を乱してしまうために、多くの人は我慢します。



中には、わざと苦痛を感じさせるような人もいます。

そんな人には、どうしても怒りが抑えられなくなってしまうでしょう。

相手に報復をすれば一瞬、怒りが治まるかもしれません。

しかし、因果律の働きにより、さらに怒りが生じる様な出来事が起きてしまう可能性もあります。



怒りは厄介な代物です。

神の心(愛)に反しているために、非がなくても苦しみとして感じてしまいます。

苦しみから逃れるためには、報復するのではなく、怒りを鎮めなければなりません。

そのために、神の摂理の働きを学ぶ必要があります。



全ての行いには、神の摂理が厳格に働いています。

(報復しなくても)その行為に対する相応の苦痛を伴う償いが、因果律の働きによって生じます。

神と神の摂理の働きに、全幅の信頼を置けたのならば、摂理に反した想いを抱いて苦しむことはなくなります。

怒ったり憎んだりするのではなく、無知を哀れむことを、神は望んでいると思います。



自分と違う人たちに囲まれて生活することに、地上に生まれた意義があります。

苦しみから解放されるために、周りではなく、自分が変わることが求められます。

変わって行く過程において魂は成長し、霊界でより周囲と調和するための資質が身に付けられて行くと考えられます。



病気や障害の苦しみも、地上だけのものです。

多くの病気の原因は自分にあり、正すために生じていると考えられます。

病気の苦痛は、長い間自我に埋もれていた魂を目覚めさせ、本来の自分を取り戻すためにある触媒と言えます。

魂が目覚めると、今まで大切に思えたものがどうでも良くなり、霊的に大切なものが視えて来ます。

霊界の人たちと同じ様に、周囲のために役に立ち、調和を意識した生活を送るようになる人もいるでしょう。



障害は、一生付き合わなければならない場合も少なくありません。

その苦しみは、経験した人でなければ理解できません。

現実は、どうしても変えられません。

変えることが許されているのは、自分だけです。

自分自身が、苦しみを感じないような生き方や考え方に変わって行くしかありません。

生きているだけで負荷がかかっています。

霊界に行って解放された時、地上で培った忍耐力、寛容性が如何なく発揮されて、周囲との調和が計られるはずです。



もし、償いによって病気や障害が生じているのであれば、時期が来るまで変われないと考えられます。

しかし、償いが終わったならば、外面は変わらなくても、内面が変わることで、精神的苦痛から解放されるはずです。



スポーツの世界で向上しようと思ったら、練習しなければいけません。

厳しい練習を積むことで、スキルが向上して、精神的な面も鍛えられます。

楽しいばかりの練習では、向上は望めません。



人生も同じです。

試練を乗り越えようとする中で、成長するようになっています。

楽しいばかりの人生では、向上は望めません。



子供の時に読んだ、「アリとキリギリス」の話を思い出します。

アリが毎日苦労をして食糧を貯えているのは、冬に備えてです。

苦労を経験しているのは、来るべき次の世界での生活に備えてです。

そのために計画されていた出来事を、今、経験しています。

キリギリスを羨んではいけません。



神の摂理の働きは完璧です。

不公正は一切ありません。

苦しみの果てに待っているのは、成長した悦びです。

その悦びを、霊界で待っている人たちと分かち合います。

魂の成長として実を結び、次の世界で活かされます。

全てが報われます。



経験することでしか、学べないことがあります。

そして、共有出来ない想いがあります。

地上で学んだことが、周りのために活かされ、深く想いを共有することで、全体の調和が促されます。



向上進化には苦しみが付きものです。

今生の苦しみは、次に待ち受けている世界で、より神の心を表現し、調和する悦びを味わうためにあります。






2021年3月7日日曜日

ドリームボックスについて


日本には、いくつもの「ドリームボックス」があります。

私の住む県にも、人里離れた山奥にあります。

○○県動物愛護センター、あるいは○○県動物管理センターと呼ばれる施設の中にあることが多いです。

各市町村の保健所に収容されている犬猫たちがその施設に集められ、期日が来ると自動追い込み式炭酸ガス装置、俗称「ドリームボックス」に入れられて、この世の最期を迎えることになります。(薬剤投与で殺処分を行う自治体もあります。)



