2021年12月26日日曜日

法則に従う ①


いろいろなことがあった1年が終わろうとしています。

コロナウィルスから解放されることはなく、マスクが顔の一部になってしまったようです。

そんな中で、コロナに感染して亡くなったり、大変な思いをした人がたくさんいます。

「何が起きるのか判らない」

そう感じている人は多いでしょう。



今までと同じような日々が、これからも続くだろうと、多くの人は思っています。

どこか他人事で、自分に起きるとは思っていません。

しかし、前触れもなく起きる時があります。

そんな時は「まさか自分が」と心の中で叫んでしまいます。



この世界で起きることに、偶然はありません。

病気になるのも、交通事故も、原因が必ずあります。



私たちは 物質(肉体)的な存在であると同時に、霊的な存在です。

肉体と霊は次元の異なる存在であり、それぞれ別々の法則が働いています。

空に石を投げると地面に落ちて来るのは、物質的な法則の働きによるものです。

肉体が成長し老化するのも、同じ次元の法則が働いているからです。



霊(魂)には、霊的次元の法則(以下霊的な法則)が働いています。

物質的な法則は検証が可能であり、何回やっても同じ結果が出るので、疑う人はいません。

けれども、霊的な法則は、目で確認できるような類のものではありません。

霊の存在を信じていない人にとって、宗教的な妄想のように感じるかもしれません。



信じる、信じないにお構いなしに、霊的な法則は働いています。

物質的な法則は、地上にいる時だけですが、霊的な法則は次元を超越して働いています。

より高い次元に向って生き続ける人間にとって、霊的な法則の方がはるかに重要です。



地上にいる人の多くは、霊的な法則が働いていることなど知りません。

そのために、平気で法則に反した行いをしてしまいます。

お互いに傷つけ合う、戦争もそうです。



目に視えない形でも、人を傷つける行為は行われています。

例えば、ニュースでたびたび取り上げられる、SNS上に書き込まれる誹謗中傷なども、そうです。

心を傷つけているのであれば同じです。



貧困が生まれるのも、法則に反した行いをしているからです。

自分さえよければと言う利己的な思いと、お金をたくさん所有したいと言う物質欲が世の中に蔓延しているからです。

必要十分なものが、全ての人に行き渡るように、地上は創られています。

富が偏在してしまい、必要なところに回らなくなっています。



肉食を含む、動物の虐待もそうです。

人間は最も優れていて、他の動物は劣っていると言った、的外れで差別的な観念がこのような悲劇を生み出しています。

霊的に最上位にいる人間は、他の動物たちを庇護する立場にいますが、真逆な行為をしています。

毛皮にされる動物たち

地球温暖化もそうです。

物をたくさん持つことで豊かになれる、消費することで満たされると言う、物質に捉われた観念と、周り(環境)のことを考えようとしない利己主義による結果が現われています。



法則に反した行いには、因果律の働きにより、苦しみや痛みを伴う事象が起こります。

人を傷つければ、自分が傷つけられて、痛い思いをします。

負の連鎖が生まれて、やがて大きな犠牲を伴う事象に発展します。

jiji.comのHPより

貧困は、故意によるものではありません。

そのため、その報いが直接、自分に返って来るわけではありません。

関わっている(経済的に豊かな)国の人たち全てに、思いもよらぬ形で、返って来ていることもあります。



世界中で、新型コロナウィルスが流行しています。

現在、主流になりつつあるオミクロン株は、南アフリカ共和国が起源と言われています。

同国の貧富の差は著しく、人口の1割にも満たない白人が、富の70%を保有しているようです。

今も世界で猛威を振るっているデルタ株は、インドが起源と言われています。

インドは貧富の差は世界一と言われ、人口の1%の裕福層が73%の富を持っています。

また、コロナで亡くなった人の数は、アメリカが抜きん出て多いです。

世界一経済的に豊かな国なのに、貧しい人たちは適切な医療を受ることができていません。



日本の死亡者数が少ないのは、世界中の国から不思議に思われています。

マスクをするなど衛生面で優れていることが、一因として挙げられています。

それだけでなく、他の国に比べて差別や貧富の差が少なく、より法則に適っているせいなのかもしれません。



ウィルスの流行は自然現象です。

全ての自然現象は、自然法則の働きによって起こります。

神は自らの心を顕現するために、自然法則を創造したと考えられます。

従って、人類を苦しめている新型コロナウィルスの発生や変異にも、神の心が顕現していることになります。






富める人たちが、貧しい人たちを見て見ぬ振りをしながら生きています。

それが過ちであることを、全人類が関わる自然現象を通して、気付かせている様な気がしてなりません。

自然法則は、あらゆる事態を想定して創られています。

変異が起きるのは偶然ではなく、初めから自然法則の中に組み込まれていると思います。



富める国の一部で、4回目のワクチン接種が始まるそうです。

一方、サハラ以南のアフリカでは、1回目の接種が終わったのは、人口のわずか15%です。

貧しい人たちに、ワクチンが十分に行き渡っていないようです。

この先、貧しい人や貧しい国の間で流行が続いてしまうと、過ちに気付かせるために、致死率の高いウィルスが出現するかもしれません。

そうならないことを祈るばかりです。



法則の根幹にあるのは「愛」です。

自分や自国さえ良ければという、愛に反した利己的な想いが、戦争や貧困、地球温暖化だけでなく、コロナウィルスの流行も生み出していると考えられます。

もしそうならば、他者や他国のこと、地球全体のことを考えて、私たちは行動しなければいけません。

ひとり一人が全体のことを考えて行動すれば、ウィルスの流行を含め、人類を悩ます全ての問題は収束に向かうはずです。



犠牲と苦痛を伴いながら、個ではなく全体のことを考えるようになって行きます。

調和が生まれて、個々の生命は霊的に1つになって行きます。

それが法則に込められた神の心だと思います。



2021年12月19日日曜日

あの世がベールに包まれている理由


小学生低学年の頃、テレビで「大魔神」と言う映画を観ました。

穏やかな顔をした石仏が、恐ろしい形相の魔人となり動き出し、悪人たちを成敗するという物語でした。

それからしばらくして、夢の中に大魔神が出て来るようになりました。

その夢はとても恐く感じました。

どこへ逃げても、いくら逃げても、地響きを立てながら、大魔神が私を執拗に追いかけて来ます。

夢なのに現実としか思えず、目が覚めて安堵したのを、今でも覚えています。

大魔神(バンダイチャンネルより)

夢には2種類あります。

1つは潜在意識が反映したもので、大脳が作り出したフィクションです。

昼間の体験が反映されたものや、意味不明のものもあり、大魔神の夢もそうです。

精神医学者のフロイトによれば、逃げ回る夢は何らかの精神的圧力がかかって不安がある時に見るそうです。



もう1つの夢は、ノンフィクションです。

こちらは肉体から魂が離脱してあの世に赴き、そこでの実体験です。

愛する人に会っていた時は、目覚めた時に温もりや充足感が残っていると言われています。



けれども、多くの人は夢を覚えていません。

毎晩のようにあの世に行っているはずなのですが、思い出せません。

その理由は、霊界での体験は地上の体験とは異なり、五感を介さないために大脳で処理されず、頭(海馬)に記憶されないためと考えています。



覚えていない理由は、それだけでないと思います。

はっきりと覚えていて、それが楽しい体験であればどうでしょう?

この世界から逃避して、眠りに耽ってしまう人もいると思います。



この世の人にとって、あの世との接点は夢の中です。

もっと別の形で、あの世が判るようになれば良いのにと思う時があります。

そうすれば、死を怖がることなく、安心して生きられます。

この世に対する執着も少なくなります。

あくせく生きようとしなくなり、地上的なものに捉われなくなるでしょう。

霊的真理が素直に受け入れられて、意識の焦点が物質的な世界から霊的な世界へと移るでしょう。



しかし、霊的な世界に意識が向き過ぎると、現実の世界に対する意識が希薄になります。

地に足がついていない状態になります。

現実の世界が疎ましくなり、逃避した生き方をしてしまえば、生まれて来た目的は果たせません。

霊的な意識を持ちながら、現実の世界にしっかりと軸足を置いて、生きることが大切だと思います。



この世に生まれて来た目的は、自分を成長させるためです。

降りかかる困難や障害を乗り越えて行くことで成長します。

あの世では起こり得ない出来事を経験するために生まれて来たので、逃げ出したい気持ちを抑えて、立ち向かって行かなければなりません。



しかしながら、地上の人はそれほど強くありません。

あの世があることが判れば、つらいこの世を生きるのを放棄して、それが過ちとは知らずに、自らの意思で行ってしまう人もいると思います。



死んだら終わり、あの世などないと思っていたとしても、精一杯生きて、成長を果たすことができれば、それで良いと思います。

誤った認識は、後で改めることができます。

あの世があること、そしてこの世を生きる意味を私は知っています。

知っていながら成長を果たせなかったのならば、その代償を払うことになるでしょう。

霊的な知識のある人は、その知識を活かす生き方をしなければいけない、シルバーバーチの霊訓には何度も書かれています。

知識には責務を伴うことを、忘れてはいけないと思っています。



あの世があっても、生きていたいと思うのは、肉体を持つ人間の宿命です。

もし仮に、死がなくなり、この世に生き続けるとしたらどうでしょう?

それは、決して喜ばしいことではないと思います。



多くのスポーツは、限られた時間の中で競い合います。

残り時間を、気にしながらプレイします。

終わったら、振り返って、その試合を評価するでしょう。

ダメだった点を反省し、改善することで、強くなって行きます。



もし、試合時間に制限がなかったとしたらどうでしょう?

