2020年11月29日日曜日

生まれて来た目的


魂が存在するのか?、それともしないのか?

遠い昔からある命題です。

客観的に証明されないものは、いかがわしいと感じていた私は、魂の存在を信じていませんでした。



望んでいたわけでもないのにヒーリングの力が出現し、唯物的な考えは吹き飛ばされました。

証明されていないものでも、実際に存在していることが、はっきりと判りました。

その後すぐに、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に辿り着き、その力について合理的な解釈が出来ました。



科学は万能ではありません。

生命について何の説明もなされていません。

それは、唯物的な科学の対象外のものだからです。

生命とは魂です。

至って単純なことですが、未だに認められていないのは残念です。



物理学に詳しいわけではありませんが、物質を極限まで突き詰めて行くと波動になるようです。

物質には硬さや重さがありますが、実はそれも波動が作り出した錯覚のようなものです。

魂が目に視えないのは、物質(肉体)よりもはるかに波長が短いためと考えられます。

物質と非物質の差は、もしかしたら波長の違いだけなのかもしれません。

荼毘に付されて肉体はなくなります。

しかし、生命の本質である魂は物質ではないので、燃えて消えてしまうことはありません。



魂が存在し、死んだ後にも生が続いているのならば、この世に生まれる前にも生があるはずです。

しかし、その内容は全く判りません。

判っているのは、前生と今生は、密接に関係していると言うことです。

前生、現生、来生は「因果律」と言う法則によって、つながっています。

前生で原因を作れば、現生で結果が生じることになります。

現生で原因を作れば、来生で生じることになります。

遠い過去から、因果の連鎖を繰り返しながら、現在の自分がいます。



人生は楽しいことばかりではありません。

時には、とんでもない苦難に遭遇します。

何の脈絡もなく、突発的に出来事が起きたのなら、それは生まれる前から決まっていたことなのかもしれません。



何のために、出来事が起きるのでしょうか?

