感謝の気持ちを表現するのは人間だけである。
そうなのでしょうか?
今から20数年前のことです。
道端にツバメのヒナが落ちていました。
後で知ったのですが、ツバメのヒナはそのままにしておくのが良いそうです。
落ちているヒナの近くには親鳥がいて、餌を運んで来るそうです。
そんなこととは知らずに、このままでは死んでしまうと思い、家に連れて帰りました。
幸いにも、ヒナは人間の手から餌を食べてくれました。
すくすくと成長し、部屋の中を元気に飛び回るようになりました。
ある日、窓を開けておいたら、空に向かって勢い良く飛んで行きました。
数日後のことです。
居間にいると、窓の外でバタバタとホバリングをしている鳥の姿が見えました。
こんなところで何をしているんだろうと近寄ってみると、何と部屋から飛んで行ったツバメみたいです。
数秒間、部屋の中を覗くように見ていて、しばらくするとどこかに飛んで行きました。
餌をもらっていたので、ここを巣のように思っていたのでしょうか?
そうではなく、私には何かを伝えに来たように見えました。
不思議な体験でした。
相手が自分にしてくれたことに対するお礼の意を表すことが感謝です。
言葉にすると「ありがとう」になります。
けれども、相手がしてくれても、感謝の気持ちを口にしない時もあります。
例えば、職場で部下に当たる人に指示をして、何かをやってもらったとします。
上司の指示通りに部下がやるのは当然と思ってしまうと、ありがとうの一言が出なくなってしまいます。
地上では、何かしらの肩書が付いて回ります。
仕事では、課長、部長、社長などの肩書があり、上下関係が存在します。
家庭では、父親、母親、夫、妻、兄、弟、姉、妹などの関係性が存在します。
部下だから、夫だから、妻だから、やってもらうのが当然と思うと、感謝の気持ちは薄らいでしまいます。
私たちが、次に行く世界はどうでしょう。
地上的な肩書は、全てなくなります。
肩書がなかった人も、絶大な権力を有する肩書の人も同列になります。
もし、高い役職にいて命令ばかりをしていた人が、地上時代と同じ態度で他の人に接すれば、大きな恥をかくことになります。
意味もないものに拘り続けているように見え、哀れに思われるかもしれません。
次の世界で、その人を計る物差しは魂であり、霊性です。
魂から放射されているオーラには、その人の全てが刻み込まれています。
オーラの色によって、どんな想いでいるのかも知れてしまいます。
剥き出しになった自分(魂)を隠すものは、もうありません。
肉体がなくなると、状況は一変します。
食べて行くために働く必要はなくなります。
ローンや家賃、その他の金銭的苦労もなくなります。
想像するのが難しいかもしれませんが、思念が実体の世界なので、衣服や家など、必要と思ったものが直ちに具現化されます。
生きて行くために必要だった労力は、大幅に軽減されます。
そのために、自分から周囲に意識が向くようになります。
周囲のために何か役に立とうとする気持ちが、地上にいた時よりもずっと強くなると考えられます。
霊界は無限の界層が連なっています。
上の界層に行くほど役に立とうとする想いが強くなり、人々の光輝は増して行きます。
人のためになろうとする想いに満ち溢れている世界は、きっと天国のように感じられるでしょう。
全宇宙に、不変の自然法則が貫いています。
基幹をなしているのが因果律の働きです。
原因と結果であり、自分のやったことが、自分に返って来ます。
誰かのために何かをすれば、因果律の働きにより、誰かが何かをしてくれます。
感謝の意念がインスピレーションとして伝わって来ることもあるでしょう。
それに比べて、地上は不完全な世界です。
因果律の働きの顕現も不完全です。
誰かのために何かをしても、何も返って来ない時も多くあります。
霊界では、自分の想いは相手に直接伝わります。
地上では、言葉など肉体で表現しなければ伝わりません。
きわめて煩わしい世界に生きているのですが、それが当たり前と思い込んでいます。
表現して伝えるのは、気力と勇気がいるので、魂と精神を鍛錬する意味もあるのかもしれません。
どんなに思っていても、言葉や行動で示さない限り、地上では感謝の気持ちは伝わらないのです。
印象的な人がいました。
仕事でお会いしたご老人ですが、感謝の気持ちを会う人会う人に言葉にしていました。
この人は一体 1日に何回「ありがとうございます」と言うのかと考えてしまうくらいです。
しかも、口先だけの言葉ではなく、心のこもったものでした。
自分が受けるものを、何でもありがたいと感じられる徳性を持った人なのでしょう。
そんな人は幸せになれると感じました。
人は感謝されると、悦びのようなものを感じます。
その人のために何かをすると感謝されて悦びを感じるために、もっと何かしてやりたいと思います。
多くの人に感謝する人は、因果律の働きにより、多くの人から良くしてもらえます。
別に期待しているわけではありませんが、自然にそうなります。
けれども、いろいろな人がいて、そうなるとは限らないのも、また地上です。
もし、感謝と言う概念がなかったとしたらたらどうでしょう?
車を運転していると経験しますが、道を譲るとハザードランプを点滅させてお礼をされます。
それがないと、何か物足りないような感じがする時もあります。
求めてはいけないのですが、お礼をされた方が気持ちが良く、次も同じことをしようとする気になれるのは確かです。
ふと、思ったことがあります。
地上の人には、霊的に成長し、歩むべき人生を歩むように、一生涯に渡って守護霊が付いています。
物事が上手く行った時や、危険が回避された時など、無形の援助を受けている可能性が高いです。
それは守護霊に与えられた役割なのですが、同じ人間の心を持っているので、地上の人から感謝されればうれしいに決まっています。(霊性の高い霊ほど感謝は神に捧げることを望むようです)
地上の人との関係はより強固のものとなり、その先も喜んで守り導いてくれるでしょう。
お陰様で、という言葉をよく使います。
「陰」とは、神や背後にいる霊のことを指していて、先人はそのことを知っていて感謝していたと考えています。
良く考えてみると、食べている物のほとんどは、自分では作れません。
着ている服も、自分で作ることも出来ません。
この世界は、1人では生きて行けないのです。
自分が出来ることをしたり、自分が出来ないことをしてもらいながら、この世界は営まれています。
お金を払っているのだから、役割だから当然と考えてしまうと、感謝の気持ちを伝えるのを止めてしまいます。
自分が出来ないことをしてもらった時に、素直に感謝の気持ちを表現できるようになりたいものです。
何故なら、当たり前のようにお互いを活かし合う次の世界において、感謝の意念は円滑に生活を営むために必要不可欠なものであり、周囲との間に調和を生み出すと考えられるからです。
愛に唯一の報酬があるとすれば、それは感謝の意念かもしれません。
愛と同じく、感謝も神の属性だと思います。
そうであるならば、神が内在している魂(生命)には、元々感謝の気持ちが備わっているはずです。
あの時のツバメは、お礼をしに来たと思っています。
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