2023年11月26日日曜日

親友が逝く


親友が11月19日に、脳腫瘍で亡くなりました。

享年61歳でした。

去年の9月、快復を願って同志の方にもヒーリングに参加していただきましたが、この場を借りて改めて御礼申し上げます。

その後は、腫瘍の退縮が認められ、家族で北海道旅行に出かけたり、仲間で飲みに行けるまでになったのですが、今年の8月になって再発しているのが見つかり、10月からホスピス的な療養施設で過ごしていました。





当然のことながら、ご家族は少しでも長く生きていて欲しいと願っていました。

その願いを感じながら、向こうの世界に行くのは、さぞつらかっただろうと思います。

見守られながらではなく、ご家族がその場にいなくなった時を見計らって、肉体を離れる人は少なくないと考えています。

それは、逝く瞬間を見せてショックを与えたくないという、故人の優しい配慮なのかもしれません。

もしそうであれば、一人ぼっちで逝かせてしまったと自分を責めるのは間違っています。




命に関わる病気になり、魂が目覚めかけているかもしれないと考え、半年前位に「シルバーバーチの霊訓」を手渡して、読むように勧めました。

死とは、肉体から生命である魂が完全に分離する自然現象です。

次の世界に移行して、生き続けることを知れば、死の恐怖も和らぐと思いました。

けれども、病人が本を読むのは労力がいるようで、読めていませんでした。

本を手渡すだけではなく、口頭で伝えておけば良かったのですが、自分のことをフェニックスと言うほど復活を強く願っている友人に、死について話すのは憚られました。

それでも、伝えておけば良かったと思います。




施設に入ってからは、ほとんど意識がなくなりました。

面会に行った時には、いびきをかくように眠っていて、声をかけても反応はありませんでした。

昏睡状態なので、(魂と体はつながっていますが)多くの時間を向こうの世界で過ごしていたと考えられます。




肉体から完全に離れた今、どうしているのでしょうか。

先に逝った前の奥さん、お母さん、お兄さんが出迎えてくれたのに違いありません。

そして、一番寛げる我が家に戻っているでしょう。

リビングのいつもの席に座り、「やっぱり家はいいな」とつぶやいているような気がします。

それでも、家族に話しかけても無視されたり、ビールを飲もうと冷蔵庫の取っ手を掴もうとしても掴めなかったり、トイレのドアもすり抜けてしまったりするなど、いつもと勝手が違うので、戸惑ったと想像しています。

