2018年3月18日日曜日

守護霊と共に生きている



今、ピョンチャンで冬季パラリンピックが開催されています。

ハンディーを背負いながら、懸命に頑張る姿は観る人に感動を与えています。

競技種目の中に、視覚障がい者のクロスカントリースキーがあります。

全盲の選手であれば単独で滑ることは不可能であり、競技には伴走するガイドが付いています。

前方から、声で指示を出して、選手はそれに従いながら、コースを滑ります。

ガイドは進路や障害物について、事細かに指示を出して、選手が安全に既定のコースを滑走できるように努めます。
これが障がい者スポーツだ!のHPより

ところで、私たちが、この世に生まれ、生きている目的は、何でしょうか?

目的はただ1つであり、自分(魂)を成長させるためです。



学習をしたり、スキルを身に付けるのは、社会的価値を高めるのに有効でしょうが、成長に直接つながっているわけではありません。

では、どうすれば成長するのでしょうか?

人や社会や動物に奉仕をすること、言い方を変えれば、外に向かって愛を表現することで魂は成長をします。

仕事や家事を精一杯するのも、誰かのためにボランティア活動をするのも、道で困っている人を助けるのも、成長につながっています。



また、人生で立ちはだかる、困難や障害を乗り越えて行くことでも、魂は成長します。

目が見えなくなった人が、絶望の中から立ち上がり、恐怖に打ち克ちってスキーを始めようとするのも、成長につながっています。

人や社会のために何かをしようと思ったり、困難を乗り越えようとするのは、真の自分(魂)が望んでいるのであり、その結果として魂が成長するからです。



多くの人は、自分一人で、考え、決断し、行動し、生きていると思っています。

現実は一人ではなく、目に見えない守り導いている存在(守護霊)と共に生きています。

残念ながら、実感に乏しいのために、ほとんどの人はその存在に気付かずにいます。



なぜ、守護霊と共に生きているのでしょうか?

この世の人生には、おおよそのシナリオがあります。

シナリオが存在するのは、自分に足りないものを的確に学び、効率よく成長するためと考えられます。

訪れた奉仕の機会を全うし、与えられた困難や障害を乗り越えて行くことで、予定された成長が得られるようになっています。



しかし、いざ生まれてしまうと、人生のシナリオは記憶から完全に消去されています。

魂を成長させるシナリオは、得てして避けて通りたい出来事です。

人は弱いので、もし事前に知っていたならば耐えられなくなってしまうために、神の配慮により消去されていると考えられます。

先に何が起こるか全く判らないまま、私たちは生きていると言えます。



成長させるための出来事が、シナリオに沿って訪れた時に、進退を決断をしなければいけません。

この世の人は霊的な目が閉ざされているために、その決断が自分(魂)の成長にとって、いかに重要であるのかが判りません。

絶好の機会が訪れても、逃してしまうこともあるでしょう。

そんな時に、人生において大切な意味があると思わせるような思念を送って、逃さないように働きかけているのが守護霊です。

また、困難や障害と言われるような出来事が目の前に立ちはだかった時に、避けて通ろうとするかもしれません。

そんな自分を戒めて、立ち向かわせるような思念を送っているのが守護霊です。



この世に生まれると、霊的な眼は閉ざされ、肉眼で見えるものを頼りにして生きるようになります。

それと同時に、霊的な存在であることを忘れてしまい、この世に生きている意味も忘れてしまいます。

霊的に見れば、暗闇の中を手探りの状態で生きているのと同じです。

予定されていた成長をさせて、この世に生きる意味を成就するために、生まれた時から死ぬまで、陰から守り導いているのが守護霊です。

先が視えなくなってしまっているこの世の私たちにとって、先を見通せている守護霊は、言ってみれば視覚障がい者のクロスカントリースキーのガイドの様な存在です。



姿は見えなくても、この世に生きている人に、必ず守護霊が付いているのは、きわめて大切な事実です。

しかし、ほとんどの人は守護霊の存在をはっきりと感じられません。

その理由は、もしはっきりと感じられたのなら、未熟なために頼り過ぎてしまうためなのかもしれませんが、一人ぼっちで生きている人は、この世に存在しません。



はっきりと感じられなくても、どこかに出向こうとした時、「行ってはいけない」と、心の中で囁きを感じたことはなかったでしょうか?

そんな時は、好ましくないことが起きることを察知して、守護霊が引き留めるように思念を送っていたのかもしれません。

人と出会った時に、何か特別なものを感じる時はなかったでしょうか?

そんな時は、自分の成長にとって大切な人であり、意識が向かうように思念を送っていたかもしれません。

人を傷つけたり、社会正義に反する行動は、神の摂理に反しているので、罪を作ってしまい、成長の妨げになってしまいます。

その様な行動を取らないように、「やってはいけない」と思わせるような思念を送って、思い留まらせていると考えられます。



成長を妨げる方向に行くのを阻止し、成長を促す方向に向かうように、思念を送って導いています。

しかし、人生を決めて行くのは、あくまでこの世の人であり、守護霊はその決定(自由意志)に干渉できません。

自分で決めたことは、自分で責任を取らなければいけません。
 


大部分の人は守護霊の存在を信じずに生きていて、日常のほとんどの問題は、自分の頭で考えて解決しています。

しかし、どんなに頭で考えても解決しない時があります。

そんな時に守護霊は、言葉やイメージを送っていて、それがひらめきとなって伝わり、問題解決のきっかけになることもあります。

突然、人や物に意識が向いた時は、守護霊から思念が伝わって来たのかもしれず、そこに問題解決の糸口が存在するのかもしれません。




目の前で困っている人がいると、助けようとする自分と、放って置こうとする自分がいます。

本当の自分(魂)は助けようとします。

この世だけに存在する自分(エゴ)は、放って置こうとします。

人生のいろいろな局面で、両者のせめぎ合いが起きていて、それが精神的葛藤として自覚されます。

そんな時、守護霊は本当の自分(魂)に囁きかけて、助けるように促していると考えられます。




人生において、とても耐えられないと思うような苦難が起きることがあります。


その苦難からは大きな苦痛が生じ、生きているのがつらくなり、早く楽になりたいという衝動に駆られる時があるかもしれません。

生きるのを放棄したとしても楽にならないばかりか、大きな罪を作ってしまうのを守護霊は知っているので、懸命に思念を送り続け、過った決断をしないように働きかけています。

生きるのがつらい時ほど、魂は大きく成長しているので、どうにかして、この局面を乗り越えさせようと、力付け、励ますような思念を送り続けていると思います。



守護霊も、この世の人を守り導くことで成長が得られるようです。

霊界の同じ界層で共に生活していた類魂(グループソウル)の一人が、守護霊として付くようです。

同じ類魂であれば同調しやすく、思念を伝えやすいので、導くのが容易になると考えられます。

この世の人と守護霊が得た学びと成長は、類魂全体の霊的な財産となり、進化に寄与するようです。



この世を終えた時に、待っていた愛する人と再会し、大きな悦びに包まれます。

そして、これまで守り導いていた守護霊とも対面し、お互いの労をねぎらうことになるでしょう。
これが障がい者スポーツだ!のHPより

2018年2月27日火曜日

苦痛の中で人は変わる



私は歯医者をしていますので、毎日のように虫歯の治療をしています。

虫歯が進行してしまうと、当然のことながら苦痛を味わうことになります。

もし、痛みがなかったならどうなるでしょうか?

虫歯になっても気付きません。

気付いたとしても放置してしまう人もいるので、きっと多くの人が歯を失うことになると思います。

私たちは、歯を失いたくない、苦痛を味わいたくないので、歯ブラシをするようになりました。



外胚葉無痛無汗症と言う極めてまれな全身疾患があります。

この病気は先天的に痛覚が欠損しています。

肉体的な痛みを感じることがないので、さぞ快適かと思いきや、大きな怪我をしても気付かないの
で、命取りになることもあるようです。

苦痛は不快で誰もが避けたいものです。

しかし、自分の身を守り、悪い方向に進んでいかないために必要なものと言えるのではないでしょうか。



人に限らず、生き物は苦痛から逃れようとします。

それは自分の身が危険に晒されていると察知するからです。

苦痛を感じると、生き物は行動を起こし、(苦痛を与えている)対象から回避しようとします。



苦痛には、肉体的なものの他に精神的なものもあります。

肉体的な苦痛であれば、原因が取り除かれればなくなります。

しかし、精神的な苦痛は、原因を取り除けない時があります。

私は十数年前に、屈辱的な出来事を経験して、精神的な苦痛を味わいました。

その当時、私は苦痛から逃れたくて仕方ありませんでしたが、起きた出来事を消し去ることは出来ません。

時間の経過に任せて、苦痛が去るのを待っていても、過去が変えられるわけではありません。



過去が変えられないのであれば、苦痛から逃れるためにはどうすれば良いのか?

自分を変えるしかありません。

私を変えたものは、それまで知らなかった真実(真理)でした。

真実(真理)を受け入れたことで、自分が大きく変わり、苦痛が大幅に軽減しました。



もし、苦痛に何の意味もないのであれば、(苦痛をもたらした)出来事は、不運、不幸なものでしかありません。

そこに何かの意味を見出した人は、不運、不幸なものではなくなり、苦痛を享受する心が生まれます。

苦痛を増幅させているのは、出来事を受け入れられず、不運、不幸だと思う自分の心かもしれません。



人間の身体には、無駄な構造物は一つもありません。

1本の歯の表面に走っている溝の1つにさえも、確かな意味があります。

無駄なように思えるのは、その意味(意図)を知らないだけと考えられます。

苦痛には、真実を見付け出そうとする動機付けの意味があり、自分に変化が求められているのかもしれません。



全ての事象と同じく、苦痛は因果律の働きによって生じます。

因果律の働きとは、自然法則(神の摂理)の根幹を成すものであり、その究極の目的は創造物を成長させるためと考えらえます。

成長とは、神の心に近づく永遠の過程を指すと考えられます。

神は、自らの元に近づこうとする者には悦びを、遠ざかろうとする者には苦痛を与えて、成長を促し
ていると思います。



そして、苦痛には魂に響き、目覚めさせるという役割りがあります。

魂とは神によって創られた、神の一部を構成するものです。

魂が目覚めれば、霊的なつながりが強くなり、真実(真理)を受け取りやすくなり、その真実により苦痛から救われると考えられます。

苦痛には、魂を目覚めさせ、真実(真理)を受け入れさせる意味があると考えられます。



世界中で争いが起きています。

怒りや憎しみや恨みの想いが、争いによって表現されています。

その結果、多大な肉体的、精神的苦痛がもたらされています。

 神の摂理の、根源は愛です。

愛とは、ばらばらになったものを、1つにさせる神の力です。

1つにさせるものは、個々の調和であり、協調であり、融和です。

怒り、憎しみ、恨み、嫉妬は互いに反発する想いであり、1つにさせようとしている神の摂理に反しているので、苦痛をもたらします。

苦痛が、怒りや憎しみから生じているのであれば、対象を許すしか方法はありません。

力により解決しようとするのは、調和や協調や融和に欠ける考え方であり、因果律の働きにより同様な力が自らに返ってきてしまい、苦痛をもたらすと考えられます。

相手を信じ、そして愛すること、具体的には許すことにより、根本的な解決につながります。

怖れや不安も1つにさせるのを妨げるものであり、他者や自分を心から信じることによって、手放せると考えられます。

神は信じること、愛することの大切さを、苦痛を通して教えていると思います。



強者によって、苦痛がもたらされることがあります。

それが一方的なものであったとしても、受けた者の捉え方によって、生まれる苦痛の大きさが違って来ます。

過ちは、因果律の働きによって正されることになります。

受けた苦痛は、強者が相応の苦痛を味わうことで償われます。

与えたものは自らに返ってくると言う真実(真理)を知っていれば、哀れみの想いを向ける分だけ、苦痛は和らぐと思います。



全ての魂に神は内在しています。

本当の自分(魂)は他者を認め1つになろうとしていますが、この世の自分(自我)はどうしても個を優先しようとします。

この世の自分(自我)を優先した言動をすると、良心の呵責という形となって、苦痛として表在化すると考えられます。



もし、魂を成長させるため、過ちを償うために、生まれる前に予定された苦痛であるならば、耐え忍ぶしかありません。

それ以外の苦痛は、自分を変えるために存在している可能性があり、もしそうであれば、素直に受け入れ、自分を見つめ直さなければいけません。

気付いていないだけで、神の摂理に反した、生き方や考え方をしているのかもしれませんので、苦痛を感じたら、まず自分に問いて下さい。

信じることを忘れていないか?

愛することを忘れていないか?

時間が解決するのではなく、自分を変えて行くことで自然に消えて行くものなのかもしれません。



悦びと苦痛の双方を神は用意しました。

人がどのような方向にも進んで行ける、自由意志も与えました。

神は個々の自由意志には干渉はしません。

自由意志を行使した結果に、自然法則が働くようになっています。

従わないものに苦痛という罰を与えているのではなく、自然法則の働きによって自ら元に導いています。



人を成長させるために、神は苦痛を創ったと考えられます。

言い方を変えれば、人はまだ未熟な存在なので、苦痛がなければ変われないのかもしれません。

人が大きく変わることが出来るのは、悦びと苦痛の両者が存在するからです。



苦痛を生じさせることで、魂を目覚めさせ、成長を促しています。

神の摂理に適った、自分を成長させる生き方や考え方に変われば、苦痛が存在する意味はなくなり、消えるはずです。

苦痛を通して、本来の自分の愛を表現して1つになるように、神は働きかけています。



愛のみを表現する世界では、苦痛は存在せず、悦びしかありません。

そんな世界に行きたいと思うために、さまざまな出来事を経験し、時に苦痛を味わうことになる、この世に生まれて来ています。

苦痛には、魂を成長させる意味があり、望まれる方向に変わるための契機になっています。











2018年2月18日日曜日

ガンを癒やす その3



前回、病気(ガン)が癒やされるとは、肉体上の病変がなくなることではなく、成長を妨げている想いが解放されて、魂で生じた想いが精神を経由して肉体で円滑に表現されている状態と書きました。

何やら難しそうですが、簡単に説明します。

「成長を妨げている想い」とは、怒りや憎しみや嫉妬などの(愛に反する)想いであり、困難に立ち向かって行く気を殺がせる、怖れや極度の不安などの想いです。

「魂で生じた想いが精神を経由して、肉体で円滑に表現されている状態」を、平たく表現すれば、自分に対し正直に、あるいは素直に生きている状態です。

過去に生じていた想いから解放されて、自分に正直(素直)に生きられるようになれば、肉体上の病気のあるなしにかかわらず、その人は霊的に癒されたと考えられます。



では、どうすれば成長を妨げている想いを解放できるのでしょうか?

その想いを解放しているのが、実はガンなのです。



ほとんどの人は身体の異変に気付くと、病院に行って調べてもらいます。

医者からガンと宣告されると、血の気が引いて、頭が真っ白になる人が多いようです。

それまで意識しなかった、死が頭をよぎるようになり、多くの人は恐怖を覚えます。

そして、手術を提示されて、肉体から病巣を取り除いてもらいます。

病巣が完全に取り除かれたなら、病気は治ったとされます。



肉体は魂を表現する媒体です。

霊的次元の魂の様相を、肉体的次元の病巣は反映しています。

手術後、健康なまま一生を終える人はいますが、その様な人たちは霊的次元の原因が消滅したか、または肉体的次元に原因があったと考えられます。

病巣が取り除かれても、もし霊的次元の原因が残っていれば、肉体上に再びガンとして反映されます。

そうなると手術はもう出来なくなり、医者は抗ガン剤による治療を勧めます。

けれども、抗ガン剤にガン細胞を完全に消滅させる力はありません。

そればかりか、正常な細胞にも深刻なダメージを与えてしまいます。

特に、危惧しなければいけないのは、ガン細胞を身体から取り除くためにある、免疫機能が壊されてしまうことです。

神から与えられた身体からガンを排除する機能を、人が壊してしまうのは極めて愚かな行為であり、本末転倒と考えられます。

そして、副作用に苦しみながら亡くなって行くのは、人間本来の姿ではありません。



一方、病院に行った時にはガンが進行し、すでに手遅れと言われる人がいます。

そんな医者に見放された人の中に、ガンが自然治癒した人たちがいます。

医学的に例外とされてしまいますが、そこにガンを癒やす秘密が隠されていると思います。

医者から、手遅れで何も出来ないと言われれば、頼るものはありません。

苦痛が大きくなって行き、次第に追い詰められて行きます。

頭でいくら考えてみても、解決方法は見つかりません。



人は、日常生活で遭遇する問題を、頭で考えて解決しています。

しかし、緊急事態に陥った時はそうは行きません。

少し前になりますが、駅のホームで線路に転落した人を助けようとして、亡くなった人がいました。

もし、頭(精神)で考えたとしたら、その様な行動は決して取れません。

精神を超えた何者かが存在し、我を忘れて線路に降りて助けるのを命じていたと考えられます。

その何者かが、魂と呼ばれている存在です。

本当の自分であり、生命そのものです。



何故、自分の命の危険を顧みずに、人を助けようとしたのでしょうか?