目的は1つであり、自分(魂)が成長するためです。

成長するために、必要なことが起きています。



決まっていた出来事は、大まかに「償い」と「挑戦」に分かれると考えています。

宇宙の隅々まで、自然法則が働いています。

自然法則に反する行いをすれば、因果律の働きにより「償い」が生じます。

例えば、人を裏切って大きな苦痛を与えるようなことをすれば、それは自然法則に反した行いなので、寸分の狂いもなく、同等の苦痛が生じる出来事が起こります。

生きている内に起きなければ、来生に持ち越されます。

裏切られたらどうなるのか、思い知らされる出来事が起きて、苦痛を味わうことでその罪を償いながら、自然法則を学んで行きます。



私たちには、成長しようとする根源的な欲求があります。

苦痛が生じる出来事など、誰でも嫌に決まっています。

しかし、償いをしないと成長することが許されないので、受け入れるしかないのです。

出来事が起きたのは、そんな理由の時もあります。



私たちが次に行くのは、肉体が取り払われた、本質(魂)の世界です。

地上では判らなかった神の存在を、ひしひしと感じられるようになります。

完全(神)とはどんなものなのかを理解するようです。

魂と向き合うことになり、否が応でも不完全(未熟)さを強烈に自覚するようになります。



自転車に乗れるようになるには、本を見たり、口で教えてもらってもだめです。

実際に、自分で乗って覚えるしかありません。

何回も転んで痛い思いをしながら、乗り方を覚えて行きます。



未熟さをなくして行くのも同じです。

相応の経験が必要であり、苦しい思い、痛い思いをしながら、成熟させて行くしかありません。

完全に少しでも近づきたいと願えば、その願いは叶えられ、地上に生まれて来ます。

そして、因果律の働きによって、最適な出来事が、最善のタイミングで起きます。



生まれる前の自分は、そのことを承知しています。

しかし、その時の記憶は、魂の奥深くにしまい込まれていて、表には出て来ません。

もし、出来事が起きることが判っていたら、全精力をかけて回避しようとするでしょう。

あるいは、生きる気力をなくしてしまうかもしれません。

私たちは未熟なために、知ることが許されていないと考えられます。



そのために、突然起きたとしか思えません。

何で私がと、思ってしまいます。

とても耐えられないと、思うこともあるでしょう。



偶然でも、不運でも、不幸でもありません。

挑戦するのを決めたのは自分です。

決めていたことが、予定通りに起きているだけです。



人間には自由意思があります。

挑戦するべきところ、乗り越えるべきところで逃げてしまったりすると、予定していた学びや成長が得られなくなります。

勇気を振り絞って挑戦するのも、つらくても逃げ出さないのも、成長する機会を逃したくないからです。

成し遂げられずに悔しい思いをして、再度、挑戦するために生まれて来た人もいるはずです。



乗り越えられられない出来事は絶対に起きません。

神によって創案され、挫折させるためではなく、成長させるために起きているからです。

乗り越えられることが分かっていたので、承知したはずです。

苦しませるだけ苦しませて、終わりになることは絶対にありません。



死んだ後に赴くのは、自分と同種の人しかいない、安らかで平和な世界です。

居心地の良い世界ですが、自分を大きく変えるのは難しいようです。

魂まで響く深甚な出来事を経験して、初めて未熟な自分を根本から変えることが出来ます。

そのために、この世に生まれて来たのです。

自分が変わった(成長した)時に、出来事の目的が成就されます。

どう変わったのかは、死んだ後にはっきりと認識されます。



人生は1度限りではありません。

望んでいる限り、何度でも生まれ変わります。



何の目的もなく、この世に生まれて来た人はいません。

全ての人に共通している目的は、自らの変革であり、進化です。







2020年11月22日日曜日

同胞意識


新型コロナウィルスの流行が止まりません。

世界では5560万人以上の人が感染し、134万人以上の人が亡くなっています。

慣れとは恐ろしいものです。

少し前は、感染者が増えると脅威に感じていたのに、今ではそれほど驚かなくなっています。



世界で1番感染者が多いのはアメリカです。

今までに1100万人を超える人が感染し、24万人以上の人が亡くなっています。

経済的に豊かで、医療水準が世界のトップレベルにもかかわらず、感染者や死亡者が抜きん出て多いのは何故でしょうか?



多くの人が感じている様に、マスクを着けない人がたくさんいるのも一因となっているのは間違いありません。

ソーシャルディスタンスを守っていない人も少なくないようです。

個人の自由を尊重する余り、感染のリスクを高めてしまっているように見受けられます。



他にも要因があると思います。

アメリカの医療費は信じられないほど高額です。

例えば、奥歯が虫歯になり日本の歯科医院で神経の治療をすると9400円弱ですが、アメリカで同じ治療をすると20万円位かかります。(日本は皆保険で患者さんの多くは3割負担なので、実質2820円の支払いです)

盲腸の手術で入院すると、日本では約53万円(自己負担は約16万円)、アメリカでは600万円もかかるそうです。

日本では、救急車で病院に運ばれても無料です。

アメリカで救急車を利用すると、後で数十万円の請求書が送られて来るそうです。

これでは、アメリカに行って病気にはなれません。



アメリカ人の多くは民間保険に入っていて、そこから医療費が払われます。

しかし、2750万人の人は保険に入っていないそうです。

保険に入っていない人が、もし新型コロナウィルスに感染して入院し治療を受けると、どれ位の治療費を請求されるのか?

470~820万円と言う試算があり、中には1億2000万円もかかった人もいたようです。(高齢者で公的医療保険制度の対象であったため支払いを免れました)

