2026年1月25日日曜日

この人生は挑戦


パキスタンと中国の国境に連なるカラコルム山脈に、K2という世界で2番目に高い山(8611m)があります。

登頂の難易度は世界最高峰のエベレストより高く、「非情の山」と言われています。

2024年7月、極めて難易度の高い未踏峰のルートに、アルピニストの平出和也さんと中島健郎さんが挑戦しました。



お二人のことは、2018年に同じカラコルム山脈にあるシスパーレ山の未踏峰ルートを登頂した時に撮影されたドキュメンタリー映像で知りました。

数千メートルに及ぶ垂直に近い氷の壁を、ピッケルとザイルで慎重に登って行き、さまざまな思いを抱きながら頂に立った姿を見て感動を覚えました。

シスパーレの氷壁に挑む平出さんと中島さん(山と渓谷オンラインより)

人生は挑戦の連続と言われます。

お二人の生き様を見ていて、山登りで自分の限界に挑戦し、魂を成長させることを志願して生まれて来たと思ってしまいます。

そうでなければ、これほどの危険を冒してまで登り続けることはできないでしょう。



残念ながら、お二人は7000m付近で滑落し、帰らぬ人となりました。

若くても、当初の目的を十分に果たして霊界に戻られたと、私は信じています。

K2登頂前の平出さん(左)中島さん(山と渓谷オンラインより)


私たちの本来の住処は霊界です。

そこは思念の世界です。

想像するのが難しいですが、高くそびえる山の頂に立ちたいと思えば、一瞬のうちに移動することができます。



地上で山の頂に立ちたいと思えば、自分の足で歩いて行かなければいけません。

立ちはだかる問題をクリアして、息を切らして登り続けて、ようやく辿り着けます。

大変な思いをして登った山ほど、頂に立った時の感動は深く、忘れがたいものになります。

ヘリコプターを利用して頂に立ったとしても、同じような感動は味わえません。

一瞬で想いが叶う霊界では味わうことのできない、地上ならではの感動が存在していると思います。



登山には、リスクが伴います。

途中で、天候の急変があったり、滑落や転倒、落石に遭遇する可能性もあります。

そんなリスクを承知した上で、登り始めます。



地上に生まれるのも、いくつかのリスクを伴います。

いざ生まれてしまうと、人生の設計図(ブループリント)があったのを、すっかり忘れてしまいます。



人間には自由意志があります。

ブループリントに沿って出来事が起きたとしても、どう対応するのかは、その人に任されています。

逃げてしまうのか、挑戦(克服)しようとするのかは自由です。



挑戦(克服)する方を選んだ方が良いのは、生まれる前に(挑戦することを)自分で決めていたかもしれないからです。

逃げてしまえば、予定されていた学びや成長の機会を逃してしまうことになり、後悔するかもしれません。

そちらに進んで行かなければならないと言う、根拠のない衝動に駆られたのなら、それはブループリントに刻まれている出来事なのかもしれません。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「賢い人間とは、体験の全てを魂にとってプラスになる方向に転換する人、試練や誘惑から逃げようとせず、全力を尽くして困難の克服にあたる人です。その意気込みの中でこそ、霊性が進化し強化されるのです。」

エゴは逃げるための言い訳を見つけようとします。

それに惑わされず、挑戦(克服)して行く方向を選ぶのが賢明と考えられます。



さらにこう書かれています。

「自由意志は神からの授かりものです。しかしその使い道を誤るとそれなりの償いをしなければなりません。摂理に則った生活をすれば恩恵を刈り取ります。逆らった生き方をすればそれ相当のものを刈り取ります。」

自由意志があるために、過ちを犯してしまう可能性があります。

過ちを犯すと、成長しないどころか、償いが生じてしまいます。

償いのために、地上に生まれる人も少なくないと言われています。



いっそのこと自由意志などなければ、過ちを犯さないのにと思ったことがあります。

それに対しての回答は、こう書かれています。

「もしも人間が自由意志を奪われたら、只の操り人形でしかなくなり、内部の神性を発揮することができなくなります。霊的本性が進化せず、地上生活の目的も果たせません。貴方が地上に生を受けたのは、地上は霊の保育所であり、学校であり、訓練所だからです。様々な挑戦にあい、それを克服していく中で自由意志を行使してこそ、霊は進化できるのです。」



神が全てを決めているとしたら、自分の意志はないことになります。

人を傷つけるのも、裏切るのも、貶めるのも、神の意志ということなります。

それは明らかに神の心に反しているので、矛盾が生じてしまいます。



自分の意志が、神の心に反していれば、良心の呵責が生じます。

自分の意志だからこそ、反省をしたり償いをする必要があり、それが学びにつながっています。



神は完全です。

私たちは完全(神)を宿しているのですが、意志決定をしている媒体(自我)が不完全なために、過ちを犯してしまいます。

神性を発揮する方向を選ぶことで、完全(神)に一歩近づくことができます。



霊的なものが見えなくなる地上の人のために、神は守護霊を付けて下さっています。

守護霊は、地上の人にインスピレーションを送り、時に五感で分かる現象を起こして、生まれて来た目的を果たせるように導いています。

ただ、地上の人の意志決定に干渉はできません。

自分で決めて、自分で責任を取ることになります。



私たちは、成長するために地上に生まれて来ました。

けれども、自由意志が与えられているために、過った方向に進んでしまったり、成長を妨げる行いをしてしまう可能性があります。

そのリスクを承知した上で、この人生に挑戦しています。



これから登る山を目の前にした時、アルピニストは身が引き締まる思いがするでしょう。

これから辿る地上の人生を前にした時、私たちは身震いをしていたのかもしれません。

それでも、目的を果たせるという確信があったからこそ、挑戦することを自分で決めて、母体に宿ったと思われます。



2026年1月18日日曜日

想い(動機)を問い質す

 

霊的真理を知って、心がけるようになったことがあります。

それは、行動する前に想い(動機)を問い質すことです。



シルバーバーチはこう言っています。

「自分で正しいと思うこと、良心が指示することを忠実に実行しないといけません。最後は自分が自分の裁判官となります。振り返ってみると正しかったこともあれば間違ったことをしていることもあります。しかし、動機が人のためということであれば、たとえ間違っていても咎められることはありません。動機が何よりも考慮の対象となります。」

戦争で人を傷つけるのは、もちろん良くない行為です。

けれども、動機が国や家族を守るためであれば、霊的に罪を問われないと言われています。



そして、こうも言っています。

「何事も動機がその価値を決めます。慈善事業(チャリティ)に気前よく大金を寄付する億万長者は、その行為によって少しも霊性は伸びません。反対に、これは絶対に意義があると信じて無い金をはたいて援助する人は、その動機ゆえに霊性が伸びます。」

どれほどのことをしたのかではなく、どんな想いでしたのかが問われています。



近年、動物愛護に対する関心の高まりと共に、保健所で殺処分される犬猫の数は着実に減っています。

残念なことですが、動物愛護活動をしている人の中には、動機が好ましくない人もいるようです。

近隣の街で、飼い主のいない犬や猫を自分が作ったシェルターで保護して、その様子を動画に挙げている人がいます。

それを観て、金銭面で支えてやろうと寄付をする人も少なくありません。

しかし、寄付された浄財の多くは動物たちのためではなく、自分の生活のために使われているようです。

動物を利用して人の善意に付け込んでいます。

当初は可哀想な動物たちのためにという純粋な動機から始めたのかもしれませんが、年月と共に利己的な動機にすり替わって行ったようです。

どこかで動機を問い質していれば、過った方向に進んで行くのを防げたのかもしれません。



私も気を付けなければいけないと思っています。

約20年前にヒーリングの力が私の手から出ているのに気付きました。

直後に霊的真理に出会いました。

目に見えない力が存在していることを多くの人に知ってもらいたい、そして真理に出会い救われた私は他の人にも同じ恩恵を受けてもらいたい、そんな想いからこのブログを書き始めました。



かつての私がそうであったように、必要としている人にとって、真理は人生を変えるほど重要な意味を持っています。

例えば、魂が存在し、あの世でまた会えるという真理は、最愛の人を亡くした人にとって救いをもたらします。

救われた人は、必要としている人に伝えたいという想いが生まれ、真理は少しずつ広がって行きます。



真理の普及は霊界主導で行われています。

必要としている人が、伝えようとしている人や書かれている本と出会うように、霊界が導いていると考えられます。

今はインターネットが普及しているので、昔よりも容易に両者を出会わせることができると考えられます。

詳細は明らかではありませんが、真理を必要としている人に適切な言葉を打ち込んで検索させるように、霊界がインスピレーションを送っている時があると思います。

そして、伝えようとしている人のサイトや本が現れたら、特別なものを感じさせるインスピレーションを送って、開かせていると思います。



それとは逆のパターンもあります。

あるブログを観ていて、何か特別なものを感じました。

ブログの管理者の女性はカウンセラーとして活動をしていましたが、読み進めてみると、小学生のお子さんを突然の事故で亡くされていたことが分かりました。

この人の役に立てるのでは、という思いが生まれました。

しばらくすると、その女性とお子さんがキッチンで戯れているイメージが心の中に浮かびました。

何か伝えたいことがあるのではと思い、お子さんの意識に焦点を合わせると、心の中に言葉が生まれて来て、手紙のような文章になりました。

伝わって来たことは、伝えなければいけないと思っています。

突然で驚かれること、失礼なことを承知の上で、その文章をコメント欄に書き込んで、お伝えしました。

しばらくしてブログを観ると、同時期に私以外の複数の人からも同様なメッセージが伝えられていて、(お子さんが)生きているとしか思えないと綴っていました。

この件により、必要としている人に真実(真理)が伝わるように、霊界の人が地上の人を使って、計画的に働きかけていることを実感しました。


霊界の人たちは、地上の人の心の中が分かっています。

どのような想い(動機)で、行動しているのかも承知しています。



霊界の人たちが導いているのは、地上の人たちへの愛情があるからです。

地上の人から、苦しんでいる人や悲しんでいる人を何とかしてやりたいという想いが発せられると、その想いは霊界の人たちに届いて、必要としている人とつなげていると思われます。

いくら知っていたとしても、何とかしてやりたいと言う想いがなければ、霊界の人たちと同じ想いで協調することはできないと考えられます。



以下のシルバーバーチの言葉は霊界の人たちの想いを代弁していると思います。

「ストレスと難題の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は真理の使節としての自覚を持たなければなりません。残念ながら、豊かな知識を手にし悲しみに中で大いなる慰めを得た人が、その本当の意義を取り損ねていることがあります。(中略)真理の啓示を受けた者ー永いあいだ取り囲まれていた暗闇を突き破って目も眩まんばかりの真理の光に照らされて目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行し滅私の観念が忘れられていくものです。まだまだ浄化が必要です。まだまだ精進が足りません。まだまだ霊的再生が必要です。真理普及の仕事を託された者に私が申し上げたいのは、現在の我が身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純真無垢の輝きを失いかけてないか。今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか。時と共に煤けてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか。そう反省してみることです。霊力の地上への一層の顕現の道具として、己の全生活を捧げたいという熱意にもう一度燃えていただきたいのです。」



