人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2022年7月24日日曜日
今の自分は過去の結果
2022年7月17日日曜日
奥底にある動機を問いながら行動する
先週の日曜は選挙に行ってきました。
国のために、一所懸命に働いてくれそうな人に投票しました。
私もそうですが、その人が何を語っているのか、何をして来たのかを参考にして選んでいる人は多いと思います。
しかし、地上はやっかいなところです。
語っていることと、想っていることが一致しない人がいます。
口では国民のためにと言っておきながら、実は権力やお金を手に入れたいために選挙に出る人もいます。
もし霊界で選挙があったのなら、そうは行きません。
自分の本当の想いが、光となって周囲に放たれるからです。
何を想っているのかが一目瞭然になります。
嘘やごまかしはききません。
ありのままの自分でしかいられませんので、霊界には偽善者は存在しません。
人生に苦悩している人がいたとします。
2人の人が、「どうしたのですか?」と、同じ様に声を声をかけたとします。
行動は同じでも、動機はさまざまです。
1人は、悩んでいる様子を見かねて、力になれないかと声をかけました。
もう1人は、これを機に、自分が入っている宗教に勧誘できないかと声をかけました。
人間には、自由意志が与えられています。
それと引き換えに、自分の行いには霊的な責任が生じます。
自然法則に反した行いをすると、霊的な罪が生じて、自動的に霊性が下がります。
自然法則は行いにだけ働いているのではありません。
(行いをする時の)動機に対しても働いています。
その人の力になろうと声をかけたのであれば、その動機は自然法則(愛)に敵っています。
霊性を高めることにつながるでしょう。
けれども、宗教に勧誘するためであれば違います。
自分が入っている宗教組織のため、あるいは自分の評価を高めるためならば、その動機は利己的です。
霊性を高めるどころか、貶める結果となります。
同じ行いでも、その動機によって、霊的な結果は大きく違って来ます。
自分で死を選ぶのは、霊的に罪なことです。
ただし、例外的なこともあります。
例えば、ペアを組んでロッククライミングをしている最中に、足をすべらして絶壁で宙吊りになったとします。
2人分の体重を支えるのに、ハーケンは耐えられそうにありません。
2022年7月10日日曜日
自分の中にいる良心と言う神
小学生の時に、交換ノートというものがありました。
学級内の生徒が順番で大学ノートに自由に文章を書いて、それに担任の先生がコメントを返します。
しばらくして、自分の番になりました。
文章を書いた後です。
いたずら心が芽生えてしまい、友達が書いた文章の表題を、おもしろおかしく書き換えてしまいました。
後になり、先生がそのことに気付き「誰が書いたんだ」と叫びました。
教室がシーンと静まり返ります。
ただならぬ雰囲気に、「自分です」と言い出せなくなりました。
男子だけが別室に集められて、名乗り出るまで、授業を受けさせないと告げられました。
自分のせいでえらいことになってしまったと慌てましたが、それでも今更、名乗り出ることは怖くてできません。
しばらくの間、葛藤が続きましたが、とうとう耐え切れなくなり、先生の所に行き、自分が書いたと白状しました。
子供ながらに良心の呵責を強く感じた出来事であり、今でも鮮明に記憶に残っています。
良心とは何なのでしょうか?
辞書で調べてみると、"何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識"と書かれています。
悪いことをしたという意識があると、気持ちが苦しくなってしまうのは、良心の呵責が生じているからです。
何が悪いのかは、誰かに教えてもらったり、本で学んでいるわけではありません。
例えば、嘘を付くのは悪いことだと思うのは、親から言われたのもあるでしょうが、自分自身に咎めるものを感じるからです。
人を傷つけてはいけないと思うのは、法律的に罰せられるのもあるでしょうが、自分自身が後味の悪い思いをするからです。
善悪の判断は、学習して身に付けているのではありません。
自分の中にある良心が判断しています。
悪いことはしてはいけないと、心の中で働きかけているのを感じます。
良心はどこにあるのでしょうか?
善悪を判断を、頭(大脳)で考えてしているわけではありません。
怒りや、悲しみのような感情とも違います。
心の中で、瞬間的に生じています。
良心は、意識の本体である「魂」から、直感となって生じていると考えられます。
精神上に自我が形成されています。
自我から出された指令は、大脳によって信号となり、肉体を動かしています。
指令が肉体に出される前に、魂(良心)によって計られています。
それでは、何のために良心が存在するのでしょうか?
人間には自由意志が与えられています。
自分の好きなように行動することが許されています。
その代わりに、自分の行動に対して責任が問われます。
もし、その行動が自然法則に反しているのならば、自動的に罪が生じます。
罪が生じると、それを償わなければなりません。
限られた時間を、そのために費やさなければならなくなります。
肉体を持つと、どうしても意識が自分に向いてしまいます。
自分がかわいくなり、利己的な行動をしやすくなります。
利己的な行動は、神の心である「愛」に反しています。
わがままや自分勝手はいけないと思うのは、神の心に反していると、良心が訴えているからです。
因果律の働きにより、後で痛い思いをするのを、魂は知っているからです。
神は人間に自由意志を与えました。
しかし、霊的にまだまだ未熟です。
そのために良心となって心の中に顕現して、地上の人間の行動を制御していると考えられます。
良心が咎める時、その行動は法則に反しています。
行動に移してしまったら、罪が生じてしまいます。
今年の2月、ロシアがウクライナに侵攻しました。
ロシアの大統領には、踏み留まる選択肢もありました。
けれども、侵攻する方を選びました。
問われるのは、行動を起こした時の動機です。
自国が他国の脅威にさらされ、土地や国民を守るためであるならば、正当防衛に当たります。
よって、自然法則に反しているとは言えません。
そうではなく、他国に対して過剰な怖れを抱き、疑心暗鬼になっていたのかもしれません。
自分の地位や権力を守ろうとしていたのならば、動機は明らかに利己的です。
戦争は法則に反した行いです。
行動に移す瞬間まで、踏み留まるように良心の声がしていたはずです。
しかし、その声は強大になった自我(エゴ)に遮られてしまい、聴こえなくなっていたと考えられます。
霊的な無知ほど恐ろしいものはありません。
後で裁かれることを知らないので、こんな出来事が起きるのです。
死んで肉体がなくなると、霊的な感覚だけになります。
途轍もなく大きな存在(神)を意識するようになります。
宇宙全体が神です。
自分の中にいる良心と言う神と向き合う時が来ます。
神は法則でもあります。
自分の行いは、法律ではなく、法則によって裁かれます。
自然法則に照らし合わされ、自動的に罪の重さが決まります。
どれくらいの人が殺され、傷ついたのでしょう。
どれほどの、要らぬ苦しみ、悲しみ、怒り、憎しみが生まれたのでしょう。
結果が目の前に映し出されて、愕然とし、自責の念に悶え苦しむことになります。
その罪はあまりに大きく、償い切れないように思えてしまいます。
自分が与えたものを、自分が受けなければならないのであれば、何度、苦痛の中で生きる人生を繰り返さなければいけなくなるのでしょうか。
想像しただけでも恐ろしい現実が、因果律の働きで、自分の身に降りかかって来ます。
一刻も早く終わりにすべきです。
しかしながら、自我の働きは、時にやっかいです。
「自分ではなく相手が悪い」、「自分は間違っていない」、「面子が潰れてしまう」など、さまざまな言い訳を考えては、良心の声を打ち消そうとします。
自我が発する言い訳と、良心の声の間でせめぎ合いが起こり、それが心の葛藤として感じられます。
良心は神です。
自分の中に神がいるのです。
いくらもっともらしい言い訳を考えたとしても、神の声の方が正しいのです。
私たちは、魂を成長させるために、この世に生まれて来ました。
成長にとって望ましい方向を、良心は瞬時に指し示します。
その声に逆らったり、無視してしまうと、自分の中にいる神を裏切ったことになり、後で後悔します。
いばらの道に思えたとしても、素直に従いましょう。
神は内にいます。
良心と言う形で顕現しています。
自我を鎮めて、心の中で響く声に耳を澄ませ、その声に忠実に生きていれば、霊的な感性が極めて弱くなっている地上の人間も、生まれて来た目的を果たせるようになっています。
2022年7月3日日曜日
愛により1つになる
宇宙は、138億年前にビッグバンが起こり、始まったと言われています。
なぜ、起きたのかを説明できる人はいません。
全ての現象は、法則に従って起きています。
従って、ビッグバンも何らかの法則に従って起きたはずです。
法則がなかったとしたらどうでしょう。
宇宙は無秩序で、不可解なものになってしまいます。
宇宙が美しいと感じられるのは、隅々まで自然法則が行き渡り、調和が保たれているからだと思います。
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NASA提供 |
宇宙を経綸している法則が、偶然生まれたとは考えられません。
何者かが、何かの目的を持って創ったと考えられます。
法則を創った存在を、神と呼ぶことにします。
何故、神は法則を創り、宇宙を誕生させたのかは判りません。
判っているのは、宇宙はエネルギーであり、法則に従って、刻々と変化していると言うことです。
携帯電話は、離れたところにいる人とコミュニケーションをすることを目的に、人間の手によって作られました。
私たち人間は、偶然が重なって、誕生したと言う人がいます。
けれども、携帯電話よりはるかに精緻な人体が、偶然誕生したなどとは、とても考えられません。
窺い知ることのできない目的があって、神によって創られたはずです。
携帯電話は物質です。
使う人がいて、初めて電話として機能します。
人体も物質です。
人体を動かしている存在があって、初めて人間として機能します。
動かしている存在とは、非物質である魂(霊)です。
生命とは魂です。
人体と魂が結合したものが、地上の人間です。
いづれ死ぬ時が来ます。
その瞬間、魂と肉体の結合は解除されます。
魂がいなくなった人体は動かなくなり、生気を失ってやがて朽ち果てます。
目に視えるこの世界が全てだと、つい思ってしまいます。
それは誤りです。
肉体を持たないで生きる世界が存在しています。
本来の住処は、その世界です。
目的があって、肉体で自己表現をする地上に生まれて来たのです。
魂から意識が生じています。
意識によって肉体は動いています。
魂と肉体の間には精神が存在し、地上だけに存在する意識(自我)が作り上げられています。
自我は肉体との結びつきが強いために、地上的なものに意識が向く傾向にあります。