集中力は途切れ、疲弊してしまいます。

当然のことながら、試合の結果も出ません。

評価はできなくなり、改善にもつながりません。



この世を生き続けるとしたらどうでしょう?

時間の制限もなくスポーツの試合をしているのと同じです。

疲れ果ててしまうでしょう。

あるいは、終わりのないテレビのドラマを観ているのと同じです。

惰性的でマンネリ化し、終いには早く終わって欲しいと願うようになるでしょう。

時間が限られていて、終わりがあるからこそ、精一杯生きようとします。



成長するための第一歩は、自分自身を知ることです

あの世に行くと、この世の人生を振り返る時が訪れます。

自分の取った行動や想いの全てを回想することになります。

この世の人生を通して、自分を評価することができます。

良かったところ、悪かったところが自覚されます。

それを伸ばそうとしたり、なくそうとします。

死によって、リセットが必要なのです。

そんな理由もあり、この世とあの世を行き来しながら、霊的に成長して行く仕組みを、神は創造したと考えています。



楽しかった人生も、つらかった人生も、死と共に終わりを告げます。

病気や障がいのあった人は、悩ましい肉体から解放されます。

今までの苦しみや痛みが噓のようになくなり、何でも自由にできるようになります。

大切な人がいない世界で生きる悲しみや寂しさは、一瞬にして、同じ世界で生きる悦びに変わります。

生きることに追われて、やりたくてもできなかったことが、思う存分できるようになります。

この世で叶うことのなかった夢が、あの世では現実のものとなります。


この世を生きる人にとって、夢のような世界であるからこそ、あの世はベールに包まれています。

 あの世があることだけは、知っておいて下さい。




2021年12月12日日曜日

生きている意味


何で生きているのだろう?

こんな疑問を持ちながら生きていました。

その答えが、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)の中に書いてありました。

 


人は成長(進化)するために生きています。

けれども、本当に自分は成長しているのだろうか?と思うこともしばしばです。



霊と精神と肉体の複合体が、地上の人間です。

肉体的な成長は、身長や体重などの数値的な物差しで測れます。



しかし、霊的な成長は、地上的な物差しで測れるようなものではありません。

何か指標みたいものはないのでしょうか?

シルバーバーチの霊訓には、「慈悲」「慈愛」「寛容心」「協調的精神」「奉仕的精神」が霊的な資質と書かれています。

これらの資質がより多く表現されている人ほど、霊的に成長していると思います。

私たちは、これらの資質を高めるために生きていると考えられます。



そんなことのために生きているはずはない、人生を楽しむために生きていると言う人は少なくありません。

自分の好きなことをしているのは、誰でも楽しいものです。

旅行が好きならば、1年中旅行をしていたいと思うでしょう。

趣味に興じている時には、喜びを感じます。

1度きりの人生なので、思いっ切り楽しまなければ損だと言う声は良く聞かれます。



人生は一度きりではありません。

何度目かの地上の人生を、今、生きています。

死んだ後にも人生は続いています。

記憶にはありませんが、生まれる前にも人生はあります。

何度も生まれて来るのは、地上で身に付けなければならないことがたくさんあるからです。

死んだ後に待ち受けている世界(以下霊界)を、悦びに満たされながら生きるためです。



それでは、悦びに満たされるために、何故、地上生まれなければならないのでしょうか?

霊界は地上と大きく違う点がいくつかあります。

霊界に行くと肉体がなくなります。

肉体を養う必要がなくなり、食べて行くために働かなくても良くなります。



霊界は想念の世界です。

想像するのが難しいですが、想ったことが直ぐに具現化します。

欲しいものは何でも手に入り、やりたいことが何でもやれます。



もう1つ、大きく違うところがあります。

自分と(霊的に)似た人しか周りにはいません。

お互いが深く判り合えているので、人間関係の煩わしさはありません。



食べて行く必要がなくなり、好きなことが何でもできて、判り合える人たちと暮らしている霊界は、とても快適な世界です。

天国と言われる所以であり、ずっといたくなるはずです。

それでも、地上にあえて生まれて来るのには理由があります。



その理由は、苦痛の取り払われた霊界では起き得ない出来事を、地上で経験することができるからです。

経験することによって、大切な教訓を学ぶことができ、霊的な資質を身に付けることができるからです。



例えば、資質の1つである「慈悲」はどうでしょう。

身に付けようと思っても、身に付けられる類のものではありません。

自分が悲しみや苦しみを経験して、初めて他人の悲しみや苦しみが判るようになります。

想いが判り、何とかしてやりたいと思うのが、慈悲の心だと思います。

経験がなければ、経験している人の想いは判るはずもないので、慈悲の心を持つためには、それに相応しい経験をする必要があります。

相応しい経験が偶然起きるのを待っているのではなく、神の配剤により、初めから人生に組み込まれています。



「協調的精神」はどうでしょう?

霊界では同類の人たちと生活しているのに対し、地上では自分と違う人たちに囲まれながら生活しています。

周りの人の意見を認め、擦り合わせながら生きて行く必要があります。

そうしなければ、孤立したり、不調和が生まれて争いになってしまうこともあるでしょう。

戦争はその典型です。

因果律の働きのより、地上にしかない苦痛を味わいながら、協調的精神を学んでいます。



泳ぎ方を知らない人が、水に落ちたら溺れてしまいます。

呼吸ができなくなれば、死んでしまいます。

死なないために、呼吸ができる体の動かし方を、無意識のうちに見つけようとします。

もがき苦しみ、試行錯誤しながら、息が出来るような体の動かし方を見つけ出します。

一度、習得すれば、次に同じ経験をしても、もう大丈夫です。

苦痛を伴うことほど、そこから抜け出そうと必死になるために、早く、確実にその術が身に付けられると考えられます。


人には成長しようとする根源的な欲求があります。

居心地の良い霊界を離れて地上に生まれて来たのは、苦しみや痛みを経験することにより、早く、確実に大切な教訓が身に付けられるためと考えられます。

自分自身がそのことを望んでいたはずです。



私たちは、神が創造した、神の一部です。

けれども不完全な存在であり、完全(神)に向かって進化を続けています。

完全な叡智であり、完全な愛である神により、自然法則は創造されました。

地上に生まれたのも、さまざまな出来事を経験するのも、自然法則の働きによるものです。

偶然や運不運の入る余地は全くありません。

自然法則の働きによって、私たちは完全(神)へと導かれています。



地上で予定していた霊的な資質を身に付けると、自然法則の働きにより、肉体はその役目を終えて朽ち果てます。

魂は次の世界に移行し、新たな媒体よって自己表現するようになります。

幾重にもなった媒体を、霊性の高まりと共に1つ1つ脱ぎ捨てながら、完全(神)へと近づいて行きます。



果てしなく続く進化の一過程に、地上の人生があります。

苦しみや悲しみの経験は、魂の成長を促しています。

霊界に戻り、自分に足りなかった資質が、地上を経験して補われていることに気付きます。

身に付けた資質が、霊界での生活をより悦びに満ちたものにしています。

地上の経験は、完全に報われていることを知り、神の絶対的公正に深く感謝するでしょう。






2021年12月5日日曜日

自分を信じて一歩を踏み出す


仕事が休みの朝は、ちょっと遠くまで犬を連れて散歩をしています。

その時に、立ち寄っている神社があります。

村の鎮守さまのような小さな神社ですが、参道には背の高い杉が立ち並び、近所の人たちによって境内は掃き清められ、気持ちの良い空間です。

社の前に立ち、ブログが上手く書けますようにと、今日も祈りました。



ヒーリングをする時も、癒されることを祈念しています。

仕事で失敗が許されない時も、祈りながら臨んでいることがあります。

人前でスピーチする時なども、上手く行くように祈っています。

何かをしようとする時に、無意識に祈っていることが多いです。



以前は、神がいるなどと思わずに、形式的に手を合わせて祈っていました。

今は、霊的真理と出会い、さまざまな体験を通して、神の存在を実感しています。

神は高みから私たちを見下ろしているような存在ではありません。

自然法則の中に、顕現しています。



祈る時に問われるのは、その動機です。

神の心は愛です。

私たちが成長することを望んでいます。

人や動物や社会など、他者のための祈りであれば、自然法則と一致しているので、聞き届けられます。

困難を乗り越えよう、何かに挑戦しようと祈る時も、成長につながるので聞き届けられます。

金持ちになりたい、出世したいと祈っても、地上的な欲望を満たすためなので、聞き届けられません。



選挙の時に、立候補者が「皆様のために頑張ります」と演説しているのを聞きます。

その言葉を聞いて、応援しようとする人もいるでしょう。

けれども、霊界の存在はそう簡単には行きません。

言葉そのものではなく、そこに込められた想いを正確に読み取っているからです。

言葉とは裏腹に、自分の欲を満たすためであれば、聞き届けられないでしょう。



神に向かって祈ったとしても、直接力を貸してくれるわけではありません。

霊界の人たちは、地上に向けてアンテナのようなものを張り巡らしています。

地上の人の想いに同調した霊界の人が感応し、引き付けられます。

そして、祈りが成就されるように、働きかけるようになります。



霊界の人は、地上の人に想い(思念)を送って働きかけています。

送られた思念というエネルギーによって、多様な結果が生じます。

地上の人の不安や心配や怖れが払拭され、前向きな気持ちに変わることもあるでしょう。

やる気で満たされる時もあるでしょう。

道が拓けるインスピレーションが生まれるかもしれません。

思いがけず、助けてくれる人が現れたりするかもしれません。

そんなことがあると、運が良かったと片付けてしまいがちですが、実は霊界からの働きかけによる結果かもしれません。

偶然と思ってはいけません。

神は、地上の人の祈りに同調した霊界の人を通して、その力を顕現していると思います。



「私が勧める祈りの言葉は、たった一言しかありません。〝何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え″――これです。」と、シルバーバーチの霊訓には書いてあります。

