2024年1月28日日曜日

霊的につながっている


一昔前、離れた人に連絡する手段は手紙か電話でした。

今は、電子メールによって世界中の人に瞬時に伝えることができます。

どのような仕組みでメールが届くのか良く分かりませんが、技術の進歩には驚かされるばかりです。



18年前、ヒーリングの力が左手から出ていることに気付きました。

それから縁のある人に行って来ました。

ヒーリングには、手で触れて行う直接ヒーリングと、離れている人に行う遠隔ヒーリングがあります。

アドレスを知らなければ、メールは決して届きません。

住所も名前も分からない遠く離れた人に、ヒーリングの力が届くとは思えませんでした。



しばらくして、初めて遠隔ヒーリングをする機会が訪れました。

対象となったのは、数百キロ離れたところにいた、末期のガンの猫でした。

依頼主である知り合いの飼い主に、午後11時からヒーリングを行う旨を告げました。

30分位前に、静かな部屋に行き、ヒーリングの力が届くことを祈念しました。

左手指先から力が流れて行くのを感じましたが、上手く届いたかのかはこちらには分りません。



後日、以下のようなメールを飼い主からいただきました。(許可を得ていますので原文のまま掲載します)

「妹から連絡があり、ネコの様子を知らせてきましたので、お送りしますね。妹と母がねこのそばにいました。妹がねこのうしろから見ていたら、ねこの耳がぴく、ぴくって、したそうです。その時、ちょうどPM11:00だったそうです。そのあと、妹がねこを正面から見ていたら、眉毛とか顔が、チックみたいにぴくっ、ぴくって・・・こんなの、見たことない、って、言ってました。そして、しっぽが「の」の字を1回描いて、それがPM11:16頃。そのあと、顔のぴくぴくや、しっぽに、このような現象は、全く起きていないそうです。その後、寝返りを打とうとしたり、フラフラですがなんとか立ち上がって、ちょっとの距離ですが、よろよろと歩いたそうですよ!!また報告しますね。ありがとうございます。」