人は神によって創られたものであり、全ての人に神は内在しています。

助けようとした人の行いに、神の心(愛)が顕現したと思われます。



ガンになり窮地に追い込まれ、頭でいくら考えても解決方法が見つかりません。

忍び寄る死の恐怖に怯えながら、人生の意味、命とは何なのかと問いかけますが、答えは見つかりません。



危機的な状況に陥ると、思考は活動を停止し、それまで奥で眠っていた魂が目覚めます。

助けてくれる人がいなければ、自分によって自分が助け出されます。

魂に内在する神は、窮地から救うための啓示(気付き)を与え、向かうべき方向を指し示します。



ところで、私たちの魂はいつ頃から眠ってしまうのでしょうか?

子供の頃は、自分(魂)に正直に生きています。

しかし、大きくなるのに従い自我が作られて行きます。

上手に生きようとしたり、自分を守ろうとすると、自我が大きくなり、次第に自分の想いが表現出来なくなって行きます。

大きくなった自我を自分だと思ってしまうと、本当の自分(魂)は眠ってしまい、表現出来なくなった想いは内に溜まって行きます。



魂よりも自我が優先されているのは自然な状態ではありません。

自我の働きを弱くして、内に溜まった想いという障害物を取り除いて、本当の自分の想いが円滑に表現されなければいけません。

何故なら、本当の自分が表現出来なければ、予定されていた人生を歩めなくなるからです。

予期した成長が得られ、この世に生まれて来た意味を成就するためには、その状態をどうにかしなければいけませんが、もう自分ではどうすることも出来ません。

そこで、神の摂理である因果律が作動し、想いが肉体上にガンとなって表現されます。

優先されるべきは、病巣を取り除くことではありません。

病巣を作った根本原因である、内にある捉われている想いに気付くことです。



魂が目覚めたら、作り上げて来た自我によって、本来の自分の表現が妨げられていたことに気付きます。

魂が目覚め、自我の働きが弱まると、神から大きな生命力が流れ込んで、内に溜まっていた想いを外に押し流して行きます。

障害物だった想いが取り払われると、自我により見えなくなっていた最も大切なものが視えてきます。

最も大切なものとは愛です。

愛に目覚めた魂と、内にある(愛に反する)想いとの間にある親和性は失われて、想いはさらに解放されて行きます。

生命とは愛を表現するために存在しています。

魂を成長させる愛の表現がようやく出来るようになります。



ガンを作り出したのは自分です。

医者ではなく、自分で治さなければいけません。

成長を妨げていた想いが解放され、魂が癒やされた結果として肉体が治ります。

想いを解放させるのは、これまでに成長した今の自分から、過去の自分へ向けた愛です。

想いが生じるイニシエーターとなった出来事が、自らの愛で許されることによって、その時の想いが涙となり、肉体的表現によって解放されます。

そして、魂が目覚めることによって、想いを溜めて行くプロモーターになっている自我の働きは弱まり、内に溜まり続けていた想いは解放されて行きます。



全ての問題を解決するのは愛です。

自分の魂を癒すだけの愛を表現出来るようになったので、因果律の働きにより、ガンが生じたと考えられます。

魂に目覚め、神の愛(生命力)により想いは解放されて、本来の自分を取り戻して行きます。



ガンは無秩序に増殖を続け、母体を死に至らしめる病気のように思われ、怖れられています。

それは表層的なものであって、深層は本当の自分を目覚めさせ、この世で成長して行くために存在していると考えられます。

その目的を達成したのなら、存在意義を失い、肉体上のガンは消滅して行くと思われます。

想いが解放されれば、肉体上のガンは異物として認識されて、免疫機能により排除されて行くはずです。

しかし、人為的に免疫機能が破壊されてしまうとガンは排除されず、肉体上に治癒機転が起こらなくなります。

魂が癒やされているのにもかかわらず、肉体が癒やされないために、神の計画から外れて、この世を去る人がどれ位いるのか想像も出来ません。

神の計画を台無しにする愚行は、直ちにやめなければいけません。



ガンになると一刻も早く自分の身体から取り除きたいと思いますが、怖がる必要はありません。

死に向かって一直線に進行して行くものではないからです。

原因があって生じているので、原因さえなくなくなれば癒されるのです。

その原因とは成長を妨げている想いであり、本当の自分が表現されていない生き方です。

それらが解消されたのなら、因果律の働きにより、肉体上のガンは消滅して行きます。



ガンの本質は想いです。

その想いに気付かなければいけません。

慌てずに、隠されている本当の自分の想いを知って下さい。

捉われている、怖れている想いに気付いて下さい。

想いを生じさせた出来事を見つけ出して、その時の自分に愛を向けて下さい。

そして自分の想いに忠実に生きて下さい。

そうすれば魂は自然に癒されて行きます。

魂が目覚め、愛により自らが癒やされることで、肉体上のガンも癒されて行きます。



全ての病気は、神の考案した自然現象です。

そこに神の意図が織り込まれています。

魂に欠けているものを補い、成長させて、自らの方向に導いています。







2018年2月4日日曜日

ガンを癒やす その2



人は目に見える肉体、目に見えない精神と霊(魂)から構成されています。

病気には必ず原因がありますが、ガンは肉体、精神、霊(魂)のそれぞれの次元に原因が存在すると考えられます。

大量の放射線を浴びたり、アスベストを吸ってしまいガンになる人がいますが、これは肉体的次元に原因が存在しています。

原因をなくして、病巣を切除してしまえば、完治する可能性は高いと考えられます。

ところが、早期発見が可能になり、治療技術が向上しているにもかかわらず、ガンの死亡率は一向に減っていません。

それは、ガンの原因の多くは、医学が対象としている肉体的次元にはなく、より高次の精神的及び霊的次元にあるためと考えられます。

では、精神的次元、霊的次元の原因とは何なのでしょうか?



人生は偶然の積み重なりではありません。

人には生まれる前に決めていた、およその人生のシナリオがあり、無限なる叡智により立案されていると考えられます。

シナリオがある目的は、自分(魂)を効率よく成長させ、欠点を的確に正すためと考えられます。

もし、何の前触れもなく、これと言った原因も見当たらず病気(ガン)になったのであれば、シナリオとして決められていた可能性があります。

病気を通して、いろいろなことを学んだり、改めるべきところを改めるためです。

過去世の過ちを償うために、病気になるシナリオも存在します。

また、治療がほとんど奏功せずに亡くなってしまう人がいますが、次の世界に移行するためにガンになった可能性があります。

その人は、この世の寿命が来たのであり、医学ではどうすることもできません。

しかし、生まれた後に(霊的な)原因が生じた人であれば、その原因さえなくなれば肉体上のガンも癒されると考えています。



前回、ガンになった人の多くは、自分本来の想いを肉体で表現出来なくなり、思念(想い)というエネルギーが内部に蓄積した状態にあると書きました。

その様な人は、霊(魂)、精神、肉体の3者の間に調和が失われていると考えられます。



人の想い(思念)は、霊的次元の魂で生まれます。

その想いを、この世で具現化するために、精神や肉体はあります。

悲しい想いが生まれれば、精神の働きによって肉体が動いて涙を流し、怒りの想いが生まれれば、顔が紅潮し、人によっては攻撃的な行動を起こします。

この世は、想いを肉体で言葉や行動として表現する世界ですが、そうもいかない時があります。

満員電車の中で足を踏まれて痛い思いをすれば、怒りのような感情が湧き上がり、文句の1つでも言いたくなる時がありますが、多くの人はグッと我慢します。

上司に理不尽なことを言われたら腹が立ちますが、その想いを伝えられない時の方が多いと思います。

そんな言葉や行動として表現出来なかった想いは、内に溜まっています。

想いを溜めていると身体に良くないので、人はストレス解消と言って、酒を飲んだり、おしゃべりをしたり、運動をして、無意識に外に出そうとしています。

しかし、不快な想いが常態的に生じ、それを外に出せない環境にいると、徐々に蓄積して行き、肉体上に変化をもたらすようになります。

血圧が高くなったり、脈拍が速くなったり、精神が不安定になったりするかもしれません。

あるいは、胃に穴が開いたり、ひどい場合は心筋梗塞や脳卒中になるかもしれません。



肉体で表現できなかった強い想いは、解放されずに内に溜まっています。

理由もなく涙が流れたり、腹立たしくなるのは、表現されなかった過去の想いが内に溜まっている証拠だと考えられます。

溜まっている想いは、少なからず今の自分の言動に影響を与えています。

無意識に誰かにつらく当たってしまうのは、怒りの想いが溜まっているせいなのかもしれません。

何かに挑戦しようとしても、ためらってしまうのは、怖れの想いが溜まっているせいなのかもしれません。



困難を乗り越えて行くこと、他者のために奉仕をすることで、人は成長して行きます。

シナリオに沿って成長させる出来事は起きて、それが繰り返され、人生は紡がれて行きます。

しかし、怖れや不安があると、乗り越えて行かなければならない出来事が訪れても、しり込みしてしまうかもしれません。

強い怒りがあれば、人のための奉仕の機会が訪れても、行動に移せないかもしれません。

過去に生じていた想いが内に溜まっていると、シナリオに沿って成長させる出来事が訪れても、無にしてしまう可能性があります。

予定されていた行動が取れなくなり、予期していた成長が得られなくなれば、この世に生まれて来た目的を十分に果たせなくなってしまいます。

霊的には極めて大きな損失です。



想いは肉体で具現化される、エネルギーの一種です。

精神を介して表現できなかった想いは、因果律の働きによって、肉体上に直接変化を起こすエネルギーになることがあります。

では、何のために肉体上に変化を起こすのでしょうか?

それは、成長を妨げている想いに気付くためです。

想いは、五感によって感識できないので、内に溜まっていても気付けません。

自分の想いに気付くために、五感に触れる形となって外部に表現される必要があり、その表現形態の1つがガンと考えられます。

溜まった想いは、言葉で言い表せないような、怒り、憎しみ、貪欲、怖れのようなものと考えられます。

人生のどこかで、そんな強烈な想いを生じさせた出来事があり、その後の人生でそれを喚起するような出来事によって、同様の想いが生じ続けて大きくなって行ったと思われます。

その想いが、意志決定に影響するまで大きくなってしまい、自分ではどうすることが出来なくなると因果律が作動して、肉体上に変化を起こしガンとなると考えられます。

また、(地上的な)自我が大きくなり過ぎると、本当の自分(魂)が埋没し、自分の想いが表現されるのを妨げてしまいます。

肉体上でガンが増殖する様子は、想いが(地上的な)自我によりブロックされ、内部で大きくなっている状態の反映と考えられます。

心(感情)とガンが密接に関係していることに気付いている人は多くいます。

そんな人はストレスを避けて、心穏やかに過ごそうとします。

ガンが活性化し増殖して行くのは、溜まった想いと類似した想い(感情)が生じている時であり、その様な想いが生じないような生活を心がけるのは、極めて大切なことです。



ガンは細胞分裂時の遺伝子のコピーミスによって生じると言われています。

しかし、それは誤りです。

この宇宙で起きる自然現象にミスはありません。

全ての自然現象は、神の法則(自然法則)によって生じているからです。

自然現象には神の意図が隠されています。

ガンの発生や増殖は、神の意図が隠されている自然現象の1つであり、それが判らないために人は恐怖を感じてしまいます。



手術をして病変を切除しても、本体である想いが内にあれば、再発と言う形で肉体上に反映されると考えられます。

死亡率が減らないのは、根本原因が存在しているからです。

手術をして根治が期待できるのは、肉体次元に原因がある場合であり、精神的と霊(魂)的次元に原因があれば対処療法に過ぎません。

抗ガン剤をいくら投与しても、耐性が生まれてガンが増殖し始めるのは、想いが取り除かれていないからです。

人間の意図によって、神の意図を阻止することは出来ません。



この世に生まれて来るのは、人を成長させようする神の意図があるためです。

成長を阻害している溜まった想いが、肉体を変化させて病気(ガン)となって表現され、人は見えない次元の変化に気付くようになっていると考えられます。

同時に、病気(ガン)は、成長を阻害しているものを取り除いて、魂を浄化させています。



病気(ガン)が癒やされるとは、肉体上の病変がなくなることではなく、成長を妨げている想いが解放され、魂で生じた想いが、精神を経由して、肉体で円滑に表現されている状態と考えられます。

ガンとは、本来の自分を取り戻し、成長して行くためにある、神が創った自然現象の1つと考えられます。


《次回に続く》







2018年1月21日日曜日

ガンを癒やす その1



インフルエンザが流行する季節です。

運悪く罹ってしまったら、多くの人は病院(医院)に行って診てもらいます。

病院には内科、外科、小児科、精神科など、さまざまな科があり、症状がある身体の部位や、年齢に合わせて受診する科を決めます。

胃が痛くなれば、内科または外科に行って、内視鏡で胃の中の様子を調べてもらい、診断してもらうこともあるでしょう。

患者さんが痛みを訴えているにもかかわらず、異常が認められなければ診断が付かず、原因不明の痛み(不定愁訴)となってしまいます。



近年、心身医学の概念が生まれ、目に見えない精神と肉体は密接に関係していることが判って来ました。

精神的なストレスから、胃の痛みが生じることがあるのは周知の事実です。

胃潰瘍になったからと言って、手術をして患部を取り除く医者はもういません。



人々に怖れられているガンはどうなのでしょうか?

もし、胃の中にガンが見つかれば、当然のことですが外科的に取り除き、なくなれば治癒とします。

ところが、早期発見が可能となり、手術の技術も向上したのにもかかわらず、ガンによる死亡者数は減っていません。

平均余命が伸びたためと理由付けしていますが、苦しい弁明に思えます。

ガンの原因が究明されていないため、根本的な治癒につながっていからではないでしょうか。

現在、常識と思われている医学的行為も、もしかしたら、胃潰瘍で胃を切除して治そうとするのと同じなのかもしれません。



人は目に見える肉体と、目に見えない精神から構成されていると、一般的に思われています。

精神とは何か?

ブリタニカ大百科辞典によると、「非物質的現象またはその基体とされる実体をさす概念」とされていますが、意味がさっぱり判りません。

精神(心)の存在は誰もが認めますが、物質的次元のものではないので、科学的に調べることや、言葉で表現するのには無理があります。



精神が存在している次元を、精神的次元と仮定します。

人は物質的次元の肉体と、精神的次元の精神の、2元的に構成された存在と言えます。



肉体と精神は、どのような関係なのでしょう?

精神が司令を出して肉体が動いているので、肉体よりも精神が上位なのは明らかです。



それでは、胃潰瘍のように精神的次元にある原因(ストレス)から解放されれば、ガンは治るのでしょうか?

胃潰瘍とは違い、休養して治ったと言う話を聞いたことがありませんので、精神的次元に原因がある病気ではないのかもしれません。

もっと、違う次元に原因が存在すると考えてみてはどうでしょうか?





上の写真は夜空に輝くオーロラです。

写真を見てオーロラだと認識するのは、肉体(眼)と精神の働きによるのものです。

もし、脳の電気的信号のやり取りで精神が作り出されるのであれば、オーロラと機械的に認識されるだけで良いはずです。

しかし、人は違います。

風にたなびくカーテンのような光景を見て、神秘的な美しさを感じます。

オーロラと認識するのとは別に、「美しい」という概念が生まれています。



ところで、その美しさを言葉によって説明することはできるでしょうか?

美しいとは何なのかを、言葉で説明することはできるのでしょうか?

