2022年3月27日日曜日

戦争で亡くなった人たち Ті, хто загинув на війні

 

無用な涙が戦争によって流されています。

どれ位の人たちが、次元を異にして生きなければならなくなったのでしょうか。

この現実は到底受け入れられないでしょう。

生命の尊厳を踏みにじり、未来までも破壊してしまう、こんな愚かな行為はありません。



敵の攻撃を受けて、一瞬のうちに肉体から離れて(死んで)しまった人の多くは、そのことに気付いていません。

逃げ惑っていた人は逃げ惑い、戦っていた人は戦おうとしています。

しばらくして見慣れた人間が横たわっているのを見つけるかもしれません。

良く見ると自分です。

なぜ、ここで寝ているのだろうと思います。



駆けつけて来た家族が、「自分」を見つけて号泣します。

自分はここにいるのに、動かなくなった自分がそこにいて、家族が泣いている、状況が理解できません。

家族に呼びかけても、聴こえていません。

体に触れようとしても、手が素通りしてしまいます。

今までと、全く様子が違います。



周囲を見渡すと、生前親しくしていた、既に他界した人たちの姿があります。

皆、微笑んでいて、自分を歓迎しているようです。



ようやく、その時のことを思い出します。

あそこの場所で、撃たれて死んでしまったのかもしれない。

客観的な状況と記憶から、自分はもうこの世にいないことを徐々に自覚して行きます。



肉体はもうありません。

けれども、弾を受けた時の衝撃が幽体にも及んでいるのでしょうか、痛みのようなものを感じます。

予期せずに、肉体から引き離された魂は、少なからずショックを受けています。

次の世界には、そんな人たちを看護する施設のようなものがあり、連れて行かれます。

そこで手厚い看護(愛)を受けながら、少しずつ魂は癒されて行きます。



次の世界は、地上とは比較にならないほど、全てに渡って配慮が行き届いています。

忘れられたり、いい加減に扱われる人はいません。

親が生き残り、1人で逝った子がいたとしても、不安や寂しさを感じさせないような最善の配慮がなされます。

直ぐに最適な人がかけつけて、その子を慈しみながら面倒をみます。

1人ぼっちになることはありません。



肉体がないだけで、何も変わっていません。

意識が向くところに瞬時に移動します。

1番大事な人のところに赴くのは、ごく自然な成り行きです。



しかし、地上の人の悲しみのオーラが、近寄ろうとする人の障壁になります。

生きていて、傍にいることを何度も伝えますが、無反応です。

肉体を失うことで、地上の人に想いが伝えられなくなったことに愕然とします。



死によって、地上の生活は終わります。

次の世界に移行し、新たな生活が始まります。

地上に接した幽界にしばらくいた後に、生まれる前にいた霊界に戻ります。



しかし、戦争によって無理やり次の世界に移った人は、しばらくの間は戻りたいとは思わないでしょう。

地上にいる人が気になり、やり残したこともあるからです。

そのために、どうしても意識が地上に向きます。

地上の人が深く悲しんでいたり、自分を必要としているのを感じたのなら、放っておいて行く気にはなれません。



全ての現象は、自然法則の働きによって起きています。

戦争で死んだとしても、そこには自然法則の働きがあります。

起きること全てが、神の管理下にあると言うことになります。



神は完全なる叡智であり愛です。

完全な公正が行き渡っています。



予定されていたよりも早く地上を去ったとしても、それに対して「埋め合わせ」があります。

この世で経験できなかったことを、霊的に親しい人が代わりに経験することによって、学びが共有され、成長が得られると考えています。

その人は、先に逝った人の分まで生きていることになります。



傷ついた魂が癒された後に待っているのは、苦から解放された世界です。

そこにいるのは、霊的に類似した、想いを共有する人たちばかりです。

この世よりはるかに平和で快適な世界です。

この世にいたかったと思うことは、まずありません。

いたかったと思うのは、残して来た人のことを想う時です。



※感受性の強い人は、影響を受ける可能性があるので、画像を見ないようにして下さい。


写真の男性はキエフに住むセレヒー・ペリビネスさんです。

奥さんと子供2人を、ロシア軍の攻撃で失いました。

セレヒー・ペリビネスさん(New York Times)

ご家族の死を、twitterに投稿されていた下の写真を観て、初めて知ったそうです。

言葉がありません。

「ここで何が起きているのか知るべきです」と訴えていますので、載せることにしました。

亡くなったセレヒー・ペリビネスさんの家族

インタビューでは冷静に対応をされていましたが、心の中で何を思っているのか窺い知れません。

何の罪もない自分の家族が、このような形で死んでしまうはずはない、醒めない悪夢を見続けていると思っているのかもしれません。

戦争が起きると、このような惨劇が、いつ自分の身に降りかかってもおかしくありません。

いとも簡単に、人が死んでしまいます。




大切な人を亡くした人たちに伝えたいことがあります。

この文章を読んでいるのであれば、きっと霊界の導きによるものです。

Мені є що розповісти людям, які втратили своїх близьких.

Якщо ви читаєте цей текст, то це завдяки керівництву світу духов.




どうか、怒りや憎しみに燃えて生きるようなことはしないで下さい。

誰も望んでいません。

生きる目的にはなりません。

あなたが苦しむだけです。

苦しむためではなく、愛し合うためにご家族と出会ったのです。

罪を犯した人間は、神の法則により、厳格に裁かれます。

Будь ласка, не живіть з гнівом чи ненавистю.

Ніхто не хоче.

Це не мета життя.

Просто скуштуйте страждання.

Ми зустрілися не для того, щоб страждати, а щоб любити один одного.

Людина, яка грішить, суворо судиться за законом Божим.



今、死の意味を見つけるのは困難でしょう。

いかに大きな存在だったのかを知り、茫然とするばかりかもしれません、

これから悲しみや苦しみは続くでしょう。

それに対して霊的な報いが与えられることだけは覚えておいて下さい。

そうでなければ、神の公正は保たれません。

Знайти сенс смерті зараз буде важко.

Я вражений розмірами існування.

Смуток і страждання триватимуть і надалі.

Пам’ятайте, що ви можете бути духовно винагороджені за це.

Інакше справедливість Божа не буде дотримана.



人間の本質は魂です。

姿は視えなくなっても、ご家族は存在しています。

記憶も性格も愛情もそのままです。

Суть людини - це душа.

Навіть якщо ви цього не бачите, ваша сім’я все одно існує.

Спогади, особистості та почуття залишаються тими ж.



魂を引き付け合う力が愛です。

愛で結ばれているご家族に別れはありません。

今も一緒です。

どうぞ信じて下さい。

Любов - це сила притягувати душі.

Немає прощання з родинами, пов’язаними любов’ю

я поруч з тобою.

Будь ласка, повір мені.




数十年後に死が訪れます。

その時、ご家族と再会します。

怒りや憎しみは人間を変えてしまいます。

変わってしまったあなたには会いたくないでしょう。

生きる意味を見失い、ボロボロになりながらも、生きて来たあなたと会いたいはずです。

全て失ったとしても、死なないで下さい。

Смерть прийде через десятиліття.

Возз’єднався з родиною.

Гнів і ненависть змінюють людей.

Я не хочу, щоб ти змінився.

Ви захочете зустрітися з вами, які жили, навіть якщо ви втратили з поля зору сенс життя і стали пошарпаними.

Не вмирай, навіть якщо втратиш їх усіх


2022年3月20日日曜日

戦争がいけない理由


今から30数年前、レンタカーを借りて冬の福島県の山村を旅行していた時のことです。

道路には雪が積もっていましたが、車にはチェーンの備えがありませんでした。

慣れない雪道を恐る恐る走っていましたが、案の定タイヤが滑り出し、車を制御できなくなりました。

センターラインをはみ出して、そのまま対向車に向かって行きました。

ぶつかると思った瞬間、対向車の人が急ハンドルを切って、ご自分の車を路肩の雪の中に突っ込ませました。

それにより衝突が避けられました。

車から降りて駆け寄ったところ、幸いなことにケガもなく、車も壊れていませんでした。

運転していたのは初老の男性でした。

良くあることだよみたいな感じで、咎められることもなく、笑みを浮かべながらその場を立ち去って行きました。

寛大さと言うか、心の余裕みたいなものをその時に感じました。



同じ時期の東京でのことです。

大きな駅の階段の端で、うずくまっている人がいました。

その人をよけながら、たくさんの人が通り過ぎて行きます。

気にはなりましたが、私も通り過ぎました。

予定があるので、関わっていられません。

他にたくさん人がいるので、誰か助けるだろうと、考えていたのかもしれません。

声をかける心の余裕がなかったと思います。



数日前の深夜に、大きな地震がありました。

携帯から警報音がけたたましく鳴り、思わず身構えました。

経験がない私には良く判りませんが、近くで銃声や爆発音が聞こえる中で、平静を保っているのは困難と思われます。

張状態に陥ってしまうでしょう



戦争は、心の余裕をことごとく奪ってしまうと考えられます。

負傷して倒れている人がいても、自分の身が危なければ、放って逃げるしかありません。

攻撃を受ければ、逃げるのに必死で、周りが見えなくなります。



銃を手にして、戦わなければならなくなったとしたら・・・。

敵と出くわしたら、早く引き金を引かないとやられてしまいます。

倒したとしても、その後に何を思うのでしょうか。

正当防衛だったとしても、人を殺したことに変わりありません。

その時の光景が頭から離れず、私自身はトラウマになる気がします。



人間には、2つの自分がいると考えています。

潜在している自分と、顕在している自分です。

前者は、本当の自分(魂)であり、霊的な自我と呼ぶことにします。

後者は、パーソナリティーであり、地上的な自我と呼ぶことにします。

さまざまな局面で、両者の間で葛藤が起きて、勝った方の行動を取ることになります。



恐れや不安があると、自分を護るために、地上的な自我の働きがどうしても強くなります。

それに伴って、霊的な自我の働きが弱くなります。

霊的な自我には神が内在し、それが良心となって顕現しています。

しかし、良心の声は恐れによって搔き消されてしまいます。

1度止めかけた引き金を引くことになります。



侵略して来る人間も同じく、良心があります。

本当は、人など撃ちたくないはずです。

本当は、街など壊したくないはずです。

止めさせようとする良心の声を聴いているはずですが、命令に背くことは許されません。

その声を無視して、ミサイルのボタンを押すことになります。


戦争が終わった後に待っているのは、怒りや憎しみや悲しみを通り越し、虚無感かもしれません。

喪ったもの、壊されたものの大きさに、茫然とするでしょう。

もし家族が死んでしまったらどうでしょう。

助けてやれず、自分だけが生き残ってしまったと、罪悪感を抱いてしまうかもしれません。

侵略して来た人間も、命令に従ったとは言え、自分がした行為が正しくなかったことに気付けば、相当な罪の意識を感じることになるでしょう。

良心に背いた行いをしてしまうために、消し難い後悔や罪悪感が生じてしまいます。

予定されていない不用な感情で、多くの人が苦しむことになります。



爆破された建物や街並みを見れば、受けた被害の状況が判ります。

体に包帯を巻いていれば、傷を負っていることが判ります。

しかし、心の傷を負っていても、誰にも判りません。

戦争に関わった人は、目に視えない傷を負っていると思って間違いないと思います。



さまざまな経験を通して、自分に足りないものを学び、成長するためにこの世に生まれて来ています。

その目的を果たすために、予定されているシナリオがあります。

守護霊の導きを受けながら、シナリオに沿うように人生を歩んでいます。

寿命が来たら霊界に戻り、学び得たものを活かす生活が始まります。



そのシナリオをことごとく破壊してしまうのが戦争です。

予定されていた通りに行かなくなり、地上生活が中断されてしまう人もいます。



他者に奉仕をしたり、困難や障害を乗り越えることで魂は成長します。

しかし、戦争によってその機会が奪われます。

後悔の念や罪の意識に苛まれてしまうと、自由闊達な魂の表現が妨げられ、本来の生き方ができなくなります。

絶望感や虚無感からは、成長しようとする気持ちは生まれません。

怒りや憎しみや恨みを抱いていれば、人のために何かをする気持ちにはなれません。

地上の人の成長を著しく阻害してしまうことになります。

子供を殺害されて入隊した女性(ウクライナ)


急死した人の多くは、自分の置かれている状況が判っていません。

意識があるために、まだ地上にいると思っている人も少なくないと考えられます。

もう地上の人間ではないのに戦闘状態が続いている霊や、無理やり肉体から引き離されてショックを受けている霊で溢れています。

その霊を説得したり、癒すために、数多くの霊が自分のいる境涯を離れて、幽界に赴いていると考えられます。

地上だけでなく、霊界も大混乱に陥れるのが戦争です。



戦争は自然災害とは、全く違います。

自由意志により引き起こされます。

止めることもできたはずです。

良心の声が負けてしまったのです。

その代償は大きすぎると言わざるを得ません。



目に視えないけれども、生命はつながっています。

この事実はヒーリングをしていると納得できます。

面識のない人でも、世界の裏側にいる人でも、人間でなく動物でも、ヒーリングは成立します。

つながりを通して、生命力(霊力)が届けられます。



身体のどこかに、激しい炎症が起きていればどうでしょう。

一部で起きているので、自分には関係ないと言う人はいません。

遠い国で起きている出来事であれば、自分には関係ないように思えるかもしれません。

全ての人は霊的につながっていて1つです。

従って、人類全体がこの結果を享受しなければいけません。



戦争ほど、多くの人の人生を狂わせてしまうものはありません。

成長のために立てられた計画を、台無しにさせてしまいます。

人類全体の進化を妨げてしまう、最も愚かな行為と考えられます。


2022年3月13日日曜日

霊的につながっている


人間には何個の細胞があるのかご存じでしょうか?