保険に入っていない人のほとんどは所得が低いために、そんなお金など持っているはずはありません。

コロナに感染している可能性があっても、薬局で風邪薬を買って飲んで、家でじっとしている人が多いのではないでしょうか。

もし、一緒に住んでいる人がいるのならば、家庭内で感染するのは目に見えています。

体の調子が悪いからと言って休むと解雇されてしまう可能性があるので、無理を押して仕事にも出るでしょう。

今度は、職場において感染が起こります。



人種間でも、死亡率に大きな差があるようです。

シカゴ市では黒人の人口比率が約30%に対して、死亡者は約60%だそうです。

全米においても、人口10万に当たりの黒人の死亡率は、白人の2倍以上です。

この理由は、人種間の生物学的な差ではなく、適切な医療を受けられるかどうかの社会的な立場の差を反映していると思われます。

また、経済的な理由から適切な医療を受けられず、基礎疾患が放置されているために重症化し、死亡率を高めている可能性もあります。

こんな社会的な背景もあって、1日に2000人に迫る人が亡くなっていると推察されます。



次に、感染者や死亡者が多いのがインドとブラジルです。

やはり、経済的に豊かな人と貧しい人の格差が著しい国です。

格差に慣れ切ってしまい、同じ国にいる人がコロナの感染による生命の危機に晒されていても、どこか対岸の火事の様に感じている人が多いのではないかと思ってしまいます。



自由競争社会では格差が生まれるのは当然であり、それを否定する気はありません。

努力した者が、報われる社会であって欲しいと思います。

しかし、自分さえ良ければそれで良い、そんな利己的な考えが蔓延してしまうと、社会的な格差は予想以上に広がり、弱者は見捨てられることになります。

そんな弱者を狙って、コロナは拡がっているような気がしてなりません。

現状のままでは、流行は止まらないような気がします。



地上には、勝ち負けがあります。

霊界では、調和や協調を基調とした世界なので競い合うことはなく、そのために勝ち負けは存在しません。

あるのは、霊的な進化の程度の差だけであり、より多くのものを分け与える者が、自然法則の働きによって上に行きます。

持っている者が、持っていない者に分け与えることによって、神の愛が満遍なく行き渡る様になっています。

それに比べて地上では、勝ち負けにこだわり、持っている者が、さらに持とうとするために、格差が進んで行きます。

地上では仕方がないと思っている人も多いでしょうが、明らかに神の摂理に反した状態です。



霊界では、霊的な罪を犯せば、神の摂理の働きにより、直ぐに結果が現れます。

しかし、地上では物質が介在しているために、結果が現れるとは限りません。

そのため、罪を犯していても気付くのが難しくなります。



神の摂理は愛です。

利己的な行いや、貪欲さは、道徳的に良くないのではなく、霊的に罪なことです。

そのことに気付かないまま、生きている人があまりにも多いです。



地上的な欲望が強くなると、霊的な意識は希薄になります。

それに伴い、同胞意識が欠如して来ます。

自分のことだけを考えていると、街の片隅で助けを求めている人がいても、そのことに気付きません。

気付いたとしても、他人事であり、見て見ぬふりをしてしまいます。

それが当たり前になっている社会は、霊的に病んでいます。

コロナの流行が、人間が利己的になり、同胞意識が欠如したために、歯止めがかからないのであれば、その原因は霊的次元にあると言えます。



もし、人間が利己的になることで、コロナが蔓延するのであれば、利他的な行動を心がければ、終息に向かうはずです。

それでは、具体的にどの様な行動を取れば良いのでしょうか?

人に移さないために、マスクをするのは大前提です。

感染させる可能性があるので、多くの人との直接的な接触はなるべく避けます。

たくさんの人を感染させる可能性があるので、密集は避けるようにします。

旅行の動機が、観光施設を支援するためではなく、金銭的に得をするためであれば、良い結果をもたらすとは思えません。

ストレス解消のために飲酒をすると抑制が外れて、他者への配慮に欠けた行動を取ってしまいがちになるので極力控えなければいけません。

自分の楽しみのために、感染リスクのある行動は、今は控えた方が良いのかもしれません。

自分に移らないようにするのではなく、人に移さないと言う意識を持って行動すれば、神の摂理に適っているので、感染は拡がらないと考えています。



データは不足していますが、ワクチンは流行を止めるために、最も効果的な手段であるのは間違いありません。

世界中の人にワクチンを接種すれば、感染者も死亡者も激減すると思います。

しかし、ワクチンを開発している国は限られているので、開発することが出来ない国は、他の国に頼らざるを得ません。

国民全員に行き渡るための費用は莫大なものとなるため、経済力のない国は買えないかもしれません。



自分の国だけが良ければと思えば、アメリカと同じ状況になり、経済的に弱い国の間で蔓延して、終息することはないと考えられます。

世界規模で同胞意識を持って、経済的に豊かな国が、貧しい国のために支援しなければいけないと思います。



国はたくさんあり、人種もさまざまですが、人類は霊的に1つです。

人間だけでなく、動物たちも含め、あらゆる生命は運命共同体です

個人や自国のことばかりを考えていると、因果律の働きによって、それが過ちであることを知らしめる結果が生じます。

霊的に1つであると言う意識が生まれないと、富める国で流行が治まったとしても、貧しい国の間でくすぶり続け、因果律が働き、再び世界中に拡がる可能性があると考えています。