自分に起きているさまざまな現象を勘案すると、死んでこの世にいないのかもしれないと思い始めたことでしょう。

昨日(25日)の告別式で、自分の遺影に向かって手を合わせて焼香する人たちの姿を見て、死んでこの世にいないんだと、はっきりと自覚したのかもしれません。




何よりも気がかりなのは、大学生の娘さんのことです。

前の奥さんとの間に生まれた3人の子供が男で、初めての女の子だったので、とにかく可愛がっていました。

友人が亡くなって直ぐに私の心の中に現れたイメージは、黒い服を着てひじを曲げてバージンロードを歩く姿でした。

多くの新婦の父親と一緒で、それが友人の夢であり、よろしく頼むよと新郎に言いながら、娘さんを手渡したかったのだろうと想像しています。




まだ彼氏もいないので、結婚式に参加できる可能性は極めて低いだろうと思っていました。

向こうに行ってしまえば、伝えたいことがあっても、言葉で伝えることはできなくなります。

その時のために、ビデオレターを作っておくように言おうと思っていましたが、諦めていない友人を見ていて、その機会も失ってしまいました。




話は変わります。

今から20年位前のことです。

大学で所属していた教室の女子の後輩が結婚することになり、式に呼ばれました。

彼女の後ろには、亡くなったお母さんの遺影が飾られていました。

しばらくの間、それに目が留まりました。

披露宴が終わり、新郎新婦が会場の外で、出席者の1人ひとりにお礼のあいさつをしていました。

私の番になり、「おめでとうございます」と声をかけようと思っていました。

ところが、新郎の前で「絶対に裏切らないように」と、思ってもみなかった言葉が口から出ていました。

初対面で知らない相手に、何でこんな失礼なことを言ってしまったのだろうと不思議に思いながら帰りました。




霊的な知識を得て、分らなかったことが、ようやく分かりました。

あの時の言葉は、新婦のお母さんが新郎に伝えたかったことだと理解しています。

実家に戻っても相談する相手のいない新婦に、寂しい思いやつらい思いをさせたくなかったようです。

新郎の性格を見抜いていた上で、お母さんは私を利用して、自分の想いを伝えていたと思われます。




地上の人を利用して、霊界にいる人が想いを伝えるのは、想像している以上に頻繁に行われていると考えています。

その最たるものが霊媒ですが、(その時の私のように)霊的なことに関心がない人、信じていない人でも、霊界の人はおかまいなく利用していると考えられます。

自分の想いに、上手く感応してくれさえすれば良いのです。

そんな人を見つけ出して、接触を図り、残して来た人に想いを伝えさせていると思います。




話を戻します。

友人の生命は失われていません。

意識は変わりなくあります。

家族への想いも、何も変わっていません。




姿が視えなくなっても、家族を見守っていることを、友人に代わって伝えるつもりです。

ビデオレターを作っておくように言えませんでしたので、娘さんが結婚する時には、自分で良かったら(娘さんへの)メッセージを預かるよと、友人に向けて想いを投げかけるつもりです。