およそ37兆個もの細胞があります。



極めて小さな細胞の中には、下記の図に示すように、いくつもの器官があります。

それぞれの器官には、それぞれの役割りがあります。

たった1つの器官が欠けたとしても、細胞は正常に機能して行けません。

細胞(動物)の模式図


その細胞が寄り集まって、脳、心臓、肺、筋肉、血管などの組織が造られ、人体を構成しています。

それぞれの組織は、それぞれの役割りがあります。

目的があって存在していて、1つとして無駄なものはありません。



地球も全く同じです。

多種多様な生命がいますが、それぞれの役割りがあります。

全体にとって必要であり、無駄なものは1つもありません。

ミクロからマクロに至るまで、全ての創造物は目的を持って存在しています。



無限ともいえる宇宙において、地球は最小の単位です。

1つの星の中で完結しています。

そこに生きている全ての生命は、運命共同体です。

生きている地球


それぞれの生命が、自らの役割を果たすことによって、全体に調和がもたらされています。

お互いが、お互いのために存在していると言えます。

従って、生命に優劣などありません。



けれども、人間は生命の中で、1番優れていると思っています。

高度な文明を手に入れているので、知性は優れているでしょう。

一方、周りのことを考えず、身勝手な振る舞いをしているのも人間です。

そのために、地球環境が大きく変わりつつあります。

何の落ち度もない数多くの生命が、人間のせいで大きな被害を受けています。


他の生命にとって人間は、全体の調和を乱しているガン細胞のような存在かもしれません。

何がそうさせているのかと言えば、人間(自分)さえ良ければという利己的な考えです。

そして、物質に捉われて、生命の本質やつながりが視えなくなっているためです。



地球上の生命は、それぞれが独立して存在しているように見えます。

しかし、霊的につながっています。



例えば、動物と植物です。

動物は酸素を吸って二酸化炭素を吐き出し、植物は二酸化炭素を吸収し酸素を放出していて、補完関係にあります。

自然界には、植物→草食動物→肉食動物→微生物が分解→養分を植物が吸収→草食動物というような食物連鎖があります。

どれ1つが欠けても、生命を存続させることは不可能です。



犬を飼っています。

私は犬に住むところと食べ物を与えています。

その代わりに、犬は私を守ろうとし、癒してくれます。



お互いに、何かを受け取り、何かを与えています。

生命は他の生命とつながりながら生きています。

霊的なつながりとは、生命のつながりです。

切っても切れません。

お互いがお互いのために生きる、それが神の意志です。



ほとんどの生命は、自然法則に従いながら生きています。

しかし、人間には自由意志が与えられているので、法則に背くこともできます。

人間が法則に背いたために生じる代償を、運命共同体である他の生命たちも享受しています。


間違っていると気付いていながら、ずるずると流されています。

自分たちの生活を優先してしまうために、現実に目を瞑っています。



全生命が調和をしながら生きて行く方向に進んでいます。

それなのに、今、人間同士の間で激しい争いが起きています。

30年前に逆戻りしてしまったような気がします。


キエフのアパート(ユニセフより)
最も進化しているはずの人間が、他の生命が決してしない、残酷な行為を平然としています。

無用な痛み、無用な傷、無用な死、無用な破壊、無用な怒り、無用な憎しみ、無用な別れ、無用な悲しみが生まれています。

これほどの悲劇が、今の時代に起きるとは思ってもいませんでした。

全て無知から来ています。

霊的な責任が問われることを知っていたのなら、こんな愚かな行為はできないでしょう。

待ち受けている償いがどんなものになるのか、想像も付きません。


キエフの親子(Wo.koriaより)

苦しみや痛みや悲しみを感じている人を見ると胸が痛みます。

私たちには、良心と言う神がいるからです。

そして、霊的につながっているからです。



破壊された建物は、人間の力で建て直すことは可能です。

しかし、人間が負った傷は、元通りにはなりません。

肉体の傷も、心の傷も、癒すことができるのは神の力だけです。



神の力である愛を、私たちを通して与えることはできます。

けれども、できることは限られています。

国を逃れて来た人に、温かい食べ物や寝具を提供する団体を援助するくらいかもしれません。

生き延びるのに精一杯で、何も言えない人たちに代わって、この侵略は絶対に許されないと声を上げることもできそうです。

世界から見放されていない、自分たちの思いを判ってくれていると感じてもらえたなら、ほんの少しでしょうが不安や怒りは和らぎ、この苦境を生きて行く力になると思います。(在日ウクライナ大使館にアクセスし、翻訳サイトを利用することで、ウクライナ語のメッセージを送ることができました。)

ささやかであっても、世界中の人が行動することで、良い方向に向かって行くと信じています。



戦争が起きている時、人間の進化は止まっているような気がします。

人間同士が信頼関係でつながった時に、初めて次の段階へと進んで行けると思います。




2022年3月6日日曜日

信じることによって恐れを克服する


ウクライナの首都キエフ(APより)

戦争(侵略)が起きてしまいました。

どれほどの血や涙が流されるのでしょうか。

一刻も早い終結を強く望みます。

原因はいろいろ考えられますが、根本に「恐れ」があるのではないかと思います。



人は、自分の精神や肉体に危害を加えようとするものに対して恐れを感じます。

恐れは本能とも言えるものであり、地上を生きて行く上で、なくてはならない情動の1つと考えられます。



しかし、恐れが過剰に生じてしまうと、健全に生きて行くことができなくなります。

心に余裕がなくなってしまい、自分を護ることで頭が一杯になります。

高じてしまうと、周りが信じられなくなり、被害妄想的になってしまうこともあります。



過去に強い恐れを抱いた体験があるとトラウマとなり、後で現れることもあるでしょう。

あるいは、過去生での体験が現生で呼び覚まされ、得体の知れない恐ろしさを感じることもあるでしょう。

いずれにせよ、過去の体験が今の恐れと結びついているのは間違いありません。



シルバーバーチの霊訓には「あなた方には恐れるものは何1つありません。」と書かれています。

イエス・キリストは「からだを殺しても、たましいを殺せない人など恐れてはなりません」と言っています。

しかしながら、その境地まで至るのは、並大抵のことではありません。



賢人が恐れを戒めているのは、霊的な通路を塞いで、生きる力を奪ってしまうからです。

精神の活動が妨げられ、硬直化してしまうからです。

地上を生きて行く上で、恐れは必要なものですが、過剰にならないようにコントロールしなければいけません。


暗闇が恐い人がいます。

何かが潜んでいて、襲われるのではと想像をしてしまう人もいます。

何も見えなければ、人は恐れを抱いてしまいます。


昔の人は、雷を恐れていたようです。

天上で神様が怒っているように感じた人もいたようです。

今の人は、放電と言う自然現象が起きていると知っています。

何が起きているか判らないと、恐れを抱いてしまいます。



さまざまな人が、同じ平面で生きているのが地上です。

自分と違う人と交わり、判り合えないと、恐れを抱くことがあります。



また、地上では人の本質(魂)が、肉体により視えなくなっています。

どんな人なのか、何を考えているのか判らないと、恐れを抱いてしまいます。



地上ではさまざまな出来事が起こります。

いくら考えても、原因が全く判らない時もあります。

物質を介しているので、結果が直ぐに現れないのも、その一因として考えられます。

また、生まれる前に予め決めていたことが、何の前触れもなく起きることもあります。

因果関係が判らなければ、偶然として片付けるしかありません。

いつ、何が起きるのか判らないこの世界に、恐れを抱いてしまうこともあるでしょう。



このように、地上は判らないことだらけです。

そのために、どうしても恐れが生じてしまいます。



そんな世界に生きている私たちが、恐れをなくすためにはどうすれば良いのでしょう?

信じることが必要になって来ます。



何を信じれば良いのでしょうか?

人を信じることが必要です。



他の人が何を考えているのか判りません。

歪んだ心の人がいるのも確かです。

そのため、不用意に傷つけられたり、騙されたり、裏切られたりします。



そんな人の中にも神がいます。

神は良心として顕現していますが、エゴ(地上的な自我)に負けてしまうと、過ちを犯すことになります。

良心とエゴのせめぎ合いの中で私たちは生きていて、そのどちらかを選ぶかで行動が決まります。

良心が負け続けると、次第に心が歪んで行きます。

けれども、結局は神の法則である因果律によって、痛い思いをしながら心の歪みは正されて行きます。

どんな人の中にも、神がいると信じて下さい。



すべての人は同胞であり、霊的につながっています。

学び成長することを目的に、地上に生まれて来た仲間なのです。

エゴに負けて、目的が果たせなくなっている人がいるだけです。



そして、この世界を信じることです。

全ての出来事は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則を創ったのは神です。

私たちを悦びの世界に導くためです。

たとえ谷底に突き落とされるような出来事であっても、霊的には上へと引き上げられています。

這い上がって行く過程で、相応の成長が得られています。

出来事を経験することで、何かを学んでいます。



困難な問題が起きても、因果律の働きによって、いずれ解決されて行きます。

全てに渡って、神の意志が働いているからです。

良きに計らわれていると信じて下さい。



そして、自分を信じて下さい。

この世界も人間も、神が創った、神を構成する一部です。

私たちの魂には、神が宿っています。

自分を信じるとは、自分の中にいる神を信じることです。

困難や障害を乗り超えて行く力が秘められています。

自分を信じると、自分の中にいる神とのつながりが深まり、生命力が流れ込み、恐れや不安はどこかへ行ってしまいます。

乗り越えられない出来事は、決して起きないと信じて下さい。



人、世界、自分を信じるのは、口で言うほど簡単ではありません。

けれども、物質に覆われて本質が視えなくなっている地上で生きて行くために、どうしても必要です。

生まれて来た目的の1つは、霊的なものが全く視えなくなるこの地上で、信じることの意味と大切さを学ぶためと思われます。

信じることで恐れに打ち克ち、前に進んで行かなければいけません。

神は、慈しみ合い1つになることを望んでいます。

信じることなしにはつながらず、それは叶いません。



「信じる者は救われる」という言葉が聖書にあります。

意味を調べてみると、イエス・キリストを信じる者は天国に行けると書かれていました。

それは間違いであり、死後の生は全ての人に与えられたものであり、天国のような境涯に行けるのかどうかは、その人の魂で決まります。

信じることで、恐れから来る苦しみから救われると言いたかったのではないでしょうか。



この戦争(侵略)は、主謀者が人や世界が信じられなくなり、恐れが生じたために起きたのではないかと考えています。

自分しか信じられないために、相手を力によって屈服させ、恐れから逃れようとしているように見えます。

その行為は、明らかに神の摂理に反しています。

地上にいる人の良心(神)が許すはずはありません。

思うように行かなくなり、自分さえも信じられなくなった時、耐え難い恐れや不安に襲われるでしょう。

そこから逃れようとして、自らを破滅させようとする行動を取る可能性があります。



信じることで、全てが解決されるはずなのに、残念でたまりません。

こんな平和で美しい国を破壊している代償は、あまりに大き過ぎます。

ウクライナのリウネにある「愛のトンネル」(朝日新聞GLOBEより)


2022年2月27日日曜日

意志を持つ


「生きている」とはどう言うことなのでしょうか?

心臓が動いていれば生きていると、多くの人は考えています。

心臓が止まり、肉体が全く動かなくなったら、死んでいるとみなされます。



生の対極にあるのが死ではありません。

肉体と結合していた「生命」の分離が死です。

荼毘に付されて骨だけになっても、生命は変わりなく存続しています。



生命は肉体と次元の異なるものです。

生命の本体を「魂」と呼ぶことにします。

魂は生命力によって活動をしています。

生命力とは、宇宙を創造し、動かしている神的なエネルギーです。

内から湧き出るものであり、同時に外から流れ込むものです。

生命力が湧き出して、外部に流れて行くのを、ヒーリングをしている時に実感しています。



魂に生命力が供給されて、私たちは生きています。

そうではない、食べた物がエネルギーに変わって生きていると言う人がいるでしょう。

それは肉体の話です。



肉体に指令を与えているのは精神です。

精神が疲れている時に、食物を摂ったとしても、回復するわけではありません。

精神は肉体とは別のエネルギーが供給されています。

魂が受け取った生命力が変換されて、精神的活動のエネルギーになっています。

また、病気やケガを治している自然治癒力も、同じ生命力が変換されたものです。



人間を構成しているのは、「魂(霊)」と「精神」と「肉体」です。

3者の関係は、犬ぞりに似ています。

人が魂であり、犬が精神であり、そりが肉体です。

人の指令によって、犬が働いて、そりが動き始めます。

魂から思念が生まれて、精神が働いて、肉体が動き始めます。



思念は、精神を動かしているエネルギーと言えます。

素となる力は大始源である神から供給されます。

神は独立した存在ではありません。

宇宙が神であり、神は宇宙です。

宇宙全体が神的エネルギーで創られ、満たされています。

私たちは神を構成する一部であり、全体の一部として霊的につながっています。

魂は宇宙全体(神)から無尽蔵にある力を受け取ることができます。

しかしながら、未熟な精神や肉体がボトルネックとなり、大幅に制限を受けています。



精神から不安や心配や怖れ、取り越し苦労が生じると、霊的な通路が塞がれて、生命力を受け取りにくくなってしまいます。

感情で精神的なエネルギーが消耗された上に、生命力が受け取りにくくなってしまうと、活動するエネルギーが不足してしまいます。

その状態が、うつ症状となることもあります。

ヒーリングによって強制的に生命力を注入することによって一時的に症状は緩和しますが、状態が変わらなければ、ぶり返してしまいます。



生命力は個々の魂で思念(意志)になります。

意志は精神により具体化され、肉体によって具現化されます。

意志が生まれて、それによって精神が働いて、肉体に指令が出されて動く、これが正常な状態です。

ところが現代社会では、意志がないままに、精神だけが働かされて、肉体が動いています。

犬ぞりで言うと、人の指令がないまま、犬があてどもなく走っているようなものです。

不安になり、途中で走るのを止めてしまうかもしれません。



意志がないまま、精神だけが活動しているのは、極めて不自然な状態です。

魂から精神、精神から肉体へと変換されているエネルギーの循環が上手く行きません。

そのような3者の調和が乱れた状態が続くと、心身に病気として反映されることもあります。



意志があれば、精神はそれに追随します。

大始源より生命力が流れ込み、それに伴って精神にもエネルギーが供給されます。

意志を失ったまま、精神だけが活動をしていると、次第にエネルギーは枯渇して行きます。



健やかに生きるために、何らかの意志を持った方が良さそうです。

意志があることで、健全なエネルギーの循環が始まります。



夢や目的を持つことは、意志を持つことであり、生命力が流れ込みます。

願いを抱くのも、意志を抱くことになり、生命力が流れ込みます。

○○になりたいと願いを抱くと、実現するために精神が働き出し、時間がかかるかもしれませんが、具現化する方向に向かいます。

ささやかでも良いのです。

例えば、朝起きた時に「心穏やかに生きたい」と願えば、精神が働き出し、具現化する方向に向かいます。

意志がなければ、何も始まりません。



意志を持つことは、生きる推進力となります。

ただ問題が1つあります。

人間にはどんな意志を持っても良い、自由が与えられています。

神の意志(自然法則)に反する意志を持つことも許されます。

その意志に対しても、神のエネルギーは流れ込みます。



ロシア軍のウクライナ侵攻(CNNより)