これは私の経験です。

心の中で(霊的)奉仕をさせて下さいと祈ると、霊力を必要としている人から、直ぐに連絡がありました

そんなことが、幾度となく繰り返されるうちに、祈りは霊界に届いて、網目のように張られたネットワークによって、叶えられると思うようになりました。



地上の人が何かを始めようとすると、その想いに感応して霊界も動き始めます。

言い方を変えると、何かを始めようとしない限り、霊界は援助のしようがないと言うことになります。



しかし、この世は霊界と異なり、物質を介して表現をしなければならず、不確実であり、思い通りに行くとは限りません。

失敗もするので、つい二の足を踏んでしまいます。

一歩を踏み出すのに、勇気が必要になります。



何かを始める時には、不安や心配が付きまといます。

それを克服して進んで行かなければならない時があります。

自分を信じて、勇気を出して一歩を踏み出すしかありません。



自分を信じることの大切さは、多くの人たちが訴えています。

けれども、どんな意味なのか、深く考えたことはありませんでした。



地上の人には、2つの自分がいると考えています。

1つは、表に出ている自分です。

日常生活を営んでいる意識であり、地上の顔です。

シルバーバーチの霊訓に書かれている「パーソナリティー」です。



もう1つは、奥に控えている自分です。

非日常的なことが起きた時に表に出て来る意識です。

本当の自分であり、「インディビジュアリティー」に当たります。



インディビジュアリティーを地上で表現するために、パーソナリティーは存在していますが、ある程度の独自性を持っています。

エゴとはパーソナリティーが強くなり、インディビジュアリティーが表現されにくくなっている状態と考えられます。

パーソナリティーは肉体とインディビジュアリティーの間に存在しているため、両者と密接に関係しています。

そのために、表現媒体である肉体を守ろうとします。



火事で家に取り残された人を助けたくても、炎の中に入って行くのを躊躇してしまいます。

人を助けたいと思うのは、インディビジュアリティーの働きです。

インディビジュアリティーの中に神が存在しているからです。

パーソナリティーは炎の中に入れば肉体を失ってしまうと考え、インディビジュアリティーから生じる衝動を抑制しています。

地上ではインディビジュアリティーとパーソナリティーの間で、しばしば葛藤が起こります。

本当はこうしたいと思っても、別の自分が止めさせようとして、その間で揺れ動いてしまう経験は、誰もがあると思います。



インディビジュアリティーは、成長につながる行動を促しています。

パーソナリティーは、地上的な不利益を考えて、インディビジュアリティーの発現を抑制しています。



「自分を信じる」とは、パーソナリティーがインディビジュアリティーを信じることだと考えられます。

さらに言えば、インディビジュアリティーの中の神を信じることです。

神の力が、自分にも秘められています。

自分を信じることにより、神とのつながりが強くなり、目的を成就させる力が、無限の始源から引き出されます。



霊界では肉体が取り払われています。

それにより、神の存在がありありと感じられるようになります。

宇宙全体が神であり、全体を構成する神の一部として自分がいることに気付きます。

神の力によって生かされていることを、はっきりと認識するようになります。



肉体が有する五感では、神も神の力も感じることはできません。

そのために、地上では神の存在を信じなければなりません。

信じるという能動的な作業が、神とのつながりを結果的に深めて行くことになると思います。

祈りは、神とのつながりを深める最も有効な手段だと思います。



シルバーバーチの霊訓には「祈りとは自分の波長を普段以上に高めるための霊的な行為」と書かれています。

乗り越えなければいけないこと、挑戦しなければいけないことが地上で起きるのは、その時に何かに向かって無意識に祈ることにより、神とのつながりをより一層深めるためなのかもしれません。



上手行ったとしても、それは自分の力だけではありません。

何かをしようとする時に、内と外から力が与えられています。

知らずに神の力が働いているので、感謝しなければいけません。



勇気を出して、一歩を踏み出せば、後は何とかなります。



2021年11月28日日曜日

死刑がいけない理由


死刑を廃止する国が急速に増えています。

アムネスティ・インターナショナルの調査(2019年)より

先進国と言われるOECD(経済協力開発機構)に加盟している36か国のうち、存続しているのは、日本とアメリカと韓国の3か国です。

韓国では長い間、死刑が執行されていませんし、アメリカは廃止する州や執行されていない州の方が多くなっています。

国をあげて、現在も死刑を執行しているのは日本だけです。



死刑制度がなくなると、殺人などの重犯罪が増えるのではと懸念する人がいます。

しかしながら、それを裏付ける科学的な根拠は見つかっていません。

フランスでは1981年に死刑が廃止されましたが、それにより殺人発生率の増加は見られなかったそうです。

韓国では1日で23人も死刑が執行された時がありましたが、前後で殺人発生率に変化はありませんでした。



人の命を奪った人は、自分の命で償うのもやむなしと、以前の私は思っていました。

しかし、霊的真理を知った今は、絶対に反対です。

死刑は国家権力による合法的な殺人であり、霊的法則に反した行為だからです。



記憶に残っている方も多いと思いますが、今から20年前、大阪の小学校の校舎に男が乱入し、8名の生徒が殺されるという凄惨な事件がありました。

30代の犯人の男性はその場で逮捕されました。

裁判では遺族の感情を逆なでするような言動を繰り返し、反省は全くなく、予想通り死刑の判決が下されました。

「不条理な世の中に復讐したかった」犯行の動機を弁護士にそう語っています。

その後も、反省や謝罪の言葉は一切聞かれないまま、判決の3年後に刑が執行されました。



死刑が執行された後、どうなるのでしょうか?

死刑囚は、消えていなくなってしまうわけではありません。

肉体から強制的に引き離された、その人の本質(霊)は生きています。



自分がどの様な状況に置かれているのか、きっと理解できないでしょう。

意識があるので、死刑から上手く逃れられたと、勘違いをしているかもしれません。

鉄格子や塀など、自分を束縛していたものはなくなり、どこへでも自由に行けるようになります。



死刑によって、性根は何も変わっていません。

身勝手な性格や、世の中に対する憎悪の感情はそのままです。

肉体を失った霊は、自分と同じ想い(波長)の地上の人に引き付けられます。

意図的に接触したり、知らずにオーラに取り込まれてしまうことがあります。

そうなってしまうと、地上の人に大きな影響を及ぼすようになります。

霊の想いが、地上の人の想い(感情)を増幅させてしまうことがあります。

社会に恨みを持っていれば、さらに恨みが増幅して、何らかの行動に移してしまう可能性があります。



凶悪な犯罪を起こした犯人が捕まり、取り調べを受け、犯行のことを全く覚えていないと供述することがあります。

罪から逃れるために嘘を言っているわけではなく、取り憑いた霊が地上の人を支配してしまったせいかもしれません。

霊に完全に支配されると、地上の人は意識を失った状態になり、記憶がなくなることがあります。

裁判で心神喪失あるいは心神耗弱状態と認定され、無罪判決が出ることがありますが、そのような時は、霊が憑依していた可能性があると考えています。



駅のホームで、来た電車にふらふらと飛び込んでしまう人がいます。

そのような時も、その場所で以前自殺をした霊が、同じ想いの(死にたいと思っている)人に取り憑いて、衝動を起こしてしまった可能性があります。

地上で起きている事件や事故は、目に視えない霊の働きかけが原因となっていることが少なくないと考えられます。



死刑がいけない理由が他にもあります。

人間のすることには、間違いが付きものです。

今までにどれほどの人が、無実でありながら死刑の宣告を受けたのか、知る由もありません。

その時の無念さや恐怖は、想像を絶しています。

平沢死刑囚が判決直後に描いた「浄」


私たちは、成長するために地上に生まれて来ています。

けれども、自由意志が与えられているため、成長を妨げてしまうような過ちを犯してしまいます。

過去生は思い出せませんが、何らか過ちを犯し、その償いのために生まれて来た人も少なくありません。

誰もが未熟であり、過ちを犯してしまう可能性があることを忘れてはいけません。



死刑にするのではなく、自分の犯した罪と向き合い、反省させることが先決です。

いかなる犯罪者も、神の心である良心を持っています。

心の奥底で眠っている良心を目覚めさせるには、同じく神の心である愛情を向けるしかないのかもしれません。

今までに、愛情を受けたことのない、哀れむべき人たちも多いと考えられます。



もし、良心が覚めたならば、強い後悔や自責の念に苦しむことになるでしょう。

それが更生の第一歩であり、霊的な償いにもつながります。

霊界に行く前に、償わせるだけ償わした方が良いと考えられます。

もし、更生もなしに肉体を奪ってしまえば、同じことを繰り返そうとするために、地上の人を巻き込んで、罪を重ねてしまう可能性があります。



理不尽な理由で大切な人を奪われたなら、極刑を望んでも無理もないように思えます。

当事者でなければ、到底その想いは分かりません。

伝えたいのは、霊的な真実です。

視えなくなっても、故人は別の世界で生きています。

また会うことができます。



向こうの世界は良くできています。

怖い思い、つらい思いをしながら亡くなった人を介護する環境があります。

そこで間断のない愛を受けながら、傷ついた魂は癒されて行きます。

この世を早く去ったことで不平等が生じないように、埋め合わせの原理が働いています。

新しい生活が始まっています。



犯罪を犯すと法律で裁かれます。

それよりも遥かに厳格に、自然法則によって裁かれます。

法律から上手く逃れる人はいますが、法則から逃れることは不可能です。

利己的な理由により人を殺してしまったのなら、霊的な罪は重いでしょう。

償いのための人生が必要になると考えられます。

そのための人生が立案されて、それを了承して生まれて来ることになります。

自然法則の働きは完璧です。

与えた苦痛と同等の苦痛を自らが経験することになります。

その罪が償われるまで、成長は許されません。



人間が人間を殺すことは過ちです。

自然法則に反した行為であり、その報いが生じてしまいます。

凶悪な事件がこれ以上起こらないためにも、死刑は即刻廃止しなくてはいけません。




2021年11月21日日曜日

未来予想


今から100年前は、どんな世界だったのでしょうか?


