2023年12月31日日曜日

1年の終わりに思うこと


2023年が終わろうとしています。

1年間、お疲れ様でした。



このブログを書き始めて14年になります。

当初は、ある日突然出現したヒーリングの力を、多くの人に知ってもらいたくて書き始めました。

ヒーリングの力は、病を癒すことを通して、霊的真理を広めるために存在しています。

地上に生まれると、生命(魂)、想い、法則の働きなど、霊的なものが視えなくなってしまいます。

目に視えるものが全てで、死んだら終わりと思っている人がたくさんいます。

ヒーリングにより、目に視えない力が存在していることを実感し、霊的に目覚める人がいます。

目覚めることにより、真理を受け入れる土壌ができます。



あれから、どれくらいの人をヒーリングをしたのか覚えていません。

残念ながらヒーリングにより、霊的に目覚めたかどうかを知ることはできません。

もし、生き方や考え方が変わったのなら、内面でも変化が起きていると考えています。



ヒーリングの力が出現した時に、思いもよらぬ出来事が降りかかりました。

その出来事により、徹底的に追い詰められました。

救いとなったのは霊的真理です。



ブログを書き始めてしばらくすると、コメントを下さる方がちらほらと出て来ました。

中には、悲痛な経験を吐露されて、かける言葉が見つからない人もいました。

そんな中で、霊的真理によって、慰めたり、勇気付けられる人がいることを知りました。

私が救われたように、真理により救われる人がいるので、求めている人たちの目に触れることを強く望みました。



これからブログ等を通して真理を伝えようとしている人は、観ている人からコメントを送ってもらえるようにして下さい。

コメント送って下さる人の貴重な経験や意見から、多くのことを学ぶことができ、あなたが伝える真理により、魂が癒されたり、救われる人がいるでしょう。

コメントに答えると、私自身にも学びが得られました。

自分が答えているつもりで、霊界が答えている時があることに気付きました。

その時に得られた学びが、霊的な財産になっていると考えています。



小さな学びが、積み重なって行きました。

いくつかの学びを土台にして、その上に新たな学びを得ることができるようです。

足し算ができて、初めて掛け算ができるようになるのと同じような気がします。



自分が得た学びを、たくさんの人に共有してもらいたくて、ブログ上に書いて来ました。

最初は躊躇しましたが、霊界の意図かもしれないと思いました。

どんな内容を書くのかは、まず自分で決めなければいけません。

書いていくうちに、頭ではない部分が働き出すのが分かります。

心の中に言葉が浮かんで来て、自然に文章になって行きます。

考えるのではなく、浮かんで来た言葉を書いて、あとは文章を整えて行けば大丈夫です。



不思議なことに、ある人のことを思い出しながら書くと、その方からコメントが届くことが多いです。

その人が、必要な内容だったのかもしれません。

霊界が察知して、私に書かせていたような気がしています。



真理の普及は、霊界主導と言われます。

目に見えないところで、全てが準備されているように思います。

霊界の人は、真理を必要としている人と伝える人をつなげています。

いかにすればつながるのかを、常に腐心しているように思います。



今年になって、電子書籍を出版しました。

まだ真理を知らない人との間に、接点を増やそうと思ったからです。

タイトルは「亡くなった愛する人とつながる」で、このブログの内容を編集したものです。

大切な人を亡くした人が目にして、真実に気付いてくれることを願っています。



私が時々利用しているヴィーガンカフェをお借りして、「霊的真理のお話とヒーリングの集い」を月1回のペースで開くことにしました。

限られた人ではありましたが、「シルバーバーチの霊訓」の存在を直接伝えられ、ヒーリングをすることができたので、有意義だったと思っています。



霊界が求めているのは、深く真理を学ぶことよりも、伝えようとする強い想いのような気がしています。

どんなことをして来たかよりも、どれくらい伝えようとしているのか、「今」を見ていると思います。

伝えようとする地上の想いに、霊界の人の想いが同調することで、インスピレーション等の霊力を伝えることができると思います。

知識がいくらあっても、伝えようとする想いがなければ、霊界と同調することはできません。



霊的真理と出会い、救われた時の想いを忘れてはいけないと思っています。

しかし、十数年も経過すると、あの時の想いはどうしても薄れて来ます。

そんな時は、霊界に真理を伝えさせて下さいと、祈ることが必要です。

その想いは霊界に届き、直ちに導かれて来る人もいます。



霊界の人たちは、地上の人の心が視えています。

問われているのは、伝えようとする想いがあるかどうかです。

その想いさえあれば、必要としている人が導かれて来て、インスピレーションなどの適切な力が与えられるはずです。

霊界からの援助があるので何とかなります。

もっとたくさんの人に、自由に伝えて欲しいはずです。



1年を終えるに当たり、神と霊界の人たちに、改めて感謝します。

そして、戦争が早く終わり、穏やかな世界になることを祈ります。






2023年12月24日日曜日

魂の成長とは


世界1美しい絵と言われているのが、言わずと知れた「モナリザ」です。

確かに美しいとは思うのですが、どこが、どう美しいの?と聞かれても、返答に困ってしまいます。



そもそも、「美」とは何でしょう?

はっきりと答えられる人はいないのかもしれません。



ところで、幸せとは何でしょうか?

悦びを感じている状態と言う人もいるかもしれません。



それでは、悦びとは何でしょうか?

答えられなくなってしまいます。



愛は大切だと考える人は少なくありません。

けれども、何で大切なの?と聞かれると、直ぐには答えられません。



「美」、「幸せ」、「悦び」、「愛」、全て目に視えないものです。

目に視えなくても、私たちはそれらが存在していることを実感しています。



どこで実感しているのでしょうか?

脳と答える人が多いと思います。

例えば「悦び」ですが、脳内で神経伝達物質であるドーパミンが放出されることによって感じていると科学者は説明するでしょう。



それでは、何が悦びを感じているのでしょう?

自分に決まっているだろうと言われそうですが、その自分とは何なのでしょう?



「自分」も脳が作りだしている、そして多種多様な「個性」も脳が作り出していると、科学者は答えるでしょう。

それを証明した人は、誰一人としていません。

証明できるわけがありません。

肝心な部分が欠落しているからです。



地上の人間は、「肉体」「精神」「魂」の複合体です。

真の「自分」とは魂です。

脳を含む肉体は、その表現媒体に過ぎません。



もちろん、「個性」も脳で作り出されるものではありません。

肉体とは異なる精神的次元に、魂の反映として個性が形成されます。



「美」を感じているのは、脳ではなく魂です。

魂は霊的次元の存在です。

美は霊的な感覚なので、物質的次元の言葉で説明するのは極めて困難になります。



モナリザに、この世のものとは思えない美を感じるのは、霊的な感覚を刺激しているからです。

作者のレオナルド・ダヴィンチは霊界から送られて来るインスピレーションを正確に受け取り、忠実に描写できる、類まれな才能があったと考えられます。



精神とは、魂と肉体の間に介在する媒体です。

魂が肉体に宿ると同時に、地上的な自我(精神)が生まれます。

地上的な自我は、肉体(五感)を通して外部からの情報を受け取ると同時に、肉体を使って外部に自己表現しています。

死んで肉体を失うと、霊的な自我で自己表現するようになります。(但し、死を認識していない人はその限りではありません。)

眠っている間も、霊的な自我が活動しています。



シルバーバーチの霊訓に書かれている「魂」とは、霊的な自我と考えています。

魂の本質は、神そのものであり完全であると考えています。

魂の成長とは、魂そのものではなく、霊体と言う不完全な媒体が完全に近づいて行く過程を指すと考えています。



普段、私たちは地上的な自我で自己表現をしています。

危機的な状況に陥った時や窮地に追い込まれた時などに、地上的な自我の陰に隠れていた霊的な自我が前面に出て来ます。

魂が目覚めるとは、地上的な自我に代わり、霊的な自我が主導権を握ることだと考えています。

真の自分とは、もちろん霊的な自我です。



それぞれの自我が存在する次元は異なります。

電波は波動であり、振動数があります。

人間から出される思念(感情)も波動であり、それぞれの思念に振動数があります。

怒りの感情は低い振動数であり、憎しみになるとさらに低くなりますが、それらは地上的な自我から生じていると考えられます。



一方、悦びや愛はレンジが広く、地上的な自我から霊的な自我にまたがって生じていると考えられます。

例えば、宝くじが当たったなど世俗的な悦びは低い振動数であり、地上的な自我から生じていると考えられます。

役に立った時の悦びは、振動数が高く、霊的な自我から生じていると考えられます。

利己性を帯びた愛は地上的な自我から、利他性を帯びた愛は霊的な自我からが発せられていると考えられます。

イエス・キリストが言う「敵を愛する」想いは、最も振動数が高い思念の1つであり、極めて成長進化した霊的な自我から生じていると考えられます。



怒りや悲しみや怖れなどの感情は、地上的な自我から生まれているので、肉体がなくなったと同時に消滅するはずです。

しかしながら、地上的な自我しか表に出ていなかった人や、死んだと思っていない人は、霊的な自我がなかなか目覚めずに、その感情から抜け出せません。



私たちは、完全(神)には程遠い存在です。

それでも、私たちには神性があります。

宇宙全体が神であり、宇宙を構成している一部だからです。



駅のホームに落ちた人を、電車が迫って来ているのにも関わらず、助けようとする人がいます。

聖書には「全き愛は恐れを締め出す」と書かれています。

神性から生じている愛によって、地上的な自我から生じている怖れが打ち消されたので、そのような行動ができると考えられます。



地上的な自我の要求に従うのか、それとも霊的な自我の要求に従うのかを、決めるのは自分です。

霊的な自我の要求は、得てして困難や苦労や危険を伴うものです。

両者の間で、しばしば葛藤が生じますが、霊的な自我の要求に従って行動に移した時に、成長進化が得られます。



生まれて来た目的は、地上的な自我(エゴ)に打ち克ち、神性を発揮することで、魂を成長させるためです。

魂が成長進化し、ふんだんに神性が発揮されるようになると、怖れだけでなく、怒りなどの感情からも解放されて、悦びのみが感じられるようになります。

その境涯に至ると、地上を生きる必要はもうなくなり、霊界で成長進化して行けるようになります。


NASAの公開画像より

モナリザの絵よりも宇宙の方が、私には美しく感じられます。

自然法則の働き(神の心)によって、完全な調和が表現されているからです。



個々が全体のために存在していることで、調和が生まれます。

それぞれの人が、全体のために寄与することで、この世界は美しくなって行くはずです。


2023年12月17日日曜日

覚悟を決めて生まれて来た

全ての自然現象は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則の根幹を為しているのが「因果律」です。