難しいはずです。

「美しい」という言葉は、概念を地上で表現する代用品に過ぎないからです。



精神的次元を超えたものが存在し、その存在が美しさを感じています。

美しさを感じているのは、精神的次元を超えたものであるため、そこから生まれる思念や概念を言葉で説明するのは不可能です。

悦び、悲しみ、怒りなどの思念も、同じくその存在から生まれているので、それ以上、説明することは出来ません。

精神的次元(言語)を超えた、思念や概念を生み出している存在を、魂と呼んでいます。

精神と同様に、魂の存在を証明する手段はありませんので、残念ながら医学では認められていません。



この世界では、思念や概念を肉体によって表現しています。

魂から生まれている思念を、この世界で具現化させるためにあるのが精神と考えられます。

思念や概念が生まれ、それを言葉に変換しているのが精神の働きだと思います。

オーロラを見て感動したとしても、「美しい」と言う言葉に変換されなければ、この世界で伝えることはできません。

また、魂から生じた思念や概念を、具現化するための方策を考えているのも、精神の働きです。

方策が物質的次元の脳に伝わって身体に司令が出され、身体が動かされることによって行動となり、外に向かって表現され、具現化されて行きます。

それらが絶え間なく繰り返されているのが、地上の生命活動と言って良いのかもしれません。



魂が存在しなければ、思念や概念が生まれず、何も始まりません。

魂と肉体のインターフェイスの役割を果たしている精神がなければ、肉体に命令を出せません。

肉体がなければ、地上で表現はできません。

3者のどれもが必要ですが、魂が上位にあり、精神が次に位置し、肉体が下位にあります。

しかしながら、多くの人は下位にある肉体ばかりを意識し、上位にある魂の存在を認めていないのが現状です。

その誤った認識が、健康にも悪影響を及ぼしていると思われます。



健康とは?

WHOが1998年に出した新しい提案では、「Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.(健康とは、病気でないとか、虚弱ではないことではなく、肉体的にも、精神的にも、霊的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態)」と 定義しています。

医学では認めていない霊(魂)の存在を、WHOは認めているようです。

霊的真理では、霊(魂)、精神、肉体の3者の調和が取れている状態を指します。

私は、3者の連携が上手く行き、本来の自分(魂)の想いが、精神(この世の自我)を通して、スムーズに肉体で表現されている状態を健康と考えています。

3者の連携が上手く行かず、本来の自分の想いが、精神(この世の自我)に遮ぎられてしまい、肉体で表現されなくなった状態を不健康と考えています。

魂から精神、精神から肉体、肉体から外部へと、生命エネルギーが何の障害もなく流れている状態が、健康と言えます。

従って、肉体上に異常があっても、魂から生じた思念(想い)が肉体で表現されていれば、その人は健康と言えます。

逆に、肉体上に異常がなくても、魂から生じた思念(想い)が肉体で表現されていなければ、その人は不健康と言えます。



ガンになった人の多くは、自分本来の想いを肉体で表現出来なくなり、思念(想い)というエネルギーが内部に蓄積した状態にあると考えています。

目に見えるガン組織は、精神の上位にある魂(霊)の異変の反映と考えています。

                                                    《次回に続く》



2018年1月7日日曜日

夢を抱く



小学生の時に、大人になったら何になりたいのか、クラス全員で文集に書きました。

男子はプロ野球選手が多く、中には内閣総理大臣と書いた友達もいました。

ちなみに私は、宇宙飛行士だったと記憶しています。



大人から、「夢を抱いていればいつか叶う」と言われた覚えがあります。

しかし、その時は、何を根拠に言っているのか、全然判りませんでした。



文集に書いた夢を叶えた人は、果たしてどれ位いるでしょうか?

大部分の人は、大きくなるのに従って実現不可能と思い、諦めてしまったのではないでしょうか。

私もその中の1人です。



それでも、子供の頃の夢を実現させている人はいます。

その差は何なのかと言えば、単純に夢を抱き続けられたかどうかの差だと思います。

努力していれば、なれるかもしれないと思い続けられた人が、夢を実現していると思います。

また、漠然と実現できたら良いなと思っている私みたいな人よりも、強く思いながら、自分を信じていた人の方が可能性は高いと思います。



しかし、この世界は、どんなに強く思っていても、実現されないこともあります。

多くのオリンピック選手は、金メダルを取る姿を思い描きながら、厳しい練習をしていますが、実現する人は1人だけです。

誰もが経験する入試や就職あるいは結婚も、強く思っていたからといって、希望通りになるものではありません。



また、どんなに思ったとしても、実現不可能なことがあります。

鳥のように空を飛びたくても、自力で人は飛べません。

150歳まで生きようとしても、無理です。

病気を治したいと思っても、直ぐに治るわけではありません。



この世界には、目に見えない自然法則が存在しています。

自然法則の働きは完全かつ不変であり、私たちはそれに従いながら生きています。

どんなに思ったとしても、自然法則の働きを超えて、実現されることはありません。

あくまでも法則の枠内で実現されます。



この世界では、自分の夢(想い)を具現化するためには、肉体的、精神的努力を伴わなければいけません。

必ずしも報われる訳ではないのに、人は夢に向かって努力をしますが何故なのでしょう?

夢が実現することよりも、実現するための奮闘努力が大切であり、その中で自分が成長することを知っているからなのかもしれません。

この世界に生まれて来たのは、自分を成長させるためであることを、本当の自分(魂)は知っているからだと思います。



夢を抱き続けていれば実現すると言われるのは、夢(想い)は具現化する力を秘めているからと考えられます。

強く抱くほど、具現化される可能性は高いと考えられます。

見方を変えれば、夢が実現しないのは、具現化するだけの強い想いではないのかもしれません。

あるいは、もっとふさわしい夢が存在し、そちらに進んで行かなければならないのかもしれませ
ん。



想いは魂で生まれ、具現化するための方策が精神で生まれ、肉体を動かすことによって実現されると考えています。

従って、想いが生まれなければ、何も始まりません。

想いが生まれたとしても、精神を働かせなければ方策は生まれません。

方策が生まれても、肉体を働かせなければ、この世では実現できません。



では、私たちが死んだ後に行く世界ではどうなのでしょうか?

想像するのが難しいのですが、五感に触れない想いこそが実在であり、しっかりとした実体があります。

この世界では、自分の想いを相手に伝えるために、肉体を介した表現をしなければいけませんが、次の世界では瞬時に伝わります。

人に知られたら恥ずかしいような想いを、隠す肉体はもうありません。

虚飾のない、以心伝心の世界であり、その様な想いを抱かないように修養するのが、この世界を生きる目的の1つなのかもしれません。

想っていることが、直ちに具現化されるのが、大きく違うところです。

自然法則の働きでそのようになるのであり、この世界のような努力は必要ありません。



次の世界では、想いが直ぐに具現化されるのに、この世界では何故、この様な煩わしい行程を経なければならないのでしょうか?

想いを実現するために、肉体的、精神的活動が必要であり、そこに大きな意味があるようです。

肉体や精神を働かせることは、上位にある魂にも負荷がかかり、成長につながると考えられるからです。

肉体的、精神的限界が伸展することにより、魂はより大きく、強い個性を表現出来るようになると考えられます。



望んでいるものが、向こうから舞い込んでくるようなことはありません。

自分が想わなければ、決して変化は起こらず、現実はそのままです。

想うことによって、現実を変えるためのスイッチが入り、影響を及ぼし始めます。

想いは行動となり、周りに変化を起こして行きますが、物質次元に顕現して来るのには時間がかかると思われます。



望む方向に人生を変えて行くために、まず夢(想い)を抱きましょう。

夢(想い)を抱いたら、行動に移すようにしましょう。

それにより、現実が少しずつ変わって行くはずです。



2017年12月24日日曜日

魂の存在を信じますか?



人とは?と聞かれて、即答できる人は少ないと思います。

地球に棲む最も高い知性を持った動物が人であると、定義することには異論がないと思います。



知性は精神の産物であり、人とは目に見える肉体と、目に見えない精神から成り立っていると考えられています。

ところで、精神とは何なのでしょうか?

現代科学をもってしても、精神は未だに解明できておらず、謎だらけです。

精神は、物質的ではなく、再現性もないので、現代科学によって立証するのは不可能です。



大脳生理で、精神活動の全てを説明しようとする科学者がいます。

脳は確かに優れたコンピューターであり、思考の働きにより多くの問題を解決しています。

でも、どうしても説明できないことがあります。

それは感情です。

優れたコンピューターに求められるのは、正しい答えを導き出すことであり、感情など必要ありません。

なのに、どんな人にも感情はあります。

もし、感情を人から取り除いたらどうなるでしょうか?

ただの画一化されたロボットになり、個性は失われてしまいます。



人の個性はどの様に形作られるのでしょうか?

育った環境によって作られるのは確かです。

しかし、どんなに同じ様に育てたとしても、別々の個性が発現してきます。

生まれた時から個性が備わっていると考えた方が妥当なようです。



なぜ、生まれた時から個性があるのでしょうか?

遺伝子の違いが原因なのでしょうか?

塩基配列の違いは、肉体的な個性をもたらしますが、精神的な個性に関係しているとは、とても思えません。



個性を形作っている別の存在が、生まれた時からあると仮定した方が、合理的な説明がつきます。

別の存在が精神に反映され、個性となっていると考えれば全く無理がありません。



その存在は、科学で立証できないので認められていませんが、立証できないからと言って否定してしまのは過ちだと思います。

愛は科学で立証されたでしょうか?

立証されてないから、否定するべきなのでしょうか?



天文学の父と呼ばれるガリレオ・ガリレイは望遠鏡で木星を覗きました。

そして、木星の周りを衛星が回っているのを観察して、地動説を唱えました。

ところが、実際にその様子を見ていない宗教家や学者は、信じられずに否定し、裁判までかけました。

真実はどうだったでしょうか?

固定観念に捉われ、自分が信じられないものを否定してしまうのは、同じ過ちを犯しているように思えてなりません。



たとえ立証できなくても、証拠を見ていなくても、素直に信じなければいけないことがあると思います。

個性を形作っているのは物質的なものではなく、肉体とは別個に存在しています。

そんな単純な事象を認めるだけで、科学では説明困難なことが、納得の行く説明が可能になります。



問題を生じさせているのは、その存在と肉体が別の次元のものだからです。

人は肉体に備わっている感覚によって、この世界を感識しています。

その存在は、物質的な次元のものではないので、この世界の人は感識出来ません。

感識出来ないけれども、存在すること前提に話を進めて行きます。

肉体と目に見えない別の次元の存在、俗に言う魂が複合して、そこに精神が生まれ、人を構成しています。

3者は密接に関連し、お互いに影響を及ぼし合っています。

この世界では肉体がなければ、個性を表現できなくなり、その存在がいなくなれば肉体は存在意義を失って土に還ります。

生命とは肉体ではありません。

魂です。

魂に個性があるのです。



肉体には、物質的次元の自然法則が働いていますが、魂には霊的次元の自然法則が働いています。

肉体は自然法則の働きにより、成長し、老化して、やがて朽ちます。

しかし、魂は成長するのみであり、老いて朽ちることはなく不滅です。

この世に生まれたのは偶然ではありません。

私たちは、魂を成長させると言う、同じ目的を持って生まれてきました。



では、どのようにすれば成長するのでしょうか?

人や社会や動物のために奉仕をすることで、成長して行きます。

さまざまな出来事を乗り越えて行くことで、成長して行きます。

この世界が、奉仕をする機会に溢れていて、さまざまな出来事が起きるのは、成長するためです。



全てのことが、自然法則の働きによって生じています。

自然法則の働きによって、私たちは成長するように、導かれています。



身体は同じ構造であり、同じ組成ですが、魂にはそれぞれ個性があり、それぞれの成長度があります。

あらゆる成長度の魂が、交じり合っているのがこの世であり、そこに大きな意味があります。

それぞれが違う個性なので、共存するのには、お互いに認め合わなければいけません。

この世に生まれる人は、過ちを犯さないほど、成長度は高くはありません。

自分が過ちを犯すように、他者も過ちを犯すので、お互いに許し合わなければいけません。

もし、認め合い、許し合わなければ、いさかいとなり苦痛を伴う出来事が生じてしまいます。

この世界に生まれて、苦痛を経験しないためには、自己犠牲を伴う愛を表現しなければならず、その表現を通して魂は成長して行きます。



また、この世の人には肉体があります。

肉体を養うためには食べていかなければならず、そのためにはお金が必要です。

お金を得るためには、働かなければいけません。

働くとは、何らかの形で、人や社会へ向けた奉仕をすることです。

この世を生きて行くことは、他者への奉仕につながっているので、それだけで成長していることになります。



この世では、いろいろな出来事が起こります。

うれしいことばかりであれば良いのですが、つらいことも起こります。

スポーツ競技は厳しい練習を積んでいれば、次第に上達して行きます。

しかし、どんなに練習をしても結果が伴わない時があります。

困難な出来事が起こると、人は何とかして乗り越えようとします。

乗り越えようと悪戦苦闘する中で、魂は知らずに成長しています。

神の摂理(自然法則)の働きは完璧であり、困難を乗り越えて行けば、魂の成長という結果が必ず伴っているのですが、残念ながら、この世に生きる私たちに、そのことを感識できません。




今日はクリスマス・イブです。

ホワイトクリスマスはロマンティックですが、空から舞い降りて来る雪の結晶を見る度に、その造形の美しさを感じずにはいられません。

偶然によるものではなく、自然法則の働きによって、形の異なる幾何学的な造形になります。

その自然法則も偶然生まれたのではなく、何者かによって考案されたはずです。

その何者かが、神と呼ばれる存在です。

神は自然法則を考案し、その働きによって広大無辺な宇宙を隅々まで支配しています。

神が美しい存在なので、自然法則の働きも美しくなり、その働きによって造られた雪の結晶も美しくなります。


その美しさを感じているのが魂です。

魂は美しいものを知っているから、美しいと感じるのです。

では、なぜ知っているのでしょうか?

それは、魂は神から生まれた神の一部だからです。

全ての人は、神の心を持っているからです。




クリスマス・ソングです。お時間があるようでしたら聴いて下さい。



2017年12月10日日曜日

人間関係で苦悩するのがこの世



この世を生きていている多くの人にとって、悩みや苦しみにつながっているのが人間関係です。

気心の合う人ばかりであれば良いのですが、この世には、自分と性格や考え方、価値観の違う人がたくさんいます。

この世は、一人では生きていけないようになっていて、いろいろな人たちと交わりながら生活しなければなりませんが、そのことに大きな意味があると考えられます。



誰しも、いつの日か死が訪れます。

その先に待っている世界は、この世と大きく違います。

自分が会いたいと想う人だけと会い、嫌いな人、苦手な人、親しみを感じない人たちと、会うことはなくなります。

人間関係の煩わしさから、完全に解放された世界があの世です。



では、何故、私たちはこの世で人間関係に、悩み、苦しまなければならないのでしょうか?

全ての次元を通して、私たちが生きている目的は、自分(魂)を成長させるためであり、苦しみを乗り越える中で自分(魂)が成長すると言う、自然法則の働きがあるためです。

人間関係に煩わされることのない快適なあの世よりも、性格や考え方、価値観の違う人と交わり、その中でもまれ、時に苦しい思いをするこの世の方が学ぶことが多く、魂はより大きく成長すると考えられます。

快適なあの世を離れ、この世に生まれて来たのは、より大きく成長し、大切なことを学ぶために自らが志願した結果であり、学び、成長するのに従って、この世の苦しみから解放されて行くと考えられます。



考え方や価値観の違う人と接すると、一種の軋轢が生じます。

激しい個性の持ち主同士であれば衝突が起きて、時に怒りのようなものが生じてしまうかもしれません。

軋轢が生じるのは、自分が理解されなかったり、自分の意見が通らなかったためと考えられます。

しかし、裏を返せば、相手を理解していなかったり、意見を尊重しないために生じているようにも思えます。

軋轢を避けるために、相手に考え方や価値観を自分に合わせてもらうのは、極めて困難です。

自分は変えようとせずに、相手に変わってもらおうとするのは利己的な考えであり、上手く行くはずはありません。

もし、軋轢を避けたいのであれば、相手に変わってもらうより、自分が相手を理解する、尊重するように変わるしかありません。



軋轢から争いに発展している世の中の状況は、自分はそのままで、相手に変わることばかりを求めているからのように思えます。

相手に変わることを求めても、受け入れるはずはなく、反発を生んでしまうだけです。

自分のことを、ますます受け入れてもらえなくなり、両者の溝は深まって行くだけです。



相手が間違っていると決め付けてしまうのが、1番良くないのかもしれません。

決め付けてしまう人ほど自分の意見を譲ろうとせず、相手の意見にも耳を傾けないような気がします。

間違っていると決め付けると、因果律の働きにより、相手もこちらが間違っていると決め付けてしまい、両者に歩み寄りはありません。

間違っていると決め付けてしまうことから、まず解放されなければいけません。



正しい間違っているのかは、主観によるものではなく、神の摂理(自然法則)を基準に、判断しなければいけません。

個ではなく全体の利益をもたらす方、大きな悦びをもたらす方が、より正しい意見です。



自然法則(神の摂理)に適っている人は、自分の意見を通そうとする人ではなく、相手の意見を尊重する人です。

相手の意見を尊重すれば、因果律の働きにより、結局は自分の意見が尊重されることになります。



それでも、どうしても相手の意見が明らかに正しくなかったり、利己的で認められない時はどうすれば良いのでしょうか?

