人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2015年11月21日土曜日
この世は想いが肉体で表現される世界
1960年代の日本では、子供にピアノを弾かせるのが流行っていたようです。
私も、5,6歳の頃、習わされていました。
椅子に座って、じっと練習するのがいやでいやで仕方がありませんでしたが、世の中にはそれが全く苦にならなかった人もいるようです。
ピアニストの辻井伸行さんも、その一人です。
ご存知の方も多いかもしれませんが、彼は生まれながらにして全盲であり、2歳の時におもちゃのピアノを買ってもらったのがきっかけで、演奏に目覚めました。
その後、卓越した音楽的才能を開花させて、20歳の若さでヴァン・クライバーン・コンクール(米国)で、日本人として初めて優勝しました。
全盲の人が、ミスタッチもなしに最高難度の曲を弾いてること自体が驚異ですが、その音色が純粋かつ透明で、心に響きます。
目が見えれば、人の動作や表情から、何を考えているのか読み取ろうとします。
しかし、一旦、目を閉じてしまうと、顔や姿は見えなくなり、声だけしか聞こえません。
発せられる声から、込められた想いを察するしかなく、否が応でも感性は研ぎ澄まされて行くような気がします。
音楽は音の世界です。
目が見えなければ、日常生活に大きな支障をきたしますが、視覚的な情報に振り回されずに、音だけに集中できるので、音楽家にとって不利にはならないのかもしれません。
音符や鍵盤は見えませんが、心の眼は開かれていて、音から作曲家の想いを、深く読み取っていているのかもしれません。
後世にまで残る名曲は、作曲家の創作力により生み出されていると思っていました。
しかし、シルバーバーチが芸術家は一種の霊媒と言っているように、名曲の源泉は霊界にあり、そこから投げかけられるインスピレーションを作曲家がメロディーとして受け取り、それを音符に変換していると、今は思っています。
送り手である霊界の人と、この世の人の魂が同調すれば、ラジオを受信するように、降ってきたメロディーを受け取ることができると思われます。
音に込められた想いを、正確に読み取って演奏すれば、それは霊界の想いが地上に表現されたことになり、この世のものとは思えない、すばらしい演奏になると思います。
すばらしい演奏を聴くと、一時的であっても、喧騒から逃れられ、安らかで、穏やかな気持ちになれるのは、霊界の愛と平和に満ちたありさまが、音楽によって表現されているからだと思います。
最も大切な「愛」や「生命」、そして「神」の存在が、この世では物質に遮られて見えなくなってしまっているので、音楽を通して魂に伝えようとしていると思います。
音楽を通して伝えたいのは想いであり、音は媒体です。
会話も同じであり、相手に想いを伝えたいのであり、言葉は媒体です。
人間は行動する生き物ですが、想いを表現するために行動していると言えます。
肉体は、想いを表現している媒体に過ぎず、道具でしかありません。
しかし、肉体が自分だと思い、魂の存在に全く気付いていない人が、たくさんいます。
本当の自分を見失ってしまい、魂から生まれている想いに気付かずに生きている人は、とても多いと思われます。
そんな人が死ぬと、困った問題が起こります。
死んだ後も意識があるので、この世でまだ生きていると錯覚してしまいます。
表現媒体である肉体を失っているにもかかわらず、そのことが全く分っていませんので、相変わらず、この世の人に接触して来ます。
しかし、この世の人の目には全く映らず、触られている感覚もないため、無視され続けます。
自分の置かれている状況が、理解できずに、途方にくれます。
そんな人でも、生前、亡くなった親しい人が目の前に現れたり、葬式が執り行われ、棺の中で横たわっているのが自分だと判ると、ようやく死んだことに気付くようです。
それでも、どうしても死んだことが認められない人は、周囲との関係が断絶されて、孤立するようです。
周囲の人も、なす術がないために、気付くまで放って置かれるようです。
偏見に満ちた人や、物理的証拠を示せないことを理由に、魂の存在を頑なに否定する人たちが多くいますが、そんな人たちを信じてしまうと、真実が見えなくなってしまい、遠回りしてしまうことになります。
正しい知識を、できるだけ早く身に付けておくのに、越したことはありません。
人間は肉体だけの単純な存在ではなく、目に見えない精神と、その上位にある魂から成り立っています。
肉体を動かしているのが精神であり、精神に働きかけているのが魂であり、その3つが緊密に連携し合った三位一体の存在です。
魂が、本当の自分であり、生命そのものです。
魂の存在を認めてもらえれば、生きる目的が明確になります。
生きる目的は、魂を成長させるためです。
魂を成長させるために、この世では、さまざまな出来事を経験するようになっています。
苦しい経験ほど、悲しい経験ほど、魂は成長すると言われています。
つらい出来事を経験した後に、人の痛みが判るようになるのは、魂が成長した証だと思われます。
苦難に出会っても、前に進んで行かなければならないと思うのは、立ち止まっていると、自分は成長しないままで、生まれてきた目的を失ってしまうことを、魂は知っているからだと思われます。
そうは言っても、魂は目に見えるものではありません。
実感があるのもでもありません。
説明できる言葉は見つかりませんが、五感から受け取ったものに対して、主観的な回答を出しているのが魂だと思います。
茜色に染まる空を見て、綺麗だと感じているのは魂です。