原因があって、その結果として現象(出来事)が起きています。

そこに偶然は存在しません。



地上の人生は、受胎の時から始まります。

受胎とは、卵子と精子が結合した瞬間に、魂が宿る自然現象です。

この現象も、何かしらの原因があって起きています。



受胎前に、私たちは霊界にいます。

居心地の良い霊界を離れて地上に生まれて来たのは、明確な原因(目的)があったからです。



シルバーバーチの霊訓には、地上でしか支払えない借りがあれば、また地上に戻って来ると書かれています。

地上でしか支払えない借りと考えられるのがカルマです。

記憶にはありませんが、前の人生で自然法則に反する行いがあり、その罪を償うために、地上に生まれて来る人は少なくないようです。



例えば、人を貶めて、人生を狂わせてしまった人がいたとします。

そんなことなどすっかり忘れて死んだとしても、地上での行状を思い出す時が来ます。

自分の行いで、その人が長い間苦しみを味わい、予定されていた人生を歩めなかったのを知ることになります。

その法則に反した行いに対して、因果律が働きます。

無限の叡智により、罪を償うためのプログラムが立案され、それを了承して再び地上に生まれて来ます。



人を貶めたのなら、自分が貶められる経験をするのが妥当な気がしますが、実際はそんな単純なものではないのかもしれません。

予定されていた成長を妨げてしまったのなら、自分の成長が妨げられる出来事が起きると考えられます。

失敗するのではなく、逆に地上的な成功を手に入れ慢心してしまい、成長できない、そんな償いの人生を歩む人もいるかもしれません。

起きた出来事から何も学ぶことができずに、苦しさから解放されない年月が続く、そんな償いもあると考えられます。



貶めた人に対する、贖罪の想いが強ければ、その人に直接借りを返すことを望むかもしれません。

そんな人は、対象となる人が地上に生まれる時に、その周辺で生まれることによって、関わり合いを持つことになるでしょう。

その人が窮地に陥った時に、助けなければいけない、強い衝動に駆られるかもしれません。

前生で貶めてしまった人を現生で助ける、そんな償い方もあると考えています。



神が創る計画は、私が想像するような底が浅いものではないような気がします。

全ての人に、非の打ちどころのない完璧な計画が立てられて、それぞれの目的が絡み合いながら、果たされるようになっているはずです。

完璧だからこそ、あらゆることにつじつまが合っていて、不自然さはどこにも感じられません。

コンピューターにデータを入力すると、計算処理されて答えが出力されるように、私たちの想いや言葉や行いに対して自然法則が働いて、機械的に結果が出されます。

全ての物そして事象に対して、同じ自然法則が平等かつ完全に働いていることで、公正は保たれています。



カルマがある限り、その人は霊的に成長はできません。

償いのための出来事は苦痛を伴います。

一見すると罰のように感じられますが、公正を保ちながら、その魂が早く成長して行けるようになるための神の配慮です。

地上の人はピンと来ないでしょうが、霊界に行くと成長ができないのは自由を奪われるのと同じくらい、苦しみを感じるものと想像しています。

成長したい欲求が強い人ほど、苦しみが大きく感じられ、早く地上に生まれて償いたくなると考えられます。



けた外れのカルマを作り出してしまうのが戦争です。

戦争を始めた人の多くは、死んだら終わりになると思っています。

死んでも意識は失われず、自分が始めた行為が招いた結果を目の当たりにして、愕然とするでしょう。

死んだ後に赴くのは思念の世界です。

数え切れないほどの怒りや恨みや憎しみや悲しみの思念が、地上霊界を問わず自分に向かって来るのを感じるようになり、恐れおののき、耐えられなくなると思います。

それから逃れるように地上に生まれたとしても、耐え難い苦痛を感じる人生が待っていると考えられます。

そんな人生を、何回生まれて償わなければならないのか、想像も付きません。

無知とは、本当に恐ろしいものです。



大きなカルマがないのであれば、生まれて来た目的は、より自分を成長させるためです。

地上でしか経験できないことを通して、自分にないもの、足りないものを手に入れるためです。



カルマを清算するため、あるいはより自分を成長させるため、そのどちらでもあっても、求めれば直ぐに地上に生まれることができるわけではないと考えています。

目的を果たすための条件が整うまで、霊界で待つことになると考えています。

国や地域、人種に関係なく、条件が整った環境に生まれると考えています。



アルピニストは、危険を冒してでも、より高い山に挑戦したくなります。

地上に生まれる前の魂も同じです。

大変なのは分かっていても、より一層、自分を高めたいという欲求があったので生まれて来たのです。



霊的な負債を早く返したい、あるいは大きく成長することを望んでいる人ほど、厳しい人生になると考えられます。

険しい山を見上げながら、第一歩を踏み出すアルピニストのように、厳しい人生になると覚悟して、魂は母体に宿ります。



そんな記憶など、一切ないと言う人もいるでしょう。

もし記憶しているとしたら、将来起きる出来事が気になってしまい、まともな精神状態ではいられません。

生きるのを放棄してしまったり、何とかして逃れようと躍起になる人もいるでしょう。

人はそれほど強くないので、神の配慮(愛)により、記憶が失われると考えられます。



今、こうして生きているのは、偶然ではありません。

目的を果たす機会が巡って来たと考えられます。



全ての出来事は、自然法則の働きにより起きています。

神の管理下で起きているので、ぎりぎりまで追い詰められたとしても、必ず乗り越えられます。



覚悟を決めて生まれて来たのですから、覚悟を決めて生き抜くしかありません。

目的を果たして、向こうに行きましょう。






2023年12月10日日曜日

ゴールに向けて走り続ける


今、男子マラソン選手の世界記録が、2時間を切ろうとしています。

1964年の東京オリンピックで、金メダルを取ったエチオピアのアベベの記録が2時間12分台ですから、随分と短縮したものです。


マラソンは42.195㎞走ると、ゴールを迎えます。

地上の人は、予定された年月(寿命)を生きると、死と言うゴールを迎えます。



マラソン選手は、タイムを1秒でも縮めることを目標にして走っています。

全ての人間は、自分を成長させることを目的として生きています。

自分(魂)があからさまになる霊界において、足りない部分、不完全な部分を自覚します。

地上での経験を通して、足りない部分を補うため、不完全な部分を完全に近づけるために生まれて来ます。



マラソンは決められたコースを走ります。

人生のコースも、予め決められています。

自分を成長させるのに適したコースを、私たちは生まれる前に選んでいます。

もし、コースが決められていなかったとしたら、成長とは関係ない出来事ばかりを経験することになり、いつまで経っても必要な学びが得られません。



人生のコース(シナリオ)は、完全なる叡智により立案され、私たちはそれを了承して生まれて来ています。

予定されていた出来事が、因果律の働きによって、人生のどこかで生じます。


人生のコースは予め決められていますが、人間には自由意志が与えられています。

そのために、決められていたコースとは違う方向に進んでしまう時があります。

そのまま進んで行くと、誤った方向に進んでいることに気付かせるような出来事(失敗や頓挫)が起こり、決められていたコースに戻ることもあるでしょう。

気付かないまま一生を終えたのなら、予定された学びや成長が得られずに、もう1度地上に生まれて来ることになります。

そうならないように、1人ひとりに守護霊が付いていて、決められたコースを進んで行くように導いています。



マラソンでは、前半は体力が残っていて比較的に楽に走れます。

けれども、後半になると疲れが出て来ます。

ゴールが近くなると体力は限界に近づき、テープを切った瞬間に倒れ込む選手もいます。



人生も同じかもしれません。

年を取るのに従い、知力体力が衰えて来ます。

精も根も尽き果てた時に、死と言うゴールが待っているような気がします。



マラソン選手はゴールすると、走り切った歓びを感じるでしょう。

しばらくの間休息し、回復したら次の試合に向けて練習を始めます。

少しでも良いタイムを出したいと思う限り、それが繰り返されます。



人は死と言うゴールを迎えると、圧倒的な解放感を感じながら、この世を生き抜いた悦びを感じます。

そして、これが最終的なゴールではないことを自覚します。

霊界でしばらく過ごした後に、再び地上という修練の場に生まれます。

少しでも成長したいと思う限り、それが繰り返されます。



マラソンの大会には、たくさんの選手が参加します。

1人で走るよりも、競い合う中で、タイムは向上します。


地上には、自分と違う人がたくさんいます。

周りに同質の人しかいない霊界よりも、違う人たちに囲まれながら暮らす方が、寛容や自己犠牲の精神が身に付けられ、霊的に成長します。



なぜ、マラソン選手は走り続けるのでしょう?