死んで霊界に行くと、地上の全人生を振り返る時が来ます。

どんなことを言ったか、どんな行いをしたかを逐一思い出し、それによりどんな結果が生じたのかが分かります。



その時の想い(動機)を同時に思い出します。

行ったことの霊的な価値は想い(動機)により決まります。

利己的な動機であれば価値は見つけられず虚しさを覚え、利他的な動機であったのなら価値を見つけてうれしくなるでしょう。

真の喜びは、誰かの役に立った時に生まれるからです。

魂を成長させ、今生に生まれて来た意味を成就することにつながっています。



必要としている人はたくさんいます。

そんな人たちに心を寄せて、何とかしてやりたいという想いを持ち続けることが何よりも大切だと、改めて感じています。



2026年1月11日日曜日

真の喜び


霊的真理と出会い、あの世があることを知りました。

死は、あの世へ移行する自然現象と分かり、怖くなくなりました。



あの世は、この世の苦から解放された世界です。

煩わしい人間関係もありません。

病気や障がいもありません。

食べるために働く必要もありません。

自分のやりたいことを心行くまでできます。



けれども、自分のやりたいことだけをしていても、虚しさを感じてしまうかもしれません。

それだけでは成長しないからです。



人は誰かのために何かをすることで喜びが得られて、成長して行くことができます。

より次元の高い奉仕をしようとすると、自分に欠けている資質、足りない資質を自覚するようになります。

居心地の良いあの世を離れて生まれて来たのは、この世でしかできない経験をすることによって、奉仕のために必要とされる資質を身に付けるためです。



霊界では、周りのことに無関心で、自分のやりたいことだけをしている人は、一種の利己主義者として映っているのかもしれません。

「利己主義者は自分自身にも悪影響を及ぼし、自らの進歩も進化も向上も発達も妨げているのです。」とシルバーバーチは言っています。

自分のことしか考えていない人は、どの世界においても成長できないようです。

そのことに気付いて、改めるために、この世に生まれて来る人もいるでしょう。



この世に生まれると肉体があります。

そして、肉体を使って自己表現するための(地上の)自我が生まれます。

自我の働きにより、「自分」と言う意識が強くなります。

その意識を言葉や行いで表現してしまうと、因果律の働きによって、この世ならではの苦痛を味わうことになります。


子供の時、わがままな言動をしていると、周りから仲間外れにされることがあります。

一人ぼっちになり、孤独という苦痛を味わうことで、何がいけなかったのかを考えます。

自分だけではなく、周りのことも考えた言動をするようになって行きます。



社会に出れば、組織のために働かなければいけません。

上司や同僚の助言や忠告を聞かずに、自分の考えだけで行動していれば、協調性のない不適格者として、組織から排除されてしまう可能性があります。

収入を得て生活して行くために、自分を抑えて、組織の意向に沿って、行動するようになって行きます。



家族ができれば、やりたいことだけをしているわけにはいけません。

自分よりも家族を優先して行動するようになります。

あくまでも自分を優先しようとする人は、家族から絶縁されてしまうかもしれません。



あの世で自分のやりたいことしかしなかった人がこの世に生まれると、法則の働きによって、苦痛を感じる出来事が次々と起きると考えられます。

人は苦痛を感じたくありません。

生き方や考え方を改めて行くようになります。

この世で周りのために何かをする習慣を身に付けた人は、あの世に戻ると自分のやりたいことだけではなく、周りのために何かができるようになっていると考えられます。

それが自らの成長へとつながって行きます。



仕事や家事をしていて1番うれしく感じるのは、喜んでもらえた時だと良く聞きます。

誰かの役に立って喜んでもらえると、法則の働きによって、自分にも喜びがもたらされるからです。



法則を創った神は、この世で喜びと苦痛を味わわせることで、誰かのために何かをする方向へと導いていると考えられます。

誰かのために何かをすることによって、そこに調和が生まれます。

個と個を隔てている障壁が取り払われ、全体が調和して1つになるのが、神の意図であると考えています。



自分のことしか考えない利己的な人は、富や地位や名声に執着することが多く、それを得ることに喜びを感じます。

けれども、そんなエゴの欲求をいくら満たしても、永くは続きません。

際限なく、追い求めることになります。



そんな人が大きな権力を持つと、エゴを満足させようとする言動が繰り返されます。

それにより、全体の調和が乱されます。

互いが信じられなくなり、争いが起きやすくなります。

個と個は分断されて、神の意図とは違う方向に向かってしまいます。



シルバーバーチは、「利己主義は割に合わない」と言っています。

自分だけが得をしようとする生き方は神の摂理に反していて、因果律の働きにより、苦痛を伴う結果(償い)が生じ、成長が妨げられるので、霊的に損をすることになるからだと思います。



結果が生じても、権力者は力によって、それを封じ込めようとします。

封じ込めたことに対する結果が生じても、さらに封じ込めようとします。

それを繰り返しながら、破綻へと進んで行くのは、歴史を顧みれば明らかです。



エゴを満足させるために、多くの人に苦しみや痛みを与え、人生を狂わせた人には、相応の報いが待っています。

この世で報いを免れたとしても、因果律の働きからは、絶対に逃れられません。

どれくらいこの世に生まれて、どれほどの苦痛を味わわなければならないのか、想像するだけで背筋が寒くなります。

無知ほど恐ろしいものはありません。



黙認した人たちにも因果律は働いて、後悔や侮辱を味わうことになると思われます。

大きな代償を払いますが、それが転機となって、考えを改めるようになります。

現時点の世界は、利己的な行いに対する結果が生まれる前の段階と考えられます。



苦痛を伴いながら、意識は自分から周りへと向かって行きます。

周りを意識するようになるのは、全体が一つであり、霊的につながっているからです。



霊的につながっているので、他者の喜びの中に、真の喜びを見出すことができるのです。

自分だけが良くなっても、心が満たされないのです。





2026年1月4日日曜日

愛により1つになる

 

大晦日の夕方、神社にお参りに行って来ました。

もう何時間かすれば人で溢れるであろう境内には数人しかおらず、とても静かでした。

拝殿の前で手を合わせて、今年1年無事に終えられたことを感謝しました。

そして、霊的真理が行き渡り、世界が1つになることを祈りました。



私たちが生まれる前にいたのは、宇宙(全体)が1つであることを実感する世界です。

けれども、地上に生まれると五感で世界を認識するようになり、目に映るのは肉体(物質)だけです。

それぞれの人間は、独立して存在しているように思えてしまいます。



それは錯覚です。

地上においても、全ての人間は霊的につながっています。

全体は1つです。



霊的な知識がある人間だけが、そう思えるのではありません。

現実の世界から隔絶された環境に置かれて、そのことを実感した人たちもいます。

アポロ計画で月面に立った複数の宇宙飛行士が、自分と宇宙が一体であると感じたそうです。

漆黒の宇宙空間に浮かぶ地球を見て、1つの生命体のように思えたそうです。


物質しか見えなくなると、さまざまな問題が起こります。

戦争もそうです。

国境は人間の頭で勝手に拵えたものです。

境などは、どこにも存在していません。

国が違っても、そこにいるのは同じ魂を持った人間です。

同じ人間同士が争うのは、私たちは霊的な存在であり、霊的につながっていることをすっかり忘れているからです。



何かが起きると、日常の意識から霊的な意識に切り替わることがあります。

人類が滅亡するかもしれない大きさの小惑星が地球に衝突することが分かったらどうでしょう?

