2019年4月28日日曜日

守護霊は霊的成長を願っている



30年近く前、都内の道路を車で走っていた時のことです。

前の車が赤信号で停まったので、私も停車しました。

何気なくバックミラーに目をやると、かなりのスピードで後ろから迫って来る1台の車が見えました。

これはぶつかるなと思い、身構えた瞬間、大きな衝撃と共に追突されました。

私の車は、はじき飛ばされて、前に停まっていた車に追突をしました。

いわゆる3重衝突事故です。

車は壊れましたが、幸いにしてケガはありませんでした。

もし、バックミラーに目をやらなかったら、むち打ち等のケガは免れなかったでしょう。

当たる前に気付くことが出来て良かったと、ホッと胸をなでおろしましたが、今は、私を守るために知らせてくれたと思っています。



ふと何かに気付いて、大事に至らずに済んだ経験は、多くの人が持っていると思います。

そんな時は、目に視えない存在の働きかけがあったのかもしれません。

健やかで、悔いのない人生を送るために、目に視えない存在(守護霊)が守り導いていると信じていた方が賢明だと思います。



では、守護霊は誰がなるのでしょうか?

守護霊は、自分と良く似た魂の集団である類魂の中で、自分より上位の霊がなると言われています。

類魂同士であれば霊的な波長が合っているので、肉体があるため霊的感受性が鈍っている地上の人でも、思念が伝わりやすいと考えられます。

また、導く立場であれば、自分より上位の霊でなければ都合が悪いと考えられます。



守護霊は、何のために付いているのでしょうか?

私たちは、教訓を学び、魂を成長させるために、地上に生まれて来ています。

そのために予め用意された、人生のシナリオがあります。

それに沿って生きることで、大切なことを学びながら、霊的に成長して行きます。

また、過去生での過ちを償うために、生まれて来ることもあります。

いざ生まれてしまうと、そのことをすっかり忘れてしまうので、目的をしっかりと果たすために、人生の水先案内人として守護霊は付いています。



守護霊は、霊的な存在です。

従って五感に触れることはありません。

そんなものはいないと否定されても、客観的な根拠を示して反論することは出来ません。

しかしながら、地上の人に多大な影響力を持って、存在しているのは厳然たる事実です。

私が事故に遭った時も、追突されることを予見して、バックミラーを確認するように思念を送って、その結果としてバックミラーに目をやったと思います。

もし、事故により肉体が損傷を受けたら、予定されている学びや成長に支障が出てしまう可能性があるので、被害を最小限にするように、働きかけていたと考えられます。

予期せぬ災難や事故に遭わないように、生まれてから今までの間に、知らずにどれほど守られていたのか想像も付きません


それ以外にも、進路決定や就職、結婚などの重要なライフイベントでも、予定されていた方向、あるいは成長する方向に進んで行くように導かれていたと考えられます。

何気なく思い付いて取った行動の多くは、実は守護霊の働きかけによるものだったと感じています。

視えざる守護霊の働きかけにより、今の自分がいると言っても、決して過言ではありません。



地上の人の意識に上がって来ることのない辿るべき人生が、守護霊には判っています。

しかし、その通りに行くとは限りません。

人には自由意思があるため、守護霊が望んでいない方向に進んでしまうこともあります。



人は霊的に成長するために、この世に生まれて来ています。

生で遭遇する困難や障害を乗り越えて行くこと、人や動物や社会のために奉仕をすることによって目的は成就されます。

いざ目の前に、高い壁のような困難や障害が立ちはだかったらどうでしょう?

