2023年7月30日日曜日

寿命が近づいている父を見て思うこと


私の父は、現在96歳です。

数か月前までは、会話もしっかりと出来て、車いすで自力で動くこともできていました。

しかし、今は眠っていることが多くなり、会話もおぼつかなくなりました。



眠っている時には、魂は肉体を抜け出して、向こうの世界に行っています。

それは、死んだ後に、向こうの世界にすんなりと順応するための、神の配慮と言われています。

生前仲の良かった、随分前に他界した親戚に会ったと言うようになりました。

起きたら忘れてしまうのがほとんどですが、肉体(脳)の機能が衰えて来たので、向こうの世界での出来事を覚えているのだと思います。

日中、長い時間眠っている父の姿を見ていて、別れの時が近づいていると感じています。



父と私ですが、昔は良く対立をしていました。

くだらないことから大切なことまで、ことごとく意見が食い違ってしまい、何で判り合えないんだと嘆いたものです。

それは、ありのままの自分をぶつけられる親しい間柄であり、自分のことを理解してもらいたい存在だったことの裏返しです。

最近になって、ようやくそのことを気づきました。

やはり、喧嘩するほど仲が良いのです。



育ててもらい、今の仕事に就かせてくれたことに対する感謝の思いしかありません。

けれども、かしこまって伝えてしまうと、別れの時が直ぐに来そうな気がして、躊躇しています。

朗らかな顔になったのは、自我が弱くなり、この世への執着が少なくなって来たからと感じています。

以前のような顔つきに戻り、執着を持って欲しいと思う自分がいます。



それでも、その時は来ます。

死は衰えた肉体からの解放です。

元いた世界に戻れるのであり、喜ばしいことです。

永久の別れでもありません。

死んだらまた会えます。

自分の想いは、言葉を介さず直接届くようになります。

生前よりも、深く理解してもらえるようになります。

いざと言う時には、導いてくれるでしょう。

分っているのですが、いつも当たり前のようにいた存在がこの世からいなくなると思うと、何とも言えない気持ちになります。



現実主義者の父は宗教とは無縁であり、霊的なことに全く関心がありませんでした。

死後にも生があることを父に伝えてありますが、どう受け取っていたのか分かりません。

死を意識するようになった今、そうあって欲しいと思っているのかもしれません。



動けなくなるまでの60数年間、父は真剣に仕事と向かい合って来ました。

シルバーバーチの霊訓にはこうあります。

「奉仕に勝る宗教はありません。人のために自分を役立てることは尊いことです。あなたの望み通りの分野ではなくても、人のためになると思うことを、その時その時に行えばよろしい。」