自分の身の安全を何よりも優先するのはそのためです。
意識は、地上的なもの、霊的なもののどちらかに向いています。
地上的なものに意識が向いた時は、「物」や「お金」や「自分の肉体」など、目に見えるものに関心が行きます。
霊的なものに意識が向いた時は、「生命」や「愛」や「友情」など、目に視えないものに関心が行きます。
溺れている人がいれば、助けようとします。
そんな時は、地上的なものではなく、「命」という霊的なものに意識が向いています。
自分のことを忘れて助けようとするのは、霊的な意識の中に神が存在しているからです。
神が顕現すると、誰かのために、何かをしようとする衝動が生まれます。
悪いことができないのも、神が良心となって顕現しているからです。
人間の本質は霊(魂)です。
本来は、霊的なものに意識が向いています。
誰かのために、何かをしてやりたい気持ちを持っているのですが、肉体があるために、どうしても地上的なものに意識が向いてしまいます。
生まれて来た目的は、自分(肉体)に打ち克って、霊的なものに意識を向けることです
より多くの神性を顕現させるためです。
その過程において、人は進化成長するように定められています。
霊的な存在である私たちは、霊的なエネルギーによって活動しています。
しかし、五感が優位になっているので、エネルギーが流れているのを実感できません。
エネルギーの源泉は神です。
宇宙は神的なエネルギーが顕現したものです。
宇宙全体が神であり、神は宇宙全体です。
人間は宇宙の極小の一部です。
神の一部であるために、私たちには神性があります。
全ての生命に、同じ神的なエネルギーが流れています。
そして、宇宙の一部としてつながっています。
生命が独立しているように見えるのは、地上(物質)的なものに意識が向いているからです。
1つ1つの生命は、何らかの役割りがあって存在しています。
何1つ無駄なものは存在しません。
生命は全体から恩恵を受け、全体に恩恵を与えながら生きています。
相互扶助の関係にあり、つながっています。
霊的な意識は、全体によって生かされていることを知っています。
そして、全体のために自分を活かそうとします。
霊的な意識が高まると、神的なネルギーが多く流れ込みます。
そのエネルギーは愛を帯びているので、全体のために何かをしたくなると考えられます。
全体のため何かすると、全体から何かを受けます。
全体から何かを受けると、全体のために何かをしたくなります。
因果律(自然法則)の働きによるものです。
愛を帯びたエネルギーは、因果律の働きによって、全体へと広がって行きます。
愛はお互いを引き付ける力です。
宇宙が創造され、バラバラになった個と個は、愛が全体に広がることにより、再び1つになって行きます。
それが神の意図のように思えてなりません。
遠い昔、人と人とのつながりは小さなコミュニティに限られていました。
時間の経過と共に、小さな枠組みから、大きな枠組みへと変化しています。
今は、愛に反した行い(争い)により分断が生じ、後退しています。
苦痛を伴いながら、新たな枠組みが構築されるでしょう。
隔てる障壁は徐々になくなって行き、遠い先になりますが、地球の人間としての枠組みだけになります。
人間の愛が、他の生命にも広がって行き、最終的には地球の生命は一体となる時が来るはずです。
宇宙を創ったエネルギーは、愛を表現するエネルギーでもあります。
生命は進化を続け、より高い愛を表現するようになり、他者と調和しながら、1つになる方向に向かっています。
2022年6月26日日曜日
霊的につながっている
当たり前のことですが、私たちは食べ物を摂って生きています。
それがエネルギーに変わり、肉体を動かす力となっています。
食べないと、力が出ないのは、誰もが経験していることです。
人間は肉体だけの存在ではありません。
精神が存在しています。
精神が命令を出して、肉体を動かしています。
食物を食べないと、精神が活動できないわけではありません。
むしろ、空腹の時の方が清明になるような気がします。
お腹いっぱいになると、逆に働きが鈍くなります。
精神は、肉体とは別系統のエネルギーによって活動していると思われます。
精神の上位には、生命の本質である「魂」が存在しています。
魂は意識そのものです。
そこから思念が生じています。
魂で生じた思念は、精神で具体化されて、肉体で具現化されます。
それを繰り返しながら、地上の人生は紡がれて行きます。
思念が生まれなければ、何も始まりません。
精神活動の元となるエネルギーは魂から供給され、思念は地上での活動の起点になっていると考えられます。
死んで次の世界に行くと、肉体はなくなります。
五感は消失し、霊的感覚のみになります。
そこでは、言葉を介さずに、思念のやり取りをしています。
想ったことが、齟齬なく、直接伝わります。
一方、地上にいる私たちは、言葉でコミュニケーションしています。
言葉の実体は思念です。
思念を言葉に変換し、それを相手に伝えています。
伝えられた言葉から相手の思念を類推しています。
言葉を介しているので、どうしても齟齬が生じます。
私たちは、思念を媒体を通して伝達しなければならない、煩わしい世界にいます。
思念は周囲に放たれています。
しかし、五感を通してコミュニケーションをしているため、霊的感覚は極めて鈍くなり、思念は認識されなくなります。
それでも、放たれた思念は誰かに受け取られ、少なからず影響を与えています。
もらい泣きをしたり、つられて笑ったりするのも、そのためです。
人は、思念というエネルギーを放ち、受け取りながら生きています。
多くの人は、そのことを意識していません。
今、世界中の人と、メールでやり取りができます。
インターネットという回線でつながっているからです。
それぞれの人は、独立しているように見えます。
それは肉体の話です。
インターネット回線ではありませんが、人と人は目に視えない霊的なつながりがあります。
そのために、思念のやり取りが可能になります。
身体には37兆個もの細胞があります。
どの細胞にも同じ血液が流れています。
個々の細胞の形態は違いますが、全身を構成する1部には変わりありません。
地上には、無数の生命体が存在しています。
種は違っても、同じエネルギーが流れて、生きています。
違う細胞が集まって人体が構成されているように、さまざまな生命体が集まって全体が構成されています。
それぞれの細胞に役割りがあるように、それぞれの生命体には、全体に貢献する何らかの役割があります。
密接に関連しながら共存しています。
極めて精緻な生命体が、偶然によって生まれたとは、とても思えません。
何者かが、何らかの意図を持って創ったと考えた方が、はるかに自然です。
創った存在を、神と呼ぶことにします。
宇宙を創ったのは神です。
神的エネルギーによって、宇宙は創られています。
宇宙全体が神であり、神は宇宙全体です。
人間は、宇宙を構成する限りなく小さな一部分です。
従って、私たちも神的エネルギーによって創られています。
私たちの身体は、エネルギーでないと言う人もいるでしょう。
物質もエネルギーです。
生命の本質である魂も、同じくエネルギーです。
全てが神的なエネルギーです。
しかし、肉体と魂では波長が違います。
魂が目には視えないのは、波長の短いエネルギーだからです。
魂から生じる思念も神的エネルギーであり、神性を帯びています。
神性を一言で表現するならば「愛」です。
魂から生じたエネルギーは、本来は愛を表現するものです。
けれども、表現するためにある精神や肉体が未熟なために、歪められてしまいます。
怒りや憎しみも、媒体により神的エネルギーが歪められたものです。
愛を表現することによって、調和が進んで、全体が1つになって行きます。
愛に反する怒りや憎しみを表現することによって、バラバラになって行きます。
神の目的は、物的にバラバラになった全体を、愛により1つにさせることだと考えています。
人から生じている思念はさまざまです。
霊界では、似通った思念を放つ人たちと生活しています。
地上でも、同じような思念を放っている人同士が引き付けられ、集まる傾向があります。
人と人は、エネルギーのやり取りをしています。
そのことを強く感じられるのが、ヒーリングをしている時です。
手を触れながらする時もありますが、目の前にいない人をすることの方が多いです。
1面識もない人にヒーリングの力は届きます。
今でも、その理由ははっきりと判りませんが、こう考えています。
人と人はつながっていて、意念を向けた人との間に関係性ができて、力が届けられる。
自分も人も動かすエネルギーである思念も同じです。
目に視えませんが、人から人へと伝わっています。
生命はつながり、巨大なネットワークを形成し、その中でエネルギーのやり取りをしています。
霊的に1つなのです。
2022年6月12日日曜日
真の幸せ
この世しかなかったとしたら
神様が、ある人の前に現れました。
そして「願いを1つ叶えてやる」と言いました。
その人は大喜びし、何にしようかいろいろと考えました。
大金持ちになるのも良いが、死んでしまったら終わりだ。
そこで「ずっと生きていたい」と答えました。
すると神様は願いを聞き入れて、特別に死なないようにしました。
ずっと生きていられると思うと、うれしくてたまりません。
それから数年後のことです。
友達の1人が死にました。
「生きていられなくて可哀想だ」と思いました。
数年後に、また友達が死にました。
また、数年後に友達が死にました。
自分のことを判ってくれる人が、一人また一人と死んで行きます。
「長生きをすると寂しくなる」とつぶやきます。
生きて行くためには、食べて行かなければいけません。
来る日も来る日も働き続けます。
そして、いろいろな人と、付き合いもしなければいけません。
生き方や考え方が違う人たちと一緒にいるのは、何かと気を遣います。
そして、こんなことを言い始めるようになります。
「生きるのが疲れて来た」
それでも神様との約束は守られます。
同じ日々が繰り返されて、これが永遠に続くのかと思うと、堪らなくつらい気持ちになって来ました。
周りにいる人たちが、安らかな顔で死んで行くのを見るたびに、自分にもこの安らぎが欲しいと思うようになりました。
再び、目の前に神様が現われました。
沈んでいるその人の姿を見て「どうしたのだ?」と尋ねました。
その人は、「長く生きていることに疲れたのです。」と答えました。
神様は「1番の望みを叶えたのに何故だ?」と言うと、その人はこう答えます。
「死があるからこそ、生きていたかったのです。今になってそのことに気付きました。」
神様は「それでは、今一番望んでいるものは何か?」と再び尋ねます。
その人は「死です」と即答します。
これは私が考えた物語です。
日が沈んだら、夜の帳が下りて、休息の時が来ます。
日が沈まずに、昼間が続いたとしたら、ゆっくり休むことはできません。
人生も同じです。
死によって、終止符が打たれなければ、安息はありません。
この世を生き続けなければならないほど、つらいことはありません。
けれども、こんな疑問を持つ人もいるでしょう。
死によって終止符が打たれたとしても、安息の世界は本当にあるのだろうか?