私の想いは友人に届くはずです。

それに応えてくれて、首尾よく私が受け取ることができたのならば、そのまま伝えたいと思います。

もし友人からのものであれば、娘さんの魂に響くはずです。




前妻を突然亡くし、乳飲み子を含む3人の子供を抱え、自営の仕事もしなければならない友人は、声をかけられないほど大変な思いをしていました。

そこから救い出してくれたのは、今の奥さんです。

良くぞ、嫁いで来てくれたと思いました。

2度と現れない、女神のような人だから大切にしろよと、友人には言っていました。




友人も、地上人生を総括する時が来ます。

どれほど奥さんに救われていたのか、助けられていたのか、癒されていたのかが、はっきりと判ります。

生前、伝えていなかったであろう感謝の気持ちを、どうしても伝えたいという強い衝動に駆られるはずです。

その気持ちを、言葉や行動にして表現することはもう叶いません。

それに代わり、奥さんに想いを送って、守り導くことで表現して行くことになります。

幸いにも奥さんは霊的な感受性が高そうなので、友人から届く想いを感じ取ることができると信じています。

何も感じなくても、無意識の内に行動してしまうこともあるでしょう。

それが導きであり、霊界にいる人の愛情表現です。




地上の家族が霊的真理を知っておいた方が、友人は守り導きやすくなります。

友人に渡しておいたシルバーバーチの霊訓を、落ち着いたら読んで下さいと奥さんに言いましたが、私の口からも伝えておこうと思います。




人生の中で最も真理が必要なのは、今かもしれません。

伝えられるのは、周りには私しかいません。

生きていること、離れていないこと、父親であり夫であり続けていることを伝えようと思います。

その通りだと、友人も喜んでくれるのに違いありません。


大好きだったハーレーダビッドソン










2023年11月19日日曜日

真実を分け与える


聖書の中に「金持ちとラザロ」と言う話があります。

ラザロはとても貧しく、毎日の糧にも事欠く次第でした。

全身のできものを野良犬がなめているような、哀れな身の上でした。

空腹に耐えかね、豪華な衣服を纏い、贅沢な暮らしていた金持ちの家に行って、食卓から出るくずを分けてくれるように乞いました。

けれども、金持ちはそんなラザロを無視し続けました。

エドゥアルト・フォン・ゲープハルト 1865年
ラザロは息絶えます。

そして、金持ちもこの世を去る時が来ます。

死の後に目覚めると、彼方にラザロとアブラハム(旧約聖書におけるイスラエルの民の祖)の姿が見えました。

金持ちはあまりに苦しさに、こちらにラザロを遣わすようにアブラハムに懇願しました。

それに対して、アブラハムはこう答えました。

思い出すが良い。あなたは生前良いものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」

今、味わっている苦しみは、生前の行いが原因で生じているので、どうすることもできません。

金持ちとラザロの関係は逆転していて、霊的な隔たりがあるために一緒にはいられないのです

自分が得たものを、世の中や人のために活かせなかったことを大いに悔いて、地上にいる兄弟たちが同じように苦しまないために、真実を伝えてもらうようにアブラハムに頼みました。

しかし、伝えたとしても信じることはないだろうと言われて断られます。

最近になりこの一文を知りましたが、おとぎ話などではなく、死の後に誰にでも起こり得ることです。



世の中は、急速に2極化が進んでいます。

富む者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなっているようです。

たくさんの「ラザロ」と「金持ち」が生まれています。

才能がある者が評価されて、努力して富を築くことは悪いことではありません。

けれども、才能は自分のためではなく、世の中のために与えられたものです。

築いた富を、どう世の中に返していくのかかが問われています。



救いを求めている人を無視するのは、想像している以上に罪なことなのかもしれません。

手を差し伸べなければいけないのですが、自分のことで精一杯になると、その余裕がなくなってしまいます。

自分のことが心配になると、人のことまで心配していられません。

シルバーバーチの霊訓では、心配や不安を抱いたり、取り越し苦労をすることを強く戒めています。

それは、利己的になるのと同じで、他者を無視することにつながるからなのかもしれません。



求めているのは、的なものだけではありません。

目に視えないもの、心の安らぎや、触れ合いを求めている人もいます。

物的なものが少しくらい足りなくても、心が満たされていれば、幸せを感じます。

その逆に、有り余るほど物的なものがあっても、心が満たされていなければ、虚しさを感じます。

人間の本質は、物質を超えたものだから当然です。




宇宙全体が神です。

宇宙を構成する私たちは、神の一部です。

存在している限り、神とのつながりが断たれることはありません。



世の中から隔絶されていても、心を満たすことはできます。

私たちの中にいる神から生命力が供給されていて、その力は愛を帯びているからです。

愛を帯びているのは、同じく神から供給されているヒーリングの力により病が癒されることで、私自身は実感しています。

霊的につながっているのは、遠く離れたところにいる会ったこともない人に、ヒーリングの力が届くことで実感しています。

地上に誕生して、五感を頼りに生きるようになったので、神の力(生命力)で生かされていること、全てが霊的につながっていることを実感できなくなっただけです。

死んで肉体(五感)がなくなったら、再び強烈に実感するようになるでしょう。



気力が充実している時は、生命力で満たされています。

神とのつながりが強くなっているので、安らぎや悦びが感じられるかもしれません。

反対に、生命力が枯渇している時は、神とのつながりが弱くなっています。

そんな時は、孤独を感じたり、不安や心配や怖れの感情が生じやすくなります。

ヒーリングをすると、心配や不安が和らぎ、穏やかな気持ちになる人が多いのですが、それは魂に生命力が注ぎ込まれたためと考えられます。



神とのつながりを信じない人がいます。

そんな人に質問したいです。

怪我をした時に、傷口が治って行くのはどうしてでしょう?

「自然治癒力」があるからと答えると思います



その力は、自分の意思で作っているでしょうか?

