2018年4月1日日曜日

今の苦しみは報われる



人生は楽しいものなのか? それとも苦しいものなのか? ふと考える時があります。

楽しい思いをしている時は、楽しいものだと思うだろうし、苦しい思いをしている時は、苦しいものだと思ってしまうのは当然かもしれません。



人生は楽しいことばかりが起これば良いと、ほとんどの人は思っているでしょう。

しかし、それはあり得ません。

何故なら、私たちはこの世で成長するために生まれて来たのであり、苦しい思いをせずに成長は望めないからです。

苦しい思いをせずに、成長したいと望むのは、物事を上達したいけれども、鍛錬するのは嫌だと言っているようなものです。

一生懸命に鍛錬した人が物事が上達するように、苦しみを乗り越えようとする過程で成長が得られるように、この世界はなっています。

それによって、公正が保たれています。



しかし、苦しい思いをするのは誰でも嫌なものです。

楽しいことばかりの人生では、成長できないのでしょうか?

小学生の時、遠足の日が楽しみでした。

授業から解放されて、クラスメイトとおしゃべりしながら行けるのですから、当然です。

ところで、毎日が遠足だったらどうでしょう。

最初は、楽しいでしょうが、次第に飽きてしまうような気がします。

毎日、授業を受けているからこそ、年に1度の遠足が楽しく感じられます。

遠足に行けば、思い出は作れるでしょうが、そこから学ぶことはあまりなかったような気がします。

たとえ面白くなくても、普段、教室で受けている授業から、新しい知識を身に付けています。



私たちは、苦労して漢字を覚えたり、計算が出来るようになるのは、その先の生活で不自由な思いをしないためです。

大人になってから、学生の時にもっと勉強しておけば良かったと思う時があります。

それは、勉強したことが後で活かされ、知識を身に付けるのに適した時期があるのを知ったからです。

楽しいとは思えない、むしろ苦しい経験の中で、私たちは何かを学び、そして成長しているようです。

そして、人生を振り返った時に、苦しい時こそ自分が成長していたことに、はっきりと気付くようです。



当然のことですが、小学校で学んだことは、中学校で活かされ、中学校で学んだことは高校で活かされます。

小学校の時に足し算や掛け算を習得しなければ、中学生の時に方程式を解くことは出来ません。

段階を踏みながら、次のステップに進むために必要な知識を習得しています。

この世の卒業式に当たるのが死です。

人は死ぬと、それまで自分を表現するために使っていた肉体を失いますが、生命の本質である魂は変わりなく存続しています。

小学校で身に付けた知識が、中学校で活かされる様に、この世で身に付けた知識や経験は、次に行く世界で活かされます。

見方を変えれば、次の世界でやりたいことが出来る資質を身に付けるために、この世に生まれ、苦しみながら自分に足りないものを身に付けていると言えます。



人は、あの世に行くとこの世の全人生を振り返る時が必ず来ます。

この世での言動や自分の想いがオーラに刻まれていて、その1つ1つが思い出されます。

この世でやり残したことが判り、今度こそは目的を遂げようと決意して、生まれて来る人もいるでしょう。

自分が犯した過ちを大いに反省し、それを償うために、この世に生まれて来る人もいるでしょう。

何れにせよ、明確な目的があってこの世に生まれ、その目的を果たすために生きているのは間違いありません。

生きる目的は、この世においても、あの世においても一貫して自分を成長させるためです。

しかし、あの世ではこの世のような苦しみや痛みは存在しません。

とても快適な世界でしょうが、比較対象となるものがないため自分の足りないところに気付きにくく、この世のように苦しみや痛みを通して教訓を学んだり、成長することは出来ないと考えられます。

誰もが避けたい、苦痛が伴う病気は、この世だけのものです。

その苦痛には、本当の自分(魂)を目覚めさせ、大切なものに気付かせると言う意味があります。

病気になり床に臥せれば、それまでの生き方や考え方の不自然さに気付いたり、自由に(肉体的)表現ができる有難さを痛感するもしれません。

死ぬかもしれない大病を患えば、それまで追い求めていたものに大して価値がないことが判り、人の優しさや思いやりに、大きな価値を見出すかもしれません。



肉体を動かし、頭を働かせて、人間関係に揉まれながらする仕事や、無報酬でしている家事も、苦に当たるものなのかもしれません。

私たちは、生活して行くためのに仕事や家事をしています。

同時に、それを通して人や社会に奉仕をする悦びを感じるためと考えられます。

あの世では養う肉体がありませんので、この世のように仕事をする必要がありません。

何もしなくても生きて行けるのですが、それでは成長は得られず、生きている目的を果たしているとは言えません。

あの世で成長して行くことができるのは、奉仕をする資質が身に付いている者と考えられます。

この世の人生は、人や社会のために役に立つ悦びを学ぶためにあり、奉仕の世界であるあの世で成長して行くためと考えられます。



物質しか見えないこの世において、さまざまな経験を通して、目に見えない大切な教訓を手に入れています。

魂に刻み込まれた教訓は失われることはなく、霊的な資質となります。

次に行く世界で、より高い自己表現をするために必要な資質を、この世の苦に当たるものを通して、身に付けていると考えられます。



意味のない苦しみは存在しません。

出来事の因果関係が判らないと、大きな苦しみとなってしまいますが、神の摂理の働きで生じているので不公平、不公正は一切ありません。

苦しみと魂の成長は表裏一体の関係です。

その最中において判るはずもありませんが、苦しみには成長の悦びが隠されています。

今生の苦しみは、次に行く世界で全て報われます。

成長という報いがあるのを知った時に、摂理を考案した大いなる存在に、感謝の想いを抱くようです。







2018年3月18日日曜日

守護霊と共に生きている



今、ピョンチャンで冬季パラリンピックが開催されています。

ハンディーを背負いながら、懸命に頑張る姿は観る人に感動を与えています。

競技種目の中に、視覚障がい者のクロスカントリースキーがあります。

全盲の選手であれば単独で滑ることは不可能であり、競技には伴走するガイドが付いています。

前方から、声で指示を出して、選手はそれに従いながら、コースを滑ります。

ガイドは進路や障害物について、事細かに指示を出して、選手が安全に既定のコースを滑走できるように努めます。
これが障がい者スポーツだ!のHPより

ところで、私たちが、この世に生まれ、生きている目的は、何でしょうか?

目的はただ1つであり、自分(魂)を成長させるためです。



学習をしたり、スキルを身に付けるのは、社会的価値を高めるのに有効でしょうが、成長に直接つながっているわけではありません。

では、どうすれば成長するのでしょうか?

人や社会や動物に奉仕をすること、言い方を変えれば、外に向かって愛を表現することで魂は成長をします。

仕事や家事を精一杯するのも、誰かのためにボランティア活動をするのも、道で困っている人を助けるのも、成長につながっています。



また、人生で立ちはだかる、困難や障害を乗り越えて行くことでも、魂は成長します。

目が見えなくなった人が、絶望の中から立ち上がり、恐怖に打ち克ちってスキーを始めようとするのも、成長につながっています。

人や社会のために何かをしようと思ったり、困難を乗り越えようとするのは、真の自分(魂)が望んでいるのであり、その結果として魂が成長するからです。



多くの人は、自分一人で、考え、決断し、行動し、生きていると思っています。

現実は一人ではなく、目に見えない守り導いている存在(守護霊)と共に生きています。

残念ながら、実感に乏しいのために、ほとんどの人はその存在に気付かずにいます。



なぜ、守護霊と共に生きているのでしょうか?