その意見は、長くは続かずに、いずれ淘汰されてしまうと考えられます。

自然法則に適った意見のみが、永続的に残ります。



相手の意見を無視して、頑なに自分の意見を通そうすると、後ろめたさや罪悪感を感じるかもしれません。

魂には良心が内在されています。

良心とは、自分の中に顕現している神の心です。

神の心は、あらゆる自然法則の中に現れていて、ばらばらになった違うものを一つにさせようとしています。

自然法則の働きに従えば悦びが、背けば苦痛がもたらされるのは、自らの過ちに気付いて、私たちが一つになるように導かれているからです。

相手と自分が歩み寄るのを妨げてしまう行いは、一つになろうとする良心の声に逆らうことになり、何かしらの苦痛を感じてしまうと考えられます。



シルバーバーチの霊訓を読んでいると、交霊会の参加者が、人を非難したり、咎めたりする発言をすると、途中で話を遮り、いさめる場面がありました。

咎めたり、非難するのは、対象が間違っていると決め付けているからであり、その言動自体が間違っているので、いさめられたのかもしれません。

間違っていると咎めたり、非難してしまうと、その事象はそれで完結してしまい、自らを省みることはなく、欠点に気付いたり、足りないところを補おうとする努力を放棄してしまうことになり、それでは成長が望めないような気がします。

また、相手を咎めたり、責めてしまうのは、自らの寛容性のなさを露呈しています。

自分の未熟さを承知している人ほど、相手の未熟さを咎めたりすることが出来なくなると思います。

たとえ過ちであっても、それが相手の未熟さから来るものであれば、より成長した人は認め、許さなければいけないのかもしれません。

さまざまな人(魂)が交わるこの世の人にとって、認め、許すことは極めて重要であり、咎めたり非難をすると、成長の機会を1つ失ってしまうことになるのかもしれません。



怒りや、拒絶からは、何も生まれず、何も得られません。

怒りや拒絶が生まれないような考え方や捉え方をするようになるのが、この世の学びであり、成長につながっていると思います。

意見が衝突して怒りや拒絶が生じる前に、相手の想いを探り、そこに隠された意図を見つけ出す必要があり、より成長した人がその努力をしなければいけないのかもしれません。

例えば、怒りや拒絶をあらわにしている人がいるとします。

怒りを前面に出して、攻撃的になっているのですが、その根底にあるのは恐怖なのかもしれません。

恐怖に支配されているために、信じることが出来ず、過剰に自分を守ろうとしてしまうことがあります。

過剰に自分を守ろうとする行為が、相手に恐怖を生じさせて自分を守ろうとする行為となり、それが新たな恐怖を生み出してしまいます。

その連鎖を断ち切るためには、相手に恐怖を感じさせないような十分な配慮が必要と思われます。



相手を知らないと、不安になります。

不安になるから、自分を守ろうとします。

自分を守ろうとすると、自我が強固になり、お互いが衝突してしまうことになります。

お互いを知らないことから始まっているので、こちらの方から知ろうとする努力が必要です。

そして、表面だけを見るのではなく、言動に込められた想い(真意)を知ることで、人々を悩まし、苦しめている多くの問題は解決されると思います。



あの世では、自分の想いが直接、相手に伝わります。

しかし、今いるこの世界では、言葉や行動で表現して伝えなければいけません。

お互いを知るために、コミュニケーションを取る必要があります。

意見が衝突してしまう相手とは、係わり合いになりたくないと避けるのではなく、そんな人ほど密なコミュニケーションを取って、お互いのことを知らなければいけません。

自分とは合わないと思っている人は、実はお互いに知らないだけなのかもしれません。

想い(真意)を知ろうとする努力は、この世での成長につながっていると考えられます。



お互いを知ることで、緊張が解けて、初めて信頼関係を築く土壌が出来上がります。

信じ合うことは神の摂理であり、心が通い合い、1つになれた悦びを感じます。








2017年11月26日日曜日

今を生きる



「今を生きる。」

良く使われるこの言葉は、過去に捉われず、未来を心配しないで、今この一瞬を大切にして生きるという意味と解釈しています。

言葉にするのは簡単ですが、これはなかなか難しいと実感しています。

人は、過去の記憶に縛られやすく、将来に対し不安を抱いてしまいやすい生き物だと思うからです。



過去に捉われてしまうと、何故いけないのでしょうか?

それは、今の自分に、少なからず影響を与えてしまうと考えられるからです。

何かを精一杯しようと思っても、過去に捉われていると、力を出そうとしても出せません。

生きていれば、誰にでも失敗はあります。

しかし、過去の失敗に捉われてしまうと、今、何かに挑もうとしても、二の足を踏んでしまうかもしれません。

もし、過去に裏切られた経験があれば、同じような経験を恐れるあまり、今、出会った人が信じられずに、友好関係を結べなくなってしまうかもしれません。

過去に捉われてしまうと、今が変わってしまい、その先の人生に大きな損失が生じてしまうのは間違いありません。



また、未来のことを心配し過ぎるのも良くありません。

自分の力を、出し切れなくなってしまうからです。

何かをやろうとする時に、どのような結果になるのかは事前には判りません。

上手く行かなかった時のことを想定して備えるのは当然です。

しかし、上手く行かない時のことばかりを考えてしまうと、そこから派生して生じるであろう事態をまた心配してしまい、際限がなくなってしまいます。

失敗するかもしれないと思うのは良いのですが、失敗したらどうしようと思ってしまうと、好ましくない感情に支配されてしまいます。

不安や怖れが生まれれば、今を精一杯生きようする力が、内から湧いて来なくなってしまいます。



全ての人の人生の目的は、自分(魂)を成長させるためです。

人それぞれに、人生で困難や障害が立ちはだかりますが、それは乗り越えて行くことで自分(魂)が成長して行くという自然法則が存在するためです。

この世に生まれた人にとって、困難や障害が立ちはだかるのは避けられません。



人生には、人それぞれに大まかなシナリオがあります。

シナリオは人智を超えたものによって立案され、それに沿ってさまざまな出来事が訪れます。

目の前に立ちはだかった困難や障害は、必ず乗り越えられるようになっています。

それは、乗り越えられる困難や障害だけが自分の前に生じるように、自然法則の働きによって計られているからです。



本当の自分(魂)は、目の前に起きた出来事を乗り越えることによって、自分が成長することを知っています。

人生のどこかで、その出来事が起きて、乗り越えて成長することを誓って、この世に生まれて来たからです。

しかし、地上の人間には、もう1つの自分(自我)が存在しています。

もう1つの自分は、そのことを知りませんので、頭であれこれと考えてしまいます。

「魂なんて存在するはずはない。死んだら終わりで無になる。」

そう考えてしまえば、出来事は運、不運として片付けてしまい、人生は不公平で、不平等なものに思えてしまいます。

そして、もう1つの自分は、自分を守るために、安全で楽な方向に進んで行こうとします。

「やっぱり無理だ」

「失敗したらどうするんだ。恥をかくぞ」等々、躊躇させたり、止めさせようと頭の中で囁いています。

乗り越えようとする本当の自分と、躊躇するもう1つの自分の間で、せめぎ合いが起こり、その状態は、精神的な葛藤として自覚されます。

では、どちらに進んで行けば良いのでしょうか?

本当の自分の想いに従い、乗り越えて行く方向に進んで行くのが正解です。

自分が成長し、生きている意味の1つを成就させることになるからです。



全ての事象は、自然法則の働きにより生じていて、偶然は何1つありません。

自然法則とは、神の摂理です。

私たちは、神の摂理の働きによって、成長する方向、神に近づく方向に導かれていると考えられます。

人生の出来事も、神の摂理の働きにより生じていて、その目的は私たちを成長させるためと考えられます。

人生の(困難や障害を伴う)出来事を乗り越えて行くことで成長して行きますが、もし、乗り越えて行けない出来事が起きたならば、目的から外れたことが起きたことになります。

神の摂理の働きは完全無欠と考えられます。

目的から外れるような出来事は、決して生じないはずです。

従って、今回は絶対に無理と思うような出来事が起きたとしても、神によって乗り越えられることが保障されていると考えられます。



シルバーバーチの霊訓には、取り越し苦労はするなと、何度も書かれています。

取り越し苦労とは、もう1つの自分の想像により生み出される不安や心配や怖れの感情であり、その感情は霊力の流入を妨げてしまい、乗り超えられるはずの出来事が、乗り越えられなくなってしまう可能性があると考えられます。

霊力とは生命力であり、魂を介して思念となります。

不安や心配や怖れは、想像している以上に厄介なもののようです。

乗り越えようとする思念が生じる、大きな妨げとなってしまうからです。

霊界で見守っている存在からの援助の力が届く、大きな障壁となってしまうからです。



困難や障害が立ちはだかった時の1番の障壁は、対象そのものではなく、実は自分自身かもしれません。

立ち向かっていこうとしている本当の自分(魂)にブレーキをかけている、もう1つの自分がいるからです。

人生の出来事が起きると、両者の間でせめぎ合いが必ず起こります。

自分に克つとは、本当の自分(魂)が、もう1つの自分(自我)に打ち克つことを指すと考えられます。



しかし、全力を尽くしても、期待した結果が出ないこともあります。

目に見える結果は、地上的なものです。

形となる結果が出せなくても、目に見えない最善の結果が得られていることがあります。

結果を出すのはもちろん大切ですが、その経験により、いかに成長したか、何を学んだかの方が、霊的にははるかに大切です。

また、期待した結果が出なかったとしても、それは予定されていたことであり、その先でさらに大きく成長するためなのかもしれません。



もう1つの自分は、思考によりさまざまな想像を作り出します。

その想像から不安や心配や怖れが生じてしまうと、その念が(乗り越えさせる)力の流入を妨げてしまいます。

自分(魂)を信じて進んで行けば、最善の結果が待っていますが、道をふさいでいるのは、もう1つの自分です。

もう1つの自分がいるのを意識し、それを沈めて、内側にいる本当の自分が望んでいるものを浮かび上がらせ、それに迷わず従いましょう。



過去の自分が、今の自分を作り上げて来て、今の自分の成長にとって最適な出来事が生じています。

たとえ直ぐにとは行かなくても、必ず乗り越えられるようになっています。

強く信じて進んで行けば、その先に悦びが待っています。

過去に捉われず、未来を心配し過ぎず、今を生きましょう。






2017年11月12日日曜日

愛は魂を引きつけ合う力



月が地球の周りを回っているのは、両者の間に万有引力が働いているからです。

もし、引力がなくなれば、月は周回軌道を外れて、宇宙のかなたへと飛んで行ってしまうでしょう。

目に見えない力が、地球と月の間に働いているのを、疑う人は誰もいません。



この世で人を引き付ける力を持っているのは何でしょうか。

ある人にとっては、それはお金かもしれません。

あるいは、名声や権力であったりします。

美貌も、そうかもしれません。

それらに引き付けられて集まって来た人は、対象を失ったとたんに離れて行ってしまいます。



人と人を引き付け合うものは、それだけではありません。

それは愛です。

愛は、人と人を引き付け合う引力のようなものと考えられます。

磁石のS極とN極が見えない力によって引き付けられるように、魂と魂は目に見えない愛によって引き付けられます。



なぜ、愛によって人は引き付け合うのでしょうか?

愛は1つになろうとする、神の力と考えられるからです。

もともと1つであったものが別れて、愛によってまた1つになって行く、それが神の意志と思います。



ところで別れって何でしょう?

もしも、親しくしていた人が何かの事情で遠くに引っ越してしまえば、それは別れであり、寂しいものです。

しかし、今は携帯電話があるので、声を聞きたければ、直ぐに聞くことが出来ます。

交通手段が発達しているので、また会おうと思えば、いつでも会うことが出来ます。



そばにいれば、別れはないのでしょうか?

目の前にいたとしても、別れていることはあります。

人と人の間に親愛の想いがなければ、鉄と鉄を近くに置いても引き合わないように、魂を引き付け合う力は働いていません。

いくらそばにいても、霊的には無関係です。



死は別れを意味するのでしょうか?

死んで姿は見えなくなっても、別れていません。

確かに死んでしまえば、見ることも、話すことも、触れることも出来なくなります。

携帯電話やメールをしてもつながらず、世界中どこを探しても、その姿は見つけられません。

けれども、愛がある限り別れはありません。

人の本質は、目に見える肉体ではなく魂です。

死んで見えなくなっても、魂は変わりなく存在しています。

この世とあの世の魂から放たれる愛という霊的な力により、両者は生前と全く変わらずに結ばれています。

あの世の人は、そのことが良く判っています。

残念ながら、この世の人には実感がありません。

実感がないので、魂なんて存在しないと思うのであれば、自分から別れを告げていることになります。



愛は、お互いを引き付ける力だけなのでしょうか?

