2016年3月27日日曜日

因果律の働きを知って



現在、私は歯科医師をしています。

10年前のある日、私の元に一通の文書が届きました。



仕事を監督する機関からのものであり、そこには私の保険の請求に問題が認められたため、行政指導を行う旨が書かれていました。

ほとんどの医療機関は保険診療を行っており、患者さんの診療内容に応じて、支払い元に請求を行います。

指導とは、保険の請求が適切に行われているかを審査し、問題があれば改善を促すものですが、最悪の場合には、保険診療が出来なくなる保険医の取り消し処分が下されます。

もし、保険医の取り消し処分が下されれば、事実上、廃業に追い込まれるのがほとんどであり、医療従事者であれば誰もが怖れています。

けれども、悪いことをしたという意識は少しもなかったので、どこかに不備が見つかったとしても、注意されて終わるだろうと考えていました。

ところが、指導を受ける準備のため、カルテ等の資料を良く調べてみると、行ってはいけない請求もたくさんあったことが判明しました。

そのことを、とても悔いると同時に、発覚して咎められた時のことを考えると、とても不安な気持ちになりました。

指導を受ける当日の朝は、まるで裁判を受ける被告人のような心境であり、緊張すると共に、惨めな気持ちになりました。

いよいよ指導が始まりましたが、怖れていたことが現実となり、それを追求され、正当な釈明が出来ないため、疑義は深まっていきました。

約1年に渡り、指導が繰り返され、これまでいかに決まりごとを守らずに、いい加減に生きてきたかを思い知らされました。

そして、当初の予想とは全く異なり、最も怖れていた保険医の取り消しという処分が、私に下されました。

地元の新聞の3面記事に名前が載り、当然のことながら歯科医師として信用は大きく失墜し、それまで通って来ていた多くの患者さんが、私の元から離れていきました。

従業員にも多大な迷惑をかけたため、信頼関係は大きく崩れて、職場の雰囲気は一変しました。

家族にも、心配をかけた上、恥ずかしい思いをさせて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

今まで築き上げたものが、一瞬にして崩壊したような気がしました。

仕事に関しては、私なりに力を入れてやってきましたので、不名誉な処分を受けた挫折感、屈辱感は相当なものでした。

そして、これから先、どうやって生活していけばいいのだろうと、絶望的な心境になりました。

この出来事により、多くのものを失うことになりました。



その中で、手にしたものがありました。

それは、シルバーバーチの霊訓に書かれている「霊的真理」です。

窮地に追い込まれ、多くのものを失わなければ、きっと手にすることはなかったと思います。



霊的真理の中でも、当時の私の心に突き刺さったものは「因果律」でした。

仏教で言う「因果応報」であり、聖書では「自分が蒔いた種は、自分で刈り取る」と書かれ、自分のした行為に対して、結果責任を取らなければならないことを知りました。

自然法則の根幹を成している「因果律」が、私にも正確に働いていることを、つらい日々を過ごす中で、身を持って知りました。



裁判では同じ行為でも、「過失」によるものか、「故意」なのかで、課される量刑が違ってきます。

うっかり人を傷つけてしまったのか、わざと傷つけたのかで、罪の大きさに差があるのは当然です。

今回、私の不祥事では、知らなかったこともありましたが、知ってた上でしてしまったこともありました。

振り返ってみると、初めてしてしまった時に、自分に言い訳みたいなことを言っていました。

きわめて身勝手で、恥ずかしい言い訳であり、「誰もがしていることだから」とか、「これくらいは大したことはないだろう」と言うようなものでした。



一方、こんな声もしていました。

「本当にそれでいいのか」

頭をかすめていたその声も、言い訳に掻き消されて、結局、不正な請求をしてしまったのです。

それが、当たり前のようになってしてしまうと、声はしなくなります。



どうやら、10年前の私の中には、二人の自分がいたようです。

表現が適切かどうかわかりませんが、一人は、この世を生きている内に、知らず知らずに作り上げてきた自分であり、言い方をかえると表向きの自分でした。

もう一人は、その陰に隠れている、ありのまま(素)の自分であり、本当の自分です。



子供の時は、本当の自分でいられたと思いますが、大人になるにつれて、周りに合わせたり、良く見られようとしたり、打算的に生きている内に、表向きの自分が少しずつ作り上げられて行ったようです。

いつの日か、作り上げてきた自分が前面に出て、自分自身だと錯覚するようになり、本当の自分は奥に引っ込んでしまったようです。



本当の自分は、善悪をしっかりと判断しているようです。

「やってはいけない」と、表向きの自分がしようとしている、自然法則に反した言動を拒否しているようです。

本当の自分には、シルバーバーチが言う「神の監視装置」、一般的に言う「良心」が存在しているようです。

「本当に、これでいいの?」と、心の中でつぶやいていたのは良心の声であり、表向きの自分に対して、自制を促していたと思います。

一方、表向きの自分は、「大したことはない」、「誰でもしているから」、「ばれやしない」と、心の中でつぶやき、本当の自分に言い聞かせていたと思います。

行動をする直前まで、両者のせめぎ合いがあり、結局は、表向きの自分に押し切られてしまったと思います。



普段から、慌ただしく、頭を使った生活をしていると、表向きの自分が優位に立ってしまい、本当の自分の声は聞こえにくくなってしまうようです。

本当の自分がいることを意識し、その声に耳を傾けていれば、「やっぱりやめておこう」と、思い留まれたと思います。

俗に言う「エゴ」とは、表向きの自分と同じような気がします。



表向きの自分は、周りに影響されながら作り上げてきたものなので、周囲の状況に流されやすいと思います。

また、物事の表面しか見ていないので、お金や地位、名誉など、表面にあるものを、追い求めてしまい、見栄や虚勢を張ってしまうかもしれません。

本当の自分は、生まれながらの自分であり、周りにも影響されにくいようです。

物事の内面を見ているので、人の想いを察知したり、本当に大切なものや、美しいものが判るようです。



長い間、表向きの自分と、本当の自分のせめぎ合いの中で、生きてきたと思います。

次第にバランスが崩れて行き、不祥事が起きた時には、本当の自分の存在に気付けないほど、表向きの自分の存在が大きくなっていたと思います。



本来は、本当の自分が、主導権を握って生きなければいけないと考えられます。

表向きの自分では、どうしても目先のことに捉われてしまって、自分の成長につながる決断ができません。

そのために、この世で予定していた成長が、得られなくなってしまう可能性があります。

一方、本当の自分は、この世に生まれる前に約束したシナリオを、無意識下で知っていて、自分の成長につながる決断が、直感としてできるようです



人生では、どちらを選択するか迷う時があります。

その時には、表向きの自分と、本当の自分の間で、せめぎ合いが行われていると思います。

表向きの自分は、外面しか見ていないために、失敗を怖れて、安易な方向、楽な方向に進もうとします。

本当の自分は、困難や障害が待ち受けている方向に進もうとします。

もし、両者のせめぎ合いを感じたのなら、思い切って本当の自分が指示する方向へ進んで行くのが賢明と思われます。

その選択が、より自分を成長させることが出来るからです。



人生では、さまざまな苦難や障害を伴う出来事が起きます。

表向きの自分にとって、災難であり、不幸な出来事にしか思えないようです。

しかし、本当の自分は、今生に与えられた試練であり、成長する機会として受け止めるようです。

10年前に起きた出来事は、以前の私でしたら、最悪な出来事であり、不運を呪ったでしょう。

今の私は、本当の自分が目を覚まし、成長して行く人生に変わるために、なくてはならなかった出来事だと思っています。



そして、強く感じたことがあります。

それは、因果律の働きは、最適なタイミングで、結果を生じさせると言うことです。

このタイミングでなければ、本当の自分にまで響き、目覚めさせることは出来なかったと思われます。



1つの出来事には、2重3重の意味があったようです。

表面的には、私は法令遵守をしなかったため、行政処分を受けました。

内面的には、良心に従わなかったため因果律が働き、苦痛を味わったと思います。

さらに内面には、苦痛が触媒となり、ありのままの自分を目覚めさせる意味があったようです。

シルバーバーチは法則の裏側に法則が働いていると言っていますが、このようなことを指すのでしょうか。

物事の表面だけ見ると、災難や凶事と思えることも、深層には必ず意味があり、霊的には良い方向に導かれていることを実感しました。

突発的に起きたのではなく、タイミングを見計らって、因果律が働いたと確信しています。

これらを勘案すると、因果律を支配している叡智はやはり完璧であり、すべてが佳きに計られているような気がします。



話は変わりますが、子供の時に、「悪いことをしたら、罰が当たるよ」と、何度も言われました。

そう言われても、別に何も起こらないので、悪さをさせないための大人の口実と思っていました。

今、考えてみると、因果律の働きを、言葉にしているようです。



目に見えるもの、見えないものに拘わらず、因果律は働いています。

石を真上になげれば、物理的法則である万有引力の働きにより、真下に落ちてきます。

同じように、自分のしたことは、目に見えない霊的法則の働きにより、自分に返って来ます。

自然の決まりに反した行いをすれば、因果律の働きにより、相応の苦痛を伴う結果として返ってきます。



しかし、世の中を見渡すと、悪いことをしていても、平然と生きている人はいます。

誰にも判らないように、人を傷つけたり、貶めたりしている人もいます。

人がどうなろうとも、自分の欲望を満たそうとする人もいます。



そんな人は、法律的な裁きを免れたとしても、霊的に許されないことを知りません。

肉体を失っても、犯した罪が、償いがなければ消えないことも知りません。

この世の人生における、全ての行い、さらに想いまでも、魂に刻まれていて、犯した過ちと直面する時が必ず訪れることも知りません。



法律に背いたことをすると、時に刑務所に入れられ、自由を奪われます。

霊的法則に背くと、成長が許されません。

自分を成長させることは、生きる意味そのものです。

その苦しみは、自由を奪われた受刑者以上に違いありません。

再び、成長していくためには、過ちを認め、相応の苦痛を経験して償わなければいけません。

その事実を知っていれば、傷つけられ、ひどい仕打ちをされたとしても、同等の痛みや苦しみを味わうことになるので、憎む必要はありません。

イエス・キリストがゴルゴタの丘で磔の刑にされ、鞭を打たれている時に、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と、言ったそうです。

自然法則を知らずに、罪を犯している人たちに待ち受けている報いが、どんなものかが判っていたので、哀れに思わずにはいられず、神に向かって慈悲を求めていたと思われます。



「因果律」により、全てが解決されます。

不公平、不公正は、全く存在しません。

この世だけを見て、判断してはいけません。

この世で因果律が作動しなければ、あの世で間違いなく作動し、公正は完全に保たれます。

だから、人を傷つけたり、悲しませたり、苦しませたりすることは、絶対に出来ないのです。

後悔しないように、自分に正直に、良心に忠実に従って、生きなければならないのです。



以上が、10年前の出来事をきっかけに、私が学んだ教訓です。



ところで、因果律は人の過ちばかりに働いているのではなさそうです。

子供の時に、「人にやさしくしましょう」と、多くの人から言われました。

でも、なぜやさしくしなければいけないのか、判りませんでした。

人が喜んでくれるのは確かだけれど、やさしくしても何の得にもならないと思っていました。

実際は、得にはならなくても、徳にはなるようです。



人を傷つけるのとは正反対で、やさしさや思いやりは、自然法則に適ったものであり、因果律の働きにより、相応の報酬をもたらしています。

「情けは人のためならず」と言うことわざがありますが、情けをかけた人に、巡り巡って同じ想いが返ってくるという意味だと解釈しています。

この現象も、自分から出たものは、自分に返ってくるという、因果律の働きによるものと思われます。

たとえ、誰から何も返って来なくても、また誰にも知られない行いであっても、自然法則に適ったものであれば、目に見えない形で、自分に返って来ることになります。

魂の成長として、自分に返って来ます。



魂が成長したって、それが何になると思われるかもしれませんが、この世に生きている意味そのものが、魂を成長させることです。

本当の自分とは、魂です。

自分を成長させるために、この世に生まれて来たことを、私たちはすっかり忘れています。

「人にやさしくしましょう」の意味は、人に喜んでもらうと同時に、自分を成長させるものであり、その想いが広く行き渡り、世の中が喜びに満ちたものになり、平和になるためだと思います。



魂と肉体の永続的な分離が死です。

死によって肉体を失った魂は、むき出しの状態になりますので、その人の素性が露わになります。

この世で想ったこと、言ったこと、行ったことは、魂にしっかりと刻まれていて、全てが周りに知れてしまいます。

良くも悪くも、ありのままの自分でしか、生きられません。

当然のことですが、この世を去れば、お金など形ある財産は、全て失われます。

代わって、この世では見えなかった内面に築き上げたものが、あの世での財産となります。



魂とは生命です。

神のものであり、神の一部です。

そして、神の心は愛です。

やさしさや思いやり、無私の奉仕は、愛の表現であり、神の心を表現しています。

愛の表現が魂の財産となるのは、肉体を失っても消えない、神的な価値を持つものだからです。

神的な財産が多い魂ほど、次に行く世界で美しい光輝を放つことになります。



この世を、どう生きるかは、個人に任されています。

想い、言葉、行いの全てに、休むことなく因果律が働いていることを、忘れてはいけないと思います。

人がどうであろうと関係なく、良心に忠実に生きて行きましょう。

やさしさや思いやりを表現して生きて行きましょう。

本当の自分の声を見出し、それを大切にしましょう。



怒りや、憎しみの想いを向けられたとしても、受け流して、微笑みを返しましょう。

ひどい仕打ちをされても、その人と魂が同調するような想いを抱くのはやめるようにしましょう。

それが、自分の魂を守るための、最善の方法です。



人や動物、そして社会が悦ぶような生き方が、最も賢明な生き方です。

因果律の働きにより、自らの成長と、悦びという幸せが、その先で返ってくるからです。














2016年3月13日日曜日

この世からあの世に行った人たち



10年前の私は、死んだ後のことなど、考えることはありませんでした。

今が、楽しく、充実していれば、そんなことはどうでも良かったからです。

しかし、左手から病気を癒す力が出ていることに気付き、人生最大の屈辱的な出来事を経験し、シルバーバーチの霊訓と出会って考えは一変し、霊的な世界について深く思いを巡らすようになりました。

生命とは魂であり、あの世が存在するのは、動かしがたい事実です。

夜になって朝が来るように、この世が終わりあの世が訪れます。

同じ自然現象であることを、多くの人に知ってもらいたいと思うようになりました。



人生に悲しみはつきものですが、最愛の人を喪った悲しみを超えるものは、この世にありません。

遺された人が、祈るようにして待つのは、再会の瞬間です。

再会するためには、「あの世」と言う存在がなければいけません。

あの世で、亡くなった人が魂として生きていて、そこで待っていなければいけません。

しかし、残念なことに、あの世の存在は誰にでも判る形で、証明はできません。

時々、臨死体験者がその時の様子を語っていますが、信憑性を確かめる手段は、何もありません。



否定論者は「それは、あなたが信じる宗教であって、目の前で証明してもらわない限り信じません。」と、言います。

しかし、否定論者であっても、きっと愛する人はいるでしょう。

目に見えず、証明できないものを信じないのであれば、愛も否定しなければいけません。

愛は認めて、魂を認めないのでは、理屈に合いません。

もし、魂など存在しないと言い切る人が、最愛の人を喪って、同じことを言い続けることができるのでしょうか?

死は永遠の別れだとしたら、そのことに堪えられるのでしょうか?



目に見えないもの、形のないものでも、しっかりと存在しています。

私たちが、認識できない世界にいるだけで、実体があるのです。

愛を知っている人であれば、肉体が無くなっても、魂として生き続けているという事実を、きっと受け入れざるを得なくなると思います。

なぜなら、愛は霊的次元のものであり、魂から生まれているものだからです。



亡くなった人が、あの世で生きているのは、歴然とした事実であるのに、何故、明らかにかされないのだろうかと、疑問に思っていました。

その理由は、私たちがまだ霊的に未熟であり、この世の現実から逃げ出してしまう恐れがあるからと、今は考えています。

世の中全体が霊的に向上し、自らの意思で生を絶つと言う、過ちを犯さないようになれば、周知の事実となる日が来るような気がします。



東日本大震災から、もう5年経ちました。

1つの地震により、1万5千人を超える人が、一瞬にしてこの世からいなくなってしまったのが、未だに信じられません。

しかし、一人ひとりのご遺族にとって、目の前から大切な人がいなくなってしまったのは、紛れもない現実です。

そんな人たちに、これだけは伝えたい。

荼毘に付され、骨となってしまったのは、あくまで肉体です。

大切な人の生命は魂であり、津波で肉体を失っても、変わりなく生きています。



津波で亡くなってしまった人は、こうであったのではないかと、シルバーバーチの霊訓などの霊界通信を参考に、私なりに想像して書いてみました。



迫ってくる波に飲み込まれ、水中で数分間、息が出来ない苦しみにもがきながら、次第に意識は遠のいていきます。

どれくらいの時が経ったのでしょうか、気付くと、少し高い所から、周囲を眺めているようであり、地面に横たわっている人が見えます。

しばらくすると、人がやって来て、横たわっている人の前でお線香を上げて、手を合わせているのが見えます。

横たわっているのは誰だろうと覗いてみると、それは見慣れた顔であり、良く見ると自分であることに気付きます。

自分はここにいるのに、自分の身体はそこにある、これはどういうことなのか?

悪い夢でも見ているのか?

