2020年8月30日日曜日

霊的につながっている


小学校の時に、いつも一緒にいる友達から、仲間外れにされたことがあります。

昔のことで、いきさつは良く覚えていませんが、何か怒らせるようなことをしてしまった
のではないかと思います。

近くにいて無視されるのは、とても嫌な経験でした。

しばらくすると元に戻り、ホッとしました。




人と人は、誰かとつながっていないと、不安になる生き物なのかもしれません。

友達はいなくても、家族同士が仲良かったり、また共通の趣味の人がいたり、行きつけの
店で会う人がいたりして、どこかでつながっていると思います。

今は、SNSを通して、つながっている人もたくさんいます。




もし、人間が肉体だけの存在であれば、孤独を感じることはないでしょう。

肉体は元々、別々なのですから。

肉体(大脳)を超えたところで孤独を感じています。




私たちの本質は魂です。

魂は、意識の本体であり、生命そのものです。

個と個は独立していますが、それは肉体の話です。

肉体に宿っている霊は、完全に独立していません。

1つ1つが全体の構成要素であり、関連性を持ってつながっています。



クロード・モネ「積みわら₋夏の終わり」










上の絵のように、様々な色彩の点や線がたくさん集まって、1つの絵画が構成されています。

どんなに小さい点であっても、その場所に必要だったから描かれたのです。

広大な宇宙の中で、1人の人間は限りなく小さな存在です。

けれども、全体の中で何かしらの役割りを担っています。

存在意義のないものが、この宇宙に誕生することはありません。




誰とも接することなく、孤立無縁の様に思えても、霊的にはつながっています。

例えが少々強引かもしれませんが、パソコンやスマホが肉体で、ネット上のIDが魂(霊)と言えるのかもしれません。

精緻で無限大の霊的なネットワークがあり、全ての人(魂)は全体とつながっていて、意念を向ければ、思念が届くようになっています。

それが、肉体と言う媒体に阻まれて感じられなくなっているのが地上です。




霊的なつながりは、物理的な制約を受けません。

遠く離れた場所で、別々に暮らしていても、お互いが想っていれば、つながっています。

たとえ、この世にいなくても、存在を信じ意念を向ければリンクが張られて、次元を超え
てつながることが出来るのです。




磁石は、磁力によって引き付けられています。

人と人を引き付けているのは、霊的な力です。

最強の力は愛です。

両者に愛あれば、霊的に強くつながります。

どんなに近くにいたとしても、愛がなければつながりは脆弱です。




愛はさまざまな形態を取ります。

情愛、友情、同情、慈悲、哀れみ、寛容心は不滅の霊性であり愛の諸相と、シルバーバーチは言っています。

その様な想いを向ければ、見たことも、会ったこともない人でも、霊的につながることが出来ます。




その根拠があります。

私は、これまで多くの人たちにヒーリングをして来ました。

信じられないかもしれませんが、世界のどこにいようとヒーリングの力は届きます。

依頼の連絡が届いた時点で、目に視えないつながりが出来上がります。

そのつながりを通して、力が伝わります。

住所、名前などの情報は一切必要ありません。

こちらが意念を向ければヒーリングが成立する、そのことから想いを向ければ遠く離れた人でもつながることが、少なくても私の中では実証されています。




想い(思念)が視えないのが、地上です。

視えない想いを、肉体を使って言葉や行動により表現して、視える形にしなければなりません。

視える形となって表現されたものに込められた想いを、霊的な感覚によって感じ取っています。

込められた想いが、愛に根ざしたものであれば両者の距離は近くなり、反していれば遠ざかります。




それぞれの人間は、何かしらの役割を持って生まれて来ています。

役割りとは、仕事もそうでしょうが、人や動物や環境にどんな影響を与えているのかと言う意味が大きいと思います。

人は、出会う人に何かしらの影響を与えています。

同時に、影響を受けています。

もし、肉体だけの存在であれば、個は確立されているので、お互いに影響し合うことはありません。




人とのつながりの中で、反発することがあります。

地上はさまざまな個性の魂が入り混じる世界なので、それは仕方ありません。

共感して、考え方が変わる時があります。

誰かの一言で、人生が変わる時もあります。

自分の本質は可変的なものであり、つながりの中で変わって行きます。




私たちは、絶え間なく変化をしている存在です。

変化する方向は、自然法則の働きによって、定められています。

お互いに影響し合いながら、より神の心(愛)を表現する方向に変化して行きます。

個と個はつながり、愛によって1つになるのが、神の心だと考えられます。




つながりを感じているのは、霊的な部分です。