仕事も家事も、立派な奉仕です。

道に落ちているゴミを拾うのも、お年寄りを手伝うのも奉仕です。

人や動物や社会のために何かをすれば奉仕です。

この世界は奉仕をする機会に溢れています。

神など全く信じていない父でしたが、仕事を通して神(全体)に奉仕をして来たと思います。

その中で、たくさんの教訓を得て来たと思います。



長く続く家の跡取り息子であった父は、若い時にわけあって郷里を離れ、2度と戻ることはありませんでした。

生まれ育った家は取り壊されて、もうありません。

良心が咎めていたのでしょうか、そのことを悔いているようです。



怒りなどの感情は、時間の経過と共に薄れます。

けれども、悔いはいつまでも残るものと、父を見ていて思います。

死んで向こうの世界に行っても、悔いは残るようです。

それを晴らすために、もう1度地上に生まれる人は少なくないようです。



父と同じくらい生きるのであれば、私の人生は残り1/3です。

この世に悔いを残さないために、自分の役割りを果たしたいと思います。

真理の普及は、霊界主導で行われます。

霊界の人たちは、地上の人に直接、真理を伝えることができません。

そのため真理を受け入れる準備ができた人を、知っている地上の人たちの元に導いて来ます。

知っている人は、導かれて来た人に伝える役割りがあるのです。



人生が少なくなって来ても焦る必要はないのかもしれません。

人のために役に立ちたい、真理を伝えたいという意志を明確に持ち続けていれば、その意志に応じた過不足のない機会が与えられるはずです。

「準備ができているので導いて来て下さい」と伝えることで、霊界側が動き出します。

直ぐに導かれて来ることもありますが、忘れた頃に訪ねて来ることもあります。

何よりも大切なのは、伝えたいという想いを持ち続けることです。



ドアを押してみてすぐに開けば、その道を行きなさい。カギのかかったドアをしつこく叩いてはいけません。時間とエネルギーの無駄です。」

シルバーバーチはこう言っています。

これからも、いろいろなドアを押してみようと思っています。

開いたら、前に進んで行こうと思います。



私にも、その時は来ます。

やるだけのことはやったと、思いながら迎えたいです。

刻々と寿命が近づいている父を見ていて、そう思いました。







2023年7月23日日曜日

カルマについて


「カルマ」という言葉を知ったのは、30年くらい前です。

得体の知れない宗教団体の教祖がテレビで口にしていました。

ありもしないことを言って、人を怯えさせているように思えて、拒否反応を示したのを覚えています。



霊的真理を知った今、カルマが存在することを認めています。

当初は、悪い行いをすると、苦しんだり痛い思いをして、罪を償うことだと思っていました。

それから、少しずつ考えが変わって来ています。



1+1=2 2×2=4 

この数式を変えることはできません。

それと同じように、自分の取った行動、自分の発した言葉、そして外に出ない自分の想いまでもが自然法則に計られて、数学的な正確さを持って、変えることのできない結果を生じさせます。