あってはならない愚かな戦争が始まりました。

見知らぬ人間が、いきなりドアを蹴破り、土足で家の中に入って来て、大切な人が殴られている、侵略されている国の人たちはそんな心境だと思います。

過った意志を行使する者がいる限り、苦痛、怒り、憎しみ、悲しみ、業しか生み出さない、この様な悲劇は繰り返されます。

自分以外の人間を信じられなくなってしまった独裁者の終わりの始まりですが、代償が大きすぎます。

無知が酷すぎて、霊界も憂慮していると思います。

苦痛を感じ、救いを求めて真理に辿り着く人がいて、健全な方向に進んで行くと信じるしかありません。




平和な世界にするためには、人を脅かし傷つける行為は絶対に許さないと言う明確な意志を1人1人が持つことが必要です。

その意志は伝播しながら、具現化して行くと思います。



2022年2月20日日曜日

不安や怖れを意思(志)で打ち消す


コロナ禍ですが、今週末、私が所属する歯医者の勉強会が創立されて30年になり、記念講演会が開催されました。

大人数の前で話すのは、この年になっても緊張します。

何とかならないものかと、いつも思います。



この緊張感はどこから来るのでしょうか?

人間には、霊的な自我と地上的な自我が存在しています。

霊的な自我は、奥底にある意識であり、本当の自分とも言える存在です。

地上的な自我は表に出ている意識であり、肉体を使って霊的な自我を表現するためにある媒体です。



何かをやろうとする時に、上手く行くのだろうか?失敗したらどうしようと、先のことを考えて不安になることがあります。

緊張や不安や恐怖は、地上的な自我から生じていると考えられます。

また、過去のことを思い出して、怖れや不安が生まれるのも、地上的な自我の働きによるものと考えられます。



そんな感情などなくてもよさそうですが、そうは行きません。

断崖絶壁の上に立ち、恐怖を感じなければ、誤って落ちてしまうかもしれません。

地上の環境から肉体を守るために必要なものです。



不安は、将来を頭で予測することにより生じます。

その感情が生じると一種の苦しみを感じるので、何とかしてその状況から抜け出そうとします。

肉体的な苦痛を感じると回避しようとしますが、それと同じで不利益を被らないようにするためにある、防御的な感情の一種なのかもしれません。



頭の中が真っ白になるという状態があります。

不安が極度に亢進して、理性がマヒした状態と考えられます。

どんなに経験があったとしても、想定外のことが起きる可能性があります。

地上は不完全で不確実な世界であり、何が起きるのか判らないので、不安は付きものと考えられます。



人間は肉体、精神、霊(魂)の複合体です。

精神は肉体に指令を出しています。

右手を挙げろと精神が指令を出さない限り、右手は挙がりません。



霊(魂)は精神の上位に存在しています。

霊(魂)からは、本当の自分の想いや願望が生じています。

それを精神を働かせて、具現化しようとします。



地上的な自我は、精神上に形成されていると考えられます。

そこから生じている不安や心配、緊張や怖れなど感情は好ましいものではないようです。

シルバーバーチの霊訓にはこのように書かれています。

「霊的なものにとって恐れるということが何よりも強烈な腐食作用を及ぼします。恐怖心と心配の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。なんとなれば、それが霊力が作用する通路を塞いでしまうからです。」



怖れや不安や心配を吹き飛ばすものがあります。

それは意思(志)の力です。

2001年、新大久保の駅で起きた痛ましい事故のことを思い出します。

ホームに落ちた人を助けようて、2人の男性が亡くなりました。

助けようとする意思は、霊的な自我から生じていたと考えられます。

自分の命が犠牲になってまで、人を助けようとするのは、霊的な自我が神性を帯びているからです。



一方、地上的な自我は、自分も巻き添えになってしまうと怖れを感じさせて、肉体を守ろうします。

霊的な自我と地上的な自我の間で葛藤が起きる時はありますが、どちらか勝った方の行動を取ることになります。

助けようとする意思が、怖れを上回った結果として、この様な行動を取ったと考えられます。

助けようとする意思は愛に基づいています。

神の摂理に適った想い(愛)は、あらゆる感情を凌駕しており、不安や恐怖を打ち負かす力を持っていると考えられます。



1985年日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落しました。

墜落前のダッチロールを繰り返す機内はパニック状態になっていたと推察されます。

そんな機中で、家族に宛てた感謝の文章を書いている男性がいました。(別の記事にその文章を載せてあります)

誰もできることではありませんが、魂から生じている強い想いが、極限的な恐怖に打ち克っていたことを証明しています。



繰り返しになりますが、霊(魂)は精神の上位にあります。

地上的な自我(精神)から生じる不安や怖れは、霊的な自我の働きによって打ち消すことができると考えられます。



はっきりとした意思を持てば、望んでいない感情が生れるのを抑えられるはずです。

魂から生じている意思は、精神から生じている感情よりも強いからです。

もし、不安や怖れが湧き上がって来たのなら、それを打ち消すようない意思を思持てば良いはずです。

具体的には「上手く行かなかったらどうしよう」と考えて不安になるのではなく、「上手く行く」あるいは「乗り越えられる」とはっきりとした意思を持ちます。

それでも不安が生じてしまうのであれば、その度に自分の意思を上書きするようにすれば良いのです。



北京オリンピックが閉幕しようとしています。

どの選手も、最高のパフォーマンスをすることを望んでいます。

国の代表であり、想像を超えるプレッシャーを感じていたと察せられます。

失敗は許されないと思うと、緊張はどうしても高まってしまいます。



不安や怖れを感じながら、最高のパフォーマンスはできません。

高まった緊張から不安や怖れが生じないようにするのには、「自分を信じる」という意思を持つことが必要です。

多くのスポーツ選手が「自分を信じて臨んだ」と言っているのを聞きますが、根拠のないことではありません。

自分には神性があります。

起こること全てを乗り越えさせる力が秘められています。

信じることで神とのつながりが強くなり、乗り越える力が内から湧き出します。

自分の中に神がいると思っていなくても、自分を信じれば持てる力が出せることを、多くの人は経験的に知っています。



自分の中に神がいると、強い意思を持って信じて下さい。

そうすれば不安や怖れはなくなるはずです。

「全き愛は恐れを締め出す」と、イエス・キリストも言っています。

強く信じることができれば、神とのつながりが深まり、その愛により恐れは締め出されると考えられます。



摂理に適っている意思であれば、霊界から援助の力が届き、実現する方向に動き出します。

もちろん相応の実力がなければいけませんが、自分の栄誉のためではなく、人に勇気を与えたい、元気付けたいと願いながら臨む人は、神の摂理に適っているので、援助の力を受け取ることができると考えられます。

持ってる力以上のパフォーマンスができて、想像以上の結果が得られることになります。

そんな時は、知らずに霊力の通路になっていたと考えられます。

勇気を出すことの大切さを、その人に通して伝えたいのだと思います。

挑戦することで人は成長するからであり、それが神の望みだからです。



不安や怖れが生じたら、それを上書きするように、明確な意思を持つようにしましょう。

成長につながるものであれば、神の力が魂に流れ込み、不安や怖れは打ち消されるはずです。

今回の仕事においても、それを実践して、正しいことを再確認できました。



次に行く世界は、思念の世界です。

明確な意思(思念)を持たなければ、何も始まらない世界です。

不安や怖れを克服するために、意思を持ち続けるのは、能動的で労力を伴う作業ですが、望ましい自分になるため、望ましい世界にするために、避けては通れない過程だと思います。

不完全で不確実な世界である地上において、その力(意思)を養っていると思います。





2022年2月13日日曜日

死はこの世の卒業


日本人の平均寿命は85歳位です。

個人差はありますが、単純に計算すると生まれてから3万日経つと、そろそろ死ぬ時が近づいていると言えます。

3万日は気の遠くなるような日々に感じますが、私もすでに2万日を超えています。



これまで生きた日々の上に、今日があります。

年を取るごとに、1日の重みが増して行くように感じるのは、私だけなのでしょうか。

これから先も重みが増し続けて、臨界点を迎えて一気に軽くなる時が来ます。

ずっと先のことだと思っていましたが、少し死を意識するようになりました。



霊的真理と出会って良かったと思うことの1つに、死は次の世界に移るための自然現象と、はっきりと判ったことです。

その現象を「鳥かごから大空に向かって鳥が放たれる」、あるいは「さなぎから蝶が飛び立つ」と例えていますが、それ以上に劇的な変化と考えられます。

肉体がなくなっても意識が存在し、思念が直接伝わる世界に移った時の感動は、言葉では言い表せないと想像されます。

そんな知識を得て、死は怖くなくなりました。

むしろ、早く来れば良いのにとさえ思います。



およその寿命は決まっていますが、その時がいつ来るのか分りません。

30年後だとしたら、ずっと先のように感じられ、生き方を変えることはないでしょう。

あと1年後だとしたらどうでしょうか?

どう過ごすのか、じっくりと考えます。

仕事に追われて生きて来たのであれば、家族や友人と一緒に過ごす時間を増やす人もいるでしょう。

喧噪から離れて、自然の中でゆっくりと過ごす人もいるでしょう。

世の中のために、何かをしようとする人もいるでしょう。

長く生きられないと判っているのに、お金や地位や名誉を欲しがる人はあまりいません。

愛情や友情など、目に視えないものを大切にする人が多いと思います。



あと1週間になったらどうでしょう。

後悔がないように、わだかまりがあった人と会って、仲直りをしたくなるかもしれません。

一番好きな場所を訪れるかもしれません。

何もせずに、ただ平穏に過ごすのかもしれません。



最後の1日になったらどうでしょう。

今までお世話になった人に、ありがとうと感謝の気持ちを伝えて、別れのあいさつの代わりにするような気がします。

できれば苦しまずに、眠るように逝ければと思います。



死を意識することによって、地上的な意識から、霊的な意識に変わると考えられます。

大切なもの、価値のあるものに、限られた時間を費やすと思います。

最後にしたいことほど、本当に大切なものと考えられます。

感謝の想いを伝える、心穏やかに過ごす、そんなありふれたことが、何よりも大切なのかもしれません。



今日1日が最後だと思って過ごせば良いのですが、頭ではまだ先と考えてしまうので、なかなか難しいです。

生活して行くため、社会との関わりがあるので、そう簡単に生き方を変えるわけにも行きません。

さまざまな地上的な欲求やしがらみがあり、思うほど大切ではないことに、多くの時間を費やさなければならないのは確かなようです。



命に関わる病気になれば、そうは行きません。

否が応でも死を意識するようになります。

霊的な意識に変わり、本当の大切なものに気付き、どうでも良いものを切り捨て、生き方を変える人もいるでしょう。

自分の意思で変えるのは難しいです。

病気は、本来の自然な生き方に強制的に戻すために創造されたのかもしれません。



死は不幸な出来事なのでしょうか?

多くの人は死を疎ましがります。

秦の始皇帝は不老不死の薬を探し求めたそうですが、現代においてもそんな薬があれば手に入れたいと思う人はたくさんいるでしょう。

もし「不死」の薬が与えられたとしたら、喜ぶどころか極めて重い懲罰が課せられたように感じてしまいます。

死ねないことこそ、不幸だと思うからです。



この世は学校に例えられますが、その通りです。

死後の世界(霊界)は実社会です。

実社会である霊界で、自分をより役に立てるために、この世という学校に生まれて来ます。

学校では、国語、算数、理科、社会などの教科を学びます。

この世という学校では、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛について学んでいると考えられます。

それらは魂の資質であり、全てが愛に通じるものです。

神の心と言って良いでしょう。

自分に足りない資質を補うために、最適な出来事を経験することになります。



この世は、さまざまな魂が混在し、肉体を介して表現をしなければいけません。

そのために、判り合えず、時に争いとなります。

苦しい思い、痛い思いをしながら、信じること、勇気を出すことの大切さを学んでいます。

いくら愛があっても、それらがないと表現できません。

苦痛が取り払われている霊界では、地上ほど学ぶことはできないと思われます。



死は、この世という学校の卒業です。

しかし、誰でも卒業できるわけではありません。

あの世に行きかけて、まだ早いために、この世に帰って来る人がいます。

地上にいる人たちは、九死に一生を得たと喜びますが、本人にとって喜ばしいことなのでしょうか?