普段の生活で働いているのは、頭(大脳)です。

頭が活発に働いている時は、霊的な部分は休んでいます。

従って、日常生活で頭が働いている時には、つながりは意識されず、人と接触しているだけであり、それぞれが孤立した存在に思えてしまいます。




しかし、非日常的な状況になると違って来ます。

それまで眠っていた霊的な部分(魂)が呼び覚まされて、つながりを意識することがあります。




東日本大震災により、1万人以上の人が津波により亡くなりました。

多くの人が亡くなった人に哀悼の念を捧げ、そして残された家族に同情しました。

一時ですが、同じ日本人としての絆を感じた人も多かったのではないでしょうか。

同じ想いになった時、霊(魂)は同調しており、つながりが意識されます。




私たちが想像もできないほど、貧しい国々が世界には存在します。

栄養が足りず、衛生状態が悪いために、亡くなって行く子供たちが後を絶ちません。

スーダンの難民キャンプの子供
そんな子供たちを見る度に、悲しくなり、何とかならないかと思います。

同じ人間として、許されることではないと感じますが、それは私たちに霊性が存在しているからです。

同じ人間として、同胞意識があるからです。

霊的なつながりがあるからこそ、同胞意識が生まれます。






動物が虐待されたり、殺されたりするのを見ると、心が痛くなります。

痛みを感じているのは、霊的な部分です。

私たちの中にいる「良心」と言う神が、摂理に反する行いに対して、痛みを感じています。

同じ地球に生きて、同じ生命としてつながっているからこそ、その様な気持ちになると思います。

あらゆる生命は霊的につながっているのですが、そのことに気付かない人間は、摂理に反したことを平気で行ってしまいます。




霊的なつながりは、同じ想いになった時に強くなります。

双方が、愛によってつながった時、両者の関係は最も強固なものとなり、大きな悦びとなります。





私たちは、拒絶されたり、嫌われたりすれば、心に苦痛を感じます。

また、信じてもらえなかったり、認めてもらえなかったりするのも、大きな苦痛となります。

怒り、憎まれたり、恨まれたり、妬まれたり、蔑まれたりするのも、とても嫌なものです。

そのどれもが、つながりを断とうとするものです。

つながりが断たれるのを感じるのは、人間にとって最大の苦しみの1つです。




逆に、信じてもらえたり、受け入れてもらえたり、認めてもらえたりすれば、悦びとして感じます。

それは、他者とつながったと感じるからです。

親切にしてもらったり、優しくしてもらったり、労わってもらうとうれしいのは、つながりを強く感じるからではないでしょうか。




この世に生まれた目的の1つは、他者とのつながりを深めることです。

生まれる前にいた世界と違うところは、周りに自分と違う人、似ていない人がたくさんいるところです。

つながるためには、お互いに認め合い、許し合わなければなりません。

自己犠牲も求められます。

そんな苦労をする中で、大切なことを学び、成長するようになっているのが、地上の良いところであり、難しいところでもあります。




お互いが信じられなくなり、離れて行く人がいます。

そんな人たちは、つながりが失われているために、想いは通い合わなくなっています。

悲しく、つらいことです。

この世から大切な人がいなくなって、深い悲しみ、苦しみを味わっている人もいます。

五感に触れない、悲しみ、寂しさは、どうしても避けられません。

しかし、その苦しみは残された人の無知から生じている時があります。

存在がなくなってしまった、もう会えないと事実誤認をしてしまうと、向こうにいる人にとって、地上の人とのつながりが断たれてしまったと感じるでしょう。

少なからず、苦しみになっていると思います。

無知から生じた苦しみが、因果律の働きによって、自分に返って来ているのかもしれません。

肉体はなくなっても霊的につながっている、確証は持てなくても、そう信じることによって、双方の苦しみは和らぐと思います。




つながりが断たれて苦しむのは、個と個がつながるためにあると考えられます。

自然法則の働きによって、お互いがつながることを促されています。




地球上の全生命が、物質の壁を取り払い、再び1つになって行くのが、神の意志と考えられます。

それを主導しているのが人間であり、愛によってのみ成就されます。


愛犬しろ


















2020年8月23日日曜日

叡智(知識)が苦しみから解放させる



私は歯科医ですが、虫歯の治療が好きだと言う人に、今までお目にかかったことはありません。

理由は苦痛を伴うからです。

麻酔をすれば、ほとんど痛みを感じずに治療が出来るのですが、歯を削ると神経に触れて痛くなると、頭に刷り込まれているようです。


痛みなんてなければ良いのにと、つい思ってしまいますが、もし痛みを全く感じなかったとしたらどうでしょう?