危機的な状況に、多くの人の霊的な意識(魂)が目覚めるでしょう。

そして、全ての人間は同じ地球を生きている同胞であることに気付くでしょう。

直ちに戦争を止めて、国を超えて協力し合い、困難に立ち向かうでしょう。



1人で泣いている子がいると、気になって声をかける人がいます。

親とはぐれて寂しそうにないている子猫がいると、可哀想になって家に連れて帰る人がいます。

災害が起きて、困っている人がいると、仕事を休んでボランティアに行く人がいます。

生きているもの同士の間に、霊的なつながりがなければ、気になったり、同情したり、助けようとしたりしません。



話は変わります。

人間には、37兆個もの細胞があります。

脳細胞、筋細胞、皮膚細胞等々、1つ1つの細胞には明確な役割りがあります。

生きて行くために、どの細胞も欠かすことはできません。


のどに口蓋垂という組織があります。

見ただけでは、何のためにあるのか分かりません。

けれども、なければ食べ物が鼻腔に入ってしまい、発音もしずらくなります。

健全に生きて行くために、なくてはならないものです。



存在している理由が分からなかったとしても、全体のために何らかの役割りを果たしています。

無駄なもの、無用なものは、この世界に存在していません。



全ての細胞は、全身を構成する一部であり、同じ血液が流れて、つながっています。

全ての人間は、全体を構成する一部であり、同じ生命力が流れて、つながっています。

全体を生かしながら、全体に生かされています。

お互いが全体の一部なので、争って人を傷つけるのは、自分を傷つけているのと同じです。



地上に誕生したのは、偶然ではありません。

生まれようとする意志があって、その意志に法則(因果律)が働くことによって、地上に誕生しています。

意志に対する結果です。



生まれようとする意志は、自らを成長させようとする意志の反映です。

地上でしか経験できないことがあり、その経験から大切なものを学んで、魂を成長させるために生まれて来たのです。



学ぶべき大切なものは「愛」と思われます。

生まれる前にいた霊界では、愛は太陽の光のような存在と考えられます。

当たり前のように享受しているので、どれほど有難く、価値のあるものなのかが、返って分かりにくくなっていると考えられます。



地上に生まれると、愛は見えなくなります。

けれども、地上の人間にも、霊的な感覚はあります。

さまざまな経験を通して、五感に触れない愛を、魂で感じ取ることができます。

地上という霊的な暗闇の中にいるからこそ、愛が光り輝いているのが分かるのです。



地上では、怒りや憎しみや嫉妬などの感情が存在しています。

対照となる感情が存在するからこそ、愛の意味や価値を深く知ることができるのです。



愛は魂を引き付ける霊的な力です。

隔てている障壁は、愛によって取り除かれて行きます。

怒りや憎しみや悲しみなどの遠ざける感情は打ち消されます。



愛には、さまざまな表現の仕方があります。

思いやりや優しさによって表現されることもあれば、認めたり許すことによって表現されることもあります。

けれども、地上では自我(エゴ)があるために、表現するのが難しくなります。

エゴに打ち克ち、愛を表現することが、地上に生まれた大きな目的の1つと考えられます。



私たちは霊的に1つであると、強く信じて下さい。

それによりエゴの働きは弱まり、霊的な意識が高まります。

怖れがなくなり、周りを慈しむ想いが、内から自然に湧き出して来るはずです。



全ての障壁が愛によって取り除かれた時、魂は1つになります。

それこそが、宇宙を創造した神の意図だと思います。




2025年12月28日日曜日

魂の契約


地上を生きていると、喜び、悲しみ、怒りなど、さまざまな感情が生まれます

できれば、笑顔になるような感情をずっと味わっていたいものです。

けれども、そんなわけに行かないのが地上です。



最も味わいたくないものの1つに「後悔」があります。

過去に戻れない、変えることのできない現実が、その想いを生じさせます。


人には神が宿っています。

神は良心となって顕現しています。

私たちが進むべき方向を、良心は瞬時に指し示めしています。

けれども、それに従わずに過った方向に進んでしまうことがあります。



過ちを犯してしまうと良心の呵責が生じます。

それが強いと後悔の念となり、因果律の働きにより、苦しみが生じます。



その苦しみは、過ちに対する償いにもなっていると思います。

人は誰でも苦しみを感じたくありません。

次からは、そのような行いをしないようになります。

悔い改めることで、学びを1つしたことになります。



過ちを犯したわけではないのに、後悔の念が生じる時があります。

望まない出来事が起きたり、良い結果が出なかったりすると、あの時こうすれば良かったと過去を振り返り、後悔してしまうことがあります。



幼い我が子を、お母さんが気付かずに車で轢いてしまったという、痛ましいニュースが報道される時があります。

当事者のお母さんは、起きたことをしばらくの間、受け入れることはできないでしょう。

受け入れたとしても、自分が殺してしまったという強い罪悪感、注意していればという激しい後悔の念が待っていると想像されます。



運が悪かったと言う人も多くいるでしょう。

シルバーバーチの霊訓には、こんな問答があります。

アクシデント(偶発事故)というのはあるのでしょうか?という問いに対して

「非常に難しい問題です。というのは、アクシデントという言葉の解釈次第で、イエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何か訳の分からぬ盲目的な力で、たまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。宇宙間の万物は、寸分の狂いもなく作用する、原因と結果の法則によって支配されているからです。(中略) 従って、偶発事故の起きる余地はあり得ません。偶発のように見える事故にも、それなりの原因があるからです。ぜひ知っておいて頂きたいのは、法則の中にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるという事です。平面的な単純な法則ではないのです。よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。自由意志の法則と、宿命の法則とが入り組んで作用しているのです。」と、シルバーバーチは答えています。



偶然そうなることはないのであれば、運が悪かったと片付けるのは間違っています。

「法則の中にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいる」とありますが、地上では知ることのできない、霊的次元の法則が働いて起きている可能性があります。



霊的次元の法則とはどんなものでしょうか?

前世で人を苦しめる行いをしていたから、因果律の働きにより、このような出来事が起きたと言う人がいるかもしれません。

それを否定はしませんが、私はこう思っています。



神の心が法則となって顕現しています。

神の心は愛です。

愛が法則を貫いています。

その出来事が、偶然ではなく法則の働きによって起きたのであれば、最後には悦びが感じられるようになっているはずです。



何でこんなことが起きてしまうのかと思いを巡らしていたところ、「契約」という言葉が心に浮かびました。

契約とは責任や義務を伴うものであり、約束より重い取り決めです。



お子さんはお母さんを選んで生まれて来ています。

地上に生まれる時に、どのような人生を辿るのかも承知しています。

寿命も決まっています。

過った自由意志を行使して起きた出来事ではありません。



以上のことから、にわかには信じられないのですが、こんなシナリオが導き出されます。

お母さんが関わる事故によって、お子さんが地上を卒業することが、予め決まっていた。

もし、そのことをお母さんに伝えたのなら、そんなことを私が承知するはずは絶対にないと、憤慨されるでしょう。



早く卒業するのは、私が知る限り霊性の高い子です。

病気だけでなく、突発的な事故でさえも、それは当てはまります。

早く霊界に戻ることが許された魂であり、愛と悦びに溢れた境涯に赴くことになると思われます。



お子さんとは対照的に、お母さんは地獄にいるような心境と察せられます。

生きていることが許されないと感じながら生きているお母さんもいるようです。



想像もつかない辛い日々を過ごす中で、生き方が変わった人もいるようです。

こう言っているお母さんがいるそうです。

「以前は“ちゃんとした母親”を演じていました。今は、弱い自分のまま人の前に立てます。それが、思っていた以上に強かった。」

この人は後に、事故防止講話やグリーフケアの語り部になったそうです。



こう言っているお母さんもいるそうです。

「もう、失うものがありません。だから逆に、失敗や人の評価が怖くなくなりました。」

この人は、人前で話すこと、自分の過去を語ることを避けなくなり、結果的に社会的な活動が広がったと語っているそうです。



そして、こんなことを言っているお母さんもいたそうです。

「この子に向けられなかった分の愛を、目の前の人に注いで生きようと決めました。」

この人は、里親支援をしているそうです。




もちろん、全ての人の生き方が変わるわけではありません。

絶望と孤独と自責の念に苛まれながら、生涯を終える人もいるでしょう。

それも契約の1つなのかもしれません。

けれども、地上で生き方を変えるために、生まれる前に契約を交わしていた人もいるはずです。




何故、そのような契約を交わすことになったのでしょうか?




私たちが死後に赴く霊界は、自分の好きなように生きられる世界です。

好きなように生きられるのはうれしいのですが、周りのために何かをするようにならなければ、自分を成長させることはできません。

生きている意味を果たせていないのです。




地上での経験によって、誰かのために何かをしようとする生き方に変わったのならば、死んで霊界に行っても、周りのために何かをするようになるでしょう。

自分の意志によって、自律的に成長して行けるようになることが、契約を交わした目的と考えられます。




もしこのような契約を交わしていたのであれば、後悔することも罪の意識を感じる必要はありません。

けれども、根本的に生き方を変えるためには、魂が目覚めなければならず、そのためには相応の苦しみや痛みを味わう過程が必要となります。

予定通りに起きているのならば、後悔する必要はないのですが、後悔して苦しむことを前提にして、出来事が起きていると考えられます。

従って、魂が目覚めるまでは、「あなたが悪いわけではない」などと、いくら慰めても聞く耳を持ってもらえません。





全ての出来事は、神の法則の下で起きています。

光(真理)を見出すために、法則の働きにより、真っ暗闇の中にいます。

明るい陽ざしの中では、見出すことはできないのです。

光の意味を深く知り、刻み込むための契約であったと考えられます。




恨んでいる、怒っている、悔やんでいるなどと、絶対に思ってはいけません。

これだけは言えます。

深い愛がなければ、このような契約を交わすことは決してありません。

その愛を強く信じて、どんなにつらくても今生を生き抜くことで、魂の契約を果たしているのです。







2025年12月21日日曜日

愛について


「愛」の対極にあるのは?

多くの人は「憎しみ」と答えるかもしれません。



そもそも、愛と憎しみは別次元のものです。

愛は霊的次元のものであり、魂に内在している神性から生まれています。



一方、憎しみは精神的次元のものです。

魂が肉体で表現するための媒体である、地上の自我(エゴ)から生まれています。



魂は永遠の存在です。

愛が死を超越して存在しているのはそのためです。



死ぬと肉体は消失します。

それに伴いエゴもなくなります。



エゴがなくなるので、(霊界の低い界層は除いて)憎しみも生まれなくなります。

愛の対極にあるのが憎しみと思うのは、地上の人だけです。



地上では、さまざな次元の愛が存在しています。

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「気が合うというだけの友情、趣味が同じということから生まれる友愛から、己を忘れて人のために尽くそうとする崇高な奉仕的精神に至るまで、愛は数多くの形態を取ります。地上では愛Loveという言葉が誤って用いられております。愛とは言えないものまで愛だ愛だとさかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものを愛だと錯覚している人がいます。が、私が理解しているかぎりで言えば、愛とは魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神とのつながりを悟った時におのずから湧き出てくる魂の欲求です。」

霊界において実感する愛は、地上よりもはるかに深遠で強烈です。



霊界では厳然たるヒエラルキーが存在しています。

その絶対的な基準となっているのが愛です。

地上を生きている時に、どのような次元の愛を表現していたかによって、死んだ後にどのような境涯に赴くのかが決まります。



霊界に行くと、周りにいるのは自分と霊的に似通った人たちばかりです。

互いの想いを共有しながら生きています。

生きるために働く必要がなく、自分の望むことを心行くまですることができます。



地上では、周りにいるのは自分とは違う人たちばかりです。

何を想っているのかも分かりません。

生き方や考え方の違いから軋轢や摩擦が生じたり、いさかいに発展することもあります。



そうならないためには、互いの違いを認めなければいけません。

違いを認めて、相手を尊重することは、神性の顕れであり、間接的に愛を表現していることになります。



地上は不完全な世界です。

そのため、しばしば過ちや誤りが起こり、苦しみや痛みを味わう人がいます。

それにより怒りや憎しみなどが生まれる時がありますが、その感情を相手に向かって表現してしまうと、争いに発展してしまう可能性があります。

そうならないためには、相手を許さなければいけません。

寛容の精神を発揮することも神性の顕れであり、間接的に愛を表現していることになります。




人は仕事や家事などを通して、社会や家族のために奉仕をしながら生きています。

ゴミを拾ったり、道を譲ったり、相談に乗ったりするのもそうです。

誰かのために何かをするのは、直接的に愛を表現していることになります。



地上は、直接的あるいは間接的に愛を表現することにより、円滑に生きて行くことができるようになっています。

争いなどから生じる、無用の苦しみや痛みを回避することができます。


地上に生まれて来たのは、より高い境涯へ行きたい欲求が魂にあるからです。

何もしなくても生きて行ける霊界よりも、愛を表現することが求められる地上の方が、より自分を成長させることができます。



さまざまな人間と生きて、さまざまな出来事を経験することで、自我(エゴ)から怒りや悲しみ、憎しみや嫉妬など、さまざまな感情が生まれています。

それらの感情が生じると、因果律の働きにより、心に苦しみや痛みが生じます。

苦しみや痛みから解放されるためには、対象に向かって愛を表現しなければならないことを悟ります。



マハトマ・ガンジーは、イスラム教徒に息子を殺され、相手への激しい憎悪に苦しんでいるヒンドゥー教徒の男性に向かってこう言ったそうです。 

「あなたが救われる方法が一つある。イスラム教の両親をヒンドゥー教徒に殺された孤児をあなたの子供として育てなさい。それもヒンドゥー教徒ではなくイスラム 教徒として育てなさい。」