スペイン風邪が世界中で大流行しており、今の学生たちと同じ様にマスクをして登校しています。

世界で4000~5000万人、日本では38万人の方が亡くなくなっています。


          

100年の時を経て、新型コロナウィルスが大流行しています。

これまでに世界で512万人、日本で1万8千人余りの人が亡くなっています。

決して少なくはありませんが、医学の進歩と情報の共有化、ワクチンの早期開発により、100年前と比べて、その数は大幅に減じられていると考えられます。




100年前の飛行機の写真です。

パイロットがコックピットから出て、何かをしているようです。

これは曲芸飛行ではなく、エンジンが止まると、この様に自分で直すことが珍しくなかったそうです。

飛行機に乗るのも、命がけの時代でした。

月面に立つオルドリン宇宙飛行士
それから、わずか50年で人類は月面に立ちました。

NASAが開発したSLSロケット
さらに50年が経過し、2025年にこのロケットで再び月に向かいます。

月面に立つ人類初めての女性の姿が見られる予定です。

ここ100年で科学技術は目覚ましい進歩を遂げました。





焼き討ちされたタルサのグリーンウッド地区
話は変わりますが、今から100年前、米国のオクラホマ州のタルサと言う街で凄惨な事件が起きました。

黒人が白人から暴行を受けて約300人が亡くなり、数万人が家を焼かれたそうです。

警察は襲われている黒人を守ろうとしなかったどころか、白人に武器を渡していたそうです。

事件に関わった人たちの罪は問われず、大きく報じられることもありませんでした。


昨年、ジョージ・フロイドさんが警官から暴行を受けて死亡したのは、記憶に新しいところです。

差別は許さないという機運が高まり、世界各地で抗議デモが起きました。


100年前、第一次世界大戦が終わったばかりでした。

スペイン風邪の大流行が、戦争を早く終わらせたとも言われています。


閲兵式に臨むアドルフ・ヒトラー(1933年)

しかし、平穏な時代はわずかで、世界は第二次世界大戦へと向かって進んで行きます。


長崎に投下された原子爆弾
この恐ろしい兵器が使われてからまもなく、第二次世界大戦は終結しました。

それ以降も、争いは絶えませんが、世界中を巻き込むような大戦は、今のところ起きていません。



ナンシー・アスター
1919年に英国で初めて、女性の国会議員がようやく誕生しました。
マーガレット・サッチャー首相就任
それから、60年後に女性の首相が誕生しました。

ドイツ(2005年~2018年)やニュージーランドなども女性の首相であり、今は珍しくなくなっています。



現在は過去からつながっています。

未来は過去から現在を結んだ線の延長線上にあります。



100年後はどうなっているのか?

科学技術はさらに発展し、飛行機に乗ってハワイに泳ぎに行くように、一般の人がロケットに乗って宇宙空間を遊泳するのが現実となっているでしょう。



差別は人を見下す行為であり、神の摂理に反しています。

差別をする人は、因果律の働きによって、社会から見下され、排除されて行くと思います。




紛争やテロはなくならないでしょうが、世界中を巻き込むような戦争は、今後も起きないと思います。

独裁国家は地上から姿を消しつつあり、国家間の連携が強くなって行くからです。

最も非生産的で愚かな行為が戦争であり、苦痛しか産み出さないと、ほとんどの人が気付いているからです。

人を傷つけることを許せない人が、増えているからです。




神の摂理の根底に平等があると考えられます。

男女に肉体的な差がありますが、あらゆる能力に差は設けられていないと思います。

男女の区別がある慣習は、ことごとくなくなって行きます。

100年後には、さらに多くの女性が首長になっているでしょう。

概して女性の方が共感力、協調性が高く、好戦的でないので、世界平和につながる観点から国のトップには相応しいと考えられます。




神の前では、あらゆる人間が平等であると同時に、動物もまた平等です。

一昔前は、ミンクの毛皮のコートを優雅さの象徴として着ている人も多かったですが、最近はあまり見かけなくなりました。

動物の生命を奪ってまで、外見を良く見せようとすることに、違和感を覚える人が多くなって来たためと考えられます。

動物を食べることもそうです。

肉を食べなくなってから15年が経ちますが、当初はヴィーガンという言葉はほとんど知られておらず、説明をするのに苦労した記憶があります。

ここ数年で、急速に認知されつつあります。

毛皮のコートと全く同じです。

動物にも感情があることを知り、生命を奪ってまでも食べるものではないことに気付く人が、100年後にはかなり増えていると予想しています。
「岩合光昭の世界ねこ歩き」より


過去と現在を比較すると、世界がより平和で平等な方向に向かっているのは確かです。

偶然ではなく意図的であり、神の摂理(自然法則)の働きによるものです。




時と共に、平和で平等な世界になって行くのは、私たちに神の心(神性)が存在し、それを表現しようとする根源的な欲求があるからです。

いつの時代の人にも神性が存在していますが、総じて過去より現代に生きる人の方がより顕現していると考えられます。

その時代に相応しい魂が地上に誕生しているのであり、もし数百年前に生きている人と、現代に生きる人が入れ替わることができたのなら、双方ともその時代に適応できないでしょう。




戦争や差別があってはならないと訴えているのは魂です。

魂には神の愛が流れています。

分断と対立を繰り返しながらも、より平和で平等な世界に向かっています。




全生命は元々1つです。

信じることで、愛し合うことができます。

バラバラになった個は、愛し合うことで、再び1つになって行きます。

それが神の意図だと思います。





2021年11月14日日曜日

死は不幸ではない





朝晩が冷え込むようになり、紅葉が美しい季節となりました。

半年前、瑞々しい緑色の葉が、今は赤や黄色に色づいています。

やがて生気を失い、枯れて枝から落ちて行きます。



私たちの肉体も、朽ちる時が来ます。

その時がいつ来るのか判りませんが、大体は決まっているようです。



早くして亡くなる人がいます。

その人のことを、可哀想とか、不幸だと言う人がいます。

そんな人ほど、死んだ後の世界について何も知りません。



昔の人は、雷鳴が轟くと、空の上で神様が怒っていると恐れていたようです。

放電と言う自然現象であることを知らなかったからです。



幼い子供は、注射を打つ時に、怖くて泣いてしまいます。

注射の意味が分からずに、痛みを感じるからです。

成長して意味を理解するようになれば、泣かなくなります。

間違った考えを持たないため、無用な感情に捉われないために、正確な知識を持つことが何より大切だと思います。




死は誰もが経験します。

いずれ判ることですが、今から知っておいて損はありません。




目の前にスクリーンがあって、そこに亡くなった人の姿が映し出されたとしたら、こんな様子が見られるかもしれません。

生命の本質である魂が、表現媒体である肉体から抜け出し、完全に分離すると、肉体は急速に生気を失い、朽ち始めます。

それが死です。




意識の中枢である魂は、新たな表現媒体によって活動を始めます。

最初に目にするのは、既に亡くなった、生前親しくしていた人たちです。

しばしの間、再会の喜びを分かち合います。




肉体がなくなり、今までにない解放感を味わいます。

生きて行くために働く必要はなくなり、心ゆくまで好きなことを楽しむことができます。

行きたい場所に瞬時に移動します。

束縛していたものがなくなり、この世よりもずっと楽に生きられるようになります。




しばらくすると、霊的に似ている人たちと過ごすようになります。

そこでは煩わしい人間関係はありません。

ありのままの自分が完全に受け入れられています。




肉体がなくなると、関心は自分から周囲に向き始めます。

この世の経験を通して学んだことを、周囲のために活かしたくなります。




早くして逝った人たちには、共通していることがあると感じています。

優しく、思いやりがあり、誰からも好かれるような人柄です。

「何でこんな良い人(子)が早く死んでしまうのか」

そんな嘆きの言葉を良く耳にします。




この世では、権力や富を持つ者が強者とされ、上に立つことが多いです。

次の世界に行くと、権力や富は消え失せてしまいます。

より神性(愛)を表現している者が上に立ちます。

他者に優しい人、思いやりの心を持っている人ほど強者と言えます。




周りにいるのは、霊的に似た人ばかりです。

そこは、優しさ、思いやりに溢れた、愛に満ちた世界です。

神的な力がふんだんに注がれ、互いのために生きている、明るく調和の取れた世界です。

周りにいる人たちと共に、地上にいる時から自分が大切にしてきたものを、思う存分表現することができる世界です。




人は亡くなると、地上についてこう振り返っていると思います。

思ったこと、考えたことを、肉体を使って表現しなければならない特殊な世界だった。

今いる世界と違い、周りにいるのは(霊的に)違う人たちばかりなので、思うことも、やることも違っていた。

肉体があるために自分が可愛くなってしまい、周りのことは二の次になっていた。

それぞれが違っている上に、お互いが判り合えず、自分を優先してしまうので、怒りを覚えたり、争ったりして、その度に苦しい思いや、痛い思いをしていた。

そうならないためにはどうすれば良いのかを学んでいた。

実体験を通して、大切なことを学び、成長するために、地上に生まれていた。




早くして亡くなった人は、最も大切なことを生まれる前から知っていて、実践していたのかもしれません。

地上の経験を通して、多くを学ぶ必要がない、成熟した魂だったので、元いた世界に早く戻ることになっていたのかもしれません。




そんな人であれば、地上にいる大切な人のことを、今も思いやっています。

もし、自分のことを早く死んでしまったと哀れんでいるとしたら、あまりの無知さに困惑しているでしょう。

地上にいる時よりも、ずっと心地よく生きているからです。

今の自分を知ってもらいたいと、心から願っているでしょう。

けれども、伝えるための肉体はもうありません。

伝えられないのを、もどかしく思っています。

その人のためにも、正しい知識を持って、こちらから歩み寄らなければなりません。




無になったのでも、遠い世界に行ったのでもなく、相応しい世界に行ったのです。

そこで、自分が必要とされ、活かされる悦びを感じています。

肉体を失っても、生前の想いは全く失われていません。

地上からの想いを感じたのなら、直ぐに駆けつけ、生前よりも近くにいることもできます。




死は不幸ではありません。

不幸だと思っている人、この世界に生きているのが何よりも幸せと思っている人は、現実を知らないだけです。

死の後に待ち受けている世界が、私たち本来の住処です。

そこで、役に立つ悦びを感じるために、この世で資質を身に付けています。

この世に生き続けなければならないとしたら、それこそが不幸です。



2021年11月7日日曜日

自分で治す

 