にっこりと微笑む赤ちゃんを見て、かわいいと思うのも魂です。
溺れている人を見て、命がけで助けようとするのも、魂の発露です。
科学では、何故、感情や意志が生まれるのか、説明できません。
大脳を超えた魂から想いが生まれ、精神に投影されて感情や意志となり認識されていると考えられます。
現代医学も、科学に依存しているため、魂の存在を認めていません。
きわめて重大な事実を認めないために、袋小路に入ってしまっているように見えます。
人は肉体、精神、魂(霊)から構成されていて、それぞれの次元に病気の原因があるのですが、現代医学で解明が可能なのは、肉体次元に原因がある病気だけです。
従って、医学により治癒が期待できるのは、肉体次元に原因がある病気だけと言うことになります。
原因不明とされてしまう病気の多くは、霊的次元に原因がある病気であり、肉体次元で治そうとする手術や投薬等の治療は、すべて対症療法となります。
手術や薬で病気が治るのではなく、霊的次元の原因が取り除かれて、生命力が流れ込むことによって治癒が起こると考えられます。
魂の存在を認めなければ、そこから想い(思念)が生まれているのも認めないことになります。
人間は、想いを肉体で表現しながら生きています。
想いとは、肉体を突き動かす素であり、具現化させる力と言えます。
想いが心身に多大な影響を与えているのは、間違いありません。
怒りが生じれば、顔は紅潮し、脈拍は上がり、血圧も高くなります。
怒りを通り越して憎しみになれば、それ以上の影響を心身に与えていても、不思議ではありません。
宇宙の秩序が保たれているのは、自然法則が働いているためです。
石を空に向かって投げると、必ず地面に落ちてくるのは、万有引力という自然法則の働きであることを、多くの人は知っています。
けれども、人の言葉や行いの1つ1つにも、自然法則が働いてることは、あまり知られていません。
暴力を振るうと法律により罰せられるように、自然法則に反した行いには、機械的に償いが生じます。
言葉や行いには、必ず素となる想いがあります。
たとえ行動に移さなかったとしても、想いは霊的次元において実在であり、自然法則が厳格に働いています。
想いには、自然法則に適ったものと、反したものがあります。
自然法則に適った想いとは、やさしさや、思いやりや、労りといった他者が悦ぶ想いであり、また認め合い、許し合って、1つになろうとする想いです。
自然法則に反した想いとは、怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、貪欲といった、他者に苦しみや悲しみを与える想いであり、また相手を認めず、許さず、調和を妨げる想いです。
自然法則に反した想いを外に表現すれば、周囲との間に不調和が生まれ、因果律の働きにより、苦痛を伴う結果が生じます。
例えば、相手の意見を聞かずに、自分の意見ばかりを言っている人を見かけますが、その行為は協調性に欠け、利己的であり、自然法則に反しているため、因果律の働きにより、疎外され、孤独と言う苦痛を味わうことになります。
また、今、世界中で起きている争いは、自然法則に反した怒りや憎しみや恨みの想いを表現しているので、因果律の働きにより、双方に大きな苦痛をもたらす結果が生じています。
しかし、想いを外に出さなければ良いという訳ではありません。
想いを外に表現しなければ、内に溜まって行きます。
イライラや、少し位の怒りが生まれても、おしゃべりをしたり、運動したり、趣味に興じている内に、発散(解放)されます。
しかし、深刻な出来事によって生じた想いは解放され難く、滞ることになります。
滞った想いは、魂の様相を変えて、同様の想いを生じ易くさせています。
強い憎しみの想いが内に滞っていれば、ささいな出来事でも怒り易くなります。
徐々に、そんな想いが溜まっていけば、内部に不調和が生まれてしまい、肉体に変化が生じてきます。
病気となり、結局は苦痛を味わうことになります。
世の中には、言いたいことを言って、やりたいようにやって、生きている人がいます。
そんな人は内に想いを溜めることが少ないので、大きな病気にならないかもしれません。
しかし、そのことで周りの人を苦しませたり、悲しませたりしているのであれば、病気よりも大きな償いが、後に生じてしまうのは明らかです。
想いにはさまざまあり、内に溜まると、相応の変化を心身にもたらすと考えています。
怖れや不安の想いは、心身を萎縮させるとともに、生命力の補給が円滑に行われなくなり、それに伴い精神(心)を活動させている力が不足し、精神により隠されていた、過去の怖れや不安や怒りなどの想いが表在化されます。
内に溜まった怒りや憎しみの想いは、肉体上に暴力的かつ攻撃的な細胞に、変異させる力となります。
自分を責める想いは、外敵から守っている防御機能に変化を生じさせ、自らを攻める病態となって肉体上に表現されます。
肉体は想いを表現する媒体であるため、想いの様相は肉体上に病態として表現されます。
内にある想いが、肉体上で具現化されたものが(霊的な)病気であり、すべては自然法則(因果律)が働いた結果であり、偶発的な病気は何1つとしてありません。
想いという、原因が必ず存在しています。
よって、現代医学で原因不明とされてしまう霊的な病気は、内に溜まった想いに気付くことが、根本的に治すための第一歩となります。
今までの人生の中で、最も衝撃的と思われる出来事を、いくつか思い出して下さい。
未だに信じられず、納得も出来ず、自分の中で消化されていない出来事はなかったでしょうか?