虫歯になっても放置してしまい、抜かなければいけない状態になってしまう人が続出すると思います。

痛ければ、歯医者に行って治すしかありません。

痛みによって、身体の異常を知ることが出来て、結果的に自分が守られています。




ご存知でしょうが、虫歯の原因は、歯の表面に付いている汚れ(プラーク)です。

歯の汚れの中にはたくさんの細菌がいて、細菌が出す酸によって歯が溶かされて、虫歯になることが証明されています。

ほとんどの人は、そのことを知っていますが、中には知らない人もいます。

知らない人は、虫歯で痛くてどうしようもなくなり、歯医者に来ます。

そこで、歯の汚れと虫歯の因果関係を知って、歯ブラシの仕方を教えてもらいます。

正しい知識を身に着けて、実行すれば、後は痛い思いをしなくても済みます。




お口の中に異常はなくても、定期的にメンテナンスに来る人もいます。

目的は、病気を予防するためです。

そんな人は、正しい知識を持っていて、お口の中を清潔にしているため、病気にならないので、痛い思いをしなくて済みます。




正しい知識がないと、人は苦しい思いや、痛い思いをするようです。

幼い子供は、何も知らずに危ないことをして、怪我をすることもあります。

フグに毒があるのを知らなければ、食べて死んでしまうかもしれません。

知識を持つのは、身体や命を守ることにつながっています。




宇宙には自然法則が働いています。

目に視える物質的次元、目に視えない霊的次元のそれぞれに法則が働いています。

霊的次元に働いている法則は、愛を帯びていると思います。

なぜなら、法則を創った存在が無限の愛であり、全ての生命に愛を顕現させるために法則が働いていると考えられるからです。




私たち人間から、いろんな想い(思念)が生じています。

目に視えない想いにも、霊的次元の法則が働いています。

今も、どこかで戦争が起きています。

戦争の元となっているのは、怒りや憎しみや恨みの想いです。

怒りや憎しみや恨みの想いは、霊的次元の法則に反していて、愛の対極にあります。

その想いを行動によって表現すれば、攻撃的なものとなり、相手に苦痛を与えることになります。




自然法則の根幹を成しているのが「因果律」です。

物理学の授業で、作用、反作用の法則を習いましたが、それに良く似ています。

自分から出たものと同じものが、自分に返って来ます。

相手に苦痛を与えたのならば、今度は自分が同じ苦痛を味わうことになります。

因果律の働きを知らなければ、自分が味わっている苦痛は、全て相手のせいと考えます。

相手もそう考えたならば、怒りや憎しみの想いが増幅して行き、やがて戦争になります。




因果律の働きを知り、闘いに勝利を治めた人がいます。

インド建国の父と呼ばれたマハトマ・ガンジーです。

彼が貫いたのは、暴力なき抵抗です。

ガンジーはインドを植民地支配から脱却させるために、国民に非暴力を実践することを求めました。

力ではなく、言葉と行動で、イギリスから独立しようと考えました。

もし、力によって独立しようとしたのならば、多くの国民の生命が失われた上に、力によってねじ伏せられたと思います。

暴力には暴力が返って来ます。

非暴力には非暴力しか返って来ません。

そして、国民の強い想いが、やがて具現化して行きます。

指導者に霊的な知識があったので、インドは無用な血を流さずに、目的を成し遂げました。




自然法則は、宇宙を司る原理原則であり、不変にして不滅です。

知っているか、知らないかにおかまいなく、厳格に働いています。

知らないで法則に反した行動をしてしまうと、因果律の働きにより、苦痛を伴う出来事が起きます。

苦痛によって、自分の過ちに気付いて、改めることになります。

それで、自然法則の働きの1つを学んだことになります。




知識は無限に存在します。

しかし、私たちが得られる知識は限られています。

物質的次元の法則、例えば物理法則であれば、本を読んだり、先生から教えてもらい得ることができます。

しかしながら、霊的次元の法則はそうは行きません。

自らが、ふさわしい経験をするしかありません。

言葉に言い表せない大切なことは、人から教えてもらうことが出来ないので、実際に自分が経験して学ぶしかありません。

それが、自分だけの叡智となります。




病気になるのは、誰でも嫌なものです。

何で自分だけが、こんな思いをしなければならないと、憤りを覚える時もあります。

病気が深刻になると、それまで捉われていたものに関心がなくなり、大切なものに気付く人がいます。

人と人を結びつけている想いより大切なものはないことに気付く人もいるでしょう。

病気は、叡智を学ぶための触媒の1つと考えられます。

苦痛の経験を通して学んだことは、魂に刻み込まれて、忘れることはありません。




この世に生きている理由は、様々な出来事を経験して、叡智を学ぶためと言えます。

出来事が起きて学ぶと言うよりも、学ぶために出来事が計画的に起きていると考えられます。




自然法則の働きを学ぶほど、魂は成長して、苦痛から解放されることになります。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解がいけば苦しい思いをしなくなります。」

どれほどの経験をすれば、そんな境地に至るのか想像も付きません。

しかし、そんな境地に至るため、私たちはこの世に生まれて来ているのは確かです。




霊的真理に書かれている自然法則の働きを強く信じ、自分のものとすることが出来たのであれば、多くの苦しみを経験しなくても済むのでしょうか。

自らの経験により1つの叡智を学び、その真実性を確信することで、他の叡智まで同時に魂が受け入れられたのであれば、大変な近道をしたことになります。

知識を持つことで病気になるのを免れるように、霊的な知識を持つことで無用な苦痛を経験しなくて済むのだとしたら、何と素晴らしいことでしょう。

ガンジーの為したことと変わりありません。

広めて行くことは極めて重要と考えられます。




叡智(自然法則の働き)を学び、実践するほど、魂は進化します。

神の摂理に従って生きるようになり、神の心を表現するようになります。

進化している人ほど多くの叡智を学んでいて、摂理に従って生きているので、苦痛から解放されていると考えられます。




私たちは、日々、起きている出来事に怖れや不安を感じてしまいます。

そんな時こそ、神と神の摂理(自然法則)の働き、そして背後にいる霊的な存在へ、絶対的な信頼を置くように努めるべきです。

見えざる力、見えざる法則の働きによって、私たちは良きに計らわれています。

悪い方向に向かっている様に思えても、自然法則の働きによって、良い方向に向かっています。




多くの人は、自分の中に神がいると思わずに、外に見い出そうとしています。

外には自然法則として顕現しているだけです。

神は手を差し伸べて、助けてくれる存在ではありません。




自分の中に神が宿っています。

神がいる実感はないかもしれませんが、真実です。

これは極めて重要な知識です。

良心があり、愛する心があるのは、自分の中に神が宿っている確かな証拠です。

それが自覚できるのであれば、信じることはできるはずです。

信じることで、神の力が顕現し始めて、怖れや不安はなくなります。

神は克服すべきものとして、怖れや不安を創ったと考えられます。

私たち地上の人間が、神の一部であることを自覚するために、創ったと考えられます。




怖れや不安は、苦しみとなります。

苦しみから逃れるために神に願うのではなく、自分に宿る神を強く信じることによって和らぐと考えられます。




苦しみとは、魂の未熟さの現れです。

未熟な自分を完成させて行くために、この世に生まれ、不可欠な出来事を経験しています。

もがき苦しむ中で、言葉を超えた叡智を手に入れ、自分自身(魂)が変わることで、苦しみから解放されます。




人を憎んだり、恨んだり、蔑んだりしてはいけないのは、どうしてでしょうか?