このメールを受け取り、離れていてもヒーリングの力は届くことに、いたく感動したのを覚えています。

その猫ですが、ご家族に囲まれて穏やかなひと時を過ごして、向こうの世界へと旅立って行きました。



情報のあるなし、種に関係なく、ヒーリングの力が届くことが分かりました。

メールは、携帯やパソコン同士がインターネット回線でつながっているので届きます。

同じように、人と人(動物)の間には目に視えないつながりがあって、そのつながりを通して、ヒーリングの力が届いています。

地上の概念とはかけ離れたプロセスでヒーリングが行われていると推察されますが、魂に力を受け取る受容器のようなものが存在していると思います。



霊界は、テレパシーの世界と言っても良いと思います。

特定の相手に思念が届くのは、思念の受信器が人に備わっているからです。

地上の人と霊界の人の違いは、肉体があるかないかだけです。

当然のことながら、地上の人にも思念の受信器は備わっています。

けれども、五感に頼った生活をしているので、ほとんどの人は気付いておらず、活用もしていません。



地上の人には、一生涯に渡って同じ守護霊が付いています。

予定されている人生を歩んで、成長して行くように導いています。

地上の人が誤った方向に進みそうになると、守護霊は思念を送って気付かせようとしています。

地上の人が思念を受け取ると、そちらに進みたくない根拠のない衝動に駆られます。

思念の受信器の感度は鈍くなっているのですが、ほとんどの人は守護霊との連絡はかろうじて取れていると考えられます。

つながりを信じるほど、地上の人は守護霊の恩恵を受けることができます。



霊界とのつながりは、それだけではありません。

物理学者のアインシュタインや画家のダリは、「鍵の昼寝」を実践していたと言われています。

鍵を手に握って、椅子(ソファ)に腰かけます。

そこで、リラックスして意識が落ちるのを待ちます。

意識が落ちると、手から鍵が滑り落ちて、床に落ちます。

その音で目を覚まします。

意識が落ちた瞬間は、五感の束縛はなくなります。

それに代わり、思念の受信器が働き出します。

彼らは、意識が落ちた時に、霊界からインスピレーションが得られることを、経験的に知っていたと考えられます。



科学や芸術におけるインスピレーションの多くは、霊界の人たちから授けられます。

私が好きな作曲家であるグスタフ・マーラーはこう語っていたそうです。

「その夜 眠っている時に、私の耳は ベートーヴェンか ワーグナーの 大きな叫び声をたしかに聞いた。『ホルンを三小節後に鳴らせ ! 』 「ああ、そうか。わが耳を疑うことはなかった。なぜなら、それこそ 作曲中で行き詰まっていた 私の第3交響曲のとある個所にとって、この上なく素晴らしくシンプルな解決方法だったからだ 。」

想いを共有する者との間で、同調が成立すると、インスピレーション(思念)が伝わって来ることがあります。



眠っている時は(五感が働いていないので)霊界の人たちは思念を伝えやすいのですが、いかんせん起きたら忘れてしまうことがほとんどです。

その点「鍵の昼寝」は忘れすに済むので、理に適っています。

最も美しい方程式の1つと言われる「E=mc²」は、もしかしたら昼寝をして閃いたのかもしれません。

眠りから覚める寸前に、イメージや言葉や概念が浮かんで来たら、それは霊界からのメッセージである可能性が高いと思っています。



亡くなった人が、夢に出て来ることがあります。

そんな時は、実際に会っていることが多いと考えられます。

眠っている時、魂は肉体から離れて、霊界に行っています。

そこでは五感はなくなり、霊的な感覚器によって、霊界にいる人の姿や思念を感識できるようになります。

思念を感識できても、地上の言葉に変換できなければ、何を伝えたのか、頭で分からなくなります。

起きたら忘れてしまうのは、この世の人が現実逃避をしないための、神の配慮なのかもしれません。



このように、五感では認識できない、霊的な感覚やつながりが存在しています。

気付いていないだけで、霊的なつながりを通して、さまざなメッセージや力が伝わって来ています。



もし、地球上の全てのものが失われて、自分1人になってしまったらどうでしょうか?

食べるものに事欠き、数週間しか生きられないでしょう。



地球に人間しかいなくなってしまったらどうでしょうか?

植物がいなくなれば、大気中の酸素は減り、二酸化炭素が増え続け、生きて行けなくなるでしょう。

人と人、人と動物、動物と植物、それぞれがそれぞれの役割を果たすことで、私たちは生きて行けます。

どれもが欠かせない存在です。



自分が存在する意味はどこにあるのだろう?と、思う人がいるかもしれません。

人体を見て下さい。

数十兆個の種類の異なる細胞が集まって構成されています。

1つ1つの細胞はとても小さいです。

小さくても、人体を構成する一部に変わりありません。

神経細胞、筋肉細胞、上皮細胞、血液細胞など、それぞれが明確な目的(役割り)があって存在しています。


1人の人間も、全く同じです。

地球と言う惑星を構成する一部です。

地球全体から見ると、取るに足らない小さな存在に思えますが、それぞれが明確な目的があって存在しています。

けれども、地上に生まれると霊的な視野を失い、生命のつながりや目的(役割り)が見えなくなり、意味のない存在に思えてしまいます。



存在しているだけで、何らかの影響を周りに与えています。

息を吸って吐けば、ガス交換が行われて、大気に影響を与えています。

自分が吐いたガスを、植物は生きる糧にしています。

自分の行いや、発せられた言葉は、良くも悪くも周りに影響を与えています。

想ったことも、波動となって周りに放たれ、影響を与えています。

強弱はありますが、周りに何らかの影響を与えながら、私たちは生きています。



他者を大切にすれば、調和が生まれます。

自分勝手な行動をすれば、調和を乱します。

五感で感じられなくても、自分から発せられたものにより、周りに変化が起きています。

その変化こそが、生きる意味の1つかもしれません。



全細胞が同じ血液によって生かされているように、全生命は同じ霊力によって生かされています。

個々の生命は、全生命のために存在しています。

同時に、全生命によって個々は生かされています。

生命は1つであり、霊的につながっています。



困っている人がいると助けたくなるのも、私たちは神的な存在として、つながっているからです。

能登でのボランティア活動(1月27日:日経新聞より)