その後、動かなくなった自分の身体は、広い場所に運ばれて行きます。

そこに、不安そうな面持ちで、家族が近づいて来ます。

自分の身体を見つけて、泣き崩れる姿が見えます。

何で泣いているのか、全く見当がつきません。

しばらくして、ハッとします。

あの時、大きな波に飲まれてしまったことを、思い出します。

周りに目をやると、飲み込まれた波はなく、すでに水も引いています。

建物は波に押し流されてしまって、街並みは見る影もありませんが、風景はどこかいつもと違い、
もやがかかっているよう見えます。

物の輪郭は曖昧になり、透けて見えて、スカスカのように感じられます。

何が起きているのか、良く判らないところに、一人のおばあさんがいるのに気付きます。

家族よりも、おばあさんの方が鮮明に見えます。

そのおばあさんは、数年前に亡くなった祖母だと、すぐに判ります。

もしかして、今いるのは、この世に思えて、この世ではないかもしれない。

「あの世」と言われている世界にいて、この世を眺めているのかもしれない。

周囲の状況から、徐々にそのことに気付いて行きます。

そして、祖母から亡くなった時のいきさつを伝えられ、納得はできないものの、身に起こった事実を受け入れます。



ところが、死んだら無になってしまうと強く思っていた人は、事情が違います。

死んでも意識があることが、全く理解できません。

意識があるので、この世で生きていると、錯覚し続けることになります。

そんな人も、すでに死んだ親しかった人たちが出迎えに来て、会うことになります。

そして、大きな混乱が生じてしまいます。

何で、死んでいる人が、自分の目の前にいるのかと。

その人たちから、「お前は津波で死んだんだよ」と、いくら伝えられても、意識がしっかりとあるので信じようとしません。

そこで、一緒に暮らしていた家族の元に連れて行かれます。

自分の遺影に向かって、「何で死んでしまったの」と、泣きながら話しかけている家族の姿が見えます。

「何を言ってるんだ!ここに俺はいるぞ!」と、思わず大声で叫んでしまいます。

しかし、声帯は失われているので、聞こえるはずもありません。

何度も何度も叫び続けてみても、無視されるので、今度は肩に手をかけて振り向かせようとします。

しかし、家族の身体はスカスカで、かけた手は素通りしてしまいます。

家族が幽霊のように思えてしまい、思わず「お前は、死んでしまったのか?」と、叫んでしまうかもしれません。

死んだら無になると信じ込んでいた人は、それまでの観念と現実との間に矛盾が生じて、混乱状態に陥ってしまいますが、誰が何を言っても無駄なので、自分が納得するまで放って置くしかないようです。



死ぬ直前の想いは、死を境に、すぐになくなるわけではないようです。

あまりに突然であると、肉体を失ってしまったことに気付かないまま、死ぬ直前の「想い」がしばらくの間続き、必死に何かをしようとしてしまいます。

早く逃げなければと、強く思っていた人ならば、死んだ後も、しばらくは逃げ惑っていたと考えられます。

早く助けなければと、強く思っていた人ならば、死んだ後も、助けに行こうとしていたと考えられます。

しかし、それも長続きはせず、この世にいないことを受け入れて行くと思います。



死んでしまったことを自覚しても、その時の恐怖により、深刻なダメージを受けてしまった人(魂)もいます。

しばらくの間は、この世に最も近いあの世(幽界)にいます。

そこは地上とそっくりの世界であり、戸惑わないための神の配慮であると言われています。

傷ついてしまった人(魂)を専門に扱う病院のようなところがあり、手厚く介抱されるようです。

人からの愛と、自然界からの生命力により癒され、徐々に元の自分(魂)を取り戻して行くと思われます。



一人で逝った幼い子供たちも、心配ありません。

親愛の想いを持つ縁者や、この世で事情があって子供を持てなかった女性など、愛情に溢れる人たちと共に生活し、同年代の子供たちとも遊んだりして、楽しく過ごすようになります。

一人ぼっちで、寂しい思いをすることは、決してありません。



この様に、人が亡くなっても、死後の様子は一様ではないと思われます。

自分が望まない限り、一人放っておかれることはなく、この世よりも親密なかかわり合いの中で、助け合いながら生きているようです。

生前から死後についての正しい知識があった人の方が、すんなりと順応できるのは間違いないようです。



亡くなって間もない人(魂)であれば、意識を向けているのは、あの世ではなく、この世です。

離れ離れになったとしても、遺してきた人の想いに引き付けられるようにして、再会します。



この世の大切な人は、冷たくなった肉体を前にして、どうすることも出来ない過酷な現実を突きつけられています。

すべての思考は完全に停止し、 深い悲しみの想いが生まれ続け、とめどもなく涙するだけです。

助けてやれなかったことを悔やみ、なぜ自分だけが生き残ってしまったのだろうと言う想いに苛まれています。



この世の人が何を想っているのかは、言葉にしなくても、あの世の人に伝わってきます。

あの世は言葉でなく、想いが直接伝わる世界であり、自分が死んだことで、深く悲しんでいる想いが、痛いほど伝わってきます。

悲しみに打ちひしがれる人に寄り添い、慰めようとするのは、愛情があれば当然です。

ところが、そばに近づこうとする人(魂)にとって、悲しみの想いはバリアとなっています。

「何で死んでしまったの」、「これからどうして生きていけばいいの」と、嘆き悲しんでいる時には、溢れ出す想いに押されて、近づきたくても近づけません。

悲しみと悲しみの間にあるわずかな時に、亡くなった人は寄り添い、慰めようとするでしょう。

けれども、声をかけても肉声にはならず、身体に触れても波長が違うので素通りしてしまいます。

どんなに努力しても、生きていることに気付いてもらえないのは、あの世の人にとって悲劇以外の何者でもありません。



いかなる手段を講じても、つながりたいと想うのは、この世でも、あの世でも一緒です。

この世に遺された人は、霊媒と言われる人を通して、あの世の人とつながりを求めます。

先に逝った人も、どうにかして、遺された人とつながろうとしています。

次元という障壁を乗り越えて、両者がつながろうとするのは、お互いが1つになろうとする想い、愛があるからです。



震災で大切な人を亡くした人たちの周囲で、不思議な現象が起きていたのを耳にします。

以前(2013年8月23日)、NHKの「亡き人との“再会”~被災地 三度目の夏に~」という番組で、遺族に起きる霊的な現象を特集していました。

亡くなった人の姿を見たり、亡くなった人を感じさせる音がしたり、大切にしていた物が動いたり、さまざまな現象が起きたようです。

ほとんどの人は、その現象を素直に受け入れ、慰められたそうです。



震災の少し後に、私の義母も病気で亡くなりました。

49日とお盆、1周忌の付近になって、義母が長年住んでいた家で、不思議な現象が起きました。

義母の家のトイレは、座るとクラシック音楽が流れるものであり、生前とても気に入ってたそうです。

そのトイレから、誰もいないのにもかかわらず、昼夜を問わず頻回に音楽が流れました。

昔の私でしたら、無知なために気味悪がってしまったでしょうが、今は、向こうでの生活にも慣れ、一足先に逝った義父と楽しく過ごしていることを、集まった家族に知らせたかったと確信しています。(ちなみに義母の命日は、義父との結婚記念日です)



言葉に想いが込められている様に、起きている現象にも亡くなった人の想いが込められていると思います。

震災で、小学2年生のお子さんを喪ったお母さんは、時々起こる仮設住宅の天井を踏む音が、亡くなったお子さんの歩き方にそっくりで、その音を家族全員が確認したそうで、「そんなに悲しまないで、と励ましてくれているのかな」と、前向きに受け取ったそうです。

他にも、兄の死亡届を書いた妹の携帯電話に「ありがとう」と兄からメールが入った話や、行方不明のご主人が発見された後、就寝した奥さんの布団に何かが入り込み、「お父さんだ」と直感した話などがあり、ご遺族は肯定的に受け止めたそうです。

被災地では、知られていないだけで、そのような現象が頻発していたと推察されます。

これらの現象を、不気味に感じたり、怖がったりする必要が、どこにあるのでしょうか?

「生きているから心配しないで」あるいは「元気だから安心して」という想いを伝えたい一心で、次元を超えて働きかけているだけです。

この世に遺された人を、気遣う想いで溢れていると思います。



亡くなった人も、月日が経つにつれ、向こうの環境に慣れ、好きなことをしたり、人と交流したりしていると思います。

向こうは想いの世界であり、願望がことごとく実現する世界ですから、楽しくないはずがありません。

しかし、遺してきた人の想いが伝わってきたならば、向こうでの生活を中断し、直ぐにそばに寄り添おうとしていると思います。

遺してきた人を見守るのを最優先して、こちらに留まっている人もいるでしょう。



大切な人を亡くした人の中に、「そばに居てくれている」と、言う人がいます。

はたから見ると、あまりに悲しいので、自分の願望を言って慰めているようにしか見えないかもしれません。

しかし、涙を流しながら、試練を乗り越えてきた分だけ、魂は成長し、研ぎ澄まされ、亡くなった人の気配や想いを、しっかりと感じ取っていると思います。

気のせいではないことが、判っていると考えられます。



悲しみの想いは魂を遠ざけ、親愛の想いは魂を引き付けます。

「いつでも一緒だよ」という気持ちになれば、同じ想いで同調します。

魂は寄り添い、想いは共有され、心が温かくなったように感じられるかもしれません。

さらに、向こうからの想いが伝わって来れば、「そばに居てくれている」と確信すると思います。



もし、想いを感じられないのであれば、何か理由があるのかもしれません。

向こうの人は、遺してきた人の成長にかかわる決断には、干渉できないと言われています。

大切なことは、自分で決めなければいけないのです。

もしかしたら、向こうの人に頼りすぎたり、依存するのを避けて、自立を促すためかもしれません。

そうであれば、遺してきた人の成長を願ってのことであり、愛する想いから、敢えてそうしていると思います。





1本のろうそくを、日向の明るい場所で燈したとしても、存在は判らず、価値は見出せません。

しかし、真っ暗闇の中であれば、光輝き、足元を照らしてくれます。



真実も同じであり、平凡な毎日を送っている人は、存在は判らず、その価値を見出せません。

絶体絶命の窮地に追い込まれた人、現実に打ちのめされた人にとって、明るい光となり、無知の暗闇から解放してくれます。



すべての出来事には、何らかの意味があります。

もし、真実を見出したのであれば、大きな意味を持ったことになります。

なぜなら、真実を見出すことが、この世に生まれてきた目的でもあるからです。

真実に目覚め、それに忠実に生きて、自分(魂)を成長させることができるからです。



津波で亡くなった1万5千を超える人たちは、この世に遺された人と、離れ離れになどなっていません。

まだ行方不明になっている人たちの魂も、大好きな人の元に戻って来ていると思います。

自分の肉体と引き換えに、遺された人の魂が目覚め、成長していく姿を、微笑みながら、そばで見守っていると思います。



参考ページ: 「亡くなった愛する人とつながる」

       「信じることで愛することができる」



参考ブログ:「最愛の我が子やご家族をまた愛する人を亡くされた方へ~死の真実を求めて~」






2016年2月28日日曜日

過去の出来事を許す



中学時代の同窓会が、何年かに1度あります。

私は幹事のため、クラスメートに電話で連絡を取って出席を促します。

せっかくの機会なので集まらないかと誘っても、別に用事があるわけでもないのに、どうしても出席しない人たちがいます。

その中には、中学時代に嫌な出来事があって、わだかまりを抱えている人もいるのではないかと思います。

中学時代は、子供から大人に変わる、人生で最も不安定で、多感な時期であり、同級生から受けた言葉や行為で、心が傷ついてしまった人は、意外と多いのかもしれません。

いじめのような行為をした本人は、すっかり忘れてしまっていることが多いのですが、された側は深く傷つき、数十年を経っても、忘れられないのかもしれません。

私も、理由も判らずに受けた暴力的な言動に対して、言葉では表現できない想いを抱いた経験があり、その想いが、長い間、居座っていました。

子供の時は、心が無防備であるため、他者から傷つけられ易いと思われます。

しかも、想いを上手く表現できないために、内に想いが溜まってしまい、苦しんでいる人が多いと思われます。

親に泣き言を言ったり、友達に想いをぶつけたり、あるいは部活動などで発散できれば良いのですが、不幸にしてそれが出来ずに、徐々に想いが溜まっていく子供たちもいます。

溜まった想いが限界に達して、外向きではなく、内向きに表現されてしまうと、自らを破壊するという、極めて悲劇的な結末を迎えてしまう恐れがあると思います。



大人であっても、わがままや、貶(おとし)めるような理不尽な言動をされ、自分が傷つけられたり、窮地に立たされたとしたら、強い怒りや憎しみの想いが沸き上がってしまいます。

こちらが傷ついているにもかかわらず、相手が何の反省もせずに、平然としていたのなら、想いは膨れ上がり、居ても立ってもいられない心境になってしまいます。

これで、良いはずがありませんが、誰が何をしてくれるわけではありません。



誰からも責められず、咎められなかったとしても、神の摂理は完ぺきに働いています。

法律からは逃れられても、神の摂理からは逃れられません。

地上の物質に万有引力という物理法則が働いているように、魂には霊的な法則が働いています。

1つ1つの出来事に対して細大漏らさず法則は働いていて、誰かに苦痛を与えた分、周囲に被害を与えた分、相応の償いをしなければいけません。

もし、今生で償われなかったとしても、死後に償うことになります。



生まれてから死ぬまでの、全ての言葉や行い、想いまでも、魂に刻み込まれていきます。

そして、魂に刻み込まれた、恥ずべき行為を消し去るためには、相応の苦痛の経験を通して、霊的な償いをするしかありません。

苦痛の経験は、自分の過ちに気付き、神の摂理に従うためにあります。

よって、怒ったり憎んだりする必要は、本当はないのです。

償う時が、必ずやって来るのでからです。

それでも、怒ったり憎んだりするのならば、自らの成長を妨げて、苦しみを味わうだけです。

破壊的な想いであるために、何一つ良い結果をもたらしません。

因果律の働きにより、苦痛を伴う結果となって、また自分に返って来るだけです。



そうは言っても、この世に生きている限り、怒りの感情から解放されることはありません。

さまざまな成長過程にある人(魂)が、同じ平面上で交わりながら、生きているからです。

思いやる人もいれば、傷つける人もいるのが、この世です。

傷つけられれば、怒りや憎しみが生まれ、仕返しをしてやりたくもなります。

しかし、多くの人と接しながら、たとえ嫌なことがあったとしても、怒りや憎しみの想いを、なるべく生まれないように修練するのが、この世を生きる意味の1つだと思います。

いざ生まれてしまった怒りや憎しみの想いと、どう向き合っていくかも、きわめて重要であり、人生は大きく変わって来ると考えられます。



怒りや憎しみの想いに、捉われて生きている人は、少なくありません。

「もう、そろそろ許してもいいんじゃないか」と、人から言われたとしても、それで許せるようなものではありません。

時が経ち、記憶としては忘れかけたとしても、怒りや憎しみの想いが消えて行く訳ではありません。

いくら時が経過しても、想いが残っている限り、ふとした出来事をきっかけに、蘇って来ると考えられます。

想いは、内で生きているとも言えます。



過去にあった出来事で、今も苦しんでいる人がいます。

そんな人は、過去の出来事に苦しんでいるのではなく、その時に生じた、肉体で表現できなかった想いにより、苦しんでいます。

過去に生じた想いは、肉体的な表現を求めていますが、それが出来ないために、今も苦しんでいます。



目に見えず、人にも知られない想いにも、自然法則が働いています。

それが、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬など、自然法則(愛)に反した想いであると、因果律の働きで、苦しみを感じます。

自分の想いに、自分が苦しむことになります。

苦しみの本体は、怒りであり、憎しみであり、恨みであり、嫉妬です。

 人は、出来事の記憶と、その時に生じた想いを混同しがちですが、いつまでも強く記憶に残っている出来事は、その時に生じた想いの裏打ちがあるはずです。



苦しみから逃れるのには、その対象を許すしかありません。

許すには、自らが寛大にならなければいけませんが、寛大になろうと思っても、なれるはずもありません。

寛大になるには、相応の魂の成長を伴わなければいけません。

人生は、望むと望まざるとにかかわらず、さまざまな出来事に遭遇します。

それらの出来事を、もがきながらも、自分なりに乗り越えて行く過程を通して、魂は少しずつ成長していきます。

職場での仕事や、家庭での仕事も、生きて行く上での義務でもありますが、自分以外の者への奉仕には違いなく、毎日、少しずつ成長させていると思われます。

今を真剣に生きていれば、意識しなくても、魂は成長していると思われます。



小学生の時に難しかった問題が、中学生になると易しく思えるようになります。

解けなかったのは、問題が難しいからではなく、解けるレベルまで、自分が達していなかったからです。

もし、学校でテストがなければ、生徒は大喜びです。

しかし、テストがなければ真剣に勉強をしようとする気は、なかなか起こりません。

テストがあった方が勉強し、多くのことが学べるのは間違いなく、嫌なテストも、学ぶために必要なものです。

人生で起きる出来事も同じであり、避けて通りたいような出来事でも、何かを学ぶために必要であり、魂を成長させるために欠かせないものです。

試験があって勉強しなければ、学力レベルが上がらないように、人生に修練となるような出来事がなければ、魂のレベルは上がりません。

苦しみや悲しみなどの人生経験は、その最中にあっては苦痛以外の何者でもなく、一刻も早く終わりにしたいと思うだけです。

けれども、決して無駄なものではなく、目に見えない魂を大きく成長させているはずです。

そして、魂の成長に伴って、過去にあった出来事が許せる時が、知らない内に訪れると思われます。

怒りや憎しみの想いは、忘れるのではなく、許すことによって解放されます。

それでも許せなければ、想いからは解放されず、もうしばらく苦しみ続けることになります。

しかし、その苦しみも魂の成長をもたらし、いつの日か許せる日が来ます。



身体の成長は止まり、やがて老いていきますが、魂は成長し続けます。

魂の成長とは、人間が成熟し、大人になって行くことなのかもしれません。

とても大きく感じた出来事であっても、時が経ち、振り返ってみると、小さなことだったと感じる時がありますが、それも魂が成長しているためだと思います。

そして、この世で予定された魂の成長が果たされたなら、魂は肉体を脱ぎ捨てる時が来ます。

肉体を脱ぎ捨てる時の魂は、十分な成長が得られているので、この世で許せないことはなくなっているはずです。

死とは、この世の苦しみからの卒業です。

この世に残された人にとっては悲しみですが、苦しみから解放された人にとって、悦び以外の何ものでもありません。



許せなかったことが、許せるようになるのは、時と共に忘れてしまうのではなく、魂が成長するに従い、怒りや憎しみの想いを手放した結果と思われます。

ところが、許せないことがあり、想いが溜まっているにもかかわらず、その想いに気付いていなかったり、無意識に封印してしまっていることがあります。

溜まっている想いにより、自分(魂)のありのままの表現を妨げられています。

本当の想いが、溜まっている想いに、歪められて表現されています。

怒り、憎しみ、恨みなどの秘められた想いがあるとは気付かずに、その後の人生に大きな影響を与えていることがあります。

なぜ、それがいけないのかと言えば、妨げたり、歪められた表現になってしまうと、予定通りに魂を成長させることが出来ないからです。

人や社会のために、奉仕することができないからです。

それは、この世に生まれて来た意味を、大きく失っていることを意味します。



五感に触れない想いに気付くために、因果律の働きにより、心身上の変化として外面に表現されることがあります。

怒りや憎しみの想いは、時として、肉体上に暴力的で攻撃的な病変として表現されます。

現代医学で解明されない病気の多くは、霊的次元に根本原因があり、本体は表現されなかった想いと考えられます。

内にある想いに気付き、それを解放させるための自然法則として、霊的な病気は存在します。

病気の苦痛は、(自然法則に反した)想いを抱いていた償いであり、魂を成長させ、そして目覚めさせるという、大きな意味があります。

病気の苦痛により、魂が成長して、内にある想いが解放されていきます。

魂が目覚めて、自分の過ちに気付くと共に、本来の自分を取り戻していきます。

生命の始源(神)とのつながりは深まり、生命力がふんだんに流れ込み、自然治癒力として働きます。

肉体は、魂を表現する媒体であるため、想いが解放されれば、肉体上の病変も消失して行くはずです。



もし仮に、どうしても許せずに、怒りや憎しみの想いを外に表現してしまったらどうなるのでしょうか?