その時に感じたことを、言葉で表現して下さい。
もし言葉に表せないほどのものであれば、その出来事から強い想いが生じていて、内に滞っている可能性があります。
そんな表現できなかった想いが、心の奥にあることを、気にも留めずに生きてきましたが、今になり因果律の働きにより、肉体上に病気として表現されました。
その想いがあるために、人生に大きな影響を与えているからです。
生まれる前に決めていた、シナリオに沿った人生を、歩めなくなってしまうからです。
社会に奉仕したり、人にやさしくするどころか、むやみに怒ったり、憎んだり、妬んだりして、成長ののない人生を送ることに、つながってしまうからです。
人は、いつかは死にます。
死とともに、肉体は消滅し、自分の内にあった想いが露わになります。
そして、この世の人生を振り返る時が訪れます。
想いに引きずられ生きてしまい、予期したほどの魂の成長が得られず、生まれてきた意味を十分に果たせなかったことに気付き、後悔することになります。
(霊的な)病気は、この世に生きている内に、内にある想いに気付かせ、人生を軌道修正させるためにあります。
生まれ変わって、もう1度やり直すのではなく、この世に生きている内に、生まれ変わるためにあります。
それが許された人が病気になるのであり、新しい人生の始まりが、その先に待っているはずです。
肉体はつかの間の存在であり、魂は永続的な存在です。
なのに、この世に生きていると、魂を忘れてしまい、目に見える肉体に執着してしまいます。
肉体は、魂に従います。
魂が先で、肉体が後です。
想いが解放され、魂が癒されて、はじめて肉体上の病気が癒されます。
自分の本質は魂であり、肉体は魂を反映しているだけです。
肉体上の病気が消失するよりも、魂から想いが解放され、本来の自分を取り戻す方が、はるかに大切です。
気付かない内に、想いが膨らんでしまって、自分ではどうすることもできないほどになっていたのです。
病気という、神の摂理の働きが必要だったのです。
内にある想いに気付くためには、眠っている魂が目を覚まさなければいけません。
苦痛は、魂にまで響き、目を覚ますための準備を整えていきます。
そして、魂が目覚めれば、想いにも目覚めます。
魂から生まれている想いと、内にある想いに気付いた時、病気の目的は果たされたと言えます。
本来の自分を取り戻し、予定されていたシナリオの通りに生きて行けるようになるからです。
病気を治そうとするのでなく、内にある想いを解放して、本来の自分を取り戻して行けば良いはずです。
想いを解放させる力は、愛という生命力です。
愛でしか、解決は出来ません。
言葉にならない想いが生まれた出来事を、心から許すことにより解放されます。
許すことは、自分に愛がなければ出来ません。
病気のつらい経験は、魂は成長させるという大きな意味があります。
魂が成長した分だけ、高い愛が表現できるようになり、許せなかった出来事を、許せるようになります。
出来事を許し、前に進んで行くことが許されます。
どんなに強い怒りや憎しみの想いであっても、未熟な人間から生まれたものであり、愛という神の力には敵いません。
愛の力の前では、病気を生じさせた想いの力など、無に等しいものです。
無限に広がる宇宙の中で、限りなく小さい存在であっても、魂は神の一部としてつながっていて、愛の力を存分に受け取れます。
神に祈れば、愛という生命力が流れ込んでくる訳ではありません。
神と同調することにより、魂に流れ込みます。
神の心に、自分の心を合わせれば、同調します。
私たちはこの世のさまざまな経験を通して、大切なものに気付きます。
つらく、苦しい病気の経験を通して、愛より大切なものはないことに気付きます。
そのことに気付いた瞬間、神との同調が成立し、愛という生命力が魂に流れ込みます。
周りのものに、感謝しましょう。
そして、慈しみましょう。
とても難しいのですが、全てを許しましょう。
たとえ小さくても、少しずつであっても、愛を表現し続けていれば、内にある想いは魂との親和性を失い、自然法則の働きにより、やがて消えていくと思います。
自然法則の働きにより、愛の想いから悦びが生まれ、愛に反する想いからは苦痛が生まれます。
苦痛を通して、人を遠ざけてしまう想いではなく、愛を選択し、悦びを感じながら生きるために、この世に病気は存在します。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