2023年4月30日日曜日

真に幸せな人


私たちは、役者のような存在かもしれません。

地上と言う舞台に立ち、与えられた役を果たそうとしています。

         

決定的に違うところもあります。

役者は舞台を途中で降板することができます。

ところが、地上を生きる私たちはできません。

代役がいないので、幕が下りる(死ぬ)まで演じ切らなければいけません。



この人生の主役は自分です。

周りの人たちは脇役です。

周りの人たちも、それぞれの人生で主役を演じています。

その脇役の1人として、自分がいます。



劇にシナリオがあるように、人生にもあります。

劇のシナリオは、観る人を楽しませるためにあります。

人生のシナリオは、自分(魂)を成長させるためにあります。



役者は、気に入らなければ役を引き受けなくてもかまいません。

私たちは、自分の役を決めて生まれて来たので、やめたいと思っても、降りるわけに行きません。



私たちは、わがままで、弱い存在です。

そのために、決めていた人生から逸れてしまう可能性があります。

シナリオに沿った人生を歩んで行くために、守護(背後)霊が生涯に渡って付いています。

ここぞと言う時に、インスピレーションを与えて、成長する方向へと導いています。



劇の醍醐味は、主人公の人生を疑似体験することにあります。

一般的に、主人公の人生は平凡よりも波乱万丈の方が、そこから生じるさまざまな感情を味わえるので面白く感じられます。



ところが、実際の人生では波乱万丈を望む人はあまりいません。

大きな変化は、苦しみや痛みを伴うことが多いからです。

予測不可能な出来事が起きれば、慌てふためきます。

不幸や凶事と言われるような出来事が起きれば、生活が一変します。

あまりの理不尽さに憤りを覚えることもあるでしょう。

平穏な人生を送っている人たちを見ると「何で自分だけが」と妬んだりする時もあります。



幕が下りれば、舞台は終わりです。

役者は役から解放され、素の自分に戻ります。

けれども、私たちの人生は、幕が下りて(死んで)も終わることはありません。

この世で被っていたマスク(自我)を脱ぎ捨て、本来の姿に戻ります。

もう次の幕が始まっています。



しばらくすると、この世の人生を振り返る時が来ます。

自分に起きた出来事の全てを思い出します。

楽しかった自分、うれしかった自分、苦しかった自分、悲しかった自分、悔しかった自分、言葉にできなかった自分の姿を見ることになります。

その時に取った自分の行動も、続けて見ることになります。



自分が取った行動の1つ1つに自然法則が働いています。

相応の結果をもたらしていたことを知ります。

1つ1つの出来事が密接に関連しながら、過去から現在へと連綿としてつながっているのが判ります。

偶然の入り込む余地が全くないことが判ります。



楽しい出来事は、ただ楽しいだけで、学ぶことが少なかったことに気付きます。

人生を変えた出来事を思い出します。

いくら頭で考えてもどうにもならず、徹底的に追い詰められて行く自分の姿を見ます。

万事休すとなった時に、本当の自分(魂)が目覚めているのが判ります。

目覚めた魂が、大切な教訓を学んで、生き方や考え方が変わって行く姿を見ます。

あの時、逃げ出さなくて良かったと、ホッと胸を撫で下ろすでしょう。



生まれて来た目的は、この世でしか経験できないことを通して、学び成長するためです。

過去生で犯した罪を償うために、生まれて来た人もいます。

居心地の良い霊界よりも、さまざまな出来事を経験できるこの世の方が、目的を果たすのに適しています。



目的を果たすためのシナリオが計画されますが、人それぞれ目的が違うために、自ずと人生も違って来ます。

人と比べては、苦しんでいる自分を見て、間違っていたことに気付きます。



役者の良し悪しは、どれくらい観客に楽しんでもらえるか、喜んでもらえるかで決まります。

人生の良し悪しは、どのような人生を歩んで来たかで決まるのではありません。

予定されていた人生を歩めたか、どれくらい学び成長できたかで決まると思います。

生まれた時に自分になかった資質を、死んだ時に身に付けていたのならば、この世に生まれた意味があったことになります。



大切な資質を身に付けるためには、それ相応の経験をしなければいけません。

「シルバーバーチの霊訓」にはこう書いてあります。

そのうちあなたも、地上人生を明確な視野のもとに見つめ直す時がまいります。その時、苦難こそ最も大切な教訓を教えてくれていること、もしもあの時あれだけ苦しまなかったら、悟りは得られなかったであろうことを、しみじみと実感なさいます。