「32743」この数は2019年度に、日本で殺処分された犬や猫の数です。

平成元年度を調べてみると、信じられないことに100万匹を超えていました。

少なくはなりましたが、0にならなければいけない数字です。

ショッキングな画像がありますので、現実を知りたい方だけご覧になって下さい。



数百年後の子供たちには、戒めの気持ちを込めて、きっとこう伝えられると思います。

「あの時代の人たちは、アウシュビッツの悲劇は2度とあってはならないと言いながら、全く同じ行為を罪のない動物たちにしていた」と。



以前の私は、保健所に収容されている動物たちが辿る運命を知っていても、ただ可哀想と思うだけでした。

霊的真理を受け入れてからは、何とかしなければと強く思うようになりました。



少し前の話です。

出身高校の同窓会の懇親会がありました。

その会に私の住む街の市長が同席していて、たまたま話をする機会がありました。

この機会を逃してはいけないと思い、動物たちが置かれている現状や、自分の思いを率直に伝えました。

急にそんな話をされて、びっくりしたでしょうが、耳を傾けてくれたようです。

しばらくして、「後で市長室に来なさい」と言われました。



またとない機会を得たので、動物愛護に特に力を入れている自治体のことを調べました。

そこで判ったのは、自治体によって大きな温度差があると言うことです。

力を入れてない自治体が多く存在する中で、目覚ましい成果を上げているところもありました。

その当時、際立っていたのが熊本市です。

熊本市は、保護された犬猫たちの命を、積極的に助けようとしていました。

保健所の職員の人たちは、休日返上で収容した動物たちの世話をして、新しい飼い主を見つけるための譲渡会を開いていました。

その努力により、殺処分する犬猫の数が0を達成していました。

こんな保健所が、日本にもあるんだと思いました。



後日、私の妻と妻が所属する動物愛護団体の代表の3人で、市役所を訪ねました。

市長室の広さに少々驚きましたが、長いテーブルの隅に市長とともに座りました。

持参した資料を見てもらいながら、熊本市を中心に動物愛護に力を入れている自治体の取り組みを説明しました。

しばらくした時、何か思うところがあったのでしょうか、急に秘書を呼んで「熊本市の資料を集めるように」と伝えていました。

人だけではなく、動物たちの命も考えてもらうことを願いながら、市役所を後にしました。



そんなことなどすっかり忘れていました。

しばらくして、変化があったことに気付きました。

私の住む市でも、保健所が主催する犬猫の譲渡会が開かれるようになりました。

市が発行している広報にも犬猫の譲渡会の記事が載り、市民の知るところとなりました。

多くの市民が譲渡会に足を運び、保健所にいた犬猫たちに、新しい家族が決まりました。

聞くところによると、職員数名を熊本市に派遣して、動物愛護事業のモデルにしたそうです。

市長に熊本市の話をしたことがきっかけで、この様な展開になったのかは定かではありませんが、もしそうであれば、思い切って話をして本当に良かったと心から思いました。



シルバーバーチの霊訓に、こんな一文があります。

「霊界から大々的に援助を受けていると言う事実を分かって欲しいのです。」

「皆さんは自分で気づいている以上に、霊界からいろいろと援助を受けています。」

振り返ってみると、懇親会で市長に会った時、何の躊躇もせずに動物たちのことを話そうと思ったのも、市長室で慣れないプレゼンテーションが無事に出来たのも、自分の力だけではなく、霊界の援助があったと思います。

こいつの話をもう少し聞いてみようと市長が思ったのも、熊本市と同じことをやってみようと決断したのも、霊界の働きかけがきっとあったと信じています。



人の力には限界があります。

「何をしても現状は変わらない」「やっても無駄」と、理由を付けて最初から諦めてしまうこともあります。

しかし、地上の人の想いと霊界にいる人の想いが一致したのならば、視えない援助の力が加わります。

ある時はインスピレーションの形となり、ある時は内から湧き出す力となって、一歩を踏み出たしたり、前に進んで行く力となります。

必要な人と、出会わせてくれることもあるでしょう。

地上の人は霊界の援助を受けて、持っている以上の力が発揮されて、思っていた以上の結果が得られることがあります。



霊界の人たちは、地上の人間の犯す過ちをたくさん見ています。

その中でも、罪のない動物に対する酷い仕打ちには、心を痛めていると思います。

人間と動物は、生命として同列です。

しかし、勝手に優劣を付けて、動物たちを蔑ろにしています。

搾取、虐待、屠殺、その他不当な扱いを受けている地上の動物たちの悲鳴(想い)は霊界に届き、何とかしなければならないと、強く思っているでしょう。



もし、動物愛護に関わる人がこのブログを観ているのであれば、伝えたいことがあります。

動物愛護に協力している霊界の存在はたくさんいます。(その先頭に立っているのが、アッシジの聖フランチェスコと言われています)