想いは外に吐き出されるので、苦しみからは解放され、気持ちは楽になるでしょう。

病気にもならないかもしれません。

しかし、その行為は人を傷つけたり、貶めたりするものであり、魂に刻み込まれてしまいます。

想いは魂と同化してしまい、その人の本性となって行きます。

怒りや憎しみを外に吐き出している人は、その想いに染まっているので、日頃の表情や言動に、魂のありさまが反映されていると思われます。

元に戻るためには、より大きな償いが必要になると考えられます。

こちらに非がない理不尽な出来事であっても、怒りや憎しみの表現は、霊的に摂理に反した行いに変わりなく、魂のありさまを変えてしまい、自らの成長を妨げる結果を生み出してしまいます。

決して正当化されず、後に後悔することになります。



許すことは、口で言うほど易しくありません。

自己犠牲を伴うため、とてもつらいものですが、その出来事を乗り越えることであり、魂の成長という報いをもたらします。

魂の成長は、生きる意味そのものなので、許すことはこの世に生きる意味の1つを、成就したことになります。

いつまでも許せずにいるのは、生きる意味を見失っていることになると思われます。



許すとは、成長を妨げている想いを解放させることですが、魂が成長する時(経験)を必要とします。

もし想いを解放させられたなら、許して、乗り越えたことになります。

自分に非がない、理不尽な出来事で生じた想いであるならば、それを解放させる手段はあるはずです。



相手からひどい仕打ちを受けて、憎んでいる話を耳にします。

そんな人が、周りからの思いやりや優しさで満たされた時に、憎しみは霧消して行きます。

それは、魂が愛に満たされ、憎しみの想いが解放されてしまったからです。



内にある想いは、自分で解放させるしかありません。

解放させるには、自分へ向けた愛が必要となります。

自分へ向けた愛とは、自分を好きになるのとは違います。

今の自分が、その時の自分に寄り添い、共感することです。

今の自分が、その時の自分を、慰めてやることです。

大好きな人が傷ついてしまった時にするように、その時の自分にするだけです。



静かに目を閉じて、言葉を失い怒りと憎しみに震えていた、その時の自分を心の中に思い描き、胸の中で抱きしめてやりましょう。

その時の自分に向かって、「つらかったね」、「よく耐えたね」と、ありったけの愛を込めて、声をかけてやりましょう。

今の自分の愛の想いが、その時の自分に伝わり、想いを共有できたなら、怒りや憎しみが涙となって解放されていきます。

涙という肉体的表現で、その時の自分に代わって、解放させてやりましょう。

怒りや憎しみは、形を変えて、外に出すことができるはずです。

涙は、そのためにもあるはずです。

その時の自分を、思いっきり抱きしめ、そして愛して、想いを解放させてやりましょう。



川の流れに逆らって進もうとすると、抵抗があって苦しいものです。

怒りや憎しみの想いは、自然法則に逆らっているので、心がつらくなります。

怒りや憎しみの想いは、魂を成長させないので、生きるのが苦しくなります。



身に起こる全ての出来事は、愛でしか解決できないと思われます。

愛でしか、怒りや憎しみから来る苦しみから解放されないと思われます。

つらくても、自己犠牲(愛)により許して、解放して下さい。

その時の自分を愛して、涙とともに、解放して下さい。



全ての出来事は、不変の自然法則に支配され、その自然法則は憎しみではなく愛する方へと、魂を導いています。

苦しみの中から、真実を学び取り、魂は大きく成長して行きます。








2016年2月16日火曜日

ママへ



これ以上、ママを悲しませたくない
ママの笑った顔が大好きだから
ぼくは、どこにも行ってなんかいない
星になんかなっていない
いつもそばにいるのに、何にも気付いてくれない
みんなが幸せになるために、頑張っているママが大好きだ
悲しい人の気持ちは、悲しいことがあった人じゃなければ判らないよ
ひざの上に座って、お話をするのが好きだったよ、今も時々座っているよ
ぼくのことが大好きだったと知って、すごくうれしかったよ
ぼくもママのことが大好きだ
こっちには、いろいろな人がいて遊んでくれるよ
ぼくはママを悲しませるために生まれて来たんじゃなく、勇気を出すために生まれて来たんだ
ママがパパと仲良くしているのが、一番好きだよ
パパにやさしくしてね、やさしくなければママじゃない
ママがぼくのことを思うと、ぼくに伝わり、
ぼくがママのことを思うと、ママに伝わる
不思議だけど、そうなんだよ
いつも一緒にいることに、早く気付いてね
絶対さみしくないからね
一人じゃないからね
おじさんが伝えてやると言ったから、ぼくは話したよ



参考ページ: 「早世した子供たち」




2016年2月11日木曜日

亡くなった愛する人のために許す



私が54年の過去の人生を振り返り、はらわたが煮えくり返るような経験は、今は思い出せませんが、いくつもあったと思います。

人に裏切られたり、暴力や言葉に傷つけられたりして、その時は、言葉にできない想いが渦巻いていて、しばらくはその想いを引きずっていたと思います。

もう、忘れてしまっているのは、私なりに人生経験をしていく中で、ある程度の成長が得られて、いつの間にかその出来事を許せるようになり、知らない間に、想いが解放されていったためと思っています。

想いが絡まっていない出来事は、過去の記憶の1つになっていくと考えられます。



この世の中は、さまざまな人が、地上という同じ平面上に住んでいます。

それぞれの人が持っている人生観、価値観、道徳、善悪の基準に大きな差があるため、想いを自由に表現してしまうと、他者との行き違いが生じてしまうと思われます。

時に、行き違いから、怒りや憎しみが生まれ、争いに発展してしまうこともあると思います。



一方、後に行く世界(あの世)は、同じ想いを共有している者同士が集まっています。

従って、他者との行き違いはなく、怒りや憎しみの生じる心配のない、平和な世界です。

天国と言われる所以は、そこにあると考えられます。



悲しいことに、この世の中には身勝手な行いにより、愛する人の命を奪われてしまい、極限とも言える怒りや憎しみに、悶え苦しんでいる人もいます。

その心境は、経験した人でなければ理解できるものではなく、「相手を、同じ様にして殺してやりたい」と、怒りや憎しみを露わにしている、ご遺族の姿をニュース等で見かけます。

同じ目に会わせる行為は、許されるはずもありませんので、内から湧き上がる想いを、合法的な手段により実現しようと思ってしまうのかもしれません。



以前、世の中を震撼させる事件が、山口県で起きました。

何者かが部屋に押し入り、そこに住む若いお母さんと赤ちゃんが殺されてしまうという、凄惨なものでした。

後日、容疑者が逮捕されましたが、近くに住む未成年者の男性でした。

裁判が始まるとともに、事件の全容が明らかになり、それは想像を絶するほど、冷酷かつ残忍なものであり、同じ人間のする所業とは、とても思えませんでした。

その内容を知って、犯人に対して憎悪の感情を持つ人は、きっと多かったのではないでしょうか。



被害者のご主人は、あたたかな家庭を一瞬にして奪われて、何が起きたのかしばらく判らなかったと思われます。

その後、現実を認識して絶望し、深い悲しみとともに、激しい後悔、自責の念に襲われてしまったと推察されます。

その想いは、筆舌に尽くしがたいものであったのは、間違いありません。

何の罪もない愛する家族、しかも赤ちゃんの命までも奪ったのであれば、いかなる人であっても、

犯人に対する、強い怒り、憎しみ、恨みが生まれてしまうのは、時間の問題と思われます。



記者会見をする、被害者の夫であり父親でもある、まだ若いご主人の表情や言葉からは、強い怒りや憎しみが表れていましたが、私を含め、見ていた人の多くは、その姿に心を動かされ、同情したと考えられます。

愛する家族がひどい仕打ちを受けて、命を奪われたなら、亡くなった家族に代わって、同じ様に恐怖を味あわせ、復讐してやりたいと願ったとしても、仕方がないと思えてしまいました。



霊的に見て、怒りや憎しみ、恨みの想いは、神の摂理に反するものであるため、因果律の働きで、何かしらの苦痛が生じてしまうと考えられます。

しかし、怒りや憎しみの想いを持つのはいけないと判っていても、この様な出来事が身に起きれば、湧き上がってくる想いを抑えるのは、きわめて困難と思われます。

また、人生はシナリオに沿って展開されて行きますが、このような出来事が、予め決まっていたとは到底考えられず、あくまで少年の意志により起こされたはずであり、亡くなった家族に原因はないのは明白です。



加害者は当時、未成年(18歳1ヶ月)でしたが、家庭裁判ではなく地方裁判所で審議されることになります。

遺影を抱きながら入廷するご主人の姿を、ニュースの映像で何回か見る機会がありましたが、その目の奥に、強い決意のようなものを感じました。

公判は進んで行き、原告側は死刑を求刑しましたが、出された判決は無期懲役でした。

判決に失望したご主人は、刑務所から出てきたら、自らの手で思いを遂げたいとまで、語っていました。

その後、判決を不服とし、高等裁判所に控訴しましたが、棄却されます。

さらに、最高裁判所に上告したところ、上告審弁論が開かれることになりました。

この決定は、高等裁判所の判断が覆され、死刑判決が下される公算が高いことを意味します。

予想された通り、無期懲役の判決は覆され、死刑判決が出されます。



社会正義が果たされた結果であり、極刑により被害者の無念は少しは晴らされただろうと感じた人も多かったと思います。

ご主人は、その時の心境をこう語っています。

「事件からずっと死刑を科すことを考え、悩んだ13年間だった。20歳に満たない少年が人をあやめたとき、もう一度社会でやり直すチャンスを与えることが社会正義なのか。命をもって罪の償いをさせることが社会正義なのか。どちらが正しいことなのかとても悩んだ。きっとこの答えはないのだと思う。絶対的な正義など誰も定義できないと思う。」

ご主人は、どちらに進んで行こうか、とても悩んでいたのです。



私が、同じ立場になったら、どのようになってしまうのか想像もつきません。

もし、同じ年齢でしたら、ご主人よりも過激な行動を取った可能性は十分ありますので、非難するつもりは毛頭ありません。

ただ、肉体はなくなり見えなくなっても、奥さんも、赤ちゃんも生きていて、ずっとご主人の傍にいたこと、そして、自分の蒔いた種は自分で刈り取らなければならないという、絶対的公正が自然法則を通して保たれているという、一片の知識があったのならと、悔やまれずにはいられません。

これから書くことは、霊的な解釈に基づく、1つの仮説として読んでいただければ幸いです。



奥さんと赤ちゃんを襲った出来事は、あまりにも突然であり、暴漢に対する強い恐怖を感じながら、肉体から魂は引き離され、向こうの世界に移行したと思われます。

死んでいることに気付かずに、家の中でひたすら助けを求めていたのかもしれません。

魂にまで及ぶ、きわめて深刻な出来事であったのは間違いなく、しばらくは錯乱状態が続いたと思われます。

帰って来たご主人に、必死に助けを求めたと考えられますが、惨状を目の当たりにしたご主人は、茫然自失となっています。

部屋にいる人たちに、何をしても気付いてもらえず、自分が空気のような存在となっていることに、
愕然としたのかもしれません。

しばらくすると、傍にいた子供のことが急に心配になり、周囲を見回します。

見知らぬ人に抱かれて、泣いている姿を見つけて、安心して、いつものように胸に抱きます。



あらゆる状況から判断し、自分は死んでしまったと自覚するとともに、子供を守ってやれなかったことを、後悔せずにはいられませんでした。

そして、家の中で放心しているご主人の様子を見て、自分がすぐ傍にいることを、必死に何度も訴えただろうと思います。

しかし、全く気付いてもらえないことに、深く失望したと思われます。



最愛の家族を喪ったご主人は、当然のことながら、深い悲しみ、そして後悔、自責の念に襲われたと思います。

やがて、その想いは少年への強い憎悪へと変化していき、生きる目的が、少年を極刑にして、罪を償わせることになって行きました。

その後も、奥さんは赤ちゃんと一緒に生きていることを、しきりに訴え続けますが、悲しみと憎しみの想いに包まれてしまっているので、容易に近づくことが出来ません。

ご主人の魂に、こちらの想いを送り込む余地などありません。



悲惨な出来事により、無理やり次の世界に移ってしまった奥さんの魂は、当然ながら深く傷つきましたが、多くの人たちに介抱され、徐々に元の健全な状態に回復していき、赤ちゃんと共に、向こうの世界での生活に、順応していったと思われます。

想いの全てが知れ、具現化する次の世界はとても新鮮であり、一足先に来ていた親しい人と一緒に、快適な生活を始めます。

しかし、この世に目をやると、悲しみの涙をとめどもなく流し、後悔と自責の念に捉われ、それが怒りと憎しみに変化していく、愛するご主人の姿が見えます。

自分が先に、こちらに来てしまったことに対して、申し訳ない気持ちで一杯になります。



とにかく、肉体はなくなっても、生きている事実を伝えたいだけです。

しかし、ご主人は、死んだ後にも生があり、跡形もなく消えてしまった人の意識は変わりなく存続し、切実な想いが送られてきているなどとは思いもしません。

残酷にも、想いは無視され続けます。

いなくなってしまったと錯覚しているご主人は、死をもって償わせるという目的に向かって、突き進んで行きます。



向こうの世界から、この世の人の魂(想い)は一目瞭然です。

法廷には、怒りを押し殺すご主人と、自分たちを殺した少年の姿が見えます。

奥さんは、あの時の情景が思い出され、恐怖を感じましたが、同時に、自分を殺めた少年の魂が、ひどく病んでいることに驚きます。

少年の過去の出来事や、その時の想いを知りました。

これまで受けてきたのは怒りばかりであり、愛が絶対的に不足していたことが判ります。



とても優しい人(魂)である奥さんは、少年に対する憎しみの想いは、初めからありませんでした。

事情を知り、哀れみと同情の想いすら持っています。

強い憎しみを抱き続ける、愛するご主人へ、そのことをどうしても伝えたいと思っていました。



犯した罪は、当然のことながら、償わなければいけません。

けれども、死によって、少年の魂は次の世界に移行するだけであり、償いにはならない事実を、どうしても判ってもらいたいと、訴え続けます。

大切なのは、少年に死の恐怖を味あわせて、この世から追放させることではなく、自分の過ちに気付き、深く反省させ、この世において正しい生き方に変えさせることです。

もし、人を殺め、多くの人を苦しめた罪が、この世で償い切れなかったのであれば、あの世に行ってから、償うことになります。

何人も、この自然法則の働きから逃げられないことを、はっきりと奥さんは判っているのですが、ご主人には全く伝わりません。



人為的に、肉体から引き離された病んだ魂(霊)は、次の世界に移っても、病んだままです。

それどころか、社会に殺されたと思い、社会を強く恨んでしまうかもしれません。

肉体を失った病んだ魂は、同様の想いを抱いている、この世の人の魂に引き付けられ、恨みを増幅させていき、悲惨な事件を起こしかねません。

法律として正当化されている死刑は、霊的には国家による殺人行為に他ならず、新たな憎しみや恨みを生み出し、この世の惨劇が繰り返される一因となっているのは、あの世から見れば明白です。