辛い教訓ではあります。が、教訓とはそういうものなのです。もしも教訓がラクに学べるものだとしたら、もしも人生に苦労も誘惑も困難もなく、気楽な漫遊の旅だったら、それは頽廃への道を進んでいることになります。



次の世界に行くと、考えは一変します。

この世を生きていた時は、上辺だけを見て判断していたことに気付きます。

「苦労のない人生だった」と羨ましがられた人の魂は、思うほど成長していないのかもしれません。

「苦労ばかりの人生だった」と哀れみを込めて言われた人の魂は、思いのほか成長しているのかもしれません。



地上的な価値感で、幸、不幸を決めてしまうのは、全くの早合点です。

外からは窺い知れない、自分でも気付かない、深い部分の変化こそ最も重要です。

変化させる触媒になっているのが苦難の経験です。



真に幸せな人とは、この世でさまざまな出来事を経験して、望ましい方向に自分を変えることができた人、大切なことを学んで魂の円熟度が増した人のことを指すのかもしれません。





2023年4月23日日曜日

苦しみを伴う感情から解放されるために


私の家では親子の犬3匹を飼っています。

母犬は元保護犬で、放浪していた時に身籠り、家の中で2匹を出産しました。

見ていて思ったのですが、犬は子育てが終わると親子の関係は消滅し、仲間になるようです。

何歳になっても親子の関係が維持される人間とは大違いです。



犬を飼っていて大切に思うのは、平等に接することです。

1匹だけを可愛いがると、他の犬は嫉妬したり、拗ねてしまいます。

人間のような感情を持っているので親しみを感じますが、気を付けなければいけません。



人間も犬も、最も味わいたい感情は「喜び」でしょう。

一方、「怒り」や「嫉妬」はできれば抱きたくはありません。

苦しみを伴う感情だからです。



そんな苦しくなるような感情など、初めからなければ良いのにと思ってしまいます。

けれども、この世に必要のないものは存在しません。

肉体を持つことで地上の自我(以下自我)が形成され、そこから感情が生まれると考えられます。

高いところに立つと、恐怖を覚えます。

もし、恐怖を覚えなければどうでしょう?

注意を怠り、落ちてしまう人がいます。

つまり、地上を安全に生きて行くために、恐怖という感情は必要と考えられます。



嫉妬はどうでしょう?

他人にあって自分にはない、あるいは他人に与えられ自分には与えられない、そんな差を感じた時に、嫉妬心を抱くことがあります。

肉体を持つと、自己を保存しようとする欲求が生まれます。

いわゆる本能と呼ばれるものであり、幼い子供でもその欲求はあります。

一人で生きて行けない子供は、親に保護され、育ててもらわなければいけません。

愛情を受けるのは、子供にとって死活問題です。

より多くの愛情を受けようとする欲求の触媒となっているのが、嫉妬心と考えられます。



自分にない才能が他者にある時も、嫉妬をすることがあります。

才能が周囲に活かされると、他者から評価されることが多いです。

両者に利害関係があると、評価されている人を見ると、自分の立場が脅かされるようなような感覚になり、自己を保存しようとする欲求が刺激されて、嫉妬心が生まれる時があります。



他者と比べることによって生じる、苦しみを伴う感情を嫉妬と呼ぶのかもしれません。

それでは、なぜ苦しみを伴うのでしょうか?



宇宙の隅々にまで、自然法則は働いています。

自然法則の根本原理は「愛」です。

愛が自然法則の働きの中に顕現しています。

嫉妬は愛に反した、他者を排除しようとする感情です。

そのような成長を妨げる感情に捉われることのないように、自然法則の働きによって苦しみが生じると考えられます。



嫉妬による苦しみを感じたくなければ、他者と交わることのない環境に身を置けば良いのですが、そんなわけには行きません。

環境が変えられないのであれば、自分が変わるしか方法はありません。



私たちの中には、神が宿っています。

そのために、溺れている人を見ると助けたくなる衝動が生まれます。

同時に自我が働いて、意識が自分に向かいます。

自分まで溺れてしまうと考え、助けようとする衝動を抑制しています。



嫉妬が生まれるのは、自我の働きによるものであり、意識が自分に向いています。

従って、自分から意識を外すことができたのなら、嫉妬は生まれなくなるはずです。



それでは、どのようにすれば自分から意識を外せるのでしょうか?