残念ながら、次の世界が存在しているのを、客観的に証明することはできません。
この世しかなければどうでしょう?
人生は1度きりです。
苦しいことはことごとく避けて、楽しいことだけをしていれば良いような気がします。
ところが、人は苦しいことがあっても、逃げずに乗り越えようとします。
アスリートは、厳しい練習に耐えて成績を伸ばして行きます。
人は、苦難を乗り越えて行く中で成長して行きます。
苦しくても乗り越えようとするのは、生きる目的が成長することにあるからです。
楽しいことばかりしていても、どこかに虚しさが残るのは、成長していないと感じているからです。
「後悔しないように生きよう」と、ほとんどの人は思っています。
どうしてなのでしょうか?
この世しかなければ、どんな生き方をしたとしても、死んだら全て終わりです。
後悔しても、そこまでです。
現実は、死んだ後も生は続いています。
しばらくすると、目の前にこの世の全人生が映し出されます。
自分の行いと共に、その時の想いを振り返ることになります。
本当の自分(魂)は、そのことを知っていて、その時に後悔するのを避けたいからだと思います。
「悪いことをしてはいけない」と思うのはどうしてでしょうか?
道徳的に、倫理的に、あるいは親から言われたので、そう思うのではありません。
自分の中にある良心が、そう訴えています。
良心に逆らって行動すると、因果律が働いて、苦痛を伴う出来事が起きます。
この世で何も起きなくても、次の人生で償いをすることになります。
悪いことはしたくないのは、本当の自分がそのことを知っているからだと思います。
次の世界があることを、奥底にいる本当の自分(魂)は自覚しています。
もし、この世しかないのであれば、こう書くでしょう。
生命とは肉体です。
死ぬと無になります。
神など存在しません。
人生は偶然によって支配されています。
地球は太陽の周りを正確に回っています。
水は100℃で沸騰して気化します。
そのことが不変なのは、自然法則の働きによるものだからです。
自然法則は、無限に存在します。
全ての自然法則が、偶然できたと考えるのは、あまりにも不合理です。
それは、目の前にある車が、偶然できたと考えるのと同じです。
車が人間によって造られたように、自然法則も何者かによって創られたはずです。
車は移動手段として造られました。
自然法則も何らかの目的があって創られたはずです。
前述の自然法則は、物質的なものを支配しています。
人生は、それとは別の次元の自然法則によって支配されています。
生まれるのも、死ぬのも、喜ぶのも、悲しむのも、全て自然法則の働きによるものです。
偶然の入り込む余地は、どこにもありません。
自然法則に支配されている私たちは、創られた目的に従って生きています。
「偶然」ほど、曖昧で都合の良い言葉はありません。
分からないことは、偶然として片付けてしまえるからです。
サイコロを振って同じ目が出たら、偶然と思うでしょう。
同じ目が出たことに注目するからそう思えるのです。
それ以外の目が出るのと、何ら違いはありません。
同じ目が出るのが特別ならば、それ以外の目が出るのも特別です。
意識したわけではありませんが、同じ目が出るようにサイコロを振ったから、同じ目が出ただけです。
起こり得る全ての事象の中の1つが起きたことを特別に感じ、その理由が判らないと、人は偶然として片付けてしまいます。
アインシュタインではありませんが、神は絶対にサイコロを振らないのです。
サイコロを振っているのは人間です。
世の中には、生まれて直ぐに亡くなる赤ちゃんもいれば、115歳を過ぎても生き続ける人もいます。
もし、この世だけしかなかったとしたら、生まれて直ぐ亡くなるのは不幸の極みです。
生まれて来た意味は希薄になります。
人間を外見だけで判断するのは浅はかです。
その人の本質を捉えていないからです。
生きた年数で、その人の幸、不幸を判断するのは、もっと浅はかです。
ずっと続く生命の物語の1章として、この世の人生があります。
短いこの世の人生は、無数にある選択肢の中の1つです。
その選択をして生まれて来たのです。
自分や周りの学びや成長のために、最善の選択をしたのです。
偶然ではありません。
不幸になるためではなく、その先で幸せを感じるためです。
学校で習ったことを直ぐに理解して、早く帰るのを許された優秀な生徒がいます。
理解できずに、居残りをさせられている生徒は、その生徒のことをどう思うのでしょうか?
羨ましく思っても、可哀想だとは思いません。
早く逝った人のことを、可哀想だと思うのは、それと全く同じです。
学ぶことが少ない人ほど、この世にいる時間が少なくなり、早く帰れるのは当然です。
居残りする理由など、どこにもないのです。
この世しかないと思うと、不幸や不運という言葉に苦しみます。
その苦しみは、間違いを正すために生じています。
死は肉体に限ったことであり、生は続いています。
次の世界は、この世より遥かに快適で、悦びに満ちた世界です。
そこで変わりなく生き続けます。
真実が信じられないと、因果律が働いて、苦しみが生じます。
苦しみより、魂が目覚めて、間違いが正される時が来ます。
直ぐにとは行かないかもしれませんが、真実が信じられるようになれば、苦しみはなくなります。
病気もそうです。
偶然、病気になることはありません。
病気による苦しみや痛みは、奥深いところに働きかけて、魂を目覚めさせます。
エゴから解放され、本来の自分を取り戻し、予定されていた通りに生きて行けるようになる人もいるでしょう。
不幸や不運と思うのは、隠されている意味(目的)に気付けないからです。
次の世界では、悲しい別れも、病気もありません。
地上でしか経験できないことがあり、その経験をしなければ学べないことがあるのです。
経験から学んだように思えますが、学ぶために計画されたことを経験しています。
どれもが自分に必要な経験です。
魂を成長させることが、法則の目的です。
地上の出来事は、次の世界に行って清算されます。
苦しんだ日々、悲しんだ日々は、霊的な学びにつながっていたことがはっきりと判ります。
耐え忍んだ日々は、霊界で成長した悦びとなります。
完全な公正が働いていたこと知り、深く神に感謝するでしょう。
私たちは、この世しか生きられない、儚い存在ではありません。
法則に導かれながら進化している、永遠の存在です。
2022年6月5日日曜日
真実を知ると苦しみから解放される
ここに来てコロナの感染者が減って来たようです。
このまま収束して行くことを願っています。
今から2年前、私たちは戦々恐々としていました。
このウィルスに対する知識が全くなかったからです。
私の家には、はなと言う名の犬がいます。
雷が鳴り出すと、さあ大変です。
落ち着きがなくなり、尻尾が下がってしまい、怖くて仕方がないようです。
雷は自然現象であり、家の中にいれば安全であることを、私たちは知っています。
けれども、はなはそんなことなど知りません。
正しい知識があれば、不安や恐れはなくなり、安心が得られます。
大切な人が死んでしまい、もう会えないと苦しんでいる人がいます。
私たちの本質は霊です。
死とは、窮屈で不自由な肉体からの解放であり、生命は変わりなく存続しています。
死ぬ時まで、親愛の想いがあれば、同じ次元で再会することもできます。
正しい知識があれば、無用に苦しむことはなくなります。
何で自分だけがこんなにつらい思いをしなければならないのかと、苦しい思いをしている人がいます。
そんな人は、起きている結果だけを見て、全てを判断しています。
結果には必ず原因があります。
もし、目の前にモニターがあって、過去の自分をつぶさに観察することができたのならば、憤りは収まるでしょう。
原因をはっきりと知ることができるからです。
他者によって、つらい思いをすることがあります。
時に、憎んだり、恨んだりしてしまうこともあるでしょう。
そうすると、さらに自分が苦しくなってしまいます。
全ての行いは、自然法則によって計られます。
良いことも悪いことも、因果律の働きによって、必ず自分に返って行きます。
(償いがあるのを)知らない人を哀れむことができれば、苦しみは和らぐでしょう。
未知のことに遭遇すると、不安や心配が生じてしまいます。
そんな時、人は知識を得て解消しようとします。
過去の私がそうでした。
大きな不安や怖れに襲われましたが、それを取り除いてくれたのは、「乗り越えられないことは起きない」という真理でした。
偶然は存在しません。
全ての出来事は、自然法則の働きによって起きていることを知りました。
私たちを成長させるために、自然法則は働いています。
良きに計られていることを知って安堵しました。
人は知らないことによって苦しい思いをしていることが多いようです。
苦しみから解放されるためには、真実を知るしかありません。
真実を知った時に、苦しみを乗り越えられ、人は成長していると考えられます。
苦しみは、人を成長させる触媒の役割を果たしていると思います。
何も知ることができないまま、苦しみが続く時があります。
そんな時は、過去の過ちを償っているのかもしれません。
償っている時には、成長は許されません。
知ることができないのは、そのせいかもしれません。
償いは必ず終わります。
その時、苦しみから解放する、教訓を知ることになります。
私たちには成長したい欲求があります。
それは、神(完全)に近づきたいからです。
自然法則の働きにより、私たちは少しずつ神(完全)に近づいています。
神は完全なる叡智です。
全てを知り尽くしています。
神(完全)に近づくためには、より多くの叡智を学ばなければいけません。
