2020年9月27日日曜日

死によって失われないもの

 




人は言葉によって、コミュニケーションをしています。

言葉(文字)から受ける印象は、大きなものがあります。

「生」と言う漢字は、植物や木が地上に生じてきた様子を表しているそうです。



「死」はどうでしょう。

漢字の由来は、左側の「歹」が骨、右側の「ㇶ」が人の意味があるそうです。

人が骨になる説と、骨の前で人が弔っている様子を表している説があるようです。

そんな成り立ちがあるからでしょうか、正直なところ、この漢字から受ける印象は良くありません。

暗くて、終わりの様なイメージしか湧いて来ません。




それでは、「死ぬ」に代わる言葉として、何が適切でしょうか?

「亡くなる」は、無くなるに通じてしまうので、あまり良くありません。

「他界」は妥当です。

「旅立ち」も良いと思います。

死とは次の世界に移行する現象です。

行先は明るく自由な世界なのですから、暗さを感じさせる言葉は相応しくありません。




「死別」はどうでしょう?

どうもしっくりと来ません。

肉体はなくなり、視えなくなってしまうのは事実ですが、両者が思い合っていれば、別れることはないからです。




親しい人が、遠い国に行ったとします。

どんなに離れていても、電話やメールをすれば、コミュニケーションは取れます。

しかし、死んでしまうと、いかなる通信手段をもってしても、コミュニケーションは取れなくなります。

そのことで、死は永遠の別れと思ってしまう人がいます。




ところで、別れとはどんな時のことを指すのでしょうか?

信じていた人に裏切られて、袂を分かったとしたら、その時は別れです。

真の別れとは、心が離れてしまうことです。

たとえ傍にいたとしても、心が離れていれば、別れているのです。




では、思い合っている人が死んでしまったらどうでしょう?

肉体はなくなりますが、心はそのままです。

心が離れてしまったわけではないので、別れでも何でもありません。

生前と同じように、心はつながっているのです。




向こうに行った人は、「死」をどの様に感じていたのでしょうか?

肉体を失うことで、地上にいる時と状況が大きく変わったことに戸惑っていたでしょう。

意識があり、記憶もあり、性格も変わらずに居るのに、地上の人に骨になってしまったと思われています。

居ることを伝えたいのに、どうしても伝えられません。

そんことなど知らずに、地上の人はただ悲しむばかりです。




真実は2つに1つです。

死んで無になるのか、それとも生き続けるか、そのどちらかです。

どちらも決定的な証拠はありません。

白黒はっきりしないところに、神の意図が隠されていると思います。




無になるとしたら、生きている意味を見い出せません。

人生はうたかたの夢幻です。

どうせ無になるのなら、楽しいことだけをして、苦しいことは逃げてしまえば良いはずです。

人のことなど、どうでも良いはずです。




しかし、苦しくても逃げ出したくはありません。

人のために何かをしたいと言う気持ちもあります。

それは、生まれて来た目的と深く関わっていることであり、無にならないことを、心の奥にいる本当の自分(魂)が知っているためと考えられます。




無になるのなら、地上の人がどう思っていようと関係ありません。

生きているとしたらどうでしょう?