自分を向上させ、試合で良い結果を出すためです。

それでも、体力の衰えには抗えないので、現役を引退する日がやって来ます。



なぜ、永遠に生き続けるのでしょうか?

生命の本質は魂です。

進化して行くように定められていて、ゴール(完全)に到達するのには、無限の過程を必要とするからです。



マラソン選手は目的があって走っています。

けれども、地上の人は誕生すると同時に、生きる目的が分からなくなってしまいます。

そのため、目的を果たすための出来事が起きたとしても、何で自分がこんなつらい思いをしなければならないんだと、憤りを覚えることさえあります。



宇宙の隅々まで自然法則が働いています。

厳しい練習を積むことでタイムが縮まるように、苦しみを伴う出来事を乗り越える過程において魂は成長します。

マラソン選手の中には、月に1000km以上走る人もいるそうです。

走った距離は裏切らないと言われますが、地上は不確実な世界のため、努力しても必ずしも結果として報われるとは限りません。

自然法則は働きは完璧です。

次の世界に行くと、霊的に報われていたこと、公正が完全に保たれていたことを実感します。



長い距離を走り、肉体に負荷がかかり続けると、選手は苦しみを感じます。

そんな時に、脳内にβ‐エンドルフィンという神経伝達物質が放出されることがあります。

この現象が起きることにより、苦しみは和らぎ、幸福感や高揚感が得られます。

俗に言う、ランナーズハイと呼ばれるものがこれに当たります。

怪我などで、極度の苦痛を感じた時にも、同じ現象が起きると言われています。



20年近く前、それまで味わったことのない屈辱的で挫折的な出来事を、私は経験しました。

解決する手段は見つけられず、精神的に追い詰められて行きました。

先の見えない暗闇の中にいた時に、それまで気にも留めていなかった霊的真理の言葉が光り輝き出しました。

関心は、地上的なものから霊的なものに移りました。

目に視えない「魂」や「愛」や「想い」を、強く意識するようになりました。

苦しみや悲しみは、眠っている魂を目覚めさせ、真理を受け入れるための触媒です。

魂が目覚めることで、出来事を乗り越えようとする力が生まれました。



肉体に負荷がかかり続けると、苦しみを和らげる物質が脳内に放出される現象が起きるように、精神に大きな負荷がかると、魂が目覚めるという現象が起きて、苦しみから解放されることがあります。