地上では、いたるところに、苦しみや悲しみが存在します。
戦争、貧困、差別、貪欲などの悩ましい問題は、叡智を学んでいないために起こります。
無知の結果として生じる苦しみと痛みを経験して学ぶのではなく、初めから叡智を受け入れた方がはるかに賢明です。
そのためには、提示されている叡智を信じなければなりません。
より多くの人が信じ、実践すれば、地上の問題は解消して行きます。
私たちは、限られたことしか知りません。
そのために、不安や心配が生じ、苦しみを伴う出来事が起きます。
私たちは神の一部であり、神の心を持っています。
知識がないのを補うために、自分に顕現している神の心に従えば良いはずです。
全体のことを想う、それが神の心です。
神の心が顕現するように努めれば、多くの苦しみから解放されるはずです。
神は宇宙全体であり、宇宙全体が神です。
全体に奉仕をすることは、神に奉仕することであり、神とのつながりが強まります。
神とのつながりが強くなるほど、霊力(生命力)が魂に流れ込みます。
その力は愛を帯びているので、不安や怖れはなくなるはずです。
人は、自分のために生きているのではありません。
全体のために生きています。
身体の細胞は極小です。
しかし、その1つ1つが明確な役割りを持って、全体のために寄与しています。
人も同じです。
それぞれの役割りがあって、全体のために存在しています。
身体の細胞は独立していますが、同じ血液が流れていて、切り離すことはできません。
それぞれの生命は独立していますが、同じ生命力が流れていて、霊的につながっています。
全生命は一体です。
地上に生まれると、身体しか視えなくなるので、そのことが判らなくなってしまいます。
自分だけに意識を向けていると苦しみが生じます。
全体に意識を向けると、自分を意識することから生じている苦しみから解放されます。
宇宙全体のことなど考えられるはずもありません。
地球全体のことを考えれば良いのです。
全生命は一蓮托生です。
自分だけ、自国だけ、人間だけが良くなることは許されません。
自分のことだけを考えて行動すると、自然法則の働きにより、苦しみを伴う事象が生じるようになっています。
全体のために行動すれば、悦ばしい事象が生じるようになっています。
最も簡単で大切な真実です。
地上では、苦しみを通して真実を知ります。
真実を知るほど、地上の苦しみから解放され、神の心を表現できるようになって行きます。
全体を想う心が発揮されて、世界は1つになって行きます。
2022年5月29日日曜日
生まれて来た目的
人生で最後にして最大のイベントは何でしょう?
それは死です。
死と聞くと、何か重苦しく、怖いようなイメージを持っている人が多いです。
肉体から自分が離れるだけです。
死ぬ時は、見た目ほど苦しくないようです。
死後も、変わりなく意識は存続しています。
肉体から解放され意識は、新たな世界が広がっているのを認識します。
その世界があの世(霊界)です。
死とは、元いた霊界に戻るための自然現象です。
肉体がなくなるので、食べることも、休息も必要なくなります。
具合が悪いところも、不自由なところも、全て消えてなくなります。
肉体からの欲求や情報が全くなくなり、今までにない軽快感を味わいます。
霊界は思念の世界です。
想像するのが難しいかもしれませんが、思い描いたものが、直ぐに目の前に現れるようになります。
お金がたくさん欲しいと思えば、大金が目の前に現れます。
ただ、物を買う必要がないので、価値は全くありません。
地上の肩書も失われます。
どんな高い役職の人でも、周りと同じ1人の人間になります。
肉体がないために、魂が剥き出しになります。
本性が露わになり、何を想っているのか一目瞭然です。
何も隠し立てすることができません。
それが真実の世界と言われる所以です。
話は変わりますが、学生の時に、1つ年を取るとどうなるでしょう?
自動的に1つ上の学年になります。
もし、同じ学年に留まらなければならないとしたらどうでしょう?
そのままでいるのは嫌です。
早く上の学年に行って、新しい経験をしたくなります。
霊界も同じです。
上の世界に行って、新しい経験をしたくなるようです。
霊界は、完全なヒエラルキーの世界です。
全てが霊性によって決まります。
優しく、思いやりがあり、親切心に富む人ほど、上の世界に行くことになります。
上に行くほど、慈愛に溢れています。
けれども、そこまでの霊性に達していない人にとっては、居心地が悪いようです。
自分の思念と合わないのを感じるからです。
ヒエラルキーの頂点に存在するのは「神」です。
けれども、神は独立している存在ではありません。
神は宇宙全体であり、宇宙全体が神です。
私たちも神の一部です。
神の心を持っています。
しかしながら、表現する媒体(自我)が不完全なために、神の心を完全に表現することができません。
自分のいる世界は、どれくらい神の心を表現できるかで決まります。
しばらくすると、今よりも上の世界に行きたくなるようです。
しかし、どんなに行きたくても、その世界に自分が相応しくなければ行くことはできません。
相応しい自分になるためには、成長するしかありません。
困難や障害を乗り越えること、他者のために奉仕をすることで、人は成長します。
地上では生きて行くために、お金が必要です。
お金を得るために、労働しなければいけません。
家事も対価のない労働です。
人や社会や家族のために何かをすることで、生活が成り立っています。
生きていること自体が、成長につながっています。
霊界は地上と違います。
霊界は、肉体の束縛や、人間関係の煩わしさから解放された快適な世界です。
困難や障害が取り除かれている分、地上よりも成長しにくいと考えられます。
誰かのために何かをすることで人は成長しますが、何もしなくても生きて行けます。
奉仕をする意欲に乏しければ、何もせずに過ごしても良いことになります。
それでは成長しません。
このままではいけないことに気付いて、自分を変えようとするのですが、霊界にいたままでは困難です。
自分を大きく変えるために、地上での経験がどうしても必要になります。
奉仕をする意欲を湧き上がらせるような人生が計画されます。
その計画を了承して、母体に宿ります。
もしかしたら、心身に大きな障がいを持って生まれるかもしれません。
大きな障がいがあれば、人の手を借りなければ、生きて行けません。
誰かに奉仕をしてもらう経験を、来る日も来る日もすることになります。
長い時間をかけて、人によって生かされている、1人では生きて行けないという想いを魂に刻んで行きます。
そして、自分が受け続けている奉仕を誰かに返したくなりますが、それもできません。
寿命が来てあの世に行く時が来ます。
肉体はなくなり、自由に何でもできるようになります。
地上時代に蓄積されていた、誰かのために何かをしたいと言う想いを、心ゆくまで表現できるようになります。
魂に刻んでいた想いにより、周りとの調和を大切にしながら生きるようになります。
地上の経験は、あの世に行った時に、奉仕の気持ちを湧き上がらせることにつながると思われます。
このように自分を変えるための計画は、地上でしか得られない経験によって、成就されて行きます。
この世に生まれると、本当に大切なものが視えなくなります。
地上の経験によって、視えなくなった大切なものが明らかになります。
愛より大切なものは、この世界に存在しません。
そのことに気付いた人は、全体のために、より自分を活かせるようになっています。
霊界を離れ、この世に生まれて、さまざまな経験をしているのは、魂を大きく成長させるためです。
全体のために自分を活かす悦びを知り、神の心を自然に表現できるようになれば、地上に生まれる目的の大半は果たされたと考えられます。
地上で学ぶことのなくなった魂は、自律的に霊界で成長するようになり、上の世界へと行けるようになります。
2022年5月22日日曜日
信じることの大切さ
今から、10年位前のことです。
山道を車で走っていると、大きな犬2匹が道端を歩いていました。
周囲に飼い主の姿は見当たりません。
どうやら野良犬のようです。
最寄りのコンビニまで行き、ドッグフードを買って、その犬たちに与えました。
お腹が空いていたのでしょう、ムシャムシャと一気に食べてしまいました。
妻は飼い主のいない犬猫を保護して、新しい飼い主を探す活動をしています。
何とか捕獲して、譲渡できないかと言う話になりました。
慣らすために、次の日から餌を与えに行くことになりました。
ラブラドールは、人のことが大好きな犬種です。
けれども、触ろうとすると、吠えて威嚇しながら、逃げてしまいます。
毎日餌を与え続け、1ヶ月くらい経った頃に、同じ動物愛護団体の人と共に捕獲することになりました。
1人が捕まえて、もう1人が首輪をかける段取りだったそうですが、大きな犬ですので、噛まれたら大けがをする可能性があります。
隅に追い詰めて、突進して逃げようとしたところをヘッドロックをして妻が捕まえたそうです。
首輪がかけられ、捕獲は無事成功しました。
もう1匹のメス犬は、すんなりと保護することができたそうです。
抵抗して噛まれてもおかしくない状況ですが、捕まえた瞬間に大人しくなり、従うようになったそうです。
ヘッドロックされた時に、危害を加える力ではないことを感じ取ったのかもしれません。
2匹を獣医の元に連れて行き検診してもらったところ、病気はありませんでした。
年齢は5,6歳とのことでした。
繁殖犬としてブリーダーに飼われていて、何らかの事情があって捨てられたようです。