思い切って行動に移してみると、何か変わるかもしれません。

1人の力は小さくても、動物を慈しむあなたの想いに、霊界の存在が引き付けられ、援助の力が加わり、好ましい結果が生まれると考えられます。

動機が動物のためであれば、動きそうにないものが、動くことがあります。

最初の一歩を踏み出すのは、地上の人の意思です。

踏み出した後は、霊界から惜しみのない援助が得られ、想いは具現化して行きます。



話は変わります。

「ペットは死後も生きている」(シルビア・バーバネル著・ハート出版 絶版)という本があります。

その中に、イギリス有数の霊媒であるレナード女史が幽体離脱をしている時に垣間見た、動物たちの死後の様子が書かれています。

ちょっとショッキングな内容になりますが、転載します。

「ある夜、肉体から出たあと私は、いつものように上昇して行かないで、無理やり水平飛行をさせられているような、重苦しい感じがした。気がつくと、暗くて狭い通りに立っていたーというよりは、立っている姿勢を保っていただけで、地面に足をつけていなかった。足元が汚泥で気持ち悪かったからである。

 あたりを見回すと、家畜小屋のような汚い建物が密集していて、建物と建物の間は人間がやっと通れるほどしか空いていない。が、ところどころ、広く空いているところがあり、そこから囲いのある広い敷地へと通じている。

そこから中をのぞいてみると、そこには動物の群れがいる ー仔牛、豚、羊などー が、みんな死んでいる。いや、生きているー地面に横たわったまま身体を動かしているのだ。私はピンと来た。今しがたと畜(殺)されたばかりなのだ。

私は、ありたけの精神力をふりしぼって、その光景を見つめた。よほどの精神力がないと、とてもみられたものではなかった。それほど惨たらしい雰囲気に包まれていたのである。私はこれまで、平均的人間が死後に赴く世界をたびたび訪れてきたが、この場所はそれとはまったく異なり、一種異様な恐ろしさが漂っていた。が、それが一時的なものであることは私にも分かっていた。が、ともかくも私にはこれ以上その状態を叙述する気にはなれない。

そのうち誰かが語りかけているのを感知した。姿は見えず、遠いところにいるような感じがした。あとでその声の主は私の背後霊団の一人であることが分かったが、その霊が教えてくれたところによると、その動物たちが置かれている場所は地球と幽界との中間に位置しているとのことだった。

あの惨たらしい雰囲気は、人間の食糧として毎日のようにおびただしい数の動物が物的身体を奪われていく、その忌むべき行為から生まれるもので、物質界にきわめて近接した界層にあり、本格的な幽界に入らない中間地帯であるという。

その恐怖と苦痛、それに、誰をということもない恨みの念があたりに渦巻いていて、それが建物や壁よりもなお強い存在感もって迫ってくる。さきほどの背後霊は、その念、その感情の波動を何とかしなければならないのだと言っていた。

それは動物たちがどれほど苦痛を味わっているのかの指標であるばかりでなく、それが地上界も霊的ならびに精神的大気を汚し、人間生活を毒し、進歩を阻害しているからだという」

レナード女史は、この経験をしてからは、動物の肉を食べるのを止めたそうです。それまでの女史は、肉を食べながらそれが、かつては人間と同じ大気で呼吸しながら大地を闊歩していたのだということ、そして、殺される時は人間と同じ苦痛と恐怖を抱いたのだということに思いが至らなかったと述べています。(転載終わり)




動物たちは、最期の瞬間の想いのまま、あの世に移ります。

「ドリームボックス」の中に入れられた犬や猫たちは、どんな想いであの世に行ったのでしょうか?

恨んでいたのでしょうか?

裏切られて悲しんでいたのでしょうか?

それとも、愚かな人間を哀れんでいたのでしょうか?


1人でも多くの人に現実と霊的真理を知ってもらい、地上からこんな過ちが早くなくなることを祈ります。





私たちにも出来ること


・肉を食べない

・皮革製品を買わない

・ペットを飼いたい時は、買うのではなく、保健所や動物愛護団体から譲渡してもらう

・飼いたいと言っている人がいたら、保健所や動物愛護団体から譲渡してもらうように勧める



参考ページ:「人は肉を食べる生き物ではない」




2021年2月28日日曜日

生まれ変わりの目的


人は死んだら生まれ変わるのか?

遠い昔から、世界中の人たちの間で関心があったようです。

「輪廻転生」と言う言葉を、時々聞きます。

「輪廻」は車輪がぐるぐると回転し続ける、「転生」は生まれ変わること、人が何度も生死を繰り返しながら生まれ変わることを意味しています。



仏教では、天界、人間界、阿修羅界、畜生界、飢餓界、地獄界があり、そのどこかの界に生まれ変わるとされています。

畜生界に行けば、人間ではなく動物や昆虫などに生まれ変わるようです。

もし、鳥に生まれ変わるとすればどうでしょう?