そのどちらもが自然現象です。

偶然ではなく、自然法則の働きによって起きています。

法則を創った存在は、苦しみの最中にいる人を、乗り越えさせようとしていると推察されます。

深遠な愛を感じずにはいられません。



出来事は、自然法則の働きによって起きています。

自然法則の働きは、愛に裏打ちされています。

挫折させるためでも、苦しめるためでもなく、成長させるために起きているので、乗り越えることができるのです。



私たちはゴールに向けて走り続けています。

いつの日か歓喜の瞬間がやって来ます。






2023年12月3日日曜日

亡くなった親友宅を訪ねて


お疲れかと思いましたが、少しでも早く家族に真実を知ってもらいたかったので、告別式の翌日に友人宅にお伺いしました。

まず、何とも言えない良い表情をしている友人の遺影に向かって手を合わせました。

隣のリビングには、家族が集まっていました。

長男、長女、三男、奥さんがテーブルを囲んで座っていて、友人のいつもの席は空けられていました。

何を話しに来たのだろう? 皆さんそんな顔をしていました。



まず、私が霊的真理と関わるようになったこれまでのいきさつを話しました。

望んでもいないのにヒーリングの力が出たこと、これから話すことを受け入れてもらうために、その力が与えられたことを話ました。

そして、単刀直入に「姿は見えなくなったけれども○○は生きているよ。」と伝えました。

突然そんなことを言われても、信じられないでしょう。

そこで「お父さんから、今まで受けてきた愛情は信じられるよね。」と言いました。

頷いていました。

「愛情は目に視える?」と尋ねました。

もちろん視えません。

「それと同じで、目に視えないけれど魂は存在しているんだよ。」

そして「魂から愛は生まれているんだよ」と続けました。

「ないのは肉体だけ。意識もあり、記憶もあり、性格もそのままだよ。」と言いました。

家族を思う気持ちも、当然のことながら、そのままです。



20数年前、先妻が突然亡くなった時、双子の長男と次男は幼稚園児で、3男は1歳でした。

友人は建築会社の経営者であり、いつも現場に出向いていました。

3人の子育てと仕事の両立は無理だろうと、周りからは子供を施設に預けるように勧められましたが、それを断りました。

子供たちの弁当も、早起きして自分で作っていました。

他の友人にはない強さが、この時身に付けられたような気がします。

「自分にはとてもできないことを、お父さんはしてして来たんだ。深い愛情があったからだ。」と言いました。



死によって、その愛情が途切れてしまうわけがありません。

目に視える肉体は、やがて朽ち果てます。

目に視えない魂は、不滅の素材(非物質)でできています。

魂が不滅であれば、そこから生まれている愛情も不滅です。



友人の肉体はもうありません。

従って、これまでのように自分の想いを、言葉や行動で表現することはできません。

前回のブログにも書きましたが、残して来た人を守り導くことで、愛情を表現して行くことになります。



悩んだ時、問題に突き当たった時、友人に尋ねてみてはどうかと言いました。

友人は責任感の強い人間です。

直ぐにではなくても、タイミングを見計らって、必ず応えてくれるはずです。

けれども、頼り過ぎてはいけない、決めるのはあくまで自分だと付け加えておきました。



地上の人は、想像している以上に、霊界の人に守り導かれています。

そのことに気付いていないだけです。

いや、頼ると成長しないので、気付かれないようにしているだけかもしれません。



霊界の人は、想い(思念)と言う「力」を地上の人の心に送っています。

想いが伝わると、地上の人の心に変化が生じます。

それにより、行動が促されたり、抑えられたりすることがあります。

暗い心が、パッと明るくなることもあるでしょう。

生きる勇気が湧くこともあるでしょう。

難題を解決する、ヒントを見つけることもあるでしょう。



良く作曲家が音が降ってきたと表現します。

地上の人に同調している霊界の人が、メロディーをインスピレーションとして伝えた来たと考えられます。

特別なことではなく、守護霊をはじめとする霊界の人は、頻繁にインスピレーションを伝えていると考えられます。

それとは気付かなくても、妙案を思い付いたり、発想を転換させたりして、意図した行動を取らせることで、地上の人を導いていると考えられます。



心に思い浮かんだものは、霊界から届いた思念(想い)かもしれません。

気のせいにしてはいけない、見過ごしてはいけないと、家族に伝えました。

霊界から思念が届くなど、SF映画の話と思ったかもしれません。

それでも「言葉を交わさなくても、相手が何を想っているか分かった時はないですか?」と尋ねたところ、あるあると言うように奥さんは何回も頷いていました。

もし、その相手が友人であれば、肉体がない今でも想いを感じ取れるはずです。



言葉は地上だけに存在する媒体です。

友人がいる霊界では、言葉を介さずに直接思念のやり取りをして、コミュニケーションをしています。

霊界から届いた思念を、地上の人は思い付きや気のせいと片付けて、どれほど無視しているのか分かりません。

次元を超えて想いを伝えるのが難しいことを、霊界にいる人たちは重々承知しているでしょうが、その度に歯がゆい思いをしているのに違いありません。



これから人生を歩んで行くに当たって、私なりにアドバイスをしました。

事業を継承している長男には、双子の次男と同じ方向を向いて力を合わせれば発展して行くこと、自分を超えることを友人は望んでいると伝えました。

三男は優柔不断なところがあるように感じましたので、どちらか迷ったら難しい方向、挑戦する方向を選ぶように伝えました。

娘さんの方を見た瞬間、友人が亡くなった時に心の中に浮かび上がった、黒い服を着ている男性と腕を組んでいる女性の姿を思い出しました。

浮かび上がったイメージは、下の写真に近いものでした。


そのイメージから、娘さんと腕を組んでバージンロードを歩く友人を連想しました。

娘さんに、そのことを伝えると、直ぐに自分のスマホを取り出しました。

待ち受け画面を見せてくれましたが、そこには着物姿の娘さんと腕を組んでいる友人の姿がありました。

これだと思いました。



霊媒現象を否定する人もいます。

その理由の1つとして、霊媒によって言うことが違うことがあげられます。

霊界の人は、写真のようなイメージをショットで地上の人に伝えて来ることが多いです。

受け取ったイメージから、私は友人は娘さんとバージンロードを歩きたかったと解釈しました。



同じイメージを見せられても、人によって違う解釈をします。

娘さんが恋人と腕を組んで歩いていると解釈する人もいるでしょう。

イメージに対する解釈は、受け取った人のパーソナリティーに多分に影響を受けてしまうと考えられます。

言うことが違って来るのは、嘘を言っているわけではなく、パーソナリティーによって解釈が異なり、その上に脚色が加えられてしまうためと考えられます。



スマホの写真は、娘さんの成人式の時に撮ったものでした。

親子で腕を組んだのは、この時が最初で最後のようです。

友人にとって感慨深かったシーンのはずです。

霊界の人は、娘さんのスマホの待ち受けにこのシーンが使われていることを知っていて、私にイメージを送って来たと考えられます。

何でも知っていること、うれしかったことを、皆さんに伝えたかったと思います。



告別式でお坊さんがお経を上げている時のことです。

友人が今、何を想っているのか知りたくなりました。

焦点を合わせたところ、浮かんで来たのは「すっげー気持いい」という言葉でした。

沈痛な表情で座っている家族とは対称的な、この脳天気とも言える言葉に、ちょっと吹き出してしまいました。

長い間、不自由な肉体の中にいて、解放された時の快感は、私が想像している以上のものかもしれません。

不謹慎に思われるかもしれないので、伝えるのを止めようかと思いましたが、やっぱり伝えました。

もう苦しんでいないことを、知ってもらいたいはずだからです。



遺影の顔写真ですが、実は娘さんと腕を組んだ時の写真をトリミングしたものでした。

そう言われてみれば、友人の表情は少し照れ臭くさそうでした。



いろいろな話をしているうちに、1時間以上経っていました。

最後に、これからも友人は、父親であり、夫であり続けることを伝えました。



話したことは慰めでも何でもありません。

生きていること、守り導いてくれることを、家族は少しは分かってくれたと信じています。

真理を伝えるのは知っている者の責務ですが、今回は友情の証です。




2023年11月26日日曜日

親友が逝く


親友が11月19日に、脳腫瘍で亡くなりました。

享年61歳でした。

去年の9月、快復を願って同志の方にもヒーリングに参加していただきましたが、この場を借りて改めて御礼申し上げます。

その後は、腫瘍の退縮が認められ、家族で北海道旅行に出かけたり、仲間で飲みに行けるまでになったのですが、今年の8月になって再発しているのが見つかり、10月からホスピス的な療養施設で過ごしていました。





当然のことながら、ご家族は少しでも長く生きていて欲しいと願っていました。

その願いを感じながら、向こうの世界に行くのは、さぞつらかっただろうと思います。

見守られながらではなく、ご家族がその場にいなくなった時を見計らって、肉体を離れる人は少なくないと考えています。

それは、逝く瞬間を見せてショックを与えたくないという、故人の優しい配慮なのかもしれません。

もしそうであれば、一人ぼっちで逝かせてしまったと自分を責めるのは間違っています。




命に関わる病気になり、魂が目覚めかけているかもしれないと考え、半年前位に「シルバーバーチの霊訓」を手渡して、読むように勧めました。

死とは、肉体から生命である魂が完全に分離する自然現象です。

次の世界に移行して、生き続けることを知れば、死の恐怖も和らぐと思いました。

けれども、病人が本を読むのは労力がいるようで、読めていませんでした。

本を手渡すだけではなく、口頭で伝えておけば良かったのですが、自分のことをフェニックスと言うほど復活を強く願っている友人に、死について話すのは憚られました。

それでも、伝えておけば良かったと思います。




施設に入ってからは、ほとんど意識がなくなりました。

面会に行った時には、いびきをかくように眠っていて、声をかけても反応はありませんでした。

昏睡状態なので、(魂と体はつながっていますが)多くの時間を向こうの世界で過ごしていたと考えられます。




肉体から完全に離れた今、どうしているのでしょうか。

先に逝った前の奥さん、お母さん、お兄さんが出迎えてくれたのに違いありません。

そして、一番寛げる我が家に戻っているでしょう。

リビングのいつもの席に座り、「やっぱり家はいいな」とつぶやいているような気がします。

それでも、家族に話しかけても無視されたり、ビールを飲もうと冷蔵庫の取っ手を掴もうとしても掴めなかったり、トイレのドアもすり抜けてしまったりするなど、いつもと勝手が違うので、戸惑ったと想像しています。

自分に起きているさまざまな現象を勘案すると、死んでこの世にいないのかもしれないと思い始めたことでしょう。

昨日(25日)の告別式で、自分の遺影に向かって手を合わせて焼香する人たちの姿を見て、死んでこの世にいないんだと、はっきりと自覚したのかもしれません。




何よりも気がかりなのは、大学生の娘さんのことです。

前の奥さんとの間に生まれた3人の子供が男で、初めての女の子だったので、とにかく可愛がっていました。

友人が亡くなって直ぐに私の心の中に現れたイメージは、黒い服を着てひじを曲げてバージンロードを歩く姿でした。

多くの新婦の父親と一緒で、それが友人の夢であり、よろしく頼むよと新郎に言いながら、娘さんを手渡したかったのだろうと想像しています。




まだ彼氏もいないので、結婚式に参加できる可能性は極めて低いだろうと思っていました。

向こうに行ってしまえば、伝えたいことがあっても、言葉で伝えることはできなくなります。

その時のために、ビデオレターを作っておくように言おうと思っていましたが、諦めていない友人を見ていて、その機会も失ってしまいました。




話は変わります。

今から20年位前のことです。

大学で所属していた教室の女子の後輩が結婚することになり、式に呼ばれました。

彼女の後ろには、亡くなったお母さんの遺影が飾られていました。

しばらくの間、それに目が留まりました。

披露宴が終わり、新郎新婦が会場の外で、出席者の1人ひとりにお礼のあいさつをしていました。

私の番になり、「おめでとうございます」と声をかけようと思っていました。

ところが、新郎の前で「絶対に裏切らないように」と、思ってもみなかった言葉が口から出ていました。

初対面で知らない相手に、何でこんな失礼なことを言ってしまったのだろうと不思議に思いながら帰りました。




霊的な知識を得て、分らなかったことが、ようやく分かりました。

あの時の言葉は、新婦のお母さんが新郎に伝えたかったことだと理解しています。

実家に戻っても相談する相手のいない新婦に、寂しい思いやつらい思いをさせたくなかったようです。

新郎の性格を見抜いていた上で、お母さんは私を利用して、自分の想いを伝えていたと思われます。




地上の人を利用して、霊界にいる人が想いを伝えるのは、想像している以上に頻繁に行われていると考えています。

その最たるものが霊媒ですが、(その時の私のように)霊的なことに関心がない人、信じていない人でも、霊界の人はおかまいなく利用していると考えられます。

自分の想いに、上手く感応してくれさえすれば良いのです。

そんな人を見つけ出して、接触を図り、残して来た人に想いを伝えさせていると思います。




話を戻します。

友人の生命は失われていません。

意識は変わりなくあります。

家族への想いも、何も変わっていません。




姿が視えなくなっても、家族を見守っていることを、友人に代わって伝えるつもりです。

ビデオレターを作っておくように言えませんでしたので、娘さんが結婚する時には、自分で良かったら(娘さんへの)メッセージを預かるよと、友人に向けて想いを投げかけるつもりです。

私の想いは友人に届くはずです。

それに応えてくれて、首尾よく私が受け取ることができたのならば、そのまま伝えたいと思います。

もし友人からのものであれば、娘さんの魂に響くはずです。




前妻を突然亡くし、乳飲み子を含む3人の子供を抱え、自営の仕事もしなければならない友人は、声をかけられないほど大変な思いをしていました。

そこから救い出してくれたのは、今の奥さんです。

良くぞ、嫁いで来てくれたと思いました。

2度と現れない、女神のような人だから大切にしろよと、友人には言っていました。




友人も、地上人生を総括する時が来ます。

どれほど奥さんに救われていたのか、助けられていたのか、癒されていたのかが、はっきりと判ります。

生前、伝えていなかったであろう感謝の気持ちを、どうしても伝えたいという強い衝動に駆られるはずです。

その気持ちを、言葉や行動にして表現することはもう叶いません。

それに代わり、奥さんに想いを送って、守り導くことで表現して行くことになります。

幸いにも奥さんは霊的な感受性が高そうなので、友人から届く想いを感じ取ることができると信じています。

何も感じなくても、無意識の内に行動してしまうこともあるでしょう。

それが導きであり、霊界にいる人の愛情表現です。




地上の家族が霊的真理を知っておいた方が、友人は守り導きやすくなります。

友人に渡しておいたシルバーバーチの霊訓を、落ち着いたら読んで下さいと奥さんに言いましたが、私の口からも伝えておこうと思います。




人生の中で最も真理が必要なのは、今かもしれません。

伝えられるのは、周りには私しかいません。

生きていること、離れていないこと、父親であり夫であり続けていることを伝えようと思います。

その通りだと、友人も喜んでくれるのに違いありません。


大好きだったハーレーダビッドソン










2023年11月19日日曜日

真実を分け与える


聖書の中に「金持ちとラザロ」と言う話があります。

ラザロはとても貧しく、毎日の糧にも事欠く次第でした。

全身のできものを野良犬がなめているような、哀れな身の上でした。

空腹に耐えかね、豪華な衣服を纏い、贅沢な暮らしていた金持ちの家に行って、食卓から出るくずを分けてくれるように乞いました。

けれども、金持ちはそんなラザロを無視し続けました。

エドゥアルト・フォン・ゲープハルト 1865年
ラザロは息絶えます。

そして、金持ちもこの世を去る時が来ます。

死の後に目覚めると、彼方にラザロとアブラハム(旧約聖書におけるイスラエルの民の祖)の姿が見えました。

金持ちはあまりに苦しさに、こちらにラザロを遣わすようにアブラハムに懇願しました。

それに対して、アブラハムはこう答えました。

思い出すが良い。あなたは生前良いものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」

今、味わっている苦しみは、生前の行いが原因で生じているので、どうすることもできません。

金持ちとラザロの関係は逆転していて、霊的な隔たりがあるために一緒にはいられないのです

自分が得たものを、世の中や人のために活かせなかったことを大いに悔いて、地上にいる兄弟たちが同じように苦しまないために、真実を伝えてもらうようにアブラハムに頼みました。