無理に思えたり、失敗を恐れたり、自分が可愛くなってしまい、つい適当な理由を付けて回避する方向に進んで行ってしまうかもしれません。

人は死んだ後に、この世の人生を振り返る時が訪れます。

回避してしまったことで、成長する機会を逸したことを知り、少なからず悔やんでしまうでしょう。

守護霊はそのことが判っているので、逃げたくなる気持ちを抑えて、正面から乗り越えさせようとします。

言葉にすれば「何とかなるので心配するな」、「大丈夫だから進んで行け」になるのでしょうか、そんな思念を送っていると考えられます。

地上の人がその思念を受け取ると、大きく心境が変わり、不安や心配は自然に消えて、「さあやってやるぞ!」と言った前向きな気持ちが生じると思います。



人は誰でも幸せになりたいと思っています。

地上の人は、物的な豊かさの中に、幸せを感じがちです。

もし、思わぬ大金が手に入ったら、多くの人は幸福を感じるでしょう。

しかし、守護霊は不幸の始まりと捉えているのかもしれません。

大金を手に入れたことで、生活が乱れ、怠けてしまい、霊的な成長を阻害してしまう可能性があるからです。

物的なものを追い求めても際限がなく、地上を去れば跡形もなく消えてしまいます。

そんな永続性のないものを追い求めても、真の幸せを感じることが出来ないばかりではなく、その先で人生を無駄に過ごした後悔が待っていることを、守護霊は知っています。



苦難や災難に遭うと、わが身の不幸を嘆く人も多いでしょう。

しかし、守護霊は大きく成長するための、絶好の機会と捉えているのかもしれません。

苦労のない安楽な人生に成長はなく、悪戦苦闘しながら乗り越えようとする中で眠っている魂が目を醒まし、そこから霊的な成長が始まることを知っているからです。

従って、地上の人が避けて通りたい苦難が待っている方向に、あえて導くこともあります。



上の人と霊界の守護霊は、幸、不幸の捉え方が逆と言って良いのかも知れません。

真の幸せとは、苦難の経験を通して、学び成長して行く中にあると、守護霊は認識しています

悲しいかな、地上の人はそんな霊的な真実をすっかり忘れてしまいます。



守護霊が付いているのであれば、もっとはっきりとした形で示してくれないのかと思う人がいるかもしれません。

私たちが地上に生まれて来たのも、守護霊が付いているのも、魂が未熟だからです。

未熟であるがゆえに、頼るものがあるとはっきりと判ってしまったら、頼り過ぎてしまうかもしれません。

助けてもらえるとはっきりと判ってしまったら、自分では何の努力もせずに、助けてもらおうとするかもしれません。

成長するために生まれて来たのに、それでは目的に反してしまいます。

地上の人の成長を妨げることのないよう、陰からそっと判らないように手を差し伸べるのが、神から与えられた守護霊の使命と考えられます。



どんなに守護霊が思念を送って導こうとしても、最終的に決めるのは地上の人です。

全ての責任は、自由意思を行使した地上の人にあります。

正しい方向に進んで行けば、守護霊は大いに喜ぶでしょう。

過った方向に進んで行けば、落胆し、嘆くでしょう。




守護霊との関係を緊密にすることは、正しい方向に進んで行くために、とても大切です。

しかし、魂の存在や死後の世界が信じられないのであれば、守護霊は存在しないことになります。

この世界を一人で生きているのであり、導きもなければ、援助も受けていないことになります。

守護霊からの働きかけがあったとしても、気のせいにしたり、思い付きだと勘違いしてしまうでしょう。

働きかけ(忠告)を無視して、誘惑に負けてしまったり、エゴの赴くままに進んで行ってしまえば、予定されていた成長が出来なくなってしまう可能性があります。



それでは守護霊との結びつきを強めるのには、どうすれば良いのでしょう?

守り導いてくれていることを、心から信じなければなりません。

地上の人とは、親愛の想いによって結びついていますので、こちらからも親愛の想いを向けましょう。

同じ想いで一体化している感覚になるように努めましょう。

一体化が進めば、心が平穏になり、得も言われぬ安心感に包まれるでしょう。



守護霊は、この世の人の霊的な成長だけを願っています。

従って、金持ちになることや出世などをお願いしても全く意味がありません。

その代わり、人生で遭遇する困難や障害を乗り越えて行く時や、人や動物や社会のために奉仕しようとする時には、惜しみない援助をしてくれると考えられます。



護霊の援助は、地上の人の魂に思念(想い)と言う力を伝えることによって行われていると考えられます。

困難や障害に出会った時に、「乗り越えて行く力を与えて下さい」とお願いすれば、それに応えて、前に進んで行こうとする力が、心の奥から沸き上がって来るでしょう。

また、目に映るもの、耳にするものに、特別な印象を与えて、何かに気付かせたり、想いを伝えて来ることもあるでしょう。

物的な変化を生じさせて、五感を通して気付かせる時もあるかもしれません。



守護霊から伝わって来る思念は、繊細で微弱なものです。

自分の思考や感情と鑑別するためにも、雑念のない、穏やかな心でいるように、日頃から努めましょう。

瞑想をするのも非常に有効です。

守護霊が地上の人に想いを伝えた瞬間、ふと頭に浮かぶ言葉や概念になったり、ひらめく映像となって認識されるでしょう。



しかし、それが霊界から届いていると認識している人はわずかです。

思い付きや気のせいと片付けてしまう人がほとんどかもしれません。

無視されても、気付いてもらえなくても、弛むことなく守り導こうとしているのは、地上の人への深い愛があるからです。

24時間、365日、地上を去るその時まで、片時も離れることなく傍にいてくれる守護霊に、心から感謝の想いと、親愛の想いを伝えて下さい。

それが守護霊の安心と満足につながり、導くための原動力になると思います。



守護霊の存在を信じるほど、強い絆で結ばれ、それぞれの目的を果たしながら、互いに成長することが出来ます。








2019年4月14日日曜日

病気の苦痛について


人は何のために生きているのか?

人生を楽しむために生きていると言う人もいます。

また、自己実現をするために生きていると言う人もいるでしょう。



以前の私が、その質問を受けたのなら、何も考えずに生きていたので、きっと返答に困ったでしょう。

今でしたら「自分を成長させるため」と、はっきりと答えます。



その答えを聞いて、ある人はこう言うかもしれません。

「いくら自分を成長させたとしても、死んでしまえば終しまいだよ」

死んで無になってしまうのであれば、生きている意味を見出すのは確かに困難です。



死んで無になるのか? それとも生命は存続しているのか?