元いた住処に帰れるはずだったのに、引き返して来たことになります。

再び重い肉体を纏って、学ばなければなりません。

つかの間でもあの世を経験した人の多くが、そこに留まりたい衝動に駆られたと、後に語っています。



世の中には、この世を早く卒業してしまう人がいます。

残った人は、早すぎる死を嘆き悲しみます。

そんな人は、この世に入学した時点で、すでに多くのことを学んでいたのかもしれません。

魂の資質(親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛)を、十分に身に付けている優等生が多いと感じています。

学ぶことが少なければ、学ぶ時間は少なくなって当然です。

短い期間で目的を果たして、飛び級で卒業することが許されたと考えられます。

いつ卒業するのかは、予め決まっています。

偶然はありまぜん。



世の中には、社会を経験してから、再び学校に入り直す人がいます。

それなりの目的があってのことです。

それと同じで、霊界にいる者がこの世という学校に入り直すのには、明確な目的があります。



この世で学んだことは、あの世で活かされます。

自分を活かそうとするほど、まだ足りない資質があり、学ぶべきものが残されていることを強く意識するようになります。

そこで、地上と言う学校に再び入学し、計画的に学ぶことを志願します。

学校の勉強が楽しいものではなかったように、この世で大切なことを学ぶのも楽しいものではありません。

それでも、この世に戻って来るのは、成長したい根源的な欲求が魂にあるからです。



目的を果たした時、死によって地上から解放されます。

その時は自然法則に計られているので、勝手に早めることは許されません。



死にたくないのは、学校に居続けたいのと同じです。

学生のままでは、何のために学んでいるのか判りません。

卒業して実社会で活かさなければ意味がありません。



死はこの世の卒業です。

大変な思いをした人ほど、解放された悦び、そして成長した悦びを感じるはずです。

苦労して学んだことを、活かせる時が来たのです。





2022年2月6日日曜日

人生の課題


学生時代で嫌なものは宿題でした。

次までにやって行かなければ、先生に叱られるからです。

寝てしまい、次の日の朝に慌ててやった記憶があります。

先延ばしをしても結局やらなければならないので、なるべく早くやっておくのに越したことはありません。



人生にも、やらなければいけいない課題があります。

自分に必要なことを学び、成長するために、私たちは課題を決めて生まれて来ています。

過去の人生(過去生)でやれなかったので、この人生に持ち越されている場合もあります。

内容を知ることはできませんが、宿題と同じで、楽しいものではないのかもしれません。



ある日突然、課題が訪れることもあります。

その時、正面から向き合うのか、回避するのか、決めるのは自分です。

向き合えば、大変な思いをするのが目に見えています。

回避する方が、楽で安全です。

それでも、敢えて向き合う方を選ぶ時があります。

避けてはいけないことを、本当の自分(魂)は知っているからです。



成功と失敗のどちらかになる課題もあります。

挑戦と言えるでしょう。

失敗すれば、失うものがあるかもしれません。

失いたくないので、回避する方を選んでしまいがちです。

それは、もっと大切なものを失っているような気がします。



挑戦は苦労を伴います。

精神的な緊張も強いられます。

しかし、挑戦している過程で成長が得られ、何かを学んでいます。

回避してしまえば、得るものは何もありません。



「乗り越えられない困難は与えられない」これは最も大切な真理の1つです。

それと同じで、「乗り越えられない挑戦」に出会うことはないはずです。



新しいこと、リスクを伴うことであれば、躊躇してしまうこともあります。

遠い昔、自転車に初めて乗った時もそうでした。

転ぶと痛そう、自分に乗れるのか、怖れや不安がありました。

転んで痛い思いをしながらも、何とか乗れるようになりました。

地上では何かを得るためには、怖れや不安を克服して、挑戦しなければいけないと考えられます。



挑戦するには、勇気が必要です。

どんなに意思があっても、勇気がなければ、一歩を踏み出すことはできません。

魂が成長するために、どうしても必要な資質が勇気です。

挑戦する課題が突き付けられた時は、勇気が試されているのであり、同時に身に付ける機会となっています。



回避してしまった場合、因果律が働いて、その先で新たに挑戦する機会が巡って来るかもしれません。

あるいは、そのまま人生が終ってしまうかもしれません。

あの世でこの世の人生を振り返る時が来ますが、回避している自分の姿を見たならば、思わず恥ずかしくなってしまうかもしれません。

生まれる前に決めていた課題の1つだとしたら、ひどく後悔するでしょう。

それを晴らすために、再び同じような局面に出会う人生を選択することになるでしょう。

腹を決めて挑戦するまで、その過程が続くと思います。



ところで、勇気とは何でしょう?

怖れや不安に打ち克って、前に進んで行く力と言えます。

勇気は、自然に出るものではありません。

自分を信じることにより、内から湧き出て来る霊的な力です。



それまでの経験(実績)から、自分を信じて挑戦する人もいるでしょう。

経験がない初めての時はどうでしょう?

大丈夫です。



全ての生命に、魂が宿っています。

魂は生命そのものです。

宇宙全体は神的エネルギーによって創られ、神的エネルギーによって生命は活動しています。

神的エネルギーは無尽蔵です。

私たち人間はちっぽけな存在に見えますが、魂には無限のエネルギー、無限の可能性が秘められています。



自分を信じるとは、自分の中にいる神を信じることです。

信じることにより神と強くつながり、無限の貯蔵庫からエネルギーが供給されます。

それが挑戦を成功させる原動力になります。



しかしながら、私たちが生きているのは不完全な物質的な世界です。

不完全であるがゆえに、失敗が生じることもあります。



たとえ失敗したとしても、失うのは地上的なものだけです。

立ち向かったことで、霊的な成長が得られています。



問われているのは、成功したか否かではありません、

挑戦したか否かです。



自然法則の働きによって、挑戦するべきことが目の前に現れます。

自然法則は神の心が顕現したものなので、愛を帯びています。

苦しませるため、怖れさせるために挑戦させるのではなく、学び成長させるためです。

従って、無謀な挑戦が計画されることはありません。

自分を信じて臨めば、良い結果が得られることが、神によって保障されています。

人生で現われた課題を1つ1つ克服して行く中で、魂は成長し、生まれて来た目的が成就されて行きます。



課題が現われた時、回避しても、結局、どこかで向き合わなければならなくなります。

大変なのは分かっていても、課題がさらに大きくなって後で生じたり、死後に後悔したくないのであれば、今、向き合わなければいけません。



この世だけで終わると思うと、回避してしまいがちです。

人生は果てしなく続いています。

今やるのか、後でやるかのどちらかです。

回避するのは、課題を先送りしているだけです。

内なる声は「やらなければいけない」と訴えているはずです。

やると自分(魂)が決めていたからです。



課題はどこまでも追いかけて来ます。

自分(魂)に足りないものを補うために、どうしても必要だからです。

ためらうことなく、向き合いましょう。



2022年1月30日日曜日

永久(とわ)の別れ


永久の別れと聞いて思い浮かぶのは何でしょうか?

「死に別れ」という人が多いと思います。



死ぬと、肉体は全く動かなくなります。

動かなくなった肉体は荼毘に付され、骨だけになります。

今まであった肉体がなくなると、存在自体がなくなってしまったと思う人も少なくありません。

そんな理由から、永久の別れと思ってしまうのも、仕方がないかもしれません。



人間を構成しているのは肉体だけではありません。

肉体を動かしているのは精神であることは、誰もが知っています。

その精神を動かしているのが、さらに高次に存在する魂です。

人間は、肉体、精神、魂(霊)の複合体です。



魂は生命そのものであり、その人の本質です。

死んで肉体は骨になっても、意識は変わりなく存在しています。

「完全にいなくなった」と誤った認識をすると、無用な苦しみに襲われてしまいます。


「遠いところに行ってしまった」と言う人がいますが、それも正しくはありません。

亡くなった人がどうしているのか?

自分が死んだ時のことを考えれば、容易に想像が付きます。

大切な人を放っておいて、遠くに行ってしまうでしょうか?

「どうしているのだろう?」

「大丈夫だろうか?」

きっと、気になるのではないでしょうか。

肉体がないだけで、他は生前と何も変わっていません。

親愛の想いがあれば、傍にいたくなるのは、自然の成り行きです。



視えなくなったけど生きている。

たったそれだけのことですが、信じるのはなかなか難しいようです。

今まで目に視える世界が全てだと思っていた人が、急に魂の存在を信じなさいと言われても戸惑うだけです。

証明されない限り信じないのは、理性を持つ人間であれば当然なのかもしれません。



愛は目に視えず、存在を証明することもできません。

それでも、ほとんどの人は存在すると思っています。

愛が存在しているのを信じている人であれば、魂の存在も信じられるはずです。

なぜなら、愛が生まれる場所も、感じる場所も魂だからです。



亡くなった人の肉眼は失われているために、地上の人の肉体は視えません。

しかし、肉眼に変わって霊的な眼が見開かれて、魂が視えるようになります。

魂から生じている地上の人の想いは、手に取るように判るようになっています。

一方、地上の人は、亡くなった人の想いが全く判らなくなっています。

両者の状況は正反対です。



遠いところに行ってしまうわけなどありません。

物理的な制約がなくなり、生前よりも近くにいられるようになります。

「死者の力~津波被災地「霊的体験」の生死学~」(高橋 原、堀江宗正著 岩波書店)という本があります。

遺族の霊的体験をインタビュー形式でまとめたものですが、その中にこんな一節があります。

「夫を亡くした女性は、心のなかに夫がいて、話しかけると答えてくれるような感じがし、メッセージを受けたと喜んでいる。たまに気配を感じ、見守られていると思う。彼女は、どちらの家系の先祖も熱心に拝んでいる。『誰も死んでいない、人の魂は死後どこにも行かず、生きている人たちと一緒にここにいる』と話す(70歳女性、2014年談)」

魂の存在を否定する人は、この文章を読んで、悲しみの果ての妄想あるいは錯覚と片付けようとするでしょう。

けれども、この人以外にも同様の経験をしている人がたくさんいます。

多くの人が霊的体験によって、悲しみや痛みが癒されています。

誰にでも起こっている現象ですが、それを感じ取れるかどうかの差と考えられます。



「魂でもいいからそばにいて~3・11後の霊体験~」(奥野修二著 新潮文庫)には、数多くの霊的現象が書かれています。少し長くなりますが、その中の1つを引用します。

「津波で逝った(長男)の康生くんがそばにいると感じたのは、震災から2年経った頃だという。あの子は言葉は思い出すのに声が出てこない。幼稚園で撮ったビデオを見ればいいのに、怖いのと見れば悲しくなるのがわかっているから見ることもできない。康ちゃんどうしているんだろう、逢いたいなあ…、由理さんのそんな思いが頂点に達した時だった。

「2013年のいつでしたか、温かくなり始めた頃でしたね。あの日、私と中学生の娘と主人と、震災の翌年に生まれた次男の4人で食事をしていたんです。康ちゃんと離れて食べるのもなんだから、私が祭壇のほうを振り向いて、『康ちゃん、こっちで食べようね』そう声をかけて『いただきます』と言った途端、康ちゃんが大好きだったアンパンマンのハンドルがついたおもちゃの車が、いきなり点滅したかと思うと、ブーンって音をたてて動いたんです」

          
窓際にプラスティック製のその車が置かれていた。由理さんがスイッチを入れると「ガガガガ、出発進行!」という機械の音声が聞こえる。もちろん勝手に動くことはありえない。

「『このおもちゃ、勝手に動くの?』どうやったってスイッチをオンにしないかぎり動かないのに動いたのです。その時みんな『アッ、康ちゃんだ』と叫びました。『康ちゃん、こんなとこさ、遊んでんだ』そう思ったらうれしくて仕方がありません。それから何日か経ったある日、主人が次男をお風呂に入れていた時でした。『康ちゃん、もう一回でいいからママにおもちゃを動かして見せて』心の中でお願いしたんです。そしたらまた動いたんですよ『康ちゃん、ありがとう』こんな近い距離で私たちを見ているんだ。そう思った時、昔から私に『笑って、笑って』とひょうきんな顔をしたのを思い出しましてね、そうだ、私も笑わなきゃだめだ、頑張らなきゃだめだと思ったのです。

奥のキッチンから、長女が料理しているのか、カタカタと音がする。由理さんは、すっかり冷たくなったお茶をすすった。」(『ママ、笑って』より)