多くの人は、この世に生きた意味を、あの世に行ってから知ることになります。

完全な人間など、この世に誰一人としていません。

どこかしら足りないところ、鍛錬しなければいけないところがあり、さまざまな出来事を通して、学びながら成長していくところに意味があります。

大切なことを学ぶ、学校のような存在だったのが、後になって初めて判ります。



罪を犯したのであれば、法律に従って罰せられます。

それとは別に、人に苦痛を与えたり、悲しませたり、迷惑をかけたのならば、自然法則は厳格に働き、相等の苦痛を味わうことになります。

法律から逃れることは出来ますが、自然法則の働きから逃れることは、何人も出来ません。

犯した罪は、情状酌量も猶予もなく、収支が合うまで必ず霊的に償わなければなりません。

そして、苦痛による償いを通して、大切なことを学んで行きます。



愛を知らないために、魂が病み、罪を犯してしまう人が、世の中には多くいます。

そんな人に対して、愛の大切さを、身を持って教えてやることで、病んだ魂は癒されて行きます。

愛は、人から人へ循環しているものであり、そこから取り残されていただけです。

愛されていないので、愛の意味も知りようがありません。

愛を知らないので、愛する人を喪った悲しみ、引き裂かれた苦しみが、全く判らないのです。

その罪の深さが、判らないのです。

愛を向けてやらなければ、犯した罪の意味や、他者の想いも判らず、苦痛を味わうところまでも行けません。

この世の命(肉体)を奪っても、暴力的な行為により、自分を追放した社会を、ただ憎むだけです。

何の償いにもなりません。

愛されることで、良心が目覚め、自分が犯した罪の深さを知ります。

そこから、悶え苦しみ、深く後悔し、懺悔する日々が始まり、真の償いの人生が始まります。

すべては、愛でしか解決できないのです。



少年の運命は、世論を動かし、司法の判断にまで影響を与える、ご主人の意思に委ねられていました。

とめどもなく襲う悲しみや苦しみを経験していく中で、魂は成長し、どうしても許せなかったことが、許せるようになっていくのかもしれません。

許すことは、自己犠牲による大きな苦痛を伴うため、生易しいものではありません。

しかし、その見返りとして相応の霊的な成長が得られます。

死をもって償わせることが、奥さんや子供へのせめてもの愛と、大きな勘違いをしていたのかもしれません。

ご主人が望んでいたことは、実は、奥さんが最も望んでいないことだったのかもしれません。

望んでいたのは、怒りや憎しみの表現ではなく、許すという、少年へ向けた大きな愛を表現することだったのかもしれません。

大きな愛を表現して、大きく成長したご主人と再会したかったのかもしれません。

固唾を呑んで、あの世から行く末を見守っていたと思われます。



2008年、元少年の死刑は確定します。

目的を達成して安堵するご主人と、向こうで見守っていた家族との間に、埋めようのない大きな溝が生じてしまったのかもしれません。

あたたかく見守っていた家族は、自分たちの愛の届かぬところに行ってしまったと、嘆き悲しんでいたのかもしれません。

長い間、憎しみ、恨むことによって、人は変わってしまうものなのかもしれませんが、誰もそれを責めることは出来ません。

想いを共有できなくなってしまった2つの魂は、お互いを結びつける力を、急速に失っていったのかもしれません。



2009年、ご主人は、それまで支えてくれていた女性と結ばれます。

それは、かつて結ばれていた魂との、永久の別れを意味するのかもしれません。

あの世で見守っていた奥さんと娘さんは、この世でのご主人の幸せを祈りつつ、生まれる前にいた界層へと戻って行きます。








2016年1月31日日曜日

霊的な病気の意味



私は、メールでのやり取りが苦手です。

まず、字を書く(変換する)のが煩わしく思え、電話で直接、話をした方が、手っ取り早いと感じるからです。

事務的なものであれば、メールで用件を伝えることもありますが、相手にお願いすることがあったり、謝らなければならない時には、メールを使うことは、まずありません。

やはり、電話でやりとりした方が、こちらの気持ちが正確に伝わり、相手もどんな気持ちなのか、判ると思うからです。

いくら適切な言葉を選んで並べたとしても、生の声ほどお互いの気持ちは伝わらないと思います。

絵文字などが使われるのは、こちらの気持ちが伝わっていない不安があるためではないでしょか。



食事をしたり、買い物をしたりすると、帰り際に「ありがとうございました」と、あいさつをされます。

同じ言葉でも、人によって大きく印象は違い、言われて何も感じな時もあれば、少しうれしくなり、また来てみようという気持ちになる時もあります。

それは、同じ言葉でも、感謝などの「想い」が込められているか、いないかの違いだと思います。



音楽も、同じです。

名演奏は、その曲にふさわしい情感が込められた時に生まれると思います。

奏者の想いが音を通して、聴く人に伝わって来た瞬間、感動が生まれると思います。

その証拠に、ホテルのロビーなどに無人のピアノ演奏機が置いてありますが、ミスもなく、完璧な演奏をしているにもかかわらず、伝わってくるものは何もなく、感動はありません。

機械が発生させる音なので、想いが込められていないためと思われます。



伝えるものの本質は想いであり、言葉や行動は媒体に過ぎません。

想いの入っていない言葉や行動は、事務的な連絡や機械的な作業を超えるものではありません。

この世は、想いを肉体により言葉や行動に変換して、表現しなければいけない世界です。

お互いの想いを伝えるには、五感を通すしかありません。

ほとんどの人は、五感で認識できる(物質次元の)ものを実体と思い込んでいますが、それは錯覚です。

実体は、物質を超越していて、五感を超えた霊的次元にあり、魂で感じ取っています。



この世に生きる私たちは、肉体を使って、笑ったり、泣いたり、怒ったりして、自分の想いを表現しています。

しかし、肉体と言う媒体を介しているので、すべての想いを表現できるわけではありません。

愛する人を喪った悲しみを、言葉により伝えられるとは思えません。

言葉よりも泣く方が、より適切な表現と思われます。

強い怒りを、言葉だけで伝えられるでしょうか?

言葉だけで伝えられないからこそ、時に、人は暴力的な行動をとってしまうのかもしれません。

言葉や行動は、想いを乗せている道具(媒体)です。



私たちは、快適な世界に暮らしているように思えますが、実は、想いをうまく表現できない、とても不自由な世界に生きていると言えます。

私たちが後に行くあの世は、肉体という媒体のない世界であり、想いは直接、しかも正確に、相手の魂に伝わります。

想いが全て伝わる世界と、伝えようとしても伝えられない世界では、どちらが望ましく、心地が良いのかは明らかです。

それにもかかわらず、この世の多くの人は、あの世に行ってしまった人を、不憫に思っています。

一足先に向こうに行った人は、この世の私たち見て、とても煩わしい思いをして生きているように見え、きっと可哀相に思っています。



物事を認識して、言語を介して論理的思考をしているのは大脳です。

しかし、思念(想い)は大脳から生まれているのではありません。

人の本質である、魂から生まれています。

「心」や「感情」が未だに解明されないのは、科学が唯物的な考えから抜け出せずに、魂の存在を認めていないためと思われます。



死とは肉体から魂(霊)の永続的な分離です。

魂を失った肉体は、存在理由がなくなってしまうために、土に還ります。

死んで肉体が土に還っても、魂は変わりなく存続していて、そこから想いは生まれ続けています。

単純明快な自然現象にもかかわらず、躍起になって否定する人がいますが、そんな人たちも、いつの日か訪れる死によって、現実と直面し、誤った考えを改めざるを得なくなります。



想い(思念)が生まれると、精神で指令となり、肉体で言葉や行動となって、外に向かって表現されます。

絶え間なく、想いの表現が繰り返されて、人生は紡がれていきます。

想いは、実体のない、生まれては消える泡のような存在ではありません。

霊的次元では実在そのものであり、物質的なこの世界において、具現化させるエネルギーとなっています。

神と呼ばれる存在から、魂が生命力を受け取って、想いというエネルギーが生じ、精神を経由する中で感情や意志となり、肉体に指令が出され、最終的に言葉、表情、行動と言った(肉体的)表現となって完結されています。



ところが、何かの理由があって、肉体で表現として外に放散されずに、想いというエネルギーが内部に滞ってしまう時があります。

例えば、会社において、上司が理不尽な言動をして憤りを覚えたとしても、それをそのまま表わしてしまえば波風が立ってしまうので、グッとこらえます。

よく考えてみると、私たちは、周囲の環境により自分の想いを素直に表わせない、窮屈な世界に生きていると言えます。

日常でそんな経験をすると、ストレス発散と言って、酒を飲んで騒いだり、体を動かしたり、趣味に没頭したりして、無意識に言い表せなかった想いを解放させようとします。



ところが、深刻な出来事が身に起きた時には、魂から強烈な想いが生じていますが、そんな想いほど、外に向かって表現するのは困難になります。

目の前で惨事が起これば、何らかの強い想いは生じていますが、言葉を失い、立ち尽くすだけです。

ひどい仕打ちを受けて、強い怒りや憎しみが生まれた時ほど、その想いを表現する言葉を見つけるのは困難であり、唇を震わせるだけです。

激しい嫉妬心を、うまく表現する言葉は、どこにも見つかりません。



ストレスが発散できずに溜まったり、強い想いであればあるほど、表現するのが難しくなり、解放されない想いは、内に滞って行きます。

外に解放されなかった、想いというエネルギーが徐々に内部に蓄積してくると、自然法則の働きにより、肉体や精神を変化させる力となります。

現代医学で突き止められていない病気の多くは、この蓄積されたエネルギーが根本原因となっていると考えられます。



肉体は、魂のありさまを表現する媒体です。

魂のありさまの変化は、肉体上の変化として現れます。

怒りや憎しみや忌み嫌う想いが、表現できずに滞ってくると、その蓄積されたエネルギーは、肉体を変化させ、暴力的で攻撃的な病変となって表現されます。

それが、ガンという病態です。

自分に対する怒りや憤りは、自分を責める想いとなり、その想いが溜まってくると、自分を守っているシステムが、自己を攻撃してしまう機能異常を生じさせます。

それが、膠原病という病態です。

直接、外に表現できなかった想いが、時を経て、肉体上に病態となって表現されています。



ガンや膠原病は、科学で対象外の「魂」と「想い」と深くかかわっている霊的次元の病気と思われます。

肉眼や検査で確認できる病変や機能異常は、表現されなかった「想い」という本体が、肉体上に反映されたものと思われます。

心(魂)と病気は密接不可分の関係であり、心(魂)のありようによって、病態は大きく変化すると考えられます。



なぜ、病気となって表現される必要があるのでしょうか?



私たちが生きている目的は、自分を成長させるためです。

成長していくことで、他者との調和が生まれ、世界が平和になって行きます。

それぞれの人生には、この世で自分を大きく成長させるために、予め決められているシナリオがあります。

楽しいこと、うれしいことばかりであれば良いのですが、それだけでは自分を大きく成長させることはできません。

つらいのですが、歓迎されない、出来れば避けたい、不運や不幸と言われるような出来事により、翻弄され、もまれながらも乗り越えて行く中で、大きく成長して行くようになっています。

従って、この世に生まれた限り、誰もが苦難に出会うことになっています。



自分を成長させているのは、それだけではありません。

人や動物、そして社会のために、役に立ちながら成長していきます。

従って、どんな人にも、奉仕の機会が必ず訪れるようになっています。



多くの人は、身に起きる出来事を、偶然起きたと思いがちです。

しかし、生まれる前に自分が自分にした約束があって、それが人生のシナリオに従って起きていると考えた方が良さそうです。

最悪と思える時に起きるのは、自分(魂)の成長にとって最適な時だからです。

身に起きた出来事を、無我夢中で乗り越えて行く最中で、自分(魂)は確実に成長して行き、この世に生まれた目的を果たしていると考えて、間違いありません。



しかし、シナリオとは関係なく、他者の身勝手な言動によって、自分が傷つけられてしまうことがあります。

肉体が傷つけられると、血が噴き出るように、魂が傷つけられると、想いが溢れ出てきます。

溢れた出た想いが、うまく表現できないと、内に滞ることになります。

滞った想いにより、何かと出会ったり、何かをしようとした時に、無意識のうちに抵抗してしまったり、拒絶してしまう時があります。

一般的に、それを「トラウマ」と呼びますが、それは過去に起きた出来事の「記憶」ではなく、出来事から生じた「想い」によって、引き起こされていると考えられます。

その時の想いが、怒りや憎しみを伴うものであったならば、その後の人生で起きる出来事により、同じ様な想いを生じさせてしまうことになります。



親による子供の虐待ほど、痛ましいものはありません。

それは親、自らが虐待を経験し、そこから生じた想いが表現されずに滞っていて、時を経て自分が子供を育てる時に、過去の情景が思い出され、滞っていた想いが表に出てきて、自分の子供に向かって表現されていると思われます。

親は、子供を嫌ったり、憎んでいる訳ではないはずです。

過去に生じた想いはそのまま残り、後に、それを喚起させる出来事に遭遇すると表在化し、肉体的表現に変わると考えられます。

解放されなかった想いは消えずに、内に潜伏していて、その後の人生に、深刻な影響を与えていると言えます。



現代社会では、頭をフルに働かせる生活を強いられています。

そのために、頭脳優先となり、自分の想いに気付きにくくなっています。

周囲に合わせ、円滑に生活していくために、自分の想いに長い間ふたをしたまま、機械的に生きていると言えます。

そんな生活をしている限り、内に溜まっている想いに気付くことは、まずありません。



自分を成長させる出来事は、シナリオに従って起きます。

霊的次元から見ると、魂を成長させるためにある試練であり、好機ですが、この世に生きる私たちにとって、困難や障害にしか見えないことが多くあります。

シナリオに従って出来事が生じた時に、ありのままの自分(魂)は、すぐさま進むべき方向を指し示します。

その想いに従って、進んで行くのが、シナリオに沿った生き方です。

しかし、内に溜まった想いが、ありのままの想いを表現する、大きな障害となっています。

怒りの想いが内に溜まっていて、人に優しくすることができるでしょうか?

自分を責めている時に、何かに挑戦しようという気になるでしょうか?

内に溜まった想いがあると、シナリオとは違う方向に行ってしまい、予定されたこの世での成長が得られなくなる可能性があります。



内にある想いに早く気付いて、解放してやらなければ、この世で予期した成長は望めません。

霊的な成長を続けている人間にとって、魂から湧き上がる想いに忠実に生きられないのは、大きな損失となっています。

生まれてきた目的を果たせずに、無為に地上の時を過ごすことにつながってしまうからです。



病気は、霊的次元の想いを、肉体次元に具現化させ、五感で認識させるためにある、自然法則(神の摂理)の働きによるものです。

因果律の働きにより、見えないものを見える形にして、内にある想いに気付かせるものです。



ほとんどの病気には、誰もが避けたい苦痛が伴います。

なぜ、苦痛を味わなければいけないのでしょうか?



目に見えず、人にも知られない想いにも、自然法則(神の摂理)が働いています。

どんな想いを抱いていたか、問われています。

想いには、摂理に適ったものと、反したものがあります。

摂理に適った想いを、短く一言で表現すると「愛」です。

摂理に反した想いは、愛に反する、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬、貪欲、不寛容、傲慢などです。

もし、病気により苦痛を感じているのであれば、何かしら摂理に反した想いを抱いていたことになります。



病気の苦痛は、摂理に反した想いを抱き続けた償いであるとともに、魂を目覚めさせる触媒となっています。

それまでは、内にあるさまざまな想いにより作り上げられた、見せかけの自分や歪められた自分が、主導権を握っていたと思われます。

苦痛により、見せかけの自分や歪められた自分は吹き飛ばされ、それまで奥で眠っていた、本当の自分が目を覚まし、表に出て来ます。



自分ではどうすることも出来ないほど、内にある想いが溜まっていたのです。

病気にならない限り、内にある想いを解放させることは、出来なかったのです。

病気は、肉体と敵対しているものではなく、想いが肉体上に現れたものであり、その想いを解放させて、本当の自分を取り戻すために存在しています。



人(魂)は、神が創った、神の一部です。

私たちは、食物から栄養を摂取して生きているように見えますが、それは肉体に限られています。

体感されませんが、魂は神と呼ばれる存在から、生命(霊)力を受け取って生きています。

魂が目覚めると、神とのつながりは、より一層深まって、生命力が存分に流れ込みます。

流れ込む生命力は、愛を帯びているので、内にある(愛に反する)想いは、魂との親和性を失います。

根強く居座っていた想いが、ようやく解放されていきます。

想いが解放され、魂は浄化され、因果律の働きにより、肉体上の病変や機能異常は消失していきます。

本当の自分が姿を現したのなら、病気はその役割を終えて、心身は癒されるはずです



大きな病気を克服した人の中には、別人のように活き活きと、明るく生活するようになった人を見かけます。

そんな人たちは、人には言えない苦痛を経験した末に、本当の自分(魂)に目覚め、本来の生き方を取り戻した人たちだと思います。

より輝いて見えるのは、想いという障害物がなくなり、生命力が外に溢れ出しているからです。

より奉仕的な生活をするようになるのは、愛の大切さに目覚め、内から湧き上がる想いを素直に表現できるようになったからです。

病気をきっかけに人間が変わったように見えますが、実際は、人間を変えるために病気が存在していると思われます。



霊的な病気には、霊的な目的が隠されています。

根本原因は、表現されなかった想いです。

目的は、内にある想いの表在化と解放です。

魂の治癒過程における、心身上の現象が病気です。



生きる目的は、自分(魂)を成長させるため以外にありません。

より強く、より美しい自分になるためです。

困難や障害を、1つ1つ乗り越えて行くことで、強くなっていきます。

優しさや、思いやりを表わすことで、美しくなっていきます。



病気は、偶然や不運ではなく、人を成長させるためにある自然法則であり、私たちを良い方向に導いているとしか思えません。







参考ページ: 「健康と病気 ~霊的視点からの私見~」














2016年1月17日日曜日

ありのままで生きる



仕事が休みの日には、障がい者施設にボランティアに行っています。

ボランティアと言っても、一緒に遊んだり、話し相手になっているだけです。

行くといつも喜んでくれてうれしいのですが、自分も教えてもらうことがたくさんあります。



そこにゴンちゃんと呼んでいる子(といっても20代後半の男性ですが)がいて、良く話をします。

詳しくは知りませんが、おそらく出産時の難産が原因で、酸素が行き渡らなかったために、脳の神経が大きなダメージを受けてしまったと思われます。

歩くことは全くできず、かろうじてスプーンを保持して、口元に運ぶ程度の身体的機能しか残されていません。

目もあまり見えておらず、精神年齢は4,5歳程度と思われ、少し難しい話になると理解できません。

多くの入所者は、車いすで生活をしています。

車いすには大きく別けて2種類あり、腕により車輪を回転させて、自力で移動する一般的な車いすと、全身が不自由なため介助者により移動させる車いすがあります。

ゴンちゃんの障がいは重いため、車いすは移動に介助が必要なものであり、寝る時以外は、いつもその上にいます。

昼食時に、ゴンちゃんの介助をすることが多かったのですが、私の役目は、おかずを小さく分けたり、つぶしたりしたり、スプーンに食べ物を載せることです。

身体が不自由なゴンちゃんにとって、食事は大きな楽しみであり、献立を繰り返し聞かれ、出された食事をいつもおいしそうに食べ、残すことはありません。

自分に残された機能で、一所懸命に食べる姿を見て、いつも立派だと思っています。



目が見えなくなると、周囲の気配を察知するために、代償的に人の聴覚は敏感になります。

同様に、身体や頭脳の働きが弱くなると、魂が優位となって、人から伝わる想いに敏感になると思われます。

ゴンちゃんは興味深い話も聞かせてくれて、夜、部屋の電気を消すと、亡くなったお父さんとおじいちゃんが、傍にいるのが判るそうです。

動いたり、考えたりすることは苦手で、眼も良く見えませんが、その分、霊的な感覚は鋭敏になり、亡くなった人の姿が見えたり、人の想いをしっかりと感じ取っていると思います。