そうではなく、初めから備わっているものです。

自分の意思とは関係なく、傷口は自然に治って行きます。



自然とは、神が顕現したものです。

自然治癒力とは、肉体を治癒させる神の力が、法則に従って顕現したものです。

傷口が塞がって行くのは、神の御業です。

私たちは、神とつながっています。



それとは別のつながりもあります。

私たちは守護霊と強くつながっています。

また、生前、愛情で結ばれていた人とのつながりも失われていません。

ヒーリングの力が届いて病が癒されるのと同じように、霊界にいるつながりのある人たちから、想いと言う力が魂に届くことで、無意識の内に励まされたり、勇気付けられたり、癒されたりしています。



この世界を自分一人で生きていると思っているとしたら、大間違いです。

内にいる神とつながり、外にいる霊に支えてもらいながら生きています。

そのことが信じられた瞬間、内と外から力が伝わって来て、心配や不安が消えて、心が明るくなるのが実感できると思います。



持てる者が、持たざる者に分け与えるのは、物的なものだけではありません。

孤独な人、愛情に恵まれない人、見放されたと思っている人に、目に視えない存在とつながっていて、常に愛されているという真実を分け与えることで、霊的な飢えが和らぎます。



真実は分け与えても減ることはありません。

知っていて分け与えようとしないのは、飢えたラザロに食べ物を分け与えようとしなかった金持ちよりも、罪深いことなのかもしれません。

気持ちを新たにして、取り組まなければいけないと思います。


出典:Karapaia.com






2023年11月12日日曜日

自然法則の働き

 

「人に親切にしましょう」

子供の頃、親や先生から良く聞かされた言葉です。

「何で親切にするの?」と、子供に聞かれたらどうでしょう?

善いことだからと、答える人もいるでしょう。

自分がしてもらいたいことを、人にしてあげるのよと、答える人もいるかもしれません。



一般的に、法律に触れることは悪いとされています。

人の身体をナイフで傷つければ、法律に触れて罪が問われます。

けれども、人の心を傷つけても、罪を問われないことが多々あります。



この世では、善悪の基準は実にあいまいです。

それでは、真の善悪の基準とは何でしょう?



この宇宙の隅々にまで自然法則が働いています。

自然法則に適っていれば「善い」行いであり、反していれば「悪い」行いと定義できます。

今、子供に聞かれたとしたら、「人に親切にするのは、自然のきまり(自然法則)に適った行いなので、どんどんするべきだよ。人を傷つけるのは反する行いなので、決してしてはいけないよ」と答えるでしょう。