2024年1月21日日曜日

神性を信じる


人生百年時代と言われます。

今、百歳以上のお年寄りの数は、全国で10万人に迫る勢いです。



私は、昔ほど長生きしようとは思わなくなりました

死は終わりではなく、次の世界の始まりであることを知っているからです。


この世界は物質の世界です。

人間、建物、車など、見るもの、触れるものに実感があります。



次の世界は思念の世界です。

思念は、見ることも、触れることもできないので、実感に乏しい世界のように思えてしまいます。



けれども、思念こそが本質です。

この世にいる私たちは、思念を言葉に変換して、肉体を使って表現しています。

言葉は代用品なので、自分の思念を完全に相手に伝えるのは困難です。



次の世界に行くと、肉体を介さずに、ありのままの思念が相手に直接伝わります。

隠し立てをしたり、嘘を付くことができません。

どちらが真実の世界なのか、言わずと知れています。



次の世界では人の想いが判る上に、周囲には自分と似通った人しかいません。

安心して暮らせる、平和な世界です。

天国と言われる所以です。



一方、この世では人の想いが判りません。

周囲にいるのは、自分と異なる人たちばかりです。

そのため相手を理解できないことがあります。

理解できないと、不安になることがあります。

不安が高じると、怖れとなることがあります。



私の患者さんに、ロシアから日本に嫁いだ女性がいます。

その女性のご実家はウクライナにあり、そこで暮らしていたお母様を日本に呼び寄せました。

お母様の口の中の状態が悪いために、私の医院で治療をすることになりました。

治療の説明ですが、日常生活で支障がないほどの日本語が話せる娘さんを通して伝えてもらいました。

従って、お母様と私は直接コミュニケーションはできません。

お互いに良く理解できないまま、治療が始まりました。

言葉が全く通じない異国の地で、何をされるのか怖かったのでしょう、時々、涙を流されていました。

分かり合えない、もどかしさを感じました。



今、起きている戦争は、怖れから始まっていると考えています。

過剰な怖れが生じると、自分を守ろうとするあまり、攻撃的になることがあります。

相手を信じることができたら、怖れはなくなります。

この世で、争いを起こさずに、穏やかに暮らして行くためには、まず信じることが必要です。

けれども、それは容易くはありません。

今までに、裏切られたり、騙されたり、傷つけられたりした経験があれば、なおさら難しいです。



この世では、地上の自我(以下自我)によって自己表現しています。

自我は百人百様です。

表に出ている自我が違うために、相手のことを理解できない時があります。

自分との間に大きな隔たりを感じると、信じるのは難しくなります。



自らの命を省みずに、誰かを助けようとする行為は、どうしてできるのでしょうか?

罪のない子供が戦争で死んで行くことに、胸が痛むのはどうしてでしょうか?

悪いことをすると、罪の意識を感じるのはどうしてでしょうか?