この世の人生には、おおよそのシナリオがあります。

シナリオが存在するのは、自分に足りないものを的確に学び、効率よく成長するためと考えられます。

訪れた奉仕の機会を全うし、与えられた困難や障害を乗り越えて行くことで、予定された成長が得られるようになっています。



しかし、いざ生まれてしまうと、人生のシナリオは記憶から完全に消去されています。

魂を成長させるシナリオは、得てして避けて通りたい出来事です。

人は弱いので、もし事前に知っていたならば耐えられなくなってしまうために、神の配慮により消去されていると考えられます。

先に何が起こるか全く判らないまま、私たちは生きていると言えます。



成長させるための出来事が、シナリオに沿って訪れた時に、進退を決断をしなければいけません。

この世の人は霊的な目が閉ざされているために、その決断が自分(魂)の成長にとって、いかに重要であるのかが判りません。

絶好の機会が訪れても、逃してしまうこともあるでしょう。

そんな時に、人生において大切な意味があると思わせるような思念を送って、逃さないように働きかけているのが守護霊です。

また、困難や障害と言われるような出来事が目の前に立ちはだかった時に、避けて通ろうとするかもしれません。

そんな自分を戒めて、立ち向かわせるような思念を送っているのが守護霊です。



この世に生まれると、霊的な眼は閉ざされ、肉眼で見えるものを頼りにして生きるようになります。

それと同時に、霊的な存在であることを忘れてしまい、この世に生きている意味も忘れてしまいます。

霊的に見れば、暗闇の中を手探りの状態で生きているのと同じです。

予定されていた成長をさせて、この世に生きる意味を成就するために、生まれた時から死ぬまで、陰から守り導いているのが守護霊です。

先が視えなくなってしまっているこの世の私たちにとって、先を見通せている守護霊は、言ってみれば視覚障がい者のクロスカントリースキーのガイドの様な存在です。



姿は見えなくても、この世に生きている人に、必ず守護霊が付いているのは、きわめて大切な事実です。

しかし、ほとんどの人は守護霊の存在をはっきりと感じられません。

その理由は、もしはっきりと感じられたのなら、未熟なために頼り過ぎてしまうためなのかもしれませんが、一人ぼっちで生きている人は、この世に存在しません。



はっきりと感じられなくても、どこかに出向こうとした時、「行ってはいけない」と、心の中で囁きを感じたことはなかったでしょうか?

そんな時は、好ましくないことが起きることを察知して、守護霊が引き留めるように思念を送っていたのかもしれません。

人と出会った時に、何か特別なものを感じる時はなかったでしょうか?

そんな時は、自分の成長にとって大切な人であり、意識が向かうように思念を送っていたかもしれません。

人を傷つけたり、社会正義に反する行動は、神の摂理に反しているので、罪を作ってしまい、成長の妨げになってしまいます。

その様な行動を取らないように、「やってはいけない」と思わせるような思念を送って、思い留まらせていると考えられます。



成長を妨げる方向に行くのを阻止し、成長を促す方向に向かうように、思念を送って導いています。

しかし、人生を決めて行くのは、あくまでこの世の人であり、守護霊はその決定(自由意志)に干渉できません。

自分で決めたことは、自分で責任を取らなければいけません。
 


大部分の人は守護霊の存在を信じずに生きていて、日常のほとんどの問題は、自分の頭で考えて解決しています。

しかし、どんなに頭で考えても解決しない時があります。

そんな時に守護霊は、言葉やイメージを送っていて、それがひらめきとなって伝わり、問題解決のきっかけになることもあります。

突然、人や物に意識が向いた時は、守護霊から思念が伝わって来たのかもしれず、そこに問題解決の糸口が存在するのかもしれません。




目の前で困っている人がいると、助けようとする自分と、放って置こうとする自分がいます。

本当の自分(魂)は助けようとします。

この世だけに存在する自分(エゴ)は、放って置こうとします。

人生のいろいろな局面で、両者のせめぎ合いが起きていて、それが精神的葛藤として自覚されます。

そんな時、守護霊は本当の自分(魂)に囁きかけて、助けるように促していると考えられます。




人生において、とても耐えられないと思うような苦難が起きることがあります。


その苦難からは大きな苦痛が生じ、生きているのがつらくなり、早く楽になりたいという衝動に駆られる時があるかもしれません。

生きるのを放棄したとしても楽にならないばかりか、大きな罪を作ってしまうのを守護霊は知っているので、懸命に思念を送り続け、過った決断をしないように働きかけています。

生きるのがつらい時ほど、魂は大きく成長しているので、どうにかして、この局面を乗り越えさせようと、力付け、励ますような思念を送り続けていると思います。



守護霊も、この世の人を守り導くことで成長が得られるようです。

霊界の同じ界層で共に生活していた類魂(グループソウル)の一人が、守護霊として付くようです。

同じ類魂であれば同調しやすく、思念を伝えやすいので、導くのが容易になると考えられます。

この世の人と守護霊が得た学びと成長は、類魂全体の霊的な財産となり、進化に寄与するようです。



この世を終えた時に、待っていた愛する人と再会し、大きな悦びに包まれます。

そして、これまで守り導いていた守護霊とも対面し、お互いの労をねぎらうことになるでしょう。
これが障がい者スポーツだ!のHPより

2018年2月27日火曜日

苦痛の中で人は変わる



私は歯医者をしていますので、毎日のように虫歯の治療をしています。

虫歯が進行してしまうと、当然のことながら苦痛を味わうことになります。

もし、痛みがなかったならどうなるでしょうか?

虫歯になっても気付きません。

気付いたとしても放置してしまう人もいるので、きっと多くの人が歯を失うことになると思います。

私たちは、歯を失いたくない、苦痛を味わいたくないので、歯ブラシをするようになりました。



外胚葉無痛無汗症と言う極めてまれな全身疾患があります。

この病気は先天的に痛覚が欠損しています。

肉体的な痛みを感じることがないので、さぞ快適かと思いきや、大きな怪我をしても気付かないの
で、命取りになることもあるようです。

苦痛は不快で誰もが避けたいものです。

しかし、自分の身を守り、悪い方向に進んでいかないために必要なものと言えるのではないでしょうか。



人に限らず、生き物は苦痛から逃れようとします。

それは自分の身が危険に晒されていると察知するからです。

苦痛を感じると、生き物は行動を起こし、(苦痛を与えている)対象から回避しようとします。



苦痛には、肉体的なものの他に精神的なものもあります。

肉体的な苦痛であれば、原因が取り除かれればなくなります。

しかし、精神的な苦痛は、原因を取り除けない時があります。

私は十数年前に、屈辱的な出来事を経験して、精神的な苦痛を味わいました。

その当時、私は苦痛から逃れたくて仕方ありませんでしたが、起きた出来事を消し去ることは出来ません。

時間の経過に任せて、苦痛が去るのを待っていても、過去が変えられるわけではありません。



過去が変えられないのであれば、苦痛から逃れるためにはどうすれば良いのか?