ゴンちゃんの生まれて来た目的は、自分のやりたいことをするのではなさそうです。、

どのような理由(原因)があって、このような身体で生まれてきたのかは判りませんが、健常者では得られない体験を通して、生涯をかけて何か大切なことを学んでいると思います。



ゴンちゃんの頭脳はダメージを受けたため、文字を読んだり計算をしたりすることは出来ません。

大人になるのに従い生まれてくる打算や偏見はなく、幸か不幸か、嘘もうまくつけません。

また、体裁を繕ったり、見栄を張ったりするなど、見せかけの自分を作ることも出来ません。

ありのままの自分で、生きるしか出来ません。



話は変わりますが、小中学校の同級生であり、仕事上の付き合いも長い友人がいます。

饒舌であり、強気で負けず嫌いな性格です。

彼は、歯医者が発注した義歯を作成する歯科技工士をしていますが、妥協を許さない仕事ぶりに、私は全幅の信頼を置いています。

月に数回、依頼した義歯の製作についての確認や打ち合わせのために、会っていました。



ところが、約2年前の冬のある日、交通事故で彼の長男が突然亡くなりました。

その日を境に、顔を合わすことはなくなりました。

仕事のことで、こちらから連絡を取ろうとしても、留守録になっていて、しばらくすると別の人から用件を聞く電話が入ります。

仲の良い幼馴染とも連絡を取っておらず、誰とも会いたくないのだと思いました。



去年の12月、事故から約2年経ったある日、ばったりと顔を合わせる機会がありました。

一瞬、目が合った後、言葉を交わすこともなく、その場から離れて行きましたが、以前と様子が違って見えました。

強気なところは失せて、張りつめていたものがなくなっていたように見えました。



どなたかのブログで、親を亡くすと過去を失い、配偶者を亡くすと現在を失い、子供を亡くすと未来を失うと書かれていましたが、将来の大きな希望が無くなってしまったために、元気がなくなり、そう見えたのかもしれません。

経験のない私には良く分りませんが、子供を喪う以上の悲しみは、この世に存在しないのではないかと思います。

どんな想いで、この2年間、過ごしてきたのか知る由もありません。



友人の存在を確認できたのは、届けられる義歯だけです。

届けられる義歯は、以前と全く変わりない、質の高い義歯です。

彼の作る義歯は、装着する時に調整が少なくて済み、とても丈夫に作られていて、壊れることはほとんどありません。

患者さんにとっても、義歯の出し入れがし易く、食事の際にも痛くなく、繊細な配慮が行き届いています。

歯医者にはうれしく、患者さんには優しい義歯です。

人の手によって作られるものは、作る人の性格が表れ、想いが込められていると思います。

彼の作る義歯にも、彼の性格が反映されている気がします。

会って話をすると、饒舌で強気な性格のように多くの人が感じていると思いますが、本当はとても繊細で優しい性格だと思います。



では何故、強気なところを見せているのでしょうか?

私には強気なところを見せて、繊細で優しい自分を守っているように感じます。



この世には、さまざまな人がいます。

中には、平気で人の心を傷つける人もいます。

特に、無防備な子供の時に、傷つけられてしまった人は、とても多いと思います。

心を傷つけられると、精神的な苦痛を伴うので、それを避けるために、無意識に自分を守ろうとします。

性格的特徴と思っていた強気な面は、彼自身が作り上げたバリアみたいなものであり、必死に自分を守ろうとしていたのかもしれません。

昨年末、友人に会った時に感じた違いとは、覆っていたバリアがなくなり、素の自分が出ていたためと思いました。

人を避けていたのは、繊細で優しい自分が傷つけられるのが怖かったのかもしれません。



繊細で優しい性格は、彼の美徳であると、私は思います。

なぜなら、思いやりや、優しさを表現すれば、人が喜び、自らの霊的な成長を促すからです。

しかし、この世では、繊細で優しい性格を前面に出すと、そのような美徳を持ち合わせない人から、傷つけられてしまうことがあり、外面的性格を作りあげて自分を守ろうとしている人は、たくさんいると思います。

自分自身で作り出した、鎧のような外面的性格が、優しい想いを表現する妨げとなっていて、彼の成長に大きな障害となっていたのかもしれません。

深い悲しみは、魂の琴線に触れ、目覚めさせると言われますが、目覚めると同時に、周りに張り巡らされていたバリアが解かれたのかもしれません。

魂にまで響くような出来事に遭遇すると、昔の自分には戻れないと言う人がいますが、それは昔の自分のさらに前の、本来の自分の姿に戻っているのかもしれません。



ゴンちゃんは表現の自由を失いました。

友人は子供を喪いました。

不幸の極みとしか映りません。

しかし、霊的な次元から見れば、この世の出来事は別の様相を呈してきます。

何かが変わり、何かを見出すことが出来たのなら、その出来事は少なからず意味を持つことになります。



ずいぶん前のことですが、東名高速道路で飲酒運転のトラックに追突され、乗っていた車が全焼し、幼いお子さん二人を亡くされたご夫婦がいました。

炎上する車内に取り残された子供たちを、なす術もなく、そばで見ているしかなかったそうです。

ご両親も事故で大きな火傷を負われましたが、このような悲劇が2度と起きてはならないと思い、同じ飲酒運転(加えて無免許で無車検)で一人息子を失った遺族とともに、社会に働きかけて、世論を動かし、国会で道路交通法の罰則が強化されて、危険運転致死傷罪が新設されました。

この法律により、飲酒運転という愚かで恐ろしい行為は減り、世の中の片隅で泣く被害者は、間違いなく減ったと思われます。

これは、子供の死を無駄にしたくないという、ご遺族の切実な想いがあったために、成し遂げられました。

亡くなった人は、2度と戻っては来ません。

しかし、その死は無駄にならずに、大きな意味を持ったことになります。

子供の死を、暗く、不幸な出来事として終わらせずに、世の中を明るく、幸せにするために、活かせたと思われます。

子供を喪った悲しみが、消えるわけではありませんが、あの世にいる子供たちにとって、自分たちの死により、この世で嘆き悲しむ人が少なくなったのは、とてもうれしいことであり、その想いは魂でつながっている、ご両親に伝わり、きっと癒やされたと思います。



友人の長男の死により、世の中が何一つ、変わったわけではありません。

しかし、少なくても友人を変えたと思います。

単なる不幸として終わっていないと、私は考えます。



あの世から、この世の人の想いは、手に取るように判ります。

あの世にいる長男は、この世ではガミガミとうるさいことばかりを言っていた父親が、実は繊細で優しい人だと知って、驚くとともに喜んでいると思います。

なぜなら、あの世に行って、思いやりと、優しさが、最も尊ばれ、価値を持つことを知ったからです。

自分が死んでしまって、すごく悲しませてしまったけど、お父さんを包み込んでいた余分なものが取れて、本当の想いを素直に表現できるようになったのであれば、それをうれしく感じているに違いありません。

何で素直に良いところを見せられないのか不思議に思っていて、他の人にも早く知ってもらいたいと願っていると思います。



障がい者施設のゴンちゃんは、自分を守る術はなく、肉体的にも精神的にも、いつも無防備な状態です。

しかし、自分を守るものがなく、ありのままでいても、傷つける人は誰もいません。

それどころか、周りの人たちが、生きるのを常に助けてくれています。

そのような暮らしを何十年も続けていれば、過去にどんな出来事があったとしても、人は信用するのに値する存在であり、心を許しても良いことが判ってくると思います。

全生涯をかけて、学んだことを、今度は身体を存分に使って、思いっきり表現する、すばらしい人生が待っていると思います。



この世で、不幸としか思えない出来事は、ありのままの自分にさせる力を持っているようです。



人の本質は、肉体ではなく魂です。

魂は、死によって肉体から離れて、真の生活が始まります。

そこでの生活は、覆い隠すものは何もなくなり、丸裸になって、周りに自分(魂)の全てが知られてしまいます。

この世の地位や肩書き、外面的性格は通用せず、ありのままの自分でしかいられなくなります。


ありのままに生きるとは、自分の考えた通りに生きるのではなく、自分の想いに素直に従って生きることだと思います。

頭で考えて行動するのではなく、内から湧き上がる想いに忠実に生きることです。

ありのままの自分で生きた方が良い大きな理由は、あの世に行くと、ありのままでしか生きられず、そして、生まれる前に決めていた人生の通りに生きることが出来て、この世に生まれた目的を果たすことにつながるからです。



すべての出来事は、自然法則の働きにより、支配されています。

苦しい思い、悲しい思い、つらい思いのまま、全てが終わりになってしまうのではなく、自然法則の働きにより、その先で、必ず報われるようになっています。

地上的なものを喪ったと同時に、必ず霊的な成長を得られるようになっているからです。

神については、数千年も前から、たくさんの人により説かれてきましたが、あまりにも大きな存在であり、全体像を掴めた人など存在しません。

全然信じていなかった私が言うのもおかしいのですが、神も仏もない、神に見捨てられた、神を恨んでいる人ほど、後に全容が明らかになり、自然法則の働きにより不公正、不平等が一切存在しないのが判った瞬間、思わず何者かに向かって、深く感謝したくなると思います。

その何者かが神であり、大きな愛を感じずにはいられなくなると思います。



もし友人に、こんな話をしたのならば、おまえは経験したことがないから、そんな好き勝手なことを言えるのだと、怒鳴られるかもしれません。

どれほど涙を流したのか、どれくらい悲しい、悔しい、苦しい想いをしたのか、私には判りません。

しかし、幸運にも、友人のまだ知らない、いくばくかの霊的な知識を持っています。

今は何のことだか判らなくても、時を経て、その知識により、光が差し込み、悲しみが癒されるのであれば、どのように思われようとも、しっかりと伝えたいと思っています。

友人にこそ必要な知識であり、向こうにいる彼の子供がどうしても伝えたいことだと思うからです。



















2016年1月1日金曜日

最も大切で美しいもの



私が高校生の時のことです。

冬、こたつでうたた寝してしまい、気付いたら真夜中でした。

テレビが付けっ放しになっていて、一昔前のモノクロの洋画をやっていました。

どんな題名の映画かも分らず、寝ぼけながら観ていましたが、そこに出ているヒロインがあまりにも可愛いらしく、輝いていたので、すっかり目が覚めてしまいました。

「世の中には、こんなきれいな人もいるんだ!」と思いながら、最後まで観てしまいました。



映画の題名は「ローマの休日」で、ヒロインはオードリー・ヘップバーン(以下オードリー)です。

言わずと知れた、20世紀を代表する女優の一人です。



「ローマの休日」は生まれる前(1953年)の映画であり、私が大きくなった時には、もう映画には出ていなかったと思います。

時がさらに過ぎ、90年代の初めでしょうか、ユニセフのテレビコマーシャルの中で、彼女を見かけました。

映画に出ていた時のイメージとは全く違い、平服で、化粧もせず、顔にはしわが刻まれて、その瞳に憂いのようなものを感じました。

年を取ったと言えばそれまでですが、スクリーンの印象があまりにも鮮烈だったために、幻滅とまではいかないまでも、少しがっかりしてしまった覚えがあります。

いくら綺麗な人であっても、美しさに翳りが出て、女優としての価値は低くなり、すでに財産も十分にあるので引退し、余暇を慈善活動に当てているのだろうと思っていました。



事実は全く違っていました。

真の意味で美しい女性でした。



オードリーは1929年、ベルギーのブリュッセルで生まれます。

生後6週間後で悪性の百日咳にかかり、呼吸停止にまでいたりましたが、お尻をたたかれ息を吹き返したそうです。

幼い頃から母親に「あなたは特別な人間じゃないのよ」と、よく叱られ、目立つことはしてはいけないと戒められて育ったそうです。


あの明るい笑顔から想像すると、さぞかしあたたかな家庭で育ったと思うかもしれませんが、決してそんなことはなく、後々まで人生に影響を及ぼす出来事が幼い時に起こります。

6歳の時に、尊敬していた父親が家族を捨て、家を出て行ってしまいました。

彼女にとって、それは大変ショックな出来事であり、毎日のように、父親が帰ってきて、抱きしめてもらうことを願っていたそうです。

しかし、その願いが叶うことは、最後までありませんでした。

10歳の時のオードリー


その後、世の中は大戦へ向けて突き進んで行き、希望に満ちたとは言えない少女時代をオランダで過ごします。

いざ戦争が始まると、オランダは早期にドイツ軍に支配され、何も食べるものがなくなって、兄弟は犬用のビスケットを食べ、チューリップの球根を食べる人もいたそうでうす。

戦争末期になると、食料品はすべて軍隊に回されたため状況はさらに悪化し、住民の食料は底をつき、オードリーは極度の栄養失調で餓死寸前だったと、後に語っています。

ようやく戦争が終結して、赤十字とともに「アンラ」という組織が街にやってきて、人々に食糧と、医薬品と衣服が配給され、オードリーも渡されたチョコレートを全部食べたそうです。



年端もいかないころからプリマ・バレリーナに憧れ、レッスンを受けていましたが、本格的にバレエを習うために、18歳の時に母親とともにロンドンに移り住みます。

そこで傑出したバレエ教師として名高かったマリー・ランバートという人と出会い、レッスンに打ち込みます。



ある日、マリーに「このまま技術を完全にマスターすれば、プリマ・バレリーナになるチャンスが巡ってくるでしょうか?」と聞いたそうです。

マリーは非常にやさしく「あなたは私が教えた中で最高に優秀な教え子のひとりで、セカンド・バレリーナとして、他の生徒たちをはるかにしのぐキャリアを積むことができるでしょう。」と言われたそうです。

セカンドバレリーナとはプリマ・バレリーナを補佐する役目であり、バレエの世界では主役になれないことを意味しました。

「私の夢はどうなりますか?」打ちのめされたオードリーは聞き返したそうです。

これからどんな厳しい練習をこなしても、体格をつくるべき重要な年齢は過ぎてしまっていて、もう取り返しがつかなかったそうです。

背が高かったこともありますが、戦時中に過酷な日々を送ったオードリーは十分な栄養を摂ることができなかったために、筋肉の発達が阻害されてしまい、適切な栄養を摂取でき、十分な練習を積むことができた他のバレリーナに太刀打ちが出来なかったのです。

つまり、戦争が彼女から夢を奪ったと言えます。

帰宅して、部屋に閉じこもってひたすら「死んでしまいたい」と思ったそうです。



最高のバレリーナになれないなら、別の分野でなれるだろうと、気持ちを切り替えます。

けれども当面の生活をどうやって支えるかが問題であり、モデルの仕事を始めることになり、そして俳優の仕事をするようになりました。

彼女にとって俳優は、幼い時からの夢が破れ、やむをえない選択だったのですが、バレエと同じ様に、一生懸命がんばること、規律正しく取り組むこと、プロ意識を持つことを心に決め、いくつかのミュージカルと映画の役者として出演しました。



ある映画の撮影で南仏にいた時、撮影隊と同じホテルに宿泊していたコレットと言う人に出会いました。

コレットはフランスの有名作家であり、「ジジ」(フランスの少女の物語)という芝居の準備のために南仏を訪れ、脚本家とプロデューサーの3人で主役を演じる女優を探していたそうです。

コレットはオードリーの姿を見つけ、こう宣言したそうです。

「ジジを見つけたわ!」

頭の中で生み出した人物が、肉体を持った人間として突然目の前に現れたと思ったそうです。

その日のうち、コレットはブロードウェイに出演してほしいと、オードリーに申し込みます。

いつしかメイクアップの助けを借りなくても、すばらしい輝きを見せるスターになるに違いないと思ったそうです。

1951年、ブロードウェイの舞台で「ジジ」を演じ、成功を収めます。

その2年後、「ベン・ハー」などを手がけた、巨匠ウィリアム・ワイラー監督が、「ローマの休日」(1953年)のヒロインのオーディションを行いました。

そこに現れたのがオードリーであり、役どころ(王妃)の全てを兼ね備えているのに驚き、すぐに抜擢したそうです。
 



 

 
 
『ローマの休日』に主演した頃(1952年)




それまでにいなかったヒロインの登場により、世界中の人たちは魅了され、映画は大ヒットして、その年のアカデミー主演女優賞を受賞します。

バレリーナの夢が絶たれてから、わずか5年で映画女優として頂点に立ちます。

1年後に、「麗しのサブリナ」(1954年)に主演し、映画スターとしての地位を確立します。

その後も数々の映画に主演し、高い評価を受けます。



私が観た映画に「ティファニーで朝食を」(1961年)がありますが、その中で彼女が「ムーンリバー」という曲を唄っていたのが印象に残っています。

声量に恵まれているわけではありませんが、その切ない歌声が郷愁を誘います。

作曲者であるジョニー・マーサーは、今まで1000以上のバージョンでこの曲が歌われたが、彼女以上に曲を理解し、感情を込めて歌った人はおらず、文句なしに最高だと言っています。

ところが、パラマウント映画の社長が、試写をした時に、その歌の部分をカットしろと言い、そこにいたオードリーは席を立ち上がり、怒りの感情を露わにして、周りの人を驚かせたそうです。

周囲に怒りを見せたのはこの時くらいであり、普段はとても謙虚で、控えめな女性だったと言われています。



ある日、オードリーは「アンネの日記」の出演依頼を受けましたが、頑なに断ったそうです。

オードリーはアンネの日記を読んで、こう感じたそうです。

「同じ年に生まれ、同じ国に住み、同じ戦争を体験した。ただ、彼女は家のなかに閉じこもり、わたしは外にいた点だけが異なっていた。(彼女の日記を読むことは)わたし自身の体験を彼女の観点から読むことに似ている。わたしの胸はそれを読むことによって引き裂かれた。二つの部屋から一歩も外へでられず、日記を書くことしか自己を表現する手段を持たなかった思春期の少女。彼女が季節のうつろいを知る方法は、屋根裏の窓から一本の木をのぞき見ることだけだった。住んでいたところこそ同じオランダの違う町だったが、わたしが体験したすべての出来事が彼女の手で信じられないほど正確に描かれていた。(中略)外の世界で起きていたことだけでなく、大人になりかかった若い娘の心の動きまで。彼女は閉所恐怖症だったが、自然への愛、人間性の認識と、生命への愛、深い愛によってそれを乗り越えている。」