鷹であれば、外敵に襲われることもなく、自由に空を飛べるので、それほど悪くはないような気もしますが、同じ鳥でも養鶏場のヒヨコに生まれれば、過酷な運命が待ち受けています。

              


何度か生まれ変わって、今、この世界に生きているのは事実です。

しかし、人間は人間にしか生まれ変わりません。

それには理由があります。



この世に生まれて来たのは、決して偶然ではありません。

過去に生きて来た(過去生の)結果として、この世に生まれて来ました。

これまで生きて来た結果が、現在の自分です。

原因と結果の連鎖で、全てが1つにつながっています。



あの世に行くと肉体がなくなります。

肩書など見せかけの自分は消滅し、本当の自分(魂)が露わになります。

霊的に目覚め、新しい世界に順応して行きます。



しばらくすると、この世では意識しなかった、完全な存在(神)をありありと感じるようになるようです。

それに伴って、自分(魂)の足りない部分、不完全な側面が意識されます。

完全に近づきたい、より上に昇りたい、そんな衝動に駆られるようです。



あの世は、厳格な界層社会です。

その人の魂の成長度(霊性)によって、どの界層に赴くのか決まります。

上の界層には行きたくても行けず、下の界層には行く気にならないようです。



この世でも多くの人が、自分をより成長させたいと願っています。

あの世に行くと、その欲求がさらに強くなるようです。

上に昇るためには、叡智を学びながら、自らが成長しなければいけないからです。



私たちは、たくさんのことを学校で学んで来ました。

卒業した後も、仕事の知識や技術、家事の仕方、社会のルールなど、たくさんのことを学んでいます。

そして、教科書やマニュアルが存在しない霊的に大切なことを、経験を通して学びながら生きています。



小学校に入ると、まず数字を覚えて、足し算、次に引き算を習います。

次の学年になると、掛け算を習います。

数字を覚えなければ、足し算は出来ず、足し算が出来なければ、掛け算は難しくなります。



霊的に大切なことも、学ぶ順番があるようです。

幼い時は、得てして自己中心的です。

自分勝手な行動をして、仲間外れにされて、寂しい思いをしたりします。

そんな経験を通して、「自分勝手なことをしてはいけない」「周りと協調しなければいけない」など、霊的なことを学んでいます。

親や先生からも聞かされましたが、口で教えてもらうよりも、実際に経験して、それなりの代償を払った方が良く身に付くようです。



年を追うごとに、自分以外の存在にも関心が向いて行きます。

仲の良い友達が出来て、一緒に遊んだりして想いを共有します。

助け合ったり、励まし合ったり、慰め合ったりして、「友好」を温めて行きます。



学校を卒業して社会に出ると、組織の中に身を置くことになります。

金銭をもらう代わりに、会社やお客様のために、労働という形で「奉仕」をするようになります。

人や社会に喜んでもらうと、自分の喜びになることを知るかもしれません。



結婚すると自分だけではなく、配偶者のことも考えて生活するようになります。

子供が生まれると、子育てを優先した生活を送るようになります。

自分よりも大切に思える存在があることを知るかもしれません。



大きくなるのに従って、自分だけではなく、他者のことを意識して生きるようになります。

自分のためから、他者のために生きるようになって行きますが、それが本当の意味での人間の成長と言えます。

誰もが同じような過程を辿るのは、学んで行く順番があるからです。

生まれてからこれまでに起きた出来事は、自然法則の働きを学び、成長するためのかけがえのない機会となっているはずです。

私たちは段階を踏みながら、他者への奉仕が無理なく出来るように、無限の叡智によって導かれています。



そうは言っても、地上に生きる私たちには肉体があります。

そのために、どうしても自分に意識が向いてしまいます。

世界中で、新型コロナウイルスが流行しています。

既に治っているにも関わらず、感染した人を避けたり、差別的な言動を取ってしまう人がいると聞きます。

自分が移されたくない気持ちの表れだと思います。

肉体があるために、自分を守りたい気持ちは生まれながらに備わっていますが、それに打ち克って、思いやりや優しさを表現することで、魂は成長して行くと思います。

そのために、この世に生まれて来たと言えます。



人間(魂)は多面的です。

誰でも、(神の摂理に適っていない)不完全な側面を持っています。

いくつかの不完全な側面を表に出して生まれて、その側面が表現されると、苦痛を伴う出来事が生じます。

肉体的、精神的苦痛を味わうことにより、不完全な面が正されて行きます。

魂が完全に近づくために、苦痛のある地上に生まれるのが早道と考えられます。

過去生と今生のパーソナリティが同じでないのは、表に出ている側面が異なるためと考えています。