意識を他者(周囲)に意識を向けるようにすれば良いと考えられます。

それは他者と比べることではありません。

他者のことを思ったり、考えたりすることです。

自分の意志でそうならなくても、自然法則の働きによって、他者に向かうようになる時があります。




随分前の話です。

道路を横断中に車にはねられて、お子さんを亡くされたご両親がいました。

深い悲しみは言うに及ばず、「何で自分の子供が、こんな目に遭わなければいけないのか」と言う想いに苛まれて、大変な苦しみを味わっていたと察せられます。



過酷な現実に追い詰められ、どうにもならないと自我が観念した時、その奥で眠っていた魂が目を覚まします。

魂が目覚めると、意識は自分から他者に向かいます。

そして「死を無駄したくない」「世の中のために活かしたい」と、ご両親に内在している神性が発揮されたと考えられます。

子供でも意味が分かるように、横断禁止の標識を変える運動を始められました。

その運動によって行政が動かされて、全国の道路標識に「わたるな」の文字が併記されました。


ご両親の悲しみがなくなることはないでしょう。

けれども、同じ思いをする家族がいなくなって欲しいと願うことで意識が他者に向かい、苦しみを伴う感情は和らいだと考えられます。

人や社会のために役に立つことをすれば、魂の成長にもつながります。

お子さんの死は、霊的に1つの意味を持ったことになります。



この世は、自分と違う人たち、果たすべき目的が違う人たちが、同じ平面で暮らしている特殊な場所です。

誰一人として同じ人はいません。

歩む人生も、当然のことながら違います。

ところが、その違いにばかりに目が行ってしまいます。



初めから違っているものを比べてしまうのは、明らかに間違っています。

間違ったことをすると、因果律の働きにより、苦しみが生じることになります。



私たちは物的にばらばらに存在しています。

けれども、霊的につながっています。

言葉を介さずに、想いが判る時があるのはそのためです。

世の中全体を揺るがすような出来事が起きると、連帯感や結束が生まれるのもそのためです。



全ての生命は霊的に1つです。

地上に生まれると、霊的な意識が希薄になり、つながりが感じられなくなります。

物質的な違いばかりが目に付いて、比べてしまいます。



もし、周りにいる人を、この世を共に修行をしている同胞と心から思えるような、霊的な意識を取り戻したのなら、比べることにより生じる苦しみを伴う感情から解放されるはずです。





本をご紹介します。

タイトルは「探すんだ!もう1度生まれて僕の死んだ理由を生きる意味を」です。

著者は石田裕子様で、このブログを読んでいただいています。

石田様ですが、去年の3月19日、大学進学を控えたご長男の龍之介君を病気で亡くされました。

元気だった子供がわずか1ヶ月で亡くなると言う、受け入れ難い現実を目の当たりにする中で、脳死状態にあった龍之介君の思念(想い)がご自身の魂に伝わって来るようになりました。

そして、ご長男が生前書き溜めていた文章が多数見つかり、それを基に2冊の本を書き上げられました。

ご長男の文章は、霊的真理に通じるものがあり、高校生が書いたものとは思えません。

親子の関係は死後も続いています。

龍之介君が早く逝った理由を、今も探しています。

新聞にも紹介されました。《リンク先》

ご興味がある方は、是非読まれて下さい。

遊行社¥1,980(税込み)





2023年4月16日日曜日

原因(目的)があって出来事は起きている


最近、小説を読む機会がめっきり少なくなりました。

読みたい本がないわけではありませんが、年を取り目の機能が衰えて来たので、小さな文字を追って行くのが大変になったのが主な理由です。


ところで、小説には山場(クライマックスシーン)があることが多いです。

全部読むのは大変なので、そこだけを拾い読みをしても意味はさっぱり分かりません。

もちろん、感動することもありません。



人生は、小説と同じような気がします。

果てしなく続く物語の1章として、この世を生きています。

ほぼ全ての人に、前の章(過去生)があります。

そして、次の章(来生)へと続いています。

章と章は、密接に関連していて、不可分です。



有名な民話に「鶴の恩返し」があります。

知らない人のために簡単にあらすじを書きます。

昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが暮らしていました。

ある日のこと、おじいさんが薪拾いに行くと、1羽の鶴が罠にかかっていました。

可哀想に思ったおじいさんは鶴を助けてやりました。

雪の降る晩に娘が現われ、泊めてほしいと言われたので、家に招き入れました。

その後も雪は降り続き、娘は泊めてもらう代わりに機織りをしたいと言い、覗かないように約束をして部屋にこもって織り始めました。

出来上がった布はとても美しく、高値で売れました。

どのようにして織っているのかを、おじいさんとおばあさんはどうしても知りたくなり、約束を破って部屋を覗いてしまいました。

娘は鶴の姿になって機を織っていました。

本当の姿を見られた娘は、2人の元から飛び去って行きました。


この物語のクライマックスは、鶴が機を織っている場面です。

もし、この物語が鶴が機を織っている場面から始まったのならどうでしょう?