それは、私たちに神性があるからです。



自我はそれぞれ違います。

けれども、神性は同じです。

同じ神性によって、全生命はつながっています。

自我の働きが強くなっている地上では、そのことに気付けません。

自我(エゴ)ではなく、内部に宿る神性に意識を向けるようにして下さい。



神性が顕現したものが愛です。

愛は、霊的なつながりを通して、伝わって行きます。

つながるためには、まず対象を信じなければいけません。

信じるほど、つながりは強固なものとなります。



自分を愛することの大切さが叫ばれています。

けれども、自分を愛する前に、自分を信じなければいけません。

自分を信じるとは、内在している神を信じることです。

信じることで神とのつながりが強くなり、流れ込む力(愛)により、心が癒されたり、勇気や自信が湧いて来ます。



負の感情を抱きそうになったら、内にいる神を強く信じましょう。

神性が発揮され、許す方向に向かいます。

怖れも克服できます。



ウクライナから来たお母様ですが、1月24日に帰国することになりました。

それまでに、予定していた治療をどうにか終えることができました。

昨日が、最後の来院でしたが、ちょうど84歳の誕生日でした。

ウクライナ語で「誕生日おめでとうございます。」と伝えたところ、一瞬で、明るい表情に変わりました。

お互いが分かり合えない地上では、まず言葉を尽くすことが必要と改めて感じました。

それができないのであれば、信じることで互いの隙間を埋めるしかありません。




ばらばらになった個々が、信じ合い、愛し合うことで1つになって行く、それが神の構想と考えています。

目に視えない愛の存在を、さまざまな体験を通して実感し、学ぶことが、この世に生まれた目的の1つです。

この世で愛を深く学んだ魂は、次の世界に行くと、より自分を周りのために活かせるようになっています。




2024年1月14日日曜日

人生と自由意志

撮影:木村様

前回のブログ「人生はどこまで決まっているのか」に、シルバーバーチの霊訓の一節を付け加えて、内容の一部を訂正しました。

付け加えたのは「災害で死亡する人は、その時期に死ぬべきだったのでしょうか?」という問いかけに対して、「その通りです。前世の因縁によってそこに居合わせたということです。」と言う一節です。



元旦に能登で起きた地震は、甚大な被害をもたらしました。

被災された人の中に、家族全員が倒壊した家の下敷きとなり亡くなり、その前に立ち尽くしている男性がいました。

男性は「生と死の境界線は何なんでしょうね」と言っていました。

私はシルバーバーチを心から信じています。

亡くなったのは過去に原因があって、その場所にいたと言うことになります。

もし問われたのなら「決まっていたことです。」と、お答えすることになりますが、男性が承服するのは難しいでしょう。



地上にいる私たちには、因果律の働きが見えません。

そのために、何か起きると、何故? どうして?と、思うばかりです。

けれども、霊界からは原因(目的)がはっきりと見えていて、全てに渡ってつじつまが合っているのが分かるようです。



人生はどこまで決まっているのか?

シルバーバーチは「親も自分で選んだということですか?」という質問に対して、「むろんです。賢明なる子は親のことを良く知っております。」と答えています。

生まれる環境は偶然決まったのではなく、自分で決めていたことになります。



そして、こうも書かれています。

「人間には自由意志があります。操り人形ではありません。十字路で右に曲がるか左に曲がるかは自分で決められます。選択は自由です。」

それぞれの人が、さまざまなことを決めながら生きて来ました。

その結果として、今、ここに自分がいます。




地震で倒壊した家に生まれるのを決めたのは、ご家族です。

正月に家に帰って、その場所にいることを決めたのも、ご家族です。

自分が決めた結果として、その場所にいたのは確かです。

そこに、物質的次元の因果律が働いて地震が起きました。

自分の意志と因果律の働きにより、そこで死ぬことが決まったと言うことになります。




地震で突然、肉体を失った人たちは、一時的にショック状態になります。

けれども、あの世で手厚い看護を受けて、間断なく降り注いでいる生命力により癒され、徐々に新しい世界に順応して行きます。

しばらくすると、生命力に満ち溢れた真実(魂)の世界で生きる悦びの方が、地上にいられなかった悔しさよりも、はるかに大きくなるでしょう。


私たちは、学び成長するために地上に生まれて来ました。

そのために必要な人生経験をしています。

地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生をたどるかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。」シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