生まれ変わりを繰り返す度に、不完全な側面が正されて行き、地上で正すことがないほどの魂になったら、生まれて来る必要はなくなります。



不完全な側面は、その人の欠点として認識されます。

そこを正すために敢えて前面に出して生まれて来たのであり、自分自身にも不完全な側面はいくつもあるので、咎めてはいけないと思います。

不完全さ(欠点)を認め合い、許し合うことで争いはなくなり、魂も成長して行くと考えられます。



時に、地上的な欲望が強くなり、自分のことしか考えなくなってしまうと、神の摂理に反した行いをしてしまいます。

摂理に反した行いをする前に、内在する良心(神)がやめるように訴えていますが、その声を無視して行動に移すと、カルマ(業)が生じます。

カルマが生じたことなど知らなくても、因果律は厳格に作動します。

最適のタイミングで出来事が起きて、そこから生じる苦痛によって、罪を償うことになります。

蒔いた種の結果を刈り取らされているのですが、因果律の働きによるものと判らなければ、何で自分がこんな目に遭わなければいけないのかと、憤慨してしまうかもしれません。

死んだ後に、出来事の意味(原因)がはっきりと判ると、不平不満を言う人はいなくなるようです。



重大な摂理に反する行いをしたら、来生で償うことになるでしょう。

もし、身勝手な理由から、人を傷つけたり、その人の成長を妨げるようなことをしてしまったら、自らの成長を犠牲にして、その罪を償わなければなりません。

より上に昇ることを希求する魂にとって成長が許されないのは、自由を奪われるよりも苦痛に感じるのかもしれません。



もし、罪を償うために、動物に生まれ変わったとしたらどうでしょう?

他者のために生きられないので、成長は望めないでしょう。

動物の肉体に閉じ込められるだけであり、学ぶものもありません。

冒頭に書いたヒヨコや、食用となる動物に生まれたとしたらどうでしょう?

もし、学ぶことがあるとすれば、人間の怖さや残酷さだけのような気がします。

人間の意識を持ったまま、そんな動物たちに生まれ変わるとすれば、償いではなく、ただ拷問です。

そんな計画を、神が用意するはずはありません。



もし、人間として生まれ変わるとしたらどうでしょう?

身体を全く動かせない状況で生まれたのなら、他者のために生きることが出来なくなります。

それどころか、人の助けがなければ、生きて行くことが出来ません。

一生涯に渡って、助けを受けていれば、否が応でも人のために何かをする意味、その有難さを身を持って学ぶことになると思います。

全ての出来事は、神の法則の働きによって起きています。

従って、償いであると同時に、魂の学びにもなっていると、私は信じています。



何の前触れもなく出来事が起きたのならば、それは生まれ変わる前に決まっていたことかもしれません。

その出来事により、どれほどの苦しみや痛みが生じたとしても、目的が成長するためなので、耐えられないことはありません。

誰かのせいにしたり、不平不満を言ったり、運命を呪ったりすると、その分だけ苦しみや痛みが大きく感じられるかもしれません。

例え原因が判らなかったとしても、成長のために起きているのは確かであり、生まれ変わる前の自分は承知していたはずです。



生まれ変わりは、何の目的もないまま、機械的に繰り返されるのではありません。

目的の全ては、魂の成長のためです。

人間が人間に生まれ変わるのは、人間の中で生きることでしか、不完全さが正されず、罪も償えず、教訓も学べないからだと思います。





2021年2月21日日曜日

死んでも意識はなくならない


私は今年で60才になります。

月日が経つのは早いものです。

昔の私でしたら、あと30年位しか生きられないと寂しく思ったかもしれません。

霊的な知識を得た今は、あと30年位で向こうに行けると思うようになりました。



向こうの世界に行くには、あることを経験しなければいけません。

それは「死」です。



私にとって、死は怖いものでした。

死ぬと意識がなくなってしまうと考えていたからです。

自分自身が消滅してしまうのが、無性に怖かったのです。



医学的に、脳の活動が完全に停止(脳死)した状態が、人の死と定義されています。

脳の活動が停止すると、意識はなくなると考えられています。



本当に、脳の活動が停止すると意識がなくなるのでしょうか?

1991年、アメリカで行われた手術で、興味深い出来事が起こりました。

手術を受けた人は、パム・レイノルズと言う女性ミュージシャンでした。

彼女には、大きな脳動脈瘤があり、それを除去する手術が予定されました。

極めて難易度の高い手術であり、動脈瘤を除去するために、低体温下で心肺を停止させて、一時的に脳の血流を完全に止めなければなりませんでした。

全身麻酔を施すために、彼女の眼はガーゼで密閉され、耳には脳幹部の脳波が停止しているのを確認するために、100デシベルの音量の音楽が流れるイヤホンが装着されていました。