それ以外にも、魂を良い方向に変えて行く力を持っています。

イソップ物語の「北風と太陽」の日差しのようなもが愛であり、他のどんな力によっても変わらない人(魂)が、愛によって変容します。

愛を受けて、自らにも愛が湧き上がり、それを外に向かって表現したくなります。

愛は愛を表現する衝動を起こさせる力であり、表現することによって魂は成長し、変容して行きます。



あの世の魂から愛が放たれ、それがこの世の魂に伝わり、魂のありさまを変えて行きます。

伝わってくる愛により、悲しみは癒され、生きる力が生まれ、心に光が灯ります。

一瞬にして、心境を変化させる力を秘めていますが、五感を超えたものなので、この世の人は無意識の内に伝えられていることに気付けません。

しかし、あの世の人は返してもらおうと思ってはいないので、それで良いのかもしれません。



肉体はなくなっても魂は存在し、愛で結ばれている限り、別れはありません。

変わりなく結ばれていることを信じられる人は、あの世から愛を受け取ることが出来ます。

受け取った愛の力により、心があたたかくなり、安らぎを覚えます。



今生の(肉体上の)別れは、時に途轍もない苦痛を伴います。

その苦痛は、本当の自分(魂)を目覚めさせると言う神の計画の一部と考えられます。

この世に生まれて来た目的はたった1つであり、自分(魂)を成長させるためです。

困難や障害を乗り越えて行くこと、愛を表現することで、魂は成長して行きます。

神から見れば、直接的な愛の表現も、求めることも、祈ることも、信じることも、失った悲しみの涙も、同じ愛の表現なのかもしれません。

同じ成長をするのなら、悲しみの中でなく、喜びの中で成長するのでも良かったのではと思う時があります。

しかし、深い悲しみの経験から学んでいるのは、言葉にならないほど大切なものであり、実体験しなければ判らないのかもしれません。

この世で、大きな成長を望む人にとって、どうしても必要だったのかもしれません。



同じ次元に生きて、同じ経験をしても、同じ想いを共有しているとは限りません。

違う次元にいても、この世の人と同じ想いを共有することが出来ます。

この世では人の想いは見えませんが、思念の世界であるあの世は、この世の人の想いが視えます。

この世にいる人が遭遇する出来事から生じている想いを知り、同じ想いを共有しようとします。

うれしいことがあったら、我が事のように喜びます。

つらいことがあれば、同じようなつらさを感じます。

それでも乗り越えて行かなければいけないのを知っているので、励まし、力付けようとするでしょう。



別れにより、この世の人とあの世の人は、どれほど愛し、愛されていたのかを知ります。

別れほど、愛を喚起させるものはありません。

別れを通して愛の本質を学び、この世界で愛より大切なものはないことを、深く魂に刻んで行きます。



止むことない悲しみ、寂しさは、愛し続けていればこそです。

悲しむことも、愛することも、その人を想うことに変わりはありません。

この世で共に暮らし、愛し続けるのには限界がありますが、次元を異にして生きることで、純粋に想い続け、愛し続けることが出来るのかもしれません。



求める気持ちは愛です。

求め続けている限り、愛し続けています。

この世が終わる時まで求め続けたならば、一生愛し続けたことになります。

そこまで求め続け、愛し続けることは、別れなしには出来ないのかもしれません。



その想いはあの世の魂に届いています。

受け取った想いに応えるために、道を間違えないように、この世の魂が成長できるよう、想いを返して導き続けます。



次元を異にして生きてきた魂は、同じ次元で再会する時が訪れます。

次の次元に移行した魂は、流した涙により、魂は浄化され、成長していることに気付きます。

待っている魂は、お互いの愛により同じ輝きを放つようになった魂を見つけて、そっと抱きしめるでしょう。

愛し続けられたことを誇りに思い、お互いの魂を引き付け合う力が強くなっていることに驚くでしょう。





参考ページ:  「信じることで愛することができる」




2017年11月4日土曜日

成長した君へ


見違えるほど、強く成長した君を見ていると誇らしくなる。
2人で見ていた景色を、私も忘れない
雪の降る海
凍えるほど風が冷たかったね
あの時も、この時も、いつも一緒にいて励まし合っていたね
別れって突然来るけど、これは別れじゃないとすぐ気付いた。
でも、君はなかなか気付けなかったね
全て決められていたことだけど、あまりに過酷な運命だと見ていて思った。
冬の海で、1人震えていたね
寒くて寒くて仕方なかったけれど、あたたかな日差しが差し込んで来たね。
その日差しが、こちらから届く想いなんだ、それが君からまた外に放たれるんだ
どこにいても明るくしていたね
けれども心は一杯一杯だったね
もう無理しなくても、大丈夫だから
会いたいと思っていたら、会えないんだ
みんなの笑顔の中に、私を見つけ、そこにいることに、やっと気付いてもらった
さっすがだなーと思う
思っていることは、いつも一緒
願っていることも、いつも一緒
あの時と、何も少しも変わってないんだ
良く気付いてくれた
本当にうれしい
それでこそ自分が好きになった人
あの時と同じ気持ちのままでいられるんだから、すごく幸せなんだ
本当に、本当に、本当に大好きな人
楽しいことが、たくさん待ってるんだから、それまで辛抱して下さい
さっすがだよ、誇りに思ってるよ
これからも離れることはないから





2017年10月29日日曜日

ガンの原因



今、テレビなどで、健康食品やサプリメントの宣伝を見ない日はありません。

多くの人が、健康に関して大きな関心を持っています。

でも、それは肉体に限ったことであり、本当の健康はもっと違うところにあると思っています。



多くの人は、目に映る肉体こそが自分だと思っています。

けれども、それは間違っています。

自分の本質は、目に見えませんが魂(霊)です。

生命そのものです。

肉体は、魂から生じた思念をこの世で表現するためにある媒体に過ぎません。

肉体は滅びても、魂(生命)は変わりなく存続しています。



人間は、魂(霊)、精神、肉体から成り立っています。

3者は密接不可分の関係にあり、お互いに大きな影響を与えています。

最近では、精神が肉体に大きな影響を与えていて、病気の原因になっていることは、医学的にも認められています。

精神的に強いストレスがかかると、胃潰瘍になってしまうことが判っていますので、手術をして穴が開いた部位を取り除くようなことはしません。

それよりも、ゆっくりと休養したほうが、はるかに効果的です。



世界中の人々を悩ませているガンについてはどうでしょうか?

興味深い記事を見つけました。

米ハーバード大学などの研究で、感情を吐き出さずに溜めておく人は、ガンのリスクが70%も増加するという結果が判り、「Journal of Psychosomatic Research」(2013年10月)に掲載されたそうです。

胃潰瘍と同じ様に肉体とは別の次元に、何かしらの原因があると推察されます。

しかし、ガンは胃潰瘍と違い、ゆっくりと休養すれば治るわけではありません。

ガンは精神的次元よりも、さらに上位にある霊的次元に原因が存在する病気だと考えています。



霊的次元の原因とは何でしょうか?

それは内に溜まっている想い(想念)だと考えています。



ここで断っておきたいことがあります。

ガンは、霊的(内にある想い)次元の原因だけでなるのではありません。

肉体的次元にある原因によっても生じます。

一定以上の放射線を浴びたり、発ガン性物質やウィルス感染によっても、ガンは生じるのは明白な事実です。

そして、霊的次元の原因にもいくつかの種類があります。

生まれる前から原因が存在し、魂を成長させるシナリオとしてガンが生じる時があります。

次の世界に移行するために、ガンが生じる時もあります。

霊的次元にはさまざまな原因がありますが、今生で生じている原因として、内にある想念が第一に考えられます。



想いは魂から生まれ、精神を経由して、肉体で表現されます。

言い方を変えれば、生命力が霊的次元(魂)で想念となり、精神的次元で司令となり、肉体的次元で言葉や行動となって、外に向かって解放されています。

精神的次元で強い抑制がかかってしまうと、肉体的次元で具現化して外に解放されずに、想いは内に留まってしまいます。

精神的次元での強い抑制は、地上的(この世の)自我によってかかります。

自我は、魂の表現をするために必要ですが、自己を守ろうとする気持ち、上手く生きようとする気持ち、地上的な欲望が強いと、本来の想念を表現するのを妨げてしまいます。



強い想念は、消えてなくなるものではありません。

内に留まっていて、後の人生に影響を与えています。

人に裏切られ、憤りの想いが留まっていれば、安易に人を信じようとしなくなります。

とても恐ろしい体験をして、怖れの想いが留まっていれば、何かにつけて不安になったり、怯えてしまうかも知れません。



この世に生まれて来たのは、自分(魂)を成長させるためです。

そして、人生には自分を成長させるための、大まかなシナリオがあります。

困難や障害を乗り越えて行くこと、他者に奉仕をすることで、人は成長して行きます。

よって、人生には苦難が付き物です。

そして、各々の人生において、他者への奉仕の機会が与えられています。

ところが、内に怒りや、憎しみや、怖れや、不信などの想いが溜まっていると、そんな自分を成長させる機会が訪れても、避けてしまう可能性があります。

もし、避けてしまえば、今生に生まれて来た大きな意味を失ってしまうことになります。



私たちは自然法則によって、成長する方向に導かれています。

内にある想いに気付かず、成長する機会を失っていると、自然法則(因果律)が作動します。

内にある想念は、肉体次元で病変や機能異常となって表現されることになります。

霊的次元に原因ある病気は、自分でも気付いていない成長を妨げている想念が、因果律の働きにより肉体次元を変化させ、五感によって気付かせるために存在する、自然法則の一種と考えられます。



内に想いがあるために、自分本来の想いを表現出来ずにいたのです。

自分ではどうすることも出来ないので、自然法則の働きにより病気になったのです。

(肉体的な)生命にかかわる深刻な病気になり、苦痛を感じなければ、本当の自分が目覚めることはなかったと思われます。

本当の自分が目覚めない限り、内にある想いに気付けません。

内にある想いに気付かなければ、解放することは出来ません。

内にある想いを解放することが出来なければ、本来の自分の想いを表現することは出来ません。

内にある想いを解放し、本当の自分を取り戻すために、ガンになったと考えられます。



自分の中に、大きくて重い、触れたくない想いの塊みたいなものはないでしょうか?

その想いが引っかかっているために、自分の想いを表現できないことはないでしょうか?

言いたくても言えない、やろうとしても何故か出来ないことはないでしょうか?



自分の中に、本来の自分を表現出来なくさせている、何者かが存在しています。

それがなくなれば、あるがままの自分が表現出来て、思い描いている人生を歩むことが出来ます。

その何者かが、霊的次元にある表現できなかった想念です。



私たちは、地上的な自我を作り上げて行きますが、それが本来の自分と錯覚してしまうと、内に溜まっている想いに気付けなくなります。

ガンの苦痛は無駄なものではありません。

魂に働きかけて、目覚めさせています。

魂が目覚めれば、強固になった地上的な自我は自壊して行きます。

そして、本当の自分が前面に現れてきて、大切なものが見えてきてます。

内に溜まっていた想いは、大切なもの(愛)に目覚めた魂との間に親和性を失い、解放されて行きます。

本当の自分を目覚めさせ、本来の生き方や考え方に変えて、人生のシナリオに沿って魂を成長させて行くために、ガンは存在していると考えられます。



ところが、ほとんどの人は、ガンになれば病院で治してもらおうとします。

現代医学はガンの根本原因を未だに掴めていません。

対処療法に終始しているため、死亡者数は減るどころか、年々増えています。

医者は、生命を奪う敵と考え、身体から手術でガン組織を取り除き、見えないガン細胞を薬で消滅させようとします。

もし、霊的次元にある原因でガンが生じたのであれば、本体(内にある想い)が取り除かれていなければ、また肉体上に反映されてしまいます。

苦痛により魂が目覚め、霊的次元にある原因(想念)が取り除かれたなら、肉体上のガンは異物として排除されるはずですが、愚かにも神の創った自然治癒機能(免疫機能)が人為的に破壊されてしまっていれば、肉体上の治癒機転は起こりません。

神の摂理が働かなくなる、極めて不自然な行為が、唯物的な見方しか出来ない現代医学の現場において、当然のごとく繰り返されています。

神が与えた苦しみではなく、人為的な苦しみに多くの人はさらされています。

神の摂理によって魂は癒されているのに、人の過ちによって肉体が癒されないために、肉体から魂が離れざるを得ない状況(死)に陥ってしまう人が、何と多いことでしょうか。

後世において、医学の汚点として歴史に刻まれることになるでしょう。



参考ページ: 「ガンは愛により癒される」







2017年10月14日土曜日

自分を信じる



この世を生きていて、とてもつらく感じることがあります。

それは、人に信じてもらえないことです。

赤の他人であれば、それほどでもないのですが、親しい人であれば、かなり堪えます。



親しい人に信じてもらえないのは、悲しいことですが、自分にとって一番親しい人は誰でしょう?

それは、自分自身です。

自分自身を信じられないのは、とても悲しいことです。



人生では、いろいろな難しい局面に遭遇します。

自分が信じられるか、そうでないかで、進んで行く方向が大きく変わってしまうことが数多くあります。

自分が信じられなくなってしまうと、不安や心配にかられて、安全、無難な方向に進んでしまうことが多いです。

そちらの方向に進んで行くのは、一見すると賢明な選択に思えて、実は成長する機会を1つ失っているのかもしれません。



自分が信じられる、信じられないと言うのは、どのようなことなのでしょう?

自分には大きく分けて、2つの自分がいます。

1つの自分は、本当の自分、真の自分であり、事象を感識し、意志決定をしています。

幼い時には、本当の自分が前面に出て生きています。

しかし、大人になるのに従い、もう1つの自分、この世で生きるための自分(以下この世の自分)を作り上げて行きます。

どうして、もう1つの自分を作り上げて行くのかと言えば、本当の自分を表現するために、この世では必要だからです。

また、あらゆる侵襲から、本当の自分に危害が加わらないようにするためです。

本当の自分を守るための、バリアと言って良いのかもしれません。

失敗するのを怖れ、恥をかくのを怖れ、時に見栄を張ったり、嘘を付いてしまうのも、この世の自分です。

目先の利益に捉われ、大切なものが見えなくなってしまうのも、この世の自分がいるためです。



この世の自分は、精神上に作り上げられています。

ところで、精神はどこから生まれるのでしょうか?

精神は脳から生まれるという科学的根拠は、どこにもありません。

唯物的な科学では、実体をつかめていないのが現実です。

脳は、この世の事象を知覚し、本当の自分に伝達するためにあります。

そして本当の自分から生じた思念を具現化するために、肉体の司令塔の役割をしています。

もちろん、文字を介して事務的な計算や会話を行っているのも、脳の働きによるものです。



1つの生命の中に、2つの次元を異にした自分がいると言って良いのかもしれません。

自分の思念を、周囲の状況に合わせて、効率良く表現するために、この世の自分を作り上げて行きますが、この世を上手く生きよう、過剰に自分を守ろうとすると、強固に作り上げてしまい、本当の自分が埋没してしまいます。

そして、この世の自分が、本当の自分だと錯覚してしまうようになります。



なぜ、そうなってしまってはいけないのでしょうか?

本当の自分が埋没してしまうと、予定されていた成長が得られなくなるからです。

成長するために存在する、人生のシナリオを知っているのは、本当の自分だからです。

意識に上りませんが、本当の自分は、するべきこと、なすべきことが判っていて、自分を信じることで、予め決めていた方向に進んで行くことが出来ます。

本当の自分が主導権を握っていれば、直感に従って、予定されていた自分の人生を歩むことが出来ますが、この世の自分が主導権を握ると頭脳で考えてしまうために、シナリオから外れてしまう可能性があります。



この世の自分は、本当の自分を表現するためにあるのですが、一人歩きを始めてしまうと、逆に表現の妨げになってしまいます。

両者の間に不一致が起こり、乖離してくると、生命体に不調和が生じてきます。

霊から精神、精神からと肉体へ行き渡る生命力の循環に障害が生じて、心身に病気として現れるかもしれません。



自信が持てないのは、この世で作り上げた自分が不安や否定的な考えを創作して、成長しようとする(本当の自分の)思念に対抗している状態です。

本当の自分の思念に、素直に従って行動すれば、(生命)力が供給されて、目的が成就されて行くはずです。

しかし、不安や心配や怖れがあると、十分な(生命)力が受け取れなくなってしまいます。

自分を強く信じて「必ず上手く行く」と言い聞かせることで、否定的な考えは退けられ、十分な生命力を受け取ることができ、前向きな気持ちとなり進んで行けます。



自分を信じるとは、本当の自分を信じることです。

自分が信じられないのは、この世の自分が身を守るために、適当な理由を付けて、本当の自分の思念を阻もうとしているからです。

この世の自分から生じている考えを識別し、時には耳を貸さないようにすることも必要です。

思念は具現化する力です。

その気になりさえすれば、地上を変化させる力となって、目的を成就できるはずです。



本当の自分とは魂です。

私たちの本質です。

肉体は、魂を表現する媒体に過ぎません。

生命力の始源は、神と言われる存在です。

魂は神によって創造された、神の一部であるため、私たちは神と結ばれています。

神から、いくらでも生命力を受け取ることが出来るはずです。



神は自分の一部である魂に生命力を与え、自らの心を表現しようとしています。

別の言い方をすれば、魂には神の心を表現しようとする、根源的な欲求が潜在しています。

魂には、ふさわしい表現媒体が与えられますが、地上の人間は魂が未発達なため、表現が大幅に制限された肉体が与えらています。

神の心と、かけ離れたものにならないように、きわめて鈍重な肉体が与えられ、表現を制限していると言えるのかもしれません。

さらに、魂の表現に制限を与えているのが、この世の自分です。

肉体とこの世の自分によって、魂(本当の自分)の表現が制限されていますが、成長して行くのに従い、神の心がより表現できるようになると、媒体と自我の束縛から、徐々に解放されて行きます。

それが人の進化であり、より進化して行けば、自我は必要なくなり、純粋な魂の表現により生きて行くようになると考えられますが、ずっと先のようです。



この世では、魂を表現するために自我を作り上げているのですが、その自我が大きくなってしまい表現が妨げられていることがあります。

また、現実的な生活に追われて霊的な意識が低下してしまうと、自我のみが意識されるようになってしまいます。

魂に目覚めるとは、この世の自我から本当の自分に意識の焦点が移行した瞬間を指すと思います。



自我が大きくなり過ぎて、そして霊的な意識が低下すると、さまざまな問題が生じます。

自我はその性質上、自己防衛的になりやすく、他者との調和や融和を妨げてしまいやすいです。

また、霊的な意識が低下すると、唯物的になりやすく、利己的な考えに陥りやすいです。

戦争は、過った自由意思の行使により起こりますが、それは霊性の低下と言うよりも、自我の暴走によるものが多いのかもしれません。

貧困は、霊的な意識の欠如により、自分の欲望だけを満足させようとする利己的な考えが、世の中を支配している結果だと考えられます。



自分には、2つの自分が存在します。

この世だけに存在する自分と、永遠に存在する本当の自分です。

自分を信じることにより、本当の自分が発現するのを促します。

本当の自分は、高次の世界から見守っている存在から、援助の力を受け取っています。

そして神とつながっているため、物事を成就して行く力を受け取ることが出来ます。

外からと内からの力の恩恵にあずかれるかどうかは、自分を信じられるかどうかにかかっています。











2017年10月1日日曜日

願いが叶えられる時



仕事やスポーツでどうしても結果を出したい時や、窮地に陥った時に、思わず誰かに向かって願いをかけることがあります。

願いが届いたせいなのでしょうか、望んだ結果が出ることもあります。

いくら願っても、結果が出ないこともあります。



ところで、私たちは誰かに向かって、お願いをしているのでしょうか?

