学生時代は、時計のアラームセットして寝ていました。
ところが鳴り出したら無意識に止めてしまい、遅刻をしてしまったことがあります。
年を取ったせいでしょうか、今はアラームが鳴らなくても定時に目が覚めてしまいます。
眠っている人を起こすのには、五感を刺激するものが必要です。
余談ですが、設定した時間になると、アラーム音ではなく、好きな香りが漂い、臭覚を刺激して、心地よく目覚めさせる時計があれば面白いと思います。
「魂が目覚める」
いくら五感を刺激しても、魂が目覚めるわけではありません。
それでは、どうすれば目覚めるのでしょうか。
私たちは、普段、頭を使いながら生活しています。
仕事をするも、家事をする時も、勉強する時も、常に思考を伴っています。
頭脳はコンピュータとは違います。
1つの作業に集中すると、他の作業をするのが困難になります。
掛け算をしながら、聞こえて来る言葉を暗記しなさいと言われても無理です。
どちらかの作業に集中しなければいけません。
音楽を聴きながら、事務的な作業をする時があります。
もし音楽を感じているのが頭脳であれば、そちらが活動しているために、事務的な作業の効率は落ちても良いはずです。
私の場合は、むしろ効率は上がります。
聴覚から伝わる音声の情報を処理しているのは頭脳です。
けれども、実際に感じているのは頭脳ではなく、その奥にある精神(心)です。
人間は魂、精神、肉体の複合体です。
日常生活は、精神を働かせて肉体を動かして営まれています。
精神から出された指令が、頭脳を活動させて、肉体を動かしています。
精神上には、地上の顔となる「自我」が形成されています。
自我には気質や性格が表れていて、その人の霊的な様相が色濃く反映されていると考えられます。
そして、自我は肉体からの影響を強く受けています。
日常生活では、魂が前面に出ることはほとんどありません。
大部分が、自我(精神)により、処理されています。
しかし、自分の学びや成長に関わるような重要な局面になると、前面に出て来ると考えられます。
成長を促す、あるいは妨げないような決断をさせようとします。
内なる魂の声です。
けれども、自我が拮抗する時があります。
自分の安全や利益のために、その声を掻き消そうとしている時があります。
魂は神性を帯びています。
生命(魂)は、元来神性を表現するために創られたはずですが、媒体である自我の制約を大きく受けます。
地上を生きるために自我は必要なものですが、魂の表現を妨げてしまうものでもあります。
捨てられた子猫が、道端でないていたらどうでしょう?
心配になり、何とかしてやりたくなります。
それは、私たちに神性がある証拠です。
一方で「関わってしまうと厄介なことになる」こんな声も心の中で聞こえて来ます。
その声は、自我の働きによるものです。
魂の声と自我の声の間で、時に揺れ動きます。
地上では、魂が直接、肉体を使って表現するのではなく、自我(精神)という媒体を間に挟んでいるために、そのような葛藤が起こります。
人は、困難や障害を乗り越えて行くこと、人や動物や社会のために役に立つことで成長します。
自我は肉体からの影響を強く受けているために、自分(肉体)を守ろうとする傾向があります。
自我の働きが強くなると、保守的あるいは利己的になってしまいます。
そうなると成長は望めなくなります。
日常生活では、頭脳ばかりを使っています。
快適に楽しく生きることばかりを考えています。
そうすると、次第に自我の働きが強くなり、いつしか自我の陰で、魂は眠ってしまいます。
以前の私がそうでした。
仕事で成功すること、楽しく生きることばかりを考えていました。
そこに、今まで経験したことのない出来事が、何の前触れもなく起きました。
窮地に立たされ、次第に精神的に追い詰められて行きました。
万策尽きたところで、それまで意識することのなかった意識が前面に出て来ました。
その意識こそが、本当の自分(魂)と考えられます。
魂は自分の進むべき方向を指し示しました。
それは、自分に嘘偽りがなく、良心の声に忠実になる方向です。
けれども、そちらに進むと苦境に追い込まれ、失うものが大きいことが分かっています。
それでも、指し示された方向に進んで行ったところ、想定された中で最悪の事態が待っていました。
するとどうでしょう。
それまで理解できなかった霊的真理が、苦境に追い込まれるに従って、理解できるようになりました。
もし、良心の声に従わなかったら、真理は受け入れられなかったと思います。
学び成長する方向を、魂は指し示していたのです。
この先に起きること、生まれる前に決めていた人生の計画も、意識に上がってこないだけで、魂は承知しています。
自我には、五感を通して得られた、地上的な知識が蓄えられています。
魂には、経験を通して得られた、霊的な叡智が蓄えられています。
どう生きるべきか、どうすれば成長するかを知っているのは、自我ではなく魂です。
魂の声に従って生きることで、人は成長します。
私たちが成長するように、自然法則は創られています。
自我の働きが強くなり過ぎて、予定された成長が望めなくなると因果律が作動して、魂を目覚めさせる出来事が起こります。
その多くは、病気や事故など不幸や災難と言われるものであり、頭をいくら働かせても解決することができない出来事です。
いくら望んだとしても、魂は覚めるものではありません。
特殊なトレーニングをしたり、呪文を唱えたとしても目覚めません。
魂にまで響く深甚な出来事を経験し、自我が瓦解して、初めて目を覚まします。