これによって、目や耳から外部の情報は一切入らなくなりました。

手術が始まる前、脳の血流が完全に止められ、予定通り彼女の脳波はフラットになりました。

心肺が停止し、脳の活動も停止し、人の死に当たる状態となりました。



手術が始まった時、彼女には驚くべきことが起きていました。

麻酔剤を注入され意識を失った後、脳波がフラットになっているのに、頭がい骨を切るのこぎりの音で意識を取り戻したそうです。

そして、執刀医の肩のあたりから手術の様子を眺めていたそうです。

また、医師のこんな会話も聞いていたそうです。

「静脈と動脈が細すぎる」


手術中に自分に起きていた不思議な出来事を、後で周りの人に話しました。

あり得ないことだと、家族は笑ったそうです。

ところが、現場にいた医師たちは青ざめたそうです。

彼女が語った内容と、手術室で起きていた出来事が完全に一致していたからです。

この事実は、しばらくの間、固く口留めされました。

その理由は、麻酔の効きが不十分だった可能性があり、医療ミスとして訴えられるかもしれなかったからです。

しかし、術中の脳波はフラットになっていたのですから、覚醒していた可能性は0%です。



手術中の女性に起きた出来事から、2つの事柄が導き出されます。

1つは、脳の活動と意識は全く関係ない。

もう1つは、意識は肉体から離れて存在し得る。



意識は、物質的なものではないことは明白です。

私が知っている霊(魂)の概念と一致しています。

意識の本体は霊(魂)と考えても良いのではないでしょうか。



偉人として世界中に知られているヘレンケラーは、人生観を変える体験をしています。

15,6才の頃に書斎にいながら、意識は遠く離れたギリシャのアテネに行っていたそうです。

その体験について、著書「私の宗教」の中で、こう書いています。

「私の霊魂が実在すること、しかもそれは場所や肉体の制約を完全に超えていることを悟ったのでした。何千マイルも彼方の場所をこんなにありありと“見たり”感じたりしたのは、私が霊そのものであり、そのことにもはや疑う余地はありませんでした。」

ヘレンケラーの意識は肉体から離れ(幽体離脱をして)、アテネの風景を霊的な眼で視ていたと考えられます。

五感を通さなくても、外の様子を認識することが出来たのです。

視覚と聴覚を失っているヘレンケラーにとって、その体験は驚きであると共に、大きな悦びであったのに違いありません。

ヘレンケラー


全ての現象を、脳の働きで解釈しようとする人がいます。

科学的に証明することが出来ない魂の存在を頑なに否定し、こじつけに過ぎない理論(仮説)を展開しています。

魂は物質を超えた存在です。

五感に触れるものではないので、普段意識することはありません。

そのために、自分の本質であるのにも関わらず、存在を信じられなくなっています。



そんな人たちに、1度聞いてみたいことがあります。

科学的に証明されていない「愛」は、存在していないのでしょうか?

脳が作り出した幻覚なのでしょうか?

実感したことがある人なら、確かに存在しているのが判るはずです。

愛の存在は肯定し、魂の存在を否定するのならば、それこそ科学的な態度ではないと思います。



それでも、目に視えない愛の存在を信じている人であれば、目に視えない魂の存在も信じられるようになるはずです。

何故なら、愛は魂から生まれて、魂で感じているものだからです。



さまざまな思念は脳ではなく、意識の本体である魂から生じています。

この世では、思念を肉体によって表現しています。

悲しければ涙を流し、怒れば怒鳴ったりします。

伝えたいことを言葉にしています。

コンピューターは、入力されたものを演算処理をして出力しています。

脳も同じで、精神から入って来た情報を処理して、肉体に指令を出しています。



この世に生きる私たちは、五感を頼りに生活をしています。

そのため、コミュニケーションには手間がかかります。

思念が生まれると、精神の働きによって、どう表現するべきかが決められ、脳から肉体に指令が出されて、肉体がそれに従って動き、外に向かって表現されます。

この一連の作業が無意識に行われています。

外に向かって表現されたものは、他者の五感によって受け取られ、脳で処理され、精神が認識し、それに応じた思念が生まれます。

コミュニケーションとは、その繰り返しです。



あの世に行くと、一気に簡略化されます。

思念は、インスピレーションとなって相手の魂に直接伝わります。

以心伝心なので、肉体や脳が存在しなくても良いのです。



あの世でもこの世でも、同次元の人同士とのコミュニケーションは、さほど難しくありません。

ただ、この世では思っているのと違うことを伝えたり、思っているのと違ったことが伝わったりします。

嘘が存在し、齟齬が生じるのがこの世です。

あの世ではあり得ません。



携帯電話が普及している現代において、直接会わなくても、コミュニケーションするのが当たり前になっています。

ところが、電話などの通信手段がなかった時代では、直接会って、コミュニケーションをしなければなりませんでした。

あの世の人にとってこの世の人は、携帯電話で会話をしている私たちが、電話がない時代の人たちを眺めているのと同じで、非効率で不確実な手段でコミュニケーションをしているように見えているはずです。