動物を傷つけてはいけないのは、どうでしょうか?

その人、その動物の中にも、神が宿っているからです。

神に対して行っているのと同じだからです。




自分の中に宿る神を信じるとは、自分(魂)を信じるのと同じです。

信じることによって、内部から神の力が湧き出します。

神の力は無限です。

強く信じるほど、強く力が湧き出します。

自分の中に宿る神を信じることで、そこから湧き出す力によって、あらゆる出来事は乗り越えることが出来ます。




乗り越えるのを妨げているのが、地上的な自我です。

そんなことはあるはずがないと否定します。

あれこれと想像し、考えを巡らして、怖れや不安を生じさせ、意識を物質的次元へと縛り付けます。

自分の中にいる神に意識を向けて、自分のものとすることで、怖れや不安はなくなります。




「自分の中に神がいるので、乗り越えられないことはない」

この世を生きる私たちにとって、最も大切な知識(真理)の1つです。

心の中で繰り返し唱え、強く信じることで、怖れや不安がなくなり、内から湧き出す神の力によって、いかなる苦難であっても乗り越えられるはずです。






2020年8月16日日曜日

魂が存在する主観的な証拠



今年はコロナウィルスの流行で、お盆に帰省した人が大幅に減ったようです。

私は霊的真理と出会い、亡くなった人は魂となり生きていて、愛情で結ばれた人の傍にいることを知りました。

そのために、敢えてお墓参りに行く必要はないと思っていました。




それでも、時々はお墓参りに行きます。

雑草が生えていたり、人が来た気配がないと、故人が不憫に思えるからです。

草むしりや清掃をして、お墓がきれいになると、何だかうれしい気持ちになります。

そんな時は、向こうで喜んでくれていると思っています。




お墓の前で手を合わしている時に、その人のことを想います。

その想いは、本人に届いていると信じています。

自分のことを忘れずにいてもらえれば、うれしいに決まっています。

みんなが集り、故人のことを話している時も、その場にいて、この世にいた時のことを懐かしんでいると思います。

お盆で帰省するのは、地上の人だけではありません。

地上の人の想いに引き付けられて、霊界に行ってからしばらく経つ人も来ていると思います。




墓参りに行けない人は、故人に対して失礼なのでしょうか?

墓前に行き、形式的にお線香を上げて、手を合わせてもらうよりも、行かなくても思い出して、親愛の念を向けてくれる方が、よっぽどうれしいはずです。

どこで何をしてもらうかよりも、どんな想いでいるかの方が、ずっと関心があると思います。




自分が逆の立場になったらどうするのか考えてみれば判ります。

親愛の想いを向けてくれる人に対し、何とかして応えようとするのは、ごく自然の成り行きです。

無用な危害が加わらないよう、正しい方向に進んで行くように、地上の人に想い(思念)を向けて導いているはずです。

地上から向けられた親愛の想いは、因果律の働きによって、どうしても地上の人に返したくなります。




それでは、お墓参りに行く人たちは、故人が生きていると本気で思っているのでしょうか?

もしかしたら、あの世で魂となって生きているかもしれないと思う程度の人が、ほとんどかもしれません。

魂が存在する客観的な証拠が示されないので、それは当然です。




地上には70億を超える人がいます。

その個性は、誰一人として同じではありません。

個性(性格)について、長い年月に渡り科学的な研究が続けられています。

しかしながら、全く説明がつかず、研究は行き詰まってしまったように感じます。

個性が、大脳の働きを超えたものから生まれていることを認めない限り、状況は全く変わらないでしょう。




人間は魂(霊)、精神、肉体からなる存在です。

個性は、大脳が作り出しているのではありません。

最も高次にある魂に、個性が存在しています。

それが精神に反映され、大脳を介して肉体で表現され、認識されていると考えられます。




その人の本質は、魂です。

魂は生命そのものです。




私たちは、様々な出来事に遭遇します。

それに対し、どの様に行動したかによって、個性は変化して行くと思います。

どう行動するのかを決める自由が、私たちに与えられています。

同時に決めた責任も、自分に課せられています。




これまで様々なことを決めて、行動して来た結果として、今の自分があります。

自分の行いは、全て魂に刻み込まれています。

それが個性となって反映され、行動や言葉や表情やしぐさとなって表現されています。

まだ、何も経験していない赤ちゃんにも個性があります。

それは、窺い知ることの出来ない過去世における行動が、魂に反映されているためと考えられます。




宇宙には、絶対的な神の摂理が働いています。

さまざまな出来事が起きる究極の目的は、私たちが神の心に近づいて行くためと考えられます。

摂理に適った行動をすれば、神の心に近づき、反した行動をすれば遠のいてしまいます。

過った行動によって、歪められた個性が外部に表現されると、苦痛を伴う結果が生じて、自分自身に返って来ます。

わがままな人は、これまでの利己的な行動によって個性が培われています。

それが外部に表現されると、孤独と言う苦痛を味わうことになります。

苦痛によって、歪んだ個性が神の心に適うように改められて行きます。




もし、魂が物質的次元の存在であればどうでしょう?