ここまではっきりと現象を見せてくれるのは稀でしょう。

康ちゃんの伝えたい強い思い、お母さんの知りたい強い思いに共感した霊界の存在の助けが加わって物理的現象が起きたと考えられます。

何よりうれしかったのは、「笑って」という想いをお母さんに伝えられたことだと思います。

近くにいると信じてもらえた瞬間、お母さんの魂に自分の想いを託したイメージを吹き込んだのです。

そのイメージを元に、想いを感じ取ってもらうことができました。

久しぶりにお母さんの心からの笑顔が見れて、きっと安心したでしょう。

何らかの現象が起きた時には、そこに向こうの人の想いが込められています。

言葉では伝えられないので、想いを感じ取って欲しいのです。



愛があるからこそ、いろいろな方法で地上の人に存在を示したり、想いを伝えようとしています。

残念ながら、そのことに気付かないのがほとんどです。

運よく気付いたとしても、気のせいや思い付きとして片付けてしまいます。

こんなにも近くにいるのに、自分の想いをどうしても伝えられない。

向こうにいる人の想いを知ることのできないつらさは、地上の人に想いを伝えられないつらさの裏返しです。



泣きじゃくっている子供に、何を言っても無駄な時があります。

感情で心が一杯になっている人に、存在に気付いてもらうことも、想いを感じ取ってもらう余裕もありません。

悲しみのオーラが壁のように感じられ、近づけなくなります。



重苦しい肉体から解放されて、自由に何でもできるようになっています。

物理的な制約がなくなり、近くにいられるのを喜んでいます。

しかし、そのことが全く判らない地上の人は、いなくなったと嘆き悲しんでいます。

両者の想い(波長)があまりに違うために、接点はほとんどありません。



同じ屋根の下で暮らしながら、心が全く通い合っていない人がいます。

法律的に1番近い関係である夫婦でも、お互いの都合でそうしている人たちもいます。

別れとは、想いが通い合わなくなり、つながりが断たれた状態を意味します。

触れ合うほど近くにいたとしても、霊的には別れています。

死んだ後に、再会することもないでしょう。

そんな人こそ、永久に別れているのかもしれません。

同じ次元で生きているか、いないかは関係ありません。



死は永久の別れと思っている人がいますが、とんでもない誤解です。

誤解が苦しみを生んでしまいます。

肉体はなくても、心は失われていません。

視えなくなっても生きている、想いは変わっていないと、強い意思を持って信じることが必要です。

信じることは愛することです。

魂は再びつながり、愛せない苦しみから解放されます。



愛は魂を引き合う力です。

死によって、その力はいささかも失われないので、引き裂かれることはありません。

親愛の想いで結ばれている人たちに別れは存在しません。





2022年1月23日日曜日

人生を比べない


世界1の金持ちは、ジェフ・ベゾス氏というアメリカ人です。

ネット通販で有名なアマゾンの創業者であり総資産は何と19兆円で、ニュージーランドの国家予算に匹敵するそうです。

個人が所有するには、あまりにも大きな金額です。

ある調査によると、富豪の上位8人の総資産の合計は、世界の人口の下位半分(約39億人)の総資産と同じだそうです。

自分の才能と努力で会社を大きくして来たので、とやかく言うつもりはないのですが、その何分の1かを、天災や飢餓などで苦しんでいる人たちに分け与えたのならば、どんなに喜ばれるだろうかと、つい思ってしまいます。

アフガニスタンの赤ちゃん

そんな大金を持っている人たちを、羨ましがる人は少なくありません。

人は何かと比べてしまう生き物です。

同期入社の人の昇進が自分よりも早ければ、悔しく思う人もいるでしょう。

自分より綺麗な人を見ると、羨ましがる人もいるでしょう。



どんなに資産を蓄えても、死ねば手放さなければいけません。

肩書きは、個の一部を表す地上だけの記号に過ぎません。

死んだ後に残るのは、その人の本質である魂です。

肉体に代わって、魂の美醜が露わになります。

地上にいる時に大金持ちだった人が霊性に目覚めた時に、自分が蓄えていたものを、他者のために有効に活かせなかったのを、大いに悔いることになると思います。

得たものを、人に分け与えてこそ価値が生まれることを知るからです。




地上に生まれて来た目的は、自分を成長させるためです。

目的を果たすために、最適な人生が立案され、それを了承して生まれて来ます。

過去の人生において、悔いを残すようなことがあって、それを晴らすために生まれて来ることもあるでしょう。

摂理に反した行いをして、償いのために生まれて来ることもあるでしょう。

より自分を成長させるために、限界まで追い込まれる出来事を乗り越えて行く人生を志願することもあるでしょう。

それまで培ってきた資質を活かして、人や動物や社会のために何かをするために生まれて来ることもあるでしょう。



目的は誰一人として同じではありません。

それぞれの人生も、当然のことながら違って来ます。

相応しい肉体と環境を選んで生まれて来ます。

心身に障がいを抱えて生まれて来た人は、果たすべき目的の1つがそこにあると考えられます。

こんな環境を選ぶはずはないと思う人もいるでしょうが、目的に辿り着くために、その環境を経験する必要があったのかもしれません。

偶然や運が入り込む余地は全くなく、あらゆることが無限の叡智により勘案された結果です。



目的を果たすために、人生は粛々と展開して行きます。

私の場合、40代半ばで大きな出来事が一時期に集中して起きて、人生が大きく変わりました。

計画があり、目的が存在することを、その時に確信しました。

こうしてブログを書いているのも、目的の1つと思われます。



計画があると同時に、人には自由意志が与えられています。

誘惑に負けたり、わがままにより、計画とは違う方向に進んでしまう可能性があります。

計画を思い出せない地上の人のために守護霊が付いて、沿うように導いています。



平凡な人生で、目的なんか見当たらないと言う人がいるかもしれません。

地上の人生の目的とは、大切なことを学び、成長することです。

特別なことをしていなくても、今までの経験から、たくさんの教訓を学んでいるはずです。

自分がしたことが誰かに喜んでもらえたのなら、成長につながっているはずです。

些細なことを積み重ねながら、少しずつ目的を果たしています。

そして、今日まで平凡であったとしても、明日、人生を変えるよう出来事が起きるかもしれません。



取り返しのつかない出来事が起きると、自分の人生はもう終ったと思う人もいるでしょう。

運が悪いのではなく、眠っている魂を目覚めさせるために、衝撃的な出来事が必要だったのかもしれません。

終わりではなく、そこから目的を果たすための人生が始まるのかもしれません。



「何で自分だけが」と叫びたくなるような出来事が起きることがあります。

人は地上と霊界の間を行き来しながら成長していますが、地上に生まれてからの記憶しかありません。

何事もなく過ごしている人が、過去生で同じような経験を既にしているのかもしれません。

あるいは、来生で経験することになるのかもしれません。

今生でと思った人が経験していることになります。



あらゆる出来事は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則は、生命の進化を目的として創造されています。

苦しむために起きているのではありません。

経験を通して、学び成長するためです。

従って、悪い方向に向かっているように見えても、必ず良い方向に向かいます。

今は真っ暗闇でも、光を見い出す時が必ず来ます。



生まれる環境と、果たすべき目的を決めたのは自分です。

これまでさまざまなことを決めて来た結果として、今の自分がいます。

全て自分で決めて来たことなので、人と比べて嘆いたりするのは、明らかに間違っています。

いけないことなので、苦しくなってしまいます。

生まれて来た目的をすっかり忘れて、目の前にある世界が全てだと思い込んでいるから、比べてしまうのです。



地上では、いろいろな人に囲まれながら生きています。

肌の色も違います。

頭脳が良い人も悪い人も、身体能力が高い人も低い人もいます。

心身の障がいがある人もいます。

自分との違いは、個性の違い以外の何者でもありません。



この世界は、ありとあらゆる個性が、愛により1つになって行くことを目的として創られたと考えられます。

違いを比べるのではなく、お互いを認め合うことが求められます。

それは人間だけではありません。

全ての生き物は明確な目的があって存在しています。

地上の調和を保つために、なくてはならない存在です。



比べてしまうと、偏見や差別やいらぬ劣等感や優越感を持ったりしてしまいます。

それら全てが調和の妨げとなります。

自分との違いは個性として捉え、認めましょう。

良いところを見習い、足りないところに寛大になることで、魂の成長が促されます。



人生は比べるものではありません。

それぞれが決めて来た道を、黙々と歩いているだけです。

全容は、この世を生きている限り判りません。

死んでから明らかになります。

不幸や不運として感じていた、つらく苦しかった出来事が、目的を果たすために必要だったことに気付きます。



地上で感じていた不公平感は、霊界に行くとなくなります。

比べていた対象がいなくなり、周りとの違いがなくなるからです。



敢えて比べるものがあるとしたら、それは自分自身です。

地上に生まれる前の自分と、地上を去った後の自分とをです。

深く学び、知らずに成長していたのならば、無上の悦びとなるでしょう。



2022年1月16日日曜日

美しい光を放つために生きている


上の絵は、言わずと知れた「モナリザ」です。

ただ、作者はレオナルド・ダヴィンチではなく、ジョン・マイオットと言う現存の人です。

上手く描かれているので、本物と間違えてしまいます。



本物と偽物で違うと感じることもあります。

本物には作者の念(想い)のようなものが込められていると思います。

「魂がこもっている」と言う人がいますが、それと同じです。

偽物にはそれが感じられません。

それは、お金のために描いているからだと思います。



芸術鑑賞とは、作品に込められた作者の想いを読み取る、サイコメトリーな作業だと思います。

芸術家の多くは、インスピレーションに(ひらめき)よって創作しています。

インスピレーションの源泉は霊界です。

地上の芸術家が、霊界からインスピレーションを受け取って、それを五感で認識できる形で表現しています。

そう考えると、芸術とは霊界の美を再現していると言えるのかもしれません。

ダビンチの描いたモナリザは、この世の人、この世の風景に見えないのは、そのせいだと思います。

絵から霊気が漂っているようです。


北欧のモナリザとも言われる、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」です。

時代を超えて生きているような生々しさが感じられます。

高い技術のせいもあるでしょうが、込められた想いが、作品に生命力を与えていると思います。



音楽もそうです。

どんなに上手に歌を唄っても、心に響くとは限りません。

逆に、上手くなくても、響くことがあります。

歌に込めた想いを、聴く人が感じ取っているからだと思います。



想いを感じ取っているのは、5感を超えた感覚です。

俗にいう第6感がそれに当たると思います。

第6感とは霊的な感覚であり、インスピレーションもそこで受け取っていると考えられます。

もし、霊的な感覚が存在しなかったのなら、優れた芸術や、偉大な発見は生まれることはないでしょう。



意識が生まれるのはどこでしょうか?

脳の働きですべてを説明しようとする科学者がいますが、物質的な脳から非物質的な意識が生まれるはずはありません。

悲しみも、怒りもそうです。

脳ではなく、自我と言う意識体で感情が生まれます。

自我で生まれた感情が脳に伝わり、それに対応して脳が活動をしています。

五感から脳を介しての入って来た情報と、霊的な感覚によって得られた情報が、自我で統合されて想い(思念)が生じます。



想いを伝える、地上の媒体は言葉です。

「ありがとう」と言う言葉の本質は、感謝の想いです。

想いは直接伝えられないので、五感で判る言葉に変換しなければなりません。

地上では、面倒な行程を繰り返しながら、コミュニケーションをしています。



同じ「ありがとう」でも、感謝の想いが込もった「ありがとう」と、事務的な「ありがとう」があります。

古くから言葉には霊力が宿っていると言われ、それを「言霊」と呼んでいます。

言葉に想いというエネルギーを無意識に込めて伝えています。

地上の人は、五感を介して得られた文字としての情報と、霊的な感覚で受け取った想いを、同時に受け取っています。

メールで「ありがとう」の文字の後に😄などの絵文字を付け足して補足することがあります。

伝えられるのは文字だけで、想いまで伝えられないからです。



目に視える言葉ではなく、目に視えない想いが本質です。

人間も同じです。

目に視える肉体ではなく、目に視えない「魂」こそが人間の本質です。

肉体は、魂から生じる想いを表現するためにある、物質的な媒体に過ぎません。



人から発せられている想いは、さまざまです。

怒りや憎しみもあれば、悲しみや喜びもあります。

想いはエネルギーの一種であり、固有の振動をしています。

怒りや憎しみの想いは振動数が低く、他者を慈しむ想いは振動数が高いと考えられます。

高い振動数の想いを放っている魂ほど、進化していると考えられます。



進化の程度が異なる人たちが、同一平面で生活しているのが地上です。

さまざまな思念が飛び交い、知らずに受け取っています。

類は友を呼ぶと言われますが、放っている思念が似通っていると同調して、同じような人が集まりやすいと考えられます。

逆に、違う思念を放っている人は違和感を感じて、近づきにくくなります。



肉体は同じ地上にいます。

けれども、魂は違う波長の世界で生きていると言えます。

地上に生きていても、怒っている人は怒りの世界に、悲しんでいる人は悲しみの世界に、喜んでいる人は喜びの世界に生きていると言えます。

そして、同じ波長の世界に関心が行き、視える世界も変わって来ます。


イスラム国:日本経済新聞より
この集団は、宗教的なつながりと言うよりも、世の中に対して怒りや憎しみを持った人たちが、世界中から集まって来て、共鳴し合って、その想いが暴力的な行為となって表現されていると思います。


死を待つ人々の家
それと同じ様に、1人の女性の崇高な想いに共鳴する人たちが、世界中から集まって来て、病んだ人、貧しい人のために奉仕をしています。



肉体を持つ、私たちも霊的な存在です。

想いを感じる霊的な感覚があり、外部からさまざまな影響を受けています。

自分が放っている思念と同じ波長の思念に同調します。

共鳴することによって、その後の行動が変わって来ます。



いつの日か死が訪れ、肉体はなくなります。

肉体がなくなっても、生前と変わらない想いが、魂から発せられています。

遮るものはなくなり、対象となる魂に想いはダイレクトに伝わります。

以心伝心であり、伝える側と伝えられる側の間に齟齬は生まれません。



霊界はシームレスな思念(波長)の世界です。

地上とは比較にならないほど厳格に、自然法則の働きによって、同じ波長の世界に引き付けられます。

そこにいるのは、似たような思念を放っている人たちなので、安心していられます。

違う波長の世界(界層)に行くと、判り合えないので、居心地が悪いようです。



霊界では、思念が光となって魂から放射されているのが視えます。

何を想っているのかが一目瞭然であり、その人の本性が判ってしまいます。

肉体がなくなり、大きな解放感を味わいますが、見せたくなかった未熟な部分を隠せなくなり、恥ずかしい思いをするかもしれません。



未熟な自分を変えるために、多くの人は地上に生まれることを望みます。

目的を果たすために相応しい人生が立案されて、それを了承して地上に誕生します。

不幸と言われるような出来事が、ある日突然起きるかもしれません。

あるいは、未熟な部分がパーソナリティーの一部となって生まれ、それが表現される度に因果律が働いて、苦痛を伴う出来事が起きるかもしれません。

遭遇する出来事に悪戦苦闘する中で、大切な教訓を学び、自分が変わって行きます。



霊界に戻り、地上を振り返って、こう思う人も多いでしょう。

「つらかったからこそ自分が変われた」

予期していた自分になれたのなら、深く納得するでしょう。



地上を経験する度に、未熟な部分はなくなり、完全(神)に近づいて行きます。

浄化された魂は、地上に生まれる前より、美しい光を放つようになっています。



2022年1月9日日曜日

法則に従う ②


昔、判らなかったことが、今になってそうだったのかと納得する時があります。

小さい頃、わがままを言ったり、自分勝手な振る舞いを友達にしたらどうなったでしょうか?