この人生を選択していたのは、紛れもなく自分です。

そして、選択した人生をどう生きるのかを決めるのも自分です。




霊的真理と出会った直後に、因果律の働きによって、私は大きな苦痛を味わいました。

その時、自由意志などなければ良いのにと思いました。

自由意志がなければ、過ちを犯したり、道を誤ったりすることがなくなります。

痛い思いをして償うことも、後悔して苦しむこともなくなるからです。

安心して、楽に生きられるような気がしました。



けれども、それでは地上に生まれた意味がないのかもしれません。

例えば、親が子供に関することを全て決めてしまったとします。

そうすることで、子供が大変な思いをしないで済むのであれば、一見すると問題なさそうに思えます。

しかし、それは親のエゴです。

子供は自分の人生を生きているとは言えません。

失敗した時に、親が責任を取ることはできません。

自分で決めて、自分で責任を取るのが道理です。



自由意志が与えられた大切な意味は、責任が生まれることにあります。

責任が生まれれば、そこに責任を果たそうとする意志が生まれます。

他の人が決めたことならば、そこまでの意志は生まれません。



あの世では、自分の想いは直ちに具現化します。

この世は、物質の世界です。

想ったことを、肉体を介して具現化しなければいけません。

具現化するためには、肉体的、精神的な労力を伴い、持続的な意志が必要となります。

困難や障害を克服しようとするのにも、意志が必要です。



あの世では、何もしなくても生きて行けます。

けれども、何もしなければ、成長することもできません。

この世を生きることで、あの世に帰って与えられる新たな役割りを果たそうとする意志が培われます。

役割りを果たすことによって、霊的に成長することができます。



およその人生は決まっています。

目的を果たすために起きた出来事に、どう対処するのかは、自由意志を持った人間に任されています。

自由意志を行使したことによって、新たな結果が生じます。

その結果をどう捉えて、どうしたのかで、また新たな結果が生じます。

良くも悪くも、自分が決めたことで、自分の人生は変わって行きます。



神はエゴイストではありません。

全てを決めてしまい、人間を「操り人形」のような存在にしませんでした。

自由に決められることで、自由に変われるようにしました。



人間を成長させるために、神は自由意志を与えたと思います。

自分で決めて、自分で責任を取ることにより、人間は成長するからです。







2024年1月7日日曜日

人生はどこまで決まっているのか


 元旦に石川県で大きな地震が起きました。

亡くなられました方には、心よりご冥福をお祈りします。

また、瓦礫の下に取り残されている方が、一刻も早く救い出されることをお祈りします。



一寸先は闇と言われますが、この世では何が起きるのか分かりません。

そんな世界に生まれて来たのは、ここでしか体験できないことを通して、大切なことを学び、自分を成長させるためです。

そのために計画されていた出来事が、人生のどこかで起きるようになっています。



ふと疑問が生じます。

地震などの自然災害で亡くなるのは、予め決まっていたことなのか?

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「たとえば船の事故で千人の溺死者が出たとします。その千人は、ちょうどその時期に地上との縁が切れることになっていたのでしょうか?魂の成長の為に与えられた地上での寿命が、ちょうど同じ時期に終えるように運命づけられていたのでしょうか?」という質問に対して、

「霊的なことを地上の言語で表現するのはとても難しいことです。あなたのおっしゃる〝運命づけられた〟という表現を用いますと、では誰によって、何を基準に? という疑問が生じます。たぶん皆さんの頭の中には、大霊が死ぬべき人間を船に乗せておいて事故を起こさせたような図を想像しておられるのでしょうけど、そういうものではありません。人生の千変万化の人間模様の背後に大自然の摂理が働いていて、その結果として事故が発生しているのです。」とシルバーバーチは答えています。