新型コロナウィルスの流行は、霊的に病んでしまった人類が、霊的な意識に目覚めて、健全さを取り戻すために、神の摂理の働きによって生じていると思います。

もしそうであれば、世界中の人々が同胞意識を持ち、助け合うことによって、克服できるはずです。




 

2020年11月15日日曜日

神の心を表現するために生きている


子供の頃、自転車に乗って町内を走っている若い白人男性の姿を良く見かけました。

口癖のように「あなたは~神を~信じますか~?」と尋ねていました。

ちょっと変わっている人だなと、子供心に思いました。



神がいるとは思いませんでした。

正確には、生きて行く上で関係なかったので、いてもいなくてもどちらでも良かったのです。

神は宗教が作り出した概念なので、信じないまま一生を終えるだろうと考えていました。



その考えを根本から変えるきっかけになったのは、ヒーリングの力の出現でした。

病気が癒される様子を間近に見て、大変驚きました。

未知の力の正体をどうしても知りたくて、辿り着いたのが「シルバーバーチの霊訓」です。

そこには神について書かれていましたが、私がイメージしていた神とは大きく違っていました。



シルバーバーチの霊訓には、神を「愛の極致」、「叡智の極致」と書かれています。

また、神は「法則」であると書いてあります。

そして、私たちは「神の分霊」であるとも書いてあります。

いくつもの神の側面があり、当初は戸惑いました。

しかし、今になってようやく結びついて来たように思います。



神の姿は目に見えるものではありません。

見えないからいないと言われればそれまでです。

しかし、神の力が働いている様子を見ることは可能です。



ナイフで指を切ると、肉が裂けて、血が出ます。

しばらくすると出血は止まり、傷口は徐々に塞がって行きます。

これは人間が持っている自然治癒力の働きによるものです。



自然治癒力は、生命力の一種です。

生命力とは何か?と科学者に問いただしても、明確な答えは返って来ないでしょう。

いかなる機器によっても、実体を捉えることはできない、科学の対象外のものだからです。



生命力は、物理(地上)的な力ではありません。

霊的な力であり、神の力です。

古代医学者のヒポクラテスが、「病気は神が治し、恩恵は人が受ける」と言っていましたがその通りです。

病気は医者が治しているのではなく、生物学的法則に則って、生命力と言う神の力が働いた結果として治ります。



人間は、霊(魂)、精神、肉体より成り立っています。

肉体は、口から食べたものをエネルギーに変えて活動しています。

魂は、それとは別経路の生命力によって活動をしています。

魂が電気製品で、神が発電所だとすると、発電所(神)から送られて来る電気によって電気製品(魂)が動くような構図を想像していましたが、それとは少し違うように感じています。

魂は神の一部であるため、自らも力の源泉となっていると、今は考えています。



宇宙を創造したのは神です。

何らかの意思(心)が存在し、宇宙は誕生したはずです。

私たち人間は、神の意思(心)によって創られた、宇宙を構成している極小の一部と言えます。



極小であっても、私たちには神の意思(心)が埋め込まれているはずです。

神の意思(心)など、どこにあるの?と、思うかもしれません。



こんなことを思い出します。

幼少の頃、道端で子猫が啼いていると「可哀想」だと思い、家に連れて帰りました。(また元の場所に戻すことになりましたが・・)

学校でいたずらをして騒ぎとなり、「いたたまれない」気持ちになりました。

人を傷つけて、後になってひどく「後悔」をしました。



そのような気持ちが生じるのは、どうしてでしょう?

「良心」が存在しているからです。

良心こそが、私たちに埋め込まれている神です。

良心に逆らって行動すると、心が苦しくなったり、後悔したりするのは、神の意思(心)に従って生きるように定められているからです。



神は空の上から監視をしていて、悪いことをしたら懲らしめるような存在ではありません。

自然法則として顕現していて、宇宙を経綸しています。

自然法則に反するような行いをすると、因果律の働きにより、それを改めるために苦痛を伴う事象が起きるようになっています。



例えば、自分勝手なことばかりしていたらどうでしょう?

周りから非難され、孤立してしまいます。

利己な行動は、神の意思(心)に反しているからです。

いけないことだと知らしめ、改めるために、非難や孤独と言う苦痛を伴う事象が、自然法則の働きにより起きます。



自らの中に神がいます。

そして、自然法則の働きの中にも神がいます。

内にも外にも神がいて、神の意思(心)が宇宙の隅々まで反映されています。

神の意思(心)が顕現したものがこの宇宙であり、宇宙全体が神であると言えます。



ここで、ある疑問が生じます。

神が無限の愛であるならば、神の一部である私たちの心に、相応しくない怒りなどが生じるはずはありません。

しかし、現実として生じています。

どうしてでしょうか?



