人生は楽しいものなのか? それとも苦しいものなのか? ふと考える時があります。
楽しい思いをしている時は、楽しいものだと思うだろうし、苦しい思いをしている時は、苦しいものだと思ってしまうのは当然かもしれません。
人生は楽しいことばかりが起これば良いと、ほとんどの人は思っているでしょう。
しかし、それはあり得ません。
何故なら、私たちはこの世で成長するために生まれて来たのであり、苦しい思いをせずに成長は望めないからです。
苦しい思いをせずに、成長したいと望むのは、物事を上達したいけれども、鍛錬するのは嫌だと言っているようなものです。
一生懸命に鍛錬した人が物事が上達するように、苦しみを乗り越えようとする過程で成長が得られるように、この世界はなっています。
それによって、公正が保たれています。
しかし、苦しい思いをするのは誰でも嫌なものです。
楽しいことばかりの人生では、成長できないのでしょうか?
小学生の時、遠足の日が楽しみでした。
授業から解放されて、クラスメイトとおしゃべりしながら行けるのですから、当然です。
ところで、毎日が遠足だったらどうでしょう。
最初は、楽しいでしょうが、次第に飽きてしまうような気がします。
毎日、授業を受けているからこそ、年に1度の遠足が楽しく感じられます。
遠足に行けば、思い出は作れるでしょうが、そこから学ぶことはあまりなかったような気がします。
たとえ面白くなくても、普段、教室で受けている授業から、新しい知識を身に付けています。
私たちは、苦労して漢字を覚えたり、計算が出来るようになるのは、その先の生活で不自由な思いをしないためです。
大人になってから、学生の時にもっと勉強しておけば良かったと思う時があります。
それは、勉強したことが後で活かされ、知識を身に付けるのに適した時期があるのを知ったからです。
楽しいとは思えない、むしろ苦しい経験の中で、私たちは何かを学び、そして成長しているようです。
そして、人生を振り返った時に、苦しい時こそ自分が成長していたことに、はっきりと気付くようです。
当然のことですが、小学校で学んだことは、中学校で活かされ、中学校で学んだことは高校で活かされます。
小学校の時に足し算や掛け算を習得しなければ、中学生の時に方程式を解くことは出来ません。
段階を踏みながら、次のステップに進むために必要な知識を習得しています。
この世の卒業式に当たるのが死です。
人は死ぬと、それまで自分を表現するために使っていた肉体を失いますが、生命の本質である魂は変わりなく存続しています。
小学校で身に付けた知識が、中学校で活かされる様に、この世で身に付けた知識や経験は、次に行く世界で活かされます。
見方を変えれば、次の世界でやりたいことが出来る資質を身に付けるために、この世に生まれ、苦しみながら自分に足りないものを身に付けていると言えます。
人は、あの世に行くとこの世の全人生を振り返る時が必ず来ます。
この世での言動や自分の想いがオーラに刻まれていて、その1つ1つが思い出されます。
この世でやり残したことが判り、今度こそは目的を遂げようと決意して、生まれて来る人もいるでしょう。
自分が犯した過ちを大いに反省し、それを償うために、この世に生まれて来る人もいるでしょう。
何れにせよ、明確な目的があってこの世に生まれ、その目的を果たすために生きているのは間違いありません。
人は死ぬと、それまで自分を表現するために使っていた肉体を失いますが、生命の本質である魂は変わりなく存続しています。
小学校で身に付けた知識が、中学校で活かされる様に、この世で身に付けた知識や経験は、次に行く世界で活かされます。
見方を変えれば、次の世界でやりたいことが出来る資質を身に付けるために、この世に生まれ、苦しみながら自分に足りないものを身に付けていると言えます。
人は、あの世に行くとこの世の全人生を振り返る時が必ず来ます。
この世での言動や自分の想いがオーラに刻まれていて、その1つ1つが思い出されます。
この世でやり残したことが判り、今度こそは目的を遂げようと決意して、生まれて来る人もいるでしょう。
自分が犯した過ちを大いに反省し、それを償うために、この世に生まれて来る人もいるでしょう。
何れにせよ、明確な目的があってこの世に生まれ、その目的を果たすために生きているのは間違いありません。
生きる目的は、この世においても、あの世においても一貫して自分を成長させるためです。
しかし、あの世ではこの世のような苦しみや痛みは存在しません。
とても快適な世界でしょうが、比較対象となるものがないため自分の足りないところに気付きにくく、この世のように苦しみや痛みを通して教訓を学んだり、成長することは出来ないと考えられます。
誰もが避けたい、苦痛が伴う病気は、この世だけのものです。
その苦痛には、本当の自分(魂)を目覚めさせ、大切なものに気付かせると言う意味があります。
病気になり床に臥せれば、それまでの生き方や考え方の不自然さに気付いたり、自由に(肉体的)表現ができる有難さを痛感するもしれません。
死ぬかもしれない大病を患えば、それまで追い求めていたものに大して価値がないことが判り、人の優しさや思いやりに、大きな価値を見出すかもしれません。
肉体を動かし、頭を働かせて、人間関係に揉まれながらする仕事や、無報酬でしている家事も、苦に当たるものなのかもしれません。
私たちは、生活して行くためのに仕事や家事をしています。
同時に、それを通して人や社会に奉仕をする悦びを感じるためと考えられます。
あの世では養う肉体がありませんので、この世のように仕事をする必要がありません。
何もしなくても生きて行けるのですが、それでは成長は得られず、生きている目的を果たしているとは言えません。
あの世で成長して行くことができるのは、奉仕をする資質が身に付いている者と考えられます。
この世の人生は、人や社会のために役に立つ悦びを学ぶためにあり、奉仕の世界であるあの世で成長して行くためと考えられます。
物質しか見えないこの世において、さまざまな経験を通して、目に見えない大切な教訓を手に入れています。
魂に刻み込まれた教訓は失われることはなく、霊的な資質となります。
次に行く世界で、より高い自己表現をするために必要な資質を、この世の苦に当たるものを通して、身に付けていると考えられます。
意味のない苦しみは存在しません。
出来事の因果関係が判らないと、大きな苦しみとなってしまいますが、神の摂理の働きで生じているので不公平、不公正は一切ありません。
苦しみと魂の成長は表裏一体の関係です。
その最中において判るはずもありませんが、苦しみには成長の悦びが隠されています。
今生の苦しみは、次に行く世界で全て報われます。
成長という報いがあるのを知った時に、摂理を考案した大いなる存在に、感謝の想いを抱くようです。