今、舌に傷ができています。

眠っている時に、噛んでしまったようで、痛くて食事もままなりません。

年のせいでしょうか、若い時のように直ぐには治りません。



肉体を持つ地上の人にとって、痛みは付きものです。

人は往々にして病気になります。

原因が見つけられずに苦痛を味わえば、何で自分がこんな病気になるんだと思う人もいるでしょう。



原因のない病気は、存在しません。

今、世界中で新型コロナウィルス感染症が流行しています。

この病気は、ウィルスと言う「形」あるものが増殖して生じるので、物質的次元に原因があると言えます。



私は歯医者として、毎日のように口の中を診ています。

虫歯や歯周病は、細菌によって生じるので、同じく物質的次元に原因があると言えます。

診療をしていると、虫歯や歯周病が急に悪化する患者さんを見かけます。

そんな人は、日常生活で過度の精神的ストレスがかかっていることが多いです。

昼間のストレスを、就寝中の歯ぎしりによって解消している人は少なくなく、それが歯にダメージを与え、虫歯になる人がいます。

ストレスによって免疫力が落ちて、歯ぐきが急に腫れて来る人もいます。

ストレスを解消するために、甘いものを食べ過ぎて、虫歯になる人もいます。

そんなことから、虫歯や歯周病は物質的次元に原因があると同時に、精神的次元にも原因があると言えます。



人間は、肉体、精神、霊(魂)から成り立っています。

存在する次元はそれぞれ異なりますが、密接に関連して、影響を及ぼし合っています。

過度のストレスがかかると胃に穴が開いてしまうように、精神が肉体に影響を与えているのは誰もが承知しています。



それでは、霊が肉体に影響を与えていることはないのでしょうか?

興味深い研究があります。

身近な人から身体的虐待を受けた子供は、受けなかった人に比べて、ガンを発症する可能性が47%高かったそうです。(Cancer 2009年5月電子版)

虐待を受けた経験が、どの様なメカニズムでガンを生じさせるのかは、医学的に解明されてはいません。



医学は霊の存在を認めていません。

しかし、霊こそが多くの病気のメカニズムを解き明かす糸口になると確信しています。

精神だけでなく、霊も肉体に影響を与えていると考えています。

自我が未発達な時期に、衝撃的な出来事を経験すると、霊的次元(魂)に変化が起きる可能性があると思います。

その変化が、時を経て肉体的次元に反映され、病気が生じることがあると考えています。



「性格, 心理状態と病気(とくにガン)との関連性について」(岩永 剛ら:2003年、大阪大学)という論文で、感情の抑制、抑圧する傾向にある人(タイプC)はガンになりやすいと述べられています。

東北大学が実施した5万人に及ぶ疫学調査では、タイプCは非タイプCと比べて1.7倍も高い確率でガンになると報告しています。

その理由として、ストレスを溜め込むと免疫力が低下することが挙げられていますが、それだけではないと思います。



思念(想い)は、肉体的な表現の素となるエネルギーです。

言葉や行動などで表現されなかった想い(感情)は、因果律の働きによって、肉体を物理的に変化させるエネルギーになることもあると考えています。

思念が形を変えて、病気として表現されることがあると考えています。



ガンは生命を脅かすものです。

ほとんどの人は強い恐怖を感じます。

怒りを感じる人もいるようです。

ガンになって生じた想いは、過去の出来事で表現できずに溜まっていた想いそのものと考えられます。

内にあった想いが、病気によって表現されていると考えています。



多くの人は、ガンになると医者にかかり、手術をして取り除こうとします。

発ガン物質や放射線の被曝など、物質的次元の原因によりガンが生じたのであれば、病変を切除することで治るかもしれません。

しかし、肉体ではない次元に原因が存在するのなら、根本的には治らないかもしれません。



原因を解消するためには、過去に生じていた想いを、解放する必要があると考えられます。

恐怖、怒り、言葉に表すことができないような想いがあるはずです。



子供が恐怖を感じているとしたらどうでしょう?

「大丈夫」と言って抱きしめてやると安心すると思います。

愛されている、守られていると感じることによって、恐怖や不安から解放されます。



過去に生じていた想いも同じです。

魂からその想いを解放させることができるのは愛です。

心の中にあの時の自分を思い浮かべて、慰め、安心させるような言葉をかけて、優しく抱きしめて下さい。

恐怖や怒りに震えながら、じっと耐え忍んでいたあの時の自分を、今の自分が愛すれば良いのです。

涙が流れたのなら、想いが肉体的表現によって解放されたと考えられます。



寺山心一翁さんと言う人がいます。

この方は、48才の時に腎臓ガンになりました。

現代医学による治療を受けましたが、残念ながら肺などに転移してしまいました。

病院では治すことができないので、死を覚悟して自宅に戻りました。

そして、絶望の底で「ガンに愛を送る」と言う深い気付きを得たそうです。(霊界からのインスピレーションと思われます。)

それを実践してみると、不思議なことにガンは縮小し始めて、完治したそうです。



医学的には、エビデンスのない荒唐無稽な考えです。

しかし、私は理に適っていると思っています。

もし表現されなかった想いが、因果律の働きにより、肉体的次元に表現されたものがガンであるならば、病変に向かって愛を送ることによって、解放されてもおかしくありません。

霊的次元の原因がなくなって行けば、因果律の働きによって、肉体上の病変もなくなって行きます。



過去の衝撃的な出来事で生じた想いが自分自身を縛り、魂の自由闊達な表現を阻害して、霊的な成長を妨げていたと考えられます。

人々を苦しめ、(肉体的な)生命を奪うために、病気があるのではありません。

自分の想いに気付いて、解放させるためと考えられます。

本来の生き方を取り戻して、予定されていた人生を歩むためです。

生きるか死ぬかまで追い詰められ、魂が目覚めて、人は根本から変われるのかもしれません。



再発や末期ガンから完全に治癒をした人たちがいます。

皆さん、口をそろえて、ガンになってより健康になったと言っています。

生まれ変わったように溌溂とされています。

そんな人たちの声の中に、真実が隠されていると思いますので、耳を傾けても良いのではないでしょうか。《治った人たちの声》

ガンになって生き方が変わったのではなく、生き方を変えるためにガンになったと思います。



病気は、自然法則に則って生じる自然現象です。

全ての現象は、私たちをより良い方向に導くために起きています。



病気で苦しんでいる人がいましたらヒーリング(無料)を行います。

コメント欄にて連絡して下さい。









2021年10月31日日曜日

必ず会える


私たちが死ぬ確率は100%です。

120歳を超えて生きている人は、誰一人としていません。



昔は、死ぬのが怖かったです。

死ぬと意識がなくなり、自分が消滅してしまうと思ったからです。


ところで、意識とはなんでしょう?

心であり、自分そのものだと思います。

もし、意識が脳から生じているのであれば、脳の活動が停止すれば意識も消滅するはずです。

しかし、それでは説明がつかない体験をしている人たちがいます。

病気により脳の活動が停止していたにもかかわらず、その間、夢のようなものを見ていたのです。

睡眠中に脳が活動して夢を見るとされているので、科学的に説明がつきません。



ある研究によると、心停止後に回復した人の18%が臨死体験をしているそうです。

臨死体験者の多くは、遠くで強烈に輝く光を見たり、既に亡くなった人たちと会話をしたり、謎めいた別世界への旅をしたなどと語っています。



科学者はそのような臨死体験を、脳内の神経伝達物質の作用による幻覚と説明しています。

ここで1つの疑問が生じます。

何故、似たような経験をしているのか?

幻覚だとすれば、内容はばらばらで良いはずです。

その問いに答えている科学者はいません。



物質的な脳からは、非物質的な意識が生まれるはずはありません。

脳は、意識から出されている指令を肉体に伝えるため、あるいは五感を通して入ってきた情報を意識に伝えるためにあります。

どんな現象も、脳内で起きているという強引なこじつけは、もう終わりにするべきです。



素直にこう考えてはどうでしょうか?