今、このブログをご覧になっているのは、ご自身の意思によるものです。

私たちには、何でも決めることが出来る、自由意思が与えられています。

自由意思を行使して、自然法則に適った行いをすることも、良心に逆らって法則に反した行いをすることも許されています。

従って、人に傷つけられたり、騙されたり、陥れられてしまうこともあります。



怒りや怖れは、自分の身を守るために備わっている、原始的な感情と考えられます。

もし、存在しなければ、身に危険が生じても反撃や逃避もせずに、成すがままになってしまいます。

最悪の場合、命を落としてしまうこともあり、それではこの世に生まれて来た目的が果たせなくなります。



魂と肉体の中間に精神が存在しています。

魂から生じた想いを、肉体で表現するために、精神的次元に(地上的な)自我が形成されて行きます。

自我は肉体と密接に結びついているために、自己保存的な欲求が生じています。

高いところに立つと、身がすくむのも、自我の働きにより「怖れ」が生じているためです。

全ての人に自由意思が与えられているので、(過った自由意思の行使から)自らを護るように、怒りや怖れの感情も同時に与えられたと考えられます。



怒りが高じると憎しみとなりますが、神の心とは相容れません。

憎しみを抱いてしまうと、自然法則の働きにより、苦しみが生じます。

苦しみの中で、自分が変わることによって、怒りや憎しみから解放されて行きます。

怒りや憎しみは、進化の過程にある感情であり、媒体である自我が未発達なために生じると考えられます。

進化するのに従い、その様な感情は生じなくなり、進化の果てには、愛のみが表現されるようになると考えられます。



シルバーバーチは「魂は神性の火花」であると言っています。

人間の本質は、神性を表現しようとしているはずです。

しかし、地上では自我を通して表現しなければなりません。

火事になり取り残されている人がいて、助けてやりたくても、それが出来ないのは、自我から「怖れ」が生じて、神性の発現を妨げているからです。



こんなことも書かれています。

「人生の目的は、進化、発展、成長、学習です。進化するたびに、それまで役目を果たしてきた体が自動的に脱げ、その進化にふさわしい体をまとうのです。」

地上では肉体、死んで幽界に行くと幽体、さらに元の住処に行くと霊体をまとうことになりますが、その媒体に相応しい自我を通して自己表現をしていると考えられます。



神の心は完全なる愛です。

しかし、媒体を通過する時に、大きく変化してしまいます。

プリズムを通過すると光は屈折して、様々な波長の光に分かれますが、それと似ている様な気がしています。



自我と言う媒体の影響が小さくなればなるほど、神の心はそのままの形で表現されるようになります。

影響を全く受けなくなった時、神の心そのものが表現されるようになりますが、それには永遠の時を必要とするようです。


完全な神の心を表現するために、生命は永遠に続き、絶え間なく進化して行きます。

生命の進化こそが、神の意思(心)だと思います。




2020年11月8日日曜日

恥じることのない魂


一生を通じて、どれ位の人と会うのでしょうか?