しかし、伝えたとしても信じることはないだろうと言われて断られます。

最近になりこの一文を知りましたが、おとぎ話などではなく、死の後に誰にでも起こり得ることです。



世の中は、急速に2極化が進んでいます。

富む者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなっているようです。

たくさんの「ラザロ」と「金持ち」が生まれています。

才能がある者が評価されて、努力して富を築くことは悪いことではありません。

けれども、才能は自分のためではなく、世の中のために与えられたものです。

築いた富を、どう世の中に返していくのかかが問われています。



救いを求めている人を無視するのは、想像している以上に罪なことなのかもしれません。

手を差し伸べなければいけないのですが、自分のことで精一杯になると、その余裕がなくなってしまいます。

自分のことが心配になると、人のことまで心配していられません。

シルバーバーチの霊訓では、心配や不安を抱いたり、取り越し苦労をすることを強く戒めています。

それは、利己的になるのと同じで、他者を無視することにつながるからなのかもしれません。



求めているのは、的なものだけではありません。

目に視えないもの、心の安らぎや、触れ合いを求めている人もいます。

物的なものが少しくらい足りなくても、心が満たされていれば、幸せを感じます。

その逆に、有り余るほど物的なものがあっても、心が満たされていなければ、虚しさを感じます。

人間の本質は、物質を超えたものだから当然です。




宇宙全体が神です。

宇宙を構成する私たちは、神の一部です。

存在している限り、神とのつながりが断たれることはありません。



世の中から隔絶されていても、心を満たすことはできます。

私たちの中にいる神から生命力が供給されていて、その力は愛を帯びているからです。

愛を帯びているのは、同じく神から供給されているヒーリングの力により病が癒されることで、私自身は実感しています。

霊的につながっているのは、遠く離れたところにいる会ったこともない人に、ヒーリングの力が届くことで実感しています。

地上に誕生して、五感を頼りに生きるようになったので、神の力(生命力)で生かされていること、全てが霊的につながっていることを実感できなくなっただけです。

死んで肉体(五感)がなくなったら、再び強烈に実感するようになるでしょう。



気力が充実している時は、生命力で満たされています。

神とのつながりが強くなっているので、安らぎや悦びが感じられるかもしれません。

反対に、生命力が枯渇している時は、神とのつながりが弱くなっています。

そんな時は、孤独を感じたり、不安や心配や怖れの感情が生じやすくなります。

ヒーリングをすると、心配や不安が和らぎ、穏やかな気持ちになる人が多いのですが、それは魂に生命力が注ぎ込まれたためと考えられます。



神とのつながりを信じない人がいます。

そんな人に質問したいです。

怪我をした時に、傷口が治って行くのはどうしてでしょう?

「自然治癒力」があるからと答えると思います



その力は、自分の意思で作っているでしょうか?

そうではなく、初めから備わっているものです。

自分の意思とは関係なく、傷口は自然に治って行きます。



自然とは、神が顕現したものです。

自然治癒力とは、肉体を治癒させる神の力が、法則に従って顕現したものです。

傷口が塞がって行くのは、神の御業です。

私たちは、神とつながっています。



それとは別のつながりもあります。

私たちは守護霊と強くつながっています。

また、生前、愛情で結ばれていた人とのつながりも失われていません。

ヒーリングの力が届いて病が癒されるのと同じように、霊界にいるつながりのある人たちから、想いと言う力が魂に届くことで、無意識の内に励まされたり、勇気付けられたり、癒されたりしています。



この世界を自分一人で生きていると思っているとしたら、大間違いです。

内にいる神とつながり、外にいる霊に支えてもらいながら生きています。

そのことが信じられた瞬間、内と外から力が伝わって来て、心配や不安が消えて、心が明るくなるのが実感できると思います。



持てる者が、持たざる者に分け与えるのは、物的なものだけではありません。

孤独な人、愛情に恵まれない人、見放されたと思っている人に、目に視えない存在とつながっていて、常に愛されているという真実を分け与えることで、霊的な飢えが和らぎます。



真実は分け与えても減ることはありません。

知っていて分け与えようとしないのは、飢えたラザロに食べ物を分け与えようとしなかった金持ちよりも、罪深いことなのかもしれません。

気持ちを新たにして、取り組まなければいけないと思います。


出典:Karapaia.com






2023年11月12日日曜日

自然法則の働き

 

「人に親切にしましょう」

子供の頃、親や先生から良く聞かされた言葉です。

「何で親切にするの?」と、子供に聞かれたらどうでしょう?

善いことだからと、答える人もいるでしょう。

自分がしてもらいたいことを、人にしてあげるのよと、答える人もいるかもしれません。



一般的に、法律に触れることは悪いとされています。

人の身体をナイフで傷つければ、法律に触れて罪が問われます。

けれども、人の心を傷つけても、罪を問われないことが多々あります。



この世では、善悪の基準は実にあいまいです。

それでは、真の善悪の基準とは何でしょう?



この宇宙の隅々にまで自然法則が働いています。

自然法則に適っていれば「善い」行いであり、反していれば「悪い」行いと定義できます。

今、子供に聞かれたとしたら、「人に親切にするのは、自然のきまり(自然法則)に適った行いなので、どんどんするべきだよ。人を傷つけるのは反する行いなので、決してしてはいけないよ」と答えるでしょう。