何のことだか、意味がさっぱり分かりません。

混乱してしまいます。

鶴が機を織っていたのは、おじいさんに助けてもらったからです。

その場面が抜け落ちていたら、物語として成り立ちません。



ある日突然、何の前触れもなく出来事は起きます。

不運を嘆いたり、神を恨んでしまうこともあります。



宇宙の隅々まで、自然法則が働いています。

自然法則の根幹を為しているのが「因果律」です。

起きた出来事には、必ず原因(目的)があります。



出来事の原因がさっぱり分からない時、記憶に上って来ない過去に何かしらの原因があって、あるいは明確な目的があって、この人生で起きている可能性があります。

残念ながら、この世を生きている時に知るのは、極めて困難です。



私たちは、自分に足りない霊的な資質を身に付け、成長するために、この世に生まれて来ています。

スキーの滑り方は、どうやって覚えるのでしょうか?

本やインターネットで、滑り方を知ることができますが、それだけではだめです。

スキー場に行って、実際に滑って、体で覚えなければいけません。



霊的な資質を身に付けるのも同じです。

それ相応の出来事を、実際に体験しなければいけません。



転んでは立ち上がって滑ることを繰り返しながら、スキーは上手くなって行きます。

同じように、起きた出来事に悪戦苦闘しながら、それを乗り越えようとする過程において、霊的な資質が身に付いて行きます。



過去生で犯した過ちを償うために、苦痛を伴う体験をしなければいけない時もあるでしょう。

償いが終わりかけた時に、背いてしまった自然法則の働きを学んでいると考えられます。



人との出会いもそうです。

おじいさんとおばあさんの前に、偶然、娘が現れたのではありません。

その前に、鶴を助けていたからです。



過去に何かしらの原因(縁)があって、この世で出会うことになる人がいます。

親子や兄弟になったり、あるいは配偶者や恋人や親友になったり、時に敵対者になったりする場合もあるでしょう。

目的を果たすために、その関係が最適だったと考えられます。



肉親になれば、ほぼ確実に関わり合いを持つことになります。

血縁を超えた、深い部分での結びつきを自覚する人もいるでしょう。



しばらくしてから、因果律の働きにより、引き寄せられるようにして出会う人もいます。

出会った時、魂の記憶が呼び覚まされて、前に会ったような感覚が生じるかもしれません。

何か特別な意味を持っている人のように感じられるかもしれません。

過去の感情の余韻が残っている場合もあるでしょう。



シルバーバーチは、神の叡智の見事さに感嘆せずにはいられないと言っています。

学びや成長にとって、最適な人が、最適な形で、地上で出会います。

そして、最適な出来事が、最適なタイミングで起こります。

霊界から見るとその様子がはっきりと判り、神の計画の完璧さを感じずにはいられないのだと思います。



けれども、地上の人には、真逆に感じられる時もあります。

「最悪のタイミングで起きた」「1番起きて欲しくないことが起きた」あるいは「出会わなければ良かった」と嘆くことになるかもしれません。



シルバーバーチはこう言っています。

「あなた方もそのうち肉体の束縛から離れて、物質的な曇りのない目で地上で送った人生を振り返る時が来るでしょう。その時、その出来事の一つ一つがそれぞれに意味を持ち、魂の成長と可能性の開発にとって、それなりの教訓を持っていたことを知るはずです。」