数え切れないほどの、たくさんの人と会います。

今まで会った人は、誰一人として同じではありません。



全てに渡って自分と似ていると思う人に会ったことは、まだありません。

似ている部分もあるけれど、違っている部分もある人がほとんどです。

シルバーバーチの霊訓を読み「アフィニティの関係」と言うのがあることを知りました。

ツインソウルとも言われていますが、ロマンティックな空想上の話ではなく、実際にあるようです。

これ以上似通った人は存在せず、もう一人の自分を見ている様な感覚になるのかもしれませんが、地上で出会うことはめったにないようです。



私たちは、自分と違う人たちに囲まれ、交わりながら生きています。

違うからと言って、目くじらを立てても仕方がないのです。

当然のことですが、差別をしてもいけません。



77億人の人たちがこの地球に生きていますが、考え方や価値観はそれぞれ違います。

世の中には、たくさんの意見が存在し、その中からどれかを選らばなければならない時があります。



迷ってしまいますが、絶対的な基準が存在しています。

それは「自然法則(神の摂理)」に適っているかどうかです。

より適っている方を迷わず選ぶべきです。



自然法則の大原則は愛です。

より多くの利益(恩恵)を与える、あるいは役に立っている方が、自然法則に適っています。

自分よりも相手の方が、より人や動物や社会のためになっていたり、喜びを与えるものであれば、悔しいかもしれませんが、その意見を尊重するべきです。

自然法則に適ってないのにもかかわらず、自分の考えを押し通すのならば、周囲の反発を招くだけではなく、良からぬ結果を生じさせることになります。



利益を追求するあまり、他者がどうなっても構わないと思う人がいます。

道徳的にいけない以上に、それは自然法則に反しています。

自由(競争)の名の元に、強い者だけが生き残り、弱い者が息絶えてしまうのも反しています。

一時的に、地上的な利益は得られるかもしれませんが、長くは続かず、霊的な借金を負ってしまいます。



力があったり、声が大きければ、わがままな意見であっても通ってしまうことがあります。

次の世界に行くとそうは行きません。

利己的な思念は、周囲との調和を乱すだけであり、その人を孤立させます。



地上的な強者とは、権力や富などの力を持っている者です。

その力で、物質的なものを、自由に動かすことが出来ます。

しかし、人の心まで動かすことは出来ません。



霊的な強者とは、自分より他者のことを、より強く想う人のことです。

想う心により、魂(心)を動かすことが可能です。



霊界には無限の界層があります。

自然法則の働きにより、他者のことを想う人が、より上の界層に位置します。

上の界層ほど、神に近いため、より多くの愛を享受します。

そして、享受した愛を、下の界層にいる人たちに分け与えようとします。

分け与えられた人は、そのまた下の界層にいる人たちに、分け与えようとします。

その様にして、神の愛が上から下へと行き渡るようになっています。



地上には界層はありません。

同一平面に生きています。

そのため、他者よりも自分を優先する人たちが、往々にして上の立場になります。

それによって、さまざまな不条理が生まれ、苦しみが生まれます。

上の立場の人に、富は集まりやすい仕組みになっていると考えられます。

集まった富を、必要としている人たちに分け与えれば、霊的な価値が生まれます。

しかし、自分を優先するあまり、分け与えようとはせずに、さらに集めようとします。

こうして不均衡が進んで行き、富める者はさらに富み、貧しい人はさらに貧しくなって行きます。


肉体を維持するだけの食べ物があれば十分です。

欲に駆られて食べ過ぎると肥満になり、やがて病気になります。

必要な分だけを食べて、余っている分はお腹を空かしている人に分けてやれば、肥満になる人も、あばら骨が出るほど飢えて痩せた人もいなくなるはずです。

分け与えることで、全てが上手く行くようになっています。

自分さえ良ければと思う人が多くなると、全員が享受できるはずのものが用意されているにもかかわらず、行き渡らなくなってしまっています。


自分さえ良ければと思う人ほど、霊的なことを知りません。

この世界が全てであり、死後の世界などあるはずはないと思っています。

そんな人が死んだらどうなるのでしょう?