嫌われたり、仲間外れにされます。

嘘を付いたらどうなったでしょう?

信じてもらえなくなります。

仲間外れになるのも、信じてもらえなくなるのも、子供にとってはつらものです。


仲間外れにされた理由が判らなければ、「何でだろう?」と思います。

友達から、理由を言われることもあります。

判らなければ、そのままの状態が続いてしまいます。



ようやく理由が判ると、そのままでは嫌なので、改めようとします。

改めたのなら、また仲間に入れてくれるでしょう。

そんなことを繰り返しながら、目に視えない「決まり」のようなものを学んでいたと思います。



ところで、わがままを言ったり自分勝手なことをすると、何故、仲間外れにされてしまうのでしょう?

それは、その行為が「自然法則」に反しているからです。



自然法則とは、神が定めた決まりです。

自然法則は、空間や時間を超越して働いています。

宇宙のどこに行こうとも、過去や未来のいかなる時でも、変わりなく働いています。



自然法則を創った存在は、神と呼ばれています。

神には心があります。

自然法則の中に、神の心が投影されています。

基調となっているのは「愛」です。



わがままや自分勝手な振る舞いは、他者を思いやらずに自分のことだけを考えているので、自然法則に反しています。

利己的な行いをして全体の調和を乱してしまうと、自然法則の働きによって、苦痛を伴う出来事が起きるようになっています。



全ての人は、小さな神を宿しています。

神は良心となって、私たちの心に顕現しています。

自分勝手なことをしていると、友達の心にいる神が「いけない」と認識します。

すると、いけないことをする子を咎めたり、遠ざけたりします。

自然の成り行きで、仲間外れになります。

神は友達を通して、自分勝手な子を戒めています。



「わがままはいけない」と、いくら口で教えても、どうしてなのか子供には判りません。

頭で理解しようとしても難しいでしょう。



地上を生きる私たちには、肉体や精神(地上的な自我)が存在しています。

外部から打撃や侵襲を受けて、肉体に苦痛を感じると、それを回避する行動を取ります。

仲間外れになり、精神的に苦痛を感じると、わがままな部分に気付いて、それ改めようとします。

自分だけでなく、周りの人のことまで考えるようなります。



私たちが死んだ後に赴く世界では、そのような苦痛が存在しません。

たくさんの自然法則を、効率よく学ぶために、地上に生まれて来ています。



神の叡智は無限です。

私たちは永遠の時をかけて、自然法則の働きを学んでいます。

前回のブログにも書きましたが、16年ほど前、私は重い行政処分を受けました。

苦痛の体験を通して、大切なことを学びました。

日本の医療は保険制度によって成り立っていて、国民は保険証を持って病院を受診しています。

治療費の一部を患者さんが負担し、残りを医療機関は国などに請求します。

その時に、してはいけない請求をしてしまったのです。



本当の自分(魂)は「いけない」と訴えていました。

ところが、「誰もがやっていることだから問題はない」と、表に現れている意識(以下自我)は言い訳をしていました。

もちろんですが、誰もがやっていることではありません。



魂にある良心は、瞬間的に正しい答えを出しています。

自我はその答えを、都合の良い解釈、屁理屈を考えて、掻き消そうとしています。

良心と自我の間で対立が起きますが、それを精神的な葛藤として感じています。

どちらが勝つかで、その先の行動が決まります。



自分に嘘を付くとは、魂(良心)の訴えに従わずに、自我の要求に負けてしまうことです。

それが続いてしまうと、いつしか魂の訴えは聴こえなくなり、当然のことのようになってしまいます。

指し示す方向が困難であったり、自分の益にならくても、後悔しないために、良心の訴えに従うべきです。



自然法則の働きは、誰にも止められません。

正確無比に結果が生み出されます。

因果律が作動して、自分の過ちに気付き、償うための結果(出来事)が生じます。

私に処分の決定が出た時には、すでに霊的真理を受け入れていたので、不運を嘆いたり、憤りを感じることはありませんでした。

幸いなことに、真理によって無用な苦しみを感じずに済みました。



因果律が働いていることを、苦痛の中で学びました。

誰かに教えてもらったとしても、ここまで納得はしなかったでしょう。

自分にも良心と言う神がいて、それに抗っている自分がいることも判りました。

危機的な状況になって、魂が目を覚まし、そのことに気付きました。



ばれなければ、処罰を受けることはありませんでした。

そのまま一生を終えることになります。



しかしながら、自然法則に反した行いが見逃されることはありません。

オーラにしっかりと刻み込まれています。

死んだ後に、犯した罪と向き合うことになります。

この世の人生を総括する時に思い出し、罪の意識に苛まれ、後悔をすることになります。

そうなるよりも、この世を生きているうちに結果が生じて、苦しくても償った方が良いと思います。



自然法則の働きを知らないと、平気で過ちを犯してしまいます。

SNSなどで特定の人を誹謗中諸しているのが時々ニュースになります。

法律に抵触しない限り、罰せられることはありません。

ほとんどは匿名であり、陰に隠れて陰湿な言葉を投げかけます。

初めての時、良心が咎めたはずですが、我欲に負けて文章を書いてしまったと考えられます。

同じことを繰り返してるうちに、次第に良心の訴えは聴こえなくなります。

そんなことなどすっかり忘れてしまい、やがて死ぬ時が来ます。



忘れていた数々の行為が映し出され、その時の自分の想いを思い出す時がやって来ます。

誹謗中傷をしている自分の姿を見ることになります。

その行為を受けた人がどうなったかも見せられます。(アカシアックレコードを介してと考えています)

人の心を傷つけていたのを知り、犯した罪を自覚します。

もし死んでしまったのなら、大きな罪の意識に苛まれるのは避けられないでしょう。



人は、霊的に成長するために生きています。

犯した罪を償わなければ、成長は許されません。

生命にとって成長が許されないのは、自由を奪われる以上の苦しみと考えられます。



この世で罪が償われなかったのなら、来世で償われます。

おおよその人生が計画されますが、その中に償いのための出来事が組み込まれます。

それを承知して、この世に生まれて来ます。



ある日、何の前触れもなく、予定されていた出来事が起こります。

原因は見つかるはずもなく、「何で自分が」と思ってしまうでしょう。



過去に自然法則に反した行いがないのにもかかわらず、苦痛を伴う出来事が起きることもあります。

そんな時は罪の償いではなく、魂がより高みを目指して、出来事を経験することを望んでいたと考えられます。

もちろん、生まれる前の自分は承知しています。



同じ出来事であっても、償いのための時もあれば、さらに成長するために起きている時もあります。

1つの人生で、償いと成長を同時に行う時もあると考えています。



償いのため時と成長のための時では、何か違いがあるのでしょうか?

誹謗中傷した人は、次の人生で何らかの出来事が起きて、人に非難されたり、社会から糾弾されるようになるかもしれません。

受け入れられずに、運のせいや、人や社会のせいにしてしまい、そこから何も学ぶことができないのかもしれません。

怒りなどの感情が生まれて、余計に苦しむことになるでしょう。

その苦しみが、罪の償いにつながっていると考えます。



一方、成長のためであれば、何らかの法則(叡智)を学ぶはずです。

意味や目的を見い出し、苦しみは大幅に軽減されるはずです。

出来事を乗り越えて行く中で、生まれて来た目的の1つが成就されて行きます。



人生を遠回りをしないためには、法則に従うことが大切です。

法則がどんなものなのかは、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に書いてありますので、読んで下さい。

今、その時間がないのであれば、良心の訴えに忠実に行動しましょう。

人や社会や動物のためになることを心がけましょう。

そう生きていれば間違いはありません。



2022年1月2日日曜日

霊的真理を伝える

明けましておめでとうございます。

元旦の朝、いつも犬の散歩で立ち寄る小さな神社に初詣をしました。

町内の人が集まっていて、参拝者にみかんを配っていました。

そこで、今年もこのブログが上手く書けるようにと祈りました。



神社には、神様や霊が祀られています。

「霊」とは一体何なのか?

子供の頃、霊とは幽霊のことでした。

「四谷怪談」などの映画に出て来る幽霊は、怒りや恨みを抱いていました。

テレビでは、心霊写真を見せたり、怪奇(心霊)現象を取り上げる番組をやっていました。

いつしか、霊は怖いものと思うようになっていました。



あるテレビ番組で、霊能者が出演者のプライベートなことや、背後にいる視えない存在の姿形を言っていました。

出演者のリアクションから、嘘ではなさそうな気がしましたが、それによって霊の存在を信じたわけではありません。

私にとって娯楽の一部に過ぎませんでした。



現実社会を上手く生きようと考えていた私には、霊が存在するかどうかなど、どうでも良いことでした。

死んだ後のことなど、知ろうとも思いませんでした。

仕事さえ上手く行けば人生は全て上手く行く、そんな気がしていました。



2006年6月のある朝のことです。

左手がビリビリと痺れているのに気付きました。

体から上肢、前腕、そして指先へと何かが流れているのをはっきりと自覚しました。

何が起きたのだろう?と、少し興奮しました。



それは病気を癒す力でした。

その力の正体を知りたくて、辿り着いたのが「シルバーバーチの霊訓」でした。

「病気を治す以上に大切なのは魂を目覚めさせること」

ヒーリングの目的がそこに書いてありましたが、その意味が全く判りませんでした。



ほどなくして、自分の中心にあった仕事で不祥事が起こりました。

やましいことはしていないので、大丈夫だと思っていました。

ところが、事態は悪い方向へと進んで行きます。

精神的に追い込まれて行くのに従って、シルバーバーチの霊訓を食い入るように読むようになっていました。



約1年後、恐れていたことが現実となりました。

想定された中で、最も重い処分が下されました。

シルバーバーチの霊訓に書いてあった「因果律の働き」を思い知らされました。

明日をも知れぬ日々が始まりました。



絶望の中で、シルバーバーチの霊訓に書いてあった2つの言葉が生きる支えになりました。

それは「乗り越えられない困難は与えられない」であり、「(つらい時は)真理にしがみつきなさい」でした。



これまで経験したことのない、つらい状況が続く中で、縁のある人たちにヒーリングを行っていました。

手を当てると、霊力が流れて行き、受けている人の顔に生気が戻る様子を目の当たりにしました。

病気が癒されることに、ささやかな悦びを感じました。



未知の力が存在していることは、私の中では疑いようもない事実となりました。

ただ、霊や死後の世界の存在は、その時点では確証がないために、心から信じるのには至っていませんでした。



受けた処分に付帯して、一定の期間、仕事ができなくなりました。

その期間に仕事に関わることをする、例えば患者さんの相談に乗ったりしてしまうと、免許を失います。

完全に仕事から離れなければいけません。

何もすることのない自分がいました。



何かボランティアをしようと思いました。

体の不自由な人のためにお手伝いしたいと考え、車で20分位のところにある身体障がい者施設に行くことにしました。

そこで、朝から夕方まで、入所者の身の周りのお世話をしました。

障がいの程度はさまざまで、指の本数が少ない人から、全く身体を動かせない人までいました。

知的障がいのある人もいて、両方の障がいを持っている人もたくさんいました。



入所者の中に、20才の青年のY君がいました。

彼は小学生の時に交通事故に遭いました。

生死の境をさまよった末に、一命を取り留めましたが、重度の身体障がいと、知的障がいが残りました。

介助型の車いすで生活をしていて、動かせるのは片方の手だけです。

5,6歳程度の言語の理解力があるようで、こちらが言っていることは大体判りますが、話すことは全くできません。

親しくなり、いろいろなことを話すようになりました。



ある日、霊的真理に関する話をしてみました。

「今は体は動かせないけど、動かせるようになる時が来て、自由にどこでも行けるようになるよ」と伝えました。

意味が良く判らなかったのか、ポカンとした顔をしていました。



時々、お父さんが昼食を持って会いに来ていました。

Y君のように家族と会えたり、短い期間ですが家に帰れる人もいれば、その機会が全くない人もいます。

会いに来てくれるお父さんのことが大好きで、きっと感謝の気持ちを伝えたいだろうと思いました。

「お父さんにありがとうと伝えたい?」と尋ねると、涙を流しながらしきりに頷いていました。



見た目は違っても、本質は健常者と何も変わりません。

心身に障がいがあっても、魂とは無関係です。

1番大切なものが良く判っています。

通うようになって、そのことに気付きました。



自分の想いが伝えられないこと、受けるばかりで何も返せないのが、いかにつらいものなのかを実感しました。

「ずっと先になるけど、何でも伝えられるようになる。その時にいくらでもお父さんにお返しができるよ。」と伝えました。

すると、みるみる表情が明るくなり、大きな声をあげて喜んでいました。



真理を伝えると、喜んでくれる人がいます。

伝えることで、私自身も喜びを感じました。

霊のことなどどうでも良かった私が、霊的なことを人に伝えるようになるとは、夢にも思いませんでした。

気付かないだけで、真理を必要としている人は、世の中にたくさんいることを知りました。



それから数年後のことです。

悲惨な交通事故の様子が、ニュースで流れていました。

犯罪にも等しい加害者の運転により、幼い兄弟が犠牲になりました。

同乗して怪我をしていた、ご両親のショックは計り知れません。(詳細は伏せさせていただきます)