信じてもらいたい人に、存在を信じてもらえないのは、つらくないわけがありません。

いないことにされてしまったと、嘆き悲しんでいるでしょう。

もし死んだ人のことを思うのであれば、たとえ姿が視えなくなり、確証が得られなかったとしても、生きていると信じるべきです。




当たり前の話ですが、電球の明かりは、電気が流れて点きます。

明かり本質は、電球ではなく電気です。

しかし、電気は目に視えず、実体もありません。

電線を触ってビリっと来た瞬間、何かが流れているのが判り、電気の存在を実感します。




愛もそうです。

愛も目に視えず、実体もありません。

それでも、ほとんどの人が信じています。

その理由は、愛を実感したことがあるからです。




愛を実感しているのが、魂です。

そして、愛が生まれるのも魂です。

肉体は物質的次元の存在ですが、魂は霊的次元の存在です。

肉体は荼毘に付されて消滅しても、魂は不滅なため、愛は変わらずに存在しています。

愛の存在を信じられる人ならば、魂の存在も信じられるはずです。




魂を引き付ける力が愛です。

愛によって魂が引き付けられるので、傍にいるのです。

愛し合う者同士に別れはありません。

「死別」は誤りです。




人生にはシナリオがあります。

けれども、全く判らないようになっています。

一寸先は闇です。

出来事は何の前触れもなく起こります。




それが、死の場合もあります。

最愛の人の死であれば、これだけは起きて欲しくなかった出来事に違いありません。

変えようのない現実を前にして、全てが失われてしまったと思う人もいます。




肉体は失われましたが、霊的なつながりが失われることはありません。

両者の関係はそのままです。

愛されていた人は、引き続き愛されています。

けれども、想いを表現する肉体がもうないので、地上の人にどうしても伝えられません。




今、あるのは魂だけです。

1つだけ伝える手段が残されています。

それは、地上の人の魂に、自分の想いを吹き込んで伝えることです。




鍵を握っているのは、地上の人です。

魂の存在を否定したならば、自分の存在も否定されてしまいます。

せっかく想いを吹き込んでも、気のせいとして受け流されてしまいます。

そんな虚しい努力が、いたるところで、どれ位繰り返されているのか判りません。

声を聴きたくても聴けない地上の人の悲しみは、想いを伝えたくても伝えられない霊界にいる人の悲しみの裏返しなのかもしれません。

お互いに、涙を流しています。




神はわずかですが、地上と霊界のつながりを残してくれています。

信じてもらえれば、存在が肯定され、想いを伝えられる可能性が残されます。




人間は肉体を携えた霊的な存在です。

五感が圧倒的に優位になっている地上では気付きにくいのですが、元々備わっている霊的な能力があります。

その能力が発揮されれば、言葉を超えたコミュニケーションは可能です。




目に視えず、確証もないけれど、それでも信じられる人を神は祝福します。

次元を超えてつながることが許されます。

地上の人が条件さえ整えてくれれば、霊的につながれるのです。
          
変わらずに愛されていると、素直に信じて下さい。

信じることでリンクが張られ、そのリンクを通して伝わって来る幽(かす)かな想いを感じ取れる日が、きっと訪れると思います。




参考ページ:「亡くなった愛する人とつながる」





2020年9月20日日曜日

不安のメカニズム



世界中で猛威を振るっている新型コロナウイルスですが、これまでに3000万人を超える人が感染し、死亡者数は100万人に迫る勢いです。

多くの人は、この未知のウィルスに感染したらどうしよう、運が悪ければ死んでしまうかもしれないと怖れを感じています。

喉が痛かったり、咳が出たりすると、もしかしたらと不安になってしまいます。




これまでの人生でも、いろいろな局面で不安を感じていたと思います。

試験に落ちたらどうしよう、仕事で失敗をしたらどうしよう、悪い病気ではないのか等々、小さいものを含めれば、大変な数になるでしょう。




不安が生じると、心が落ち着かず、不安定になります。

穏やかさが失われて、一種の苦しみのようなものを感じます。

少しでも早く、解消したいと思います。




私たちは、過去から未来に向かって生きています。

過去を悔やむことはありますが、過ぎ去ったものに不安を感じることはありません。

今から起きること、未来に対してのみ、不安が生じます。




例えば病気です。

苦痛を感じていれば、ずっと続くのかと思うと穏やかな気持ちではいられません。

この先、どうなるのだろうかと不安になります。




隕石が、1年後に地球に衝突するとします。

ほとんどの人は大きな不安を感じるでしょう。

しかし、感じていない人もいます。

当たり前の話ですが、そのことを知らない人、あるいは動物たちは感じません。

先のことを考えなければ、不安にはならないのです。




不安は、大脳での思考の副産物です。

あれこれと考え、先を予測してしまうことで生じてしまいます。

未来を予測する能力がある者にだけに、不安は生じます。




しかしながら、不安に実体はありません。

精神上に作られたものだからです。

もし、何も考えていなければ存在しないからです。




けれども、何も考えていないのに、漠然とした不安を感じることがあります。

それは、過去に生じていた何かしらの思念(想い)が、時を経て、不安と言う形になって表に出て来ているせいかもしれません。

あるいは、不安を生じさせる思念を、他者から受け取っていたせいかもしれません。




今を生きるのが大切と良く言われます。

それは、先のことをあれこれ考えないで済むからです。

不安が生じずに、自分の持てる力が出せるという意味があると考えられます。




それでは、恐怖や不安はどんな弊害があるのでしょうか?