まだ意識があるので自分が死んだとは思えずに、権力やお金の集まる場所に引き付けられるでしょう。

ようやく死んだことに気付くと、霊的に相応しい界層に向かうことになります。

そこには、自分と似通った人、自分さえ良ければと思う人たちが集まっています。


子供の時に読んだ「蜘蛛の糸」と言う物語を思い出します。

暗く、争いが絶えることがない世界でしょう。

平和で穏やかな境涯とはかけ離れ、あるのは我欲から生み出される不調和であり、苦しみです。



苦しめている原因が、自分の想念であることに気付くことが、抜け出すための最初の一歩です。

想念が、自然法則に反しているのです。



そのことに気付くと同時に、地上時代の行いを振り返ることになるかもしれません。

自分さえ良ければと言う想念が、いかに他者を苦しめていたのかを知り、愕然とするでしょう。

後悔の念に苦しむことになります。



この苦しみから何とか逃れたいと懇願していると、指導的立場の霊が現れて、償いの地上人生が提示されます。

地上で与えた苦しみを、地上で味わうことになります。

自分さえ良ければと言う思いが、いかに間違っているのかを学ぶための出来事が、どこかで起ります。

その出来事から生じる苦痛を通して、前生の過ちが償われることになります。



償いが終盤に差し掛かると、誰かから救いの手を差し伸べられて、苦しみから解放されるかもしれません。

否が応でも、他者のことを思う気持ちの尊さに気付くでしょう。



高い地位に付き、たくさんの人に大きな苦しみを与えてしまった人は、1回の地上人生では償い切れないかもしれません

償いが終わるまで何度でも生まれ変わり、魂に受け容れる準備が整ったら、ようやく学びが与えられると思います。

学びを得て、苦しみから解放されて、長い償いが終わります。

自分さえ良ければと思う人は、苦しみの経験を通して自然法則を学び、他者のことを思う人に少しずつ変わって行きます。



一方、他者のことを思っていた人が死ぬと、生前良くした、先に逝った人たちに助けられ、次の世界に直ぐに順応するようです。

次に赴く界層には、他者のことを思う人たちばかりが集まっています。

お互いがお互いのために生きるているので、悦びに満ち溢れています。

神の愛がふんだんに降り注ぎ、明るくて、穏やかで、調和の取れた平和な世界です。



人間の本質は魂です。

向こうに持って行けるのは、魂に蓄えた霊的な財産だけです。

巨万の富を得ても、高い地位を得ても、霊的な貧者になってしまっては、何にもなりません。



虚飾は剥ぎ取られ、嘘や誤魔化しが出来ない世界です。

裸になった魂を隠すものは何もなく、全てが知られてしまいます。

他者が喜ぶような生き方を心がけることで、誰に見られても恥じることのない魂になって行きます。











2020年11月1日日曜日

魂を成長させる約束


 今は、人生90年でしょうか。

そうであれば、私は3分の2を過ぎようとしているところです。

因みに、世界で一番長生きしているのは日本人の女性で117歳(2020年9月現在)だそうです。



世の中には、生後数か月、中には数時間で亡くなってしまう赤ちゃんもいます。

そんな赤ちゃんがいると、多くの人はせっかく生まれたのに可哀想にと思うでしょう。



それは大きな間違いです。

短い一生にも、大切な意味があります。



人には寿命があります。

生まれる前から決っていますが、知ることは出来ません。

それぞれの人生に予定されたシナリオがあり、寿命は自ずと決まります。



生きた時間によって、人生の価値が決まるものではありません。

予定されていた人生を、歩めたかどうかが問われます。

いくら長生きをしても、逸脱した生き方をしてしまえば何にもなりません。

どんなに短かったとしても、予定された通りの人生を歩み、その時が来て向こうの世界に行ったのであれば、哀れんだり、悲しんだりする必要は全くありません。



子供は、両親を選んで生まれて来ます。

その選定は、人智を超えたプロセスで行われ詳しくは判りませんが、自然法則の働きによって、最適な母体に宿ると考えられます。

偶然、親子になることは決してありません。



子供を亡くす以上に、過酷な経験があるとは思えません。

その衝撃、悲しみ、苦しみは、実際に経験した人しか判りません。

もし、生まれてわずかな時間で亡くなったとしたら、こんな疑問に苛まれるでしょう。

「何のために生まれて来たのか」と。



この世に生まれて来た理由は単純明確です。

自分を成長させるためです。

この世で起きる様々な出来事を乗り越えて行くことで成長して行きます。

そして、他者に愛を表現することで成長します。



もし、短い時間でこの世を去るとしたら、何も経験出来なかったことになります。

経験がなければ、成長も出来ないので、生まれて来た意味がないように思えてしまいます。



ある人は、こんなことを言うかもしれません。

「この子は大きなカルマを背負って生まれて来たので長く生きられなかった」と。

その人は、大きな誤解をしています。

もし、カルマを背負って生まれて来たとしたら、もっと長く生きて、痛みや苦しみを通して償いをしなければならなかったでしょう。

カルマがないからこそ、早く逝ったと考えられます。