肉眼で存在が確かめられるので、誰もが認めるでしょう。

しかしながら、魂は霊的次元の存在です。

残念ですが、地上の人は確かめることは出来ません。

自分の目で確かめられないものを、人は否定してしまいがちです。




それでは、愛はどうでしょうか?

五感には触れず、客観的に証明されていません。

証明されていないにも関わらず、ほとんどの人は愛は存在していると信じています。

それは、愛を実感したことがあるからです。




愛も、魂と同じ霊的次元の存在です。

目に視えない魂から、目に視えない愛が生じています。

霊的次元の存在を信じるためには、自らが実感するしかありません。

あくまでも、主観的なものです。

愛は、魂にある霊的な感覚によって実感されています。




それでは、霊的な感覚とはどの様なものなのでしょうか?

初対面で、言葉を交わさずとも自分と合う人と、合わない人が判る時があります。

そんな時は、霊的な感覚によって、相手のオーラ(霊的大気)を感じ取っていると考えられます。

泣いている人がいると、思わずもらい泣きをしてしまうことがあります。

そんな時は、相手の悲しみの想いを、霊的な感覚が感じ取っていると考えられます。

頭で考えてではなく、直感によって行動している時も、霊的な感覚が活発に働いていると考えられます。




難しい数学の問題を、頭を使って解いている時は、霊的な感覚は働いていません。

数字や文字を使った知的な作業に、霊的な感覚は必要はありません。

しかし、行動や言葉から相手の想いを感じ取る時には、霊的な感覚が働いています。

叱られた時に、自分のことを思って言ってくれたのか、そうでないのかが判ります。

謝ってもらった時に、口先だけなのか、本心から言っているのかも判ります。

その判別しているのが、霊的な感覚です。

行動や言葉に込められた想いを、霊的な感覚が認識しています。

俗に第六感と言われるものが、この感覚に該当すると思われます。







赤ちゃんが、こちらを向いて微笑んでいます。

思わず、可愛いと感じます。

これは大脳で考えた結果でしょうか?

そんなはずはなく、魂から瞬時に生じています。




溺れている人がいたら、どうでしょう?

衝動的に、助けたいと思います。

頭で考えた結果であるはずがありません。

奥深くにいる魂の欲求の現れです。

魂は神の一部として、全体とつながっています。

魂に神性が存在しているので、わが身を顧みずに人を助けようとします。




行動に移す前に、何かが咎めるのを感じたことはないでしょうか?

例えば、道端に一万円札が落ちていて、拾ったらどうでしょう。

誰も見ていないし、誰のかも判らないので、もらってしまおうかと思います。

ところが、「そんなことはしてはいけない」と心の中で、何者かが訴えています。




小学校の時のことです。

夜中にふざけて暗闇に向かって石を投げました。

朝になって、ちょっとした騒ぎになっていて、よく見ると車のフロントガラスがくもの巣状に割れてしまいました。

自分の投げた石が当たったと瞬間的に判りました。

学校で授業が始まっても、そのことが頭から離れません。

いたたまれなくなり、家に帰って母親に自分が石を投げたことを告げました。

「しらばっくれていないで白状しろ」と、心の中で訴えている何者かを感じていたからです。

ばれさえしなければ、何の問題もなかったはずです。

しかし、そうは行かなかったのは、自分の中に「良心」が存在していたからです。




目に視えない自然法則の働きによって、宇宙が経綸されています。

自然法則の働きに背いて行動すると、どこかで償いが必要となります。

その行動が成長の妨げとなってしまうので、心の中で良心が警鐘を鳴らしています。




悪いことをしてはいけないと思うのは、人からそう教わったからではありません。

生まれながらにして、良心が備わっているからです。

過ちを犯そうとすると、心が咎めるように、初めからなっています。




もし、私たちが霊的な存在でなければ、霊(神)性を宿すことはありません。

良心が存在する理由は、どこにも見つけられません。




全ての人の魂に、良心が内在されています。

意識の中に善と悪があるのは、魂に良心と言う絶対的な基準が存在しているからです。

無意識の内に善悪を判断し、神の摂理(自然法則)の働きを遵守しようとしているのが魂です。




いつもの自分とは別に、別の自分がいます。

成長に大きく関わる時に、別の自分が表に顔を出して、いつもの自分に問いかけたり、忠告したりしています。

その別の自分こそが、本当の自分であり、魂です。







2020年8月9日日曜日

霊界の存在を信じる




シェラーグ・ボルテン(ノルウェー)水田秀樹氏のブログより

断崖絶壁の前に立つと、思わず足がすくみます。

これは心が恐怖を感じているからです。

何故、感じるのかと言えば、身を守りたいと言う欲求が、私たちに備わっているからです。




それでは、身を守りたい欲求は、どこから生じているのでしょうか?

