私たちは、役者のような存在かもしれません。
地上と言う舞台に立ち、与えられた役を果たそうとしています。
決定的に違うところもあります。
役者は舞台を途中で降板することができます。
ところが、地上を生きる私たちはできません。
代役がいないので、幕が下りる(死ぬ)まで演じ切らなければいけません。
この人生の主役は自分です。
周りの人たちは脇役です。
周りの人たちも、それぞれの人生で主役を演じています。
その脇役の1人として、自分がいます。
劇にシナリオがあるように、人生にもあります。
劇のシナリオは、観る人を楽しませるためにあります。
人生のシナリオは、自分(魂)を成長させるためにあります。
役者は、気に入らなければ役を引き受けなくてもかまいません。
私たちは、自分の役を決めて生まれて来たので、やめたいと思っても、降りるわけに行きません。
私たちは、わがままで、弱い存在です。
そのために、決めていた人生から逸れてしまう可能性があります。
シナリオに沿った人生を歩んで行くために、守護(背後)霊が生涯に渡って付いています。
ここぞと言う時に、インスピレーションを与えて、成長する方向へと導いています。
劇の醍醐味は、主人公の人生を疑似体験することにあります。
一般的に、主人公の人生は平凡よりも波乱万丈の方が、そこから生じるさまざまな感情を味わえるので面白く感じられます。
ところが、実際の人生では波乱万丈を望む人はあまりいません。
大きな変化は、苦しみや痛みを伴うことが多いからです。
予測不可能な出来事が起きれば、慌てふためきます。
不幸や凶事と言われるような出来事が起きれば、生活が一変します。
あまりの理不尽さに憤りを覚えることもあるでしょう。
平穏な人生を送っている人たちを見ると「何で自分だけが」と妬んだりする時もあります。
幕が下りれば、舞台は終わりです。
役者は役から解放され、素の自分に戻ります。
けれども、私たちの人生は、幕が下りて(死んで)も終わることはありません。
この世で被っていたマスク(自我)を脱ぎ捨て、本来の姿に戻ります。
もう次の幕が始まっています。
しばらくすると、この世の人生を振り返る時が来ます。
自分に起きた出来事の全てを思い出します。
楽しかった自分、うれしかった自分、苦しかった自分、悲しかった自分、悔しかった自分、言葉にできなかった自分の姿を見ることになります。
その時に取った自分の行動も、続けて見ることになります。
自分が取った行動の1つ1つに自然法則が働いています。
相応の結果をもたらしていたことを知ります。
1つ1つの出来事が密接に関連しながら、過去から現在へと連綿としてつながっているのが判ります。
偶然の入り込む余地が全くないことが判ります。
楽しい出来事は、ただ楽しいだけで、学ぶことが少なかったことに気付きます。
人生を変えた出来事を思い出します。
いくら頭で考えてもどうにもならず、徹底的に追い詰められて行く自分の姿を見ます。
万事休すとなった時に、本当の自分(魂)が目覚めているのが判ります。
目覚めた魂が、大切な教訓を学んで、生き方や考え方が変わって行く姿を見ます。
あの時、逃げ出さなくて良かったと、ホッと胸を撫で下ろすでしょう。
生まれて来た目的は、この世でしか経験できないことを通して、学び成長するためです。
過去生で犯した罪を償うために、生まれて来た人もいます。
居心地の良い霊界よりも、さまざまな出来事を経験できるこの世の方が、目的を果たすのに適しています。
目的を果たすためのシナリオが計画されますが、人それぞれ目的が違うために、自ずと人生も違って来ます。
人と比べては、苦しんでいる自分を見て、間違っていたことに気付きます。
役者の良し悪しは、どれくらい観客に楽しんでもらえるか、喜んでもらえるかで決まります。
人生の良し悪しは、どのような人生を歩んで来たかで決まるのではありません。
予定されていた人生を歩めたか、どれくらい学び成長できたかで決まると思います。
生まれた時に自分になかった資質を、死んだ時に身に付けていたのならば、この世に生まれた意味があったことになります。
大切な資質を身に付けるためには、それ相応の経験をしなければいけません。
「シルバーバーチの霊訓」にはこう書いてあります。
「そのうちあなたも、地上人生を明確な視野のもとに見つめ直す時がまいります。その時、苦難こそ最も大切な教訓を教えてくれていること、もしもあの時あれだけ苦しまなかったら、悟りは得られなかったであろうことを、しみじみと実感なさいます。」
「辛い教訓ではあります。が、教訓とはそういうものなのです。もしも教訓がラクに学べるものだとしたら、もしも人生に苦労も誘惑も困難もなく、気楽な漫遊の旅だったら、それは頽廃への道を進んでいることになります。」
次の世界に行くと、考えは一変します。
この世を生きていた時は、上辺だけを見て判断していたことに気付きます。
「苦労のない人生だった」と羨ましがられた人の魂は、思うほど成長していないのかもしれません。
「苦労ばかりの人生だった」と哀れみを込めて言われた人の魂は、思いのほか成長しているのかもしれません。
地上的な価値感で、幸、不幸を決めてしまうのは、全くの早合点です。
外からは窺い知れない、自分でも気付かない、深い部分の変化こそ最も重要です。
変化させる触媒になっているのが苦難の経験です。
真に幸せな人とは、この世でさまざまな出来事を経験して、望ましい方向に自分を変えることができた人、大切なことを学んで魂の円熟度が増した人のことを指すのかもしれません。