別のところでは、ご主人を亡くした女性とのやり取りの中で「(ご主人は)その日に死ぬ運命ではなかった」と言っています。

また「災害で死亡する人は、その時期に死ぬべきだったのでしょうか?」という質問に対して

「その通りです。前世の因縁によってそこに居合わせたということです。」と答えています。

さまざまな次元の因果律が絡み合って、決まると考えられます。



起きた出来事には、偶然は存在しません。

これは絶対的な真理です。

自然現象である地震は、自然法則が働いた結果です。

具体的には、地殻のひずみが原因で、その結果として地震が起きます。

亡くなった場所にいたのも、それまでの自分の行動の結果です。

従って、地震が起きるのも、その場所で亡くなるのも、偶然ではありません。

これらのことから考えると、地震で亡くなるのは偶然ではないけれども、その人が亡くなる運命ではなかったのかもしれません。

大自然に因果律が働くことで、そこにいた人間は抗えないこともあると考えています。



同じ場所に住んでいて、ある人は亡くなり、ある人は無傷のこともあります。

それでは、あまりにも不公平です。

神も仏もあったものではありません。



死ぬと全てが終わりになるのであれば、長く生きられなかった人は不幸です。

現実は、死んだ後も生命は続いています。

死の後の世界は、私が知る限り地上よりもはるかに快適です。

病気もなく、煩わしい人間関係もなく、食べて行くために働く必要もありません。

自分の願いがことごとく叶います。

そんな快適な世界に行くことが、不幸であるはずがありません。



仮に、死後の世界があり、快適であったとしても、人生が途中で中断され、学びや成長が得られずに、生まれて来た目的が果たせなかったのであれば、不幸じゃないかと思う人もいるでしょう。

霊界の様子を伝えて来る人(霊)はたくさんいます。

(低い界層にいる霊を除いて)自分の境遇に不平や不満を言う人はいません。

それは、シルバーバーチが言う「埋め合わせの原理」が働いているからです。



予定されていた学びが地上で得られなかったとしても、霊界において同等の学びが得られるようになっていると考えられます。

肉体がなくなると、意識が周囲に向かうようになります。

生きる目的が、学び成長することに気付いた人は、直ちに霊界において自分に相応しい奉仕を始めると考えられます。



中には、同じ目的を持っている地上の人を援助して、学びを共有する人もいるでしょう。

残して来た人を、守り導くことを新たな使命とする人もいるでしょう。

生きる次元が違うので、目的を達成するのが困難になる分、同等かそれ以上の成長が得られると考えています。



家が倒壊し、自分以外の家族が死んでしまった人がいたとします。

隣の家は、家族全員が無事で今まで通りの生活をするようになれば、理不尽さを感じずに生きて行くのは極めて難しいでしょう。



地上の人にも「埋め合わせの原理」が働いていると考えられます。

苦しみや悲しみを味わった分、それに相応しい学びや成長が得られているはずです。

今生でこの体験をしたので、来生で同じ様な体験しなくても良いのかもしれません。

詳細は分かりませんが、無限の叡智よって完全な公正が保たれているのは間違いありません。

無用な感情に流されないために、そう強く信じて欲しいです。



幼い頃、迷子になると言い知れぬ不安に襲われて泣いてしまいました。

少し成長したら、親とはぐれても泣かなくなりました。

それは自分の置かれている状況が客観的に分かるようになり、しばらくすれば迎えに来てくれることを知ったからです。

それと同じように、自分に起きた出来事について、後になり客観的に分かるようになると、受け止め方が大きく違って来ます。

怖れや怒りなどの感情は、知らないことから生じています。



計画されていた出来事が因果律の働きによって起きたのか、それとも別次元の因果律の働きによって起きたのか、地上に生きている限り分かりません。

そのどちらであっても、自然法則の働きによって起きています。

起きたことが不運や不幸に見えたとしても、神の心が法則に反映されているので、実体は良い方向に向かっています。



佐鳴湖



先日、同志の方とヒーリングを行った木村様が撮ったものです。

ご病気ですが、内面は健やかであることを証明しているような素晴らしい写真です。

その内面が、肉体に反映され快癒することを願っています。