イエス・キリストは簡潔にこう言っています。

「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」



極めて難しいでしょうが、もし実行できたのであれば、苦しみから解放されるその経験を通して、愛について深い学びが得られているはずです。

生まれる前より高い次元の愛を表現できるようになっていて、より高い境涯に赴くことができるはずです。



魂は自我(精神)より次元が高いです。

そのため、自我から生まれているいかなる感情も、魂から生まれている愛には敵いません。

愛は、苦しみを生み出す感情を打ち消す、絶対的な力を持っているのです。



冬の富山(イナガキヤストさんのⅩより)

2025年12月14日日曜日

病気になった理由


数年前から、逆流性食道炎を患っています。

命に関わる病気ではありませんが、不快な症状に悩まされています。

胃の入り口の筋肉が緩んでしまうために起こりますが、ストレスも大きく関わっていると言われています。



思い起こすと、私の亡くなった父親も同じ様な症状にずっと悩まされていました。

どうやら、肉体的な素因を引き継いでしまったようです。


人間は、魂(霊)、精神、肉体から成り立っています。

それぞれが存在している次元は異なります。

全ての病気の原因は、そのどこかの次元に存在しています。



逆流性食道炎は、胃の一部の機能に問題があるために起こるので、肉体的次元に原因があります。

ストレスも関わっているので、精神的次元にも原因があると言えます。

遺伝したのであれば、この病気になることが生まれる前に決まっていたので、霊的次元にも原因があると言うことになります。

このように病気の原因は、多次元に渡って存在することが多いです。



病気は医者が治すものと考えている人が多くいます。

肉体的(物質的)次元の病気であれば医者は治すことができますが、霊的次元の病気は治すことはできません。

医者が分るのは、細菌など物質的次元の原因、ストレスなど精神的次元の原因の一部であり、霊的次元に原因が存在することを認めていないからです。



現代医学で原因不明とされているガンや膠原病などは、霊的次元に原因が存在すると考えられます。

原因がなくならなければ、病気は存在し続けます。

病巣を切除したとしても、薬で症状が改善しても、根本から治ったわけではなく、ぶり返したり、再発したりします。



霊的次元の原因(目的)には、どんなものがあるのでしょうか?

本人が生まれる前に病気になることを決めていた場合です。

先天的な病気や障がいなどはそれに当たりますが、多くの目的は病気(障がい)を通して、学び成長するためと考えられます。



成長を阻害している霊的な原因を取り除くために、病気になる場合もあります。

原因として挙げられるのは、過去生における過ち(カルマ)です。

病気の苦痛によって過ちを償うことにより、原因が取り除かれて、再び成長して行くことができます。



エゴの働きが強くなり、成長が妨げられている時にも、病気になることがあります。

例えば、お金や地位など地上的なものを追い求めるのが、生きる目的になっている人がいます。

そんな生き方をしていては、成長することはできません。

けれども、過った生き方をしていると、本人が気付いていなければ、どうすることもできません。



そんな人が、命にかかわる病気になったとしたらどうでしょう?

今まで追い求めていた地上的なものが無力であり、価値がないことに気付くでしょう。

それまで気に留めることもなかった、「生命」や「愛」など霊的なものに意識が向くようになります。



外からは、病気になって人が変わったように見えるかもしれません。

実態は、本来の自分を取り戻して、予定されたシナリオに沿って成長して行くために、因果律の働きにより、病気になったと考えられます。

そんな人の中には、大切なものに気付かせてくれたと、病気に感謝する人もいます。



病気になり、霊的に価値のある生き方に変わった人が多くいます。

以前、このブログにも書きましたが、阪神タイガースに横田慎太郎さんという将来を嘱望された選手がいました。

22歳の若さで脳腫瘍になり、再起をかけて手術をしましたが、目に障がいが遺り野球を続けられなくなりました。

重い病気になり、誰かを励ましたり、苦しんでいる人を助けようとする気持ちが強くなったそうです。

諦めないことの大切さを伝える講演活動を、28歳で亡くなるまで続けました。

病気にならなければ、野球選手として素晴らしい成績を残せたでしょう。

けれども、ご自身が困難や障害に立ち向かって行く姿を見せて、多くの人の魂を鼓舞し、成長を促すことにつながるこの人生の方が、霊的に価値があると考えられます。



病気になったことを嘆いたり、病気を憎んだりする人がいます。

そのような感情を持つと、大切なものに気付くことも、変わることもできません。

病気は結果です。

原因を作ったのは自分です。

何が原因だったのかを、心を鎮めて見つめ直して下さい。

霊的法則に照らし合わせて、過った生き方や考え方をしているのに気付いたのなら、直ぐに改めましょう。

気付くことができなければ、知ることのできない過去に原因があったり、霊的な目的が存在しているのかもしれません。



病気になったのは、万物を支配している法則の働きによるものです。

その法則を創ったのは神です。

神の創った法則の隅々にまで、神の愛が行き渡っています。

従って、苦しめるため、痛めつけるためではありません。



原因はそれぞれ違いますが、目的は同じです。

苦しみや痛みが強い時には、望ましい自分に変わるために、肉体のある地上でしかできないこの経験がどうしても必要だったと、言い聞かせて下さい。



後に、肉体を脱ぎ捨て、魂が露わになった時、浄化された自分の姿を目の当たりにして、悦びを感じるはずです。





2025年12月7日日曜日

愛する人との別れの意味


地上では、さまざまな感情が生まれます。

怒り、悲しみ、怖れなど、肉体を持つ人間として、避けられない感情です。



怒りが生じると、顔が紅潮して、眉間にしわが寄るなどして、肉体によって表現されます。

悲しみが生じると、泣いて、目から涙が流れます。

すごくうれしい時にも、人は泣いて涙を流します。

悲しくて泣いているのか、うれしくて泣いているのか、見分けがつかない時があります。

人間は不可思議な生き物です。



別れの時に、多くの人は涙を流します。

愛しいほど、悲しみは深くなり、たくさんの涙を流します。



シルバーバーチの霊訓によると、霊界から地上に誕生(再生)する人を見送る時にも、涙を流す人がいるようです。

ただ、目的があって地上に生まれ、目的を果たしたら帰って来るのを知っているので、地上のような悲しみの涙ではありません。



また、霊界にいる人は、地上にいる人に会いたくなったら、自分の意志によって会いに行くこともできます。

けれども、肉体はなく五感もないので、地上の人のように外部を感識しているわけではありません。

肉体などの物質は影のように見えます。

霊的な感覚によって、人間の本質である魂(霊)がはっきりと分り、そこから発せられた想いを感じ取ることができます。



霊界の人が残念に思うのは、傍にいるのに地上の人が気付いてくれないことです。

仕方がないとは言え、「いなくなってしまった」と勘違いして、嘆き悲しんでいるのを見ると、いたたまれない気持ちになります。



地上の人に求められるのは、正しい霊的な知識を持つことです。

そして「守り導いてくれている」と強く信じることです。



信じようとする地上の人の想いは、霊界にいる人にとって愛されているように感じられます。

両者のつながりは強くなり、霊界にいる人は安心して導くことができます。



信じるのも、信じないのも個人の自由です。

けれども、信じないのならば「もう会えない」と言う事実誤認から生じる無用の苦しみを味わうことになります。



信じることができれば、次元を超えて愛することができます。

次元を超えて愛するのは、同じ次元にいた時よりもはるかに困難です。

困難を克服して愛することができれば、愛せない苦しみから解放されます。



霊界にいる人は、地上の人を守り導くことで、愛を表現しています。

次元を超えて守り導くことは、同じ次元にいた時よりもはるかに困難です。

困難を克服して守り導くことで、自らも学び成長しています。



導きは、はっきりと分る形で示されるわけではありません。

こんなことはないでしょうか?

特別な理由もないのに、どうしても行かねばならない、どうしても行く気になれない気持ちになる。

心に浮かんだ場所に行ってみると、探しているもの(答え)が見つかった。

特定の人と、どうしても関りを持ちたくなる。



それらは思考の産物ではなく、霊界からのインスピレーションが伝わって来て、衝動に駆られたのかもしれません。

地上の人にも霊的な感覚があり、想像している以上に霊界からのインスピレーションを受け取っています。

そのことを知っていた方が、ずっと導きを受けやすくなります。



心が沈んでいる時、霊界にいる人とのつながりを意識すれば、励ましの想いを受け取れるかもしれません。

受け取った瞬間、心の中がパッと明るくなったり、温かいものを感じたり、前向きな気持ちになるのが感じられるかもしれません。



生きている次元は違っても、本質である魂は同じ次元に存在しています。

本来は自由に思念のやり取りができます。

しかしながら、地上の人には五感があり、そこから入る情報に圧倒されて、霊界から届いている想いやインスピレーションに気付きにくくなっています。

もし、気付いてもらえたならば、霊界にいる人はうれしくなるでしょう。



眠っている時は、肉体から解放されています。

霊界にいる人と同じ次元で会い、想いを交わしているのですが、起きてしまうと思い出せません。

想いは言葉を超越したものです。

従って、言葉として思い出すことはできません。

けれども、想いを受け取った時の余韻は残っているかもしれません。

親愛の想いを交わし合っていたのならば、うれしさや悦びに包まれながら目覚めるかもしれません。



ところで、自分がいなくなり悲しんでいる地上の人を見て、どう感じているのでしょうか?

愛されていると感じているのではないでしょうか。

その理由は、愛しさがなければ、悲しみは生まれないからです。



行き場を失った愛が、悲しみとなります。

悲しみを抱き続けるのは、愛し続けるのと同義なのかもしれません。



生きていたとしたら、そこまで愛し続けることができたのでしょうか。

半ば強制的に、愛し続けるようになるのが、地上の別れの本質と考えられます。



人は愛することで成長します。

片時も忘れずに、愛し続けるのであれば、同じ次元で生きているよりも、成長しているはずです。



出会うことは、生まれる前に決まっています。

死ぬ時も決まっています。

従って、出会い、別れることは、予定されていたと考えられます。



何故、別れが予定されていたのでしょうか?