「恐怖心と心配の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。なんとなれば、それが霊力が作用する通路を塞いでしまうからです。」

また「恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。」とシルバーバーチは言っています。




恐れや不安は、生まれた後に私たちの精神上に形成される、地上的な自我の働きによって生じると考えられます。

自我は、自分を脅かそうとするものから、自分を守ろうとして活動しています。

脅かす可能性があるものを脳が認識して、先を予測してしまうと不安が生じます。




私たちには、顕在意識である地上的な自我の他に、潜在意識である本当の自分とも言える「霊的な自我」が存在します。

いわゆる「魂」です。

地上的な自我は、霊的な自我を表現するためにある地上の媒体であり、本来は協調的に働いています。

しかし、霊的な自我と地上の自我の両者の働きが拮抗する時があります。

自分を脅かすものに対して不安が生じ、そのために自我の働きが強くなり相対的に霊的な自我の働きが弱くなります。




霊的な自我が活動している時は、意識は外に向かっています。

その逆に、地上的な自我の働きが強くなると、意識は内に向かいます。

言い方を変えると、霊的な自我は全体を意識し、地上的な自我は個(自己)を意識しています。

従って、大きな不安に襲われた時には、自分のことで頭が一杯になり、周りのことは目に入らなくなります。




前に進んで行こうとする力、乗り越えて行こうとする力は、どこから生まれて来るのでしょうか?

その力は生きる力であり、霊的な力です。

私たちの中に存在している神から湧き上がって来ます。

不安が大きくなり、霊的な自我の働きが弱くなってしまうと、生きる力も湧き上がって来なくなってしまいます。




不安が生じ地上的な自我の働きが強くなると、それがバリアのように魂を取り囲んでしまいます。

そうすると、背後にいる霊との接触が妨げられます。

インスピレーションによる導きを受けられなくなり、地上の人に向けられた励ましや勇気付けの思念の力も伝わり難くなってしまいます。




私たちは意識していませんが、内と外から生命力とも言える霊的な力を受け取りながら、この世を生きています。

恐怖や不安や心配や取り越し苦労などの念は、地上的な自我の働きを強めてしまうために、霊的な力を受け取る際の大きな障壁となります。




それでは、どうすれば良いのでしょうか?