自分を変えるしかありません。

私を変えたものは、それまで知らなかった真実(真理)でした。

真実(真理)を受け入れたことで、自分が大きく変わり、苦痛が大幅に軽減しました。



もし、苦痛に何の意味もないのであれば、(苦痛をもたらした)出来事は、不運、不幸なものでしかありません。

そこに何かの意味を見出した人は、不運、不幸なものではなくなり、苦痛を享受する心が生まれます。

苦痛を増幅させているのは、出来事を受け入れられず、不運、不幸だと思う自分の心かもしれません。



人間の身体には、無駄な構造物は一つもありません。

1本の歯の表面に走っている溝の1つにさえも、確かな意味があります。

無駄なように思えるのは、その意味(意図)を知らないだけと考えられます。

苦痛には、真実を見付け出そうとする動機付けの意味があり、自分に変化が求められているのかもしれません。



全ての事象と同じく、苦痛は因果律の働きによって生じます。

因果律の働きとは、自然法則(神の摂理)の根幹を成すものであり、その究極の目的は創造物を成長させるためと考えらえます。

成長とは、神の心に近づく永遠の過程を指すと考えられます。

神は、自らの元に近づこうとする者には悦びを、遠ざかろうとする者には苦痛を与えて、成長を促し
ていると思います。



そして、苦痛には魂に響き、目覚めさせるという役割りがあります。

魂とは神によって創られた、神の一部を構成するものです。

魂が目覚めれば、霊的なつながりが強くなり、真実(真理)を受け取りやすくなり、その真実により苦痛から救われると考えられます。

苦痛には、魂を目覚めさせ、真実(真理)を受け入れさせる意味があると考えられます。



世界中で争いが起きています。

怒りや憎しみや恨みの想いが、争いによって表現されています。

その結果、多大な肉体的、精神的苦痛がもたらされています。

 神の摂理の、根源は愛です。

愛とは、ばらばらになったものを、1つにさせる神の力です。

1つにさせるものは、個々の調和であり、協調であり、融和です。

怒り、憎しみ、恨み、嫉妬は互いに反発する想いであり、1つにさせようとしている神の摂理に反しているので、苦痛をもたらします。

苦痛が、怒りや憎しみから生じているのであれば、対象を許すしか方法はありません。

力により解決しようとするのは、調和や協調や融和に欠ける考え方であり、因果律の働きにより同様な力が自らに返ってきてしまい、苦痛をもたらすと考えられます。

相手を信じ、そして愛すること、具体的には許すことにより、根本的な解決につながります。

怖れや不安も1つにさせるのを妨げるものであり、他者や自分を心から信じることによって、手放せると考えられます。

神は信じること、愛することの大切さを、苦痛を通して教えていると思います。



強者によって、苦痛がもたらされることがあります。

それが一方的なものであったとしても、受けた者の捉え方によって、生まれる苦痛の大きさが違って来ます。

過ちは、因果律の働きによって正されることになります。

受けた苦痛は、強者が相応の苦痛を味わうことで償われます。

与えたものは自らに返ってくると言う真実(真理)を知っていれば、哀れみの想いを向ける分だけ、苦痛は和らぐと思います。



全ての魂に神は内在しています。

本当の自分(魂)は他者を認め1つになろうとしていますが、この世の自分(自我)はどうしても個を優先しようとします。

この世の自分(自我)を優先した言動をすると、良心の呵責という形となって、苦痛として表在化すると考えられます。



もし、魂を成長させるため、過ちを償うために、生まれる前に予定された苦痛であるならば、耐え忍ぶしかありません。

それ以外の苦痛は、自分を変えるために存在している可能性があり、もしそうであれば、素直に受け入れ、自分を見つめ直さなければいけません。

気付いていないだけで、神の摂理に反した、生き方や考え方をしているのかもしれませんので、苦痛を感じたら、まず自分に問いて下さい。

信じることを忘れていないか?

愛することを忘れていないか?

時間が解決するのではなく、自分を変えて行くことで自然に消えて行くものなのかもしれません。



悦びと苦痛の双方を神は用意しました。

人がどのような方向にも進んで行ける、自由意志も与えました。

神は個々の自由意志には干渉はしません。

自由意志を行使した結果に、自然法則が働くようになっています。

従わないものに苦痛という罰を与えているのではなく、自然法則の働きによって自ら元に導いています。



人を成長させるために、神は苦痛を創ったと考えられます。

言い方を変えれば、人はまだ未熟な存在なので、苦痛がなければ変われないのかもしれません。

人が大きく変わることが出来るのは、悦びと苦痛の両者が存在するからです。



苦痛を生じさせることで、魂を目覚めさせ、成長を促しています。

神の摂理に適った、自分を成長させる生き方や考え方に変われば、苦痛が存在する意味はなくなり、消えるはずです。

苦痛を通して、本来の自分の愛を表現して1つになるように、神は働きかけています。



愛のみを表現する世界では、苦痛は存在せず、悦びしかありません。

そんな世界に行きたいと思うために、さまざまな出来事を経験し、時に苦痛を味わうことになる、この世に生まれて来ています。

苦痛には、魂を成長させる意味があり、望まれる方向に変わるための契機になっています。











2018年2月18日日曜日

ガンを癒やす その3



前回、病気(ガン)が癒やされるとは、肉体上の病変がなくなることではなく、成長を妨げている想いが解放されて、魂で生じた想いが精神を経由して肉体で円滑に表現されている状態と書きました。

何やら難しそうですが、簡単に説明します。

「成長を妨げている想い」とは、怒りや憎しみや嫉妬などの(愛に反する)想いであり、困難に立ち向かって行く気を殺がせる、怖れや極度の不安などの想いです。

「魂で生じた想いが精神を経由して、肉体で円滑に表現されている状態」を、平たく表現すれば、自分に対し正直に、あるいは素直に生きている状態です。

過去に生じていた想いから解放されて、自分に正直(素直)に生きられるようになれば、肉体上の病気のあるなしにかかわらず、その人は霊的に癒されたと考えられます。



では、どうすれば成長を妨げている想いを解放できるのでしょうか?

その想いを解放しているのが、実はガンなのです。



ほとんどの人は身体の異変に気付くと、病院に行って調べてもらいます。

医者からガンと宣告されると、血の気が引いて、頭が真っ白になる人が多いようです。

それまで意識しなかった、死が頭をよぎるようになり、多くの人は恐怖を覚えます。

そして、手術を提示されて、肉体から病巣を取り除いてもらいます。

病巣が完全に取り除かれたなら、病気は治ったとされます。



肉体は魂を表現する媒体です。

霊的次元の魂の様相を、肉体的次元の病巣は反映しています。

手術後、健康なまま一生を終える人はいますが、その様な人たちは霊的次元の原因が消滅したか、または肉体的次元に原因があったと考えられます。

病巣が取り除かれても、もし霊的次元の原因が残っていれば、肉体上に再びガンとして反映されます。

そうなると手術はもう出来なくなり、医者は抗ガン剤による治療を勧めます。

けれども、抗ガン剤にガン細胞を完全に消滅させる力はありません。

そればかりか、正常な細胞にも深刻なダメージを与えてしまいます。

特に、危惧しなければいけないのは、ガン細胞を身体から取り除くためにある、免疫機能が壊されてしまうことです。

神から与えられた身体からガンを排除する機能を、人が壊してしまうのは極めて愚かな行為であり、本末転倒と考えられます。

そして、副作用に苦しみながら亡くなって行くのは、人間本来の姿ではありません。



一方、病院に行った時にはガンが進行し、すでに手遅れと言われる人がいます。

そんな医者に見放された人の中に、ガンが自然治癒した人たちがいます。

医学的に例外とされてしまいますが、そこにガンを癒やす秘密が隠されていると思います。

医者から、手遅れで何も出来ないと言われれば、頼るものはありません。

苦痛が大きくなって行き、次第に追い詰められて行きます。

頭でいくら考えてみても、解決方法は見つかりません。



人は、日常生活で遭遇する問題を、頭で考えて解決しています。

しかし、緊急事態に陥った時はそうは行きません。

少し前になりますが、駅のホームで線路に転落した人を助けようとして、亡くなった人がいました。

もし、頭(精神)で考えたとしたら、その様な行動は決して取れません。

精神を超えた何者かが存在し、我を忘れて線路に降りて助けるのを命じていたと考えられます。

その何者かが、魂と呼ばれている存在です。

本当の自分であり、生命そのものです。



何故、自分の命の危険を顧みずに、人を助けようとしたのでしょうか?