一生涯をかけて、学び成長してもらうためかもしれません。



相手への想いがなければ、そのような人生を選択することはありません。

「何故、逝ってしまったの?」という地上からの問いかけに、「心から愛しているから」と答えているのかもしれません。




正確な答えは、再会の時に分かります。

悲しみの涙は、うれし涙に変わります。

どちらの涙も、同じ愛から生まれていたことに気付くでしょう。



信じて生き抜いたこと、守り導き通したことによって、魂と魂はより強く結ばれています。

約束が無事果たされたことを知り、深く安堵するでしょう。



2025年11月30日日曜日

この世に苦がある理由


最近、終活をしている人が多いようです。

備えあれば憂いなしですが、昔は死んだ時のことを考えるなんて縁起でもないと考える人が多くいたので、時代は変わったものです。



死後の世界や魂の存在を、頭ごなしに否定する人が少なくなって来ているように感じられます。

それに伴い、死に対する考えが少しずつ変わって来ているのかもしれません。



死は忌まわしいものでも、怖いものでもありません。

肉体から魂(意識)が解放され、本来の住処に戻る現象であり、喜ばしいことです。



死後の世界が明らかされれば、死を恐れずに、安心して生きて行けると思いますが、そうはなっていません。

明らかされないのは理由がありそうです。



オーストラリアでこんな調査結果が出ました。

16歳から85歳までのオーストラリア人のうち約150万人(7.4%)が自殺の計画を立て、約97万人(4.9%)が生涯のどこかで自殺未遂を経験しています。

計画を立てないまでも、死んでしまいたいと思ったことのある人はずっと多く、日本人の若年者の44.2%が希死念慮を経験しています(日本財団の調査より)

死にたいと思ったことのある人は、想像していた以上に多いです。



あの世があり、死んでもそこで生き続けることが明らかになったらどうなるでしょう。

自らの意志で行ってしまう人は、少なくないと予想されます。



この世では、時に生きているのがつらくなるような困難や苦難に遭遇します。

そんなこの世を生きている目的は、自分(魂)を成長させるためです。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたものすべてが霊的進化の過程で大切な役割を果たしているのです。」

そしてこうも書かれています。

「苦しみの淵を味わわずに、魂の修練は得られません。底まで降りずに頂上まで上がれません。それ以外に霊的修練の場はないのです。あなた自らの苦しみ、自ら艱難辛苦を味わい、人生の暗黒面に属することの全てに通じて進化が得られるのです。」



あの世は、苦から解放された世界です。

この世を生きた方が、より自分を成長させることができると考えられます。

快適なあの世を離れて、苦のあるこの世に生まれて来たのは、自分を成長させようとする意志があったからです。



この世に生まれると、肉体で自己表現するための自我が生まれます。

その自我は、肉体の成長と共に発達して行きます。

多くの人はその自我を自分だと思っていますが、その奥に真の自我が存在しています。

死んであの世に行くと肉体がなくなり、この世で自己表現していた自我もなくなります。



あの世は真実の世界と言われます。

それは、真の自我が露わになり、嘘偽りのない、本当の自分の想いのみが表現されるようになるからです。



五感に触れない極めて大切なものが2つあります。

1つは「愛」であり、もう1つは「神」です。

あの世に行くと霊的な感覚だけになり、それらの存在がありありと感じられるようになります。



神は無限の存在です。

全宇宙であり、全宇宙を支配している法則であり、全宇宙と法則を創造した意識であると考えています。



その意識は完全なる愛です。

その意識に触れると、愛を実感し、悦びに満たされます。



霊的に成長し、神の意識に近づくことで、より深い悦びが得られるようになります。

深い悦びを得たいがために、私たちは成長する方向へと進んでいると考えられます。



神は遠く離れたところにいる存在ではありません。

私たちの内にもいます。

私たちは完全な愛を秘めた存在ですが、表現媒体である自我が不完全なために、表現することができないだけです。



あの世に行ってしばらくすると、自分の不完全さを自覚して、足りない資質が意識されるようになります。

足りない資質を身に付けるために、苦のあるこの世に生まれて来ています。


6歳くらいの時に、自転車の乗り方を覚えました。

本を読んだり、口で教えてもらって、乗れるようになるわけではありません。

サドルにまたがり、時に転んで痛い思いをして、試行錯誤を繰り返しながら、乗れるようになります。



それと同じで、実際に自分で経験しなければ、霊的な資質を身に付けることはできません。

身に付けるのに相応しい経験をすることになります。



例えば、「勇気」です。

真の勇気とは、良心に従って行動しようとする力であり、成長して行くために不可欠な資質です。

身に付けるために、怖れや不安を克服して、乗り越えて行かなねばならない経験をすることになるかもしれません。



「寛容」は、自己犠牲を伴う愛の表現であり、神の意識に近づくために重要な資質です。

身に付けるために、他者の過ちを許さなければ、前に進んで行くことができない経験をすることになるかもしれません。



どんな出来事を、いつ経験するのかは、知ることはできません。

完全なる神によって立てられた計画であれば、最善の出来事が、最善のタイミングで起きるはずです。

けれども、この世の人にとっては、最悪の出来事が、最悪のタイミングで起きたと感じられるかもしれません。



少し長くなりますが、シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「何もかもがうまく行き、鼻歌まじりののん気な暮らしの連続では神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を悲しみをそして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験して初めて霊的知識を理解する素地が出来上がるのです。(中略)霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。もちろん楽なことではありません。しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、なにも苦労する必要はないでしょう。痛みと苦しみの最中にある時は中々、その得心が行かないものですが、必死に苦しんでいる時こそ魂にとって、一番の薬なのです。」



生きるのがつらくなるような出来事を経験しているのであれば、それを不運や不幸と思わない方が良いのかもしれません。

自分のために起きていて、自分で決めていたことかもしれないからです。



人生を嘆いたり、運命を呪ったり、神を恨んだりしてはいけません。

予期していた資質を身に付けて、成長して行く妨げになるからです。

不平不満や愚痴を言ったり、誰かのせいにしてしまうと、自分を変える力が削がれてしまいます。



あの世に行くと全てが明らかになります。

たとえ今は分からなかったとしても、自分を望ましい方向に変えるために起きていると、強く信じましょう。

あの出来事があったからこそ、今の自分がいると思う時が必ず来ます。



この世の苦の経験は、霊的な資質を身に付け、成長することにより、完全に報われています。

あの世での生きる悦びにつながっていたことを知り、神に感謝するでしょう。



2025年11月23日日曜日

動物を食べてはいけない

 

前回は「クマの駆除」について思うところを書きましたが、それでは片手落ちではないかと感じましたので、このテーマで書くことにしました。


子供の頃、たくさんの牛が貨物トラックに載せられて、走って行くのを見ました。

今にも涙を流しそうな潤んだ悲しい目をしているように見えて、何とも言えない気持ちになりました。



小学6年生くらいの時に、その牛たちの行く末を知ることになります。

実家の近くに、規模の大きい食肉工場がありました。

ある日、近所の友達とその工場に隣接した公園で遊んでいました。

ふと工場の中がどうなっているのかが気になり、中を覗いて見ようという話になりました。

友達とともに背丈よりも高いブロック壁をよじ登ると、目の前に工場のくもりガラスの窓がありました。

半分位割れてなくなっていたので、建物の中の様子を覗くことができました。(※ここからは凄惨な描写になりますのでご注意ください)

そこに数人の男性が見えました。

しばらくすると一頭の黒白模様の大きな牛が、男性たちの中に牽かれてやって来ました。

牛は観念しているのか、身動きも、抵抗もせず、鳴き声ひとつも上げていません。

一人の男性が、つるはしの両刃が10センチ位に短くなったような道具を持っていました。

何に使うのか考えている暇もなく、男性はその道具を振り上げて、力いっぱい、牛の眉間の少し上の部分に、振り下ろしました。

刃先が頭蓋骨を打ち破る、鈍い音が響き渡りました。

直後に、牛はコンクリートの地面に倒れて、頭蓋骨の穿孔部から、どくどくと真っ赤な血が溢れ出てきました。

男性の一人が、倒れた牛の額の穿孔部に針金のようなものを入れて行くと牛の後ろ足がピクピクと痙れんしていました。

他の男性たちは、刃物で皮を引き裂いて、はがしていき、あっという間に、皮膚のない牛が、フックみたいな金属につるされました。

今まで元気に生きていた牛が、人間の手で殺されて、ものの5分もかからないうちに肉の塊になりました。

あまりに衝撃的な光景を目の当たりにして、言葉をなくしたまま家に帰りました。



今も変わらず、たくさんの牛や豚やニワトリが食肉工場へと運ばれて行きます。

あるドキュメンタリー映画で、豚を乗せたベルトコンベアが、小さなスペースの前で止まり、プレス機により一瞬のうちに圧死させて屠殺するシーンがありました。

苦痛や恐怖を軽減するためでしょうか、今は機械により行われていることを知り、より一層の非情さを感じました。



比較的安い値段でハンバーガーを提供している会社があります。

生産コストを下げるために、動物たちは密集度の高く、自由を奪われた環境で育てられていることが多いようです。

動物は商品に過ぎないので、ストレスなど全く関係ありません。

そして、容赦無用に肉にさせられます。

同じ魂を持つ生き物に対する尊厳は微塵も感じられません。

絶対的強者である人間による、弱者への究極的な虐待のように思えてなりません。

口にしている肉が、どのような行程で造られているのかを知れば、食べる気が失せてしまうでしょう。

いいえ、知らないふりをしているだけかもしれません。



ところで、人間は肉を食べなければ生きて行けないのでしょうか?

むしろ、健康的に生きて行けると私は思っています。

疫学的研究からも、摂取する肉食の量が多くなるほど、病気になるリスクが高くなることが示されています。(下図)

「Nature  Madicine」10 October 2022 より


それでは、人間はどんなものを食べるように創られているのでしょうか?

人間の奥歯の形態は、嚙み合わさる面が平らになっていて、穀物や豆類などを砕いて食べるのに適しています。

同じ霊長類であるゴリラやオラウータンは人間と似たような歯の形態をしており、果実などの植物しか口にしません。

人間の下の歯


一方、肉食動物の奥歯の形態は、鋭く尖っていて、肉を嚙み切れるように創られています。
ライオンの下あごの標本

人間は肉を食べるように創られていないのです。



牛や豚やニワトリは、何らかの役割りがあって、地球に存在しています。

例えば牛ですが、草を食べて過度の繁茂を防いだり、背の高い植物の競争力を抑えて多様な草花が生える環境を作り、草原の更新を促し光が地表に届くようにさせるなど、草原生態系の維持に貢献しています。

豚もニワトリも同じように、大自然の中での役割りがあります。

傍にいたならば、犬や猫のように人を癒すことができるのかもしれません。

人間に食べられるために存在していないのは確かです。




食肉工場で屠殺された動物たちはどうなるのでしょうか?

