小学校の時に、いつも一緒にいる友達から、仲間外れにされたことがあります。
昔のことで、いきさつは良く覚えていませんが、何か怒らせるようなことをしてしまった
のではないかと思います。
近くにいて無視されるのは、とても嫌な経験でした。
しばらくすると元に戻り、ホッとしました。
人と人は、誰かとつながっていないと、不安になる生き物なのかもしれません。
友達はいなくても、家族同士が仲良かったり、また共通の趣味の人がいたり、行きつけの
店で会う人がいたりして、どこかでつながっていると思います。
今は、SNSを通して、つながっている人もたくさんいます。
もし、人間が肉体だけの存在であれば、孤独を感じることはないでしょう。
肉体は元々、別々なのですから。
肉体(大脳)を超えたところで孤独を感じています。
私たちの本質は魂です。
魂は、意識の本体であり、生命そのものです。
個と個は独立していますが、それは肉体の話です。
肉体に宿っている霊は、完全に独立していません。
1つ1つが全体の構成要素であり、関連性を持ってつながっています。
クロード・モネ「積みわら₋夏の終わり」 |
上の絵のように、様々な色彩の点や線がたくさん集まって、1つの絵画が構成されています。
どんなに小さい点であっても、その場所に必要だったから描かれたのです。
広大な宇宙の中で、1人の人間は限りなく小さな存在です。
けれども、全体の中で何かしらの役割りを担っています。
存在意義のないものが、この宇宙に誕生することはありません。
誰とも接することなく、孤立無縁の様に思えても、霊的にはつながっています。
例えが少々強引かもしれませんが、パソコンやスマホが肉体で、ネット上のIDが魂(霊)と言えるのかもしれません。
精緻で無限大の霊的なネットワークがあり、全ての人(魂)は全体とつながっていて、意念を向ければ、思念が届くようになっています。
それが、肉体と言う媒体に阻まれて感じられなくなっているのが地上です。
霊的なつながりは、物理的な制約を受けません。
遠く離れた場所で、別々に暮らしていても、お互いが想っていれば、つながっています。
たとえ、この世にいなくても、存在を信じ意念を向ければリンクが張られて、次元を超え
てつながることが出来るのです。
磁石は、磁力によって引き付けられています。
人と人を引き付けているのは、霊的な力です。
最強の力は愛です。
両者に愛あれば、霊的に強くつながります。
どんなに近くにいたとしても、愛がなければつながりは脆弱です。
愛はさまざまな形態を取ります。
情愛、友情、同情、慈悲、哀れみ、寛容心は不滅の霊性であり愛の諸相と、シルバーバーチは言っています。
その様な想いを向ければ、見たことも、会ったこともない人でも、霊的につながることが出来ます。
その根拠があります。
私は、これまで多くの人たちにヒーリングをして来ました。
信じられないかもしれませんが、世界のどこにいようとヒーリングの力は届きます。
依頼の連絡が届いた時点で、目に視えないつながりが出来上がります。
そのつながりを通して、力が伝わります。
住所、名前などの情報は一切必要ありません。
こちらが意念を向ければヒーリングが成立する、そのことから想いを向ければ遠く離れた人でもつながることが、少なくても私の中では実証されています。
想い(思念)が視えないのが、地上です。
視えない想いを、肉体を使って言葉や行動により表現して、視える形にしなければなりません。
視える形となって表現されたものに込められた想いを、霊的な感覚によって感じ取っています。
込められた想いが、愛に根ざしたものであれば両者の距離は近くなり、反していれば遠ざかります。
それぞれの人間は、何かしらの役割を持って生まれて来ています。
役割りとは、仕事もそうでしょうが、人や動物や環境にどんな影響を与えているのかと言う意味が大きいと思います。
人は、出会う人に何かしらの影響を与えています。
同時に、影響を受けています。
もし、肉体だけの存在であれば、個は確立されているので、お互いに影響し合うことはありません。
人とのつながりの中で、反発することがあります。
地上はさまざまな個性の魂が入り混じる世界なので、それは仕方ありません。
共感して、考え方が変わる時があります。
誰かの一言で、人生が変わる時もあります。
自分の本質は可変的なものであり、つながりの中で変わって行きます。
私たちは、絶え間なく変化をしている存在です。
変化する方向は、自然法則の働きによって、定められています。