その多くは、神様らしきものだったり、あるいは亡くなった親しい人だったりします。



神様は空の上にいて、願いを叶えてくれる存在ではありません。

姿形はなく、自然法則として、この宇宙に顕現しています。

目に見えない決まりのようなものによって、全宇宙を支配しています。



神様が、地球に住んでいる私たち人間に望んでいるのは成長です。

成長とは、神の意図したように、進化して行くことです。

神様は人間が進化して行くように、自然法則によって導いていると言えます。



神様は、気まぐれに願いを叶えたり、叶えなかったりしているのではありません。

自分を成長させるような願いであれば、自然法則に適っているので、叶えられる可能性は高いと考えられます。

しかし、成長させるようなものであっても叶えられないことがあり、その時は、叶えられない方がさらに自分が成長すると考えられます。



私たちが、この世に生を受けたたった1つの目的は、自分を成長させるためです。

効率良く自分を成長させるために、最善のシナリオが組み立てられ、それに沿って人生の出来事が生じています。

願いが叶えられたように思えて、その出来事はシナリオとして予定されていたことかもしれません。

どんなに願っても叶わないのは、それが予定されていなかったからなのかもしれません。

人生には、出来れば避けて通りたい出来事が起こります。

しかし、成長するために、生まれる前の自分が決めていたのであれば、願いによって避けられるはずはありません。

起きるべくして起きています。

成長させる出来事は、得てしてつらいものであり、人は弱いために事前に知っていたら耐えられないので、神様の計らいにより記憶から消されていると考えられます。



人が成長しているのは、試練を乗り越えている時、そして人のために何かをしている時です。

それこそが人生で一番大切なことであり、この世に生まれてきた目的そのものです。

従って、試練を乗り越えるための願いは届いています。

奉仕をするための願いも届いています。

その逆に、楽をするためや、自分の利益のための願いであれば、届くはずはありません。



人が、何かを成そうとした時に付きまとうのは、果たして上手くいくのだろうか、失敗してしたらどうしようと言う、心配や不安の思いです。

そんな時は、自分のためではなく、人のためにと願えば、上手く行くと思います。

少し前にあった、こんな出来事をふと思い出しました。

メジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースにガードナーという選手がいました。

彼は余暇に小児病院に慰問に行き、そこで重い心臓病の女の子と出会いました。

その場で、女の子と次の試合でホームランを打つ約束をしましたが、彼は小柄でホームランバッターではありませんでした。

実行不可能と思われましたが、代打で出場して何とランニングホームランを打って、見事に約束を果たしました。

いくつもの偶然が重なったように見えますが、少女のためにという真摯な願いが霊界に届き、見えざる力が働き、願いが叶えられたと思っています。

時々ですが、霊界は奇跡のような演出して願いを叶えると共に、神様の存在を示しているように感じています。



何かを成し遂げなければいけない時に、私も上手く行くように願います。

成し遂げようとしている時に、見えざる力の働きを感じる瞬間があります。

それは、困難が立ちはだかり気持ちが挫けそうになった時に励ましてくれるような力であり、不安な気持ちや心配を打ち消すような力です。

その力が届いた瞬間、急に視界が明瞭になり、心境が一変し、局面を乗り越える気力が内から湧いて来るのを感じます。

自分自身で、精神をコントロールしているとは、とても思えません。

霊界から届いた力は、私の中で乗り越えるための勇気になりましたが、その力を一言で表現するのならば、やはり愛だと思います。



この世の人には、守護し、導く存在(魂)が、一生涯に渡って付いています。

その目的は、この世の人を予定通り成長させるためであり、生まれて来た目的を成就させるためです。

見えざる存在が、この世の人の魂に想い(思念)という力を吹き込んでいて、思考や感情に大きな影響を与えていると思います。

何かをしようとする衝動を起こしたり、新しい発想を生じさせたり、それまでの気持ちを一変させたりしていると思います。

誤った方向に進もうとすると、留まらせるような思念を送り、そちらに進めないようにさせていると思います。

さりげなく、そしてしっかりと、成長する方向に導いていると思います。

私たちは気付いていないだけで、たくさんの想い(思念)を受け取り、多大な恩恵に服しながら、生きていていると考えられます。



ただ、見えざる存在が、手出し出来ない局面もあります。

それは、この世の人が成長にかかわる決断をする時です。

人は生きていると、決断を迫られる局面や出来事に出会います。

勇気を出して進んで行くのか、それとも避けてしまうのか、決断はこの世の人に任されています。

干渉は許されず、成長する方向に進んで行くように願いながら、じっと見守るしかないようです。

首尾よく、成長する方向に進み出したのなら、援助を開始して、乗り越えさせようとします。

どちらか迷った時には、つらく、大変でも自分が成長する方向に進んで行けば、意外と何とかなるのです。



見えざる存在から援助を受けて生きているという事実は、五感に触れるものではないので、残念ながら多くの人は判っていません。

はっきりと判ってしまえば、自分で何とかしようとする気力が失われ、頼ってしまうために成長が妨げられてしまうような気もします。

愛と同じく、客観的に証明できるものではありませんので、そんな存在などいるはずがないと思っても、それは個人の自由です。

しかし、信じている人ほど、(魂の同調が進むため)援助を受けやすくなり、良い結果が出るのは確かだと思います。

見えざる存在は、たとえ信じてもらえなくても、結果的に乗り越えて成長すれば、それで満足していると思います。



願いが叶った人へのインタビューで、「自分を信じて臨みました」と言っているのを良く聞きます。

今までやって来たこと、努力してきたこと、出してきた結果から、自信を持って臨んだという意味が大きいと思います。

しかし、それだけではなく、自分を強く信じることによって、見えざる存在とのつながりが強固になり、大きな援助が受けられて、願いが叶ったと考えています。

その人の努力の結果なのですが、自分が持っている以上の力が出せて、願いが叶えられることも多くあると考えています。



私たちは、自分ひとりで生きているのではありません。

この世の人の成長を願っている、見えざる存在が常に寄り添っていて、守り導いてくれています。

見えざる存在は、自分とは別個でありながら、強く信じることで一心同体になれると考えています。

強く信じるほど、大きな力を与えてくれて、とても自分には無理と思った困難や障害でさえも、乗り越えさせてくれていると思います。







2017年9月17日日曜日

自然法則(神の摂理)の働きを知るために生きている



少し前ですが、私の先輩の奥様が、悪性の病気になっていることが判りました。

その先輩は仕事で成功し、都内の一等地に住み、家庭においてもご夫婦の仲は睦まじく、二人のお子さんがいて、どちらも良縁に恵まれ、孫ももうすぐ生まれようかと言うところでした。

全てが順風満帆で、こんな絵に描いたような幸せな人もいるのかと思っていました。

早速ですが、病気が癒やされることを祈念して、奥様に向けて遠隔ヒーリングを行いました。

ヒーリングにより、悩まされていた症状は軽快したとの報告を受けましたが、病気の進行は予断を許さない状況です。

それからしばらくして、奥様の重病に大きなストレスを受けためでしょうか、先輩も脳内出血を起こしてしまいました。

幸いにして、命には別条はなく、頭から血を抜く手術を受けることになりました。

奥様には、ヒーリングの効果を実感していただいたので、もう1度行うことを申し出ました。

返ってきた答えは、「私ではなく、主人をお願いします」でした。

ご自身が深刻な状況にもかかわらず、ご主人のことをとても心配していました。

昔から、奥様は人を助けるのが好きな人で、実は私も助けられた人間の1人です。

このメールを見た瞬間、不謹慎かもしれませんが、治らないかもしれない、向こうに行く時期が来ているかもしれないと思ってしまいました。

どんなに自分がつらく、苦しくても、他の人を思いやるような人は、この世にいる意味が薄れてきているように思えます。

心が優しく、思いやりが深く、誰からも慕われる人は、若くして逝ってしまう時があると感じています。



私たちの実体は、目に見える肉体ではなく魂です。

肉体は、魂から生じる想いを表現をするための、この世だけの媒体に過ぎません。

ピアニストがいなければ、ピアノはただの音が出る木の箱であるように、魂のいない肉体は、ただの有機体の塊であり、活力を失い土に還ってしまいます。



魂にとって肉体は重い鎧のようなもので、実に煩わしいものです。

食べなければ養えませんし、肉体的な本能を併せ持ってしまい、様々な欲に苛まれてしまいます。

人は肉体を持つと、自分が一番大切になり、他者は二の次になってしまいます。

生まれてからしばらくの間は、大きな声で泣いて、他者(親)に要求するばかりです。

泣き声がうるさくて、周りに迷惑をかけても、おかまいなしです。

大きくなり、学校に行くようになると、少しずつ周りの人のことも考えるようになります。

そうしないと、仲間外れにされたり、自分が痛い目に遭ってしまいます。

そして、学校を卒業し社会に出て働くようになり、得たお金で生活をします。

自分を犠牲にして、他者に奉仕をしなければ生きて行けないように、この世はなっているようです。

結婚も、子供を育ても、自分以外の者への奉仕に他なりません。

人生は、自分から他者を優先する行程であり、他者への奉仕によって魂は成長して行きます。

年齢とは関係なく、自分が一番大切な人は霊的に未熟であり、自分よりも他者を大切にする人は成熟していると言うことになります。

熟れた果実が木から落ちるように、成熟した魂が肉体から離れて行くのは、自然の成り行きです。



この世界は、目に見えない自然法則に支配されています。

物質が地面に向かって落ちるのは、万有引力の法則の働きによるものです。

当然のことながら、人にも自然法則が働いています。

生まれるのも、老いるのも、死ぬのも、病気になるのも、自然法則の働きによるものです。



地上の法律に背けば、罰せられます。

自然法則に背けば、その報いを受けることになり、相応の苦痛を味わうことになります。

法律と違うのは、法則の働きは完璧であり、何人も逃がれられないことです。



人は誰しも、苦痛を味わうのは嫌です。

苦痛を味わないためには、自然法則の働きを知るしかありません。

この世の中に生じている苦痛の多くは、自然法則の働きを知らない無知によって起きていると思います。



世界中で起きている戦争もそうです。

自然法則の根幹を成すのは因果律です。

因果律とは、原因を作れば必ず結果が生じ、結果には必ず原因が存在し、偶然はないと言うことです。

どの戦争にも、必ず原因が存在しています。

しかし、原因を究明せずに、起きた結果にばかり目が向けられ、報復を繰り返しているように見えます。

戦争の根本原因は、怒りや憎しみや恨みの想いと考えられます。

怒りに任せて攻撃すれば、今度は相手から攻撃されます。

自分から出たものが、因果律の働きで、自分に返ってきていているだけです。

口で言うほど簡単ではありませんが、戦争にならないためには、相手を認め、そして許し、怒りや憎しみの想いを向けないようにするしかありません。

自然法則の働きを知らないために苦痛が生じていますが、その苦痛により自然法則の働きを学んでいます。



人は死ぬと次の世界に移行します。

次の世界は、煩わしい肉体から解放され、思念を直接伝えられ、この世よりもはるかに快適です。

私たちが生きている目的は、魂(自分)を成長させるためです。

もし、次の世界が、そんな快適な世界なのであれば、そこで成長して行けば良いはずです。

なのに、何でわざわざこの世に生まれて来なければならないのでしょうか?



泳ぎ方を知らない人が、水中に投げ込まれたなら、溺れて苦しい思いをします。

苦しい思いをしないためには、泳ぎ方を身に付けるしかありません。

泳ぎ方は、教本を見ても、口で教えてもらってもだめです。

実際に、水中で苦しい思いをしながら、身に付けるしかありません。



自然法則の働きも同じです。

人に教えてもらうのではなく、自らが苦しく、痛い思いをしながら、得心しなければいけません。

この世に肉体があるのは、目に見えない自然法則の働きを、肉体を介した経験によって、魂に焼き付けるためと考えられます。

肉体のない次の世界では、苦痛が取り払われているために、自然法則の働きを身に付けるのは難しいと思われます。



自然法則は、空気のようなものです。

陸上で生活している時は、空気は目に見えず、意識しませんが、水中に沈んで息が出来なくなった時に、存在を強烈に意識します。

自然法則の働きも、平穏に過ごしている時は意識しません。

しかし、苦境に追い込まれ、助けもなく、真っ暗やみの中にいる時に、初めて意識するようになります。

水中で空気を求めるように、真っ暗闇の中で真実を求めるからです。

自然法則の働きを静かに悟り、魂は救われます。



自然法則とは神の摂理であり、神の心を体現しているものです。

全ての出来事は、神の法則の中で起きています。

神の心は計り知れない愛なので、どんなにつらく、苦しいことであっても、必ず乗り越えられます。

神の創った自然法則の働きによって、導かれているので安心して良いのです。

後で振り返った時に、大切なことを学び、大きく成長し、この世に生まれて来た目的を成就していたことを知り、感謝するはずです。







2017年9月3日日曜日

先のことを知れば生きるのが楽になる



甲子園球場で行われていた、夏の高校野球を観ました。

選手達の表情に輝きを感じましたが、最高の舞台に立つまでに、厳しい練習に耐えてきたはずです。

あまりの厳しさに、弱音を吐いたり、投げ出してしまおうと思った時も、あったかもしれません。

高校球児たちが、厳しい練習に耐えられるのは、真価を発揮できる試合という場があるからであり、練習を怠れば、良い結果が出せないことを知っているからです。

その先で、勝利の喜びを味わうためだと思います。



厳しい練習を、人生と重ねてしまいます。

生きていると、うれしいこと、悲しいこと、苦しいことなど、いろいろな出来事を経験します。

うれしい出来事であれば、ずっとこの悦びが続いて欲しいと思うのですが、つらい出来事であれば、早くこの苦しさから解放されて、楽になりたいと願うばかりです。

何で自分が、こんな苦しい思いをしなければならないのかと、憤りを覚える時もあります。

生まれた環境も良く、才能にも恵まれ、何不自由なく生活して、一生を終えて、羨ましがられる人もいます。(その人なりの苦労はしていたと思いますが)

一方、生まれた環境も悪く、苦労ばかりをして死んで行ったと、哀れみの言葉を聞くこともあります。(その人なりの幸せを感じていたと思いますが)

同じ人間であっても、人生はさまざまであり、不公平、不平等があるように思えてしまう時があります。

もし、死んで終わりならば、苦労ばかりをした人は、不幸な人生だったと言えるかもしれません。



ところで、死んだら終わりなのでしょうか?

意識がなくなり、無になってしまうと思う人もいます。

意識は存続し、その先も人生が続いていると思う人もいます。

どう思おうと、個人の自由であり、人から干渉されるものではありません。

しかし、どちらかが間違った認識をしていることは確かです。



17世紀にパスカルという有名な物理学(哲学)者がいました。

彼は、死後の世界があるのか、それともないのか、どちらか判らなかったら、ある方に賭けた方が無難だと考えていました。

その理由を、こう説明しています。

死後の世界がなければ、たとえ死後がある方に賭けていても、無になってしまうので負けにはなりません。

死後の世界がない方に賭けて、もしあったとしたら、賭けに負けたのをはっきりと意識することになります。

誤った認識で生きていたことになり、後悔すると考えたようです。



残念ながら、死の先がどうなっているのか、客観的に明らかにすることは出来ません。

けれども、明らかにされないからと言って、否定するのはあまりにも愚かです。

それは、生命の本質は(科学的に)明らかにされていなので、生きていることを否定するようなものです。



個人的な意見を言わせていただければ、これまでの経験により、死後の世界があるのは、揺るぎのない事実です。

あるのにもかかわらず、なぜ明らかにされないのか、つい考えてしまいます。

死後は、肉体から解放され自由になり、生命(魂)が光り輝いている世界と言われています。

一般的に、苦しみや悲しみはなく、衣食住の心配もなく、争いも起こりません。

想像するのが難しいかもしれませんが、想い(思念)が直ちに具現化する世界、別の言い方をすれば夢が叶う世界です。

平穏で明るく夢が叶う死後の世界と、苦痛の多いこの世界の、人はどちらを選ぶのでしょうか。

ほとんどの人は、前者を選択するでしょう。



でも、この世界を生きるのをやめて、死後の世界に行こうとはしません。

その大きな理由は、自分の中の何かが抵抗し、死後の世界が明らかにされていからです。

もし、明らかにされたなら、かなり多くの人が、この世の人生を中断して、あの世に行くことでしょう。



では、なぜ死後の世界での快適な生活を捨てて、苦痛の多いこの世に生まれて来るのでしょうか?