霊界を探訪して来た人によると、人間によって肉体を奪われた動物たちの絶叫が聴こえるエリアがあるようです。

極めて大きな恐怖を感じながら命を奪われ、その意識のまま霊界に行くので、当然のことながらそうなります。

              

そのエリアには、神からの癒しの力が降り注がれていると共に、動物を慈しむ霊界の人たちによって介抱されて、興奮状態は鎮められて行くと思われます。

良心に反して、利己的な目的のために動物に苦痛や恐怖を与えた人たちは、死んで大いに後悔することになります。

その後悔を晴らすため、罪を償うために、地上からひっきりなしに送られてくる動物たちの管理や世話をしているのではないかと想像しています。

愛により本来の姿を取り戻した動物たちは、自分が属している類魂へと戻って行くと考えられます。


人間から愛を受けることによって、動物は霊的に進化します。

肉を食べるという行為は愛とは真逆であり、動物たちの進化は妨げられます。

摂理に反したその行いは、自らの進化を妨げるという結果となって、人間に返って来ます。



動物たちの苦痛や恐怖を想像する力の欠如、そして霊的な知識の不足から、肉を食べる習慣が続いています。

それを急に止めさせることはできません。

けれども、人類の霊的成長に伴い、毛皮のコートを着る人が少なくなったように、肉を食べる人も少なくなって行くでしょう。

数百年後には、肉を食べる人は少数派になります。

そして千年後には、食べていた時代があったのかと、驚かれる時が来るでしょう。



動物を食べてはいけないのは、人間と霊的に近しく、豊かな感情を持っているからです。

人間に食べられるために創られていないからです。









2025年11月16日日曜日

クマの駆除について思うこと


連日のように、人里にクマが出没し、人が襲われるニュースが報道されています。

今年、日本でクマに襲われて命を落とした人の数は13名で、過去最高です。

生息地域周辺に住む人にとって生命に関わる問題であり、早急な対策が望まれます。



なぜ、クマが人の住んでいる地域にまで入って来るのでしょうか。

その大きな理由として、山でドングリなどの食糧が採れなくなったことが挙げられます。

通常、冬眠前のクマはたくさんの木の実を食べて、皮下脂肪を蓄えて丸々と太っていますが、ニュースの映像を見る限り、ほっそりとしていることからも、そのことが窺えます。



十分な皮下脂肪を蓄えないと、クマは冬眠に入れません。

冬眠に入れなければ、食糧の乏しい冬は越せません。

生命に関わる深刻な状況にクマも陥っています。



クマが狂暴になったと言われますが、果たしてそうでしょうか?

人間も空腹になると(血糖値が下がり)イライラしたり、怒りっぽくなります。

クマも同じだと思います。

寒い冬が迫って来て、焦りのようなものも感じているのかもしれません。



クマは警戒心が強く、臆病な動物です。

食べないと冬が越せないので、やむを得ず食糧のある人里まで降りて来ていると考えられます。

山にいると飢えて死んでしまい、人里に下りて餌を探すと撃ち殺されてしまう、どちらにしても過酷な運命が待っています。



何故、このような状況になってしまったのでしょうか?

木の実が採れなくなった原因は、気候変動にあると考えられます。

気候変動の大元に、地球温暖化があるのは間違いありません。



ドングリやナラなどの実は、一定間隔で豊凶作を繰り返していますが、気温が高くなると凶作が短い期間で起きると言われています。

特に、猛暑の年は花芽の発育が不良になり、翌年は凶作になるようです。

猛暑が続く限り、凶作も続くと考えられます。



地球温暖化は、人間が過剰に作り出している二酸化炭素によって起きています。

つまり、クマが人里に下りて来る大きな原因を作っているのは人間と言うことになります。


地球温暖化により被害を被っている動物は他にもいます。

気温上昇のために北極圏の氷が溶け出して(過去40年で40%消失)、アザラシなどを捕食しているシロクマは移動できないために、飢餓状態に陥っています。

私たちが知らないだけで、たくさんの生き物たちが生命の危機に晒されています。

痩せたシロクマ

全ての生き物に神性が宿っています。

霊的に同じ価値があります。

けれども、多くの人間は自分たちが最も価値のある生き物だと思っています。

そのために、人間中心に考え、他の生き物にまで関心が及びません。



人間の行いの1つ1つに、自然法則が働いています。

傲慢で利己的な行いには、苦痛を伴う結果が返って来ます。

(ケガをした人や亡くなった人に非があるわけではありませんが)クマに襲われるのは人間の身勝手な行いが原因と考えられます。



人家に入ったクマを撃ち殺す銃声がニュースで流れて、心が痛くなりました。

もちろん自分の身を守る権利はありますが、人間の諸業の被害者であるはずのクマが、一方的に撃ち殺されている現実に矛盾を感じずにはいられません。



私も日常生活で、車に乗り、電気を使い、二酸化炭素を出しているので、責任の一端があります。

非現実的かもしれませんが、人間とクマの命を守るための対策を、私なりに考えてみました。

〈短期的対策〉

・クマの食糧となるものを屋外に置かない。(柿や栗などの実も早期に収穫)

・無用な接触を避ける。(生息地域周辺の登山やハイキングなどの自粛)

〈中期的対策〉

・人里に現れたクマを射殺するのではなく、麻酔銃(吹き矢)で捕獲して、人間が恐い存在であることを自覚させて、位置情報が得られる発信器を装着して山に帰す「キャッチ&リリース」を繰り返す。(都道府県単位でクマGメンを組織してこの業務に当たらせる。)

・「クマアプリ」を開発し、一定範囲内にクマが近づいて来たらスマホに通知するようにする。

〈長期的対策〉

・放置されている人工林(スギ・ヒノキ)を間伐し、ブナなどの広葉樹を植えて、実り豊かな森林にする。

⦿学校の授業の一コマに「地球を考える(仮称)」を組込み、その中で野生動物との共生について考える。

その中で、自我(エゴ)がまだ発達していない子供たちに、こんな霊的真理が伝えられれば、どんなにか良いでしょう。

「愛が愛として本来の威力を発揮するようになれば、すべての創造物が仲良く暮らせるようになります。地球という生活環境を毒し問題を発生させる不協和音と混沌のタネを蒔くのは、人間という破壊主義者、人間という殺し屋です。すべての問題は人間が拵えているのです。神が悪いのではありません。動物が悪いのでもありません。人間が自由意志の行使を誤り、勝手に優越性を誇ったためです。」

子供たちに分かりやすく書くとこうなります。

「みんなの心の中にある「愛」がちゃんと働くようになれば、この世界の生きものは、みんな仲よくくらせるようになります。でもね、人間は地球をよごしたり、あらそったりしています。神さまが悪いわけでも、動物たちが悪いわけでもありません。人間が「ぼくたちが一番えらいんだ」と勘違いをして、好き勝手にしてしまったから、いろんな問題が起きているのです。」



「人間が悪いのに、クマを殺しても良いの?」と子供たちに問いかけたらどうでしょう?

「だめ!」と多くの子供は答えるでしょう。

「動物たちを助けるためにはどうすれば良いの?」と投げかければ、おのずと地球温暖化に関心が向くと思います。

そこで、二酸化炭素を減らすために、社会でするべきこと、自分にできることを、みんなで話し合います。

答えが出たら、今日から実行に移してもらいます。



同じような問題が世界中で起きています。

日本だけでなく世界中の学校で、今起きている問題を通して、地球温暖化について話し合います。

同じ想いを、世界中の子供たちに共有してもらいます。


射殺された母クマの乳を吸う赤ちゃんクマ(日本熊森協会HPより)


「クマを駆除する」

山にいて平和的に共存していたクマを、人里に下りて来なければならない状況を作った人間に、そんな権利があるのでしょうか。

その場しのぎで、人間のことしか考えない、エゴの強くなった人たちにいくら言っても無駄なような気がします。

動物たちの窮状と、なぜこうなったのかを教えれば、子供たちの良心に響いて、真剣に考えてくれるでしょう。

子供たち一人ひとりの意識が、人間だけでなく動物たち、そして地球全体に向かうことで、世界は確実に変わって行きます。






2025年11月9日日曜日

地上に生まれた理由


私たちは地上に、何らかの目的があって生まれて来ました。

自分には目的など見当たらないと言う人もいるでしょう。

それでも、なければ生まれて来ないので、あったと言わざるを得ません。



死んで無にならないと、霊的真理によって知りました。

肉体から魂が分離する現象が死であり、肉体から離れた魂は霊界に赴きます。

そこが本来の住処です。



想像するのが難しいのですが、霊界では想ったことが直ちに具現化します。

食べる必要がなく、働く必要もありません。

煩わしい人間関係もありません。

病気や怪我の心配もありません。

自由にやりたいことができます。

何の悩みもなく、無邪気に遊んでいた子供の頃に、少し似ているような気がします。



高い界層から地上圏に戻って来た目的を、シルバーバーチはこう語っています。

宇宙には神の愛が行きわたっております。その愛が天体を運行せしめ、その愛が進化を規制し、その愛が恵みを与え、その愛が高級霊の魂を鼓舞し、それまでに成就したもの全部をお預けにして、この冷たく、薄暗い、魅力に乏しい地上へ戻って人類の救済に当たらせているのです。

何の目的もないのに、快適で住み慣れた世界を離れて、好き好んで地上に生まれようとする人はまずいません。



それぞれに目的がありますが、いざ地上に生まれると分からなくなってしまいます。

特別な使命がある人もいるでしょうが、多くの人は学び成長するためと考えられます。



地上に生まれなくても、学び成長することができるのではないかと思う人がいるかもしれません。

出来るならば霊界で成長して行きたいと私も思う時がありますが、そうは行かないようです。


私たちが学んでいる叡智で最も重要なものは「愛」です。

そして、霊的に成長するために必要なものも同じく「愛」です。



思念の世界である霊界では、愛に実体があります。

愛は光輝であり、霊的な感覚によって認識されます。



例えて言うならば、太陽の光のような存在かもしれません。

生きる上で、必要不可欠なものです。

けれども、在って当たり前のように思うと、ありがたさは感じられなくなります。

ありふれたものになるほど、その存在意義が分からなくなってしまいます。



そこで地上に生まれます。

地上では、肉体に付随する五感に依存するようになります。

相対的に霊的な感覚は極めて弱くなります。

霊的に盲目な状態で生きています。



五感で愛は感じられません。

地上では肉体を介した表現を通して、魂が感じ取るようになります。



道を譲ってもらうと、うれしくなります。

失敗して慰めてもらうと、気持ちが落ち付きます。

助けてもらうと、助けてくれた人に感謝したくなります。

このような心の変化は、魂が愛を感じ取った時に起こります。


太陽の光の下では、ロウソクの光は分かりにくいです。

闇の中で、浮かび上がります。



それと同じで、愛が実感できる霊界では、却って愛は分かりにくくなります。

地上という霊的な闇の中で、愛は光り輝きます。



そのために必要な出来事を経験しています。

その出来事は、往々にして苦しみや痛みや悲しみを伴います。

精神的に追い詰められた末に、魂が目覚めます。

真っ暗闇の中で、霊的な目が見開かれて、本当に大切なものを見出します。



地上では肉体があるために、怒りや憎しみなどの感情が生まれます。

それらの感情が渦巻く世界で、より一層、愛は存在を際立たせます。



何故、そこまでして愛を学ばなければいけないのでしょうか?

