霊的真理と出会い18年になります。
出会って良かったと思うことの1つに、「死」についての理解が深まったことがあります。
死は人生の終着点ではありません。
次の世界に移行するためにある自然現象であり、通過点です。
死を怖がるのは、この世界しかないと思っていたり、次の世界のことを知らないからです。
正しい知識を持てば、早く逝きたいと思うようになるかもしれません。
けれども、自分の意志で逝ってしまう過ちを犯さないために、ベールに包まれていると考えています。
「人生は楽しむもの」良く聞かれる言葉です。
そうありたいのですが、そうばかりとは行きません。
この世に生まれて来たのは、自分(魂)を成長させるためです。
病気、別れ、災難、失敗、挫折など、困難や障害を伴う出来事が起こります。
それらを乗り越えようとすることで、成長するようになっています。
つらい出来事を経験している最中は、楽しむ余裕などありません。
早く逃れたい、早く終わって欲しいと願うだけです。
楽しめるほどの出来事であれば、大きな成長は期待できないでしょう。
全てを楽しめる人ならば、この世に生まれて来ないでしょう。
この世を生きるのは、登山のようです。
息を切らしながら、一歩一歩登って行きます。
坂道が終わり、やっと平坦になったと思ったら、次の坂道が始まります。
登っても登っても、また坂道が始まります。
登るのは無理と思うような、絶壁に遭遇することもあります。
頂上では、先に着いている人たちが待ち受けています。
登り切った悦びを分かち合います。
苦しみから解放され、嘘のように楽になっています。
美しい光景を観ながら、平らな世界をゆっくりと歩いて行けるようになります。
そんな快適な世界を離れて、何のために生まれて来たのでしょうか?
この世でしか経験できないことがあったからです。
その経験を通してでしか、学べないことがあったからです。
平らな世界を歩くよりも、負荷のかかる山道を登った方が、より自分(魂)を鍛えることができると思ったからです。
霊的真理を知ったとしても、山道がなくなるわけではありません。
それでも、苦難と言われるような出来事が起きた時、何で自分だけがと憤りを感じたり、もう終わりだと嘆いたりすることはありませんでした。
因果律の働きによって起きていたこと、人生はこの世だけではないことを承知していたので、自分を苦しめるような感情に苛まれずに済みました。
大切な人を亡くした人こそ、真理が必要です。
「いなくなった」「もう2度と会えない」など、無知から生じる無用な苦しみを味合わずに済むからです。
離れ離れになどなっていません。
目に視えなくても、霊的につながっていると信じることができれば、孤独という苦しみは和らぎます。
信じることで愛することができます。
愛することができない苦しみは和らぎます。
人間関係で苦労をするのが、この世です。
近くに憤りを感じる人がいたとしても、真理を知ることで、寛容さを身に付けるために、自分に必要な人と思えるようになるかもしれません。
因果律の働きを知ることで、過去の自分から出たものが、時を経て返って来ているのかもしれないと、原因を冷静に分析できるようになるかもしれません。
これはポジティブシンキングとは違います。
真理を知ることで、苦しみから解放されるようになっています。
教えてもらうものではなく、元々魂に内在されているものを、自分自身で見い出すと考えられます。
見い出すために最適な出来事が、自然法則の働きによって起きていると考えられます。
真理を見い出し、自分を変えるための触媒として、苦しみが存在していると考えられます。
毎日浴びるほど酒を飲んでいる人が、肝臓を悪くしたとしても、何で自分がと憤りを覚えることはありません。
因果関係がはっきりしていて、自分が原因を作っているからです。
ところが、この世で起きる出来事は、因果関係がはっきりせず、原因が判らないことが少なくありません。
原因が判らないと、理不尽さや不公正さを感じてしまい、憤りの感情が生まれて苦しむことになります。
起きた出来事には、原因(目的)が必ずあります。
今は判らなくても、次の世界に行くとはっきりと判ります。
自然法則の働きにより、完全な公正が保たれているのを知り、納得することになります。
過った自由意志の行使により起きる出来事もあります。
起こした者には償いが、被った者には埋め合わせが生じます。
全てが自然法則に働きにより、良きに計られていると信じることができれば、苦しみは和らぎます。
最後に、シルバーバーチの霊訓から引用します。
「なぜ苦しみがあるのか。いたいけな子供が、なぜ苦しまねばならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それも全て霊(魂)の進化という永遠の物語の一部なのです。その中には地上に誕生してくる前に、自ら覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気づくのは、暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲らしめの原理というものがあります。神は厳正なる審判者です。差し引き勘定がきっちりと合わされます。決算書を作成する時が来てみると、帳尻がきっちりと合っています。」
自然法則の働きの中に、神の意図が顕れています。
真理を見い出すほど、苦しみは感じられなくなり、神の意図を表現できるようになります。