私たち人間は、魂(霊)、精神、肉体によって構成されています。

本当の自分とは、肉体ではなく魂です。

魂とは生命そのものであり、大生命である神の一部を構成するものです。

個々の魂には「霊的自我」が存在し、そこから自分の偽らざる想い(思念)が生じています。




そして、精神上には「地上的自我」が形成されています。

霊的自我から生じた思念は、地上的自我を通して、肉体によって表現されています。

私たちは、地上的自我と霊的自我(魂)の間で、バランスを取りながら生きていると言えます。

しかし、地上的自我の働きが強くなると、それに負けて、霊的自我から生じた本当の自分の想いが表現されにくくなります。




霊的自我は、成長して行くことを志向しています。

成長は、他者に愛を表現すること、困難や障害を乗り越えて行くことで得られるので、そちらの方向へ進んで行こうとします。

一方、地上的自我は、肉体と強く結びついています。

そこから、身を守りたい欲求が生じていると考えられます。

地上的自我は、安全に生きることを志向していますので、その働きが強くなると恐怖や不安が大きくなります。

また、快適に生きようとするためのに、お金、地位、名誉などへの欲求が高まります。

逆に弱まり過ぎると、危険にさらされても恐怖を感じなくなり、身を守れなくなります。

霊的自我と地上的自我の関係 その1

登山家を例に挙げます。

霊的自我は、自分を成長させようとするために、危険を伴う険しい山に挑戦しようとします。

一方、地上的自我は、肉体を守ろうとするために、理由を考えて止めさせようとします。

駅のホームから、線路に人が落ちたとします。

霊的自我は、良心に従い助けようとしますが、地上的自我は、自分まで巻き込まれてしまうと考え、抑止します。

道端で子猫がないていたとします。

霊的自我は心配になり、近寄ろうとしますが、地上的自我は、飼うことになると大変なので、止めさせようとしています。

このように、人生のさまざまな場面で、両者の間でせめぎ合いが起きていると考えられます。

地上的自我は霊的自我に対し、この世では抑制的に働くように仕組まれていると考えられます。




精神は肉体に優り、魂(霊)は精神に優ります。

霊的自我(魂)から生じた本当の自分の想いが、地上的自我(精神)を通して、肉体で表現されているのが健全な姿です。

ありのままの自分が表現されています。

しかし、いろいろな理由から地上的自我の働きが強くなると、本当の自分の想いが表現され難くなります。




地上的自我が強くなったものを「エゴ」と呼ぶのならば、エゴが要求するままに生きている人は多くいます。

エゴから発する考えは、神の摂理に適っていないことが多く、要求のまま生きていては、予定されていた成長が得られなくなってしまいます。

利己的になったり、傲慢になったり、見栄を張ったりするのも、エゴの特性と考えられ、成長しないばかりか、業(カルマ)が生じてしまうかもしれません。

業(カルマ)が蓄積して行くと、ある時に因果律が作動し、苦痛を伴う出来事が生じると考えられます。

また、地上的自我の働きが強くなり、本当の自分の想いが表現されないと、内に溜まってしまいます。

内に溜まった想いが、因果律の働きにより、病気として肉体上に表現されるかもしれません。

いずれの場合も、事象が引き起こす苦痛によって、奥で眠っていた本当の自分が目を覚ますことになります。

それまで「自分」と認識していたのは地上的自我です。

それに代わって、霊的自我(本当の自分)が表に現れて主導権を握り、子供の時の様にありのままの自分が表現されるようになります。

これが魂の目覚めです。




霊的自我(魂)は、この人生をどう生きれば良いのかを知っています。

その声に耳を澄ませて、素直に従えば、予定されていたシナリオに沿って、成長しながら生きて行くことが出来ます。




そして、守り導いている霊界の存在(背後霊)が付いていることも忘れてはいけません。

霊界の存在も辿るべき人生が判っていて、地上にいる人の成長を願いながら、生まれて来た目的が果たされるように導いています。

危害が加わりそうになったり、進んで行くべき道を誤りそうになった時に、思念(インスピレーション)を送って、回避させようとしています。




ところが、強くなった地上的自我は、援助をしようとしている霊界の存在にとって、取り囲んでいる壁のような存在です。

インスピレーションを伝えようとしても、霊的自我(魂)まで到達しなくなります。

エゴが強い人は、人の意見を聞こうとしません。

そればかりか、霊界からの助言や警告も受けられなくなってしまいます。

霊界の存在にとって1番厄介なのは、地上の人の恐怖や不安や取り越し苦労の様です。

恐怖や不安も、地上的自我から生じているので、それが大きくなってしまうと、霊的な感受性は低下してしまい、援助(インスピレーション)を受けられなくなってしまいます。
霊的自我と地上的自我の関係 その2

援助をしようとしている霊界の存在にとって、地上の人の恐怖や不安、取り越し苦労は大きな障壁となります。

私は遠隔ヒーリングを行う時に、受ける人にリラックスするようにお願いしています。

受ける側に不安感や緊張感があると、それが障害となり、霊力が伝わりにくくなると感じているからです。

上図の様に、恐怖や不安を感じている時は、地上的自我が強くなっていることを意味し、バリアの役目を果たしてしまい、インスピレーションを含めた霊力が伝わる際の妨げになると考えています。




もし、恐怖や不安を感じたらどうした良いのでしょう?