生命が愛によって1つになって行く計画が立てられ、この宇宙は創造されたと考えています。



愛は魂を引き付ける力です。

お互いが愛を発揮することで、調和が生まれ、霊的に1つになって行きます。

愛は宇宙を進化させている根本原理なのです。



霊的なものが見えなくなる地上に生まれ、さまざまな出来事を経験することにより、霊界に戻ってより高く強い愛が発揮され、深い悦びが感じられるようになります。

魂と魂が愛によって強く結ばれ、霊的に1つになった時に感じる悦びに優るものはありません。



限りなく先になりますが、全ての人が神の愛を表現するようになった時、全体は1つとなり、至高の悦びに満たされた世界となります。






2025年11月2日日曜日

法則の働き

地上の人間は、目に見えない霊(魂)と精神、目に見える肉体から構成されています。

それぞれが存在している次元は異なります。



全ての次元に、自然法則が働いています。

法則には普遍性と再現性があり、いつどこでも同じような現象が起こります。

水は0℃になると凍り、100℃になると沸騰します。

これは物質的次元の法則の働きによるものです。

別れには悲しみが、裏切られると怒りの感情が生まれます。

これは精神的次元の法則の働きによるものです。

地上に生まれるのも、去るのも、霊的次元の法則が働いた結果です。



全ての法則の根幹を為しているのが「因果律」です。

原因があれば必ず結果が生じ、結果があれば必ず原因があります。

あらゆる事象は、因果律の働きによって起きているので、偶然はありません。



病気にも原因があります。

お酒の飲み過ぎで肝臓病になる人がいます。

これは物質的次元のアルコールが原因です。

過労で胃潰瘍になる人がいます。

これは精神的次元のストレスが原因です。



霊的次元に原因があって、物質的次元(肉体)に病気となって現われることがあります。

例えば、遺伝性疾患です。

受精した瞬間に遺伝子の変異が起きるのであれば、原因は受精以前にあることになります。

生まれる前に原因が存在しているので、霊的次元の病気と言えます。

ガンや膠原病などの病気も、物質的、精神的、霊的次元の原因が絡み合って生じていると考えられます。

物質的、精神的次元の原因は取り除くことが可能ですが、霊的次元の原因を医学的に取り除くことは不可能です。



病気以外の出来事も、生まれる前に原因があって起きることがあります。

過去の人生において、何かしらの過ちを犯して、それが原因となって(苦痛を伴う)出来事が起きることがあります。

自分を成長させるために、出来事を経験する人生を選んでいる時もあるでしょう。



起きた出来事を偶然や運と思ってしまうと、何で自分がこんな経験をしなければいけないんだと、理不尽さが募り、憤りを感じることもあります。

シルバーバーチの霊訓にはこのように書かれています。

「一つとして偶然がないのです。偶発事故がないのです。全てが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自分に目覚めた時、何もかも分るようになります。」

「私がこれまで送ってきた霊界生活で、“自分は神の法則によって不当に扱われている、不公平だ”と真剣に言える人を一人も知りません。」

地上で分からなかった原因や目的が、霊界に戻ると分るようになり、誰もが納得します。



人生には、およその計画があります。

無限の叡智によって、人生の計画は立案されています。

その計画を了承して、私たちは生まれて来ています。



計画されていた出来事が、目的を果たすために最善のタイミングで起こります。

それは地上にいる人にとって、最悪のタイミングに思えるかもしれません。

何の前触れもなく、亡くなる人がいます。

どこを探しても理由が見つからなければ、その時に亡くなることが予定されていた可能性があります。

そうであれば、地上にいる時間が短かったとしても、生まれて来た目的を果たしたと考えられます。



無限の叡智によって、法則は創られました。

法則の働きによって、宇宙は経綸され、秩序が保たれています。



無限の叡智は、無限の愛でもあります。

それを「神」と呼ぶことにします。

この宇宙は、神の心が具現化したものです。

宇宙の一部である私たちには、神の心が内在されています。



人生の計画の隅々にまで、神の愛が行き渡っています。

法則の中に、神の愛が顕現しています。

人生で起こる出来事は、神の愛のなせる業であるために、最終的には良きに計らわれます。



災害や事故により、苦しみや痛みを味わっている人がいます。

そんな出来事を経験した人にも、法則は働いています。

学びや成長という霊的な埋め合わがもたらされています。



冬の寒さに耐えた者は、春の暖かさにささやかな悦びを感じます。

この人生が終わると、新たな人生が始まります。

地上でしか起こり得ない出来事を経験した者は、新たな人生が始まると生きる悦びを感じます。

生きる悦びを感じるために、出来事を経験していると言った方が正しいでしょう。



さまざまな出来事を経験することで、魂は豊かになります。

苦難を乗り越えることで、魂は成長します。

それが神の法則であり、神の愛です。






2025年10月26日日曜日

病気を癒す力


20年前のある朝、ヒーリングの力が左手から出ていることに気付きました。

その力の正体を知りたくなり探している時に、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に出会いました。



そこには、こう書いてありました。

「痛みや苦しみを取り除いてあげることがヒーリングの目的ではありません。あくまでも手段です。つまり、居眠りをしている魂を目覚めさせ、真の自分を見出させるための手段に過ぎないのです。」

初めて読んだ時には、その意味がさっぱり分かりませんでした。



霊的真理を学び、ヒーリングの経験を積むに従って、少しずつ分かって来ました。

ヒーリングの目的は、魂に働きかけて目覚めさせることにあります。

けれども、魂が目覚めたかどうかを、外から判断することはできません。

その後の様子を見て、推測することになります。



今から、15年位前でしょうか、50代の女性が歯の治療を目的に来院しました。

顔色が良くありません。

お話をお伺いしたところ、家庭の事情などから精神的に追い詰められ、心身の不調が続いて、引きこもり状態になっているそうです。

お役に立てるかもしれないと思い、ヒーリングを行うことを提案しました。

すると、快く了承していただけました。



診療が終わった後にヒーリングを行いましたが、終わると彼女の表情は明るくなり、目の輝きが増していました。

その後、ご自分でも驚くほど快活になったそうです。

以前やっていたピアノ演奏のリサイタルを開くまでになり、聴きに来てくださいとチケットを渡されました。

この人のように、ヒーリングの後に生き方や考え方が大きく変わったとしたら、魂が目覚めている可能性が高いと思われます。



シルバーバーチの霊訓には、こうも書いてあります。

「ヒーリングによって奇跡的に病気が治る、それはそれなりに素晴らしいことですが、その体験によってその人が、霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、そのヒーリングは失敗に終わったことになります。」

10数年前のことです。

大学の同級生の奥さんが関節リウマチになりました。

朝の関節のこわばりが特に酷く、肩の関節は固着して腕は少ししか上がらず、家事も満足にできない状態でした。

ヒーリングで力になれないかと思い、同級生宅に赴きました。

話を聞くと、医者に肩が固着したレントゲン写真を見せられて、もう治らないと思ったのでしょう、泣いてしまったそうです。

その肩に左手を当ててヒーリングを行いながら、右手で腕を少しずつ挙げて行きました。

痛みもなく腕が挙げられたことに、とても驚いたようでした。

しばらくして、仕事に復帰し、ゴルフにも行けるようになったと話を聞きました。



その後、奥さんに会って話をする機会がありました。

身体は確かに良くなりましたが、霊的なことに関心は示さず、内面が変わった様子も見られませんでした。

目的を果たせなかったようであり、とても残念に思いました。



病気と言っても、原因はさまざまです。

物(肉体)的、精神的、霊的いずれかの次元に、原因が存在しています。



霊的な過ちを、病気の苦痛によって償っている人もいます。

学び成長するために、病気になることが予定されていた人もいます。



そんな人は、目的が果たされるまでヒーリングが奏功することはありません。

償いが終わりかけた時、予期した学びや成長が得られた時に、導かれるようにしてヒーリングを受ける人がいます。

そんな人たちの多くは、病気が癒されると同時に、魂が目覚めると考えられます。



目に見えない生命(霊)力が流れることによって、私たちは生きています。

病気や怪我は、生命力の一種である自然治癒力の働きによって癒されます。

生命の危機に晒されるほどの病気や怪我をして、自我が追い詰められて、魂が目覚める人がいます。



神の法則の働きによって病気は生じ、神の力である生命力によって癒されます。

ヒーリングにより外部から生命力が注がれなくても、内(魂)から湧き出している生命力によって、病気を癒すことができると考えられます。



そのためには、霊的な意識を高めなければいけません。

霊的な意識を高めるには、自我の働きを鎮めることが必要と思われます。

しかしながら、地上を生きるために自我の働きは必要不可欠なものであり、鎮めるのは容易ではありません。



思考するのも、感情が生まれるのも、自我の働きによるものです。

地上では自分(肉体)を守ろうとする意識が働くために、不安や怖れが生じます。

物質を介して自己表現している不確実な世界であり、思い通りに行かないために悩みが生じます。

そのような感情に捉われてしまうと、霊的な意識を高めることができないばかりか、生命力の流れも妨げられてしまいます。



シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「恐怖は魂を閉じ込めてしまう牢獄を作ります。恐怖の波動で乱されることなく、それを乗り越えていかねばなりません。誰にもやり遂げる力はあるのです。人にはどのような環境をも乗り越えていける力が与えられています。そのことを知り、完全な信仰と自信と信頼をもって『私には神性が宿っており、どのような状況も私を揺るがすことはできない。私の魂にはあらゆる困難に打ち勝つ無限の力があるのだ』と自分自身に言ってください。」(省略なし)



そしてこうも書いてあります。

「この世に克服できない悩みはありません。ですから。悩んではいけないのです。征服できない困難はないのです。力の及ばないほど大きな出来事は何一つ起きないのです。ひとつ一つの経験から教訓を学ぶことです。難しいと思ったときは、ひるまずに自分にムチを打つのです。そうすればそれだけ前よりも強い人間となります。自分が霊であること、それが肉体を通して表現しているのだということ、そして自分という永遠の霊に傷を負わせたり害を及ぼしたりするものは決して生じないことを忘れないことです。」(省略なし)

「自分には神が宿っていて無限の力があるので、克服できないことはない」と自分に言い聞かせることによって、無用な感情や考えに捉われなくなり、内から生命力が湧き出して来ます。


人間よりも動物の方が、怪我の治りが早いように感じられます。

それは、人間のように自我から生じる感情や考えに捉われることがなく、生命力の流れが妨げられずに、自然治癒力が十分に発揮されるためと考えられます。



長寿の人に長生きの秘訣を尋ねると、「くよくよしない」、「腹を立てない」と答えが返って来ることが多いです。

生命力の流れを妨げてしまう感情に捉われなければ、病気になりにくいと考えられます。

昔から病気は気からと言われますが、自我の働き(心)と深く関係しているのは間違いありません。



思念(想い)は、具現化する力です。

地上では直ぐとは行きませんが、想いは具現化する方向へと向かいます。

病気を克服した自分の姿を思い浮かべて、そうなると強く想えば、身体もそちらの方向へと向かうはずです。(スティグマが現れるのもその一例です)



病気は地上でしか経験できません。

霊的なものが見えなくなる地上において、苦痛によって魂を目覚めさせ、言葉を超えた霊的な学びをするために、(霊的次元に原因がある)病気は存在しています。

その目的が果たされると、病気が存在する意味はなくなり、肉体上から消えるはずです。






2025年10月19日日曜日

1人で生きているのではない


先週末は学会参加のため、鹿児島市に行って来ました。

空港からバスに乗り市内で降りて、スマホのグーグルマップを頼りに、予定通りに学会場に着くことができました。

昔は、地図を見たり、道を尋ねたりしていたので、便利になったものです。

人生においても、どちらに進んだら良いのか、迷う局面があります。

これから先、スマホでAIに尋ねる時代が来るのでしょうか?