この世とあの世では、コミュニケーションの仕方が全く違います。

従って、次元を超えてコミュニケーションをするのには、どちらかが相手の仕方に合わせなければなりません。

あの世の人には、もう肉体はありませんので、この世の人に合わせるのは不可能です。



私たちは、五感(肉体)を通したコミュニケーションに慣れ切っています。

けれども、霊的な存在であることに変わりはありません。

思念を感じる能力が、元々備わっています。

その能力が賦活化されれば、コミュニケーションは可能なはずです。



この世にいる人とあの世にいる人の違いは、肉体を介して自己表現をしているか、介さずに表現しているかの差だけです。

この世にいる人も、睡眠中は意識は肉体から離れ、あの世に行き、肉体を介さずに自己表現をしています。

臨死体験をしている時もそうです。



手術中のパム・レイノルズさんですが、他界しているおばあさんに呼ばれて、意識が自然に上昇し始めたそうです。

トンネルのような場所を通り抜けると、そこは眩い光の世界で、光で出来たような人たちがいたそうです。

おばあさんの他に、他界した伯父さんもいましたが、なぜか先に進めないような気がしたそうです。

その後、伯父さんに付き添われて、トンネルの入り口まで戻りました。

そこにはシーツに包まれた自分の体が横たわっていて、それを見て怖くなったそうです。

伯父さんに背中を押し出されるように自分の体に入りましたが、冷たいプールに飛び込むような感じがしたそうです。



臨死体験をした人は、彼女のように他界した人たちと会っているはずです。

夢と一緒で、その時のことを頭で理解し切れないので、思い出せないのかもしれません。



死ぬと意識がなくなり無になると証明した人は、誰一人としていません。

死と言われる状態になっても、意識はなくならずに、肉体から離れて存在していたと証言している人はたくさんいます。

どちらが真実なのか、判り切ったことです。

不毛な論争はもう終わりにして、前に進んで行く時期が来ているのではないでしょうか。



心臓の鼓動は、いつの日か止まります。

それに伴い、脳の活動は完全に停止します。

瞳孔が散大して、医師が死を宣告するでしょう。

肉体は火葬されて骨になります。

けれども、意識は変わらずに存続しています。

死は怖くないのです。











2021年2月14日日曜日

真理の実践


世界にはたくさんの宗教があります。

以前の私は、宗教と聞くと、何やら胡散臭いものだと思っていました。

変わった教祖がいて、盲目的な信者がお布施を搾り取られている、そんなイメージしか持っていませんでした。



16年前になります。

ある朝、起きたらヒーリングの力が出現していました。

その後すぐに、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)に出会いました。

そして、人生を大きく揺るがす出来事が起こりました。

わずか1か月の間に、立て続けにあったので、「人生は計られている」と、思わざるを得ませんでした。

起きた出来事に追い詰められて行く中で、「因果律の働き」を思い知らされ、神と神の法則を信じるようになりました。

絶妙のタイミングで霊的真理に出会えたのは、霊界の導きによるものと確信しています。



霊的真理を知ったことにより、若い時から感じていた「何で生きているのだろう?」と言う疑問が解決されました。

死んだ後も人生は続いていることが判ったので、欲張って生きようとしなくなりました。

上辺ではなく、内面を視るようになりました。

他にもたくさんあります。

霊的真理は、計り知れない恩恵を私に与えてくれたのは間違いありません。



知っている人は、まだ知らない人たちに伝える責任が生じます。

キリストの12使徒は、各地を歩いて回り、口述でイエスの教えを伝えました。

そして捉えられ、殺されました。

その時代は、伝えるのも命がけでした。



今は、インターネットや書籍によって、自分の持っている知識を、世界中の人に知らせることが出来ます。

昔のように、捉えられ、殺されることもありません。

知りたい人は、簡単に情報にアクセスできるようになりました。

ところが、様々な情報が氾濫していて、何が正しいのか判らなくなっています。

真理に辿り着いたつもりで、とんでもない宗教(組織)に捕まっている可能性もあります。



人工的な教義に塗り固められた宗教に関わることなく、最短で無垢な霊的真理に辿り着いてもらいたいと思いました。

12年前にこのブログを開設しましたが、シルバーバーチの霊訓を読んでみようと言う気持ちを起こさせるのが目的でした。

軽い気持ちで始めましたが、真剣に読んで下さる人がいることを知り、気を引き締めて書かなければいけないと思うようになりました。

時々、内容に対する意見や感想を書いたコメントが寄せられましたが、そのうちに、ご自身が抱えている悲しみや苦しみや怒りを吐露されたコメントをいただくようになりました。

その度に、私自身が真理と向かい合うことになります。

抱えられているご事情は様々ですが、現実に打ちのめされている人が少なくありませんでした。

この世は、やはり修行の場であることを再認識しました。

そして、現実に起きていることの意味(目的)が、霊的真理の中に見い出せることに気付きました。

私がそうだったように、人生を一変させる力を霊的真理は持っています。



シルバーバーチは宗教について、こう言っています。

「私が説く宗教は実践の宗教です。1日1日の宗教-1日24時間、1時間60分、1分60秒、そのすべてを実践の時とする宗教です。それが私の評価の基準です。」

知っているだけでは、だめなようです。

生きている時間すべてが実践、とても難しい課題だと感じました。



ところで、実践とは何をするのでしょうか?