実際にユダヤ人がナチスに捕らえられたり、殺されたりする様子を見ていたオードリーは、自分と同じ国に住み、生まれた日もわずか1ヶ月ほどしか違わないアンネに、強い親近感と哀悼の意を持ち続けていたと思われます。

断った理由は、アンネの一生を演じて、自分が利益(報酬や賞賛)を得たりする気には、とてもなれなかったからです。

そして、「アンネ・フランクの思い出が現在も将来も永遠にわたしたちとともにあるのは、彼女が死んだからではなく、希望と、愛と、とりわけすべての許しの不滅のメッセージをわたしたちに残すのに充分な時間を生きたからなのです。」と言っています。



ショービジネス界では人も羨むような賞賛と栄誉を手に入れますが、彼女にとってそれほど魅力的なものではなかったようです。

華やかな世界にいましたが、実はきわめて家庭的な女性でした。

あたたかな家庭を持つことに憧れて、2度結婚をしましたが、残念ながらうまく行きませんでした。

しかし、夫との間にできた二人の子供にとっては、最高の母親であったようです。

女優業を潔く引退し、スイスにある自宅で家族とともに時を過ごします。

平凡な日々に十分満足し、仕事の情熱を注ぎ込む時期は終わったと周囲の人は思ったそうです。



家庭人として穏やかな日々を過ごしていた1987年のある日、ユニセフが主催する募金コンサートにゲスト出演の誘いが来ました。

彼女は、2つ返事で受けたそうです。

なぜなら、戦争が終わり、彼女が支援を受けた「アンラ」という組織は、ユニセフの前身であり、その時の恩返しができると思ったからです。

コンサートの中のスピーチで、「世界中の子供たちが飢えや病気、戦争の犠牲になることなく、幸せに暮せるように努力することが、私たち大人の役割である」とオードリーは訴えて、聴衆の心を動かし、それを聞いていたユニセフの理事から親善大使を依頼され、年棒1ドルで引き受けることになります。

彼女は、これこそ私が今やるべきことと思ったそうです。



翌年、大使としてエチオピアに向かいましたが、想像していた以上の惨状を目の当たりにします。

昨日、笑いかけていた子供が、次の日には目を閉じて冷たくなっているという経験をする度に、涙を流したそうです。

栄養失調で4人に1人の子供が亡くなるという現実を、世界の人に現状を伝えなければならないと、強く思ったそうです。

テレビや新聞のインタビューに積極的に応じ、講演活動を通して、現状を訴え続けました。



ユニセフでの演説(1992年)

この世の中で、飢えた子供、病んだ子供を救うためには、まず、食糧や薬を手に入れるためのお金が必要です。

彼女自身も、年100万ドルの寄付をしていたと言われていますが、女優としてのキャリアは強力な武器となり、抜群の知名度が活かされることになります。

アメリカの議会で1回スピーチをして、エチオピアへの支援の予算が6000万ドル増額されたそうです。

国家の要人や、経済界の大物も、私と同じ様にスクリーンに映るオードリーに魅了された人も、きっと多かったと思います。

もしそうであれば、彼女に寄付を頼まれたなら、無下には断れません。

日本でも、ほとんどの人は彼女のことを知っていたので、ユニセフのCMを見て関心を持ち、貧困国の現状を知り、寄付をした人も少なくないと思います。

一人の人間の無償ともいえる奉仕により、世界中の人々が子供たちの悲惨な現状を知り、それにより莫大な寄付が集まり、その寄付により数え切れないほど多くの子供たちの命が救われたと思われます。

映画で共演した男性俳優は、彼女をこう褒め称えています。

「オードリーの人生は2部構成であり、前半ですべてのものを手に入れ、後半は手に入れたものをすべて(社会に)還元した」



彼女のことを知るにつれ、ついこんなことを考えてしまいます。

一人の天上の魂が、地上でおなかを空かし、涙を流している子供たちを見て、何とかしてやりたいと強く願いました。

その願いは神により叶えられ、一人の女性として地上に生まれます。

与えられたのは、誰をも引き付ける美貌であり、好感を持たれる性格です。

彼女の輝くような笑顔は、女優としての名声や富を手に入れるためではなく、飢えや病気に苦しむ子供たちを救うためにありました。



戦争の恐怖と飢え、別離そして挫折・・・人生で起きたつらい出来事は、崇高な目的を果たすために、どれも必要なものでした。

1つ1つの出会いは偶然ではなく導きによるものであり、何一つ欠けても目的地にたどり着くことは出来ませんでした。

無事に目的地にたどり着けたのは、周りに流されることなく、自分(魂)に正直に生きて、導きに素直に従ったためです。



飢えや病気に苦しむ子供たちに、あれほどまでに寄り添うことができたのは、自らが戦争を経験して長い間、空腹を味わったからです。

夢や希望を喪った子供たちの悲しみを理解できたのは、有り余るほどの才能を持ちながら、時代に翻弄され、バレリーナの夢を断念せざるを得なかった経験があったからです。

子供たちの中に、食べ物では癒せない心の飢えがあるのに気付けたのは、父親に見捨てられ、抱きしめてもらうことが出来なかった、愛情の飢えが自分自身にあったからです。
 


ソマリアの難民キャンプでのオードリー(1992年)
 


子供たちの姿に、過去の自分を見出しました。

子供たちが流す涙は、過去の自分が流した涙です。

過去のつらい出来事は、子供たちの想いを、我が事のように感じ、共有するためにあったのです。

想いを共有できたからこそ、子供たちのために全身全霊で困難に立ち向かって行くことができました。



すべての出来事は一直線につながり、子供たちを救うという目的地に向かっていました。

もし、彼女が女優になるために生まれてきたのならば、頂点まで上り詰めた瞬間に目的の大半は達成されますが、人も羨むような名声を手にしても決して満足しなかったのは、さらに高いところに目的地があったからです。

飢えに苦しむ子供を抱きしめた瞬間、魂の奥に仕舞われていた約束を思い出します。

子供たちの笑顔を取り戻すという約束を。



オードリーはどんなことにもまして、ひとつのことを信じていたそうです。

それは愛です。

愛は人を癒し、救い、立ち直らせ、最終的にすべてを良い方向に変えてくれると信じていたそうです。



女優として世界中の人々に与えた喜びや愉しみは計り知れませんが、子供たちに与えた愛はそれをはるかに凌ぐ価値を持っていると思います。

集まった寄付以上に大切だったのは、恵まれている人が恵まれない人のために行動するという、チャリティーの精神であり、それは世界中に広がり、後世にしっかりと受け継がれました。

自分の生き方を見せることで、人にとって何が大切か、幸せかという問いを投げかけていました。

多くの人が追い求めている富や名声では幸せになれず、人を愛することで手に入れられることを、子供たちに向ける美しく、やさしい笑顔で示してくれました。

真の幸せを、子供たちの笑顔や喜びの中に見つけていました。

誰からも愛された人は、誰よりも人を愛していました。

人へ向けた想いは、神の摂理の働きにより、自分に戻って来ます。



エチオピアの子供と(1988年)





美しい花々に囲まれた自宅で家族に囲まれ、63歳で彼女はこの世の幕を閉じます。

少し短い一生のような気がしますが、生まれて来た目的は十分に果たしたと思います。

魂が肉体を旅立つ時、微笑んで、眼の縁に小さな涙の滴がたまって、ダイヤモンドのように光っていたそうです。

きっと、力及ばず助けられなかった大勢の子供たちが、オードリーがあの世に来るのを待っていて、子供たちの姿を見つけた時の、悦びの涙だと思います。



オードリーがこよなく愛した文章があります。

作者はサム・レヴェンソンという人で、孫娘が生まれた時に宛てた手紙に書かれていたものであり、彼女はこの世で最期のクリスマスイブに家族のために読んだそうです。

題名は「ときの試練によって磨かれる美」です。


『魅力的な唇になるために、やさしい言葉を話しなさい。
愛らしい目を持つために、人の良いところを探しなさい。
おなかをすかせた人に食べ物を分けてあげれば、身体はほっそりするよ。
1日1回子供が指で梳いてくれれば、髪はつややかになる。
決してひとりで歩いていないことを知っていれば、
弾んだ足取りで歩けるはず。
お前の未来のために伝統を残しておこう。
愛情をこめた人のやさしい慈しみは、けっして失われることがない。
物は壊れたらおしまいだけど、
人は転んでも立ち上がり、失敗してもやり直し、生まれ変わり、
前を向いて何回でも何回でも何回でもあらたに始めることができる。
どんな人も拒絶してはいけないよ。
助けがほしいとき、必ず誰かが手を差し伸べてくれることを覚えておきなさい。
大きくなればきっと自分にもふたつの手があることを発見するだろう。
一つ目の手は自分を支えるため、もう1つの手は誰かを助けるため。
おまえの「すばらしき日々」はこれから始まる。
どうかたくさんのすばらしき日々を味わえるように。』




自宅の庭にて(1969年)






引用した主な資料
 
『Audrey Hepburn   母、オードリーのこと』   ショーン・ヘップバーン・フェラー著(竹書房)

『オードリー・ヘップバーン』  バリー・パリス著 (集英社)

           
           























2015年12月20日日曜日

苦しみは自分を変えて行く



私が中学1年生、確かホームルームの時だったと記憶していますが、女性の担任が元同僚だった男性教師について話をしました。

その教師は、クラブ活動の指導中に首を骨折してしまい、首から下が完全に麻痺して動かなくなってしまったそうです。

担任は、「若いのに、本当に可哀想だった」と、しみじみと話をしていたのを覚えています。

そんな話を聞いても、全く知らない人だったので、別段、何も感じませんでした。



十数年の時を経た、90年代のある日、地元に新しい美術館が出来たと耳にしました。

その美術館に展示してあるのは、草花の水彩画とそれに添えた詩でした。

作者は口に絵筆を咥えて、絵や文字を書いていると聞きました。

そして、元教師で、学校での事故で、手足が麻痺して動かなくなってしまった人だと聞いて、もしかしたら、中学生の時に担任から聞いた、あの先生のことかもしれないと思いました。

予感は、当たっていました。

画家の名は、星野富弘さんと言います。



1946年生まれの星野さんは、子供の頃から、人一倍運動能力が優れていて、地元の大学を卒業した後、体育教師になりました。

赴任した中学校で、体操部の指導中、跳び箱を使った空中回転の着地に失敗をして、頚椎を折ってしまったそうです。

九死に一生を得ましたが、手や足は全く動かなくなってしまい、教師になって2年目の24歳で辞めざるを得なくなりました。



20代前半の若い男性が、いきなり首から下が動かなくなれば、どう思うのでしょうか?

想像するだけでも恐ろしいものがあり、同年代の私であれば、自分の人生は終わったと思うに違いありません。

悪い夢でも見てるような気分になり、現実に起きたことを認められないかもしれません。

星野さんは、学生時代に体操や登山で心身を鍛えていましたが、人に負けないと思っていた「根性」と「忍耐」は、過酷な現実を前にして、1週間で吹き飛んでしまったそうです。

そして、絶望の淵に沈んだまま、何回も死のうと思ったそうです。



星野さんに残されている死ぬ手段は、舌を噛み切ることと、何も食べないで餓死することでした。

舌を噛み切ろうと何回もしたそうですがだめで、食事を摂らずに餓死を試みましたが、やはりだめであり、後にこう語っています。

けがをして、もう一生首からしたを動かすことができないのだと分かった時に、「俺はもう生きている価値はない」と思いました。
夜は、「次の朝には死んでいたらいいのに」と思いながら寝るのですが、いつもどおりの朝が来て、看護婦さんが脈や血圧を測ると正常値なのです。食事を抜けば死ねるかと思って幾日か抜いてみたのですが、腹が減って減って・・・・・次の食事を腹いっぱい食べてしまいました。あの時のご飯、うまかったなあ。
その時、「いのちというものは、俺とは別にあるんだ、俺がいくら生きることをあきらめても、いのちは一生懸命生きようとしているのだ」と思いました。私の努力でいのちがあるのではなく、「いのちが一生懸命俺を生かしてくれている」と気づいたのです。
「自分は今、やさしくて大きなものに生かされているんだ、死にたいなんて、いのちに申し訳ない」、そう思いました。  『いのちより大切なもの』より



お父さんは既に他界していて、病室での介護は、お母さん一人に任されました。

自分の息子が、首から下が全く動かせない重度の障がい者となってしまった時の、母親の気持ちは、他の人にはとても理解できません。

しかし、星野さんは自分の現状に対する怒りの持って行き場がなく、「何で産んだんだ」と、お母さんを怒鳴ってしまったそうです。

それを聞いたお母さんの胸は、きっと張り裂けそうだったと思います。

入院当初の、介護するお母さんの様子を、こう語っています。

24歳でけがをして入院していた時、膀胱に留置カテーテル(管)を入れて尿を排泄していました。
最初の頃ですが、留置カテーテルに点滴と同じ細い管を接続していて、管が詰まってしまうことがよくありました。私は体が麻痺しているので、普段は尿意を感じません。
しかし、管が詰まり膀胱が大きく膨れてくると、体じゅうに汗が噴き出て、気づいた時には心臓の動悸が激しくなり、息が上がり、大変な状況になっています。そんな時は看護師さんを呼んで、管を洗浄してもらうのですが、とにかくよく詰まるので、そのたびに苦しい思いをしました。その時も看護師さんを呼んだのですが、忙しいのかなかなか来てくれません。
苦しがっている私をみかねて、母は、私の尿道につながっていたカテーテルを口にくわえ、息を吹き込んだり吸ったりして管の詰まりを取ってくれたのです。母は時々それをしてくれました。息子の苦しむ姿を見ていられず、思わず体が動いたのかもしれません。
母にしかできないことだと思います。  『いのちより大切なもの』 より

病室での星野さんとお母さん


つらい闘病生活を続けていましたが、星野さんにとって一番堪えたのは、治る見込みのない怪我であり、この状態が一生続くということだったと思います。

絶望的とも言える日々を過ごしていた星野さんは、受傷から2年経って、ある看護学生から口で文字が書けるかやってみましょうと言われました。

言われるままに、口にマジックペンを咥えて、「ア」という一文字を書いてみました。

手足の自由を奪われ無力だと感じていた星野にとって、たとえ汚い文字であっても書けたことは、予想外の大きな喜びであり、前に踏み出すきっかけとなりました。
初めて口で書いた文字
私たちは、当たり前のように手を使って字を書いていますが、星野さんは首から上に残された機能を使って書かなければいけません。

単純だけれども、難しい作業を、日々病室で繰り返していました。



そんなある日、見舞いの人にもらった花に目が留まりました。

改めて見ると、その色、その形の美しさに、驚かされ、すべてのものが神様が作ってくれたと思ったそうです。

花には一つとして余分なものも、足らないものもなく、色も形も調和を持っていて、そういうものを素直に写していれば、いい絵が描けるんじゃないかと考え、花を先生だと思って絵を描いてみようと思い立ち、花の絵を描き始めたそうです。

下の絵は初期の作品ですが、無我夢中で描いている様子が、伝わってくるようです。
百日草 (1975年)

入院は長期に及びました。

その間「あれがなかったら俺の人生は違っていた」と、何度も思ったそうです。

病室の天井を眺めながら、何のために生きているのだろう、何を喜びとしたらよいのだろう、これからどうなるのだろう、と思ったそうです。



ある日、大学時代の先輩が病室に見舞いに来て、三浦綾子さんの「塩狩峠」という本を貸してくれました。

内容は、北海道の鉄道員の話であり、連結器が外れて、暴走し始めようとする列車を、自分の身体を車輪の下に投げ入れて列車を止めて、乗客の命を救ったという実話です。

自分の身を犠牲にして、人を救うというところに、もの凄く惹かれたそうです。

主人公である鉄道員はクリスチャンであり、三浦綾子さんの小説を次から次へと借りて読んで、キリスト教に興味を持ち、それから2年後に、病室で洗礼を受けたそうです。



口で繊細な花を描くのは、並大抵の忍耐力と集中力はで務まらないと思いますが、マジックペンから絵筆に変えて、その後も、病室でたくさんの水彩画を描き続けて行きます。

そして、入院から9年目、描き溜めた絵が60枚になった頃、ある人から意外なことを言われます。

知り合いの身障者センターの所長さんから、展覧会をやってみないかと勧められたそうです。

星野さんは、とても人に見せられる絵ではないと、当初はしりごみます。

しかし、お母さんと二人三脚で描いた絵を通して、福祉で一番大切な心のつながりを紹介したいという所長さんの熱意に打たれ、承諾します。

1979年、初めての展覧会が開催されることになります。

どうせ見てもらうなら、ただ単に口で描いた絵を見てもらうという展覧会ではなく、ひとりの人間の「生きざま」の紹介をしてみてはどうかと言われ、初めて書いた文字、未完成の初期の絵も展示することに決めたそうです。

絵を描きながら思っていたことを二・三行の言葉にして絵に添えましたが、「書きはじめて私は、また自分の弱さやみにくさをさらに知らされるような気がした。本当の気持ちは書くことができず、自分を繕ってしまうのである。どんな冒険に立ち向かうよりも自分をさらけ出すことのほうが、ずっと勇気が必要なのではないかと思った」と、後述しています。

この展覧会は、多くの人々に感動を与え、反響を呼んで、作品は一人歩きをし始め、星野さんとお母さんの二人だけのものではなくなって行きました。



9年という長い入院生活を終えて、生まれ育った村に戻り、豊かな自然に囲まれた環境で、その後も絵を描き続けて行きました。

身の回りの世話や絵の製作の介助は、それまでお母さんがやっていましたが、大きな転機が訪れます。

1982年に、教会を通して知り合った昌子さんと結婚することになり、その役が引き継がれました。

重度の身障者との結婚は、介護の大変さや、経済的な面を含めて、苦労の絶えない人生になるかもしれません。

若い女性には、到底受け入れられないような気がしますが、昌子さんは星野さんからのプロポーズの言葉を聞き、こう思ったそうです。

愛する気持ちが大きくなってきたときに
逆の祈りをしている自分に気づいたんですね。
もうほんとにそれが大きくなって、
愛することをやめさせてくださいというような・・・・・・ 
         ~星野さんへ宛てた手紙より~