その理由は、自分(魂)を成長させて、大切なことを学ぶためです。

苦しみや悲しみを経験することにより、魂が成長するように、自然法則がなっているからです。

他者に愛を表現することで、魂が成長するように、自然法則がなっているからです。



苦しみや悲しみや争いのない、死後の世界は快適ですが、この世界の方が魂がより大きく成長し、多くのことを学べると考えられます。

手ぬるい練習より厳しい練習の方が、体が鍛えられ、野球が上手くなるように、この世で苦しく、悲しい出来事を経験した方が鍛えられ、魂は大きく成長します。

死後の世界には存在しないものを、この世界で経験することにより、目に見えない大切なことを、深く学んでいます。

戦争を経験した人は、平和や許しについて深く学んでいます。

病気を経験した人は、生命について深く学んでいます。

別れを経験した人は、愛について深く学んでいます。



この世界で学び、大きく成長するために、自分の意志で、この人生を選んで生まれて来ているのに、中断して戻ることは許されません。

自分自身にした約束を破ることになり、自然法則が厳格に働いて、相応の償いをしなければいけなくなります。



死んで無になるのであれば、人生に苦しいことは無用です。

とにかく、楽しく生きれば良いはずです。

立ちはだかる困難や障害など、避けて通れば良いはずです。

つらくて仕方がない時は、命を絶って無になる選択も、許されるはずです。



無になってしまうと思う人は、そんな生き方をしているでしょうか?

苦難から逃げるのは嫌で、何とか乗り越えて行こうとする人が多いと思います。

なぜ、無になってしまうと思っているのに、苦難を乗り越えようとするのでしょうか?

それは自らの中に、人生の苦難を乗り越えて、成長しようとする根源的な欲求があるからであり、それに逆らうことに抵抗を感じるからだと思います。

成長して行くように定められていて、留まっていることに苦痛を感じるようになっているからだと思います。

この世界での経験を通して、成長して、教訓を身に付けなければならないことを、深い部分で知っているからだと思います。



この世界に暮らす人たちの、霊性の高さ(魂の成長度)はさまざまであり、見た目では判りません。

死後の世界では、肉体は取り払われ、魂が剥き出しになり、個々の霊性は一目瞭然となります。

完全な界層社会であり、同じ霊性の高さの者同士が、一緒に暮らしています。

自分より高い界層には行けず、低い界層には行けますが、行く気にはならないようです。

高校球児にとってプロはレベルが高く通用せず、かと言って中学生と一緒では物足りなくなってしまい、結局、同じレベルの者と野球をするのと同じです。

霊性の高い者、叡智を身に付けた者が、自然法則の働きにより上に位置します。

上に位置する者は、より愛を表現する者であるため、水が流れるがごとく、上から下へと神の愛が行き渡ることになります。

一方、この世界はどうでしょうか?

上に位置する者は、権力を有する者、富を有する者であり、そのために神の愛はせき止められてしまい、愛に飢えている人が世界中に溢れています。

霊性とは神性であり、他者を愛する行為の中で高められます。

この世界は、愛に飢えている人で満ち溢れているので、自らの霊性を高める行為をしようと思えば、いくらでも出来ます。

だからこそ、成長する機会に恵まれたこの世界に、生まれて来ます。



この世界に困難や障害が多いのは、経験を通して成長するためです。

実際に経験しなければ、学んだことは身に付きません。

人生のつらい出来事は、不幸なことで終わってしまうのではなく、魂を成長させて、生まれる前にいた界層より、高い界層に上がることにつながっています。

学んだことは、そこでの生活に活かされます。



厳しい練習に意味を見いだせなければ、体を酷使しているようにしか思えず、つらく感じるだけです。

それと同じで、先のことが判らず、人生の試練に意味を見出せなければ、生きるのがつらくなってしまいます。

厳しい練習をした人ほど、試合で勝った時の喜びは大きくなります。

人生においては、大きな苦難を乗り越えて来た人ほど、死後の世界で成長した悦びを味わいます。

完全な公平、公正が保たれていて、苦難は全て報われます。



先のことを正確に知れば、生きるのがもっと楽になります。




2017年8月20日日曜日

苦難は悦びの種



小学生の時でしょうか、音楽室に入ると、たくさんの肖像画が壁の高いところに飾ってありました。

バッハ、シューベルト、ブラームス、ショパン、モーツァルト、その中に、少しこわい顔をした人物がいました。

ベートーヴェンです。

何で1人だけにらみつけるような形相をしているのか、その時は判りませんでしたが、眉間に刻まれたしわに、彼の苦難に満ちた人生が表れているように思います。



ベートーヴェンは1770年、ドイツのボンに生まれます。

父親は宮廷お抱えの歌手で、祖父も楽長を務めた音楽一家でした。

しかし、祖父が亡くなると生活は貧窮して行きます。

父親はウィーンで一世を風靡していたモーツァルトのように育てようと、ベートーヴェンに苛烈なスパルタ教育を施します。

10歳で小学校を退学して音楽に専念することになり、14歳で宮廷のオルガニストに任じられます。

17歳の時に、モーツァルト(当時31歳)に会うためにウィーンに赴き、憧れの音楽家の前で演奏する機会を得ました。

ベートーヴェンは作曲家として知られていますが、天才的なピアニスト(オルガニスト)でもありました。

その演奏を聴いて、モーツァルトは弟子入りを許すと共に、才能を高く評価し「彼の名を覚えておきなさい。いずれ世界がその名を知ることになるだろう 」と、言ったそうです。

しかし、弟子入りする直前になって、最愛の人であった母親の病気が悪化して、帰郷しなければいけなくなります。

そして、母親の最期を看取った後、20歳の時に再びウィーンに戻ります。

モーツァルトは35歳の若さで亡くなったため、ハイドンの元で音楽の修行をしていましたが、しばらくして演奏会を開いたところ、ウィーンの貴族たちから拍手喝さいを浴びて、名声を高めていきます。

しかし、28歳の時に思いもしなかった、苦難がベートーヴェンを襲います。

音楽家としては致命的な、聴覚障害が起きたのです。

そのことを人に知られないために、家に引きこもるようになりました。

そんな中、30歳で最初の交響曲である第1番を書き上げました。

31歳の時に、ピアノの教え子であるジュリエッタ・グイチャルディ(16歳)と恋に落ちます。

しかし、彼女は貴族階級であるために、身分の差により結婚は叶いませんでした。

その後、難聴が徐々に進行して、絶望感が頂点に達した32歳の時に命を絶とうとします。

しかし、芸術への思いから、どうにか自殺を思い留まります。

苦渋の決断の末、ピアニストとしての活動を諦め、作曲活動に専念することになります。

34歳の時に作曲した、交響曲第3番「英雄」は、フランス革命を成し遂げたナポレオンに捧げたものであるのは有名です。(後にナポレオンは皇帝の位に就いたので、ベートーヴェンは激怒します)

その後10年間に、5つの交響曲、数々の優れたピアノやヴァイオリンの協奏曲、そしてピアノソナタを、次々と世に出して行きます。

しかし、難聴が急速に進んでいき、40代半ばからはほとんど聴力を失っていたようです。

そして、後継者として考えていた甥であるカールの養育権を巡る長い裁判などもあり、いろいろなことに頭を悩ませていました。

交響曲第8番から長い時を経て、54歳の時にかの有名な「第9」を世に出します。

その後、養育していたカールと意見が対立し、カールはピストル自殺を図ってしまいます。

奇跡的に一命は取り止めたものの、ベートーヴェンは大きな精神的ショックを受けます。

すっかり気弱になったベートーヴェンは、肺炎になったのをきっかけに、肝臓病も悪化し、56歳の若さでこの世を去ります。

葬儀にはウィーン市民2万人が見送ったそうです。

作曲家として多大な賞賛は受けましたが、あまりにも苦悩に満ち溢れた人生だったと感じざるを得ません。



ベートーヴェンは、後世に遺る楽曲を作るのを使命として、この世に生まれて来たのは間違いありません。

18世紀のヨーロッパ社会では、音楽に携わる家庭環境に生まれない限り、作曲家になるのは極めて困難と考えられます。

祖父や母親が早く亡くならなければ、ベートーヴェンの音楽の方向性は全く違うものになったと予想されます。

恋人との身分の差に苦しむことがなかったら、有名な「月光ソナタ」も生まれなかったでしょう。

彼の生まれ持った、誰にも媚びない性格により、貴族たちの使用人としての音楽家の地位をあっさりと捨てて、音楽家として自立することが出来ました。

そのため、ヨーロッパが王族や貴族の支配から民衆が中心になって行く大変動の時期に、ベートーヴェンは革命的な音楽を通して、自由、平等、博愛の精神を、強く訴えることが出来たと思います。

そして、聴力を失い、音楽家として絶望の淵に叩き落されることになりますが、作曲活動に人生の全てを捧げることになりました。

最高の喜びが、「第九」という音楽に表現されていますが、ベートーヴェン自身が極限の苦難を乗り越えたからこそ、この曲が生まれたと思います。

ベートーヴェンがこの世に遺したものは、彼の生い立ちや人生の出来事と密接に関係していて、どれ一つとして欠けてはいけないと考えられます。



人生の苦難や苦悩を乗り越えていく過程が、ベートーヴェンの曲に表現されていて、苦難とベートーヴェンは不可分の関係だったと言えます。

絶望の果てに命を絶とうとして、思い留まった時に2人の弟に向けて手紙(遺書)を書いていますが、その中にこんな一節があります。

「私は自分が果たすべきだと感じている総てのことを成し遂げないうちに、この世を去ってゆくことはできないのだ」

絶望の果てに死を垣間見た時に、天命を悟って出た言葉だと思います。


ベートーヴェンはこうも言っています。

「ぼくの芸術は、貧しい人々の運命を改善するために捧げられねばならない」


また、人生経験からこんな言葉も遺しました。

「人間はまじめに生きている限り、必ず不幸や苦しみが降りかかってくるものである。
しかし、それを自分の運命として受け止め、辛抱強く我慢し、さらに積極的に力強く、その運命と戦えば、いつかは必ず勝利するものである。」


こんな力強いことも言っています。

「神がもし、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、私は運命に立ち向かう。」


そして、苦悩について、こう考えているようです。

「不死の心を持つ我々人間は、苦悩と歓喜の為だけに生まれる。
その中で最も優れた者は、苦悩を突き抜けて、歓喜を勝ち得ると言えるだろう。」

魂は苦悩と歓喜その両方を味わうためにこの世に生まれ、苦悩(難)は実は喜びにつながっていることを、音楽を通して伝えたかったと思います。



もし、ベートーヴェンが人生の苦難を、偶然降りかかって来るものと思っていたのなら、不運を嘆き、運命を呪い、人生を投げ出してしまったかもしれません。

そうではなく、苦難は神から与えられたものであり、偉大な創造のための必然であると確信していたので、果敢に立ち向かいながら、命が尽きるまで作曲し続けたと思います。

人々に喜びを与える音楽を作ることが、自分に与えられた使命だと考え、幾多の苦難は自分の運命と受け入れ、強い意思で乗り越えて行ったと思います。

乗り越えて行くことで魂は向上し、更にふさわしい困難が生じて、またそれを乗り越えることで魂は向上浄化され、より次元の高いインスピレーションを受けるようになって行ったと思います。

ベートーヴェンの曲は全人類に向けた、愛と平和と勇気のメッセージであると共に、想像を絶する人生の困難を乗り越えてきた作曲家自身に与えられた、神からの祝福でもあると思います。



多くの人は、ベートーヴェンに困難や障害が襲い、その結果、数々の曲が生み出されたと思っているでしょうが、それは違うと思います。

苦しんでいる、悩んでいる人間を鼓舞する音楽を世に送り出すために、ベートーヴェン自身が深い苦悩を経験する必要があり、そのためにこの人生が用意されていたと、私は思います。



ベートーヴェンに降りかかった苦難は、多くの人の魂を音楽を通して癒すためにあったと考えていますが、偉大な芸術家だけではなく、全ての人に苦難は与えられていて、同じ様に立ち向かって行かなければならないのだと思います。

ベートーヴェンの苦しみは楽曲に昇華されましたが、この世の苦しみを経験した人は、魂の強さとなって昇華されていると思います。

その経験は、先になって人のために役立つのだと思います。



苦難から救い出してくれるのは、苦難の末に自らが見つけ出した真実しかないのかもしれません。

真実を見付け出した瞬間、苦しみは悦びに変わると思います。

人生の苦難は、真実を見つけ出すために生じていて、見付け出した真実が人を豊かにし、心の平和をもたらし、魂の財産になると思います。

この世で学び、成長するとは、その様なことを指すのかもしれません。



もし、人生で起きる出来事が偶然であるならば、生まれたのも、死ぬのも偶然であり、生きている意味など、どこにも見つけられません。

そうではなく、全ての出来事は自然法則に従って生じているのであり、その法則の働きが見えないために、偶然として片付けてしまっているだけだと思います。



人は成長するために、この世に生まれて来るのであり、そのために苦難というものが、どうしても必要です。

成長とは、自然法則を創った偉大な存在に近づくための行程であり、より高く、より強い愛を表現するためにあると思います。



苦難とは成長の種であり、後に悦びの花が咲きます。

苦難が大きいほど、魂は大きく成長し、悦びも大きくなります。






2017年8月6日日曜日

この世の苦しみの意味



子供の時、学校にはいろんな子がいました。

勉強ができる子、走るのが速い子、野球が上手い子、歌うのが得意な子など、自分より秀でた面を持っている子がたくさんいました。

また、親切な子、正義感が強い子、面倒見の良い子、意地悪な子、嘘をつく子など、さまざまな個性や特徴を持った子にも会いました。

そんな子と、友達になって遊んだり、時にケンカをしたりしました。

わがままや嘘を言ったりすると、仲間はずれにされました。

困っていたら、助けてくれたこともありました。

競い合ったりもしました。

自分と考えが違うの子がいても、学年が上がるに従い、認められるようになりました。

もまれながら、1番大きく成長していたように思います。



この世は学校と良く言われます。

生きていると、自分にはない面を持った人、欠けている面がある人、色んな人に出会います。

出会いたかった人もいれば、できれば出会いたくなかった人もいます。

そんな人たちに囲まれながら、生きて行かなければいけません。

生きて行くための智恵を、少しずつ学んでいると思います。

人生は、さまざまな出来事が起こります。

うれしい出来事もあれば、悲しい出来事もあります。

つらい出来事もあれば、楽しい出来事もあります。

うれしい出来事や楽しい出来事ばかりであれば良いのですが、そうは行きません。

でも、後になって考えてみると、出来れば避けたい出来事の方が、何か大切なものを学んでいるような気がします。

やはりこの世は、子供の時の学校と同じ様に、知識を吸収し、人や社会にもまれ、さまざまな出来事を経験しながら、何かを学ぶためにある学校なのかもしれません。



霊的な知識が増えるのに従い、死んだ後に行くあの世はどんな世界なのか、少しずつ判るようになってきました。

この世の苦痛から解放された世界です。

食べるために働く必要もありません。

苦手な人と会うこともありません。

肉体がないので、もちろん病気にもなりません。

自分の想ったことが、直ちに具現化されます。

何もかもが快適な世界です。



そんな快適な世界から、苦しみや痛みのあるこの世に、人はなぜ生まれてくるのでしょうか?