そして「自然のきまりに適った行いには善い報いが、反した行いには悪い報いが必ずあるんだよ。だから、いじめなどしてはいけないんだ」と付け加えるでしょう。



自然法則には、いくつかの種類があります。

万有引力の法則など、物質的な自然法則は検証が可能であり、本から学ぶことができます。

霊的な自然法則は検証が不可能であり、経験を通して学んでいます。



霊的な自然法則の根幹を為しているのは「愛」です。

我がままを言ったり、自分勝手なことをすると、仲間外れにされて痛い思いをします。

それは自然法則の働きによるのものであり、愛に反した行いをしたからです。



親切にして喜ばれると、こちらまで喜ばしい気持ちになります。

それも自然法則の働きによるものであり、愛に適った行いをしたからです。

私たちは、自然法則の働きによって生まれる痛みと喜びを通して、愛を表現する方向に進んでいます。



同じ行為であっても、動機によって自然法則の働き方は違ってきます。

愛に根差した動機であれば、その行いによって人は成長します。

恵まれない人たちのためにと、お小遣いを溜めて寄付した子供たちは成長しています。

周りから評価されたいなど動機が利己的ならば、いくら多額の寄付をしても、子供たちのような成長は得られません。



毎日の仕事や家事はどうでしょう。

多くの人は、生活して行くために、必要に迫られて行っています。

動機が自分の生活のためであっても、結果的に社会や組織や家族に奉仕をしていることになり、長い間、続けていれば相応の成長が得られると考えられます。

何かをしなければ、生活して行けないのが地上です。

半ば強制的に何かをしている中で、私たちは成長しています。

同じ行いでも、生活のためではなく、誰かのために(という動機で)することができたのならば、より大きな成長が得られると考えられます。



一昔前は、利益を追い求めるだけの会社が多かったです。

今は、社会貢献をして利益を得るという意識に変わって来ました。

それは、自然法則の働きにより、社会が進化しているからと考えられます。

私が子供の頃は、障がいがある人は家で過ごしている人が多かったです。

今は、外で活躍する場が増えて来ました。

それも、自然法則の働きにより、世の中が進化しているからと考えています。

女性が社会で活躍し、男性が家事をするようになったのも、時代と共に人や社会が進化しているからと考えています。

自然法則の働きにより人や社会は、より自由で平等で利他的な方向へと向かっています。



今から500年前、日本は戦国時代でした。

県よりも小さい領土が1つの国となっていて、国同士で争っていました。

それが、長い年月をかけて1つにまとまり、日本と言う国家になりました。



世界も同じです。

初めは小さな領土から始まり、争いを繰り返しながら、次第に大きな領土となって行き、現在の国となっています。

小さな枠組みから大きな枠組みへと進んで行くのも、自然法則の働きによるものです。



現在の枠組みで終わりではありません。

さらに進んで、国という枠組みが、少しずつ取り払われて行くと思います。

どれ位、先になるのか想像も付きませんが、最終的に国という概念はなくなり、世界全体が1つの共同体になると考えられます。

その流れを、最も妨げてしまうものが「戦争」なのです。



余談ですが、宇宙には知的生命体が存在する惑星が無数にあると考えられます。

高度に進化した生命がいる惑星では、全体が1つの共同体になっているので、争いは全く起きないと想像しています。

争いがあるかどうかは、その惑星の進化の程度を的確に反映していると思います。



自然法則は人だけでなく、国に対しても働いています。

国のエゴ、あるいは過ちによって生じる苦痛を享受するのは、そこに住んでいる人たちです。

国を構成しているのは、個々の人だからです。

利己的な人が多くなるほど、国も利己的になり、争いが起きやすくなります。

他者を思いやる人が多くなるほど、他国を思いやるようになり、平和な国になります。

平和な世界を望んでいながら、自分のことしか考えないのでは、つじつまが合わないのです。



道端のタンポポは、ただ咲いているのではありません。

太陽の陽を浴びて、大気から二酸化炭素を吸収して、酸素を放出しています。

その量はわずかであっても、酸素を必要としている動物が生きるために、立派に役割りを果たしていることになります。

1人ひとりの人間も同じであり、全体のために何らかの役割りがあるはずです。



自分ひとりでは生きられません。

全体に支えられて生きています。

全体に支えられていると同時に、全体を支えながら生きています。

持ちつ持たれつ、相互扶助の関係です。

この意識は、地上に生まれる前に誰もが持っていましたが、肉体に宿り、五感で世界を感識するようになって、極度に薄れています。


宇宙から地上を見れば、国境線はありません。

陸地や海や空を通して、全てがつながっています。

地球全体が1つです。



個々が集まって、全体を形成しています。

地球全体が運命共同体です。