試験の前に、不安を極力少なくするためには、ひたすら勉強をするしかありません。

まず、不安を解消するための、地上的な努力をしなければいけません。

今を精一杯生きます。




それでも、解消しない時には、霊的な自我の働きを強めるようにします。

そのために、自らの意志によって、自分の中にいる神とのつながりを深める必要があります。

「自分の中には神が存在し、今起きている出来事を乗り越えて行く力が秘められている。」
気持ちを込めて、心の中で唱えます。

そして、背後にいる霊とのつながりを強めるようにします。

「自分には守り導いている存在が付いて、援助の力を授かっている。」

そう強く信じて下さい。




この能動的な行為により、内(神)と外(背後霊)のつながりが強化され、それに伴い霊的
自我の働きが強くなります。

相対的に地上的な自我の働きは弱められ、不安は和らいで来るはずです。




内と外から伝わって来る霊的な力は、愛を帯びています。

両者とのつながりが強くなると、愛を帯びた霊力が流れ込むことで心は安定し、自信に満ちた心境になります。




1つだけ条件があります。

それは、神の存在、霊界の存在を信じていることです。

心から信じていなければ、強くつながることは出来ません。




自分の経験や実績から、自信は生まれるものだと考えていました。

しかし、経験や実績がなくても、自分を信じることさえ出来れば、自信は生まれます。

自分を信じるとは、自分の中にいる神を信じることです。

守り導いている存在を信じることです。

両者のつながりが深くなり、霊力に満たされた状態が、自信の実体と考えられます。




あらゆる出来事は、自然法則の働きによって起きています。

その法則が創造された目的は、生命を向上進化させるためです。

苦難を乗り越える過程で、自然法則の働きにより、魂は向上して行きます。

どんなに絶望的に思えても、最終的には乗り越えて行けるのは、全ての事象は私たちを向上進化させるために起きているからです。

起きることの全てに、神の愛が行き渡っていることを得心できたのならば、不安は生じません





神の法則の働きに絶対的な信頼を置けたのなら、不安は生じないはずです。

シルバーバーチはこう言っています。

「その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありません。」




真っ暗闇の中に、ただ1人置かれたとしたら、不安になってしまいます。

神とは光りです。

不安や恐怖という心の闇を創ったのは、自らの中に光を見い出すためではないでしょうか。




自らの中に神がいます。

常に守り導かれています。

そのことを信じ、強く意識すれば、精神が霊(魂)の支配下に置かれ、不安は和らぎます。

霊は精神に優るのです。





2020年9月13日日曜日

死の後に起きること



最近は、コロナウィルスの流行で旅行に出かける人も、めっきり少なくなりました。

旅行に出かける前に、多くの人は雑誌やインターネットで目的地の情報を入手します。

そうすることで、事前に計画が立てられ、安心して旅行が楽しめるからです。





全ての人は、片道切符を持って旅立ちます。

行先は、あの世です。

全員行くのが決まっているのに、行った先のことを知っている人は、意外と少ないようです。

旅行と同じで、事前に正しい情報を持っているのに越したことはありません。

その理由は、死んだ後に迷わないばかりではありません。

死の後に起きることを知っていれば、この世の生き方が望ましい方向に変わって来るからです。




死ぬ年齢も、原因も、人それぞれ違います。

しかし、起きる現象は皆、同じです。

死とは、肉体から魂(霊)が永続的に分離する自然現象です。




多くの人は、病気で死にます。

その時に、呼吸が苦しそうで、顔を歪めている人が多いのですが、本人は傍で見ているほど苦しくないようです。

自然法則に適った生活をしていると、苦しまずに死ねるようです。




死ぬと肉体は、全く動かなくなり、次第に冷たくなります。

その現象は、生命の本質である魂が抜け出した瞬間から始まります。

それまで肉体に生気を与えていたのは魂なのです。




一時的なブラックアウト(意識消失)の後、自分の肉体の近くに佇んでいるようです。

動かなくなった自分の肉体の傍で、涙を流して悲しんでいる人がいて、それを傍観しています。

ふと周囲に目をやると、昔、親愛の想いを寄せて、既に亡くなった人たちがいるのに気付きます。

しばらくの間、再会の悦びに浸りますが、その時に自分に何が起きたのかを理解する人もいるでしょう。

生気を失った自分の身体が、棺の中に入れられますが、まだ身体に愛着があるので傍に付いています。

しばらくすると、お坊さんが来てお経を読み始めます。

そして、親交のあった人たちがやって来て、自分の遺影に手を合わせて、焼香している姿が見えます。

自分の葬儀が行われているので、本当に死んでしまったと自覚します。

死後のことを知らなくても、客観的な状況から、自分がこの世にいないことを、少しずつ理解して行きます。

荼毘に付され、もう元に戻れないことを悟ります。




死は、さなぎから羽化して飛び立つ蝶に例えられます。

物理的な制約から解放され、自由度が飛躍的に増すからです。

親愛の想いを抱いていた人は、どうしているのだろうと気になった瞬間、その人の元に移動していることに驚きます。

涙を流していれば、そっと寄り添い、傍にいること知らせようとします。

ところが、その声は届かず、触れようとしても、自分の手が素通りしてしまいます。

全く気付いてもらえないことに、愕然とします。

それでも、何かの気配を感じている人もいるようです。