そして「私がこれまで送ってきた霊界生活で、”自分は神の法則によって不当に扱われている不公平だ”と真剣に言える人を一人も知りません。」とも言っています。



過去を知れば、出来事の原因(目的)が判ります。

合点が行き、納得する人もいるでしょう。

しかし、地上の人には自我(エゴ)が存在しています。

「そんなはずはない」と容認できない人もいるでしょう。

成長を妨げてしまう無用な感情に振り回され、人生を台無しにしてしまうかもしれません。

「鶴の恩返し」ではありませんが、真相は知らない方が良いのだと思います。



偶然は存在しません。

生まれる前にも、出来事の原因が存在していることを、知っていれば良いのだと思います。





2023年4月9日日曜日

信じることで愛することができる


霊的真理と出会い、死が怖くなくなりました。

あの世があることを確信したからです。



生命の本質は魂です。

肉体と魂が永続的に分離する自然現象が死です。

死後に、意識や記憶がなくなってしまうことはありません。

煩わしい肉体から解放され、自由にどこへでも行けるようになります。



死によって、大きく変わることが他にもあります。

この世にいる私たちは、言葉でコミュニケーションをしています。

生じた思念を言葉に変換し、その言葉を肉体を使って表現しています。



思念は無限ですが、言葉は限られています。

そのために、適当な言葉が見つからなかったり、上手く表現できないもどかしさを感じる時があります。



あの世では、思念が直接、相手に伝わります。

送り手と受け手の間に、齟齬が生じることはありません。



その人の前では褒めていたのに、いなくなった途端にけなす人がいるように、言っていることと想っていることが違う人を見かけます。

あの世では、思念(想い)が光となって、魂から放たれています。

何を想っているのか、一目瞭然となるので、嘘の付きようがありません。



あの世は、真実の世界と言われます。

それは、本当の自分(魂)を隠す肉体がなくなり、全てが知れてしまうからです。



けれども、地上に生まれ瞬間に、肉体しか視えなくなり、他者の想いが判らなくなります。

嘘偽りが存在するようになり、自分の想いを伝えるのも難しくなります。



あの世では、自分と似通った人たちしか周りにいません。

この世では、自分と違うと交わりながら生きています。

そのため、エゴがぶつかり合ったり、争いが起きることがあります。

そんな生きづらい世界に生まれて来たのは、何か理由があるはずです。



ところで、目の前にある車を見てどう思うでしょう。

自然発生したと思う人などいません。

人間が設計して、人間が作ったことを誰もが知っています。



宇宙も同じです。

自然発生して、偶然が重なり、こんな精緻な宇宙ができるはずはありません。

何者かが、何か意図があって創ったはずです。

宇宙を創った存在を、多くの人は「神」と呼んでいます。



宇宙が創られたと同時に、宇宙を経綸するために自然法則が創られました。

自然法則の働きの中に、神の意図が顕現しています。



宇宙から見れば私たちは極小の存在です。

けれども、宇宙を構成している一部に変わりありません。

私たちは、神が意図した計画の中に組み込まれています。


生命は元々一体だったと考えています。

宇宙が開闢したことにより、物質の中に別々に宿るようになったと考えています。

別々に存在している生命が進化しながら、霊的に再び1つになって行く、それが神の意図と考えています。



生命が1つになって行くために必要なものは何でしょう?

愛です。

愛は生命(魂)を引き付け合う力です。

愛し合うことにより、個々の魂が1つになって行くことができます。



地上で愛し合うために必要なものは何でしょう?

それは信じることです。

信じることで、別々に存在している魂と魂が、初めて結ばれます。

結ばれた魂の間を、愛という力が伝わって行きます。

愛を表現するほどに、魂は近づいて行きます。



あの世では、自分と似通った人たちに囲まれて生きています。

お互いを判り合えているので、あえて信じようとする必要がありません。



この世では、自分と違う人たちに囲まれながら生きています。

お互いを判り合えていないので、まず信じる必要があります。

信じることなしに、魂と魂はつながることはできません。

もちろん、愛し合うこともできません。



世の中には、ひどいことをする人がいます。

信じることなど、到底できないと思う時もあるでしょう。

そんな人の中にも神がいます。

エゴの奥に神がいると、強く信じて下さい。



人は何度もこの世に生まれて来ます。

さまざまな経験をしながら、霊的に成長して行きます。

霊的に成長するのに従って、エゴが取り払われ、内在する神が顕現して行くようになります。

どれくらい顕現しているのかは、それぞれ違います。

けれども、進んで行く過程は、皆同じです。


長い年月をかけて築き上げてきたものが、崩れてしまうのは一瞬です。

少しずつ結ばれてきたこの世界に、断裂が生まれています。

互いのことが判らなくなり、信じられなくなっています。



信じることから始めなければなりません。

互いが神の心を持った存在であると信じなければいけません。

信じることで、いつの日か再びつながることができます。





4月6日に、3回目の「霊的真理のお話と無料ヒーリングの集い」を開きました。

今回の参加者は2名でした。

少し慣れて来ましたが、限られた時間の中で、多岐に渡る霊的真理を話すことの難しさを感じます。

来られた方には、求めている真理が1つはあると考えています。

求めている真理、興味がある真理を探りながら、そこに絞って話をすれば良いのかもしれません。

最後はいつものように、「詳しいことはシルバーバーチの霊訓に書いてありますので、是非読んで下さい」と言って締めくくりました。

熱心に耳を傾けていただいたことに感謝しています。

真理が魂に届くことを祈っています。



2023年4月2日日曜日

霊界で成長するために


なぜ生まれて来たのか?