意識とは、脳の働きとは別次元のものである。

臨死体験者の意識は、肉体から一時的に離れて、似たような体験をしている。

亡くなった人たちと実際に会っているのであり、意識とはその人たちと同じ次元の存在である。

「魂」と言われる存在から意識は生じている。



霊的な知識を得てから、死は怖くなくなりました。

死んで肉体がなくなっても、意識は変わりなく存在し、自分が失われることはないと判ったからです。

死んだ後に行く世界は、穏やかで平和な世界だからです。

生命は続いているので、生き急ぐこともなくなりました。

そんな変化が私自身に起こりました。



このブログを開設して、初めて知ったことがあります。

それは最愛の人を失った人の、悲しみの深さ、苦しみの大きさです。

想像をはるかに超えるものであり、経験しなければ判らないと感じています。



そんな人たちにとって、死後に生命が続いているか否かは、極めて重要な意味を持っています。

また会えるのか、もう会えないのかが決まるからです。

それを知り、事実をどうしても伝えたくなりました。



姿が全く見えなくなり、声も聴こえなくなり、温もりも感じることができなくなったのは、不動の現実です。

何度でも言いますが、肉体が失われても、その人の本質(生命)は全く失われていません。

意識は存続していて、記憶も個性もそのままです。

けれども、五感を通して意思を伝える手段を失っているので、地上の人にそのことを伝えることができません。



亡くなった人がいる世界は、思念の世界です。

想ったことが電光石火、対象に伝わります。

完全なテレパシーの世界と言えます。

送った思念を遮るものは何もなく、受ける人にそのまま伝わります。



一方、地上にいる人は、肉体に備わっている視覚や聴覚などの五感を通して外部を認識しています。

そこから入る情報が圧倒的に多いために、意識の焦点は地上に向いています。

目に視える世界が全てだと思ってしまうのも無理ありません。



五感を通して伝えるため、自分の想い(思念)を言葉や表情や行動に変換する必要があります。

煩わしい行程を繰り返しながら、コミュニケーションを行っているのですが、それが当たり前だと思っています。



亡くなった人だけでなく、地上の人も霊的な存在です。

霊的な存在が、肉体を介して自己表現をしています。

当然のことながら、地上の人にも思念を受信する感覚が備わっています。


その証拠に、言葉や表情や行動に込められた相手の想いを感じ取ることができます。



周りにいる人たちから発せられている思念を、無意識の内に受け取っていて、少なからず影響を受けています。



言葉を交わさずとも、想いが判り合える瞬間があります。




愛情で結ばれている者同士ならば、傍にいたくなるのは自然の成り行きです。

その想いは、死によってなくなりません。

亡くなった人は、地上の人の想いが手に取るように判るので、むしろ強くなっているかもしれません。

肉体を失った人は、全ての物的な障壁が取り除かれています。

生前よりも近くにいられるのです。



伝えられなかった想いを、どうしても伝えたくなる時があると思います。

言葉にしなくても、その想いは亡くなった人に届いています。



亡くなった人も全く同じです。

地上にいる人に想いを伝えたいのです。



生きている世界は違います。

しかし、意識の源である魂は同次元に存在しています。

五感を介さずに、想いを交わし合うことは可能です。



けれども、さまざまな障壁が立ちはだかり、困難にしています。

想いを送っても、五感で感じるものでないために、地上の人にはっきりと認識されません。

思い付きや、気のせいにされてしまうことがほとんどです。

五感から入る情報に圧倒されて、届いている思念が掻き消されています。

頭の中で考えていることも、雑音となっています。

悲しみや嘆きなどの感情も、大きな障壁となります。

想いが届くのを妨げているのは、地上の人です。

疑い深い性格にも、手を焼いているでしょう。

地上の人が、予期した反応をしてくれないことを残念に思っています。

それでも、どうしても伝えたければ、諦めずに想いを送り続けているでしょう。



受信感度を高める方法があります。

それは、亡くなった人から想いが自分に届けられていると、素直に信じることです。

信じることは、何よりも大切です。

つながる原点です。

信じなければ、自分で回路を閉ざしています。

信じることにより、魂と魂はつながることができます。



全ての生命が愛し合うために、自然法則は働いています。

生きている次元は違っても、信じることで、愛し合うことはできます。

五感で感じられなくなっても、強く信じることにより、霊的な感覚によって存在を感じることは可能です。



視えない人を信じるのは、容易くありません。

それだけに、霊的な意味があり、価値があります。

地上の別れ以上に、信じること、愛することの意味を深く学ぶ機会はないかもしれません。

向こうの世界で、強く結ばれるためにあります。




「また会えますか?」と聞かれたら、決まってこう答えます。

「その時まで想っていたのならば必ず会えます」と。

これは希望的観測でも、気休めでも、慰めでもありません。



私たちは100%死にます。

死ぬと同時に、障壁が完全に取り払われます。



愛は魂を引き付ける力です。

目の前に姿が現れ、抱きしめ合える瞬間が必ず訪れます。






2021年10月24日日曜日

人生は楽しむためにある?


「終活」と言う言葉がだいぶ定着して来ました。

以前は、死を考えること自体がタブーでしたが、意識が変わって来ているのでしょう。

それでも、死について正確に理解している人は、まだ少ないようです。



霊的真理と出会い、死は怖くなくなりました。

次の世界へ移行する自然現象であることが、はっきりと判ったからです。

それでも、死ぬ時に苦しみや痛みを感じたくはありません。

摂理(自然法則)に適った生活をしていれば、苦しまないで死ねるようです。

熟した実が木から落ちるように、ごく自然に、穏やかに次の世界に移行したいものです。



さまざまな霊界通信によって、死後の世界の様子を窺い知ることができます。

総じて、今いる世界よりもはるかに快適なようです。

肉体はないため、病気にならず、老いもありません。

食べて行くために働く必要もありません。



そんな次の世界の様子が、はっきりと判ったらどうでしょう?

この世から逃げ出してしまう人が続出するかもしれません。

過ちを犯さないために、ベールに包まれていると思います。



この世に生まれて来た目的は、成長するためです。

自分に足りない資質を手に入れるためであり、過去の過ちの償いをするためです。

志願して生まれて来たのにもかかわらず、生きているのがつらいからと、自分で終わりにすることは許されません。

何とか踏み留まろうとするのは、自分で終わりにすることが過ちであること、生まれて来た目的を、奥底にいる自分は知っているからです。

そして、守護霊が必死に止めさせようと、働きかけているからです。




人生は楽しむもの、楽しくなくてはならない、そう思っている人は多いです。

私もそうでした。

人生には、楽しいことはたくさんあります。

躊躇することなく、思いっ切り楽しめば良いと思います。



しかし、楽しいことばかりではありません。

苦難と言われるようなことも起きます。



自然法則の働きにより、苦難を乗り越えて行くことで、人は成長するようになっています。

もし、楽しいことばかりの人生だったらどうでしょう?

周囲からは幸せそうに見え、羨ましがられます。

しかし、霊的には得るものが少ない、成長の乏しい人生になってしまうと思います。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。(以下「」内の文章はシルバーバーチの霊訓から引用)

いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みも無く、困難が生じても自動的に解決されてあなたに何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ一つ転がっておらず、征服すべきものが何一つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを一つひとつ克服していく中にこそ得られるのです。

もがき苦しみながらも、降りかかる困難を克服して行くことで、向上進化するようになっています。



向上進化は、行き当たりばったりではなく、計画的に行われています。

地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。

その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。

生まれる前に立てられた計画に沿って、人生が展開して行きます。

計画が思い出せないのは、私たちがまだ未熟なためと考えられます。



次の世界では、想ったことが直ちに具現化します。

一方、今いる世界では、物質(肉体)を介して具現化しなければなりません。

具現化するためには、精神的、肉体的な労力を必要とします。

しかも、思い通りに具現化するとは限らず、失敗もします。

具現化する意志と労力を培うことが、魂の成長を促していると考えられます。



次の世界では、自分と極めて似ている人しか周りにいません。

今いる世界は、自分と似ていない人たちに囲まれながら生きています。

肉体的、精神的、霊的にさまざまな人がいるので、交わると種々の問題が生じます。

生じた問題は、神の叡智(摂理)を学ぶことにより解決されて行きます。

言い方を変えると、神の叡智を学ぶために、さまざまな人がいる地上に生まれて来たと言えます。



次の世界に行くと、地上のような困難や障害を経験しなくても良くなります。

そんな世界に、ずっといたくなるような気がします。

何もかもうまく行き、日向ばかりを歩み、何一つ思い煩うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。

苦痛のない快適な世界を離れて、地上に生まれて来るのは、さまざまな経験をすることができ、そこから叡智を学び、自分を大きく成長させることができるからです。



それでも、何で自分がこんなつらい経験をするのかと思う時もあります。

時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその見方は事実の反面しか見ておりません。

まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。私はあなた方に比べれば遥かに永い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てまいりましたが、私はその摂理に絶対的な敬意を表します。神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。