AIよりも、はるかに信頼できる存在が、私たちには付いています。

それは守護霊です。



守護霊は、地上の人のことを知り尽くしています。

人生の計画も知っていて、それに沿って生きて行けるように導いています。

どんなことがあっても、見放すことはありません。



ふと気が付くと、行動に移していたという経験はないでしょうか?

それは、守護霊を始めとする霊界の存在の働きかけによるものかもしれません。



霊界の存在は、地上の人にインスピレーションを送っています。

それを受け取った地上の人は、理由もなく行動に移したくなる衝動を覚えます。



子供の頃、家族で海に行った時のことです。

海に入って夢中になって遊んでいましたが、「ふと」後ろを振り向きたくなりました。

振り向いてみると、当時、幼稚園児であった妹が海面に顔を浸けていました。

変だなと思って起こしてやると、目を丸くし驚いた表情で、大きく息を吸い込みました。

遊んでいたのではなく、溺れていたのです。

振り向かなければ、どうなっていたのか考えると、今でもぞっとします。

霊界の存在は、妹の危機的な状況を知らせるために、インスピレーションを伝えて、私を振り向かせたと考えています。

胸騒ぎを感じる時は、霊界の存在が何かを訴えている可能性があります。



生きていると、さまざまな人に出会います。

そんな中で、どうしても気になる人がいます。

理由もなく意識が向いてしまうのは、霊界の存在がインスピレーションを伝えているせいかもしれません。



地上の人の学びや成長のために役割りを果たす人であったり、今生で出会うことが予定されている人かもしれません。

そんな人が出現すると、関りを持ちたくなるようなインスピレーションを地上の人に吹き込んで、会いたくなる、話したくなるような衝動を起こさせるかもしれません。

重要な出会いの多くは、霊界の存在が深く関わっていると考えられます。



霊的真理(シルバーバーチの霊訓)との出会いもそうでした。

さまざまな情報が飛び交うこの世界で、何も知らない私が最短で霊的真理に辿り着けたのは、いくつかの局面において、インスピレーションを伝えて導いてくれたおかげです。

今、振り返ってみると、それが良く分かります。



霊的真理には、生きる目的、死の意味、神について、霊界や守護霊の存在など、漠然と抱いていた疑問に対する答えが書いてありました。

それらは誰も教えてくれなかったことであり、真実と確信した私の生き方は大きく変わりました。



霊的真理によって、霊界の存在が身近に感じられるようになりました。

想いを寄せれば、何かしらの形で応えてくれます。

そのことが分かり、この世を一人で生きているという感覚はなくなりました。

自分の存在に気付いてもらい、霊界の存在も安心したと思います。



ふと思いついたこと、気付いたことは、霊界からのインスピレーションかもしれないと思うようになりました。

思考の産物ではないかと思うこともありますが、その場合はその前に必ず「入力」があります。

例えば、「2」と思いついたとすれば、思考であればその前に「1+1は?」などの入力があるはずです。

入力がないならば、霊界からインスピレーションが伝わって来て、ひらめきや気付きとして顕在化した可能性があります。



霊界に何かを尋ねた時、「瞬時」に答えが返って来たのであればインスピレーションの可能性が高いです。(忘れた頃に返って来ることもあります。)

思考によるものであれば、答えが出るのに時間がかかります。

霊界からインスピレーションが伝わっていることを地上の人が自覚すれば、気のせいにして無視してしまうことも少なくなり、霊界の存在も導きやすくなると思います。



霊的真理を知り、自分の中にある神性をはっきりと自覚するようになりました。

神性は良心となって顕現しています。

進むべき方向を、良心は指し示しています。

しかしながら、その方向は地上の自我(以下自我)が望んでいないことがほとんどです。



例えば、学校で誰かがいじめられているのを見かけたとしたら、良心は助けるように働きかけます。

助けたら自分までいじめられてしまうかもしれないと自我は考えます。

会社に不正があったとして、告発して正さなければいけないと良心は訴えます。

けれども、告発すれば職を失いかねないと自我は考えます。

両者の間で葛藤が起きますが、自我に打ち克つのは難しいです。



神性を発揮することで、人は成長が得られます。

霊界の存在は、良心に従って行動するように、想いを送って促しています。

勇気が湧くのは、そんな時です。



何かをやり遂げようとする時、それを後押しする想い(力)を、霊界にいる存在は送っています。

その想いによって、妨げている感情や考えが一掃され、前向きになれる時があります。



仕事の時にも、そのことが分かります。

難しい治療(手術)を行う前に、霊界の存在に意識を向けるようにしています。

手伝ってもらえるわけではありませんが、正しい方向を気付かせてもらったり、挫けそうになりそうな時は続ける力をもらえます。

感謝しています。



日常生活全般に渡って、想像している以上に、地上の人は霊界から恩恵を受けています。

日頃から霊界の存在を意識し、感謝を忘れないことは、人生の計画に沿って生きることにつながります。



周囲にいる人が、何かに挑戦する時や挫けそうになっている時に、勇気づけたり、励ましたり、慰めたりするのは、霊界の存在に代わって、想いを伝えていることになります。

自分の成長だけでなく、周囲の人の学びや成長につながることを手助けするのは、霊的な真実を知った者の責務なのかもしれません。





2025年10月12日日曜日

全ての存在は霊的につながっている


地上は物質の世界、霊界は思念の世界と言われます。

もう少し具体的に言うのなら、地上は思念が物質(肉体)を介して表現される世界であり、霊界は思念がそのまま表現される世界です。



例えば、地上では心の中にある想いや概念を、文字や言葉などに置き換えて、五感を介して相手に伝えます。

一方、霊界では思念は、直接相手の魂に伝わります。



思念(想い)は波動です。

地上の人にも波動を受信する霊的な感覚が備わっていますが、五感から入る情報量に圧倒され、伝わって来ている思念に気付くのは困難です。

それでも、伝わって来た想いを感じ取り、共感する時があります。



地上と霊界の違いは、肉体の有無です。

地上では肉体があるために、活動するには食物を摂らなければいけません。

食物を摂るためには、お金が必要になります。

お金を得るためには、働かなければいけません。



働くとは、人や社会のために精神や肉体を使って奉仕することです。

地上は生きて行くために、何かしらの奉仕をしなければいけない仕組みになっています。



肉体がない霊界は、食べて行くために働く必要はありません。

束縛するものは何もなく、好きなことを自由にすることができます。

毎日が休日のようなものであり、地上にいる私たちには羨ましく思えます。


  

         

地上も霊界も、生きる目的は同じです。

自分(魂)を成長させるためです。



困難や障害を乗り越えて行くこと、愛を表現することで人は成長して行きます。

けれども、肉体のない霊界では、地上のような困難や障害は存在しません。

争いや病気もなく、生きて行く上での不安や心配もありません。



好きなことが自由にできても、魂を成長させることができなければ、生きている目的を果たしているとは言えません。

いくら楽しくても、それだけでは虚しさを感じます。



そこで、霊界では起こり得ない出来事を経験するために、地上に生まれることを志願します。

自分を成長させるための人生が計画され、それを承知して母体に宿ります。

成長させるのに相応しい出来事が、最適のタイミングで起こります。

その出来事は往々にして苦しみや痛みを伴うものなので、そのことをすっかり忘れている私たちには、不幸な出来事としか思えません。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「困難こそ魂の肥やしです。むろん困難の最中にある時はそれをありがたいと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。しかしあとでその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥やしであったことを知って神に感謝するに相違ありません。」

そして、こうも書かれています。

「あなた方にとって悲劇に思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸運と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることがあるのです。」

魂の成長という観点から判断している霊界では、起きた出来事の捉え方が地上とは真逆になります。



愛を表現することによっても成長して行きますが、何も難しく考える必要はありません。

人に親切にしたり、動物に優しくしたり、困っている人を助けたりするのは、愛を表現していることになります。

励ましたり、慰めたり、寄り添うことも、愛を表現していることになります。

許すこともそうです。

他者の幸せを願うこともそうです。

誰かが喜び、笑顔になれば、それで愛を表現していることになります。



霊界では、愛は実在として認識されています。

地上では五感により認識されないので、言葉や行動に置き換えて表現することになります。

表現の中に込められた想いを察することになります。

霊的な感受性が高ければ、(霊界と同じように)想いを直接感じ取れるでしょう。


地上的なものを手に入れた時の喜びは束の間です。

けれども、愛を表現した時、表現された時に得られる霊的な悦びには永続性があります。



霊的な悦びを得た地上での経験は、好きなことだけをして生きて行ける霊界において、全体のために何かをしようとする原動力になります。

霊界で自律的に成長して行くために必要な経験を地上でしています。



霊界では「愛」をどのように捉えているのでしょうか。

シルバーバーチは、このように表現しています。

「愛あればこそ全宇宙が存在するのです。宇宙がその宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後にはこの愛の力が存在します。」


NASA公開画像より

霊界に行くと、想いは直ちに具現化されます。

それと同じです。

神の心(想い)が具現化されたものが宇宙です。



神の心は無限の愛です。

無限の愛が、宇宙に表現されています。

宇宙の一部である私たちにも、神の心が表現されていて、無限の愛を内在しています。



魂の成長とは、より高い愛を、より強く表現するようになることだと考えています。

別の言い方をすれば、神に近づくことです。

それによって、全体に調和が生まれ、霊的に1つになって行きます。



より強い愛を表現するためには、より強い意志が必要になります。

自分を表現するために肉体的、精神的な労力が必要とされ、困難や障害が存在する地上を生きることで、表現するための意志が培われていると考えられます。

今生の労苦は、霊界で活かされます。



愛は最も強い(波長の短い)波動です。

神を内在している私たちは高い波動を放っていますが、幾層にも重なった媒体によって、最終的に放たれる波動(表現)は低いものになっています。

幾層にも重なった媒体が、自然法則に働きによって、1つ1つ脱ぎ捨てられて行きます。

肉体の死もその一環です。

媒体がより精妙になるのに伴って、より高い愛が表現されるようになります。



霊界に行くと、地上とは比べものにならないほどの一体感が感じられるようになります。

全ての存在が霊的につながっていることが、はっきりと分かるようになるからです。