私たちの本来の住処は霊界です。

霊界で経験できないことを、地上で経験するために生まれて来ました。



霊界で経験できないこととは何でしょう。

霊界は完全な界層社会です。

周囲にいるのは、同じ霊性の高さ、魂が似通った人たちです。

似通っているので、意見の相違や争いもありません。



肉体がないので、食べて行く必要はありません。

働かなくても生きて行けます。

もちろん病気はなく、身体的な疲れや不調を感じることもありません。



平穏で快適な世界です。

天国と言われる所以です。

そんな世界ならば、ずっといたいと誰もが思うでしょう。



私たち人間(生命)は成長するように定められています。

植物の成長には、光と水が必要です。

霊的に成長するためには、困難や障害を乗り越えて行く経験と、他者へ愛を表現(奉仕)することが必要です。



霊界では、何もしなくても生きて行けます。

生きるのが極めて楽になりますが、一歩間違うと安逸を貪る状態がずっと続いてしまいます。

それでは成長することはできません。



地上はどうでしょうか?

生きて行くために働かなければいけません。

人や社会や家族のために何かをしなければ、生活が成り立たないようになっています。



望まない限り、困難や障害は存在しない霊界と違って、地上では望まなくても、さまざまな困難や障害が起こり、それを乗り越えて行かねばなりません。

地上に生まれると、自分の意志とは関係なく、成長するような仕組みになっています。



霊界は思念の世界です。

自分の意志が具現化して行きます。

言い方を変えると、何かをしようと思わなければ、何も始まりません。

奉仕をしようと思わなければ、いつまで経っても具現化することはなく、成長することもありません。



魂が成長するほど、奉仕に励むようになります。

霊界の高い界層は、尽くし合う悦びに満ち溢れた世界と想像されます。



何もしなくても生きて行ける霊界にいても、成長したい欲求がなくなることはありません。

けれども、成長するためには、それにふさわしい経験をしなければいけません。

そこで意を決して、居心地の良い霊界を離れて、生きて行くのが困難な地上に生まれます。



いったん地上に生まれると、霊界での記憶は一切なくなります。

魂や思念など霊的なものは、全く見えなくなります。

そのために、物質しか存在しないという誤った認識をしてしまう人も少なくありません。

生まれて来た目的を忘れて、お金や名誉などの地上的なものを追い求める人生を送ってしまう人もいます。



霊的に目覚める機会が、一生に1度は訪れると言われています。

過去の私がそうでしたが、解決不能な出来事が起きて、精神的に追い詰められ、眠っている魂が目覚める人がいます。

医者から見放され万策尽きた時に、霊的な力によって病気が癒され、目覚める人もいます。

愛する人と死に別れ、悲しみのどん底にいる時に、故人からのものと確信するメッセージを受け取り、目覚める人もいます。

目に視えている世界とは全く別の世界が存在していることに気付きます。



物的なものから霊的なものへと関心が移ります。

目に視えない「愛」や「生命」や「想い」などに意識が向かいます。

外面ではなく、内面を観るようになります。

言葉そのものよりも、そこに込められた想いを感じ取ろうとします。

エゴに隠されていた、本当の自分の想いに気付く人もいます。



霊性が発揮されるのに伴い、周りに意識が向くようになります。

お金のためではなく、人や社会のために役に立つことをしたくなります。

そして、役に立つことに、大きな喜びを感じるようになります。

それこそが、地上に生まれて来た大きな目的です。



                                       

肉体は衰えて、やがて朽ち果てる時が来ます。

宿っていた魂は、培って来たものを携えて、本来の住処である霊界に戻ります。

地上でのさまざまな経験を通して、役に立つ喜びを見い出した魂は、何もしなくても生きて行ける霊界においても、進んで役に立とうとするでしょう。

霊的な喜びを味いながら、自律的に成長して行けるようになります。