事故からしばらくして、ニュースでご両親の姿が映っていました。

信じられないことに、深い悲しみの中にいるご両親を誹謗中傷する人がいるのです。

お父さんの目はうつろになり、生きる気力がほとんど失われているように見えました。



何とかならないかと思い、お父さんを癒すためにヒーリングを申し出る手紙を、代理人の弁護士を通して渡してもらうことにしました。

それに「シルバーバーチの霊訓(1)」も添えました。



それから数年後に、仕事でご両親の住む街を訪れる機会がありました。

お世話になった弁護士に、その時のお礼を言いに行きました。

あいにく留守だったので、戻る時間まで街を散策することにしました。



街の真ん中に、大きな神社がありました。

境内の長椅子に腰かけて、少しの間、休むことにしました。



しばらくすると、頭の中に言葉がどんどん浮かんで来ました。

自分の思考とは明らかに違います。

考えるのではなく、浮かんで来るのです。

その内容から、事故で亡くなったお子さんから、ご両親へ向けてのメッセージであることが直ぐに判りました。

伝わって来たメッセージには、ご両親のことを想う気持ちが込められていました。

幼い子が親を慰めているのです。

その想いに私の魂も共鳴して、しばらくの間、涙が止まりませんでした。



言葉をつなげると、ちょっとした手紙のようになり、便せんに書きました。

再び事務所を訪れて、それを弁護士に手渡しました。

渡す瞬間に、同じ部屋に視えない何者かがいる気配を感じていました。



それから1週間ほど経ったでしょうか。

ご両親がニュースに出ていました。

加害者に起こしていた民事訴訟を取り下げていました。

記者会見の席でお母さんは、「(亡くなったお子さんたちと)一緒に生きている」と、明るい表情で語っていました。

それを聞いた瞬間、あのメッセージがご両親の魂に届いたと直感しました。

うれしくなり、思わず神に向かい感謝をしました。



以前、渡したシルバーバーチの霊訓を読まれていたと思います。

つらく悲しい日々の中で、魂が目覚めかけていたと思います。

お子さんたちが生きていることを確信し、それにより自分を許すことができて、加害者を許すことができたと思いました。

もし、自分が同じ立場だったとしたら、許せるのか自信がありません。

すごい人だと、思わずにいられませんでした。



奇跡のように感じましたが、霊界で立てられた計画通りに遂行されたと、今は思います。

この様なことがいくつか重なり、私自身も霊と霊界の存在を確信することになります。



このブログを開設して、多くの人と知り合うことができました。

この世には、人知れず深い悲しみや大きな苦しみを抱えている人がいて、修行の場であると改めて感じました。

やり取りを通して、実にたくさんのことを学びました。

そして、霊界の導きが存在することが、はっきりと判りました。



必要とされるのは、知識の深さではありません。

真実を伝えようとする想いです。

その想いに霊界が感応して、必要としている人が導かれて来たり、こちらから赴くようになります。

偶然ではなく、全て因果律の働きによるものです。



想いさえあれば、後は霊界が何とかしてくれます。

信頼して身を任せていれば良いのです。

逆に言うと、想いがなければ、霊界は動きようがなく、その機会は訪れることはありません。



コロナ禍ではありますが、真理を知った時の想いに立ち返り、今年は動いてみようと思います。

必要としている人がいると思います。

そこに学びもあるはずです。


ブログを観ていただいている方にとって、有意義な1年になることを願っています。



2021年12月26日日曜日

法則に従う ①


いろいろなことがあった1年が終わろうとしています。

コロナウィルスから解放されることはなく、マスクが顔の一部になってしまったようです。

そんな中で、コロナに感染して亡くなったり、大変な思いをした人がたくさんいます。

「何が起きるのか判らない」

そう感じている人は多いでしょう。



今までと同じような日々が、これからも続くだろうと、多くの人は思っています。

どこか他人事で、自分に起きるとは思っていません。

しかし、前触れもなく起きる時があります。

そんな時は「まさか自分が」と心の中で叫んでしまいます。



この世界で起きることに、偶然はありません。

病気になるのも、交通事故も、原因が必ずあります。



私たちは 物質(肉体)的な存在であると同時に、霊的な存在です。

肉体と霊は次元の異なる存在であり、それぞれ別々の法則が働いています。

空に石を投げると地面に落ちて来るのは、物質的な法則の働きによるものです。

肉体が成長し老化するのも、同じ次元の法則が働いているからです。



霊(魂)には、霊的次元の法則(以下霊的な法則)が働いています。

物質的な法則は検証が可能であり、何回やっても同じ結果が出るので、疑う人はいません。

けれども、霊的な法則は、目で確認できるような類のものではありません。

霊の存在を信じていない人にとって、宗教的な妄想のように感じるかもしれません。



信じる、信じないにお構いなしに、霊的な法則は働いています。

物質的な法則は、地上にいる時だけですが、霊的な法則は次元を超越して働いています。

より高い次元に向って生き続ける人間にとって、霊的な法則の方がはるかに重要です。



地上にいる人の多くは、霊的な法則が働いていることなど知りません。

そのために、平気で法則に反した行いをしてしまいます。

お互いに傷つけ合う、戦争もそうです。



目に視えない形でも、人を傷つける行為は行われています。

例えば、ニュースでたびたび取り上げられる、SNS上に書き込まれる誹謗中傷なども、そうです。

心を傷つけているのであれば同じです。



貧困が生まれるのも、法則に反した行いをしているからです。

自分さえよければと言う利己的な思いと、お金をたくさん所有したいと言う物質欲が世の中に蔓延しているからです。

必要十分なものが、全ての人に行き渡るように、地上は創られています。

富が偏在してしまい、必要なところに回らなくなっています。



肉食を含む、動物の虐待もそうです。

人間は最も優れていて、他の動物は劣っていると言った、的外れで差別的な観念がこのような悲劇を生み出しています。

霊的に最上位にいる人間は、他の動物たちを庇護する立場にいますが、真逆な行為をしています。

毛皮にされる動物たち

地球温暖化もそうです。

物をたくさん持つことで豊かになれる、消費することで満たされると言う、物質に捉われた観念と、周り(環境)のことを考えようとしない利己主義による結果が現われています。



法則に反した行いには、因果律の働きにより、苦しみや痛みを伴う事象が起こります。

人を傷つければ、自分が傷つけられて、痛い思いをします。

負の連鎖が生まれて、やがて大きな犠牲を伴う事象に発展します。

jiji.comのHPより

貧困は、故意によるものではありません。

そのため、その報いが直接、自分に返って来るわけではありません。

関わっている(経済的に豊かな)国の人たち全てに、思いもよらぬ形で、返って来ていることもあります。



世界中で、新型コロナウィルスが流行しています。

現在、主流になりつつあるオミクロン株は、南アフリカ共和国が起源と言われています。

同国の貧富の差は著しく、人口の1割にも満たない白人が、富の70%を保有しているようです。

今も世界で猛威を振るっているデルタ株は、インドが起源と言われています。

インドは貧富の差は世界一と言われ、人口の1%の裕福層が73%の富を持っています。

また、コロナで亡くなった人の数は、アメリカが抜きん出て多いです。

世界一経済的に豊かな国なのに、貧しい人たちは適切な医療を受ることができていません。



日本の死亡者数が少ないのは、世界中の国から不思議に思われています。

マスクをするなど衛生面で優れていることが、一因として挙げられています。

それだけでなく、他の国に比べて差別や貧富の差が少なく、より法則に適っているせいなのかもしれません。



ウィルスの流行は自然現象です。

全ての自然現象は、自然法則の働きによって起こります。

神は自らの心を顕現するために、自然法則を創造したと考えられます。

従って、人類を苦しめている新型コロナウィルスの発生や変異にも、神の心が顕現していることになります。






富める人たちが、貧しい人たちを見て見ぬ振りをしながら生きています。

それが過ちであることを、全人類が関わる自然現象を通して、気付かせている様な気がしてなりません。

自然法則は、あらゆる事態を想定して創られています。

変異が起きるのは偶然ではなく、初めから自然法則の中に組み込まれていると思います。



富める国の一部で、4回目のワクチン接種が始まるそうです。

一方、サハラ以南のアフリカでは、1回目の接種が終わったのは、人口のわずか15%です。

貧しい人たちに、ワクチンが十分に行き渡っていないようです。

この先、貧しい人や貧しい国の間で流行が続いてしまうと、過ちに気付かせるために、致死率の高いウィルスが出現するかもしれません。

そうならないことを祈るばかりです。



法則の根幹にあるのは「愛」です。

自分や自国さえ良ければという、愛に反した利己的な想いが、戦争や貧困、地球温暖化だけでなく、コロナウィルスの流行も生み出していると考えられます。

もしそうならば、他者や他国のこと、地球全体のことを考えて、私たちは行動しなければいけません。

ひとり一人が全体のことを考えて行動すれば、ウィルスの流行を含め、人類を悩ます全ての問題は収束に向かうはずです。



犠牲と苦痛を伴いながら、個ではなく全体のことを考えるようになって行きます。

調和が生まれて、個々の生命は霊的に1つになって行きます。

それが法則に込められた神の心だと思います。



2021年12月19日日曜日

あの世がベールに包まれている理由


小学生低学年の頃、テレビで「大魔神」と言う映画を観ました。

穏やかな顔をした石仏が、恐ろしい形相の魔人となり動き出し、悪人たちを成敗するという物語でした。

それからしばらくして、夢の中に大魔神が出て来るようになりました。

その夢はとても恐く感じました。

どこへ逃げても、いくら逃げても、地響きを立てながら、大魔神が私を執拗に追いかけて来ます。

夢なのに現実としか思えず、目が覚めて安堵したのを、今でも覚えています。

大魔神(バンダイチャンネルより)

夢には2種類あります。

1つは潜在意識が反映したもので、大脳が作り出したフィクションです。

昼間の体験が反映されたものや、意味不明のものもあり、大魔神の夢もそうです。

精神医学者のフロイトによれば、逃げ回る夢は何らかの精神的圧力がかかって不安がある時に見るそうです。



もう1つの夢は、ノンフィクションです。

こちらは肉体から魂が離脱してあの世に赴き、そこでの実体験です。

愛する人に会っていた時は、目覚めた時に温もりや充足感が残っていると言われています。



けれども、多くの人は夢を覚えていません。

毎晩のようにあの世に行っているはずなのですが、思い出せません。

その理由は、霊界での体験は地上の体験とは異なり、五感を介さないために大脳で処理されず、頭(海馬)に記憶されないためと考えています。



覚えていない理由は、それだけでないと思います。

はっきりと覚えていて、それが楽しい体験であればどうでしょう?

この世界から逃避して、眠りに耽ってしまう人もいると思います。



この世の人にとって、あの世との接点は夢の中です。

もっと別の形で、あの世が判るようになれば良いのにと思う時があります。

そうすれば、死を怖がることなく、安心して生きられます。

この世に対する執着も少なくなります。

あくせく生きようとしなくなり、地上的なものに捉われなくなるでしょう。

霊的真理が素直に受け入れられて、意識の焦点が物質的な世界から霊的な世界へと移るでしょう。



しかし、霊的な世界に意識が向き過ぎると、現実の世界に対する意識が希薄になります。

地に足がついていない状態になります。

現実の世界が疎ましくなり、逃避した生き方をしてしまえば、生まれて来た目的は果たせません。

霊的な意識を持ちながら、現実の世界にしっかりと軸足を置いて、生きることが大切だと思います。



この世に生まれて来た目的は、自分を成長させるためです。

降りかかる困難や障害を乗り越えて行くことで成長します。

あの世では起こり得ない出来事を経験するために生まれて来たので、逃げ出したい気持ちを抑えて、立ち向かって行かなければなりません。



しかしながら、地上の人はそれほど強くありません。

あの世があることが判れば、つらいこの世を生きるのを放棄して、それが過ちとは知らずに、自らの意思で行ってしまう人もいると思います。



死んだら終わり、あの世などないと思っていたとしても、精一杯生きて、成長を果たすことができれば、それで良いと思います。

誤った認識は、後で改めることができます。

あの世があること、そしてこの世を生きる意味を私は知っています。

知っていながら成長を果たせなかったのならば、その代償を払うことになるでしょう。

霊的な知識のある人は、その知識を活かす生き方をしなければいけない、シルバーバーチの霊訓には何度も書かれています。

知識には責務を伴うことを、忘れてはいけないと思っています。



あの世があっても、生きていたいと思うのは、肉体を持つ人間の宿命です。

もし仮に、死がなくなり、この世に生き続けるとしたらどうでしょう?

それは、決して喜ばしいことではないと思います。



多くのスポーツは、限られた時間の中で競い合います。

残り時間を、気にしながらプレイします。

終わったら、振り返って、その試合を評価するでしょう。

ダメだった点を反省し、改善することで、強くなって行きます。



もし、試合時間に制限がなかったとしたらどうでしょう?