そして「自然のきまりに適った行いには善い報いが、反した行いには悪い報いが必ずあるんだよ。だから、いじめなどしてはいけないんだ」と付け加えるでしょう。



自然法則には、いくつかの種類があります。

万有引力の法則など、物質的な自然法則は検証が可能であり、本から学ぶことができます。

霊的な自然法則は検証が不可能であり、経験を通して学んでいます。



霊的な自然法則の根幹を為しているのは「愛」です。

我がままを言ったり、自分勝手なことをすると、仲間外れにされて痛い思いをします。

それは自然法則の働きによるのものであり、愛に反した行いをしたからです。



親切にして喜ばれると、こちらまで喜ばしい気持ちになります。

それも自然法則の働きによるものであり、愛に適った行いをしたからです。

私たちは、自然法則の働きによって生まれる痛みと喜びを通して、愛を表現する方向に進んでいます。



同じ行為であっても、動機によって自然法則の働き方は違ってきます。

愛に根差した動機であれば、その行いによって人は成長します。

恵まれない人たちのためにと、お小遣いを溜めて寄付した子供たちは成長しています。

周りから評価されたいなど動機が利己的ならば、いくら多額の寄付をしても、子供たちのような成長は得られません。



毎日の仕事や家事はどうでしょう。

多くの人は、生活して行くために、必要に迫られて行っています。

動機が自分の生活のためであっても、結果的に社会や組織や家族に奉仕をしていることになり、長い間、続けていれば相応の成長が得られると考えられます。

何かをしなければ、生活して行けないのが地上です。

半ば強制的に何かをしている中で、私たちは成長しています。

同じ行いでも、生活のためではなく、誰かのために(という動機で)することができたのならば、より大きな成長が得られると考えられます。



一昔前は、利益を追い求めるだけの会社が多かったです。

今は、社会貢献をして利益を得るという意識に変わって来ました。

それは、自然法則の働きにより、社会が進化しているからと考えられます。

私が子供の頃は、障がいがある人は家で過ごしている人が多かったです。

今は、外で活躍する場が増えて来ました。

それも、自然法則の働きにより、世の中が進化しているからと考えています。

女性が社会で活躍し、男性が家事をするようになったのも、時代と共に人や社会が進化しているからと考えています。

自然法則の働きにより人や社会は、より自由で平等で利他的な方向へと向かっています。



今から500年前、日本は戦国時代でした。

県よりも小さい領土が1つの国となっていて、国同士で争っていました。

それが、長い年月をかけて1つにまとまり、日本と言う国家になりました。



世界も同じです。

初めは小さな領土から始まり、争いを繰り返しながら、次第に大きな領土となって行き、現在の国となっています。

小さな枠組みから大きな枠組みへと進んで行くのも、自然法則の働きによるものです。



現在の枠組みで終わりではありません。

さらに進んで、国という枠組みが、少しずつ取り払われて行くと思います。

どれ位、先になるのか想像も付きませんが、最終的に国という概念はなくなり、世界全体が1つの共同体になると考えられます。

その流れを、最も妨げてしまうものが「戦争」なのです。



余談ですが、宇宙には知的生命体が存在する惑星が無数にあると考えられます。

高度に進化した生命がいる惑星では、全体が1つの共同体になっているので、争いは全く起きないと想像しています。

争いがあるかどうかは、その惑星の進化の程度を的確に反映していると思います。



自然法則は人だけでなく、国に対しても働いています。

国のエゴ、あるいは過ちによって生じる苦痛を享受するのは、そこに住んでいる人たちです。

国を構成しているのは、個々の人だからです。

利己的な人が多くなるほど、国も利己的になり、争いが起きやすくなります。

他者を思いやる人が多くなるほど、他国を思いやるようになり、平和な国になります。

平和な世界を望んでいながら、自分のことしか考えないのでは、つじつまが合わないのです。



道端のタンポポは、ただ咲いているのではありません。

太陽の陽を浴びて、大気から二酸化炭素を吸収して、酸素を放出しています。

その量はわずかであっても、酸素を必要としている動物が生きるために、立派に役割りを果たしていることになります。

1人ひとりの人間も同じであり、全体のために何らかの役割りがあるはずです。



自分ひとりでは生きられません。

全体に支えられて生きています。

全体に支えられていると同時に、全体を支えながら生きています。

持ちつ持たれつ、相互扶助の関係です。

この意識は、地上に生まれる前に誰もが持っていましたが、肉体に宿り、五感で世界を感識するようになって、極度に薄れています。


宇宙から地上を見れば、国境線はありません。

陸地や海や空を通して、全てがつながっています。

地球全体が1つです。



個々が集まって、全体を形成しています。

地球全体が運命共同体です。

お互いがお互いのために生きています。

そのことを認識していれば、戦争は絶対に起こりません。



戦争がない世界を望むのならば、その一部である自分が変わるしかありません。

エゴを鎮めて、違いを認めて、寛容であるように努めなければいけません。

平和な世界を望むのならば、自分自身が平和な心でいるように努めなければいけません。

1人ひとりが変わって行けば、世界も変わって行くはずです。




2023年11月5日日曜日

神の一部であると強く信じる


霊的真理と出会い、死ぬのは怖くなくなりました。

死後の世界があり、そこがどんなところか判ったからです。

どんなところか判った分、この世を生きるのが大変に感じるようになりました。



この世を学校に例える人がいます。

さまざまな経験を通して、自分(魂)を成長させ、神の叡智(自然法則の働き)を学んでいるので、その通りかもしれません。


学校で漢字を習うのは、好きではありませんでした。

何で覚えなければならないのだろうと思いました。

けれども、あの時苦労して覚えたものが、今、生活して行く上で活かされています。



この世での経験も同じです。

何でこんな経験をしなければいけないんだと思う時があります。

次の世界に行くと、経験を通して学んだことが活かされていることに気付きます。



学校に通っている時は、得意な教科もあれば、苦手な教科もありました。

苦手な教科を勉強をするのは苦痛でした。


この世を生きている人は、苦手とするところ、言い方を変えると欠点があるはずです。

そのままにしておくわけにはいかず、克服するために、私たちは生まれて来ています。

苦手な教科を勉強をするのが苦痛だったように、苦手なところを克服するのも苦痛を伴うことが多いと考えられます。



人それぞれ苦手なところは違います。

例えば、勇気がなく臆病な人がいれば、それを克服するのに最適な出来事を経験することになるでしょう。

そんな人生の計画を承知して、私たちは生まれて来ています。




「1番大切なものは何ですか?」

こんな質問をすると、1番は「命」であり、その次は「お金」と答える人は少なくありません。

死んだ後も、命は変わりなく続いています。

お金は価値を失います。

そんな人たちは、次の世界に行くと現実に戸惑うことになるでしょう。



本当に大切なものは、五感では分りません。

地上的なものではなく、霊的なものだからです。

学校のように、誰かに教えてもらうわけにも行きません。

自らが経験して、見い出すようになっています。

徹底的に追い詰められる出来事を経験し、霊的に目覚めることで、初めて大切なものが分かります。



生きる目的は、自分を成長させることです。

困難や障害を乗り越えること、他者に愛を表現することで成長して行きます。



次の世界に行くと、この世のような困難や障害はなくなります。

嘘のように生きるのが楽になります。

何もしなくても生きて行ける世界ですが、何もしなければ成長もしません。



そこで、何かをしなければ生きていけない地上に生まれます。

誰かのために何かをする中で、喜びを見い出すのは、きわめて意味のあることです。

次の世界に行っても、霊的な喜びを感じるために、進んで他者に奉仕するようになるでしょう。

自律的に、霊界で成長して行けるようになります。



ところで、この世で愛を表現するために不可欠なものは何でしょうか?

それは信じることです。



この世では、本質(魂)が見えなくなってしまいます。

周りにいるのは、自分とは違う人間ばかりです。

そのために、信じることが難しくなります。

愛を表現して、成長して行くためには、「能動的に」信じるようにしなければいけません。



宇宙全体が神です。

私たちは神を構成する一部です。

神と一体不可分な関係です。



今、起きている戦争は、お互いを信じられないことから始まっています。

報復が許されているカビの生えた教義に捉われ、私たちは皆、神の一部であるという認識が欠落しています。

そうでなければ、平気で人間を傷つけたり、殺したりすることはできないでしょう。



神の一部である人間を傷つけるのは、神に逆らう行為です。

自分の中にいる神(良心)への裏切りです。



人間の本質(魂)は同じです。

敵対する人間も、神の一部と思えたのならば、戦争はなくなるでしょう。

お互いを敬い、慈しむようになります。

人間だけでなく、あらゆる生命も同じです。

もっと尊重するようになるでしょう。



ひどい仕打ちをする人でも、神の一部であることに変わりはありません。

エゴに振り回され、自分の中にいる神を無視している哀れな人と言えます。

そんな人は、自分で裁こうとするのではなく、神(因果律の働き)に委ねれば良いのです。



人間が神の一部であることを、証明はできません。

証明できないことは、信じるしかありません。

信じることにより、エゴから生まれている怒りや怖れが鎮まり、穏やかな心になったのであれば、それは神とのつながりが強くなり、神の心(愛)がより顕現するようになったからと考えられます。







2023年10月29日日曜日

霊的な役割りを果たす

 