地上の人は五感が優位になっていますが、霊的な感覚も備わっているからです。

しばらくは、この世に関心が向いています。

親交のあった人、思い出の場所など、愛着を感じるところに赴きます。




あの世(幽界)は、この世に似ています。

肉体はもうないはずなのに、呼吸もしていて、食欲もあります。

景色もそっくりです。

そのために、死んだことに気付かない人たちがいます。

似ているのは、新しい環境に戸惑わないための神の配慮と言われています。




あの世は思念の世界です。

想ったことが、立ちどころに具現化します。

肉体を駆使して具現化しなければならないこの世が、いかに煩わしい世界だったのかを実感します。

そんな世界を離れて、自由で快適な世界にいることに喜びを感じます。




願望がそのまま具現化される現象には驚かされます。

眠りたいと思えば、目の前にベッドが現れるのです。

食べたいと思えば、食べたい物が直ぐに現れるのです。

たくさんのお金が欲しい人は、目の前に山のようなお金が現れるので、大いに喜んでいます。

しかし、全く価値を持たないものに喜んでいる姿は、周囲の人に滑稽に映っています。




肉体はもうありません。

そのために、魂(想い)が露わになり、本当の自分が周囲に知られてしまっています。

偽善者はいようがなくなり、表裏も存在しません。

心が素っ裸にされたような感覚です。

恥ずかしい思いをしないために、もっと自分の内面と向かい合っていれば良かったと反省する人もいます。




人は、後悔しないよう、恥じることのないように生きようとしています。

それは、この世の人生を総括する時が訪れることを、魂が知っているからなのかもしれません。

目の前にスクリーンのようなものが現れ、人生が映し出されています。

記憶から忘れ去られていたことも、魂にはしっかりと刻まれています。

あの時はこう思ってこうした、動機までも含めて、この世の全人生を振り返ることになります。




悔やむことがありました。

それは、神の摂理に反する行いをしたことです。

人を欺いたり、傷つけたり、良心に逆らって行動していたことが悔やまれます。




もう1つあります。

成長の機会を逃したことに気付いた時です。

与えられた奉仕の機会を逃したこと、困難や障害から逃げてしまったこと、そんな行動を取ってしまったことが悔やまれます。




悦ぶ時もあります。

人や動物や社会のために、頑張っている自分の姿を見つけた時です。

自分の行いによって、喜びをもたらしていたのを知った時です。

挫けそうになりながらも、起きた出来事を必死に乗り越えて行った自分の姿を見つけた時です。




大切なことが、徐々に判って来ます。

楽しい時ではなく、むしろ苦しい時に、人生の意義があったことを。

苦難を乗り越えようとする中で、魂は成長することを。

この世に生まれたのは、自分(魂)を成長させるためであり、人生に計画があったことを。




後悔が大きいので、もう1度この世に生まれ、想いを晴らしたいと思う人がいます。

過ちを犯して、その償いのために、もう1度この世に生まれなければならない人もいます。

自分の人生は、自分で決められます。

その代わり、責任も取らなければなりません。

そのことを知っていたのなら、人生は違ったものになったかもしれません。

こうすれば良かった、あんなことをしなければ良かったと、悔やむことはずっと少なくなったでしょう。










それからどれ位経ったのでしょうか、本来の住処(霊界)に戻る時が訪れます。

そこには、自分と良く似た人たちがいて、帰るのを待っていました。

自然法則の働きによって、親(ちか)しい魂が集まるようになっているようです。

同じ想い、同じ意識が共有されています。

そこでは、この世から持ち帰った経験や叡智が活かされるようです。

凡例を挙げてみます。

私は歯医者をしています。

霊界では肉体はないので、歯医者はいません。

地上では生活して行くために働いていますが、同時に患者さんの健康を取り戻すためでもあります。

それを続けているうちに、他者に奉仕することに、少しずつ慣れて来ています。

人や社会のために働かないと食べていけないのが地上です。

肉体がない霊界では、食べるために働く必要はなくなり、純粋な奉仕活動になります。

地上時代に働くのは、霊界に行った時に、ごく自然に奉仕活動が出来るようになるためであり、そのための準備をしているようです。




考え方や価値観の違う人たちと共に生きるのが地上です。

上手くやって行くためには、協調性を身に付けなければいけません。

時に、自分を犠牲にすることも必要でしょう。

いさかいが起きないために、認め合い、許し合わなければいけません。

そんな経験をする中で、多くのことを学び、魂が向上して行きます。

1つの魂が霊界に持ち込んだ叡智により、全体にさらなる調和が生まれるようです。




争いはありません。

無用な苦しみや悲しみが生じることもありません。

自分と似たような人たちしかいないので、それは当然です。










穏やかな生活が、どれ位続いたのでしょうか。

全体のために、もっと役に立ちたいと思う気持ちが芽生えます。

そのためには、今の自分にはない資質を身に付けなければいけません。




資質を身に付けるのは、自分のためではありません。

全体のために活かすためです。

生きる目的は、全体のために自分を活かすことです。

活かすことで自分が成長しているのが、霊界では良く判ります。




自分をもっと成長させたくなります。

新たな資質を身に付けるためには、苦しみや悲しみのない今の快適な環境にいるよりも、困難や障害の多い地上に降りて様々な経験した方が、はるかに効率的です。