お互いがお互いのために生きています。

そのことを認識していれば、戦争は絶対に起こりません。



戦争がない世界を望むのならば、その一部である自分が変わるしかありません。

エゴを鎮めて、違いを認めて、寛容であるように努めなければいけません。

平和な世界を望むのならば、自分自身が平和な心でいるように努めなければいけません。

1人ひとりが変わって行けば、世界も変わって行くはずです。




2023年11月5日日曜日

神の一部であると強く信じる


霊的真理と出会い、死ぬのは怖くなくなりました。

死後の世界があり、そこがどんなところか判ったからです。

どんなところか判った分、この世を生きるのが大変に感じるようになりました。



この世を学校に例える人がいます。

さまざまな経験を通して、自分(魂)を成長させ、神の叡智(自然法則の働き)を学んでいるので、その通りかもしれません。


学校で漢字を習うのは、好きではありませんでした。

何で覚えなければならないのだろうと思いました。

けれども、あの時苦労して覚えたものが、今、生活して行く上で活かされています。



この世での経験も同じです。

何でこんな経験をしなければいけないんだと思う時があります。

次の世界に行くと、経験を通して学んだことが活かされていることに気付きます。



学校に通っている時は、得意な教科もあれば、苦手な教科もありました。

苦手な教科を勉強をするのは苦痛でした。


この世を生きている人は、苦手とするところ、言い方を変えると欠点があるはずです。

そのままにしておくわけにはいかず、克服するために、私たちは生まれて来ています。

苦手な教科を勉強をするのが苦痛だったように、苦手なところを克服するのも苦痛を伴うことが多いと考えられます。



人それぞれ苦手なところは違います。

例えば、勇気がなく臆病な人がいれば、それを克服するのに最適な出来事を経験することになるでしょう。

そんな人生の計画を承知して、私たちは生まれて来ています。




「1番大切なものは何ですか?」

こんな質問をすると、1番は「命」であり、その次は「お金」と答える人は少なくありません。

死んだ後も、命は変わりなく続いています。

お金は価値を失います。

そんな人たちは、次の世界に行くと現実に戸惑うことになるでしょう。



本当に大切なものは、五感では分りません。

地上的なものではなく、霊的なものだからです。

学校のように、誰かに教えてもらうわけにも行きません。

自らが経験して、見い出すようになっています。

徹底的に追い詰められる出来事を経験し、霊的に目覚めることで、初めて大切なものが分かります。



生きる目的は、自分を成長させることです。

困難や障害を乗り越えること、他者に愛を表現することで成長して行きます。



次の世界に行くと、この世のような困難や障害はなくなります。

嘘のように生きるのが楽になります。

何もしなくても生きて行ける世界ですが、何もしなければ成長もしません。



そこで、何かをしなければ生きていけない地上に生まれます。

誰かのために何かをする中で、喜びを見い出すのは、きわめて意味のあることです。

次の世界に行っても、霊的な喜びを感じるために、進んで他者に奉仕するようになるでしょう。

自律的に、霊界で成長して行けるようになります。



ところで、この世で愛を表現するために不可欠なものは何でしょうか?

それは信じることです。



この世では、本質(魂)が見えなくなってしまいます。

周りにいるのは、自分とは違う人間ばかりです。

そのために、信じることが難しくなります。

愛を表現して、成長して行くためには、「能動的に」信じるようにしなければいけません。



宇宙全体が神です。

私たちは神を構成する一部です。

神と一体不可分な関係です。



今、起きている戦争は、お互いを信じられないことから始まっています。

報復が許されているカビの生えた教義に捉われ、私たちは皆、神の一部であるという認識が欠落しています。

そうでなければ、平気で人間を傷つけたり、殺したりすることはできないでしょう。



神の一部である人間を傷つけるのは、神に逆らう行為です。

自分の中にいる神(良心)への裏切りです。



人間の本質(魂)は同じです。

敵対する人間も、神の一部と思えたのならば、戦争はなくなるでしょう。

お互いを敬い、慈しむようになります。

人間だけでなく、あらゆる生命も同じです。

もっと尊重するようになるでしょう。



ひどい仕打ちをする人でも、神の一部であることに変わりはありません。

エゴに振り回され、自分の中にいる神を無視している哀れな人と言えます。

そんな人は、自分で裁こうとするのではなく、神(因果律の働き)に委ねれば良いのです。



人間が神の一部であることを、証明はできません。

証明できないことは、信じるしかありません。

信じることにより、エゴから生まれている怒りや怖れが鎮まり、穏やかな心になったのであれば、それは神とのつながりが強くなり、神の心(愛)がより顕現するようになったからと考えられます。