ただ、作者はレオナルド・ダヴィンチではなく、ジョン・マイオットと言う現存の人です。
上手く描かれているので、本物と間違えてしまいます。
本物と偽物で違うと感じることもあります。
本物には作者の念(想い)のようなものが込められていると思います。
「魂がこもっている」と言う人がいますが、それと同じです。
偽物にはそれが感じられません。
それは、お金のために描いているからだと思います。
芸術鑑賞とは、作品に込められた作者の想いを読み取る、サイコメトリーな作業だと思います。
芸術家の多くは、インスピレーションに(ひらめき)よって創作しています。
インスピレーションの源泉は霊界です。
地上の芸術家が、霊界からインスピレーションを受け取って、それを五感で認識できる形で表現しています。
そう考えると、芸術とは霊界の美を再現していると言えるのかもしれません。
ダビンチの描いたモナリザは、この世の人、この世の風景に見えないのは、そのせいだと思います。
絵から霊気が漂っているようです。
北欧のモナリザとも言われる、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」です。
時代を超えて生きているような生々しさが感じられます。
高い技術のせいもあるでしょうが、込められた想いが、作品に生命力を与えていると思います。
音楽もそうです。
どんなに上手に歌を唄っても、心に響くとは限りません。
逆に、上手くなくても、響くことがあります。
歌に込めた想いを、聴く人が感じ取っているからだと思います。
想いを感じ取っているのは、5感を超えた感覚です。
俗にいう第6感がそれに当たると思います。
第6感とは霊的な感覚であり、インスピレーションもそこで受け取っていると考えられます。
もし、霊的な感覚が存在しなかったのなら、優れた芸術や、偉大な発見は生まれることはないでしょう。
意識が生まれるのはどこでしょうか?
脳の働きですべてを説明しようとする科学者がいますが、物質的な脳から非物質的な意識が生まれるはずはありません。
悲しみも、怒りもそうです。
脳ではなく、自我と言う意識体で感情が生まれます。
自我で生まれた感情が脳に伝わり、それに対応して脳が活動をしています。
五感から脳を介しての入って来た情報と、霊的な感覚によって得られた情報が、自我で統合されて想い(思念)が生じます。
想いを伝える、地上の媒体は言葉です。
「ありがとう」と言う言葉の本質は、感謝の想いです。
想いは直接伝えられないので、五感で判る言葉に変換しなければなりません。
地上では、面倒な行程を繰り返しながら、コミュニケーションをしています。
同じ「ありがとう」でも、感謝の想いが込もった「ありがとう」と、事務的な「ありがとう」があります。
古くから言葉には霊力が宿っていると言われ、それを「言霊」と呼んでいます。
言葉に想いというエネルギーを無意識に込めて伝えています。
地上の人は、五感を介して得られた文字としての情報と、霊的な感覚で受け取った想いを、同時に受け取っています。
メールで「ありがとう」の文字の後に😄などの絵文字を付け足して補足することがあります。
伝えられるのは文字だけで、想いまで伝えられないからです。
目に視える言葉ではなく、目に視えない想いが本質です。
人間も同じです。
目に視える肉体ではなく、目に視えない「魂」こそが人間の本質です。
肉体は、魂から生じる想いを表現するためにある、物質的な媒体に過ぎません。
人から発せられている想いは、さまざまです。
怒りや憎しみもあれば、悲しみや喜びもあります。
想いはエネルギーの一種であり、固有の振動をしています。
怒りや憎しみの想いは振動数が低く、他者を慈しむ想いは振動数が高いと考えられます。
高い振動数の想いを放っている魂ほど、進化していると考えられます。
進化の程度が異なる人たちが、同一平面で生活しているのが地上です。
さまざまな思念が飛び交い、知らずに受け取っています。
類は友を呼ぶと言われますが、放っている思念が似通っていると同調して、同じような人が集まりやすいと考えられます。
逆に、違う思念を放っている人は違和感を感じて、近づきにくくなります。
肉体は同じ地上にいます。
けれども、魂は違う波長の世界で生きていると言えます。
地上に生きていても、怒っている人は怒りの世界に、悲しんでいる人は悲しみの世界に、喜んでいる人は喜びの世界に生きていると言えます。
そして、同じ波長の世界に関心が行き、視える世界も変わって来ます。
イスラム国:日本経済新聞より |
死を待つ人々の家 |
肉体を持つ、私たちも霊的な存在です。
想いを感じる霊的な感覚があり、外部からさまざまな影響を受けています。