お酒を飲み過ぎると、肝臓が悪くなるのもそうです。

嘘をつくと、信用されなくなるのもそうです。

悲しくなると、涙が出るのもそうです。

当たり前のように感じられますが、それぞれの原因(行いや想い)に対し、決められた結果(現象)が自然法則の働きによって起きています。

見方を変えると、起きている現象には、何かしらの原因が存在していることになります。



死んだら人生が終わるわけではありません。

生まれる前にも人生があり、死んだ後にも人生は続いています。

生まれる前にあった原因が、この人生において結果として起きていることがあります。

けれども、ほとんどの場合、原因を知ることはできません。

知ることができなければ、偶然として片付けるしかありません。



何の前触れもなく、原因も分からずに起きる出来事、例えば現代医学で治癒が見込めない病気に突然なることもあるでしょう。

苦しみや痛みを感じながら生きることが、過去生で作った原因の償い(結果)となっている時があります。



けれども、全ての病気が償いのために生じているわけではありません。

学びや成長のために、自らが志願して病気になる場合もあります。

また、本来の自分の生き方を取り戻すために病気になる人もいます。



償いのために病気になったのでなければ、良い方向へと自分が変わるはずです。

変わる目的を果たしたのならば、病気が存在する意味はなくなり、治るはずです。

たとえ、肉体上の病気が治らなかったとしても、今までような苦しみや痛みは感じられなくなるはずです。



川の中で、1ヵ所に留まっていると、水の流れによる圧力を受けます。

流れに従えば、圧力を受けることはありません。

私たちは、霊的に成長するように定められています。

変わらずに、留まっていようとすると、苦痛を感じるようになっています。

もし苦痛を感じているのであれば、変わることを促されている可能性があります。



カルマによる償いの本質は、肉体的な苦痛を経験することではないと考えられます。

変わりたくても変われない、成長したくても成長できないことから生じる、霊的な苦痛と考えられます。



変わりたいけれども、どうしても変われない自分がいるとすれば、知ることのできない原因が存在しているのかもしれません。

変われない苦痛を、今生で享受しているのかもしれません。

地上を生きている人には、多かれ少なかれそんなところがあると思います。



自分の性分は、自分では変えられません。

自然法則の働きに反した性分であれば、それを地上で表現すると、苦痛を伴う結果となって返って来ます。

利己的な性分は、自然法則の働きに反しています。

そんな性分が表に出て、わがままな言動をすると、周囲から疎外されて、孤独という苦痛を味わうことになるかもしれません。



誰しも、苦痛を感じたくありません。

原因に気付いて、自分を変えて行くことになります。

ところが、過去生においてその性分が原因で過ち(カルマ)が存在していると、原因に気付けなくなると考えています。

そうなると自分を変えるのが難しくなり、また同じことを繰り返すことになります。

過去生での過ちと釣り合いが取れるまで、苦痛を味わい続けることになります。



繰り返される苦痛の中で、いつの日か償いが終わる時が来ます。

償いが終わった時、自然法則の働きを学んで、自分が変わっています。



人を懲らしめるために、カルマが存在するのではありません。

自然法則の働きを学んで、神の心に近づくために存在すると考えられます。



苦しい思い、痛い思いをしているのであれば、自分のどこかに自然法則に適っていない部分があるのかもしれません。

周りのせいにして、憤ったり嘆いたりすると気付けなくなり、(自分を変えられずに)苦痛が続いてしまうことになります。

原因が自分にあるかもしれないと省みることが、カルマ解消の第一歩となります。



どうしてもやらなければならないと感じることがあれば、それは生まれる前に決めていたことかもしれません。

自らが志願している時もあれば、償いのための時もあります。

私がこうしてブログを書いているのも、そのどちらかです。

どちらにせよ、成長するために必要だったと考えられます。



カルマにより生じるのは、償いだけではありません。

自然法則の働きに適った行いをすれば、魂の成長となって返って来ます。

魂が成長するほど、苦しみは感じられなくなり、悦びのみが感じられるようになると言われています。



自然法則の働きの中に、神の心が反映されています。

自然法則の働きによって、苦痛を感じたり、悦びを感じたりするのは、神の心に適った存在になるためです。

悦びを感じながら生きるためです。


自分が蒔いた種を、自分で刈り取っています。

その行程を繰り返しながら、現在に至っています。

この先、どんな種を蒔くのかは、個々の自由意思に任されています。



良心の声に従いましょう。

一時的に苦しくなっても、その先で望ましい結果が生じるはずです。

後悔することは決してありません。



神の心(愛)を表現するようにしましょう。

その先で悦びとなって、自分に返って来るはずです。






2023年7月16日日曜日

寿命は決まっている


ある方のご主人が突然、亡くなりました。

お子さんと外出中に倒れて、そのまま息を引き取ったそうです。

亡くなる前の数ヶ月の間、ご主人は「時間がない」と、しきりに言っていたそうです。

「時間がない」と言っていたのを「もうすぐ死ぬ」と解釈できるはずもありません。

ご主人も、自分が死ぬとは思っていなかったでしょう。



シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「地上人生の期間、つまり寿命が切れる時期は、たいていの場合あらかじめ分かっています。」

寿命は決まっていて、魂は知っているけれども、頭で思い出せないと考えられます。



もし、思い出せたとしたらどうでしょう?