人間の身勝手さに憤りを覚えますが、これは決して珍しい話ではありません。
大きな体を維持するために、食べ物を確保するのも大変だったろうと思います。
良くぞ山の中で生き延びていたと、声をかけたくなりました。
オス犬を「ジョン」君、メス犬を「レノン」ちゃんと名付けました。
2匹合わせて、ジョン・レノンです。
私の家で、ジョン君を保護することになりました。
ジョン君には、強い人間不信がありました。
餌もあり、寝床もあるので、いくらかは安心したでしょうが、心を開いてはいませんでした。
家には、保護犬から家族になった親子の3匹がいました。
母犬のしろはジョン君と同じ山を放浪しているところ、保健所に捕獲されて、私の家で引き取ることになりました。
1歳に満たなかったのですが、その時に妊娠していて2匹の子を産みました。
![]() |
我が家のしろ |
この3匹は、家の中で当たり前のように人と触れあい、遊んで、甘えて来ます。
そんな犬たちの姿は、ジョン君にどう映っていたのでしょうか。
今までに見たこともない光景だったと思います。
部屋の中にある自分の小屋から、じっと眺めていました。
見ていて気になったところがありました。
ジョン君は大型犬であり、飼い犬は柴犬位の中型犬です。
ケンカをすれば、勝負は明らかです。
ところが、メス犬の1匹に追い立てられて、体格に優るジョン君は逃げ回っていました。
大きな体格に見合わず、自信がないように見えます。
どうしてだろうと思いました。
両者の間には、決定的な違いがありました。
家の犬は、母犬や人間の愛情を受けて育ちました。
しかし、ジョン君は商売の道具として扱われ、満足な愛情を受けて来なかったと思われます。
自信のあるなしは、性格的なもの以上に、受けて来た愛情のあるなしに関係しているのではないかと思いました。
自分に自信がないと言う人がいます。
そんな人たちの中には、ジョン君のように十分な愛情を受けて来なかった人がいるのではないかと思いました。
幼い時に受けた愛情は、時を経て、生きる力、自分を支える力になると思います。
人も動物も、愛情を持って育てれば、それだけで自信を持って生きて行けるのかもしれません。
ふと、そんなことを思いました。
当然のことながら、犬にも感情はあります。
捨てられたこと、裏切られたことは判っていて、人に対して怒りや哀しみの感情を持っていると思います。
それだからこそ、最初は人が信じられずに、威嚇していたのだと思います。
不信感を取り除き、怒りの感情を鎮めるのは、しつけや指導ではありません。
人間が裏切っておいて、人間が指導したりしつけるなんて、おこがましいような気がします。
ジョン君は、家の犬たちの様子を見ながら、自然に学んで行きました。
「人間は心許せる存在だよ」、「信じられる存在だよ」と、3匹の犬たちから教えてもらったと思います。
元々は、人のことが大好きな犬です。
愛情を受けずに、人に裏切られ、つらい思いをして、信じられなくなっていただけです。
少しずつ心を開いて行き、他の犬たちと一緒に散歩をしたり、遊ぶようになりました。
その後、ネット上でジョン君の飼い主を募集したところ、応募がありました。
東京在住の若いご夫婦でした。
ご主人はプロのスポーツ選手で、チームのリーダー的存在でした。
奥様は心がきれいで、とても優しい人でした。
ご家族にジョン君は加わりましたが、しばらくすると劇的な変化を見せました。
ご主人の力強いリーダーシップに安心し、奥様の明るいオーラに傷ついた心が癒されたのでしょうか、人間不信は完全に払拭され、愛情を求めるようになりました。
山で見つけた時とは、別の犬のようになりました。
お二人とも、ジョン君に心から信じてもらえる人だったのです。
動物の譲渡は人間の手によって行われます。
しかし、保護した動物と新しい飼い主のマッチングは、霊界によって行われていると思います。
霊界は、ジョン君がどのように生きて来たのかを知っています。
そして、これ以上ない人と巡り合わせてくれたと考えています。
偶然などではありません。
愛情を必要としている犬には、愛情に溢れた家族が導かれて来ます。
元気を必要としている家族には、元気を与える犬が導かれて行きます。
双方の目的が合致する犬がモニター上に現れた瞬間に、「この犬だ!」と思わせるインスピレーションが、新しい家族になるべき人に吹き込まれていると思います。
インスピレーションを受け取った人は、一目ぼれのような状態になります。
幸せになった動物たちを見ていると、そんな霊界の導きをひしひしと感じます。
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家で保護していた時のジョン君 |
愛は何よりも大切です。
いくら愛を与えようとしても、相手が受け取ってくれるわけではありません。
まず信じてもらわなければいけません。
信じてもらうことで、心と心はつながり、初めて愛が伝わります。
信じ合うことなしに、愛し合うことはできないのです。
信じてもらおうとするのではなく、信じてもらえる人間に自分がならなければいけないと思いました。
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新しい飼い主さんの家で寛ぐジョン君(奥様のサイトより) |
前半で受けることができなかった愛情を、後半で取り戻すことができました。
人を信じ、大好きになって、ジョン君は霊界へと旅立つことができました。
2022年5月15日日曜日
あの世の存在が証明されない理由
「あの世はない」
「天国とは闇を怖れる人のおとぎ話に過ぎない」
著名な英国の物理学者である、スティーブン・ホーキング博士は、生前そう語っていました。
下のグラフは、あの世があると思っている人がどれ位いるのかの調査結果です。(公益社団法人ホスピス財団のホームページより)
全体の42.4%の人が、あの世があるのかないのか決めかねると答えています。
男性に比べて女性の方が、あの世の存在を信じているようです。
年を取るほど、信じている人が少なくなる傾向にあるようです。
多くの人があの世の存在に懐疑的なのは、客観的に証明されていないためと考えられます。
もし、あの世があるとすれば、魂も存在するはずです。
しかし、魂はこの世のどんな電子機器をもっても、感知することはできません。
その理由は簡単であり、この世のもの(物質)とは次元が異なるからです。
悲しみや喜びを機器で測れませんが、それと同じ理由です。
測れないからと言って、感情の存在を否定する人はいません。
魂やあの世の存在を否定する人は、生命とは肉体であり、脳波が平坦になったら全てが終わると思っています。
現実は、終わりになることはありません。
新たな環境で、生命活動は続いています。
けれども、そんな人は意識があるので、この世を生きていると錯覚してしまいます。
自分の身に起きている変化について理解ができません。
(地上の人に)しゃべりかけても無反応です。
物に触ろうとしても、指が素通りしてしまいます。
景色が薄ぼんやりとして、はっきりと視えません。
ふと、周囲を見回すと、自分の存在を認識している人たちがいます。
良く見ると、先に逝った人たちです。
しばらくの間、再会の悦びを分かち合います。
その人たちから、もうこの世の人間でないことを告げられるでしょう。
地上では、自分の葬式が挙げられて、動かなくなった肉体が荼毘に付されます。
それなのに、依然として意識があります。
骨になった自分を見て、自分の本質は肉体でなかったことに気付きます。
このようにして、起きたことを少しずつ理解して行き、新しい世界での生活が始まって行きます。
それでも現実に起きていることを頑なに否定し、この世に生きていると思い続けるのなら、新しい環境に馴染むことはありません。
いわゆる地縛的な状態となります。
こんな面倒なことが起きないためにも、あの世の存在が客観的に証明されて、死に備えることができれば良いのにと思う時があります。
証明されれば、それにより恩恵を受ける人もたくさんいます。
大切な人を失い悲しみや苦しみに打ちひしがれている人に、あの世の存在が証明され、そこで故人が生きていて、また会えることが判れば、どれほど癒されるでしょう。
しかし同時にリスクを伴います。
あの世で生きているのなら、自分もそこに行きたいと思うかもしれません。
逢いたい気持ちを抑え切れなくなり、行動に移す人もいるでしょう。
災難が降りかかり、精神的に追いつめられた人がいます。
もし、そんな人にあの世があることがはっきりと判ったら、つらいこの世に別れを告げてしまうかもしれません。
あの世は素晴らしい世界のようです。
食べて行くために働く必要はなくなります。
煩わしい人間関係も一切なくなります。
嘘のように生きるのが楽になります。
その様子がはっきりと判ったら、この世を生きているのが馬鹿らしくなり、さっさとあの世に行ってしまう人も少なくないと思います。
人間は、それほど強くありません。
あの世のことが判るほど、死の誘惑に負けてしまう人が多くなると考えられます。
人は、学び成長するために、この世に生まれて来ています。
この世で遭遇する出来事を乗り越えること、人や動物や社会のために奉仕をすることで成長して行きます。
強く、優しくなるためです。
成長するために、生まれる前に計画されていた出来事が起こりますが、そのことはすっかり忘れています。
ぎりぎりまで追いつめられたとしても、何とか乗り越えて行くと誓って、この世に生まれて来たのです。
そうとは知らずに、あまりにもつらくて、死の誘惑に負けてしまったら、どうなるのでしょうか?