目的が決まったら、神に祈ります。

祈りは届き、目的を成就させるための、地上の人生が提示されます。

それは過酷な人生に映りました。

しかし、無限の叡智である神によって勘案されているので、乗り越えられることは保障されています。

提示された人生を了承します。

そして、地上で最適な母体を選んで、受胎の瞬間に入り込みます。

肝心の目的をすっかり忘れてしまうので、生涯に渡って守り導く人(守護霊)が付けられます。




霊界の人たちにとって、地上への再生は死に相当するようです。

涙を流しながら見送っている人もいます。

ただ、地上の別れの悲しみとは少し違います。

成長して、再び戻って来るのが判っているからです。




死とは、新たな環境に生まれることです。

生と死を繰り返しながら、人は向上進化して行くように定められています。




全ての事象は、自然法則の働きにより起きています。

どん底に落とされるような経験は、実は高みに導くためだったことを、死んだ後に知ります。

真実を知った時、大いなる存在を如実に感じ、思わず感謝するでしょう。



2020年9月6日日曜日

自分の中に神がいる



少し前まで、私は神の存在を信じてはいませんでした。

正確には、存在しても、していなくても、生きて行く上で関係がないので、どうでも良いと思っていました。

目に視える現実が全てでした。




神の存在を信じている人は、世の中にたくさんいます。

そんな人の中には、高いところから地上を見下ろし、監視しているような存在だと考えている人もいるでしょう。

また、悪いことをしたら罰を与えられ、信じていないと天国に行けないと思っている人もいると思います。




神は自然法則として顕現しています。

自然法則によって、全宇宙を経綸しています。

法則は神の心の反映です。

神の意志を遂行するために、法則は働いています。




シルバーバーチの霊訓を読み始めて、しばらく理解出来なかったことがあります。

それは、私たちが神の子であると言うことです。

何故なら、神の子である実感が全くなかったからです。

人間とはかけ離れた存在であるように思えました。




宇宙を創造したのは神です。

神的エネルギーにより、宇宙は創られています。

宇宙は偶発的に誕生したのではなく、明確な意図を持って、偉大なる存在によって創造されたのです。




話が変わりますが、人間にはいくつの細胞があるのでしょうか?

何と37兆個もあります。

脳細胞、筋細胞、皮膚細胞など様々な種類がありますが、そのどれもが全身の中で大切な役割りを果たしています。

1つ1つの細胞は小さくても、人間にとって必要なものとして存在しています。





NGC2275

私たち人間は、宇宙の片隅に生きる、限りなく小さな存在です。

しかし、どんなに小さくても、神によって創られた、宇宙を構成する一部には変わりありません。

何かしらの役割りがあって、今、ここに存在しています。




全ての創造物は、神的エネルギーが形を変えたものです。

創造物は、生命体と非生命体の2つに分かれます。

地球上の動物や植物は生命体であり、水や土や岩は非生命体です。




目に視える体は生命体であり、生命そのものは目に視えません。

生命とは物質とは次元の異なるものであり、霊(魂)と便宜的に呼ばれています。

霊(生命)が物質(体)を媒体にして活動をしています。




物的な生物には、意識があるものと、ないものが存在しています。

もちろん、人間は意識があります。

意識の源泉、それが魂です。




魂は霊的(生命)エネルギーの供給を受けながら、全宇宙(神)とつながっています。

私たちは無限大のネットワークの一部です。

しかしながら、地上では五感が優位になり霊的感覚が乏しくなるため、霊的なつながりが認識されにくくなっています。

肉体が失われ、五感が取り払われた次の世界に行くと、はっきりと認識されるようになります。




生命は尊いと言われます。

死んでしまったらお終いと思うからなのでしょうか。

しかしながら、それは事実とは違います。

死とは、肉体と魂の永久的な分離です。

生命自体は失われることなく、次の世界で生き続けます。




魂は永遠不滅です。

侵し難い神聖なものです。

何故かと言えば、そこに神が宿っているからです。

いえ、神そのものと言って良いのかもしれません。

神が宿っているので、生命は尊いものだと感じているのではないでしょうか。




生まれたての赤ちゃんを見て、何か神々しいものを感じます。

それは魂が前面に現れているからだと思います。

赤ちゃんは、少し前まで霊界にいました。

自らの成長のために志願して、最適な母体を選んで、地上に生まれて来ています。

お腹の中にいる期間は、霊的次元から物質次元への移行期間のようなものかもしれません。

霊的次元で生きていた余韻を残している存在です。


フリードリヒ2世(1740~1786年)
神聖ローマ帝国にフリードリヒ2世という君主がいました。

彼は知的好奇心から、想像も付かないような実験を行いました。

捨てられた50人の赤ちゃんを引き取って養育しました。

その時にミルクを与え、お風呂に入れて、おしめは交換しますが、アイコンタクトを含め一切のコミュニケーション、スキンシップを排除すると言うものでした。

結果は悲惨なものでした。

数年以内に、全ての赤ちゃんが死んでしまったそうです。

その理由は、科学的に説明がつきません。

フリードリヒ2世ですが、死後とんでもない過ちを犯したことに気付き、酷く後悔したのは想像に難くありません。




どうして、赤ちゃんは死んでしまったのでしょうか?