集中力は途切れ、疲弊してしまいます。

当然のことながら、試合の結果も出ません。

評価はできなくなり、改善にもつながりません。



この世を生き続けるとしたらどうでしょう?

時間の制限もなくスポーツの試合をしているのと同じです。

疲れ果ててしまうでしょう。

あるいは、終わりのないテレビのドラマを観ているのと同じです。

惰性的でマンネリ化し、終いには早く終わって欲しいと願うようになるでしょう。

時間が限られていて、終わりがあるからこそ、精一杯生きようとします。



成長するための第一歩は、自分自身を知ることです

あの世に行くと、この世の人生を振り返る時が訪れます。

自分の取った行動や想いの全てを回想することになります。

この世の人生を通して、自分を評価することができます。

良かったところ、悪かったところが自覚されます。

それを伸ばそうとしたり、なくそうとします。

死によって、リセットが必要なのです。

そんな理由もあり、この世とあの世を行き来しながら、霊的に成長して行く仕組みを、神は創造したと考えています。



楽しかった人生も、つらかった人生も、死と共に終わりを告げます。

病気や障がいのあった人は、悩ましい肉体から解放されます。

今までの苦しみや痛みが噓のようになくなり、何でも自由にできるようになります。

大切な人がいない世界で生きる悲しみや寂しさは、一瞬にして、同じ世界で生きる悦びに変わります。

生きることに追われて、やりたくてもできなかったことが、思う存分できるようになります。

この世で叶うことのなかった夢が、あの世では現実のものとなります。


この世を生きる人にとって、夢のような世界であるからこそ、あの世はベールに包まれています。

 あの世があることだけは、知っておいて下さい。




2021年12月12日日曜日

生きている意味


何で生きているのだろう?

こんな疑問を持ちながら生きていました。

その答えが、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)の中に書いてありました。

 


人は成長(進化)するために生きています。

けれども、本当に自分は成長しているのだろうか?と思うこともしばしばです。



霊と精神と肉体の複合体が、地上の人間です。

肉体的な成長は、身長や体重などの数値的な物差しで測れます。



しかし、霊的な成長は、地上的な物差しで測れるようなものではありません。

何か指標みたいものはないのでしょうか?

シルバーバーチの霊訓には、「慈悲」「慈愛」「寛容心」「協調的精神」「奉仕的精神」が霊的な資質と書かれています。

これらの資質がより多く表現されている人ほど、霊的に成長していると思います。

私たちは、これらの資質を高めるために生きていると考えられます。



そんなことのために生きているはずはない、人生を楽しむために生きていると言う人は少なくありません。

自分の好きなことをしているのは、誰でも楽しいものです。

旅行が好きならば、1年中旅行をしていたいと思うでしょう。

趣味に興じている時には、喜びを感じます。

1度きりの人生なので、思いっ切り楽しまなければ損だと言う声は良く聞かれます。



人生は一度きりではありません。

何度目かの地上の人生を、今、生きています。

死んだ後にも人生は続いています。

記憶にはありませんが、生まれる前にも人生はあります。

何度も生まれて来るのは、地上で身に付けなければならないことがたくさんあるからです。

死んだ後に待ち受けている世界(以下霊界)を、悦びに満たされながら生きるためです。



それでは、悦びに満たされるために、何故、地上生まれなければならないのでしょうか?

霊界は地上と大きく違う点がいくつかあります。

霊界に行くと肉体がなくなります。

肉体を養う必要がなくなり、食べて行くために働かなくても良くなります。



霊界は想念の世界です。

想像するのが難しいですが、想ったことが直ぐに具現化します。

欲しいものは何でも手に入り、やりたいことが何でもやれます。



もう1つ、大きく違うところがあります。

自分と(霊的に)似た人しか周りにはいません。

お互いが深く判り合えているので、人間関係の煩わしさはありません。



食べて行く必要がなくなり、好きなことが何でもできて、判り合える人たちと暮らしている霊界は、とても快適な世界です。

天国と言われる所以であり、ずっといたくなるはずです。

それでも、地上にあえて生まれて来るのには理由があります。



その理由は、苦痛の取り払われた霊界では起き得ない出来事を、地上で経験することができるからです。

経験することによって、大切な教訓を学ぶことができ、霊的な資質を身に付けることができるからです。



例えば、資質の1つである「慈悲」はどうでしょう。

身に付けようと思っても、身に付けられる類のものではありません。

自分が悲しみや苦しみを経験して、初めて他人の悲しみや苦しみが判るようになります。

想いが判り、何とかしてやりたいと思うのが、慈悲の心だと思います。

経験がなければ、経験している人の想いは判るはずもないので、慈悲の心を持つためには、それに相応しい経験をする必要があります。

相応しい経験が偶然起きるのを待っているのではなく、神の配剤により、初めから人生に組み込まれています。



「協調的精神」はどうでしょう?

霊界では同類の人たちと生活しているのに対し、地上では自分と違う人たちに囲まれながら生活しています。

周りの人の意見を認め、擦り合わせながら生きて行く必要があります。

そうしなければ、孤立したり、不調和が生まれて争いになってしまうこともあるでしょう。

戦争はその典型です。

因果律の働きのより、地上にしかない苦痛を味わいながら、協調的精神を学んでいます。



泳ぎ方を知らない人が、水に落ちたら溺れてしまいます。

呼吸ができなくなれば、死んでしまいます。

死なないために、呼吸ができる体の動かし方を、無意識のうちに見つけようとします。

もがき苦しみ、試行錯誤しながら、息が出来るような体の動かし方を見つけ出します。

一度、習得すれば、次に同じ経験をしても、もう大丈夫です。

苦痛を伴うことほど、そこから抜け出そうと必死になるために、早く、確実にその術が身に付けられると考えられます。


人には成長しようとする根源的な欲求があります。

居心地の良い霊界を離れて地上に生まれて来たのは、苦しみや痛みを経験することにより、早く、確実に大切な教訓が身に付けられるためと考えられます。

自分自身がそのことを望んでいたはずです。



私たちは、神が創造した、神の一部です。

けれども不完全な存在であり、完全(神)に向かって進化を続けています。

完全な叡智であり、完全な愛である神により、自然法則は創造されました。

地上に生まれたのも、さまざまな出来事を経験するのも、自然法則の働きによるものです。

偶然や運不運の入る余地は全くありません。

自然法則の働きによって、私たちは完全(神)へと導かれています。



地上で予定していた霊的な資質を身に付けると、自然法則の働きにより、肉体はその役目を終えて朽ち果てます。

魂は次の世界に移行し、新たな媒体よって自己表現するようになります。

幾重にもなった媒体を、霊性の高まりと共に1つ1つ脱ぎ捨てながら、完全(神)へと近づいて行きます。



果てしなく続く進化の一過程に、地上の人生があります。

苦しみや悲しみの経験は、魂の成長を促しています。

霊界に戻り、自分に足りなかった資質が、地上を経験して補われていることに気付きます。

身に付けた資質が、霊界での生活をより悦びに満ちたものにしています。

地上の経験は、完全に報われていることを知り、神の絶対的公正に深く感謝するでしょう。






2021年12月5日日曜日

自分を信じて一歩を踏み出す


仕事が休みの朝は、ちょっと遠くまで犬を連れて散歩をしています。

その時に、立ち寄っている神社があります。

村の鎮守さまのような小さな神社ですが、参道には背の高い杉が立ち並び、近所の人たちによって境内は掃き清められ、気持ちの良い空間です。

社の前に立ち、ブログが上手く書けますようにと、今日も祈りました。



ヒーリングをする時も、癒されることを祈念しています。

仕事で失敗が許されない時も、祈りながら臨んでいることがあります。

人前でスピーチする時なども、上手く行くように祈っています。

何かをしようとする時に、無意識に祈っていることが多いです。



以前は、神がいるなどと思わずに、形式的に手を合わせて祈っていました。

今は、霊的真理と出会い、さまざまな体験を通して、神の存在を実感しています。

神は高みから私たちを見下ろしているような存在ではありません。

自然法則の中に、顕現しています。



祈る時に問われるのは、その動機です。

神の心は愛です。

私たちが成長することを望んでいます。

人や動物や社会など、他者のための祈りであれば、自然法則と一致しているので、聞き届けられます。

困難を乗り越えよう、何かに挑戦しようと祈る時も、成長につながるので聞き届けられます。

金持ちになりたい、出世したいと祈っても、地上的な欲望を満たすためなので、聞き届けられません。



選挙の時に、立候補者が「皆様のために頑張ります」と演説しているのを聞きます。

その言葉を聞いて、応援しようとする人もいるでしょう。

けれども、霊界の存在はそう簡単には行きません。

言葉そのものではなく、そこに込められた想いを正確に読み取っているからです。

言葉とは裏腹に、自分の欲を満たすためであれば、聞き届けられないでしょう。



神に向かって祈ったとしても、直接力を貸してくれるわけではありません。

霊界の人たちは、地上に向けてアンテナのようなものを張り巡らしています。

地上の人の想いに同調した霊界の人が感応し、引き付けられます。

そして、祈りが成就されるように、働きかけるようになります。



霊界の人は、地上の人に想い(思念)を送って働きかけています。

送られた思念というエネルギーによって、多様な結果が生じます。

地上の人の不安や心配や怖れが払拭され、前向きな気持ちに変わることもあるでしょう。

やる気で満たされる時もあるでしょう。

道が拓けるインスピレーションが生まれるかもしれません。

思いがけず、助けてくれる人が現れたりするかもしれません。

そんなことがあると、運が良かったと片付けてしまいがちですが、実は霊界からの働きかけによる結果かもしれません。

偶然と思ってはいけません。

神は、地上の人の祈りに同調した霊界の人を通して、その力を顕現していると思います。



「私が勧める祈りの言葉は、たった一言しかありません。〝何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え″――これです。」と、シルバーバーチの霊訓には書いてあります。

これは私の経験です。

心の中で(霊的)奉仕をさせて下さいと祈ると、霊力を必要としている人から、直ぐに連絡がありました

そんなことが、幾度となく繰り返されるうちに、祈りは霊界に届いて、網目のように張られたネットワークによって、叶えられると思うようになりました。



地上の人が何かを始めようとすると、その想いに感応して霊界も動き始めます。

言い方を変えると、何かを始めようとしない限り、霊界は援助のしようがないと言うことになります。



しかし、この世は霊界と異なり、物質を介して表現をしなければならず、不確実であり、思い通りに行くとは限りません。

失敗もするので、つい二の足を踏んでしまいます。

一歩を踏み出すのに、勇気が必要になります。



何かを始める時には、不安や心配が付きまといます。

それを克服して進んで行かなければならない時があります。

自分を信じて、勇気を出して一歩を踏み出すしかありません。



自分を信じることの大切さは、多くの人たちが訴えています。

けれども、どんな意味なのか、深く考えたことはありませんでした。



地上の人には、2つの自分がいると考えています。

1つは、表に出ている自分です。

日常生活を営んでいる意識であり、地上の顔です。

シルバーバーチの霊訓に書かれている「パーソナリティー」です。



もう1つは、奥に控えている自分です。

非日常的なことが起きた時に表に出て来る意識です。

本当の自分であり、「インディビジュアリティー」に当たります。



インディビジュアリティーを地上で表現するために、パーソナリティーは存在していますが、ある程度の独自性を持っています。

エゴとはパーソナリティーが強くなり、インディビジュアリティーが表現されにくくなっている状態と考えられます。

パーソナリティーは肉体とインディビジュアリティーの間に存在しているため、両者と密接に関係しています。

そのために、表現媒体である肉体を守ろうとします。



火事で家に取り残された人を助けたくても、炎の中に入って行くのを躊躇してしまいます。

人を助けたいと思うのは、インディビジュアリティーの働きです。

インディビジュアリティーの中に神が存在しているからです。

パーソナリティーは炎の中に入れば肉体を失ってしまうと考え、インディビジュアリティーから生じる衝動を抑制しています。

地上ではインディビジュアリティーとパーソナリティーの間で、しばしば葛藤が起こります。

本当はこうしたいと思っても、別の自分が止めさせようとして、その間で揺れ動いてしまう経験は、誰もがあると思います。



インディビジュアリティーは、成長につながる行動を促しています。

パーソナリティーは、地上的な不利益を考えて、インディビジュアリティーの発現を抑制しています。



「自分を信じる」とは、パーソナリティーがインディビジュアリティーを信じることだと考えられます。

さらに言えば、インディビジュアリティーの中の神を信じることです。

神の力が、自分にも秘められています。

自分を信じることにより、神とのつながりが強くなり、目的を成就させる力が、無限の始源から引き出されます。



霊界では肉体が取り払われています。

それにより、神の存在がありありと感じられるようになります。

宇宙全体が神であり、全体を構成する神の一部として自分がいることに気付きます。

神の力によって生かされていることを、はっきりと認識するようになります。



肉体が有する五感では、神も神の力も感じることはできません。

そのために、地上では神の存在を信じなければなりません。

信じるという能動的な作業が、神とのつながりを結果的に深めて行くことになると思います。

祈りは、神とのつながりを深める最も有効な手段だと思います。



シルバーバーチの霊訓には「祈りとは自分の波長を普段以上に高めるための霊的な行為」と書かれています。

乗り越えなければいけないこと、挑戦しなければいけないことが地上で起きるのは、その時に何かに向かって無意識に祈ることにより、神とのつながりをより一層深めるためなのかもしれません。



上手行ったとしても、それは自分の力だけではありません。

何かをしようとする時に、内と外から力が与えられています。

知らずに神の力が働いているので、感謝しなければいけません。



勇気を出して、一歩を踏み出せば、後は何とかなります。