待っているのは暗闇です。
死ぬ直前のつらい状態はそのままです。
大きな過ちを犯してしまったことに気付くことになります。
そして、深い後悔に襲われます。
およその寿命は決まっています。
この世に生まれた目的を無事に果たしたら、自然に肉体から魂が離れて、あの世に行くようになっています。
目的を果たさないうちに、自分の意志であの世に行くことは、自然法則に反しているので、絶対に許されないのです。
どんなにつらくても、その時が来るまで、生きなければいけません。
どれ位の間、暗闇に閉じ込められるのかは、自然法則(神)によって厳格に計られます。
何よりも行動を起こした動機が問われますが、人に良くしたり、世の中のために貢献した人は、(功罪が相殺され)その分短くなると考えられます。
暗闇から抜け出した後は、後悔を晴らすために、もう1度この世に生まれて来ることになるでしょう。
罪を償うために、前生以上に、死の誘惑を伴うような出来事を経験する人生を歩むことになると考えられます。
自然法則の働きによって、そのような顛末が待ち受けています。
無知ほど恐いものはありません。
あの世があることがはっきりと判ってしまったら、このような自然法則の働きなど知らずに、そちらに行こうとする人が後を断たないような気がします。
そう考えると、自然法則の働きを知らない人がいるうちは、あの世の存在は証明されない方が良いのかもしれません。
先が見えていない方が、この世にしがみついて生きようとすると思います。
ところで、前述の調査結果の中で、1つ疑問に感じたことがありました。
それは、年を取るほど、あの世の存在を信じなくなることです。
死が近づくほど、あの世を身近に感じるようになると思っていたので意外でした。
その理由は定かではありませんが、霊界からの働きかけもあるのではないかと思いました。
死んだ後のことが気になり、あれこれと考えるよりも、残り少ない人生を有意義に生きることの方がずっと大切なので、敢えて信じさせないようなインスピレーションを送っているような気がしています。
誰もがあの世に行きます。
冒頭のホーキング博士もそこにいます。
不自由な肉体から解放され、さぞ感激されたでしょう。
想像もしていなかった世界が広がっていて、神の法則が働いていることがはっきりと判り、きっと驚嘆されたと思います。
あの世の存在は、今のところ証明されていません。
自然法則の働きを知らずに、過ちを犯してしまうことがないように、証明されるべきものではないと思います。
2022年5月8日日曜日
神の目的
以前は、神の存在を信じていませんでした。
信じていないよりも、関心がなかったと言う方が正確かもしれません。
神は、宗教に関わる人たちがこだわっている概念であり、一生関係ないだろうと思っていました。
存在を確かめようがないものを、信じることはできませんでした。
シルバーバーチの霊訓と出会い、初めて神について思いを巡らすようになりました。
今は神の存在を信じています。
神とは法則です。
神の心が法則となって顕現しています。
法則が働いているのは、誰もが知っています。
有名なのは、万有引力の法則です。
もし、この法則が働いていなければ、地面に立つことはできず、空に向かて石を投げても落ちて来ることはありません
地球が太陽の周りを回ることもなく、生命は誕生しなかったでしょう。
法則によって、宇宙は経綸され、秩序が保たれています。
全ての自然現象は、法則の働きにより起きています。
生まれるのも死ぬのも、自然現象の一環です。
病気もそうです。
神を信じる、信じないにかかわらず、人生のあらゆる局面に法則は働いています。
人は肉体だけの存在ではありません。
肉体を動かしているのは精神です。
その高次に、霊(魂)が存在しています。
精神とは、真の自分である霊(魂)と肉体の間に介在している媒体です。
霊(魂)、精神、肉体の3つが連動しながら、私たちは地上を生きています。
霊、精神、肉体、存在している次元はそれぞれ違います。
働いている法則も、それぞれ違います。
精神的次元の法則が働いて、精神に変化を起こします。
物質的次元の法則が働いて、肉体に変化を起こします。
例えば、褒められたら笑顔になるのもそうです。
褒められたらうれしくなるのは、精神的次元の法則の働きによるものです。
うれしいと笑顔になるのは、肉体的次元の法則の働きによるものです。
褒められたら笑顔になるのは、2つの次元の法則が同時に働いた結果です。
そして、原因に対して同じような結果が起きるのは、因果律という霊的次元の法則が働いているからです。
根底にあるのは霊的次元の法則ですが、それぞれの次元の法則が密接に関連し合いながら、現象が起きています。
法則を創ったのと、私たちを創った存在は同じです。
その存在を、神と呼ぶことにします。
私たち人間には、自由意志が与えられています。
自由意志があるため、望ましくない方向に進んでしまうこともあります。
進み続けないために、法則が働いています。
法則に反した行いをすると、因果律の働きにより、苦しみや痛みを伴う現象が起こります。
苦しみや痛みを感じるのが嫌なので、最終的には法則に従うことになります。
神は法則によって、私たちを意図する方向に導いています。
霊的真理を学ぶ中で、理解に苦しんだことがあります。
それは「あなた自身も神」と書かれていたことです。
自分が神であるはずがないと思い、少し混乱しました。
別のところでは、こうも書かれていました。
「良心とは内在する神のモニター(監視装置)」
良心は確かに存在しています。
間違ったことをしようとすると、心の中で何かが訴えているのが判ります。
訴えを言葉にするならば「してはいけない」になるでしょう。
心に強いブレーキがかかるのを感じる時があります。
溺れている人がいたら、助けなければと思います。
棄てられた子猫がないていると、何とかしてやりたくなります。
それも、自分の中に良心が存在するからです。
神は、良心という形となって、私たちの心に顕現しています。
身の危険を顧みずに助けようとする人がいますが、その人を通して、神の心が顕現しています。
行動するのか、しないのかを決定しているのは、自分です。
その自分を地上的な自我(以下自我)と呼ぶことにします。
精神的次元に形成された自我は、物質的次元の肉体や外部環境から大きな影響を受けています。
そして、安全に快適に地上を生きることを志向しています。
溺れている人を助けようとして、二の足を踏んでしまうのは、自我の働きによるものです。
良心の声に抵抗し、時に無視をします。
私の身に起きた苦痛を伴う出来事も、良心の声がしていたのに、自我が適当な理由を付けて、無視してしまったために起きました。
良心に従わないと、痛い思いをする。
自らの経験を通して、自分の中に良心という神がいると思うようになりました。
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約300年前に作られたストラディヴァリウス |
バイオリンの名器にストラディヴァリウスと言うのがあります。
名手が弾いたら、素晴らしい演奏になります。
素人である私が弾いたら、聴くに堪えない雑音になります。
どんな素晴らしい楽器を持っていても、それを表現する人の技術が未熟であれば、特性は活かされません。
私は神を宿しています。
しかしながら、表現している自分(自我)があまりにも未熟なために、神の心とは程遠い表現になっています。
時に、真逆の怒りや嫉妬を表現してしまうこともあります。
楽器を弾くのは、一朝一夕には行きません。
演奏技術を身に付けるためには、日々、練習しなければいけません。
練習することなしに演奏の上達がないように、経験することなしに魂の成長はありません。
未熟な私が、完全(神)に近づくために、相応の経験をして行くことになります。
地上でしか起こり得ない出来事を経験するために、計画的に生まれて来たのです。
強くなるために、困難や障害を経験しているのかもしれません。
優しくなるために、悲しみや苦しみを伴う経験をしているのかもしれません。
さまざまな出来事を経験することによって、魂は鍛えられ、学び成長し、より神に近い心を表現するようになって行きます。
神の心は愛です。
魂と魂を引き付ける力が愛です。
神は、物質的にばらばらになった個と個を、愛の力によって、再び1つにさせようとしています。
そのために法則は働いています。
自我が取り払われ、完全な神の心を表現するようになるのには、永遠の時が必要です。
1つになるまで、私たちは果てしなく生き続けます。
2022年5月1日日曜日
カルマについて
「カルマ」と言う言葉を知ったのは、今から27年前です。
地下鉄サリン事件が起こり、主謀者が被害者は「カルマを清算するために死んだ」と言っていました。
得体の知れない宗教団体の教祖が、無茶苦茶なことを言っていると、その時は思いました。
それから10年の月日が流れ、霊的真理と出会いました。
カルマは宗教が作り出した、架空の概念ではないことを知りました。
自然法則の働きによって、実際に生じています。
私自身に起きた出来事を通して、因果律の働きとカルマの存在を実感しました。
自然法則に反した行いをすると、自動的にカルマが生じます。
カルマは自然に消滅するものではありません。
何かしらの苦痛を伴う結果を生じさせます。
病気や障がいの多くはカルマによって生じると思われていますが、自然法則に反した行いをしていたとは限りません。
さらなる魂の向上を志願して、病気や障がいが生じる身体に宿ることもあります。
ある日突然、降って湧いたように出来事が起きて、それが苦痛を伴うものであれば、カルマの存在を否定できません。
私たちが知ることのできるのは、この世の人生だけです。
原因が全く判らないのであれば、生まれる前にあるのかもしれません。
もし、死んだら終わりと考えるのなら、カルマなど存在しません。
起きること全てが偶然です。
運が悪かったと諦めるしかありません。
死後にも生があります。
生まれる前にも生があります。
そのことを認められるなら、偶然ではなく、生まれる前に何か原因があって、因果律の働きによって、この世に結果が生じていることを認められるはずです。
カルマの解消は、償いであると同時に学びです。
自然法則の働きを、苦痛を通して学んでいます。
霊的な法則を、言葉で表現するのは難しいです。
神の摂理は愛です。
愛を表現するのを妨げることは、自然法則に反しています。
疑うこともそうです。
地上では人の心の中が判りません。
どうしても疑ってしまいます。
神が求めているのは信じることです。
信じなければ、魂はつながらず、対象に愛を表現することができません。
疑うことにより、望ましくない結果が生じます。
そのことは、今、起きている戦争を見れば明らかです。
疑いから怖れが生まれ、怖れから逃れるために、力によって屈服させようとしています。
神の摂理に反する行いに対して、苦痛を伴なう結果が生じます。
今の苦痛は相手のせいと思ってしまうと、それが新たな怒りや憎しみを生じさせることになり、さらに苦痛が増長されることになります。
その想いを行動によって表現すれば、攻撃的なものとなり、それにより新たなカルマが生じて、それが苦痛となって自分に返ってきます。
悪循環を断ち切るためには、他者のせいにするのを止めなければいけません。
カルマが解消されないうちは、学ぶことができずに、苦しむことになります。
どうしようもなくなった時に、魂が目覚め、真実がひらめきによって提示されるかもしれません。
「苦しみの原因は自分にあり、自分自身が変わらなければ続くことになる」
そのことを学んだ瞬間、自分が変わり始め、苦しみから解放されて行きます。
全ての出来事は、自分を成長させるために起きています。
自然法則の働きによるものであり、そこに神の意志が反映されています。
カルマが解消されるまで、成長が許されません。
償いが終わるまで、自分が変ることが許されません。
自然法則の働きを学ぶことが許されません。
例えば、人を裏切り、貶めた人がいたとします。
その行為は自然法則に反しているので、どこかで因果律が働いて、苦痛を伴う結果が生じます。
今生で生じなければ、次の地上の人生に持ち越されます。
ある日、何かに裏切られることになるかもしれません。
原因が過去の人生あり、因果律が働いていたとは思いません。
人や社会を恨んだりします。
あるいは、運命を呪ったりするかもしれません。
その想いが、自分の成長を妨げることになります。
愛を表現すること(誰かのために何かをすること)で、人は成長します。
憎しみや恨みを抱いているのに、他者に愛を表現することができるでしょうか?