出来事は、因果律の働きによって起きています。

因果律を創造した神の目的は、生命(魂)を向上進化させるためです。

苦難の経験は霊的成長として報われることを、霊界にいる人たちは、地上の人に分かってもらいたいのだと思います。



苦しみを感じるのは、地上で成長する余地が残されているからだと思います。

感じなくなれば、霊界で向上進化して行くようになると思います。



楽しもうとする欲求は、何でも好きなことができる、次の世界で十分に満たされています。

満たされると、楽しむことにそれほど喜びを感じなくなり、もっと大切なことに気付くことになると思います。

もっと大切なこととは、自分が成長することです。

成長して、周囲のためにより自分が役に立てるようになることです。



楽しいことをすれば、喜びになります。

役に立った時の悦びは霊的なものであるため、より深く、永続的なものとなります。

真の悦びを味わうために、私たちは地上に生まれ、さまざまな経験をしています。



以上のことから、楽しむことを目的に、地上に生まれて来た人はいないと考えられます。

この世の人生は楽しむためではなく、成長するためにあります。




2021年10月17日日曜日

因果律の働きを知って


霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、15年以上経ちます。

初めは、読んでも意味が判らないことばかりでした。

いくばくかの人生経験を積んだからでしょうか、判らなかったことが、少しずつ判るようになって来ました。



次の一節も意味が判りませんでした。

「さて、苦しみとはなんでしょうか。

苦しみとは、自分または他人が受けた打撃や邪悪なことが原因で、精神や魂が苦痛を覚えた状態を言います。

が、もしその人が宇宙の法則に通じ、その法則には絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。

なぜなら、一人一人が置かれる環境は、その時点で関わる人たちの進化の結果であると、納得しているからです。

進化した魂は、同情、思いやり、慈悲、哀れみは覚えますが、苦痛は覚えません。」



初めて読んだ時、私は仕事で当局から厳しい追及を受けていました。

今までに経験したことのない苦境に立たされていて、そんな心境にはとてもなれないと感じました。

早く、この苦しい状況から抜け出したい一心でした。



気持ちとは裏腹に、事態は悪化の一途をたどりました。

そして、予想もしていなかった最も重い処分が下され、目の前が真っ暗になりました。



以前の私でしたら、何で自分だけがこんな目に遭うのかと、憤りを感じたでしょう。

霊的真理を読み進めていたので、自分に起きたことは偶然でも不運でもなく、因果律の働きによるものであることが判りかけていました。

原因を作っていたのは自分自身でした。

結果は変えられませんが、不運を嘆いたり、憤りに苛まれることはありませんでした。



この世界では、自分に原因がなくても、苦痛を感じることが起きます。

社会問題となっている、いじめやハラスメントも、その中に入るでしょう。

抗えない状況にあれば、怒り、悲しみ、無力感を覚えることもあります。



誰にも気付かれず、証拠がないとしても、苦痛を与えた人の魂にはその行為が刻み込まれています。

与えた苦痛の分だけ、因果律の働きにより、自分が苦痛を味わうことになります。

自然法則によって厳格に裁かれ、相応の償いを受けなければならないことを知っていれば、無用な怒りに苦しまなくて済みます



イエス・キリストは磔にされました。

殺される時に「彼らは何も知らないのでお赦し下さい」と、神に祈ったそうです。

「進化した魂は同情、思いやり、慈悲、哀れみは覚えますが、苦痛は覚えません」と書かれていた通りに因果律の働きを知らない為政者を、哀れんでいたと考えられます。

肉体的な苦痛は極限に近いものだったでしょうが、精神的、霊的な苦痛からは免れていたと思います。



しかしながら、ほとんどの人は、嫌なことを言われたり、されたりすれば、苦痛を感じてしまいます。

「もしその人が宇宙の法則に通じ、その法則には絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。

なぜなら、一人一人が置かれる環境は、その時点で関わる人たちの進化の結果であると、納得しているからです。」

地上では、さまざまな進化の過程の人と関わりながら生きなければならず、自由意志があるために、往々にして摂理に反した行いを受けてしまうことを納得している必要があると、シルバーバーチは言いたかったのではないかと思っています。



一方、因果律の働きによって起きていることもあります。

気付かないだけで、自分に原因がある時があります。



分かりやすい例ですが、ある日、友人が不機嫌になっていた時がありました。

その態度に、私も不愉快な思いをしていました。

後で、対応が面倒と考えて、軽い気持ちでSNSで友達申請の許可を先送りしていたのが原因と判りました。

気付かずに、自分が原因を作っていることがままあります。



分かりにくい時もあります。

自分のことを嫌っていて、それが態度に出ている人がいるとします。

もしかしたら、その人のことを自分も嫌っているのかもしれません。

人間は霊的な存在です。

視えない人の想いを感識する能力があります。

言動に出さなかったとしても、自分から放たれていた嫌悪の想いが、その人に伝わって、因果律の働きによって、その人から同じ想いが自分に返されていることもあると考えています。



最も分かりにくいのが、原因が過去生にある時です。

例えば、心に深い傷を負わせてしまった人がいるとします。

社会的な罪を問われずに死んだとしても、霊的な罪は残ったままです。

その罪を償わない限り、成長は許されません。

成長が許されないのは、自由が許されない以上に、耐え難いものだと想像をしています。



再び成長するために、もう1度地上に生まれることを志願します。

償いのための人生が計画されます。

しかるべき時期に、因果律の働きによって、苦痛を伴う出来事が起きます。

原因がどこにも見当たらないので、降って湧いたような出来事にしか思えません。

そこで味わう苦痛は、過去生で与えた苦痛と同等のものとなります。






同じような結果に見えても、原因はさまざまです。

少し前ですが、身体障がい者施設にボランティアに行っていました。

施設の中には、身体が全く動かせず、ベッドの上で一生を送る人がいました。

失礼だったかもしれませんが、こんなことを想像してしまいました。

自分は何でもできると尊大な生き方のまま、死んでしまったらどうでしょう?