星野さんと昌子さんは、出会うべくして出会ったとしか思えません。

新たな気持ちで意欲的に絵を描いて行きますが、絵具の調合一つにしても、星野さんが納得できる色を作るまでに、昌子さんの苦労があったことを考えると、二人の共同作品と言ってもいいのかもしれません。



日々の生活で触れる自然の中に、驚きがあったり、発見があったりして、それを見つけた時の悦びを絵と詩で表現していったと思われます。

動くことの出来ない星野さんは、その場所から動くことのない花に対して、特別な感情を抱いていたのかもしれません。

動きはなくても、そのありさまは刻々と変化し、しっかりと生きている花の様子に、共感したのかもしれません。

花の想いの様なものを、五感を超えて感じ取っていたのかもしれません。

花を通して、自然の摂理を教えられ、魂が慰められていたのかもしれません。
                 


星野さんは、今でこそ穏やかそうな表情をされていますが、そこに辿り着くまでには、長い時が必要だったと思われます。

動こうとしても、動けないのは、想像をはるかに超えた苦難です。

自由に動ける人を見て、羨ましく思わないでいられるはずもなく、強い不満や劣等感は、根強く居座っていたと推察されます。

不満や劣等感が募っていくと、怒りや憎しみ、嫉妬の想いが生まれ易くなります。

そんな想いが内にあると、絵の中に正直に現れてしまい、人の心に触れる絵にはならないと思います。



醜い想いを抱いてしまうと、自然の摂理が働いて、苦しくなってしまいます。

自分の想いにより、自分が苦しんでしまう様子を、こう表しています。

「私は悲しい心をもって生まれてしまったものだと思った。
周囲の人が不幸になったとき自分が幸福だと思い、
他人が幸福になれば自分が不幸になってしまう。
自分は少しも変わらないのに、幸福になったり
不幸になったりしてしまう。
周囲に左右されない本当の幸福とはないのだろうか。
自分が正しくもないのに、人を許せない苦しみは、
手足を動かせない苦しみをはるかに上回っていた。」
  『星野富弘 ことばの雫』 より



苦しまずに済むためには、自然の摂理に適った物事の捉え方をしなければいけません。

星野さんの心が変化していく様子です。

「長い間、私は道のでこぼこや小石を、なるべく避けて通ってきた。
そしていつの間にか、道にそういったものがあると思っただけで、暗い気持ちを持つようになっていた。
しかし、(車椅子に付けた)小さな鈴が「チリーン」と鳴る、たったそれだけのことが、私の気持ちを、とても和やかにしてくれるようになったのである。
こんな小さなことにも喜べるんだったら、私は、体は動かないけれども何か自分で楽しく生活できることも出てくるんじゃないかと、そんなふうに思いました。
人も皆、この鈴のようなものを、心の中に授かっているのではないだろうか。
その鈴は、整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることはなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時、揺れて鳴る鈴である。
いやだと思っていたものが、美しく見えるようになった。
・・・・・それは、心の中に、宝物をもったようなよろこびでもありました。

苦しい時に踏み出す1歩は心細いものだけれど、
その1歩の所に、くよくよしていた時には想像もつかなかった世界が広がっていることがある。」
『星野富弘 ことばの雫』 より

苦しい思いをしたくないので、そんな想いが湧かない様な物事の捉え方をするようになり、自然に苦しさから解放されていったのかもしれません。

最初の一歩を踏み出すのは、口で言うほど簡単なものではなかったと思います。

でも、踏み出さない限り、同じ場所に留まったままです。

勇気を出して、踏み出した先にあったのは、気付きそうで気付かない大切なことであり、そんな宝物を、いくつも手にして行きます。

そして、それまで気にも留めなかったありふれた日常の中に、ささやかな悦びを見つけていくことで、心が次第に穏やかになっていったのかもしれません。



 
人は、ただ生きているのではなく、目的があってこの世を生きています。

さまざまな人生経験を通して、自分を成長させるためです。

楽しい経験では、成長にはつながらず、出来れば避けて通りたいような困難や障害を、もがきながらも乗り越えていく過程で、強く成長していきます。

苦しみや悲しみの経験は、決して無駄なものではなく、大切な宝物を手に入れ、自分を成長させるためにあります。

そんなものを手に入れるより、楽しい人生の方が良いと思うかもしれません。

もし、この世だけで終わってしまうのであれば、そう考えても仕方ありません。

しかし、死んで消えてなくなってしまう訳ではなく、次の世界で新しい生活が待っています。

新しい生活をするのに、知っていなければならない、守らなければならない、きまりのようなものがあり、それをこの世で学んでいます。

楽しいだけの人生は、学校を遊んで過ごしたことになり、卒業してから苦労することになります。

苦しみの多い人生は、苦労して多くのことを学んだことになり、成長した大きな喜びに包まれ、活かす機会が与えられます。



この世では、肉体しか見えないために、それぞれが独立した存在のように見えますが、次の世界に行くと肉体はなくなり、真の自分(魂)だけになり、途方もなく大きな存在とつながり、共に生きていることに気付きます。

途方もなく大きな存在から、生命力をもらって生きていることを実感します。


ところで、人は植物に親しむ気持ちがありますが、どうしてでしょう?

人も植物も共に自然の一部であり、「生命」と言うつながりを感じているからだと思います。

野に咲く花と、似せて造られた花を観て、どちらが綺麗でしょうか?

野に咲く花は、生命の輝きがあり、調和という美がありますが、人が造ったものに輝きはなく、美しさは足元にも及びません。

植物も動物も、途方もなく大きな存在から、生命力を受け取って生きています。



受け取っている生命力は、愛を帯びています。

花を美しく感じるのは、生命力が愛を帯びているからです。

同じ力が人間にも流れて、愛を表現しようとしますが、肉体があり、この世を生きるもう一人の自分がいて、思うようにできません。

途方もなく大きな存在は、この世でさまざまな出来事を経験させて、障壁となるものを取り除き、愛を表現させようとしています。

 
 
生きることは、愛することに限りなく近いと思います。




私の住んでいるところは、利根川という大きな河が流れています。

上流の方なので、河原には大きな石がごろごろしています。

穏やかな流れの時は、その場所に留まっていられますが、大雨が降り濁流になると、押し流されて、川底をゴロゴロと転がっていきます。

流れが緩やかになると石は留まり、再び流れが急になると、川底をまた転がっていきます。

転がりながら、少しずつ角が取れて、小さくなりながら流されていきます。

下流に行くほど川幅が広くなり、流れは緩やかになりますが、角が取れて丸くなった石は、逆らうことなく流れていくようになります。

すっかり角が取れて、小さくなった石は、やがて海に流れ込んで行きます。

人もさまざまな出来事を経験して、余分なところやひずんだところは削られていき、自然の流れに逆らわないように、丸く、小さくなって行くのかもしれません。

途方もなく大きな存在の力の前では、どんなに抵抗しても無駄であり、素直に流れに従うしかないと思います。

その力は、愛の力だと信じて。


ふと、そんなことを思いました。



利根川と合流する渡良瀬川を見ながら、星野さんはこんなことを感じたそうです。

怪我をして全く動けないままに、将来のこと、過ぎた日のことを思い、悩んでいた時、ふと激流に流されながら、元いた岸に泳ぎつこうともがいている自分の姿を見たような気がした。そして思った。「何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか・・・・流されている私に、今できるいちばんよいことをすればいいんだ」   『星野富弘 ことばの雫』 より



身近な草花や、自然の営みの中に、やさしさや、きまりのようなものに気付いていったのだと思います。

気付いたことを、他の人たちに伝えて、励ましたり、癒したりするのが、今できるいちばんよいことだと、星野さんは思ったのに違いありません。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

























2015年12月6日日曜日

人生のシナリオは自分を成長させるためにある



人生には、予め決まっているシナリオ(青写真)があると言われています。

そんなのあるわけがないだろうと言われたとしても、私はあると思います。



もし私が「あなたの人生で、大きな出来事は何ですか?」と、問われたならば、次の3つを答えるでしょう。

病気を癒す力の出現。

人生に革命をもたらした、シルバーバーチの霊訓と出会い。

人生で最も屈辱的で、つらい思いをした、仕事上の不祥事。



その3つが、わずか1ヶ月の間に、立て続けに起こりました。

偶然重なったとは、とても考えられません。

いくら鈍感な私でも、計画的に起きているとしか、思わざるを得ませんでした。



仕事上の不祥事により、追い詰められて行く中で、シルバーバーチの霊訓と出会い、貪るように読み進んで、慰められ、この世には見えない法則が働いていることを知りました。

そして、突然、出現した治癒力により、病が癒されるのを目の当たりにし、そこに秘められた意味について知りました。

3つのことは、密接に関連していて、どれ1つが欠けたとしても、今の私はないと思うと、シナリオがあるとしか思えないのです。



生まれて来た目的を果たすために、自分だけのシナリオが全ての人にあります。

今、書いているような、霊的な事実を広めるのが、私の主要なシナリオのようです。



若い頃、何のために生きているのか思い悩む時がありました。

死んで無になる存在であれば、虚無感に襲われます。

無にならないのであれば安堵しますが、肉体を超えた何かが存在していなければいけません。

もし、無になるのであれば、人生に永続的な目的などありませんが、生まれる前も、そして肉体が無くなった後も、何かが存在し活動しているのならば、生きている目的について、答えが見つけられそうです。



肉体を超えた何かが、真の自分であり、生命の本質です。

多くの人は、それを魂と呼んでいます。

目に見える肉体は、自分(魂)を表現する媒体に過ぎません。

肉体は年とともに老いて、やがて朽ちますが、魂は老いることも、朽ちることもなく、成長し続けます。


私たちは、成長するために生きています。

魂が成長するためには、何らかの体験が必要になります。

人生には、楽しいこと、うれしいこともありますが、つらいこと、悲しいこともあります。

誰もが、人生は楽しく生きたいと思っています。

どちらかを選べるのならば、ほとんどの人は楽しいことを選ぶでしょう。

つらいことはなるべく避けて、楽しい人生にして行くでしょう。

楽しいことは、良い思い出になります。

しかし、そこから学ぶものは、あまりないのかもしれません。



子供の頃ですが、自転車に乗って、友達と良く遊びに行きました。

自転車には、初めから乗れるはずもなく、何回も転んでひざをすりむきながら、乗れるようになりました。

何かを身に付けるのには、多少のつらさを伴うものですが、将来、活かせると思うので、人は苦しい思いや痛い思いをしながらも、身に付けようとします。

時に、絶対に起きて欲しくない、不幸や不運と言われるような出来事が起きます。

その苦しみや痛みが大きいのであれば、それだけ価値のあるものを身に付けようとしているのであり、今はとてもつらくても、大いに活かせる機会が待っていると思われます。

そして、何かを身に付けたり、学んだりするのが、魂が成長することであり、生きている目的だと思います。



もし、人生が何も決まっていなければ、ほとんどの人はつらい方ではなく、楽しい方を選んで進んで行ってしまうでしょう。

けれども、心の奥では、楽しいだけの人生では、自分が成長しないことも判っています。

魂は、自分の足りないところ、弱いところを自覚していて、克服し、成長することを希求していますが、この世では肉体があり、誘惑もあるため、そちらの欲求が勝ってしまうと、かき消されてしまいます。

人間は弱い存在であるがために、この世で確実に成長するため、弱点を克服して行くためには、ある程度、人生が決められている必要があり、そのために、最善のシナリオが自然の摂理の働きにより用意されることになります。

生まれる前に、全てを承知した上で、魂は母体に宿ります。

この世に誕生し、シナリオに沿って人生が展開されて行きます。



シナリオに沿った出来事が、人生のどこで、どのような形で生じるのか判りません。

事前に判っていれば、心の準備が出来て良かったと思うかもしれません。

しかし、判っていて平静に迎えられる人が、果たしてどれ位いるでしょうか?

大きな病気になると判っていたら、それを回避しようと必死になるような気がします。

もし、早く死ぬことが判っていたなら、勉強や仕事や結婚もしないかもしれませんし、あの人は長生きできるのに、どうして私は早く死んでしまうのと、強い不満を抱いたまま生きてしまうかもしれません。

人生を真剣に生きるために、シナリオは記憶から消去されていると考えられます。



そのような理由から、シナリオで決められていた出来事は、何の前触れもなく起きると考えられます。

人生を変えてしまうような出来事が、突然、身に降りかかってくれば、何が悪かったのだろうと、過去を振り返ったり、周囲を見回して原因を探します。

もし、原因が見つけられなければ、何も悪いことをしていないのに、何故、自分だけがこんな目に遭わなければいけないのかと嘆いたり、運命を恨んでしまうかもしれません。

理不尽さをぶつけるところはなく、神を呪ってしまう人もいます。

しかし、人を不幸にさせるためではなく、何かを学び、自分を成長させるために起きているのであり、自分自身で決めていたことを自覚しなければいけません。



この世の出来事には、シナリオではなく、今生での自分の想いや行いが原因となり、その結果として生じたものも多くあります。

また、他者の自由意志により引き起こされたものや、周囲に因果律が働いて生じたものもあると思います。

もし、はっきりとした原因が見つけられなかったら、シナリオに従って起きた可能性があると思われます。

子供の重い病気や、身近な人の不意の死は、本人のシナリオであると同時に、周りにいる人にとっても、予定されていたシナリオであるかもしれません。

シナリオは過去世に基づいて、魂を成長させるのに最も有効な手段が選ばれ、それが生じる環境が用意されると思われます。

シナリオにある出来事は、その人の魂を成長させる最適のタイミングで起こると考えられます。



過去の過ちを清算する償いとしてのシナリオもあります。

そして、周囲の人を啓発する使命を帯びたシナリオもあります。

偉人として有名なヘレン・ケラーがいます。

彼女は、3重苦という重い障害を乗り越えて行きました。

そして、弱者の視点に立って、社会福祉の推進と啓蒙に生涯を捧げました。

きわめて成長した魂が、さらなる成長を求めるのならば、彼女のような過酷で壮大なシナリオが用意されると思います。



乙武洋匡さんは「五体不満足」という本を書いて、それがベストセラーになりました。

身体障害を1つの特徴と捉えて、普通の人よりも明るく生きているように見えます。

社会的弱者ばかりでなく、生き方に悩む人が、彼の生き様や考え方を見聞きして、励まされていると思います。

自らが重い障害にも負けない強さや明るさを見せて、出会う人たちに困難に立ち向かって行く力を与えているように思えてなりません。

人一倍、力強く、明るく生きて行けるのは、周囲の人の魂を鼓舞させるというシナリオがあり、心の奥底で自覚しているからだと思います。



外面の内側に本当の意味が隠されています。

しかし、多くの人は外面だけを見て判断していると思われます。

身体的特徴や障害、地位や肩書きなどは、その人の外面を表しているだけであり、その人の本質ではありません。

不幸にしか見えない出来事の内側に意味があり、そこに学ぶべき大切なことが隠されています。

もし、学ぶものが何もなければ、病気はいたずらに人に苦痛を与えたり、死に追いやるだけのものになります。

別れの悲しみには、何の意味もありません。

そもそも、悲しみなどなくて良いはずです。

学ぶものがなければ、戦争は果てしなく続くことになるでしょう。

怒りや憎しみが世界を支配して、憎しみ合うために生まれて来たことになってしまうかもしれません。

不可解極まりない、矛盾に満ちた世界となり、人が生きていく価値など、どこにも見出せないでしょう。

しかし、現実は違います。

(肉体的な)命にかかわる病を患ったのであれば、生きていることに感謝して、以前より人生を大切にしている人が多いようです。

愛する人を喪い、深い悲しみに中で、大切なものは見えるものの中にないことに、気付く人もいます。

戦争で街が破壊され、人が死に傷ついていくのを経験したならば、怒りや憎しみの表現がいかに愚かな行為であり、悲しみや憎しみしか生み出さないことに気付く人がいます。



いくら考えてみても、解決方法が見つからない出来事であれば、今まで働いていた頭(脳)は鳴りを潜め、それまで眠っていた魂が目を覚まします。

本当の自分が目覚め、進むべき方向を指し示します。

その方向がシナリオに沿ったものであり、魂の成長を促すことになります。

迷うことなく、そちらに進むべきです。

無我夢中で、その方向に進んで行くと、やがて道が開け、その先に学ぶべき真実を見つけた瞬間、明るい光が差し込んできます。

起きて欲しくはなかったと思うような出来事は、奥底にある魂にまで響いて、目覚めさせ、大切なものに気付かさせますが、真相は、この世で大切なものに気付くために、魂に響くようなが出来事が、シナリオに沿って生じていると思われます。