口の奥に、口蓋垂という組織があります。

ほとんどの人が、何のためにあるのか分からないと思います。

ある人がなくても良いものと思い、自分の口蓋垂を切り取ってしまったそうです。

するとどうでしょう。

食べ物や飲み物が気管の中に入りやすくなってしまったそうです。

口蓋垂があることで、食べ物がきちんと食道に入って行くようになっていたのです。

何かしらの役割りがあるからこそ、そこに存在しているのです。



1人ひとりの人間も同じだと思います。

何かしらの役割りがあるはずですが、多くの人は分からずに生きています。



以前、ボランティアで通っていた身体障がい者施設には、ベッドの上で一生を終えるであろう人がいました。

身じろぎもせずに、一点を凝視している姿を見て、この人に何かしらの役割りがあるようには思えませんでした。



何もすることができないどころか、人の助けがなければ数日で死んでしまいます。

周りの人は、その人が生きて行くために、身の回りの世話をしてやらなければいけません。

人は、誰かのために何かをすることで成長します。

その人がいることにより、周りの人たちの霊的な成長が促されていることになります。

何の役割りもないように思えましたが、周りの人を成長させるという役割りがあったことになります。



地上的な役割りは、その人の「肩書」で表現できることが多いです。

例えば、私の地上的な役割りは歯医者です。

1日の多くの時間を、地上的な役割りを果たすために割いています。



十数年前から、新たな役割りが加わりました。

このブログを書いたり、依頼があればヒーリングをしたりして、霊的な役割りを果たすようになりました。



霊的な役割りの核心は、知らない人に霊的真理を伝えることです。

ただ、今までの経験から、伝えようと力んでみても、空回りに終わることが多いです。

その理由は、真理を伝えるのは霊界主導で行われているからです。

そして、一人ひとりに計画があるからです。



真理を必要としている人と、伝える人を結び付ける役割りを霊界が担っていると考えられます。

両者の間に接点を見つけて、接触させようとしていると考えられます。



少し前ですが、私の医院にある人が治療を受けに訪れました。

ある日のことです。

自分の身体の不調や身の上の話を、堰を切ったように話し始めました。

その時に、何か特別なものを感じて、手短にヒーリングについて説明をして、仕事が休みの日にすることになりました。



以前はピアニストとして活動されていたそうです。

現在、結婚されていますが、心身の不調により、家の中に引きこもっていることが多かったようです。

ヒーリングを行ってから、しばらくしてお見えになりましたが、表情がとても明るくなっていて、ご自身もご自分の変化に驚かれていました。

ピアノのリサイタルを開くので観に来て下さいとチケットを渡されました。

ヒーリングをしても、内面でどんな変化が起きているのか窺い知れません。

生き方が大きく変わったので、内面においても大きな変化があったと推察されます。



お子さんの治療の付き添いで来院された人がいました。

その方は、初対面にもかかわらず、ご主人の死と言うプライベートなことを私に話し始めました。

何でこの場で話すのだろうと不思議に思いましたが、その理由が後で分ることになります。

しばらくして、亡くなったご主人からのメッセージを受け取り、お伝えすることになりました。

その後、シルバーバーチの霊訓をお渡ししましたが、真理を受け入れて下さったようです。



お2人に共通しているのは、自分に起きている出来事を私に話さずにはいられなかったことです。

そんな衝動に駆られるのは、背後霊の働きかけがあったからと考えています。

そして、目的が果たされると、お2人は何事もなかったかのように、私の元から去って行きました。



このように対面で会わせる時もありますが、ネット上で会わせる時もあります。

ブログに訪ねて来た人の中にも、ヒーリングあるいはメッセージが必要な人、真理を受け入れる準備ができている人がいます。

そんな人たちのコメントの冒頭には、「偶然このブログを見つけた」「たまたま立ち寄ってみた」と書かれていることが多いと感じています。



霊的なことには偶然はありません。

偶然としか思えないのは、霊界の導きがごく自然に行われているからです。

背後霊から届いているインスピレーションと自分の思考を、はっきりと区別することはできません。

自分の考えで行動していたつもりで、無意識の内に霊界に導かれていることは、想像している以上に多いと考えられます。



ネット上での導きは、以下の3つのステップで行われていると私は考えています。

1.検索によって導くべきサイトが出て来る特定の言葉を思い付かせ、書き込ませる意念(インスピレーション)を吹き込む。

2.出てきた(導くべき)サイトを観たくなるような意念を吹き込む。

3.そのサイトに特別なものを感じ、自分に起きた出来事を書かせるような意念を吹き込む。

霊界から意念が地上の魂に吹き込まれると、そうせずにはいられない衝動に駆られると考えられます。

コメントをもらった人の文章に、何か特別な力が働いていると感じた時には、霊界に導かれている可能性が高いので、見過ごしてはいけないと思っています。



地上には、いくつもの役割りが存在します。

その中で、必要としている人に真理の在りかを教えるのは、最も価値がある役割りと言われています。

シルバーバーチの霊訓には「霊的に、精神的に、あるいは物質的に人間の運命の改善という重大な仕事に身を捧げるわれわれは意志を強くもち、努力は決して無駄に終わらないことを確信いたしましょう。」と書いてあります。

私自身も、真理を知って内面に変革が起きました。

そして救われました。

他の人にも、同じ恩恵を受けてもらいたいと強く思いました。



そして、こうも書かれています。

「真理普及の仕事を託された者に私から申し上げたいのは、現在のわが身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけてはいないか、今一度そのときの真撃なビジョンにすべてを棒げる決意を新たにする必要はないか、時の流れとともにけてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか、そう反省してみることです。霊力の地上へのいっそうの顕現の道具として、おのれの全生活を捧げたいという熱意にもう一度燃えていただきたいのです。」

地上的なことに捉われて、霊的な役割りを疎かにしていないかを、常に省みる必要があると感じています。



霊界が求めているのは、真実を伝えようとする強い想いです。

その想いは瞬時に霊界に伝わり、真実を求めている人を導き始めます。

あらゆる可能性を探りながら、両者をつなげようとしています。








2023年10月22日日曜日

今、始まろうとしている戦争で思うこと


起きてはいけないことが、また中東の地で起こりました。

破壊された建物と傷ついた人、泣き叫ぶ子供が画面に映る度に、心が痛み、やり切れない思いを感じます。



このままでは、争いは収まりません。

報復が繰り返されるだけです。



歴史に詳しくはありませんが、少し振り返ってみます。

約2000年前、イスラエルの地に住んでいたユダヤ人は、ローマ帝国に追われて世界各地に散らばりました。

散らばったユダヤ人は異教徒として疎ましがられていたようです。

その極めつけがホロコーストです。

そんなユダヤ人たちは、安住の地を求めて、遠い昔に住んでいたパレスチナの地に国家を創ろうとしました。



しかし、そこにはアラブ人(パレスチナ人)が住んでいました。

それでも、国連や欧米諸国の後押しもあって、多くのユダヤ人が移り住んで、1948年にイスラエルが建国されました。

それまで住んでいたパレスチナ人は土地から追われ、決められた地域に強制的に移住させられることになります。

当然のことながら、パレスチナ人は激しく抵抗します。

建国から現在まで70年以上に渡り、両者の間で大小の争いが繰り返されています。

今回のテロもその一環です。



安全に暮らせる自分たちの国家を創りたい、そんなユダヤ人の気持ちは分からなくはありません。

けれども「ここは2000年前、自分たちの土地だったので、直ぐに出て行ってもらいたい」と言われて納得する人はいません。

話し合いも、了解もなく、住んでいた人たちを追い出すのはあまりに身勝手です。


出典:長周新聞

罪のない人たちを殺し、人質として連れ去っているテロ組織の行為は決して許されるものではありません。

しかし、その行為の元々の原因は、74年前に力ずくでパレスチナ人を追い出したことにあると考えられます。

原因を正さない限り、この戦争は解決しないと思います。


左側が白人居住地区、右側が黒人居住地区 南アフリカ

今から30年ほど前まで、南アフリカ共和国ではアパルトヘイト(人種隔離政策)が行われていました。

先住者が追いやられ、隔離され、徹底的な差別が行われていました。

それと似たようなことが、現代のイスラエルで行われているように見えます。



ロシアがウクライナに侵攻してから1年半以上経ちます。

多くの国はロシアを非難して、国交を断絶しています。

侵攻の動機があまりに自己中心的なのは明白です。

強い国が弱い国を力により屈服させようとしている姿に反発を覚えます。



テロ組織は、人の心理を良く観察していると思います。

74年前にパレスチナで起きた出来事は、今、ウクライナで起きている出来事と、何ら変わりがないことを、世界中の人に想起させようとしている気がします。

軍による攻撃で、子供たちが傷つき、家族を失った人が泣き叫び、罪のない弱い人が死んでいく姿を映像として発信して、世界に訴えるしたたかな戦略を展開しているような気がします。



人間には良心があります。

どちらが良い、悪いかの理屈を超えて、罪のない者、弱い者が傷つけられ殺されて行く姿を見ると、何とかしなければという衝動が生まれます。

世界各地で起きているデモも、良心の顕れだと思います。



テロ組織さえ壊滅すれば戦争は終わると思っている人がいるかもしれませんが、それは違います。

敵に大切な人を殺された人たちが、次から次へとテロ組織に入ると考えられます。

怒りや憎しみや恨みの想いがなくならない限り、テロ組織はなくならないと思います。



繰り返しになりますが、テロ行為は決して許されるものではありません。

けれども、74年前の出来事がなければ、テロ組織など存在せず、平和な地であったはずです。

根本原因をなくすには、パレスチナ人から奪った土地を返して、ユダヤ人は出て行かなければいけません。

それが非現実的ならば、少なくても限られた地域に閉じ込められたパレスチナ人を解放しなければいけません。

恐れから自由を奪うことが許されるはずはありません。



宗教や人種が異なっても、共存できるはずです。

もし無理と考えるならば、アラブ人の国家を認めるべきです。

74年前のユダヤ人と同じように。


イスラエル(エルサレム)は、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の3つの宗教の聖地です。

そこには現代の宗教が抱ええている問題の縮図があるようです。

真理は1つです。

同じ神を見ていたはずです。

けれども、人間が作ったドグマにより真理が塗り固められてしまい、それぞれの宗教は似ても似つかないものになりました。

宗教の本来の目的は、地上の人を霊的に目覚めさせ、お互いを慈しみ合うためにあると考えられます。

現実は、宗教間で争いが起きています。



シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「地上最大の罪とは、神の存在を知りながら、神の意思に背く生き方をすることです。」

神を信じ、忠実であろうとしている人たちは、神の意思に背く行為、人を殺したり傷つけたりすることをどう考えているのでしょうか?

今、始まろうとしている戦争は、私たちが考えているよりも愚かで罪深いことであり、霊界も憂いているでしょう。



戦争は最も愚かな行為と言われるのは、信頼関係を破壊し、人と人とのつながりを断ってしまうからです。

多くの人や国に霊的に大きな負債を作り、引いては人類全体の進化を妨げてしまうからです。



既存の宗教からドグマを取り除いたものが、霊的真理です。

宗教が機能不全に陥り、見切りをつけた霊界は、計画的に霊的真理を地上に降ろしました。

それを広めようとしている人は、宗教とは無縁の人たちです。



遠い国にいて何もできませんが、この文章がたった一人でも良いですから、争いの最中にいる人に届くことを願っています。


「どうか気付いて下さい。

あなたが銃の引き金を引いて作り出されるものは、平和ではなく悲しみであることを。

どうか知って下さい。

あなたの怒りから生み出されるものは、痛みとなって返ってくることを。

どうか分かって下さい。

私たちは霊的につながっていて、1つであることを。

信じ合うこと、許し合うことでしか平和は訪れません。

平穏な日々を取り戻すことを心から祈っています。」


「אנא היו מודעים לכך.

מה שאתה יוצר כשאתה לוחץ על ההדק של אקדח זה לא שלום, אלא עצב.

תדע בבקשה.

זכרו שמה שיוצא מהכעס שלכם יחזור אליכם בצורה של כאב.

בבקשה תבין.

שאנחנו מחוברים רוחנית ואחד.

שלום יכול לבוא רק כאשר אנו מאמינים אחד בשני וסולחים אחד לני.

אני מתפלל בכנות שיחזרו ימים שלווים.」


「يرجى أن يكون على علم بذلك.

ما تخلقه عندما تضغط على زناد البندقية ليس السلام، بل الحزن.

يرجى العلم.

وتذكر أن ما يخرج من غضبك سيعود إليك على شكل ألم.

من فضلك إفهم.

أننا مرتبطون روحياً وواحداً.

السلام لا يمكن أن يأتي إلا عندما نؤمن ببعضنا البعض ونسامح بعضنا البعض.