人は神によって創られたものであり、全ての人に神は内在しています。

助けようとした人の行いに、神の心(愛)が顕現したと思われます。



ガンになり窮地に追い込まれ、頭でいくら考えても解決方法が見つかりません。

忍び寄る死の恐怖に怯えながら、人生の意味、命とは何なのかと問いかけますが、答えは見つかりません。



危機的な状況に陥ると、思考は活動を停止し、それまで奥で眠っていた魂が目覚めます。

助けてくれる人がいなければ、自分によって自分が助け出されます。

魂に内在する神は、窮地から救うための啓示(気付き)を与え、向かうべき方向を指し示します。



ところで、私たちの魂はいつ頃から眠ってしまうのでしょうか?

子供の頃は、自分(魂)に正直に生きています。

しかし、大きくなるのに従い自我が作られて行きます。

上手に生きようとしたり、自分を守ろうとすると、自我が大きくなり、次第に自分の想いが表現出来なくなって行きます。

大きくなった自我を自分だと思ってしまうと、本当の自分(魂)は眠ってしまい、表現出来なくなった想いは内に溜まって行きます。



魂よりも自我が優先されているのは自然な状態ではありません。

自我の働きを弱くして、内に溜まった想いという障害物を取り除いて、本当の自分の想いが円滑に表現されなければいけません。

何故なら、本当の自分が表現出来なければ、予定されていた人生を歩めなくなるからです。

予期した成長が得られ、この世に生まれて来た意味を成就するためには、その状態をどうにかしなければいけませんが、もう自分ではどうすることも出来ません。

そこで、神の摂理である因果律が作動し、想いが肉体上にガンとなって表現されます。

優先されるべきは、病巣を取り除くことではありません。

病巣を作った根本原因である、内にある捉われている想いに気付くことです。



魂が目覚めたら、作り上げて来た自我によって、本来の自分の表現が妨げられていたことに気付きます。

魂が目覚め、自我の働きが弱まると、神から大きな生命力が流れ込んで、内に溜まっていた想いを外に押し流して行きます。

障害物だった想いが取り払われると、自我により見えなくなっていた最も大切なものが視えてきます。

最も大切なものとは愛です。

愛に目覚めた魂と、内にある(愛に反する)想いとの間にある親和性は失われて、想いはさらに解放されて行きます。

生命とは愛を表現するために存在しています。

魂を成長させる愛の表現がようやく出来るようになります。



ガンを作り出したのは自分です。

医者ではなく、自分で治さなければいけません。

成長を妨げていた想いが解放され、魂が癒やされた結果として肉体が治ります。

想いを解放させるのは、これまでに成長した今の自分から、過去の自分へ向けた愛です。

想いが生じるイニシエーターとなった出来事が、自らの愛で許されることによって、その時の想いが涙となり、肉体的表現によって解放されます。

そして、魂が目覚めることによって、想いを溜めて行くプロモーターになっている自我の働きは弱まり、内に溜まり続けていた想いは解放されて行きます。



全ての問題を解決するのは愛です。

自分の魂を癒すだけの愛を表現出来るようになったので、因果律の働きにより、ガンが生じたと考えられます。

魂に目覚め、神の愛(生命力)により想いは解放されて、本来の自分を取り戻して行きます。



ガンは無秩序に増殖を続け、母体を死に至らしめる病気のように思われ、怖れられています。

それは表層的なものであって、深層は本当の自分を目覚めさせ、この世で成長して行くために存在していると考えられます。

その目的を達成したのなら、存在意義を失い、肉体上のガンは消滅して行くと思われます。

想いが解放されれば、肉体上のガンは異物として認識されて、免疫機能により排除されて行くはずです。

しかし、人為的に免疫機能が破壊されてしまうとガンは排除されず、肉体上に治癒機転が起こらなくなります。

魂が癒やされているのにもかかわらず、肉体が癒やされないために、神の計画から外れて、この世を去る人がどれ位いるのか想像も出来ません。

神の計画を台無しにする愚行は、直ちにやめなければいけません。



ガンになると一刻も早く自分の身体から取り除きたいと思いますが、怖がる必要はありません。

死に向かって一直線に進行して行くものではないからです。

原因があって生じているので、原因さえなくなくなれば癒されるのです。

その原因とは成長を妨げている想いであり、本当の自分が表現されていない生き方です。

それらが解消されたのなら、因果律の働きにより、肉体上のガンは消滅して行きます。



ガンの本質は想いです。

その想いに気付かなければいけません。

慌てずに、隠されている本当の自分の想いを知って下さい。

捉われている、怖れている想いに気付いて下さい。

想いを生じさせた出来事を見つけ出して、その時の自分に愛を向けて下さい。

そして自分の想いに忠実に生きて下さい。

そうすれば魂は自然に癒されて行きます。

魂が目覚め、愛により自らが癒やされることで、肉体上のガンも癒されて行きます。



全ての病気は、神の考案した自然現象です。

そこに神の意図が織り込まれています。

魂に欠けているものを補い、成長させて、自らの方向に導いています。







2018年2月4日日曜日

ガンを癒やす その2



人は目に見える肉体、目に見えない精神と霊(魂)から構成されています。

病気には必ず原因がありますが、ガンは肉体、精神、霊(魂)のそれぞれの次元に原因が存在すると考えられます。

大量の放射線を浴びたり、アスベストを吸ってしまいガンになる人がいますが、これは肉体的次元に原因が存在しています。

原因をなくして、病巣を切除してしまえば、完治する可能性は高いと考えられます。

ところが、早期発見が可能になり、治療技術が向上しているにもかかわらず、ガンの死亡率は一向に減っていません。

それは、ガンの原因の多くは、医学が対象としている肉体的次元にはなく、より高次の精神的及び霊的次元にあるためと考えられます。

では、精神的次元、霊的次元の原因とは何なのでしょうか?