生まれる前にいた霊界は、霊的エネルギーで満たされています。

魂(霊体)は、そこから生命エネルギーを補給していると考えられます。

いざ地上に生まれ肉体を持つと、今度は物的エネルギー(食物)が必要になります。

胎内にいる時は、母親から物的エネルギーとオーラから霊的エネルギーの両方が供給されていると考えられます。

そして、生まれたばかりの赤ちゃんも、物的エネルギー(ミルク)だけではなく、引き続き霊的エネルギーを必要としているのかもしれません。

必要としている霊的エネルギーの多くは、愛情と考えられます。

人間から愛情を与えられなかった赤ちゃんは、霊的エネルギーが枯渇してしまい、生きていけなかったのかもしれません。

赤ちゃんでなくても、人は人とのつながりの中で、知らずに霊的エネルギーを与えたり、もらったりしていると思います。

それが生きる力となる時があります。



赤ちゃんを見て可愛いと思うのは、愛情を与えなければ、生きて行けない存在であることを外部に認識させるための神の配慮だと思います。

知らない赤ちゃんであっても、一人で泣いていれば、何とかしなければと衝動に駆られるのは、本能と言うよりも、自分の中にいる神が愛情を与えようとしているからではないでしょうか。

困っている人がいれば、助けてやりたくなるのもそうです。

悪いことをすると心が咎めるのも、自分の中に神がいるからです。




もし、人間の中に神がいないとすれば、どうなるのでしょう。

善悪の判断がつかなくなるでしょう。

人を傷つけたり、殺したりしても、咎めるものはなくなります。

罪を犯しても、後悔も反省もありません。




思いやりも、親切心も、優しさもなくなります。

誰かが死にそうになっていても、関心はありません。

助けを求めている人がいても、放って置きます。

世の中は、無秩序、無関心、利己心が蔓延り、地獄絵の様相を呈するでしょう。




現実はどうでしょうか?

そうではありません。

それは、私たちの中に神が宿っているからです。




もし、それぞれの人や動物に神が宿っているのであれば、傷つけたり、殺したりすることは許されません。

差別はあってはいけないはずです。

生命に優劣はなく、同等の価値があるからです。

全ての人そして動物も、神聖なものとして敬うのが当然ではないでしょうか。



虐待され食肉となる牛

神聖な生命を傷つけようとする行為は、明らかに神の摂理に反しています。

その行為は、同時に自らの神聖なもの(魂)を傷つけていることになります。

因果律の働きによって、相応の苦痛がもたらされて、過ちを償うことになります。




私たちは、全知全能の神ではありません。

自分の中に宿っている神を、少しでも多く表現しようとする、進化の途上にある存在です。

生まれる前にいた霊界では、魂から生じる想いが、ストレートに外部に表現されています。

地上に生まれると、魂から生じる想いは、精神を経由して、肉体で表現されるようになります。

精神上に、地上的な自我(以下自我)が形成されて行きます。

自我は、肉体や外部からの影響を強く受けていて、性質上、自分を守ろうとするため抑制的に働いています。

溺れている人がいても助けられないのは、自我の働きにより、神性の発現が妨げられているからです。

自我に打ち克って、より多くの神性を発現させることが、この世に生まれて来た目的であり、それが魂の成長につながります。

霊界に戻った時に、より一層の神性が発揮されるようになると考えられます。




自分は神であると尊大になるのは論外です。

しかし、自分の中にいる神を意識することで心に安らぎを見い出し、自信を持って生きるのは望ましいことです。

自分の中に神がいるのであれば、怖れるものは何もありません。

遭遇する難局を乗り越えて行く力が、自分の中に秘められているからです。

自分の中にいる神を強く信じて、迷わずに進んで行きましょう。




神は、救いを求めている人の傍に来て、助けてくれるような存在ではありません。

自らの中に神を見い出し、そこから湧き出る力によって、現状を打破することで、結果的に救われると考えられます。