魂が存在するのか?、それともしないのか?
遠い昔からある命題です。
客観的に証明されないものは、いかがわしいと感じていた私は、魂の存在を信じていませんでした。
望んでいたわけでもないのにヒーリングの力が出現し、唯物的な考えは吹き飛ばされました。
証明されていないものでも、実際に存在していることが、はっきりと判りました。
その後すぐに、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に辿り着き、その力について合理的な解釈が出来ました。
科学は万能ではありません。
生命について何の説明もなされていません。
それは、唯物的な科学の対象外のものだからです。
生命とは魂です。
至って単純なことですが、未だに認められていないのは残念です。
物理学に詳しいわけではありませんが、物質を極限まで突き詰めて行くと波動になるようです。
物質には硬さや重さがありますが、実はそれも波動が作り出した錯覚のようなものです。
魂が目に視えないのは、物質(肉体)よりもはるかに波長が短いためと考えられます。
物質と非物質の差は、もしかしたら波長の違いだけなのかもしれません。
荼毘に付されて肉体はなくなります。
しかし、生命の本質である魂は物質ではないので、燃えて消えてしまうことはありません。
魂が存在し、死んだ後にも生が続いているのならば、この世に生まれる前にも生があるはずです。
しかし、その内容は全く判りません。
判っているのは、前生と今生は、密接に関係していると言うことです。
前生、現生、来生は「因果律」と言う法則によって、つながっています。
前生で原因を作れば、現生で結果が生じることになります。
現生で原因を作れば、来生で生じることになります。
遠い過去から、因果の連鎖を繰り返しながら、現在の自分がいます。
人生は楽しいことばかりではありません。
時には、とんでもない苦難に遭遇します。
何の脈絡もなく、突発的に出来事が起きたのなら、それは生まれる前から決まっていたことなのかもしれません。
何のために、出来事が起きるのでしょうか?
目的は1つであり、自分(魂)が成長するためです。
成長するために、必要なことが起きています。
決まっていた出来事は、大まかに「償い」と「挑戦」に分かれると考えています。
宇宙の隅々まで、自然法則が働いています。
自然法則に反する行いをすれば、因果律の働きにより「償い」が生じます。
例えば、人を裏切って大きな苦痛を与えるようなことをすれば、それは自然法則に反した行いなので、寸分の狂いもなく、同等の苦痛が生じる出来事が起こります。
生きている内に起きなければ、来生に持ち越されます。
裏切られたらどうなるのか、思い知らされる出来事が起きて、苦痛を味わうことでその罪を償いながら、自然法則を学んで行きます。
私たちには、成長しようとする根源的な欲求があります。
苦痛が生じる出来事など、誰でも嫌に決まっています。
しかし、償いをしないと成長することが許されないので、受け入れるしかないのです。
出来事が起きたのは、そんな理由の時もあります。
私たちが次に行くのは、肉体が取り払われた、本質(魂)の世界です。
地上では判らなかった神の存在を、ひしひしと感じられるようになります。
完全(神)とはどんなものなのかを理解するようです。
魂と向き合うことになり、否が応でも不完全(未熟)さを強烈に自覚するようになります。
自転車に乗れるようになるには、本を見たり、口で教えてもらってもだめです。
実際に、自分で乗って覚えるしかありません。
何回も転んで痛い思いをしながら、乗り方を覚えて行きます。
未熟さをなくして行くのも同じです。
相応の経験が必要であり、苦しい思い、痛い思いをしながら、成熟させて行くしかありません。
完全に少しでも近づきたいと願えば、その願いは叶えられ、地上に生まれて来ます。
そして、因果律の働きによって、最適な出来事が、最善のタイミングで起きます。
生まれる前の自分は、そのことを承知しています。
しかし、その時の記憶は、魂の奥深くにしまい込まれていて、表には出て来ません。
もし、出来事が起きることが判っていたら、全精力をかけて回避しようとするでしょう。
あるいは、生きる気力をなくしてしまうかもしれません。
私たちは未熟なために、知ることが許されていないと考えられます。
そのために、突然起きたとしか思えません。
何で私がと、思ってしまいます。
とても耐えられないと、思うこともあるでしょう。
偶然でも、不運でも、不幸でもありません。
挑戦するのを決めたのは自分です。
決めていたことが、予定通りに起きているだけです。
人間には自由意思があります。
挑戦するべきところ、乗り越えるべきところで逃げてしまったりすると、予定していた学びや成長が得られなくなります。
勇気を振り絞って挑戦するのも、つらくても逃げ出さないのも、成長する機会を逃したくないからです。
成し遂げられずに悔しい思いをして、再度、挑戦するために生まれて来た人もいるはずです。
乗り越えられられない出来事は絶対に起きません。
神によって創案され、挫折させるためではなく、成長させるために起きているからです。
乗り越えられることが分かっていたので、承知したはずです。
苦しませるだけ苦しませて、終わりになることは絶対にありません。
死んだ後に赴くのは、自分と同種の人しかいない、安らかで平和な世界です。
居心地の良い世界ですが、自分を大きく変えるのは難しいようです。
魂まで響く深甚な出来事を経験して、初めて未熟な自分を根本から変えることが出来ます。
そのために、この世に生まれて来たのです。
自分が変わった(成長した)時に、出来事の目的が成就されます。
どう変わったのかは、死んだ後にはっきりと認識されます。
人生は1度限りではありません。
望んでいる限り、何度でも生まれ変わります。
何の目的もなく、この世に生まれて来た人はいません。
全ての人に共通している目的は、自らの変革であり、進化です。