若い頃「何で生きているのだろう」と漠然と考えていました。
死んで無になるのであれば、生きている意味は極めて希薄になります。
意味がないのであれば、面白おかしく生きようとするかもしれません。
高い地位やお金を手に入れることを目的にして生きるかもしれません。
けれども、そんな生き方をしていては物足りなさを感じます。
何故なのでしょうか?
お腹が空いている時に食べると、満足感が得られます。
けれども、食べたものが消化されて、またお腹が空くと満足感はなくなります。
お金や地位を手に入れると、よろこびを感じます。
けれども、時間が経つと、もっとたくさんのお金、さらに高い地位が欲しくなります。
最高の地位を手に入れたとしたら、今度は手放したくなくなります。
地上的な欲求には際限がないからです。
私たちは生活して行くために働かなければいけません。
働いている時に、人に喜ばれたり感謝されたりするとよろこびを感じます。
そんなよろこびを感じたいために、頑張って働いている人も少なくありません。
私の家では、約20年前から動物の保護活動を行っています。
それまでつらい思い、寂しい思いをしてきて来た犬や猫たちが、新しい家族に迎え入れてもらい、幸せに暮らしている姿を見るとよろこびを感じます。
お金や地位を手に入れた時のよろこびと、人に喜ばれたり、感謝されたり、誰かが幸せになった時のよろこびは違います。
前者のよろこびは、時と共に消えてしまいます。
けれども、後者のよろこびは、その時を思い出す度に感じることができます。
地上の人間は、肉体を携えた霊(魂)です。
霊(魂)とは生命であり、意識の源泉です。
地上の人間は、地上的な自我(意識)と霊的な自我(意識)の2つ自我(意識)が存在していると考えられます。
お金や地位などを手に入れてよろこびを感じているのは、地上的な自我と考えられます。
喜ばれたり、感謝されたり、誰かが幸せになるとよろこびを感じているのは、霊的な自我と考えられます。
死んで霊界に行くと、地上的な自我はなくなり、霊的な自我でよろこびを感じるようになります。
霊的な自我は永続性があるために、そこで感じているよろこびにも永続性があります。
地上的な自我は束の間の存在であるために、そこで感じているよろこびを追い求めても虚しくなるだけです。
地上的なものにしかよろこびを感じなかった人は、霊的なよろこびがあることを知りません。
死んでもなお、地上的なよろこびを追い求めようとしますが、対象はもう存在しません。
よろこびが感じられない世界で生きることになります。
霊的なよろこびを感じながら地上を生きていた人は、霊的な自我が活きていたので、霊界に行っても直ぐに馴染むことができます。
地上よりもはるかに強く霊的なよろこびが感じられるようになります。
人はよろこびを感じていたい生き物です。
喜んでもらうために、誰かの役に立つような生き方をするようになるでしょう。
神の心が自然法則の中に顕現しています。
喜ばれたり、感謝されるとよろこびを感じるのは、その行いが自然法則の働きに適っているからです。
悲しませたり、傷つけたりするのは、自然法則に反した行いなので、苦痛を感じる事象が返ってきます。
よろこびと苦痛を通して、私たちは神の心を学んでいます。
霊的な意識の中に神がいます。
悪いことをしたくないと思うのは、神が良心となって顕現しているからです。
つらいことがあると、逃げ出したくなります。
逃げ出そうとするのを、霊的な自我(意識)が押し留めています。
つらくても生き抜くことが今生に生まれて来た目的であること、そして目的を果たした後に大きなよろこびが待っていることを、霊的な自我(意識)は知っています。
魂(霊)の存在を認めなければ、生きている意味を見い出すことができません。
何故なら、生きている意味は、自分の本質である魂(霊)を成長させることにあるからです。
そのために地上に生まれ、さまざまな経験をしています。
経験を通して、霊的な自我(意識)を見い出す人がいます。
そんな人は、他者のよろこびの中に、真のよろこびがあることに気付くでしょう。
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