あと5年で死ぬと分かったら、落胆してしまうかもしれません。

残りが数日になったら、嘆いたり、怖れたりしてしまうかもしれません。

死ぬ時が分かっていて、平常心で生きるのは至難の業です。

地上の人は、それほど強くないので、知らされないのだと思います。

ご主人は、残された時間が少ないことを漠然と察知して、焦りのようなものを感じて、そんなことを言ったのでしょう。



私たちの本来の住処は霊界です。

快適な霊界を離れて生まれて来たのは、この世でしか経験できないことを通して、学び成長するためです。

人生には、およその計画があると言われています。

自然法則(因果律)の働きによって、成長するのに相応しい出来事が、最適なタイミングで起きると考えられます。

もし偶然に支配されているとしたら、必要な経験をできるかどうかは運任せになり、人生は混沌としたものになってしまうでしょう。



自然法則を創った存在を「神」と呼ぶことにします。

神の心が、自然法則となって宇宙に顕現しています。

自然法則の働きによって、不完全な私たちは、完全(神)へと向かって進化しています。

人生に計画があるのは、効率良く、順序立てて進化して行くための、神の配慮だと考えています。



人生の計画の最後に組み込まれているのが「死」です。

死ぬ時期、死に方は、人によって大きく違います。

他の出来事と同様に、自然法則の働きによって起きているので、そこには神の配慮(愛)があるはずです。



生命の営みは永遠です。

死んでいなくなってしまうのではありません。

本来の住処に戻るだけです。

戻るための自然現象が「死」です。



以前、疑問に感じたことがありました。

あるブログに、生まれて数時間で亡くなった赤ちゃんのことが綴られていました。

この赤ちゃんは、何のために生まれて来たのだろうと、思わず考えてしまいました。

きっと、ご両親も同じことを考えたと思います。

お母さんの胸に抱かれて死ぬために生まれて来たとしか考えられません。

本当にそうなのかもしれません。

霊的な資質を手に入れて、自分が成長するために生まれて来たのであれば、地上にいる時間はあまりにも短すぎます。

そうではなく、ご両親をはじめ、地上で関わる人たちの成長を促すために生まれて来たのではないでしょうか。



「あの子の分まで生きよう」と思うようになる人もいるでしょう。

その子の分まで生きようとすれば、自分一人のために生きるよりも、内容の濃い、充実した人生になるはずです。

挫けそうになった時、諦めそうになった時に思い出して、困難を乗り越えて行く人もいると思います。

全ての命を慈しむようになる人もいると思います。

生きていることに感謝し、毎日を大切に生きようとする人もいると思います。

悲しんで苦しんだ末に魂が目覚め、生命の真実に気付いて、まだ知らない人に伝える人もいるでしょう。

そのどれもが、魂の成長へとつながっています。



自分のためではなく、他者の成長を促すために生まれて来た魂であれば、高い霊格を備えているはずです。

そんな気高い魂が、自分の元に生まれて来てくれたことに感謝する時が、きっと来ると思います。



「こんなに良い人が何故?」「こんなに良い子が何故?」

良く聞かれる言葉です。

そんな良い人、良い子だからこそ、地上で学ぶこと、償うことが少なかったのです。

早々と目的を果たして、戻って行ったのです。



本来の住処に戻ることができて、大きな悦びを感じているはずです。

地上を経験して手に入れた霊的な資質を存分に活かす生活を始めています。

全体のために、自分が役に立てる幸せを感じながら生きています。



まだ目的を果たせていないので、私たちは地上で生きています。

本来の住処に戻れるのはいつになるのかは分かりません。

その時がいつ来ても良いように、今を精一杯生きることを、死を持って伝えることが地上最後の目的だったのかもしれません。



生まれて来る目的、宿る肉体の生物学的条件、関わる人たちの成長、その他窺い知れぬことが総合的に勘案され、自然法則の働き(神の叡智)によって、寿命は決まると考えられます。

永遠に続く生命活動の中で、地上にいる時間の長短は、大した意味はありません。

目的を果たすことに意味があります。



最後にシルバーバーチの霊訓から引用します。

「一つとして偶然というものがないのです。偶発事故というものが無いのです。全てが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかも一目瞭然と分かるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。」


 