世の中には、不幸(と言われるよう)な出来事の只中にいる人もいれば、幸せを感じながら生きている人もいます。

この世だけの人生であれば、それでは不公平であり、不平等です。

しかし、人生はこの世だけでなく、過去もあり、未来もあります。

幸せを感じながら生きている人の中には、過去(世)に同じ様な出来事を経験し、すでに学んでいて、今があるのかもしれません。

そして、これからも別の経験して、学び、成長していくことになると思います。

まだ、学んでいない人には、この先、いくつもの出来事が待っているでしょう。

この世は、さまざまな過程の人が混在し、人生の一断面を見ているに過ぎません。

他の人の姿は、過去の自分の姿であり、未来の自分の姿なのかもしれません。

足りないものを学び取り、自分(魂)を強くするために、その人にとって必要な人生を、今、生きています。

学び取ることが違えば、それぞれ人生は違っていて当然であり、自分と他人を比較すること自体が誤りです。



病気、不意の別れ、争いなど、決して経験したくありませんが、シナリオには、そんな出来事が多く含まれています。

それは、この世にしか病気、不意の別れ、戦争は存在せず、あの世では学べないからです。

あの世にないものが、この世に存在しています。

暗闇の中で、光が輝くように、この世は比較対照となるものが存在することにより、大切なことが際立ちます。

比較対照となるものがない、あの世では学びにくいのです。

喪うものがないから、学びにくいのです。

この世にしかない苦痛を通して、学んでいるのです。



本当に大切なものは、見えません。

人に教えてもらうものではなく、魂が目覚め、内から得心するものです。

何もないような人生では、魂は目覚めず、この世で大切なものが何も学べないことになります。



ブログを書いていて、私はいつも驚いていることがあります。

苦痛を与える病気も、悲しい別れも、悲惨な戦争も、そこから学ぶものは、いつも1点に集約されてしまうのです。

それは「愛」です。

目に見えない「愛」の大切さを、この世でしか出来ない体験を通して学び取っているとしか思えません。

一見すると、愛とは関係ないように見える出来事もありますが、愛を表現するためには、より強くならなければならず、勇気と、強い意志が試される時もあると考えられます。



どのような出来事も、愛により、乗り越えていくことができるはずです。

全ての苦しみは、愛により終わりにすることができるはずです。

なぜなら、愛を学ぶために、出来事が生じていると考えられるからです。



人は、いつの日か死にますが、この世でつらい思いをして学んだ人は、その時にきっと胸をなでおろすと思います。

あの世は、魂の世界です。

肉体がないために、隠し立てができません。

目に見えていた肉体(物質)が見えなくなり、目に見えなかった魂と、そこから生まれる想いが露わになります。

美しいものは美しく、醜いものは醜い、ありのままの世界であり、それは自分(魂)から生まれる想いにより決まります。

さまざま想いが光となり、魂から放たれていますが、最も美しい輝きを放っているのは愛の想いであり、醜い想いに光輝はありません。

魂は成長して行くと、高い愛を表現できるようになって行きます。

この世の出来事がシナリオに従って生じるのは、有為転変を経験して、魂が浄化され、濁りのない美しく強い光輝を放ちながら、愛を表現するためです。



愛とは1つになろうとする力であり、調和を生み出す力です。

この世では、想いが全く見えません。

苦しみ、悲しんでいる人の見えない想いを、自分のことにように感じて、共有することにより、世の中が1つになっていくと信じています。

人の想いを、自分のことのように感じるようになるには、それぞれの人が苦しみや悲しみの経験をしなければいけないのかもしれません。

楽しいことだけでなく、苦しみや悲しみを、お互いが共有する中で、強く1つにまとまって行くと思います。

この世の中で起こる出来事は、それぞれの魂を成長させ、魂と魂を愛という力で強く結び付かせ、1つになるためにあると言えます。

個だけでは調和は生まれず、全体の中で調和が生まれます。

個々の魂が、この世の出来事により磨かれて、全体に調和が生まれて行きます。

調和が生まれ、全体の美しさを増していくためには、より高い愛が求められ、そのためにシナリオが用意され、個々の魂は出来事を経験しなければいけません。



多くのことを学びながら、魂を完成させていきます。

この世は、自分に足りない魂のパーツを見つけに来ているようなものかもしれません。

少しずつ見つけながら、完成させて行きます。

誰かにありかを教えてもらうのではなく、経験をしながら見つけ出します。

何のパーツを見つけるのかは、自分でも判りません。

けれども、生まれる前の自分は、はっきりと判っています。

当てもなく探しても見つけられないため、人生の大まかなシナリオが用意されます。

シナリオには、パーツを見つけるための出会いや出来事が、散りばめられています。

不慣れな場所で、見当はずれの方向に行かないために、あの世からの導きも受けます。

出来事には、楽しいこと、うれしいこと、つらいこと、悲しいことなど、さまざまです。

楽しい出来事の時は、周囲は明るくなり、この世のものがはっきりと見えます。

つらく、悲しい出来事の時は、周囲は暗くなり、この世のものは何も見えなくなります。

暗闇に包まれ、立ち止まってしまった時に、ふと上を見上げると、美しい星空が目に留まります。

夜空にひと際輝いている星が、探していたパーツであり、宇宙の真理です。

宇宙の真理は、明るい時には見えず、真っ暗闇の時に光り輝いています。



起きた出来事により、どちらに向かうのかは、本人に任されています。

向かう方向によって、出来事の意味は、大きく変わってきます。

迷わず、自分を成長させる方向に、向かって行きましょう。

なぜなら、自分が承知していた出来事であり、覚悟を決めて、乗り越えて行く約束をしているからです。





参考ページ: 「この世の出来事の意味を知る時」





2015年11月21日土曜日

この世は想いが肉体で表現される世界



1960年代の日本では、子供にピアノを弾かせるのが流行っていたようです。

私も、5,6歳の頃、習わされていました。

椅子に座って、じっと練習するのがいやでいやで仕方がありませんでしたが、世の中にはそれが全く苦にならなかった人もいるようです。



ピアニストの辻井伸行さんも、その一人です。

ご存知の方も多いかもしれませんが、彼は生まれながらにして全盲であり、2歳の時におもちゃのピアノを買ってもらったのがきっかけで、演奏に目覚めました。

その後、卓越した音楽的才能を開花させて、20歳の若さでヴァン・クライバーン・コンクール(米国)で、日本人として初めて優勝しました。

全盲の人が、ミスタッチもなしに最高難度の曲を弾いてること自体が驚異ですが、その音色が純粋かつ透明で、心に響きます。



目が見えれば、人の動作や表情から、何を考えているのか読み取ろうとします。

しかし、一旦、目を閉じてしまうと、顔や姿は見えなくなり、声だけしか聞こえません。

発せられる声から、込められた想いを察するしかなく、否が応でも感性は研ぎ澄まされて行くような気がします。

音楽は音の世界です。

目が見えなければ、日常生活に大きな支障をきたしますが、視覚的な情報に振り回されずに、音だけに集中できるので、音楽家にとって不利にはならないのかもしれません。

音符や鍵盤は見えませんが、心の眼は開かれていて、音から作曲家の想いを、深く読み取っていているのかもしれません。



後世にまで残る名曲は、作曲家の創作力により生み出されていると思っていました。

しかし、シルバーバーチが芸術家は一種の霊媒と言っているように、名曲の源泉は霊界にあり、そこから投げかけられるインスピレーションを作曲家がメロディーとして受け取り、それを音符に変換していると、今は思っています。

送り手である霊界の人と、この世の人の魂が同調すれば、ラジオを受信するように、降ってきたメロディーを受け取ることができると思われます。



音に込められた想いを、正確に読み取って演奏すれば、それは霊界の想いが地上に表現されたことになり、この世のものとは思えない、すばらしい演奏になると思います。

 すばらしい演奏を聴くと、一時的であっても、喧騒から逃れられ、安らかで、穏やかな気持ちになれるのは、霊界の愛と平和に満ちたありさまが、音楽によって表現されているからだと思います。

最も大切な「愛」や「生命」、そして「神」の存在が、この世では物質に遮られて見えなくなってしまっているので、音楽を通して魂に伝えようとしていると思います。



音楽を通して伝えたいのは想いであり、音は媒体です。

会話も同じであり、相手に想いを伝えたいのであり、言葉は媒体です。

人間は行動する生き物ですが、想いを表現するために行動していると言えます。

肉体は、想いを表現している媒体に過ぎず、道具でしかありません。



しかし、肉体が自分だと思い、魂の存在に全く気付いていない人が、たくさんいます。

本当の自分を見失ってしまい、魂から生まれている想いに気付かずに生きている人は、とても多いと思われます。

そんな人が死ぬと、困った問題が起こります。

死んだ後も意識があるので、この世でまだ生きていると錯覚してしまいます。

表現媒体である肉体を失っているにもかかわらず、そのことが全く分っていませんので、相変わらず、この世の人に接触して来ます。

しかし、この世の人の目には全く映らず、触られている感覚もないため、無視され続けます。

自分の置かれている状況が、理解できずに、途方にくれます。

そんな人でも、生前、亡くなった親しい人が目の前に現れたり、葬式が執り行われ、棺の中で横たわっているのが自分だと判ると、ようやく死んだことに気付くようです。

それでも、どうしても死んだことが認められない人は、周囲との関係が断絶されて、孤立するようです。

周囲の人も、なす術がないために、気付くまで放って置かれるようです。

偏見に満ちた人や、物理的証拠を示せないことを理由に、魂の存在を頑なに否定する人たちが多くいますが、そんな人たちを信じてしまうと、真実が見えなくなってしまい、遠回りしてしまうことになります。

正しい知識を、できるだけ早く身に付けておくのに、越したことはありません。



人間は肉体だけの単純な存在ではなく、目に見えない精神と、その上位にある魂から成り立っています。

肉体を動かしているのが精神であり、精神に働きかけているのが魂であり、その3つが緊密に連携し合った三位一体の存在です。

魂が、本当の自分であり、生命そのものです。



魂の存在を認めてもらえれば、生きる目的が明確になります。

生きる目的は、魂を成長させるためです。

魂を成長させるために、この世では、さまざまな出来事を経験するようになっています。

苦しい経験ほど、悲しい経験ほど、魂は成長すると言われています。

つらい出来事を経験した後に、人の痛みが判るようになるのは、魂が成長した証だと思われます。

苦難に出会っても、前に進んで行かなければならないと思うのは、立ち止まっていると、自分は成長しないままで、生まれてきた目的を失ってしまうことを、魂は知っているからだと思われます。



そうは言っても、魂は目に見えるものではありません。

実感があるのもでもありません。

説明できる言葉は見つかりませんが、五感から受け取ったものに対して、主観的な回答を出しているのが魂だと思います。

茜色に染まる空を見て、綺麗だと感じているのは魂です。

にっこりと微笑む赤ちゃんを見て、かわいいと思うのも魂です。

溺れている人を見て、命がけで助けようとするのも、魂の発露です。

科学では、何故、感情や意志が生まれるのか、説明できません。

大脳を超えた魂から想いが生まれ、精神に投影されて感情や意志となり認識されていると考えられます。



現代医学も、科学に依存しているため、魂の存在を認めていません。

きわめて重大な事実を認めないために、袋小路に入ってしまっているように見えます。

人は肉体、精神、魂(霊)から構成されていて、それぞれの次元に病気の原因があるのですが、現代医学で解明が可能なのは、肉体次元に原因がある病気だけです。

従って、医学により治癒が期待できるのは、肉体次元に原因がある病気だけと言うことになります。

原因不明とされてしまう病気の多くは、霊的次元に原因がある病気であり、肉体次元で治そうとする手術や投薬等の治療は、すべて対症療法となります。

手術や薬で病気が治るのではなく、霊的次元の原因が取り除かれて、生命力が流れ込むことによって治癒が起こると考えられます。



魂の存在を認めなければ、そこから想い(思念)が生まれているのも認めないことになります。

人間は、想いを肉体で表現しながら生きています。

想いとは、肉体を突き動かす素であり、具現化させる力と言えます。

想いが心身に多大な影響を与えているのは、間違いありません。

怒りが生じれば、顔は紅潮し、脈拍は上がり、血圧も高くなります。

怒りを通り越して憎しみになれば、それ以上の影響を心身に与えていても、不思議ではありません。



宇宙の秩序が保たれているのは、自然法則が働いているためです。

石を空に向かって投げると、必ず地面に落ちてくるのは、万有引力という自然法則の働きであることを、多くの人は知っています。

けれども、人の言葉や行いの1つ1つにも、自然法則が働いてることは、あまり知られていません。

暴力を振るうと法律により罰せられるように、自然法則に反した行いには、機械的に償いが生じます。



言葉や行いには、必ず素となる想いがあります。

たとえ行動に移さなかったとしても、想いは霊的次元において実在であり、自然法則が厳格に働いています。



想いには、自然法則に適ったものと、反したものがあります。

自然法則に適った想いとは、やさしさや、思いやりや、労りといった他者が悦ぶ想いであり、また認め合い、許し合って、1つになろうとする想いです。

自然法則に反した想いとは、怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、貪欲といった、他者に苦しみや悲しみを与える想いであり、また相手を認めず、許さず、調和を妨げる想いです。



自然法則に反した想いを外に表現すれば、周囲との間に不調和が生まれ、因果律の働きにより、苦痛を伴う結果が生じます。

例えば、相手の意見を聞かずに、自分の意見ばかりを言っている人を見かけますが、その行為は協調性に欠け、利己的であり、自然法則に反しているため、因果律の働きにより、疎外され、孤独と言う苦痛を味わうことになります。

また、今、世界中で起きている争いは、自然法則に反した怒りや憎しみや恨みの想いを表現しているので、因果律の働きにより、双方に大きな苦痛をもたらす結果が生じています。



しかし、想いを外に出さなければ良いという訳ではありません。

想いを外に表現しなければ、内に溜まって行きます。

イライラや、少し位の怒りが生まれても、おしゃべりをしたり、運動したり、趣味に興じている内に、発散(解放)されます。

しかし、深刻な出来事によって生じた想いは解放され難く、滞ることになります。

滞った想いは、魂の様相を変えて、同様の想いを生じ易くさせています。

強い憎しみの想いが内に滞っていれば、ささいな出来事でも怒り易くなります。

徐々に、そんな想いが溜まっていけば、内部に不調和が生まれてしまい、肉体に変化が生じてきます。

病気となり、結局は苦痛を味わうことになります。



世の中には、言いたいことを言って、やりたいようにやって、生きている人がいます。

そんな人は内に想いを溜めることが少ないので、大きな病気にならないかもしれません。

しかし、そのことで周りの人を苦しませたり、悲しませたりしているのであれば、病気よりも大きな償いが、後に生じてしまうのは明らかです。



想いにはさまざまあり、内に溜まると、相応の変化を心身にもたらすと考えています。

怖れや不安の想いは、心身を萎縮させるとともに、生命力の補給が円滑に行われなくなり、それに伴い精神(心)を活動させている力が不足し、精神により隠されていた、過去の怖れや不安や怒りなどの想いが表在化されます。

内に溜まった怒りや憎しみの想いは、肉体上に暴力的かつ攻撃的な細胞に、変異させる力となります。

自分を責める想いは、外敵から守っている防御機能に変化を生じさせ、自らを攻める病態となって肉体上に表現されます。

肉体は想いを表現する媒体であるため、想いの様相は肉体上に病態として表現されます。

内にある想いが、肉体上で具現化されたものが(霊的な)病気であり、すべては自然法則(因果律)が働いた結果であり、偶発的な病気は何1つとしてありません。

想いという、原因が必ず存在しています。



よって、現代医学で原因不明とされてしまう霊的な病気は、内に溜まった想いに気付くことが、根本的に治すための第一歩となります。

今までの人生の中で、最も衝撃的と思われる出来事を、いくつか思い出して下さい。

未だに信じられず、納得も出来ず、自分の中で消化されていない出来事はなかったでしょうか?

その時に感じたことを、言葉で表現して下さい。

もし言葉に表せないほどのものであれば、その出来事から強い想いが生じていて、内に滞っている可能性があります。



そんな表現できなかった想いが、心の奥にあることを、気にも留めずに生きてきましたが、今になり因果律の働きにより、肉体上に病気として表現されました。

その想いがあるために、人生に大きな影響を与えているからです。

生まれる前に決めていた、シナリオに沿った人生を、歩めなくなってしまうからです。

社会に奉仕したり、人にやさしくするどころか、むやみに怒ったり、憎んだり、妬んだりして、成長ののない人生を送ることに、つながってしまうからです。



人は、いつかは死にます。

死とともに、肉体は消滅し、自分の内にあった想いが露わになります。

そして、この世の人生を振り返る時が訪れます。

想いに引きずられ生きてしまい、予期したほどの魂の成長が得られず、生まれてきた意味を十分に果たせなかったことに気付き、後悔することになります。



(霊的な)病気は、この世に生きている内に、内にある想いに気付かせ、人生を軌道修正させるためにあります。

生まれ変わって、もう1度やり直すのではなく、この世に生きている内に、生まれ変わるためにあります。

それが許された人が病気になるのであり、新しい人生の始まりが、その先に待っているはずです。



肉体はつかの間の存在であり、魂は永続的な存在です。

なのに、この世に生きていると、魂を忘れてしまい、目に見える肉体に執着してしまいます。

肉体は、魂に従います。

魂が先で、肉体が後です。

想いが解放され、魂が癒されて、はじめて肉体上の病気が癒されます。

自分の本質は魂であり、肉体は魂を反映しているだけです。

肉体上の病気が消失するよりも、魂から想いが解放され、本来の自分を取り戻す方が、はるかに大切です。



気付かない内に、想いが膨らんでしまって、自分ではどうすることもできないほどになっていたのです。

病気という、神の摂理の働きが必要だったのです。

内にある想いに気付くためには、眠っている魂が目を覚まさなければいけません。

苦痛は、魂にまで響き、目を覚ますための準備を整えていきます。

そして、魂が目覚めれば、想いにも目覚めます。

魂から生まれている想いと、内にある想いに気付いた時、病気の目的は果たされたと言えます。

本来の自分を取り戻し、予定されていたシナリオの通りに生きて行けるようになるからです。



病気を治そうとするのでなく、内にある想いを解放して、本来の自分を取り戻して行けば良いはずです。

想いを解放させる力は、愛という生命力です。

愛でしか、解決は出来ません。

言葉にならない想いが生まれた出来事を、心から許すことにより解放されます。


許すことは、自分に愛がなければ出来ません。

病気のつらい経験は、魂は成長させるという大きな意味があります。

魂が成長した分だけ、高い愛が表現できるようになり、許せなかった出来事を、許せるようになります。

出来事を許し、前に進んで行くことが許されます。


どんなに強い怒りや憎しみの想いであっても、未熟な人間から生まれたものであり、愛という神の力には敵いません。

愛の力の前では、病気を生じさせた想いの力など、無に等しいものです。

無限に広がる宇宙の中で、限りなく小さい存在であっても、魂は神の一部としてつながっていて、愛の力を存分に受け取れます。



神に祈れば、愛という生命力が流れ込んでくる訳ではありません。

神と同調することにより、魂に流れ込みます。

神の心に、自分の心を合わせれば、同調します。


私たちはこの世のさまざまな経験を通して、大切なものに気付きます。

つらく、苦しい病気の経験を通して、愛より大切なものはないことに気付きます。

そのことに気付いた瞬間、神との同調が成立し、愛という生命力が魂に流れ込みます。



周りのものに、感謝しましょう。

そして、慈しみましょう。

とても難しいのですが、全てを許しましょう。



たとえ小さくても、少しずつであっても、愛を表現し続けていれば、内にある想いは魂との親和性を失い、自然法則の働きにより、やがて消えていくと思います。



自然法則の働きにより、愛の想いから悦びが生まれ、愛に反する想いからは苦痛が生まれます。

苦痛を通して、人を遠ざけてしまう想いではなく、愛を選択し、悦びを感じながら生きるために、この世に病気は存在します。