今から5年前、旅先で黄色の車に乗ったある青年と知り合いました。
同じ宿の、同じテーブルで食事をしたのがきっかけでした。
屈託のない明るい若者でしたが、話し込んで行くと、10代の後半から人が驚くような苦労をしていました。
聞いてみないと分からないものだと、つくづく思いました。
若くして苦難と遭遇し、無事に乗り越えて来た青年からは、強さが滲み出ていました。
私たちは今、地上を生きています。
生まれる前に、魂を成長させるための計画が立てられ、それを承知して生まれて来ています。
苦難を乗り越えること、人や動物や社会に奉仕することで、人は成長して行きます。
生きていると、さまざまな出来事が起きます。
原因がどこにも見当たらなければ、それは予め計画されていたことなのかもしれません。
ある人が遺伝的な障害を持って生まれたとします。
遺伝的なものであれば、受精前、すなわち生まれる前に原因があったことになります。
障がいが重く、自由が完全に奪われ、人の助けなしには数日も生きられないとします。
その姿を見て、過去生での過ちが原因と言う人がいるかもしれません。
そうではなく、向上した魂がさらなる向上を目指して、過酷な人生に挑戦しているのかもしれません。
よほど向上した魂でなければ、生まれる前にそのような人生を提示されたのなら、きっと尻込みをしてしまうでしょう。
障がいは、逃れられない苦難です。
それだけに、確実な成長が約束されます。
人に世話をしてもらわなければ生きて行けないのであれば、人によって生かされていることを、身を持って感じ続けることになります。
生涯に渡り施しを受けることで、愛の意味を深く学んでいるのかもしれません。
学んだことは、次の世界で活かされます。
次の世界において、より次元の高い愛を他者に表現するために、この経験がどうしても必要だったのかもしれません。
もし、何も学ぶことができなければ、肉体の不自由さは単に苦しいだけです。
怒りや妬みや恨みなどの感情に苛まれて、精神的にも苦しむことになります。
学べないことにより味わう、肉体的、精神的な苦しみが、過去の過ちの償いとなっている人もいるでしょう。
周りにいる人は、障がいがある人を助けることで、自分を役に立てることができます。
人の役に立つことで、魂は成長します。
不幸や凶事に思えることが、その人だけでなく、周りの人を含めて、学びや成長につながっていることがあります。
自分に起きたことの原因が分からなければ、さまざまな感情が生じてしまうかもしれません。
けれども、怒ったり、恨んだり、嘆くことを続けてはいけません。
その出来事から学ぶことができなくなるからです。
成長する力が奪われてしまうからです。
シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。
「地上には自分を変えようとせずに世の中を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、全ての発展、全ての改革は先ず自分から始めなくてはなりません。」
今の自分は、過去から現在まで、自分が行って来たことの結果です。
他者のせいにした瞬間、変わろうとする力が奪われます。
苦しみが変わるためにあるとすれば、変わることで苦しみから解放されるはずです。
変わることこそ成長です。
偶然ではありません。
因果律の働きで起きています。
必ず原因(目的)が存在します。
今は分からなかったとしても、いづれ分かる時が来て、いたく納得するでしょう。
死んだら終わりではありません。
私たちは、学ぶことがある限り、何度でも地上に生まれて来ます。
苦難を経験している人を哀れに思う人がいますが、その苦難をどこかの地上の人生で、今度は自分が経験することになるのかもしれないのです。
地上に生まれた目的が人それぞれ違うので、人生もそれぞれ違います。
成長のために計画された苦難であれば、泣き言を言わずに乗り越えて行くしかありません。
その時に、目に見えない存在が、守り導いていることを忘れてはいけません。
1人ではありません。
苦難を代わってやることはできません、
けれども、励ましたり、慰めたりして、力になることはできます。
霊的真理が生きる支えとなる人も、きっとたくさんいるはずです。
私たちは、地上という修行の場を生きる同志です。
いがみ合ったり、競い合ったりするのではなく、助け合うことで、魂の成長と言う同じ目的に向って手を取り合っで進んで行くことができます。