霊的自我の働きを再び強めてやれば、良いと思います。

そのために、私たちは神の一部であることを強く意識するのも良いでしょう。

そして、霊界の存在が守り導いてくれていると信じることも大切です。

そうすれば、地上と霊界のつながりが深まり、霊的自我が強くなると考えられます。




霊界は、地上のような恐怖や不安は存在しません。

穏やかで安らかで平和な境涯です。

良きに計られている、見守ってくれている強く信じるとことによって、霊界と同調することが出来れば、心の平穏を取り戻すことが出来ると思います。




朝起きると、今日1日の予定が頭に浮かぶ時があります。

大丈夫だろうか、上手く行くだろうかと、思うこともあります。

今でしたら、新型コロナウィルスの感染が不安です。

そんな時に、寄り添ってくれている存在を意識し、乗り越えて行けるよう、守ってもらえるように祈ります。

すると不安や心配が和らぎ、平穏な気持ちに一瞬にして変わるのが感じられるかもしれません。

霊界の存在は、いつもこちらの想いに応えてくれていて、勇気付けて、励ましてくれています。




自分がこれからすることに、怖れや不安を感じることがあります。

問われるのは、言動の動機となっている想いです。

動機が、怒りや恨みや憎しみや嫉妬など、摂理に反する想いに根差しているのであれば、結果として苦痛となって自分に返って来ます。

エゴから発している、自己保身的、自己満足的なものであれば、それは利己的なので、良い結果をもたらしません。

静かに自分に問いかけて、摂理に適っている、あるいは反することがなければ、外に向かって表現しても、怖れることはありません。




恐怖や不安は、地上的自我が作り出した心の蜃気楼です。

実際には存在していません。

存在しないものに振り回されて、自分や他者を信じられずに、想いが表現されなくなってしまわないように、払いのける不断の努力が必要です。

地上では恐怖や不安は付きものであり、それ払拭するように努めるのが、生まれて来た目的の1つになっていると考えられます。




思念は具現化する力を秘めています。

けれども、精神で作られた恐怖や不安には、その力はありません。

ただし、思念が具現化される妨げとなります。

恐怖や不安や取り越し苦労は、霊的な援助を授かる通路を塞いでしまいます。

地上的な欲望、思い込みや固定観念も、インスピレーション伝達の妨げとなります。

霊的な通路を塞がないために、霊的自我の働きを高める必要があります。

それには、自分の中にいる神、背後で見守っている霊の存在を強く信じ、霊界と一体化を計るのが有効と考えらます。











2020年8月2日日曜日

成長したいから苦難が訪れる



東京オリンピックが、1年後に延期になりました。

選手たちは、4年に1度のこの大会で自分の実力を発揮するために、厳しい練習に耐えて来たと思います。

もし、実力を発揮する場がなくなれば、練習へのモチベーションは上がりません。

厳しい練習に耐えられるのは、試合の時に良い結果を出して、悦びを味わいたいからです。





若い時に、何で生きているのだろうと考えることがありました。

十数年前に霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、その答えがようやく見つけられました。

選手が練習を積んだ後に、実力を発揮する場(試合)があるように、これまでの経験が活かされる場があります。

その後の人生にも活かされますが、本当に活かされるのは、死んだ後に行く世界(霊界)においてです。

私たちが、この世界に生きているのはそのためです。




死んだ後に行く世界には、無限の界層があります。

どの界層に行くのかは、その人の霊性が決定します。

頭の良さ、社会的地位は全く関係なく、思いやりがあり、寛容で、無私の行為が出来る人が、より上の界層に行くことになります。




同じ界層には、同じ霊性の人たちが集団で生活をしています。

その人たちのことを「類魂」と呼んでいますが、魂(本質)が類似しているため、同じ様なことを想ったり、考えたりしています。

お互いに気心が知れているので、安心して、平和に暮らすことが出来ます。

それぞれの個性を、集団の中で活かし合いながら生活をしています。

相互扶助の世界と言っても良いでしょう。




肉体はもうないので、地上のように生活して行くために働く必要はありません。

そのため、自分のためではなく、他者のために何かをしようとする気持ちになるようです。

自分にだけ意識が向いている人もいますが、そんな人は趣味や遊びをする位で、他に何もすることがなくなってしまいます。

自由気ままに遊んでいることも許されますが、つまらなさや虚しさを感じてしまいます。

それでは、生きている目的を果たしていないことになるからです。




生きている目的とは、成長することです。

成長していることで、心は満たされ、充足感が得られます。

他者のために奉仕をすること、そして困難や障害を乗り越えて行くことで、私たちは成長しています。

人のためになったり、努力して目的を達成すると、悦びを感じるようになっています。

電車でお年寄りに席を譲ると、ちょっと満たされた気持ちになるのはそのためです。

険しい山を登って頂上に着くと、喜びを感じるのもそのためです。

人は悦びを味わいたいために、成長する方向に進んで行くようになっています。




しかし、地上では肉体があるために、どうしても自分に意識が向かってしまいます。

疲れている時は、目の前にお年寄りが立っていても、座っていたいと思ってしまいます。

体調が悪い時に、険しい山を登ろうとする気持ちにはなれません。

心が肉体の制約を受けるために、成長する方向に進んで行きたくても、行けない時があります。