怒りや憎しみや恨みの感情が生じているうちは、成長ができなくなります。
その感情は、自分の行為により相手に与えた感情と同じものであり、同じ大きさになります。
怒りや憎しみや恨みの感情は、自らのカルマによって作り出されている可能性があります。
周りのせいではなく、身に起きた出来事の原因は自分自身にある可能性があります。
神の叡智は完璧です。
罪を自覚させ、改めるような出来事を生じさせます。
償いに過不足はありません。
カルマが大きいほど、その感情が強くなり、長く続きます。
感情に苛まれ、苦しむことが、過去の行為の償いとなっています。
感情が消えて行き、苦しみから解放されたのなら、償いが終わる時が来たのです。
人を苦しめることになる、過去に自分がしていた行為は、絶対にしないという心境になります。
このようにカルマは解消され、最後に学びへとつながっています。
2022年4月24日日曜日
問われる時が来る
若い時は、何で生きているのかが判りませんでした。
頑張って何かを成し遂げたとしても、死んでしまえば同じだろうと思っていました。
それでも、周りの人は頑張って生きているように見えました。
どうしてそんなに頑張れるのだろう?と、不思議に思った覚えがあります。
霊的真理を知り、生きている目的が判りました。
目的は1つであり、自分を成長させるためです。
本当の自分、生命の本質は目に視えない「魂」です。
頑張ろうとするのは、魂が成長しようとしているからだと思います。
ところで、魂の成長とは何でしょう?
平たく言えば、強く、優しくなることだと私は思っています。
魂の資質には、思いやり、優しさ、寛容、協調などがあると言われています。
全て、愛が形を変えたものです。
完全な人は、地上のどこにもいません。
誰もが、どこかに欠けている部分があるはずです。
欠けている部分を、身に付けるために、地上に生まれて来ます。
そのための計画が立てられ、およその人生が決まります。
欠けている部分や、身に付ける手段は、人それぞれ違います。
一人一人の人生が違うのは当然です。
例えば、優しさに欠けている人がいたとします。
そんな人は、地上に生まれて、自分の力ではどうすることもできない、窮地に追い込まれる経験をするかもしれません。
絶体絶命になった時に、救いの手が差し伸べられれば、優しさの意味が身に沁みて判ると思います。
自分がされたことを、今度は人にするようになるでしょう。
寛容さに欠けている人であれば、既に身に付けている人の元に生まれて、間近で学びながら、自らも実践して行くようになるかもしれません。
あるいは、不寛容な行いによって、苦痛を伴う結果が生じて、改めて行くかもしれません。
協調性に欠けている人であれば、自分勝手な行動により大失態を犯して、大変な思いをする中で、周りと足並みを揃えることを覚えるかもしれません。
十分な資質を身に付けているのに、それを表現する強さに欠けている人がいたとします。
そんな人は、逆境に生まれたり、逃げることのできない困難や障害に遭遇し、それを克服して行くことで、魂の強さを身に付けて行くのかもしれません。
欠けている部分を身に付けるために、最適な経験をすることになります。
人生のどの時点で、どんな経験をするのかは、誰にも判りません、
それは突然であり、思いもよらぬ出来事かもしれません。
出来事が起きた時に、何で自分がと思います。
原因を探しますが、生まれる前に計画していたことであれば、見つかるはずはなく、偶然としか思えません。
「(若い時の)苦労は買ってでもしろ」と言う諺があります。
その人の成長につながり、先で活かされるからです。
分岐点に差し掛かった時に、楽な方ではなく、敢えて苦しい方に進んで行くこともあります。
苦しい方を選ぶことが、計画されていたのかもしれません。
後で、成長する機会を逃したと、後悔したくないからだと思います。
人生は死後も続いています。
霊界に行くと、視点が全く違って来ます。
苦しくて仕方なかった出来事は、何かを学んで、自分を成長させるために起きていたことが判ります。
現実は変えられません。
周りを変えることもできません。
変えることができるのは自分だけです。
苦しみや痛みは、自分が変わるための触媒としての役割を果たしています。
もし、不運を嘆いたり、運命を呪ったり、怒りをぶつけているのであれば、変わろうとする力が奪われてしまっています。
いつまでも変われないために、苦しみが続いてしまいます。
苦しみは絶対的なものではなく、主観的なものです。
自分が成長することで、苦しみに対する閾値が高くなり、感じにくくなるはずです。
出来事が起きた目的が成就されたのならば、苦しみから解放されるはずです。
受け入れることが、変わるための前提条件です。
目的があって起きていると、強く信じて下さい。
起きた出来事を、どのように考えるのかは自由です。
偶然と思うのも、不幸と思うのも、不公平と思うのも自由です。
しかし、そう思うと様々な感情が生じて苦しむことになります。
その考えが間違っているのかもしれません。
間違いを正すために、苦しみが生じているのかもしれません。
偶然でも、不幸なことでもありません。
自分が変わるために、自分が了承した上で、起きている可能性があります。
不公平だと思うのは早合点です。
霊的な学びや成長が得られることで、完全な公平が保たれています。
成長することが、生きている目的そのものです。
死んだ後に、この世の人生が問われます。
自分が行ったこと、言ったこと、思ったことは、全てオーラに刻み込まれています。
生まれてから死ぬまでの全人生を振り返る時が来ます。
後悔したくないと思うのは、その時が来るからです。
不幸な出来事と決めつけ、いつまでも嘆き悲しんでいる自分、運命を呪っている自分を見て、いたたまれない気持ちになるかもしれません。
望ましい方向に変わると自分自身が決めていたのに、それを妨げてしまう感情に支配されて、計画通りに行かなかったことに愕然とするかもしれません。
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全ての出来事は、自然法則の働きによって起きています。
自然法則は完全な叡智により創られ、完全な愛が表現されています。
全ての生命は、自然法則の働きによって、完全(神)に向かって進化しています。
完全(神)に程遠い、未熟な私たちが進化するために、苦しみや痛みを伴う出来事を経験することのできる地上に生まれる必要があったのです。
人生が変わるほどの出来事は、人間を変えるために起きているのかもしれません。
2022年4月17日日曜日
勇気が怖れを打ち消す
人にはたくさんの感情があります。
できれば喜びだけを感じていたいものですが、そんなわけには行きません。
怒りや悲しみなど、負と言われる感情を感じる時もあります。
中でも厄介な感情は「怖れ」です。
心配も不安も、取り越し苦労も、元は怖れから生じていると考えられます。
どんな時に、怖れは生じるのでしょうか?