人生は偶然の積み重なりではありません。

人には生まれる前に決めていた、およその人生のシナリオがあり、無限なる叡智により立案されていると考えられます。

シナリオがある目的は、自分(魂)を効率よく成長させ、欠点を的確に正すためと考えられます。

もし、何の前触れもなく、これと言った原因も見当たらず病気(ガン)になったのであれば、シナリオとして決められていた可能性があります。

病気を通して、いろいろなことを学んだり、改めるべきところを改めるためです。

過去世の過ちを償うために、病気になるシナリオも存在します。

また、治療がほとんど奏功せずに亡くなってしまう人がいますが、次の世界に移行するためにガンになった可能性があります。

その人は、この世の寿命が来たのであり、医学ではどうすることもできません。

しかし、生まれた後に(霊的な)原因が生じた人であれば、その原因さえなくなれば肉体上のガンも癒されると考えています。



前回、ガンになった人の多くは、自分本来の想いを肉体で表現出来なくなり、思念(想い)というエネルギーが内部に蓄積した状態にあると書きました。

その様な人は、霊(魂)、精神、肉体の3者の間に調和が失われていると考えられます。



人の想い(思念)は、霊的次元の魂で生まれます。

その想いを、この世で具現化するために、精神や肉体はあります。

悲しい想いが生まれれば、精神の働きによって肉体が動いて涙を流し、怒りの想いが生まれれば、顔が紅潮し、人によっては攻撃的な行動を起こします。

この世は、想いを肉体で言葉や行動として表現する世界ですが、そうもいかない時があります。

満員電車の中で足を踏まれて痛い思いをすれば、怒りのような感情が湧き上がり、文句の1つでも言いたくなる時がありますが、多くの人はグッと我慢します。

上司に理不尽なことを言われたら腹が立ちますが、その想いを伝えられない時の方が多いと思います。

そんな言葉や行動として表現出来なかった想いは、内に溜まっています。

想いを溜めていると身体に良くないので、人はストレス解消と言って、酒を飲んだり、おしゃべりをしたり、運動をして、無意識に外に出そうとしています。

しかし、不快な想いが常態的に生じ、それを外に出せない環境にいると、徐々に蓄積して行き、肉体上に変化をもたらすようになります。

血圧が高くなったり、脈拍が速くなったり、精神が不安定になったりするかもしれません。

あるいは、胃に穴が開いたり、ひどい場合は心筋梗塞や脳卒中になるかもしれません。



肉体で表現できなかった強い想いは、解放されずに内に溜まっています。

理由もなく涙が流れたり、腹立たしくなるのは、表現されなかった過去の想いが内に溜まっている証拠だと考えられます。

溜まっている想いは、少なからず今の自分の言動に影響を与えています。

無意識に誰かにつらく当たってしまうのは、怒りの想いが溜まっているせいなのかもしれません。

何かに挑戦しようとしても、ためらってしまうのは、怖れの想いが溜まっているせいなのかもしれません。



困難を乗り越えて行くこと、他者のために奉仕をすることで、人は成長して行きます。

シナリオに沿って成長させる出来事は起きて、それが繰り返され、人生は紡がれて行きます。

しかし、怖れや不安があると、乗り越えて行かなければならない出来事が訪れても、しり込みしてしまうかもしれません。

強い怒りがあれば、人のための奉仕の機会が訪れても、行動に移せないかもしれません。

過去に生じていた想いが内に溜まっていると、シナリオに沿って成長させる出来事が訪れても、無にしてしまう可能性があります。

予定されていた行動が取れなくなり、予期していた成長が得られなくなれば、この世に生まれて来た目的を十分に果たせなくなってしまいます。

霊的には極めて大きな損失です。



想いは肉体で具現化される、エネルギーの一種です。

精神を介して表現できなかった想いは、因果律の働きによって、肉体上に直接変化を起こすエネルギーになることがあります。

では、何のために肉体上に変化を起こすのでしょうか?

それは、成長を妨げている想いに気付くためです。

想いは、五感によって感識できないので、内に溜まっていても気付けません。

自分の想いに気付くために、五感に触れる形となって外部に表現される必要があり、その表現形態の1つがガンと考えられます。

溜まった想いは、言葉で言い表せないような、怒り、憎しみ、貪欲、怖れのようなものと考えられます。

人生のどこかで、そんな強烈な想いを生じさせた出来事があり、その後の人生でそれを喚起するような出来事によって、同様の想いが生じ続けて大きくなって行ったと思われます。

その想いが、意志決定に影響するまで大きくなってしまい、自分ではどうすることが出来なくなると因果律が作動して、肉体上に変化を起こしガンとなると考えられます。

また、(地上的な)自我が大きくなり過ぎると、本当の自分(魂)が埋没し、自分の想いが表現されるのを妨げてしまいます。

肉体上でガンが増殖する様子は、想いが(地上的な)自我によりブロックされ、内部で大きくなっている状態の反映と考えられます。

心(感情)とガンが密接に関係していることに気付いている人は多くいます。

そんな人はストレスを避けて、心穏やかに過ごそうとします。

ガンが活性化し増殖して行くのは、溜まった想いと類似した想い(感情)が生じている時であり、その様な想いが生じないような生活を心がけるのは、極めて大切なことです。



ガンは細胞分裂時の遺伝子のコピーミスによって生じると言われています。

しかし、それは誤りです。

この宇宙で起きる自然現象にミスはありません。

全ての自然現象は、神の法則(自然法則)によって生じているからです。

自然現象には神の意図が隠されています。

ガンの発生や増殖は、神の意図が隠されている自然現象の1つであり、それが判らないために人は恐怖を感じてしまいます。



手術をして病変を切除しても、本体である想いが内にあれば、再発と言う形で肉体上に反映されると考えられます。

死亡率が減らないのは、根本原因が存在しているからです。

手術をして根治が期待できるのは、肉体次元に原因がある場合であり、精神的と霊(魂)的次元に原因があれば対処療法に過ぎません。

抗ガン剤をいくら投与しても、耐性が生まれてガンが増殖し始めるのは、想いが取り除かれていないからです。

人間の意図によって、神の意図を阻止することは出来ません。



この世に生まれて来るのは、人を成長させようする神の意図があるためです。

成長を阻害している溜まった想いが、肉体を変化させて病気(ガン)となって表現され、人は見えない次元の変化に気付くようになっていると考えられます。

同時に、病気(ガン)は、成長を阻害しているものを取り除いて、魂を浄化させています。



病気(ガン)が癒やされるとは、肉体上の病変がなくなることではなく、成長を妨げている想いが解放され、魂で生じた想いが、精神を経由して、肉体で円滑に表現されている状態と考えられます。

ガンとは、本来の自分を取り戻し、成長して行くためにある、神が創った自然現象の1つと考えられます。


《次回に続く》







2018年1月21日日曜日

ガンを癒やす その1



インフルエンザが流行する季節です。

運悪く罹ってしまったら、多くの人は病院(医院)に行って診てもらいます。

病院には内科、外科、小児科、精神科など、さまざまな科があり、症状がある身体の部位や、年齢に合わせて受診する科を決めます。

胃が痛くなれば、内科または外科に行って、内視鏡で胃の中の様子を調べてもらい、診断してもらうこともあるでしょう。

患者さんが痛みを訴えているにもかかわらず、異常が認められなければ診断が付かず、原因不明の痛み(不定愁訴)となってしまいます。



近年、心身医学の概念が生まれ、目に見えない精神と肉体は密接に関係していることが判って来ました。

精神的なストレスから、胃の痛みが生じることがあるのは周知の事実です。

胃潰瘍になったからと言って、手術をして患部を取り除く医者はもういません。



人々に怖れられているガンはどうなのでしょうか?

もし、胃の中にガンが見つかれば、当然のことですが外科的に取り除き、なくなれば治癒とします。

ところが、早期発見が可能となり、手術の技術も向上したのにもかかわらず、ガンによる死亡者数は減っていません。

平均余命が伸びたためと理由付けしていますが、苦しい弁明に思えます。

ガンの原因が究明されていないため、根本的な治癒につながっていからではないでしょうか。

現在、常識と思われている医学的行為も、もしかしたら、胃潰瘍で胃を切除して治そうとするのと同じなのかもしれません。



人は目に見える肉体と、目に見えない精神から構成されていると、一般的に思われています。

精神とは何か?

ブリタニカ大百科辞典によると、「非物質的現象またはその基体とされる実体をさす概念」とされていますが、意味がさっぱり判りません。

精神(心)の存在は誰もが認めますが、物質的次元のものではないので、科学的に調べることや、言葉で表現するのには無理があります。



精神が存在している次元を、精神的次元と仮定します。

人は物質的次元の肉体と、精神的次元の精神の、2元的に構成された存在と言えます。



肉体と精神は、どのような関係なのでしょう?