自分が放っている思念と同じ波長の思念に同調します。
共鳴することによって、その後の行動が変わって来ます。
いつの日か死が訪れ、肉体はなくなります。
肉体がなくなっても、生前と変わらない想いが、魂から発せられています。
遮るものはなくなり、対象となる魂に想いはダイレクトに伝わります。
以心伝心であり、伝える側と伝えられる側の間に齟齬は生まれません。
霊界はシームレスな思念(波長)の世界です。
地上とは比較にならないほど厳格に、自然法則の働きによって、同じ波長の世界に引き付けられます。
そこにいるのは、似たような思念を放っている人たちなので、安心していられます。
違う波長の世界(界層)に行くと、判り合えないので、居心地が悪いようです。
霊界では、思念が光となって魂から放射されているのが視えます。
何を想っているのかが一目瞭然であり、その人の本性が判ってしまいます。
肉体がなくなり、大きな解放感を味わいますが、見せたくなかった未熟な部分を隠せなくなり、恥ずかしい思いをするかもしれません。
未熟な自分を変えるために、多くの人は地上に生まれることを望みます。
目的を果たすために相応しい人生が立案されて、それを了承して地上に誕生します。
不幸と言われるような出来事が、ある日突然起きるかもしれません。
あるいは、未熟な部分がパーソナリティーの一部となって生まれ、それが表現される度に因果律が働いて、苦痛を伴う出来事が起きるかもしれません。
遭遇する出来事に悪戦苦闘する中で、大切な教訓を学び、自分が変わって行きます。
霊界に戻り、地上を振り返って、こう思う人も多いでしょう。
「つらかったからこそ自分が変われた」
予期していた自分になれたのなら、深く納得するでしょう。
地上を経験する度に、未熟な部分はなくなり、完全(神)に近づいて行きます。
浄化された魂は、地上に生まれる前より、美しい光を放つようになっています。
8 件のコメント:
イクミさん、
読ませていただきました。ありがとうございます。
ダ・ヴィンチとフェルメールの絵画、音楽で感じるもの。私も同感です。
モナリザの本物を間近で見た時(日本での公開のようなものものしい柵や警備や芋を洗うような人だかりもなく、さりげないたたずまいでおかれていましたが)、何かただならぬ気配、殺気のようなものを感じました。
ミレーの晩鐘を見た時は、胸が熱くなって涙が出てきました。初めてのことでした。
音楽の演奏でも実感しています。プロの演奏家でも技術は高くても音楽を感じない演奏がたくさんあるんです。
アマチュアでも、音楽教室の発表会でも、それがあります。上手でミスが無くても、何も感じない、何も聞こえてこないことがある。技術はつたなくても、強烈に音楽が突き刺さってくることが、本当にあるんです。
悩みと苦しみは今も変わっておらず、選択の期限も迫っていて、毎日朝が来るのが恐ろしく、その日1日だけを必死にもがいて生き延びるのがやっと、です。
もう半年近く、まったく練習もできず音楽のことを考える余裕もないのですが、不思議なんです。レッスン(いま、その時間だけが、生きている、と言える時間で、、)で、私の中に音楽が聴こえるんです。音楽を感じるんです。
練習していないので、楽器のコントロールや音程や音階は焦点がぼやけてしまっているんですが、クラシックのエチュードも、ジャズも、ブルースも、カラダが音楽とつながって動き出すんです。。
これまでにはなかった感覚なんです。音楽を感じる!
コードやスケールやII-Vフレーズや、練習したいことがたくさんあって、それがまだ無いからテーマの後のアドリブもボキャブラリーがまだほんの数語しかない赤ちゃんのメチャメチャなおしゃべりみたいなものなんですが、楽しい、んです。
赤ちゃん言葉みたいに、ぶつかる音や指や音の間違いを連発しながら、音楽は感じるんです。
形式がカラダに入っていなくて32小節のどこにいるのかわからなくなって間違うんですが、歌いたい音があるんです。
師匠もちゃんとそれを感じていて、そう聴こえると言っています。
伴奏のリズムセクションや、師匠が弾いてくれるピアノ伴奏や、吹いてくれるアドリブが聴こえていて反応しているように聴こえる、楽しそうに聴こえる、フレーズ(言葉)これしか知らないけどそれがどうした行っちゃえー!って聴こえる、テンポがゆっくりに感じるでしょう?、と。
長くなってすみません。。
これほど苦しみ、追い立てられ、追い込まれ、絶望感に押しつぶされるのは何故なのか、何のためなのか、まったくわかりませんでした。守護霊、背後霊に問いかけ祈り続けて、今もわかりません。
練習も出来ず、譜面を読む気力もなく、音楽のことを考える余裕もなく、何もしていないのに、私の中で音楽は育ってくれていた???