地上で生きられなかった赤ちゃんの想いを唄っています「泣いていいよ」


2023年7月9日日曜日

幸せな人生


「神様が1つ叶えてくれるとしたら、どんなお願いをしますか?」

こんな質問をすることによって、その人が考える幸せが窺い知れます。

「お金持ちになる」であれば、その人にとって幸せが感じられるものはお金です。

病気の人であれば「健康になる」と答える人は少なくないでしょう。

最も大切に思っているものを手にしている時、人は幸せを感じています。



昔の私でしたら「仕事で成功する」と答えたでしょう。

けれども、願いが叶って名声や富を手にしたとしても、永続的な幸せは得られません。

死んだら、消えてなくなってしまうものだからです。

意味のないものを追い求めていたと、きっと後悔するでしょう。



霊的真理を知った今は「生まれて来た目的を成就させて下さい」になります。

生まれて来た目的が何であったのかは具体的に知ることはできませんが、このような文章を書いているのもその一環と考えています。



全ての人に共通する生きる目的は、自分(魂)を成長させることです。

けれども、自分で成長させようと思っても、成長させられるものではありません。


宇宙の隅々まで自然法則が働いています。

原因に対し結果が生じるのは、自然法則の根幹を為す「因果律」の働きによるものです。

空に向かって石を投げると地面に落ちて来るのも、別れの時に悲しくなるのも自然法則の働きによるものです。

あらゆる事象に自然法則は働いていて、何人たりともその働きに干渉することはできません。



生まれるのも、そして死ぬのも、自然法則が働いた結果です。

私たちは、地上で成長する余地が残されていたので生まれて来たのです。

どこかに未熟な部分や、足りない部分があるはずです。



どこが未熟なのか、足りないのかは、自分では判らないものです。

自分の未熟な部分が地上で表現されると、そこに自然法則が働くことになります。

例えば、わがままな人がいるとします。

その行為は、自然法則を創造した存在の心(愛)に反しています。

そのため、周囲から反発を受け、孤立してしまうという結果が生じるかもしれません。

孤立と言う精神的な苦痛を味わうことで、自分の未熟な部分に気付いて、改めて行くことになります。



足りない部分にも、自然法則は働くことになります。

例えば、強さが足りない人がいたとします。

そんな人には、自分一人の力で克服して行かねならない、困難や障害(結果)を伴う出来事が、因果律の働きにより生じるかもしれません。

克服する過程において、魂は強くなって行きます。

さらなる成長のために欠かせない重要な部分であれば、人生の大半をかけて身に付けて行くことになるかもしれません。



人生にはシナリオがあると言われます。

その理由は、目的(原因)が存在していれば、どこかで出来事(結果)が生じることは決まっているからです。

目的を果たすために、最善な環境に生まれ、最善な結果(出来事)が、最適のタイミングで生じるようになっています。

その多くは避けて通りたいものであり、最悪の出来事が、最悪のタイミングで起きたと嘆く人もいるでしょう。



深刻な出来事であれば、心の奥底まで響きます。

そして、奥底で眠っていた魂を目覚めさせることになります。



起きた出来事は不動です。

目覚めた魂が、目に視えない大切なものを見つけて、それを支えにして生きることで、少しずつ自分が変わって行くのかもしれません。

変わったところが、自分の未熟な部分や足りない部分と考えられます。

その変化こそが、魂の成長です。

自分が変わることで、出来事が起きた意味が成就され、苦しみから解放されるはずです。



死んでしばらくすると、元いた世界に戻ります。

そこは、地上の苦に当たるものが取り払われた快適な世界です。

けれども、ぬるま湯につかっているようなものであり、自分を変えるのは容易ではありません。

そこで、出来事から生じる苦を通して自分を変えるために、地上に生まれることを選択したと考えられます。

原因(目的)がはっきりと判った瞬間、それまで感じていた理不尽さはなくなるでしょう。



経験によって身に付けたものを携えて、私たちは死んで行きます。

肉体の呪縛から解き放たれて、意識は自然に自分から他者に向かうようになります。

他者のために自分を活かすことに、悦びが感じられるようになります。

霊的に成長した魂は、より一層、自分を活かすことができるようになり、前にいた時よりも深い悦びが感じられるようになっています。



地上的な尺度で測ると見誤ります。

死んでこの人生を振り返った時、あの苦難が魂をより高みへと導いていたことに気付きます。

より自分を活かせるようになるため必要だったのです。

自然法則の働きによって、完全な公正が保たれていたのを知り、深く感謝するでしょう。



起きる事象に、偶然が入り込む余地は、全くありません。

地上でしか経験できない出来事を通して、私たちは学び成長しています。

次の世界に行き、成長した悦びが感じられる人生こそ、幸せな人生です。







2023年7月2日日曜日

勇気を出して信じる


地上の人は100%死にます。

死んでしばらくすると、元いた住処(霊界)に戻ります。

そこには、自分と似通った人たちばかりがいます。

何を想っているのか、お互いに判り合えている思念の世界です。


今いる地上は、霊界とは対称的です。

周りにいるのは自分と違う人たちばかりです。

肉体を使って言葉などで表現しなければ、思っていることは伝わりません。

何を考えているのか判らないので、人を警戒したり、怖れたりしてしまいます。



ところで、怖れてしまう気持ちはどこから生まれるのでしょうか?