精神が司令を出して肉体が動いているので、肉体よりも精神が上位なのは明らかです。



それでは、胃潰瘍のように精神的次元にある原因(ストレス)から解放されれば、ガンは治るのでしょうか?

胃潰瘍とは違い、休養して治ったと言う話を聞いたことがありませんので、精神的次元に原因がある病気ではないのかもしれません。

もっと、違う次元に原因が存在すると考えてみてはどうでしょうか?





上の写真は夜空に輝くオーロラです。

写真を見てオーロラだと認識するのは、肉体(眼)と精神の働きによるのものです。

もし、脳の電気的信号のやり取りで精神が作り出されるのであれば、オーロラと機械的に認識されるだけで良いはずです。

しかし、人は違います。

風にたなびくカーテンのような光景を見て、神秘的な美しさを感じます。

オーロラと認識するのとは別に、「美しい」という概念が生まれています。



ところで、その美しさを言葉によって説明することはできるでしょうか?

美しいとは何なのかを、言葉で説明することはできるのでしょうか?

難しいはずです。

「美しい」という言葉は、概念を地上で表現する代用品に過ぎないからです。



精神的次元を超えたものが存在し、その存在が美しさを感じています。

美しさを感じているのは、精神的次元を超えたものであるため、そこから生まれる思念や概念を言葉で説明するのは不可能です。

悦び、悲しみ、怒りなどの思念も、同じくその存在から生まれているので、それ以上、説明することは出来ません。

精神的次元(言語)を超えた、思念や概念を生み出している存在を、魂と呼んでいます。

精神と同様に、魂の存在を証明する手段はありませんので、残念ながら医学では認められていません。



この世界では、思念や概念を肉体によって表現しています。

魂から生まれている思念を、この世界で具現化させるためにあるのが精神と考えられます。

思念や概念が生まれ、それを言葉に変換しているのが精神の働きだと思います。

オーロラを見て感動したとしても、「美しい」と言う言葉に変換されなければ、この世界で伝えることはできません。

また、魂から生じた思念や概念を、具現化するための方策を考えているのも、精神の働きです。

方策が物質的次元の脳に伝わって身体に司令が出され、身体が動かされることによって行動となり、外に向かって表現され、具現化されて行きます。

それらが絶え間なく繰り返されているのが、地上の生命活動と言って良いのかもしれません。



魂が存在しなければ、思念や概念が生まれず、何も始まりません。

魂と肉体のインターフェイスの役割を果たしている精神がなければ、肉体に命令を出せません。

肉体がなければ、地上で表現はできません。

3者のどれもが必要ですが、魂が上位にあり、精神が次に位置し、肉体が下位にあります。

しかしながら、多くの人は下位にある肉体ばかりを意識し、上位にある魂の存在を認めていないのが現状です。

その誤った認識が、健康にも悪影響を及ぼしていると思われます。



健康とは?

WHOが1998年に出した新しい提案では、「Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.(健康とは、病気でないとか、虚弱ではないことではなく、肉体的にも、精神的にも、霊的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態)」と 定義しています。

医学では認めていない霊(魂)の存在を、WHOは認めているようです。

霊的真理では、霊(魂)、精神、肉体の3者の調和が取れている状態を指します。

私は、3者の連携が上手く行き、本来の自分(魂)の想いが、精神(この世の自我)を通して、スムーズに肉体で表現されている状態を健康と考えています。

3者の連携が上手く行かず、本来の自分の想いが、精神(この世の自我)に遮ぎられてしまい、肉体で表現されなくなった状態を不健康と考えています。

魂から精神、精神から肉体、肉体から外部へと、生命エネルギーが何の障害もなく流れている状態が、健康と言えます。

従って、肉体上に異常があっても、魂から生じた思念(想い)が肉体で表現されていれば、その人は健康と言えます。

逆に、肉体上に異常がなくても、魂から生じた思念(想い)が肉体で表現されていなければ、その人は不健康と言えます。



ガンになった人の多くは、自分本来の想いを肉体で表現出来なくなり、思念(想い)というエネルギーが内部に蓄積した状態にあると考えています。

目に見えるガン組織は、精神の上位にある魂(霊)の異変の反映と考えています。

                                                    《次回に続く》



2018年1月7日日曜日

夢を抱く



小学生の時に、大人になったら何になりたいのか、クラス全員で文集に書きました。

男子はプロ野球選手が多く、中には内閣総理大臣と書いた友達もいました。

ちなみに私は、宇宙飛行士だったと記憶しています。



大人から、「夢を抱いていればいつか叶う」と言われた覚えがあります。

しかし、その時は、何を根拠に言っているのか、全然判りませんでした。



文集に書いた夢を叶えた人は、果たしてどれ位いるでしょうか?

大部分の人は、大きくなるのに従って実現不可能と思い、諦めてしまったのではないでしょうか。

私もその中の1人です。



それでも、子供の頃の夢を実現させている人はいます。

その差は何なのかと言えば、単純に夢を抱き続けられたかどうかの差だと思います。

努力していれば、なれるかもしれないと思い続けられた人が、夢を実現していると思います。

また、漠然と実現できたら良いなと思っている私みたいな人よりも、強く思いながら、自分を信じていた人の方が可能性は高いと思います。



しかし、この世界は、どんなに強く思っていても、実現されないこともあります。

多くのオリンピック選手は、金メダルを取る姿を思い描きながら、厳しい練習をしていますが、実現する人は1人だけです。

誰もが経験する入試や就職あるいは結婚も、強く思っていたからといって、希望通りになるものではありません。



また、どんなに思ったとしても、実現不可能なことがあります。

鳥のように空を飛びたくても、自力で人は飛べません。

150歳まで生きようとしても、無理です。

病気を治したいと思っても、直ぐに治るわけではありません。



この世界には、目に見えない自然法則が存在しています。

自然法則の働きは完全かつ不変であり、私たちはそれに従いながら生きています。

どんなに思ったとしても、自然法則の働きを超えて、実現されることはありません。

あくまでも法則の枠内で実現されます。



この世界では、自分の夢(想い)を具現化するためには、肉体的、精神的努力を伴わなければいけません。

必ずしも報われる訳ではないのに、人は夢に向かって努力をしますが何故なのでしょう?

夢が実現することよりも、実現するための奮闘努力が大切であり、その中で自分が成長することを知っているからなのかもしれません。

この世界に生まれて来たのは、自分を成長させるためであることを、本当の自分(魂)は知っているからだと思います。



夢を抱き続けていれば実現すると言われるのは、夢(想い)は具現化する力を秘めているからと考えられます。

強く抱くほど、具現化される可能性は高いと考えられます。

見方を変えれば、夢が実現しないのは、具現化するだけの強い想いではないのかもしれません。

あるいは、もっとふさわしい夢が存在し、そちらに進んで行かなければならないのかもしれませ
ん。



想いは魂で生まれ、具現化するための方策が精神で生まれ、肉体を動かすことによって実現されると考えています。

従って、想いが生まれなければ、何も始まりません。

想いが生まれたとしても、精神を働かせなければ方策は生まれません。

方策が生まれても、肉体を働かせなければ、この世では実現できません。



では、私たちが死んだ後に行く世界ではどうなのでしょうか?

想像するのが難しいのですが、五感に触れない想いこそが実在であり、しっかりとした実体があります。

この世界では、自分の想いを相手に伝えるために、肉体を介した表現をしなければいけませんが、次の世界では瞬時に伝わります。

人に知られたら恥ずかしいような想いを、隠す肉体はもうありません。

虚飾のない、以心伝心の世界であり、その様な想いを抱かないように修養するのが、この世界を生きる目的の1つなのかもしれません。

想っていることが、直ちに具現化されるのが、大きく違うところです。

自然法則の働きでそのようになるのであり、この世界のような努力は必要ありません。



次の世界では、想いが直ぐに具現化されるのに、この世界では何故、この様な煩わしい行程を経なければならないのでしょうか?

