若い時に、何のために生きているのだろうと、漠然と考えていました。
答えは見つからないまま、日々に忙殺されて、いつの間にか考えなくなっていました。
20数年の時を経て、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、その答えが見つかりました。
生きる目的は、この世でさまざまな出来事を経験して、自分を成長させるためです。
自分を成長させるとは、ごく簡単に言うと、強く優しくなることだと思っています。
強さと、優しさの行き着く先にいるのが神と言われる存在です。
けれども、神は私たちから独立している存在ではありません。
宇宙全体が神です。
宇宙全体とそれを統括している法則の総称が神です。
私たちは、神を構成している極小の一部です。
自分が神の一部だと言われても、その実感がないので、にわかには信じられません。
自分と神とは、かけ離れた存在のように思えてしまいます。
考えてみて下さい。
溺れている人が目の前にいれば、理屈なしに助けてやりたくなります。
それは、私たちの中に神がいるからです。
私たちの中にいる神が顕現すると、他者のために何かをしてやりたい衝動が生まれます。
嘘をつきたくない、人を傷つけたくないと思うのも、「良心」と言う神がいるからです。
助けたいと思うのに、助けることのできない自分もいます。
その自分は、この世で自己表現するために存在している「(地上的な)自我」です。
ネガティブな意味を込めて「エゴ」と呼ぶこともあります。
自我は、この世を安全かつ快適に生きることを志向しています。
自分に危害が及ぶことを避けようとするので、「自分も溺れてしまう」と考えて、神が顕現するのを妨げようとします。
自分の中にいる「神」と「自我」のせめぎ合いが、地上ではしばしば起こります。
自我は肉体と密接に結びついています。
そのために、どうしても自分に意識が向いてしまいます。
自我にとって1番大切なのは自分なのです。
溺れている人がいても助けられないのは、自分を大切にしようとする自我の働きがあるからです。
一方、自分の中にいる神は、全体の一部であること、霊的に一体であることを認識しています。
全体に意識が向いています。
神が顕現すると、意識が全体(周囲)に向くために、自分への執着は少なくなります。
ポーランドにコルベと言う名の神父がいました。
彼は第二次世界大戦中にドイツ兵に捕らわれ、アウシュビッツ捕虜収容所に送られました。
ある時、同じ棟に収容されていた捕虜の1人が脱走しました。
捕虜が脱走すると、連帯責任を取らされ、同じ棟にいる捕虜の中から10名が無作為に選ばれ、処刑される決まりになっていました。
処刑方法は、座ることもできないような狭い懲罰房に押し込めて、食事を与えずに餓死させるという残忍極まりないものでした。
選ばれた10人の中に、神父は入っていませんでした。
ところが、選ばれた男性の1人が「ああ、妻や子に会いたい」と言っているのを耳にした神父は、その人の代わりに懲罰房に入ることを申し出たのです。
懲罰房に入った神父は、一緒にいた最後の捕虜が死ぬ時まで祈り続けたそうです。
宣教師として長崎に来ていたコルベ神父(1930年代) |
閉じ込められ、餓死して死ぬのは、誰でも恐いに決まっています。
それでも自らが進んで懲罰房に入ったのは、神父の中にいる神の部分が、自我から生じる恐れに打ち克っていたからです。
恐れや苦しみから免れることができたのは、死ぬ時まで同胞のために祈り続けていたからと考えられます。
「全き愛は恐れを締め出す」というイエス・キリストが言った真理を体現していました。
そんな特殊な状況でなくても、せめぎ合いは起こります。
道端でうずくまっている人がいたとします。
自分の中にいる神は「声をかけよう」と心の中で叫んでいます。
一方、自我は「急いでいるから」「誰かが声をかけるだろう」と適当な理由を考えて、その場を通り過ぎようとします。
そのどちらかが克った方の行動を取ることになります。
真っ先にするのは神(良心)の声です。
その後で、その声に自我の声が上書きをします。
双方で上書きが繰り返されると、心の葛藤として感じられます。
シルバーバーチはこう言っています。
「良心(神)が命じていることは、たとえその方向へ進むと苦難に遭遇することが判っていても、迷わずに従いなさい。最後にきっといいようになります。難しく考える必要はないのです。これ以上簡単な話はありません。」
何でもそうです。
良心の声は、より困難な方向を指し示していることが少なくありません。
面倒で、大変で、遠回りをするようで、聞かなかったことにしたい時もあります。
それでも、思い切ってその声に従えば、自分を成長させる方向に進んで行くことになります。
後悔することは、絶対にありません。
自我の声の方が、無難で得策のように思えます。
けれども、そちらを選ぶと成長する機会を1つ失ってしまうことになります。
良心の呵責となって、苦しみが返って来る時もあるでしょう。
ところで、優しさはどこから生まれるのでしょうか?
優しさは愛の表現形態の1つであり、魂に内在する神から生まれています。
いくら愛があっても、強さがなければ行動には移せません。
強さと優しさを兼ね備えてこそ、初めて愛を表現することができ、成長して行くことができます。
私たちは、永遠の時をかけて進化成長して行く存在です。
困難や障害や危険や苦痛が存在するこの世に生まれて来たのは、自分をより強くするためです。
自我の誘惑に負けずに、優しさを表現することで、自分をより高めることができます。
自分が死んでしまうかもしれないのに、他者のために行動できるような人は、十分な強さや優しさを兼ね備えている人ではないでしょうか。
村田奈津恵さん(人民日報インターネット版より) |
写真の女性は、2013年に横浜線の電車に轢かれて亡くなった村田奈津恵(享年40歳)さんです。
神が顕現して、この世を飛び級で卒業して行く人たちがいます。
そこまでの強さと優しさが備わっていないのであれば、長い年月をかけて少しずつ学び成長し、この世を卒業して行くしかありません。
先月ご紹介した石田様と書籍のことが、朝日新聞DIGITALで取り上げられています。
リンク先:卒業目前で急逝した18歳 後悔ばかりの母、再び向き合うまでの軌跡(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
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