お互いに影響し合いながら、より神の心(愛)を表現する方向に変化して行きます。
個と個はつながり、愛によって1つになるのが、神の心だと考えられます。
つながりを感じているのは、霊的な部分です。
普段の生活で働いているのは、頭(大脳)です。
頭が活発に働いている時は、霊的な部分は休んでいます。
従って、日常生活で頭が働いている時には、つながりは意識されず、人と接触しているだけであり、それぞれが孤立した存在に思えてしまいます。
しかし、非日常的な状況になると違って来ます。
それまで眠っていた霊的な部分(魂)が呼び覚まされて、つながりを意識することがあります。
東日本大震災により、1万人以上の人が津波により亡くなりました。
多くの人が亡くなった人に哀悼の念を捧げ、そして残された家族に同情しました。
一時ですが、同じ日本人としての絆を感じた人も多かったのではないでしょうか。
同じ想いになった時、霊(魂)は同調しており、つながりが意識されます。
私たちが想像もできないほど、貧しい国々が世界には存在します。
栄養が足りず、衛生状態が悪いために、亡くなって行く子供たちが後を絶ちません。
スーダンの難民キャンプの子供 |
同じ人間として、許されることではないと感じますが、それは私たちに霊性が存在しているからです。
同じ人間として、同胞意識があるからです。
霊的なつながりがあるからこそ、同胞意識が生まれます。
動物が虐待されたり、殺されたりするのを見ると、心が痛くなります。
痛みを感じているのは、霊的な部分です。
私たちの中にいる「良心」と言う神が、摂理に反する行いに対して、痛みを感じています。
同じ地球に生きて、同じ生命としてつながっているからこそ、その様な気持ちになると思います。
あらゆる生命は霊的につながっているのですが、そのことに気付かない人間は、摂理に反したことを平気で行ってしまいます。
霊的なつながりは、同じ想いになった時に強くなります。
双方が、愛によってつながった時、両者の関係は最も強固なものとなり、大きな悦びとなります。
私たちは、拒絶されたり、嫌われたりすれば、心に苦痛を感じます。
また、信じてもらえなかったり、認めてもらえなかったりするのも、大きな苦痛となります。
怒り、憎まれたり、恨まれたり、妬まれたり、蔑まれたりするのも、とても嫌なものです。
そのどれもが、つながりを断とうとするものです。
つながりが断たれるのを感じるのは、人間にとって最大の苦しみの1つです。
逆に、信じてもらえたり、受け入れてもらえたり、認めてもらえたりすれば、悦びとして感じます。
それは、他者とつながったと感じるからです。
親切にしてもらったり、優しくしてもらったり、労わってもらうとうれしいのは、つながりを強く感じるからではないでしょうか。
この世に生まれた目的の1つは、他者とのつながりを深めることです。
生まれる前にいた世界と違うところは、周りに自分と違う人、似ていない人がたくさんいるところです。
つながるためには、お互いに認め合い、許し合わなければなりません。
自己犠牲も求められます。
そんな苦労をする中で、大切なことを学び、成長するようになっているのが、地上の良いところであり、難しいところでもあります。
お互いが信じられなくなり、離れて行く人がいます。
そんな人たちは、つながりが失われているために、想いは通い合わなくなっています。
悲しく、つらいことです。
この世から大切な人がいなくなって、深い悲しみ、苦しみを味わっている人もいます。
五感に触れない、悲しみ、寂しさは、どうしても避けられません。
しかし、その苦しみは残された人の無知から生じている時があります。
存在がなくなってしまった、もう会えないと事実誤認をしてしまうと、向こうにいる人にとって、地上の人とのつながりが断たれてしまったと感じるでしょう。
少なからず、苦しみになっていると思います。
無知から生じた苦しみが、因果律の働きによって、自分に返って来ているのかもしれません。
肉体はなくなっても霊的につながっている、確証は持てなくても、そう信じることによって、双方の苦しみは和らぐと思います。
つながりが断たれて苦しむのは、個と個がつながるためにあると考えられます。
自然法則の働きによって、お互いがつながることを促されています。
地球上の全生命が、物質の壁を取り払い、再び1つになって行くのが、神の意志と考えられます。
それを主導しているのが人間であり、愛によってのみ成就されます。
愛犬しろ |