أدعو الله بصدق أن تعود الأيام الهادئة.」




2023年10月15日日曜日

苛酷な環境に生まれる魂


ふと、こんなことを考える時があります。

「今、この場所で生きているのは、決められていたことなのか?」



シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。」



生まれる環境、国や家庭などを自分で選んでいることになります。

また、身体的な特徴も、自分で選んでいることになります。



もし、自分で選べるのなら、裕福な家庭で、両親が優しく、平和で豊かな国に生まれるのを希望する人が多いでしょう。

健康な身体で生まれるのを、望まない人はいないと思います。



現実は違います。

食べるのにも事欠く貧しい家に生まれる人もいます。

親から満足な愛情を受けられない人もいます。

銃声が絶えない国に生まれる人もいます。

寝返りも打てないほどの障がいを持って生まれる人もいます。

そんな環境や身体を、本当に望んでいるのかと疑問が生じます。



M104 NASA公開画像より

この宇宙には、自然法則が働いています。

全ての生命は、自然法則の働きによって、成長して行くように定められています。

「成長」を一言で表現するのなら、全体のためにより寄与できるようになることだと考えています。



けれども、何もせずに成長するわけではありません。

誰かのために何かをすること、困難や障害を乗り越えようとすることで、人は成長して行きます。



私たちが死んだ後に行く霊界は、生きる苦しみや痛みが取り払われています。

病気や障がいはなくなり、食べて行くために働かなくても済み、煩わしい人間関係もなくなります。

生きるのが嘘のように楽になります。



ずっとそこにいたい欲求を抑えて、地上に生まれて来るのは、成長したいという欲求の方が勝っていたからです。

何もしなくても生きて行ける霊界にいるよりも、何かをしなければ生きて行けない地上の方が、自分をより大きく成長させることができるからです。



いざ地上に生まれてしまうと、霊的な視点から人生が見れなくなります。

苦難に見舞われると、自分は不幸だと思ってしまいます。

一方、労せずして大金を手に入れて遊んで暮らしている人を見ると、幸運に思えてしまいます。



そんな時、シルバーバーチの霊訓のこの一節を思い出します。

「あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。」


平坦な道を歩いているよりも、登り坂を歩いている方が身体は鍛えられます。

それと同じで、何もない人生よりも、精神的、肉体的に負荷がかかる人生の方が魂は鍛えられます。



困難や障害は、登り坂と同じです。

苦しくても歩んで行くことで、魂は高みに導かれています。

遊んで暮らしているような人は高みには行けないので、霊界からは不幸に見えるのでしょう。



「求めよさらば与えられん」

イエス・キリストはこう言っていましたが、大きな成長を求める者には、因果律の働きにより、大きな困難や障害を伴う人生が与えられます。

その人生を了承して、私たちは生まれて来ています。

乗り越えられない人、あるいは成長を望んでいない人には、困難や障害が与えられることはありません。

生れる前の自分の意志によって、この人生を歩んでいることを忘れてはいけません。



幼い子供を、親が虐待して死なせてしまう、痛ましい事件が起こります。

そんな親の元に、好き好んで生まれる人はいません。

前生で作ったカルマの報いを受けていると言う人もいるでしょう。

亡くなった子供たちを見ていると、私にはそうは思えません。

親が子供を殺してしまうという愛とは真逆の行為を、神が計画するはずはありません。

あくまでも親の過った自由意志の行使により、このような事件が起きていると思います。

いろいろな要因が重なって、人格が変わり、理性を失ってしまったと考えられます。



餓死するような環境に生まれる子供も、当然のことながら、自分が辿る人生を判っているはずです。

カルマの報い、例えば過去の地上の人生で、貧しい人たちから搾取して富を築いた者が、償いのために選択せざるを得なかったことを否定はしませんが、もちろんそれだけではありません。



経済的に豊かな国でも、幼くして病気になり、亡くなってしまう子供たちがいます。

不幸の極みのように思えますが、霊的には違います。

幼くして病気に対峙することのできる成長した魂であり、地上に生まれた目的を短い期間で果たしたと考えられます。

自分の学びよりも、周りの成長を促すために生まれて来たと考えています。



自由意志が尊重されるこの世界において、望むことなしに苛酷な人生を歩まされることはありません。

飢えて死んでしまうかもしれない環境に生まれるのも、自らが志願しているはずです。

何かしらの目的があるはずですが、窺い知ることはできません。

人が望まない環境を志願して生まれて来るのは、やはり成長した魂でなければできないと考えられます。



たとえ亡くなったとしても、この体験が次に地上に生まれた時、あるいは元いた世界で活かされます。

貧しい人たちや弱い人たちの心情を深く理解することにつながり、地上から貧困や不平等をなくすために尽力する人も現れるはずです。

世界の医療団のHPより

そんな苛酷な環境に生まれて来る人たちは、私たちにどうするべきかを問いかけているような気がしてなりません。




2023年10月8日日曜日

愛し合う者同士に別れは存在しない


私たちは、学び成長するために生まれて来ました。

いろいろな人と出会い、共に生きることで影響を受けて、大切なことを学んでいます。

自分とは違う人を認めたり、時に許しながら、成長して行きます。



人と人は、つながりながら生きています。

つながり方には、いくつかの種類があると考えています。



人間は、肉体、精神、魂(霊)から成り立っています。

それぞれが別次元に存在していますが、密接に関連しています。



人と人の間には、肉体(地上)的、精神的、霊的なつながりがあると考えています。

肉体的なつながりとは、地上を生きて行くために生じるつながりです。

職場、通っている学校、ご近所など、生活する上で表面的に付き合っている人たちが、それに当たります。



精神的なつながりとは、同じ考えや感情を共有する人、同じ目標に向かって進んでいる人など、内面的なつながりです。

気心が知れ、仲の良い人もそうでしょう。

地上的なものよりも、強いつながりとなります。



霊的なつながりは、さらに強くなります。

両者の間に引き付ける力が働いていれば、霊的なつながりと考えられます。

また、生まれる前に地上で出会うことを決めていた人も、霊的なつながりがあると言えます。



ある人が亡くなったとします。

その人と、肉体(地上)的なつながりであれば、悲しむことはありません。

ご近所の人が亡くなったとしても、涙を流すことは少ないでしょう。



精神的なつながりがある人が亡くなったら、悲しくなります。

涙を流すかもしれませんが、それは一時です。



霊的なつながりがある人が亡くなったら、そうは行きません。

その人のことを想うと、涙が止まらなくなることもあります。



霊的なつながりの中でも、特別な関係(アフィニティ)の人がいます。

そんな人たちが地上で出会い、共に暮らしている時は天国にいるような一体感を味わいますが、片方が亡くなった時は身も引きちぎられるほどの悲しみや苦しみを味わうと言われています。

地上での別れは、両者が学び成長するために計画されていたと考えられますが、深い悲しみの中で、霊的に一体であることに気付く時が来るはずです。


死とは、肉体と魂の永続的な分離です。

亡くなった人は、魂(霊)となって生きています。

記憶も性格も生前のままです。

地上の人への想いは何も変わっていません。

愛されていたのなら、今も愛されています。



魂を引き付け合う力が愛です。

変わらぬ想いによって、生前と同じように、いや生前よりも近くに寄り添っているはずです。



悲しくなるのは、愛により結ばれていたからです。

行き場を失った愛は、悲しみとなります。

強い愛で結ばれた人ほど、悲しみが深くなるのは当然です。



姿が見えなくなってしまうと、存在が消えてしまったと思ってしまいます。

消えてしまったと思う人を、愛することはできません。



約2000年前に、イエス・キリストはゴルゴダの丘で処刑されました。

予言した通りに、イエスは3日後に弟子たちの前に、(限りなく物質化した)幽体となって現れました。

その時に、弟子のトマスは十字架に磔られた時に手に打たれた釘の痕を見なければ信じないと言ったそうです。

イエスは痕を見せて「証を見ずして信じられる者は幸いである」と言ったそうです。

(イエスの復活を信じていない人は少なくありませんが、弟子たちは実際にその姿を目の当たりにしたからこそ、命を賭けて教えを広めて行ったのです。)

「エマオの晩餐」レンブラント1648年

人間の本質は魂です。

魂の存在を分かる形で見せてくれたら、信じると言う人もいるでしょう。

有能な霊能者の元へ行けば、信じるに足る証が手に入るかもしれません。

たとえ証が手に入らなくても、存在を信じることができれば、生前と変わらずに愛することができます。

信じることにより、愛せない苦しみから解放されます。

証がなくても信じることができる人は、無用に苦しまなくて済むので、幸いと考えられます。



目に見えて、触れるほど傍にいても、両者の間に引き付け合うもの(愛)がなければ、霊的につながっているとは言えません。

近くにいても別れているのです。



死によって、愛し合う者同士のつながりが断たれることはありません。

断とうとしているのは、いなくなってしまったと思う地上の人の心です。

生きていることが信じられず、悲しみに包まれてしまうと、両者のつながりは希薄になってしまいます。

真実に気付いてもらえないことを嘆いているでしょう。



何よりもうれしく感じるのは、変わらぬ想いを信じてもらうことです。

信じてもらうほど、霊的なつながりが強くなり、地上の人を導きやすくなります。

導くことは、向こうにいる人に許された地上の人への愛情表現です。



霊的なものが視えなくなる地上で、信じることが試されています。

信じることで、次元を超えて、愛することができます。

今生を生き抜いて再会した時に、より強い愛で結ばれていることに気付くでしょう。



何度でも断言します。

愛し合う者同士は、霊的につながっています。

別れてなどいません。