そして、地上の人は肉体を維持して行くために、食べる必要があります。

そのために働かなければいけません。

人や社会や家族のために、何かをしなければ生きて行けないのが地上の特徴です。




何かをしなければならない真の目的は、食べて行くためではありません。

次に行く世界で、他者のために進んで奉仕をするためです。

地上で肉体という重苦しい媒体を通して、誰かのために奉仕をする習慣を身に着ければ、身軽になった次の世界では自然に出来るようになります。




次の世界では、私たちには果たすべき役割があるようです。

地上の経験を通して学んだことが、自分の役割を果たす時に活かされます。

各自の役割りは具体的に判りませんが、全体のために自分を役立てることであるのは間違いありません。

お互いのために、進んで自分の役割りを果たそうとする世界は悦びに溢れ、とても居心地が良いようです。

その世界を垣間見た人が、「天国」と呼んだのかもしれません。




地上では、困難や障害に遭遇します。

その経験こそが、次の世界で周囲のために自分を活かす力となります。

次の世界で、それぞれの個性を活かし合いながら生きて行くために必要な資質を、地上で身に着けているのですが、そのことが判らないので、何でこんなつらい思いをしなければならないのかと感じてしまいます。

それは、成果を発揮できる本番(試合)があることを知らずに、きつい練習をしている選手たちの気持ちと同じです。








生まれた時よりも、死ぬ時の方が魂が成長していれば良いはずです。

生まれて来た目的を果たしているからです。

成長させているのが、この世でのさまざまな経験です。

人生を大きく変えてしまうような出来事を経験し、今までにない苦しみを味わうことがあります。

必死にもがいている中で、魂は成長しています。

自分の限界を超えるような練習をした選手は、以前は苦しかった練習が、あまり苦しく感じなくなりますが、それは心身が鍛えられて、選手として成長したからです。

経過と共に魂が成長すると、自然法則の働きにより、以前の様な苦しみを感じなくなります。




自然法則を創造したのは神です。

創造した目的は、宇宙に秩序をもたらすためです。

そして、自らの一部である生命(魂)を通して、自らの心を顕現させるためと考えられます。

全ての出来事は、究極的には神の心(愛)を顕現させるために起きていると言えます。




出来事を経験するのは、自らの霊性を高めるため、そして魂を強くするためです。

愛があっても強くなければ表現は出来ず、強くても愛が表現されなければ意味がありません。

人や社会や動物のために奉仕をすることで霊性が高められ、立ちはだかった困難や障害を乗り越えることで魂は強くなって行きます。

魂の成長を促すような出来事が、地上では計画的に起きるようになっています。

従って、打ちのめされ、立ち上がれないような出来事は、目的に反するので絶対に起きません。




地上で起きる出来事を霊的に視ると、幸、不幸が真逆なところがあります。

例えば、労せずして莫大なお金を手に入れたとします。

働く必要がなくなり、好きな物を買ったり、好きな所に旅行に行ったりして、自分のためだけに生きることが出来ます。

ほとんどの人は幸せを感じるでしょう。

しかし、汗水たらしながら働くことや、誰かのために何かをすることで、少しずつ霊性は向上しています。

その人は、向上の機会を失ってしまったことになります。

物的に幸運なことは、霊的には不幸であることが往々にしてあり、次の世界に行って真実を知り、大いに悔やむことになります。




災害で家族や家を失えば、大きな不幸に見舞われたと誰もが思います。

深い悲しみの中で、生活を再建しようと、必死になって生きている人の姿を見かけますが、その人の魂は以前にも増して成長しています。

地上を去った後に、先に逝った家族と再会の悦びを分かち合います。

そして、地上の人生を振り返る時が来ます。

災難に遭って、髪を振り乱して必死に生きていた、その時の自分の姿がスクリーンの様なものに映し出されて、人生で最も成長をしていたことに気付くかもしれません。

物的に大切なものを失った人は、霊的に大切なものを手に入れることで、神の公平は完全に保たれています。




楽しみをあまり知らずに、苦労の連続だった人が亡くなると、哀れに思う人がいますが、それは早合点です。

そんな人の魂ほど大きく成長していて、生まれて来た甲斐があったと思うからです。

次の世界に行くと、つらかった出来事ほど、自分のためになっていたことを知り、悦びになっているはずです。

厳しい人生に挑戦するのを決めたのは、自分自身だったことに気付きます。

あの時、逃げたり、諦めたりしないで良かったと胸をなでおろし、この人生でやっぱり良かったと、深く満足しているはずです。




人は同じ場所に留まっていることは出来ません。

上を目指して成長して行く欲求が、初めから備わっているからです。

地上に生まれて来るのもそのためです。

避けたり、逃げ出したりせずに、つらくても何とかして乗り越えようとするのは、奥深くにいる本当の自分(魂)に、成長したい欲求があるからです。

留まっていると苦しいのは、その欲求が満たされていないからです。

成長とは苦しみからの解放です。

いかなる出来事でも乗り越えて行けることが、自然法則を創造した神によって保障されています。




死の先にも、生きる世界があります。

肉体を介さずに、自分の想いが素直に表現される、真実の世界です。

その世界で、想いを共有しながら生きるために、この世で様々な経験をしています。

同じ経験をすることで想いが共有され、魂のつながりが深まって行きます。

同じことを想い、同じことを感じながら、お互いのために何かをする悦びを感じながら生きるために必要な経験を、今、地上でしています。