動くことができなければ、人の助けなしには生きて行けません。

否が応でも、1人では生きて行けないこと、人のありがたさを学ぶことになります。

もしかしたら、人の自由を奪ってしまい、因果律の働きで、自分の自由が奪われたのかもしれません。

償いのためとは限りません。

進化した魂がさならる進化をするために、動かない肉体に宿ると言う、最も過酷な試練に挑戦しているのかもしれません。

真相は窺い知れませんが、原因があることだけは確かです。



人生で最悪とも言える、私に起きた出来事の原因は、私自身にありました。

最初は小さな過ちでした。

過ちを犯す前に、必ず良心と言う内在する神の声が聴こえます。

言葉にすると「そんなことをして良いのか?」でしょう。

良心は止めるように訴えているにも拘わらず、自我はこんな言い訳をします。

「大丈夫、みんなしていることだから」「ばれやしない」等々・・

かくして、良心と自我の間で葛藤が生まれます。

良心の声が、自我の言い訳に打ち消されてしまうと、過ちを犯すことになります。

同じ過ちを犯す時に、再び良心の声がします。

その声を無視して過ちを犯します。

繰り返す内に、良心の声は次第に小さくなり、やがて聴こえなくなります。



1つ1つの過ちは小さく思えても、積み重なると大きくなります。

大きくなった過ちに、因果律が働く時が来ます。

そんな過去のことなどすっかり忘れていれば、降って湧いた災難にしか思えません。



因果律は、過ちに気付いて、正しい方向に導くために働いていました。

味わった苦痛は、過ちに対する正当な償いでした。



結果が生じる直前に、何の前触れもなくヒーリングの力が出現していました。

その力の正体ついて、どうしても知りたくなりました。

ほどなく、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)と出会いました。



苦痛は償いであると同時に、魂を目覚めさせると言う、深甚な意味があります。

目覚めた魂が、真理を受け入れて行きます。

因果律の働きを、身を持って学びました。

ヒーリングの真の目的を知ることができました。

暗闇の中で「乗り越えられない苦難なない」という真理が光り輝いて、それにしがみついていました。

この苦痛の経験が、大切な真実を手に入れるために、どうしても必要でした。



今、こう思っています。

人生には計画がある。

出来事に無駄なものはなく、それぞれが意味を持っていて、連綿とつながって起きている。

学びや成長のために、最善のタイミングで起きている。

神の叡智は完全であり、神の計画は完璧であり、全てを織り込み済みである。



出来事は因果律の働きにより起こります。

原因を知ることができなければ、偶然にしか思えません。

苦痛を伴うのであれば、不幸な出来事としか思えません。



苦痛は進化を促す触媒です。

因果律の働きによって生じた苦痛は、自身が変わることを促しています。

命あるものは、因果律の働きによって、完全(神)に向かって導かれています。






2021年10月10日日曜日

不平不満は成長を妨げる


最近、聞き慣れない言葉を耳にしました。

それは「親ガチャ」です。

透明のカプセルの中に、フィギュアなどの玩具が入っている自動販売機のことを「ガチャガチャ」と言います。

入っている玩具は、当りもはずれもあり、どれが出て来るのか判りません。

それになぞらえて、子供は親を選べない、どんな境遇に生まれるのかは運まかせという意味だそうです。

その言葉の中に、世の中に対する不平不満が含まれていると思います。

正式名称は「カプセルトイ」


生命(魂)は生まれる前にも、死んだ後にも存在しています。

どの人の子供になるのかは、生まれる前に自分で決めています。

そんなはずはない、あんなひどい親の元に生まれることを、自分で決めていたはずなどないと、言う人も中にはいるでしょう。

もし選べるとしたら、優しく、裕福な親にするだろうと言う人は多いと思います。



この世に生まれて来る目的は、自分を成長させるためです。

逆境を乗り越えて行くことで、魂は成長します。

逆境とも言える家庭環境を克服して行くことを、1つの目的として生まれて来る人もいるでしょう。

また、過去生において何らかの過ちを犯し、償いのために苦痛を伴う環境に生まれて来る人もいるでしょう。



およその人生も、生まれる前に自分で決めています。

人生のどこかで、自分に足りない部分を補ったり、弱い部分を強くするための出来事が起きるように計画されています。

つらく苦しいのですが、それを乗り越えて行くことで、望んでいる自分に変わって行きます。

人生に偶然はありません。

全ては計画的に、目的を持って起きています。



私たちは、生まれてから今までの間、数限りない決断をして来ました。

小さな決断もあり、大きな決断もあります。

決断を実行することにより、何らかの結果が生み出されます。

生み出された結果に対して、また何かを決断し実行し、更に結果が生み出されます。



何かを決める前に、人から意見を聞いたり、忠告を受けたりすることもあるでしょう。

背後霊からの導きもあります。

しかし、最後に決めるのは自分です。

そこには誰も干渉できません。

自分で決めたことは、自分が責任を持つのが道理です。

好きに決められますが、常に責任が伴っているのです。



生まれる環境は、自分で決めています。

そして、生まれてからも、いろいろなことを自分で決めながら生きています。

今の自分は、その結果です。



全てが因果律の働きによるものです。

そこに不公平や不平等は存在しません。

今まで生きて来た通りの自分でしかいられません。

それ以上にも、それ以下にもなり得ません。




ロサンゼルス・エンジェルスの大谷翔平選手

環境に恵まれ、才能に恵まれ、成功して地位や名誉を得ている人もいます。

そんな人生を、羨ましがる人がいるかもしれません。

豊かな才能を持っているほど、さらに高めて行くためには、並外れた努力を強いられます。

高い志を持ち続けられず、誘惑に負けてしまい、堕落してしまう人もいるでしょう。

地上では、外面しか見ることができません。

内面にある、苦しみや痛みや葛藤は窺い知れません。

もし、その人の人生をつぶさに見ることが出来たのならば、今の人生で良かったと胸を撫で下ろすかもしれません。



地上に生まれて来たからには、その人に果たすべき目的が存在しています。

もし何も目的がなければ、生まれて来る必要などありません。

目的がそれぞれ違えば、自ずと人生も違ってきます。

生まれる環境も、目的に応じたものになります。

従って、他人と自分の境遇を比べて不公平だと言うのは間違っています。

学び、成長するための機会が、公平に与えられています。



時々、こう思う時があります。

今までどれくらい、避けたり、諦めたりする方を選んでしまったのか?

愚痴を言って、自分を変えようとしなかったのか?

運命のせいにして、努力を怠ってしまったのか?

許ぜずに、怒りをぶつけてしまっていたのか?

人よりも自分を優先する方を選んでしまったのか?と

今までに、学び、成長する機会を逸するような、決断をどれ位してきたのか想像もできません。



死んで、向こうの世界に行くと、地上の人生を振り返る時が必ず来ます。

自分の行いの全てを見せられます。

自らが決めて取った行いが、どんな結果をもたらしていたのかが判ります。

すっかり忘れていた自分の行いが、思いもよらぬ結果となって表れていることも判ります。

過去生での行いの結果が、時を経て、この人生で表れていたことも判ります。

原因が全く判らなければ、理不尽な出来事にしか思えません。

運命や神を呪っている自分を見るかもしれません。



遠い過去から、原因と結果の連鎖を繰り返しながら、現在の自分に至っています。

運や偶然の入り込む余地は全くありません。

向こうの世界に行くと、そのことを知るので、不平不満を抱く人はいなくなります。



不平不満を言っている自分の姿を見たのならば、何も知らなかったとは言え、恥ずかしくなるでしょう。

原因が自分にあるのに、環境や運命のせいにしている姿は、ひどくみっともなく映るでしょう。

そして、不平不満を言うほど、周りのせいにするほど、自分が変わる機会を失っていることに気付くことになります。



変われなかった原因が、自分にあったのを知ったのならば、もう1度地上に生まれることを切望すると思います。

今度は、どんなことがあったとしても、不平不満を言ったり、周りのせいにしないと固く誓うでしょう。

逆境に生まれ、人生のどこかで相応しい出来事が起こり、試される中で、目的を果たして行くことになると思います。



過酷な環境に生まれ、苦難の多い人生なのに、不平不満を一言も言わず生きている人がいます。

そんな人は、過去の人生のどこかで、そのような経験をしていたのかもしれません。

成長を妨げてしまうことを、魂はすでに学んでいると思います。


尾瀬の歩荷(強力)







2021年10月3日日曜日

人生の計画と自由意志


今から16年前になりますが、ある日突然、ヒーリングの力が出現しました。

数週間後にシルバーバーチの霊訓(霊的真理)と出会い、直後に仕事で不正が発覚しました。

精神的に追い込まれて行く中で、いつしか霊的真理が支えになっていました。

そして、ヒーリングの力が出現した意味も判りました。

それぞれの出来事は偶然ではなく、密接に関連していて、計画的に起きていると思いました。



私たちは、およその人生の計画を決めて生まれて来ます。

生まれる国、どの親の元に生まれるのかも決まっています。

性別も身体的特徴も決まっています。

才能も決まっています。

寿命も決まっています。

しかし、全部が全部決まっているわけではありません。



人には自由意思が与えられています。

どちらに進むのか、やるのかやらないのかを決めているのは自分です。

シルバーバーチの霊訓には、このように書かれています。

「神は人間に一定限度内の自由意志を与えています。操り人形ではないのです。知性を持っています。理性を持っています。自分で判断し、決断し、反省し、自分の意見を形成し、体験から知恵を学ぶ能力を持っています。」



人生の目的は、自分を成長させるためです。

足りない部分を補い、弱い部分を強くするためです。

目的を果たすために、最適な人生が計画され、そして提示され、私たちは了承して生まれて来ています。



計画に沿って生きることで、生まれて来た意味(目的)を成就して行きます。

けれども、自由意志が与えられているために、計画された人生とは違う方向に進んでしまうこともあります。

計画された人生を全うするために、守護霊は付いています。

違う方向に進んで行かないように守護霊は働きかけているのですが、功を奏さずに、地上の人が誘惑や衝動に負けてしまう時もあります。

自然法則に反する方向に進んで行くと、苦痛を伴う何かしらの出来事が、因果律の働きによって起こります。

我に返り、元に戻る人もいるでしょう。



違う方向に進んで行くと、気が進まない、しっくり行かないなど、違和感を感じるかもしれません。

奥底にある自分の想い(願望)とは違うからです。

それでも続けていると、精神と魂の間で不調和が生じて、病気になる人もいるでしょう。

病気の苦痛により魂が目覚め、自分の想いに気付いて、進むべき方向を見い出す人もいるでしょう。

私がそうだったように、深刻な出来事が起こり、徹底的に追い詰められて、魂が目覚めて、計画していた方向に進んで行く人もいるでしょう。



違う方向に進み続けて、人生を終えてしまう人もいます。

死後に、この世の人生を総括する時が来ますが、事実を知って愕然とします。

もう1度、やり直しの機会が与えられることを強く望むでしょう。

願いが叶えられ、地上に生まれますが、再び誘惑や衝動にさらされる人生が計画されることになると考えられます。



私たちは、計画していたルートを走っていますが、決めなければならないポイントがあります。


どちらに進もうか、やるのかやらないのか、迷ってしまいます。

苦しそう、大変そうだけど、「こちらに行かなければならない」、「やらなければならない」と、心の中で声がしたのなら、迷わず進んで行きましょう。

そちらが、計画していたルートの可能性が高いからです。



人生に計画があるのは、効率よく自分を成長させるためと考えられます。

人には、たくさんの霊的な資質があります。

例えば、優しさや勇気も資質の一つです。

優しいけれども勇気の足りない人もいれば、勇気はあるけれども優しさの足りない人もいます。

足りない部分を補うために必要な経験は、自ずと違ってきます。



神の叡智により、必要な経験が計画されて、最適な時期に起きるようになっています。

地上の人にとっては、最も望まない出来事が、最悪のタイミングで起きたとしか思えない時もあります。



人は苦しみや痛みを経験し、大きく変わって行きます。

変わりながら、霊的な資質を身に付けています。



私たちが生まれる前にいた世界はどうでしょう。

働く必要もなく、煩わしい人間関係もなく、闘争もなく、病気にもなりません。

地上的な苦しみや痛みが取り払われた、穏やかで平和な世界です。

peachyより

そこでの生活は、言ってみれば、平坦な道を歩いているようなものかもしれません。



一方、地上での生活は、山道を歩いているようなものです。

坂道が続いたり、足元が悪くなったり、木が倒れて道を塞いでいる時もあります。

先も見通せません。



山道を歩く方が、平坦な道を歩くよりも鍛えられます。

不測の事態や危機的な状況に遭遇し、対応する能力も身に付きます。

自分を鍛えるため、必要な資質(能力)を身に付けるために、地上に生まれることを決めたのは、他ならぬ自分です。

けれども、そのことをすっかり忘れてしまいます。



私たちは、地上的な自我を前面に出して生きています。

地上的な自我は、安全を志向しているので、平坦な道を進んで行くことを望んでいます。

奥底にいる自分(霊的な自我)は、より成長する山道を進んで行くことを望んでいます。

両者の間で葛藤が生まれます。



奥底にいる自分は知っています。

計画した通りに進んで行けば成長することを。

勇気を出して、山道を進んで行かなければいけないことを。

それで後悔することはないことを。



山道を進んで行くことで、少しずつ成長して行きます。

その証拠に、険しい山道を進んで行った人は、後に同じ様な道を歩んだとしても、以前の様な苦しさは感じられなくなります。



計画していた方向に進むのには、勇気が必要です。

苦しい思いをすることが判っているからです。

それでも勇気を出して進んで行くのには理由があります。



霊界では、想い(思念)は直ちに具現化します。

地上では、想いを具現化するのに、精神や肉体を動かす労力が必要です。

進んで行く勇気や労力が、魂の成長に直結しています。



肉体のない霊界では、自分ではなく周囲に関心が向かうようになります。

他者のために、何かをしたくなります。

何かをするためには、地上の労力に値する霊力が必要です。



地上での経験は、魂を成長させ、霊界において、周囲のために何かをしようとする想いを高めます。

同時に、それを実現するための資質と霊力が培われます。



人生の計画が立てられ、自由意志により成長する方向に進んで行こうとするのは、世界(周囲)をより良くしようとする意志があるからです。

それは内在している神の意志だからです。