しかも、強制的ではなく、自発的に生まれて来ると言われています。



この世に生まれてくる目的はただ1つであり、自分(魂)を成長させるためです。

自分に足りない面を補うためです。



この世ではなく、快適なあの世で学びながら成長できればと、つい考えてしまいますが、そんな訳にはいかないようです。

あの世は、この世と違い、同じレベルの人(魂)が集まって暮らしています。

本質が似ているので、想うこと、考えることもほぼ同じです。

そのため、争いも、競争も生まれません。

皆、平和に過ごしています。

人は、降りかかる困難や障害を乗り越えて行くことで、成長します。

何もかもが快適なあの世では、困難や障害が生じ難く、魂を大きく成長させることは難しいようです。



魂を成長させるのは、人の定めのようです。

自分を大きく成長させるために、覚悟をしてこの世に生まれて来るようです。

けれども、自ら進んで困難の中に飛び込んで行ける人は、極めて少ないと思われます。

そこで、魂を成長をさせるためのシナリオが用意されます。

そのシナリオに沿って、困難や障害が生じるようになっています。

この世に生まれて来る限り、困難や障害のない人生はあり得ないと言うことになります。

どんなに苦しくても、自分が大きく成長し、足りない面を補うために、最も適した人生を送っているはずです。



人は生きていくのが苦しくなるような困難や障害に出会うと、思わず逃げ出したくなります。

しかし、その気持ちを抑えて、何とか生きて行くことで、魂は大きく成長しています。

生まれる前の自分は、逃げ出したくなるような困難や障害が、自分が成長するために起きることを承知していました。

それが神の計らいにより、記憶から消されました。

もし記憶していれば、途中で逃げ出してしまう人がいるからです。

不幸になったのではなく、この世に生まれた目的を成就しようとしています。

乗り越えられる困難しか与えられないと、良く言われますがそれは正しく、自分が乗り越えられると判断した困難なので、必ず乗り越えられるはずです。



困難や障害に出会った時に1番大切なこと、それは逃げ出さず、正面から立ち向かうことです。

自分(魂)に正直になることです。

何故、自分に正直に生きないといけないのでしょうか?

後で後悔することになるからです。

どうして後悔するのでしょうか?

死んだ後に、振り返る時が来るからです。

この世に生まれてから死ぬまでの間、どんなことを想い、どんなことを言い、どんな行いをしたのか、全人生がスクリーンのようなものに映し出され、それを見せられるからです。

正直になれず、嘘をついている自分を見て、後悔するからです。



このブログにも書きましたが、10年以上前に、今までに経験したことない出来事が私に起きました。

その出来事から逃避する選択肢もありましたが、自分に正直になり、正面から受け止めました。

その結果、多くのものを失いました。

でも、それで良かったと思っています。

自分に嘘を付いて逃げていたのなら、何も失わず、何も変わらずにいたでしょう。

一瞬の幸福を感じたと思います。

そんな出来事が過去にあったことさえ、忘れてしまうでしょう。

しかし、死んだ後に、この世を振り返る時が訪れます。

それまで忘れていた、嘘を付いている自分を見せられ、極めて強い後悔の念に襲われると思います。

大して価値のないものを、必死に守ろうとしている自分を見て、大いに恥じるでしょう。

プライドを守ろうとして、魂を汚してしまったことに気付き、後悔するでしょう。

この世的なものを失わなかった代わりに、大切なもの(霊的真理)を手に入れる機会を失ったことに気付き、地団駄を踏んで悔しがることになるでしょう。

正直に生きた結果、屈辱的で挫折的な結末を迎えた出来事でしたが、どん底で本当の自分(魂)が目覚めました。

嘘をついたら、それまで追い求めてものは失わなかったかもしれませんが、目に見えない最も大切なものを掴み損ねていたでしょう。

正直に生きていれば、物的なものを失うかもしれませんが、それに見合う、霊的なものを必ず手に入れると思います。



困難や障害は、どんな人にも必ずやって来ます。

大切なことは、苦しくても、逃げ出さないことです。

逃げ出したら、後で逃げ出した自分を見て、後悔します。

後悔が大きいと、もう1度、同じ様な状況になる、困難や障害のある人生を選んで、この世に生まれなければいけないかもしれません。

苦しみは、成長するため、大切なことを学ぶために予定されていたので、逃げてはいけません。



出来れば、苦しみのないあの世(霊界)に、ずっといたいと思う時があります。

そんな願望がある内は、またこの世に生まれなければいけないのかもしれません。

シルバーバーチも言っていますが、進化した霊(魂)は、苦しみを苦しみとして感じないようです。

そして、一定以上進化すると、霊界だけで成長して行くようになるようです。

もしかすると、進化するほど、苦しみを悦びとして感じられるからなのかもしれません。

苦しみを、成長する悦びとして感じるほど進化した魂は、この世に生まれて来る必要は、もうないのかもしれません。






2017年7月23日日曜日

苦痛の意味



食事をしている時に、食べ物が予想外に苦かったら、思わず、吐き出してしまいます。

これは生体の防御反応の一種であり、苦く感じるものは、人体に有害なものが多いと、私たちは認識しているからです。

虫歯になると歯が痛くなるのは当然ですが、痛みを感じることで歯に異常があることを知ります。

無痛(無汗)症という病気があります。

この病気は、生まれつき痛覚が働いていないために、痛みを全く感じません。

注射する時も、けがをしても痛くないので、悪い病気には思えないかもしれませんが、とんでもありません。

大けがをしても、全く痛みを感じないので、大出血や感染症を起こして、死に至ることもあります。

苦痛を感じるのは誰でも嫌です。

しかし、自分に異変が起きているのを知るために、絶対に必要なものです。



人は生きていると、さまざまな出来事に遭遇します。

楽しい出来事ばかり起きれば良いのですが、そんなわけには行きません。

嫌な出来事も、挫折を味わう出来事も、悲しい出来事も起きます。

出来事を経験した時、自分の中にさまざまな想いが生じます。

悦び、悲しみ、怒り、憎しみ、そして友愛、不信、絶望、言葉に表現出来ないような想いも、たくさん生じています。

もし、起きた出来事に苦しんでいるのであれば、(その出来事によって)生じた想いによって苦しんでいる可能性があります。



怒りや憎しみ、嫉妬などの想い(感情)を抱くのは、決して快いものではありません。

苦痛のようなものを、同時に感じてしまいます。

苦痛として感じるのは、それらの想いが自然法則(神の摂理)に反しているためと考えられます。

抱いてはいけない想い、手放さなければならない想いなので、苦痛として感じるのだと思います。



病気の苦痛は、誰でも避けたいものです。

病気の原因は、霊的次元、精神的次元、肉体的次元に存在します。

肉体的次元に原因がある病気の苦痛は、身体の異変を知らせる意味があります。

霊的次元に原因がある病気の苦痛は、自然法則に反した想いを抱いているにも拘わらず、精神的苦痛として感じなくなってしまったため、因果律の働きにより肉体的な病気を生じさせ、その苦痛を通して、霊的次元(魂)の異変を知らせていると考えられます。

苦痛の源は、魂にあると言えます。

自然法則に反した想いを溜めているため、本来の自分(魂)の想いを表現できなくなっています。

憎しみの想いを溜めていて、人に優しくすることはできません。

不信の想いを溜めていて、人を愛することはできません。

そんな想いに気付かず、自分ではどうすることも出来なくなると、神の摂理(因果律)が働いて病気が生じます。

人生には、予定されているシナリオがあります。

本来の自分の想いが表現できくなると、シナリオに沿って生きられなくなり、予期した成長が得られなくなります。

苦痛は、魂を目覚めさせます。

魂が目覚めると、内にある想いが解放され、本来の自分の想いを表現できるようになり、再び成長が始まります。

苦痛には、魂を成長させる方向に導くという、大切な意味があります。



自分に起きた出来事を、正しく捉えなければ、苦痛が生じてしまいます。

全ての出来事は、自然法則の働きによって起きています。

たとえ、どん底に突き落とすような出来事であっても、法則の働きにより起きています。

それを、偶然や不運と捉えてしまうと、苦しみとなります。

自分を成長させるために起きていると、正しく捉えることにより、苦しみから免れます。

人に裏切られたり、傷つけられたりすれば、怒りや憎しみの想いが生まれてしまうのは、仕方がないような気がします。

しかし、そんな想いに捉われていると、成長することが出来なくなります。

それでは、怒りや憎しみの感情に任せて、相手に同じ苦痛を味わせてしまったらどうでしょう?

苦痛からは解放されますが、自身の霊性を下げてしまいます。

その失地を回復するために、新たな苦痛を経験しなければいけなくなります。

では、苦痛から免れるためには、どうすれば良いのでしょう?

対象を許さなければいけません。

しかし、許すのは決して容易なことではありません。

それでも、許すしか方法はありません。

もし許すことができたなら、自己犠牲によって愛を表現したことになり、自身の霊性は向上します。

全ての出来事は、魂を成長させる方向に、転化することが出来ます。

憎しみを表現すれば霊性は下がり、許すことで愛を表現すれば向上する、人はどちらでも選択できます。

神は、どんな出来事が起きても、憎んだり、恨んだりしてはいけないと、苦痛を通して私たちに教えているような気がします。



この世界に、無駄なものは、意味のないものは何一つ存在しません。

全く不要とも思える苦痛でさえも、意味があります。

苦痛を感じないことは、実は自分(魂)にとって危険なことです。

苦痛を感じなければ、過った方向進んでいることに気付けません。

苦痛は、正しい方向、安全な方向に導くと言う、明確な意味を持っています。



人は誰でも、苦痛から逃れたいです。

苦痛から逃れるために、その出来事が起きた意味に気付かなければいけません。

気付くことで、その出来事から大切な教訓を学んだことになります。

苦痛は、魂を成長させ、大切な教訓を受け入れる土壌を整えて行き、教訓を学んだら、今までの苦しみから解放されることになります。

何故なら、教訓を学ぶために、神の法則の働きにより、その出来事が起きていると思われるからです。

どんな出来事であっても、神の叡智(愛)により創られた計画によって起きているので、全く心配は要らないのです。



怒り、憎しみ、不信、絶望などが生まれると苦痛として感じるのは、それらの想いが自らの成長を妨げるからです。

愛する気持ち、信じる気持ち、希望を見出すと悦びとして感じるのは、それらの想いが自らの成長を促すからです。

神は、苦痛と悦びにより、私たちをより高い次元へと導いています。






2017年7月9日日曜日

愛するために信じる



日本人は海外の人から、良く無表情と言われています。

アメリカに行くと、初対面の人に握手を求められますが、その時の相手の表情は決まって、口角が上がり前歯を見せた笑顔です。

その方が、確かに安心するのですが、自分が真似しようとしてもなかなかできません。

日本は、ほぼ単一民族国家であり、笑顔を見せなくても、生活をして行く上で支障はありません。

一方、アメリカは多民族国家であり、話す言葉や文化が出身国によって大きく違うため、意志の疎通が上手く行かない時代があったと思われます。

身の危険を感じさせてしまえば、銃の所持が許可されているので、命の保障はありません。

知らない相手には、まず敵意がないことを伝えておく必要があり、自分を信じてもらうために笑顔を強調するようになったと聞きました。



子供の頃に、人を信じることが大切だと、何回も聞かされましたが、その真意は判りませでした。

確かに、誤解が生まれて友達が信じられなくなると、ケンカになり易くなったと思います。

世界中で戦争が起きるのは、お互いを認め合い、許し合うことが出来なくなったせいですが、元をたどれば、相手を信じることが出来なくなったためだと思います。



家族の間で問題が起きた時に、「こんなに、あなたのことを思っているのに、どうしてなの?」と、嘆く人の言葉を聞きます。

どんなに思って(愛して)いても、お互いに信じていなければ、想いが通い合うことはありません。

問題が起きたのは、相手の想いが判らなかったためであり、それは信じ合えていなかったからなのかもしれません。

他者との関係で、苦しい思いをしてる人ほど、相手を信じていないのかもしれません。



信じることで、相互の間に、つながりが出来ると考えられます。

つながりを通して、相手に自分の想いが伝わると思います。

喩えて言えば、相手に伝える想いが「水」であれば、信じることは「水路」のようなものになります。

水路があって、初めて水が流れます。

いくら想いがあったとしても、信じ合えていなければ、想いは通いません。

相手を信じなければ、想いは行き場を失ってしまいます。

行き場を失った想いは、苦しみや悲しみとなって、自分に返って来てしまいます。

苦しくなったり、悲しくなってしまうのは、もしかしたら、相手を信じていないからなのかもしれません。



なぜ、信じないと、苦しみや悲しみを味わうことになってしまうのでしょうか?

信じないことが、神の摂理(自然法則)に適っていないからと考えられます。

神が望んでいるのは、愛し合うことです。

信じなければ、愛し合うことができないので、生きる意味を失ってしまい、苦しみや悲しみとなってしまうと考えられます。

人は誰でも苦しみや悲しみを味わいたくありませんので、神の摂理のの働きにより、やがて信じるようになって行くと思います。



魂の存在を、信じない人がいます。

信じる、信じないは、個人の自由ですが、もし、信じない人が愛する人を失ったら、どうなるでしょうか?

その人にとって、死は永遠の別れを意味します。

愛しているほど、起きた現実に耐えられなくなり、生きるのが苦しくなってしまうでしょう。

苦しくなるのは、永遠に会えないと事実誤認をしていて、それを改めるように、神の摂理が働いているためと考えられます。

誤りを正せば、今の苦しみから解放されると考えられます。



死によって、肉体は無くなっても、魂は存続しています。

魂から想いは生まれているので、生前の愛する想いは、変わることなく続いています。

もし信じなければ、亡くなった人から今も想いが届いていることに、気付くことはありません。



人にとって、悲しく、つらいことは何でしょう?

それは、自分が愛する人に、信じてもらえないことだと思います。

魂の存在を信じない人は、亡くなった人の存在と、想いを信じていません。

悪意はないのですが、亡くなった人を無視し、想いを拒否していることになります。

亡くなった愛する人が、どれほど悲しく、つらい想いをしているか、思いもしていません。

信じようとしない頑固さにあきれて、それが続けば失望に変わってしまい、想いを届けるのをあきらめてしまうかもしれません。

見えないから、存在しないという誤った考えは、あの世とこの世の双方に、無用な悲しみと苦しみをもたらすだけなので、直ちに捨て去らなければいけません。

魂の存在を信じなさいと言われても、にわかには信じられるものではありませんが、信じない限り、いつまでも苦しみから逃れることが出来ません。

信じる者は、(苦しみから)救われるのは事実です。



この世からいなくなった事実は、変えられません。

悲しさ、寂しさが、無くなってしまうことはないでしょう。

しかし、誤りを改めることで、和らげることは可能です。

慰めや、励ましではなく、あの世で生きていて、この世の人に想いを伝えようとしているのは、紛れもない事実です。

姿は見えなくても、あなたが想った瞬間、傍に来ています。

愛する想いは、あの世の魂を引き付ける力だからです。



愛する人の想いがいつまでも届かないのは、あなたが魂の存在を信じ切れていないからなのかもしれません。

頭で考えてはいけません。

五感に頼ってはいけません。

この世に生きている時は、あなたへの愛を肉体的表現により証明出来ましたが、肉体を失った今、それが叶わないことを、どうぞ判って下さい。

証明されなくても、信じるようにして下さい。

あなたに、信じてもらうしか術がないのです。

信じてもらわなければ、想い伝えようにも、伝えられないのです。

愛しているので、想いを伝えたくて仕方がないのです。

何かを感じたら信じるのではなく、この世の人が先に、亡くなった人の存在と想いを、心から信じなければいけません。

今は、信じるのが難しいのであれば、あれほどまで愛してくれた人が、いなくなってしまうはずはないと強く思って下さい。

悲しみ、苦しみの後に、真実を受け入れて、信じられる時がきっと来ます。



この世を生きる意味は、目に見えない大切なものに気付くことかもしれません。

愛より大切なものは、この世に存在しません。

信じ合えば、愛し合うことが出来ます。

強く信じる者が、強く愛し合うことが出来ると思います。

信じることの意味を深く学び、大きく成長して行くために、今生に別れがあるのかもしれません。



違いを乗り越えて、愛し合うために、全ての人は生きています。

ばらばらになったものが、再び1つになるために、私たちは信じ合わなければいけません。