早く亡くなる子は、優しく、思いやりがあり、純粋で、誰からも好かれていると感じるのは私だけでしょうか。

自分にはもったいない子だったと言う、ご両親の言葉を良く聞きます。

「憎まれっ子世にはばかる」と言う諺がありますが、その真逆の様な気がしてなりません。



陸上のトラック競技が思い浮かびます。

ある選手が自分の後ろを走っています。

しかし、後を走っていたその選手の方が、先にゴールをしてしまいました。

何故だろうと思い、レース全体を振り返ると、後に走っていた選手は実はスタートから自分の前に出ていたのです。

その後も、速いペースで走り続け、レース終盤では自分の後ろまで迫っていました。

実力に大きな差があると、こんなことが起こり得ます。

魂が成長しているお子さんであれば、親よりも先にこの世をゴールしてしまうことがあります。



この世のゴールは、次の世界のスタートです。

次の世界は、この世をどう生きるかによって変わって行きます。

生まれる前にも人生があるのですが、私たちは未熟なために窺い知ることは出来ません。

連綿として人生はつながっているのです。

しかし、全体が視えないので、この世だけで判断してしまうことになります。

先にゴールしたお子さんが不幸に思えて、嘆き悲しんでしまいます。



地上で学ぶことがあれば、何回でも生まれて来ます。

地上に生まれるのが初めての人もいれば、何十回も経験している人もいます。

何十回も経験している人の方が、初めての人よりも、多くを学んでいて、魂が成長しているのは当然です。

初めて地上を経験したご老人もいるでしょう。

何十回も経験している赤ちゃんもいるはずです。

従って、生まれた時から学ぶことの少ない赤ちゃんもいれば、学ぶことが多く残されていてるご老人もいることになります。



学ぶことのほとんどない赤ちゃんであれば、地上に長くいる必要はありません。

目的を果たして、直ぐに元いた世界に戻ることになります。



唯一の目的が、地上のあるご夫婦の子供として生まれる場合もあります。

ご夫婦にとって、可愛い赤ちゃんの誕生です。



赤ちゃんは皆、特別な存在のように感じます。

学ぶことのほとんどない霊的に成長した赤ちゃんは、それとは別の何か特別なものを感じるかもしれません。

瞳の奥に、強い意志や決意のようなものを感じられるかもしれません。



生まれる前に、通常の人生の何百分の1、あるいは何万分の1の時間で、地上を去ることを承知しています。

自分に起きていること、これから起きることも、もちろん承知しています。

短い時間であっても、強烈な印象を残しています。

言葉を超えた、たくさんの想いを伝えています。

そして、予定されていた通りに、次の世界に行きます。



ご両親は、あまりにも短い人生を嘆き悲しみます。

自分の子供にならなければ、こんなに早く死んでしまうことはなかったと、責めてしまう人もいるでしょう。



霊性の高い魂ほど、自分を犠牲にして、他者を思いやります。

この世に長く生きる必要のない霊性の高い魂が、人を悲しませ、苦しませるために生まれて来たはずはありません。

自分のためではなく、他者の学びや成長を促すため、そして生命の尊さを伝えるために生まれて来たはずです。



悲しみはとても深いものになるのは避けられません。

しかし、その先に待っているのは真理です。

新たな人生が始まり、学びながら、大きく成長して行きます。

それこそが、その子がこの世に生まれて来た目的です。



早く亡くなったお子さんのことを「天使」と呼んでいる人がいます。

それは、間違いではないのかもしれません。

天使的存在は、地上に生まれる必要がないほど高度に進化をした魂です。

そんな魂が、特定の人のために、地上に生まれて来ることがあると思います。

もしそうだとすれば、親として選ばれたのは、誇らしいことなのかもしれません。



何度も地上に生まれて来る中で、どこかで最愛の人との別れを経験しなければならないと思います。

神の心である愛を深く学ぶために、地上でこれ以上の経験はないと考えられるからです。

愛すれば愛するほど、学びは深くなります。



身も心も引きちぎられるような試練を乗り越えられない人であれば、子供として生まれては来ません。

これ以上ない悲しみにの果てに、魂が目覚めて、大きく成長してもらえると信じていたから選んだはずです。




地上を去る時が来ます。

暗闇の先で待っているのは、1日も忘れることのなかった、あの魂です。

魂から放たれている、眩しく、美しい光に圧倒されるかもしれません。



極限の悲しみ、苦しみの日々によって、魂が浄化されています。

慈しみの心が姿を現し、それを表現することによって、美しい思念(光)を放つようになっています。

出来事には霊的な意味があり、魂の成長と言う報いを受けていたことで、完全な公平、公正が保たれていることを知ります。

出会わせてくれた、偉大な存在に感謝をするでしょう。



悲しませる、苦しませるために、生まれて来たのではありません。

高い愛を携えて、悦びを与えるために生まれて来たはずです。



魂を成長させる約束をして宿ったのです。

最愛の人がいない現実に耐えながら、この世界を生きているだけで、魂は成長しています。