私にとって1番大切な実践は、霊的真理を伝えることだと思います。

自分が受けた恩恵を、他の人にも享受してもらうことです。

当初は、伝えなければいけないと力んでいましたが、必要としている人、求めている人は、私が考えていたほど、多くはありませんでした。

実際に、伝える機会が訪れるのは数ヶ月に1度位だったかもしれません。

それでも、必要としていると思ったら、ためらわずに伝えることが大切です。

今は必要なかったとしても、種を蒔いておくのは無駄にはなりません。

現実に打ちのめされる経験をした時に、ふと思い出してくれるかもしれないからです。



真理を伝えることも大切ですが、それ以外に何が実践できるのか考えました。

何か人や社会の役に立つことをしてみようと思いました。

仕事を完全に離れる期間があったので、身体障害者施設で活動支援のボランティアを始めました。



施設に入ると、私の全く知らなかった世界が拡がっていました。

印象的だったのは、重度の障害がありながらも、精一杯生きようとしている人たちの姿でした。

それを支えているスタッフの姿にも、感銘を受けました。

しかし、中には自分の身の不幸を嘆いている人もいました。

そんな人と話す機会が与えられたような気がしました。



生まれてから今までベッドの上で暮らし、好きなところへも行けず、何をするのも一人ではできません。

想像を絶する苦です。

この人にこそ、霊的真理が必要と思いました。

この世で終わりではない、今の肉体から解放されて自由になれる時が来ると伝えました。

神妙に聞いていた横顔は、今でも記憶に残っています。

ある時、その人のお母さんが来ていました。

息子さんを見る眼差しに、不憫に思う気持ちや罪悪感らしきものを感じましたので、「シルバーバーチの霊訓」を読むように勧めました。

答えを見つけていたのであれば、きっと読んでいると思います。

思い切って行動すると、伝える機会が広がり、真理の理解にもつながると感じました。



話を戻しますが、実践することは他にあるのでしょうか?

霊的法則の中で1番大切なものは、「互いに愛し合うこと」とシルバーバーチは答えています。

「愛し合う」と言うと大げさに聞こえますが、普段の生活の中で、何か役に立ったり、助けたり、優しくするのも、他者へ愛を表現していることになります。

それも立派な実践ではないかと思います。

小さなことですが、電車でお年寄りに席を譲るのも、困っている人がいたら声をかけるのも、運転中に道を譲るのもそうです。

悩みを聞いたり、慰めたり、勇気付けたりするのもそうです。

保健所にいる動物たちを家族として迎え入れるのも、肉を食べないのもそうです。

落ちているゴミを拾って捨てるのもそうです。

            


外に対しての、行いばかりではありません。

日常生活では、腹が立つことも起こります。

寛容の精神を発揮し、怒らずにやり過ごすのも実践です。

難しいことですが、人の過ちを許すのも実践です。

つらくても投げ出さずに、やり遂げるのも実践です。

簡単なものから難しいものまで、実にたくさんありそうです。

日々の仕事や家事をするのも、忘れてはならない実践だと思います。

そう考えると、実践することは、いつもあるような気がします。



特別なことではなく、誰かのためになっていたり、毎日を一生懸命生きることが、実践になっていると思います。

霊的真理を知っていなくても、人は実践しようと生きていると思います。

内なる声が、そうさせていると思います。



真理を知ることは、魂をより成長させる早道を見つけたことになります。

成長させる方向に進んで行かなければ、知った意味がなくなってしまいます。

魂が目覚め、真理を知ると、良心の声が聴こえるようになるはずです。

いけないと知りつつ過ちを犯すのは、知らない人よりも許されなくなります。



真理の実践とは、積極的に何かをすると言うよりも、良心に忠実になり、成長する生き方を心がけることかもしれないと思いました。

口で言うほど簡単ではありませんが、心がけていれば、悔いのない人生になると思います。



最後に、自戒の意味も込めてシルバーバーチの言葉で締めたいと思います。

「要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人に尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりはあった方がましです。が、その人の真の価値は毎日をどう生きたかに尽きます。」

「現在の我が身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけてないか、今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか、そう反省してみることです。」