人は言葉によって、コミュニケーションをしています。
言葉(文字)から受ける印象は、大きなものがあります。
「生」と言う漢字は、植物や木が地上に生じてきた様子を表しているそうです。
漢字の由来は、左側の「歹」が骨、右側の「ㇶ」が人の意味があるそうです。
人が骨になる説と、骨の前で人が弔っている様子を表している説があるようです。
そんな成り立ちがあるからでしょうか、正直なところ、この漢字から受ける印象は良くありません。
暗くて、終わりの様なイメージしか湧いて来ません。
それでは、「死ぬ」に代わる言葉として、何が適切でしょうか?
「亡くなる」は、無くなるに通じてしまうので、あまり良くありません。
「他界」は妥当です。
「旅立ち」も良いと思います。
死とは次の世界に移行する現象です。
行先は明るく自由な世界なのですから、暗さを感じさせる言葉は相応しくありません。
「死別」はどうでしょう?
どうもしっくりと来ません。
肉体はなくなり、視えなくなってしまうのは事実ですが、両者が思い合っていれば、別れることはないからです。
親しい人が、遠い国に行ったとします。
どんなに離れていても、電話やメールをすれば、コミュニケーションは取れます。
しかし、死んでしまうと、いかなる通信手段をもってしても、コミュニケーションは取れなくなります。
そのことで、死は永遠の別れと思ってしまう人がいます。
無になるとしたら、生きている意味を見い出せません。
ところで、別れとはどんな時のことを指すのでしょうか?
信じていた人に裏切られて、袂を分かったとしたら、その時は別れです。
真の別れとは、心が離れてしまうことです。
たとえ傍にいたとしても、心が離れていれば、別れているのです。
では、思い合っている人が死んでしまったらどうでしょう?
肉体はなくなりますが、心はそのままです。
心が離れてしまったわけではないので、別れでも何でもありません。
生前と同じように、心はつながっているのです。
向こうに行った人は、「死」をどの様に感じていたのでしょうか?
肉体を失うことで、地上にいる時と状況が大きく変わったことに戸惑っていたでしょう。
意識があり、記憶もあり、性格も変わらずに居るのに、地上の人に骨になってしまったと思われています。
居ることを伝えたいのに、どうしても伝えられません。
そんことなど知らずに、地上の人はただ悲しむばかりです。
真実は2つに1つです。
死んで無になるのか、それとも生き続けるか、そのどちらかです。
どちらも決定的な証拠はありません。
白黒はっきりしないところに、神の意図が隠されていると思います。
人生はうたかたの夢幻です。
どうせ無になるのなら、楽しいことだけをして、苦しいことは逃げてしまえば良いはずです。
人のことなど、どうでも良いはずです。
しかし、苦しくても逃げ出したくはありません。
人のために何かをしたいと言う気持ちもあります。
それは、生まれて来た目的と深く関わっていることであり、無にならないことを、心の奥にいる本当の自分(魂)が知っているためと考えられます。
無になるのなら、地上の人がどう思っていようと関係ありません。
生きているとしたらどうでしょう?
信じてもらいたい人に、存在を信じてもらえないのは、つらくないわけがありません。
いないことにされてしまったと、嘆き悲しんでいるでしょう。
もし死んだ人のことを思うのであれば、たとえ姿が視えなくなり、確証が得られなかったとしても、生きていると信じるべきです。
当たり前の話ですが、電球の明かりは、電気が流れて点きます。
明かり本質は、電球ではなく電気です。
しかし、電気は目に視えず、実体もありません。
電線を触ってビリっと来た瞬間、何かが流れているのが判り、電気の存在を実感します。
愛もそうです。
愛も目に視えず、実体もありません。
それでも、ほとんどの人が信じています。
その理由は、愛を実感したことがあるからです。
愛を実感しているのが、魂です。
そして、愛が生まれるのも魂です。
肉体は物質的次元の存在ですが、魂は霊的次元の存在です。
肉体は荼毘に付されて消滅しても、魂は不滅なため、愛は変わらずに存在しています。
愛の存在を信じられる人ならば、魂の存在も信じられるはずです。
魂を引き付ける力が愛です。
愛によって魂が引き付けられるので、傍にいるのです。
愛し合う者同士に別れはありません。
「死別」は誤りです。
人生にはシナリオがあります。
けれども、全く判らないようになっています。
一寸先は闇です。
出来事は何の前触れもなく起こります。
それが、死の場合もあります。
最愛の人の死であれば、これだけは起きて欲しくなかった出来事に違いありません。
変えようのない現実を前にして、全てが失われてしまったと思う人もいます。
肉体は失われましたが、霊的なつながりが失われることはありません。
両者の関係はそのままです。
愛されていた人は、引き続き愛されています。
けれども、想いを表現する肉体がもうないので、地上の人にどうしても伝えられません。
今、あるのは魂だけです。
1つだけ伝える手段が残されています。
それは、地上の人の魂に、自分の想いを吹き込んで伝えることです。
鍵を握っているのは、地上の人です。
魂の存在を否定したならば、自分の存在も否定されてしまいます。
せっかく想いを吹き込んでも、気のせいとして受け流されてしまいます。
そんな虚しい努力が、いたるところで、どれ位繰り返されているのか判りません。
声を聴きたくても聴けない地上の人の悲しみは、想いを伝えたくても伝えられない霊界にいる人の悲しみの裏返しなのかもしれません。
お互いに、涙を流しています。
神はわずかですが、地上と霊界のつながりを残してくれています。
信じてもらえれば、存在が肯定され、想いを伝えられる可能性が残されます。
人間は肉体を携えた霊的な存在です。
五感が圧倒的に優位になっている地上では気付きにくいのですが、元々備わっている霊的な能力があります。
その能力が発揮されれば、言葉を超えたコミュニケーションは可能です。
目に視えず、確証もないけれど、それでも信じられる人を神は祝福します。
次元を超えてつながることが許されます。
地上の人が条件さえ整えてくれれば、霊的につながれるのです。
変わらずに愛されていると、素直に信じて下さい。