自分に何らかの不利益を被る可能性があると想像した時に生じると思います。
肉体的に傷つくかもしれない事象、例えば戦争を体験している時、あるいは起きそうな時に生じると思います。
天変地異を怖れることもあります。
精神的に苦痛をもたらす人に対して怖れを感じる時もあるでしょう。
失敗を怖れることもあります。
頭の中が怖れでいっぱいになる時があります。
病気の人は、この先どうなってしまうのかと、怖れを抱くことがあります。
銃弾や爆弾による攻撃を受けていれば、死への怖れは強烈なものになります。
怖れに支配されると、思考が停止し、何も考えられなくなります。
生きる力も奪われてしまいます。
怖れは、肉体と密接に関連した、自己を守るためにある地上的な感情です。
死ぬと肉体がなくなります。
それに伴って、肉体に関わる怖れから解放されます。
天国と呼ぶのは、心配、不安などが取り払われた世界だからだと思います。
誰も、肉体的にも精神的にも傷つきたくありません。
苦痛を与えるものを怖れ、避けようとします。
しかし、避けられない出来事に遭遇することもあります。
病気になり、リスクを伴う手術を受けなければいけない時があります。
戦争で大切なものを守らなければいけない時があります。
責任のある仕事を任される時もあります。
そんな時はどうすれば良いのか?
使い古された表現になりますが、「勇気」を出して臨むしかありません。
押しつぶされそうになる自分を救ってくれるのが勇気です。
勇気は、困難に立ち向かって行く意志です。
意志なので、勝手に生まれて来るものではありません。
能動的に出すものです。
以前、私は怖れを感じる状況に追い込まれました。
その時、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)と出会いました。
「乗り越えられない困難(試練)は与えられない」
この一節を、強く信じることによって勇気が出ました。
勇気という力が、怖れを打ち砕いてくれました。
もし、生存率50%の手術を受けるとしたらどうでしょう。
半分の確率で死んでしまうのであれば、死への怖れは相当なものになります。
勇気を出さなければ、とても臨めるものではありません。
最初の一歩を踏み出させる力が勇気です。
けれども、こんな疑問が生じるかもしれません。
乗り越えられない困難は与えられないのであれば、もし手術を受けて死んでしまったとしたら矛盾しているのではないか?
肉体を失う可能性があることは、大きな怖れを生じさせます。
苦しみや痛みを伴うものであれば、なおさらです。
肉体が失われたとしても、本当の自分は全く失われません。
次の世界へ移行するだけです。
霊的に大切なのは、肉体にかかわることではなく、肉体を持つがゆえに生じる怖れを、克服しようとすることです。
乗り越えられないとは、死んでしまうことではありません。
怖れに負けて、前に進んで行けないことです。
極限に近い怖れを克服している人がいます。
ポーランドに、マキシミリアノ・マリア・ゴルベ(1894~1941)と言う神父がいました。
自らが広めていた教えが、占領していたナチスの思想と反するために、捕らえられてアウシュビッツ収容所に送られました。
そこで強制労働をする中で、グループの1人が逃げ出してしまい、同じグループの10人が連帯責任を取らされることになりました。
それは水も食べ物も与えられない飢餓監房に入れて死なせるという残酷なものでした。
無作為に選ばれた10人の中に、残してきた家族のことを思い泣き出した男性がいました。
それを見ていたゴルベ神父は、その人の身代わりになると申し出ました。
周囲は驚きましたが、その願いは受け入れられ監房に入ったそうです。
一緒に入られた人たちを、死ぬ時まで励まし続けたそうです。
苦しんだ末に死ぬのが判っていれば、怖ろしくて身代わりになる気など起こりません。
それができたのは、神への全幅の信頼があったからと思います。
怖れを打ち消すだけの愛があったと思います。
霊界の存在から送られていた援助の力によって、勇気が増幅されていたと思います。
私たちは、自分を成長させるために生きています。
生まれる前に決めていた出来事を経験し、霊的に大切なことを学び、魂が成長して行きます。
地上では先が見通せず、何が起きるか分かりません。
苦痛を伴う出来事を乗り越えて行くためには、勇気を出すことが強いられます。
肉体に関わる怖れが取り払われている次の世界では、勇気を出す機会は地上より乏しいと思います。
地上で培った勇気は、次の世界で活かされます。
次の世界は思念の世界です。
思念を持続させるものが意志です。
意志がなければ何も始まらず、何も表現できません。
他者のために表現しなければ、成長することができません。
地上で発揮した勇気は、次の世界において表現しようとする意志を強固なものにします。
勇気を出すことは、次の世界での成長を促すことにつながっていると思います。
一人で生きているのではありません。
成長するために霊的な存在が付いています。
人生を分かち合っている同胞です。
勇気がどうしても必要な時には結びつきを深めましょう。
霊界の存在と共に生きていると、強く信じて下さい。
内から力が湧き出し、それが勇気となるはずです。
精神から生まれる怖れよりも、魂から生まれる勇気の方が強いのです。
どんなことが起きようとも良きに計らわれている、そして霊界から乗り越える力を授かっていると強く信じることによって、怖れを大幅に減じることができると思います。
勇気を出して進んで行けたのなら、その出来事は半分以上乗り越えています。
2022年4月10日日曜日
計画的に学んでいる
若い時は、死は遠い先のことと考えていました。
60才になった今、そう遠くない出来事であり、もしかしたら数年後になるかもしれないと思うようになりました。
霊的真理により、死の理解が深まりました。
およその寿命は決まっているようです。
2022年4月3日日曜日
心の痛み
仕事で毎日のように虫歯の治療をしています。
ご存知のように虫歯は痛みを伴います。
ひどくなると夜眠れなくなったり、日常生活に大きな支障を来すこともあります。
痛みに耐えられなくなって、来院する人も少なくありません。
もし、痛みを感じなかったとしたらどうでしょう?
虫歯が進んでも気付かず、最終的には歯を失ってしまう可能性があります。
痛みは、身体に異変が起きていることを知らせる大切なシグナルと言えます。
甘いものが好きだったり、ブラッシングを疎かにすると虫歯が生じます。
痛いのは嫌なので、多くの患者さんは甘いものを控えたり、ブラッシングを丁寧にするようになります。
痛みを通して、誤った生活習慣を正していると言えます。
苦痛を感じるのは肉体だけではありません。
心も感じます。
他者から傷つくような言動を受ければ苦痛を感じます。
自分で自分を責めてしまっても苦痛を感じます。
人が傷ついたり、殺されたり、街が壊されたりしているのを見ても、心に痛みのようなものを感じます。
どうしてなのでしょう?
悪いことをしてはいけない、嘘をついてはいけない、人を傷つけてはいけないなど、やってはいけないと思うのは、親から教えられただけではありません。
人は、生まれながらに良心が備わっています。
良心とは、私たちに顕現している神です。
人を傷つけるのは自然法則に反した行いであり、自分の中にある良心が痛みを感じていると考えられます。
人は霊的な存在です。
肉体は別々であっても、霊的につながっています。
そのつながりを通して、無意識のうちに想いを受け取っています。
言葉を交わさなくても、人の想いを察する時があるのはそのためです。
人が感じている苦痛を、自分のことのように感じることがあります。
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NASA(RF)の画像 |
宇宙空間から見れば、地球は1つの美しい生命体のようです。
どこを探しても国境線などありません。
人間が勝手に作った国という概念によって、無用な争いが起きています。
今日、コロナウィルスが地球全体に広がっています。
ウィルスに国境は存在しません、
人間同士はつながっていて、一体であることを物語っています。
戦争は、全体の一部が深い傷を負ったようなものです。
遠く離れていても、全体の一部で起きていることに変わりありません。
霊的につながっているので、痛みを感じると考えられます。
国、人種、言語、宗教などが違っていても、人は同じものを愛しく思い、同じものを悲しみ、同じものを恐れます。
人間の本質は、同じ魂だからです。
その魂に神が宿っています。
神(良心)の声を無視して自然法則に反した行いをすると、因果律が働いて、苦痛を伴う事象が生じます。
そこから免れるためには、自然法則の働きを学んで、従うしかありません。
苦痛を通して、神が望んでいる方向に、私たちは導かれています。
一時的に悪い方向に進んだとしても、最終的には正しい方向に進んで行きます。
私たちの中にいる良心(神)が、悪い方向に進んで行くと、心に痛みを覚えるからです。
過去よりも現在の方が、総じて霊的に進化しています。
それに伴い、人や動物を傷つけることに対して、より心の痛みを感じるようになっていると思います。
何が正しいのか、過っているのかが、以前よりもはっきりと判っている人が多くなっているはずです。
私たちにできるのは、戦争が早く終わるのを祈るくらいなのかもしれません。
その祈りは霊界に届いています。
霊界の人たちが手をこまねいているはずはなく、あらゆる手段を講じて終わらせようとしています。
戦争に関わっている人たちに、良心の呵責を生じさせるような思念を吹き込んでいると思います。
それにより、銃の引き金を引きたくない、ミサイルのボタンを押したくない衝動にかられるでしょう。
上官の命令に逆らって、良心の声に従っている兵士も出て来ていると信じています。
戦争は誰にも知られる事実です。
しかし、世界には誰にも知られず、助けを求めている人たちがたくさんいます。
私の子供の頃から、飢えや疫病に苦しんでいる人たちがいました。
最初に知った時「可哀想だから、何とかしてやりたい」と痛みのようなものを感じました。
時が経ち、その事実が当たり前のようになると、何も感じなくなって行きました。
それは、とても恐いことだと思います。
自分だけ、自国だけが、平和で豊かであれば良いと言う時代は終わろうとしています。
個のことばかりを考えている限り、人間を悩ませる事象が次々と生じます。
全体で考えない限り、根本的に解決しないでしょう。
個は全体のために存在しています。
全体のために何かの役割を果たすように、個が創られています。
ミクロからマクロに至るまで、個と個が協調することで、全体に調和がもたらされます。
私たちは霊的に1つです。
生命はつながっています。
心の痛みは、そのことを教えていると思います。