想いを実現するために、肉体的、精神的活動が必要であり、そこに大きな意味があるようです。

肉体や精神を働かせることは、上位にある魂にも負荷がかかり、成長につながると考えられるからです。

肉体的、精神的限界が伸展することにより、魂はより大きく、強い個性を表現出来るようになると考えられます。



望んでいるものが、向こうから舞い込んでくるようなことはありません。

自分が想わなければ、決して変化は起こらず、現実はそのままです。

想うことによって、現実を変えるためのスイッチが入り、影響を及ぼし始めます。

想いは行動となり、周りに変化を起こして行きますが、物質次元に顕現して来るのには時間がかかると思われます。



望む方向に人生を変えて行くために、まず夢(想い)を抱きましょう。

夢(想い)を抱いたら、行動に移すようにしましょう。

それにより、現実が少しずつ変わって行くはずです。



2017年12月24日日曜日

魂の存在を信じますか?



人とは?と聞かれて、即答できる人は少ないと思います。

地球に棲む最も高い知性を持った動物が人であると、定義することには異論がないと思います。



知性は精神の産物であり、人とは目に見える肉体と、目に見えない精神から成り立っていると考えられています。

ところで、精神とは何なのでしょうか?

現代科学をもってしても、精神は未だに解明できておらず、謎だらけです。

精神は、物質的ではなく、再現性もないので、現代科学によって立証するのは不可能です。



大脳生理で、精神活動の全てを説明しようとする科学者がいます。

脳は確かに優れたコンピューターであり、思考の働きにより多くの問題を解決しています。

でも、どうしても説明できないことがあります。

それは感情です。

優れたコンピューターに求められるのは、正しい答えを導き出すことであり、感情など必要ありません。

なのに、どんな人にも感情はあります。

もし、感情を人から取り除いたらどうなるでしょうか?

ただの画一化されたロボットになり、個性は失われてしまいます。



人の個性はどの様に形作られるのでしょうか?

育った環境によって作られるのは確かです。

しかし、どんなに同じ様に育てたとしても、別々の個性が発現してきます。

生まれた時から個性が備わっていると考えた方が妥当なようです。



なぜ、生まれた時から個性があるのでしょうか?

遺伝子の違いが原因なのでしょうか?

塩基配列の違いは、肉体的な個性をもたらしますが、精神的な個性に関係しているとは、とても思えません。



個性を形作っている別の存在が、生まれた時からあると仮定した方が、合理的な説明がつきます。

別の存在が精神に反映され、個性となっていると考えれば全く無理がありません。



その存在は、科学で立証できないので認められていませんが、立証できないからと言って否定してしまのは過ちだと思います。

愛は科学で立証されたでしょうか?

立証されてないから、否定するべきなのでしょうか?



天文学の父と呼ばれるガリレオ・ガリレイは望遠鏡で木星を覗きました。

そして、木星の周りを衛星が回っているのを観察して、地動説を唱えました。

ところが、実際にその様子を見ていない宗教家や学者は、信じられずに否定し、裁判までかけました。

真実はどうだったでしょうか?

固定観念に捉われ、自分が信じられないものを否定してしまうのは、同じ過ちを犯しているように思えてなりません。



たとえ立証できなくても、証拠を見ていなくても、素直に信じなければいけないことがあると思います。

個性を形作っているのは物質的なものではなく、肉体とは別個に存在しています。

そんな単純な事象を認めるだけで、科学では説明困難なことが、納得の行く説明が可能になります。



問題を生じさせているのは、その存在と肉体が別の次元のものだからです。

人は肉体に備わっている感覚によって、この世界を感識しています。

その存在は、物質的な次元のものではないので、この世界の人は感識出来ません。

感識出来ないけれども、存在すること前提に話を進めて行きます。

肉体と目に見えない別の次元の存在、俗に言う魂が複合して、そこに精神が生まれ、人を構成しています。

3者は密接に関連し、お互いに影響を及ぼし合っています。

この世界では肉体がなければ、個性を表現できなくなり、その存在がいなくなれば肉体は存在意義を失って土に還ります。

生命とは肉体ではありません。

魂です。

魂に個性があるのです。



肉体には、物質的次元の自然法則が働いていますが、魂には霊的次元の自然法則が働いています。

肉体は自然法則の働きにより、成長し、老化して、やがて朽ちます。

しかし、魂は成長するのみであり、老いて朽ちることはなく不滅です。

この世に生まれたのは偶然ではありません。

私たちは、魂を成長させると言う、同じ目的を持って生まれてきました。



では、どのようにすれば成長するのでしょうか?

人や社会や動物のために奉仕をすることで、成長して行きます。

さまざまな出来事を乗り越えて行くことで、成長して行きます。

この世界が、奉仕をする機会に溢れていて、さまざまな出来事が起きるのは、成長するためです。



全てのことが、自然法則の働きによって生じています。

自然法則の働きによって、私たちは成長するように、導かれています。



身体は同じ構造であり、同じ組成ですが、魂にはそれぞれ個性があり、それぞれの成長度があります。

あらゆる成長度の魂が、交じり合っているのがこの世であり、そこに大きな意味があります。

それぞれが違う個性なので、共存するのには、お互いに認め合わなければいけません。

この世に生まれる人は、過ちを犯さないほど、成長度は高くはありません。

自分が過ちを犯すように、他者も過ちを犯すので、お互いに許し合わなければいけません。

もし、認め合い、許し合わなければ、いさかいとなり苦痛を伴う出来事が生じてしまいます。

この世界に生まれて、苦痛を経験しないためには、自己犠牲を伴う愛を表現しなければならず、その表現を通して魂は成長して行きます。



また、この世の人には肉体があります。

肉体を養うためには食べていかなければならず、そのためにはお金が必要です。

お金を得るためには、働かなければいけません。

働くとは、何らかの形で、人や社会へ向けた奉仕をすることです。

この世を生きて行くことは、他者への奉仕につながっているので、それだけで成長していることになります。



この世では、いろいろな出来事が起こります。

うれしいことばかりであれば良いのですが、つらいことも起こります。

スポーツ競技は厳しい練習を積んでいれば、次第に上達して行きます。

しかし、どんなに練習をしても結果が伴わない時があります。

困難な出来事が起こると、人は何とかして乗り越えようとします。

乗り越えようと悪戦苦闘する中で、魂は知らずに成長しています。

神の摂理(自然法則)の働きは完璧であり、困難を乗り越えて行けば、魂の成長という結果が必ず伴っているのですが、残念ながら、この世に生きる私たちに、そのことを感識できません。




今日はクリスマス・イブです。

ホワイトクリスマスはロマンティックですが、空から舞い降りて来る雪の結晶を見る度に、その造形の美しさを感じずにはいられません。

偶然によるものではなく、自然法則の働きによって、形の異なる幾何学的な造形になります。

その自然法則も偶然生まれたのではなく、何者かによって考案されたはずです。

その何者かが、神と呼ばれる存在です。

神は自然法則を考案し、その働きによって広大無辺な宇宙を隅々まで支配しています。

神が美しい存在なので、自然法則の働きも美しくなり、その働きによって造られた雪の結晶も美しくなります。


その美しさを感じているのが魂です。

魂は美しいものを知っているから、美しいと感じるのです。

では、なぜ知っているのでしょうか?