悩んでのたうち回って苦しんで、魂が掘り返されているのでしょうか。
苦しみが、自分でもまだ知らない魂の隠れていた部分を掘り出してくれているのでしょうか。
ロダンも、ビル・エヴァンスも、コルトレーンも、魂からの何かを私たちに届けてくれた先人たちはみな苦しみました。苦しみ抜きました。
言葉が出てきません。。
ここまで溢れてきて、、出なくなりました。
“自分の頭で考えるのではなく、自然に身を任せるのじゃ。”
このお言葉が浮かびました。
ラッパ吹き
ラッパ吹き様
こんばんは。
仕事で今まで外出しており、返信が遅れて申し訳ありません。
書いてあることに賛同していただき、ありがとうございます。
美術鑑賞が好きになったのは、霊的に目覚めてからです。
ミレーの晩鐘は、私が最も好きな絵の1つです。
神やイエスは描かれていませんが、最高の宗教画だと思っています。
山梨県立美術館に、ミレーの作品が所蔵されていますので、機会があれば立ち寄ってみて下さい。
私は演奏をしたことはありませんが、自分の想いを楽器を通して表現できるので羨ましいです。
歌いたい音があるけど、肉体がついて来ないで表現できないのはもどかしいですね。
芸術家たちも、きっと同じ様なもどかしさを感じていると思います。
苦しみによって、魂は浄化され、新しいものを創造できることを、ビル・エバンスの演奏、あるいはベートーヴェンの音楽を聴いていると感じます。
守護霊や背後霊に祈っても回答が得られないのは、新しい自分になるためかもしれません。
深い愛があってのことです。
魂は認識しているのですが、それを表現する言葉が見つからないのだと思います。
見つかった時、得心して、苦しみは和らぐと思います。
新しい世界も見えて来るでしょう。
つらい思いをされていますが、その時はもう少しかもしれません。
いくみ様
ブログ読ませて頂きました。
早朝のパートを始めて1年になります、母が逝き日々の暮しをきちんとしたいとの思いから始めた仕事です。
通勤の途中にお地蔵様が居て手をあわせるようになり、お顔を見ると微笑んでいてくれます…
いくみ様のブログにある芸術ではありませんがお地蔵様の思いを感じて仕事へ行きます。
いくみ様
肉体はなく、見えなくても思いは通じる事
辛い長い日々を経験してわかるようになりました。
話がちぐはぐですみません。
聞いてくださりありがとうございます!
あさよ様
こんばんは。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
早朝のパートをしているのですね。
今は寒いでしょうが、良いことだと思います。
お地蔵様ですが、世の中の平和を祈りながら作られたのかもしれません。
見えなくても思いは通じることが判っていただけて、本当にうれしいです。
長かったつらい日々は、魂が目覚めるために必要だったと思います。
あさよ様のように、もっともっと多くの人が、つながりを取り戻して欲しいです。
いくみ様
私も絵画鑑賞は好きです。美術館に行くと、描いた人の思いを考えながら鑑賞したりしています。
ところで、全然関係ないことを書いてしまい申し訳ないのですが・・・。
「親知らず」って、絶対に抜いたほうが良いのでしょうか?
変な方向に生えていますが放置しています。
こんなことを聞いてしまい、本当にすみません。m(__)m
ユーリ様
こんばんは。
返信が遅れて申し訳ありません。
親知らずの件ですが、以下の場合は抜いても良いのではないでしょうか。
・歯ぐきの痛みや腫れを繰り返している
・あることによってプラークコントロールがしにくくなり、前の歯の歯周病や虫歯の原因になっている
・親知らず自体が大きな虫歯になっていて、反対側の歯と嚙み合っていない
いくみ様
お忙しい中、ご回答をありがとうございます。
痛みや腫れはないのですが、抜歯を検討します。
親知らずだけでなく、かみ合わせがめちゃくちゃ酷いと過去に歯医者さんに言われたことがあるので、矯正もしなくてはならないかもしれません。
つまらない質問をしてしまい申し訳ありません・・・。
ユーリ様
歯医者ですから、何でも聞いて下さい。
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