私たちは、地上だけに存在する自我(以下自我)によって、自己表現をしています。

自我は肉体と密接に結びついているので、外部の環境から自分を守ろうとします。

高いところに行くと恐くなったり、人を警戒してしまうのは、自我の働きによるものです。



お互いに判り合えている居心地の良い霊界を離れて、判り合えるのが難しい地上になぜ生まれて来たのでしょうか?

大きな目的の1つとして、信じることの大切さを学ぶことがあると思います。



他者への怖れは、信じることができないために生じます。

怖れが言葉や行動や表情となって表れると、相手は自分を避けている、あるいは嫌っていると受け取ってしまうかもしれません。

地上ではコミュニケーションを取らなければ判り合えませんが、避けている(と思われる)相手に敢えて近づこうとは思いません。

両者の間に溝が生まれてしまいます。



一旦、溝が生まれると、相手を否定する傾向が生まれます。

お互いが否定してしまうと、反目し合うことになります。

それが高じると、相手を攻撃する衝動が生まれてしまう可能性があります。

もし、行動に移したのなら、相手は苦痛を被ります。

苦痛を被った相手は、因果律の働きにより、同じような行動をするでしょう。

それが繰り返されるうちに、争いへと発展して行きます。


世界の各地で争いが起きています。

それにより、罪のない人たちが多大な苦痛を味わっています。

元を正せば、お互いが信じられなくなり、怖れや不安が高じたために起きていると思われます。

自分を守ろうとするあまりに、他者への攻撃へとつながっていることも少なくありません。

違う人たちに囲まれて、何を考えているのか判らないこの世界において、無用な苦痛を味合わないために信じることが必要になって来ます。



信じるためには、正しい知識が必要です。

私たちは、個性的な存在です。

顔も性格も違っています。

話す言葉も、生活様式も、文化も違います。

けれども、それは表に出ている部分です。

内部には、同じ魂を宿しています。





話は変わりますが、人体にはたくさんの細胞があります。

それぞれの細胞が、決められた役割を果たしています。

どの細胞も人体にとって必要不可欠であり、それぞれが協調して働くことによって、生命活動が正常に営まれています。


私たち人間も全く同じです。

1人ひとりが、それぞれの役割りを果たしていて、全体のために必要不可欠ものとして存在しています。

もし必要がなければ、生まれて来ることはありません。

気付かないだけで、何かしらの役割りがあります。


頭のてっぺんの細胞と足先の細胞は遠く離れています。

同じ血液が流れることによって生かされています。

全ての細胞は、全身の一部として、つながっています。



私たち人間は、別々に存在しています。

肉体は食物から栄養を摂ることで活動していますが、魂は違います。

同じ霊力(生命力)が流れることによって生かされています。

実感はなくても、全ての人は、全体の一部として、霊的につながっています。



人を殺したり、傷つけたりするのが戦争です。

霊的につながっていることを知っていれば、自分で自分の一部を傷つけるような愚かな行為はしないでしょう。

同じ時期に地上を生きている同胞として、もっと信じられるはずです。



私たちには神が内在しています。

それが良心となって顕現しています。

溺れている人がいると助けたくなるのは、自分の中に神がいて、愛を表現しようとするからです。

全ての人に、神が内在していることを知っていれば、もっと信じられるはずです。



私たちは、学び成長するために地上に生まれて来ています。

誰かのために何かをすることで、人は成長します。

信じることで、魂と魂は通じ合い、その人のために何かをすることができます。

自我に打ち克ち、勇気を出して信じることで、生まれて来た目的を成就することにつながって行きます。