それは、魂は神から生まれた神の一部だからです。

全ての人は、神の心を持っているからです。




クリスマス・ソングです。お時間があるようでしたら聴いて下さい。



2017年12月10日日曜日

人間関係で苦悩するのがこの世



この世を生きていている多くの人にとって、悩みや苦しみにつながっているのが人間関係です。

気心の合う人ばかりであれば良いのですが、この世には、自分と性格や考え方、価値観の違う人がたくさんいます。

この世は、一人では生きていけないようになっていて、いろいろな人たちと交わりながら生活しなければなりませんが、そのことに大きな意味があると考えられます。



誰しも、いつの日か死が訪れます。

その先に待っている世界は、この世と大きく違います。

自分が会いたいと想う人だけと会い、嫌いな人、苦手な人、親しみを感じない人たちと、会うことはなくなります。

人間関係の煩わしさから、完全に解放された世界があの世です。



では、何故、私たちはこの世で人間関係に、悩み、苦しまなければならないのでしょうか?

全ての次元を通して、私たちが生きている目的は、自分(魂)を成長させるためであり、苦しみを乗り越える中で自分(魂)が成長すると言う、自然法則の働きがあるためです。

人間関係に煩わされることのない快適なあの世よりも、性格や考え方、価値観の違う人と交わり、その中でもまれ、時に苦しい思いをするこの世の方が学ぶことが多く、魂はより大きく成長すると考えられます。

快適なあの世を離れ、この世に生まれて来たのは、より大きく成長し、大切なことを学ぶために自らが志願した結果であり、学び、成長するのに従って、この世の苦しみから解放されて行くと考えられます。



考え方や価値観の違う人と接すると、一種の軋轢が生じます。

激しい個性の持ち主同士であれば衝突が起きて、時に怒りのようなものが生じてしまうかもしれません。

軋轢が生じるのは、自分が理解されなかったり、自分の意見が通らなかったためと考えられます。

しかし、裏を返せば、相手を理解していなかったり、意見を尊重しないために生じているようにも思えます。

軋轢を避けるために、相手に考え方や価値観を自分に合わせてもらうのは、極めて困難です。

自分は変えようとせずに、相手に変わってもらおうとするのは利己的な考えであり、上手く行くはずはありません。

もし、軋轢を避けたいのであれば、相手に変わってもらうより、自分が相手を理解する、尊重するように変わるしかありません。



軋轢から争いに発展している世の中の状況は、自分はそのままで、相手に変わることばかりを求めているからのように思えます。

相手に変わることを求めても、受け入れるはずはなく、反発を生んでしまうだけです。

自分のことを、ますます受け入れてもらえなくなり、両者の溝は深まって行くだけです。



相手が間違っていると決め付けてしまうのが、1番良くないのかもしれません。

決め付けてしまう人ほど自分の意見を譲ろうとせず、相手の意見にも耳を傾けないような気がします。

間違っていると決め付けると、因果律の働きにより、相手もこちらが間違っていると決め付けてしまい、両者に歩み寄りはありません。

間違っていると決め付けてしまうことから、まず解放されなければいけません。



正しい間違っているのかは、主観によるものではなく、神の摂理(自然法則)を基準に、判断しなければいけません。

個ではなく全体の利益をもたらす方、大きな悦びをもたらす方が、より正しい意見です。



自然法則(神の摂理)に適っている人は、自分の意見を通そうとする人ではなく、相手の意見を尊重する人です。

相手の意見を尊重すれば、因果律の働きにより、結局は自分の意見が尊重されることになります。



それでも、どうしても相手の意見が明らかに正しくなかったり、利己的で認められない時はどうすれば良いのでしょうか?

その意見は、長くは続かずに、いずれ淘汰されてしまうと考えられます。

自然法則に適った意見のみが、永続的に残ります。



相手の意見を無視して、頑なに自分の意見を通そうすると、後ろめたさや罪悪感を感じるかもしれません。

魂には良心が内在されています。

良心とは、自分の中に顕現している神の心です。

神の心は、あらゆる自然法則の中に現れていて、ばらばらになった違うものを一つにさせようとしています。

自然法則の働きに従えば悦びが、背けば苦痛がもたらされるのは、自らの過ちに気付いて、私たちが一つになるように導かれているからです。

相手と自分が歩み寄るのを妨げてしまう行いは、一つになろうとする良心の声に逆らうことになり、何かしらの苦痛を感じてしまうと考えられます。



シルバーバーチの霊訓を読んでいると、交霊会の参加者が、人を非難したり、咎めたりする発言をすると、途中で話を遮り、いさめる場面がありました。

咎めたり、非難するのは、対象が間違っていると決め付けているからであり、その言動自体が間違っているので、いさめられたのかもしれません。

間違っていると咎めたり、非難してしまうと、その事象はそれで完結してしまい、自らを省みることはなく、欠点に気付いたり、足りないところを補おうとする努力を放棄してしまうことになり、それでは成長が望めないような気がします。

また、相手を咎めたり、責めてしまうのは、自らの寛容性のなさを露呈しています。

自分の未熟さを承知している人ほど、相手の未熟さを咎めたりすることが出来なくなると思います。

たとえ過ちであっても、それが相手の未熟さから来るものであれば、より成長した人は認め、許さなければいけないのかもしれません。

さまざまな人(魂)が交わるこの世の人にとって、認め、許すことは極めて重要であり、咎めたり非難をすると、成長の機会を1つ失ってしまうことになるのかもしれません。



怒りや、拒絶からは、何も生まれず、何も得られません。

怒りや拒絶が生まれないような考え方や捉え方をするようになるのが、この世の学びであり、成長につながっていると思います。

意見が衝突して怒りや拒絶が生じる前に、相手の想いを探り、そこに隠された意図を見つけ出す必要があり、より成長した人がその努力をしなければいけないのかもしれません。

例えば、怒りや拒絶をあらわにしている人がいるとします。

怒りを前面に出して、攻撃的になっているのですが、その根底にあるのは恐怖なのかもしれません。

恐怖に支配されているために、信じることが出来ず、過剰に自分を守ろうとしてしまうことがあります。

過剰に自分を守ろうとする行為が、相手に恐怖を生じさせて自分を守ろうとする行為となり、それが新たな恐怖を生み出してしまいます。

その連鎖を断ち切るためには、相手に恐怖を感じさせないような十分な配慮が必要と思われます。



相手を知らないと、不安になります。

不安になるから、自分を守ろうとします。

自分を守ろうとすると、自我が強固になり、お互いが衝突してしまうことになります。

お互いを知らないことから始まっているので、こちらの方から知ろうとする努力が必要です。

そして、表面だけを見るのではなく、言動に込められた想い(真意)を知ることで、人々を悩まし、苦しめている多くの問題は解決されると思います。



あの世では、自分の想いが直接、相手に伝わります。

しかし、今いるこの世界では、言葉や行動で表現して伝えなければいけません。

お互いを知るために、コミュニケーションを取る必要があります。

意見が衝突してしまう相手とは、係わり合いになりたくないと避けるのではなく、そんな人ほど密なコミュニケーションを取って、お互いのことを知らなければいけません。

自分とは合わないと思っている人は、実はお互いに知らないだけなのかもしれません。

想い(真意)を知ろうとする努力は、この世での成長につながっていると考えられます。



お互いを知ることで、緊張が解けて、初めて信頼関係を築く土壌が出来上がります。

信じ合うことは神の摂理であり、心が通い合い、1つになれた悦びを感じます。