残念ながら、どちらも客観的に証明することはできません。

選択は個人の判断に委ねられています。

いづれはっきりするのですが、なるべく多くの人が生命が存続している「事実」を知って欲しいと願っています。

世の中では、目を覆いたくなるような出来事が起きています。

それは、今生きている世界が全てと言う誤った認識と、自分の取った言動に責任が伴うのを知らないことが、大きな原因になっていると考えられます。



本当の自分とは、肉体ではなく魂です。

死んだ後も、変わりなく意識は存在し、生命の本質は存続しています。

肉体は成長し、衰えて、やがて消滅します。

しかし、不滅の魂は、死に全く関係なく成長を続けています。



なぜ成長を続けているのでしょうか?

生命(魂)は神を宿していて、その心を表現するために成長を続けています。

神の心は完全なる愛です。

しかし、表現するための媒体である精神や肉体は、実に不完全な存在です。

そのため、神の心を表現しようとしても、不完全なものになってしまいます。

死とは、不完全な肉体を脱ぎ捨て、新たな媒体を手に入れる瞬間を指します。

不完全な媒体による表現が、より精妙な媒体を手に入れながら、完全な表現になって行く過程が成長と言えます。

生命(魂)は、死に当たる過程を繰り返し、その度に新たな媒体を手に入れながら、神に近づいて行くように定められていると考えられます。



前、このブログにも書きましたが、私が休日にボランティアで行っていた身障者施設に、重度の障害があるM君がいました。

M君は20代の青年で、先天性の脊椎の奇形があり、自分の意思で動かせるのは上半身だけです。

知的障害はないのでコミュニケーションは問題なく出来ますが、日常生活の全てに渡って介助が必要です。

ベッドの上で1日のほとんどを過ごしているM君の元を訪ねると、出るのはため息ばかりです。

こんな生活を続けるのなら、死んだ方がいいともらすことも度々あります。

そんなM君に、周囲の人は引き気味になり、一人ぼっちでいることが多いです。



M君には、一卵性の双子の弟さんがいます。

弟さんは、ほぼ同じ障害があるのにもかかわらず、入所はしていません。

車いすバスケットをするなど活発で、明るい青年です。

時々、お兄さんのM君の元を訪ねて来ては声をかけ、励ましているようです。

肉体が同じで、育って来た環境が同じなのに、生き方や考え方がここまで違うのは、兄弟の本質が別物であることの証明になっていると考えられます。



M君にとって生きるのは、死にたいともらすほど苦痛のようです。

しかし、弟さんにとっては、それほど苦痛ではないようです。

どうしてなのか、少し考えてみました。



陸上選手の中には、10000mを30分で走る人と、40分で走る人がいます。

30分で走る人が、35分で走ったとしても、さほど苦しさは感じないでしょう。

しかし、40分で走る人とっては35分は自分の限界を超えているので、苦しくて仕方がなくなるでしょう。

身体がどこまで鍛錬されているかの差によると考えられます。



M君兄弟も同じかもしれません。

苦痛の感じ方の違いは、二人の魂の成長度の差から生じていて、M君より弟さんの魂の方が鍛錬されているのかもしれません。

10000mを40分で走る人が苦しみを感じないようになるには、苦しみを感じながらも、ひたすら走り続けて、身体を鍛えるしか方法はありません。

M君にとって苦痛を感じながらも生きることは、陸上選手が厳しい練習をしているのと同じで、知らない内に魂が鍛錬されていると考えられます。



M君の苦痛の原因は、もちろん障がいのある肉体です。

しかし、苦しみや痛みは精神により自覚されていると考えられます。

自覚している精神の状態によって、苦痛を小さく感じたり、大きく感じたりすることを、私たちは経験的に知っています。

イライラしている時に、満員電車の中で靴を踏まれたら、普段より痛みを強く感じて、思わず怒りが生じてしまいます。

しかし、穏やかで満ち足りた気分の時には、同じことが起きたとしても、軽く受け流すことが出来ます。



精神は魂を表現する媒体です。

日頃どんな精神状態でいるのかは、魂の成長度によって変わって来ると考えられます。

魂の成長度の高い人は、より神の心を体現している人であり、温かく、優しく、平和な心が保たれていると考えられます。

そして、寛容さがあると思います。

世の中には、足を踏まれて激怒して怒鳴りつけてしまう人もいれば、何もなかったかのように平穏な心でいる人もいますが、それは魂の成長度と密接な関係がありそうです



同じ境遇にあっても、受け止め方や、生き方が違って来るのは、その人の精神状態や魂の成長度の差によるものと考えられます。




人を憎んだり恨するんだり妬む気持ちは、魂の未熟さから生じますが、神の心に反したものであるために、因果律の働きにより苦しみとなります

もしM君が、運命を恨んだり、人を妬んでいるのならば、肉体から生じている苦痛は、自らの想いによって増幅されていると考えられます。

今の苦痛から逃れるためには、自らの想いを正すしかないのかもしれません。



同じ障害を持つ弟さんは違います。

M君の様な苦痛を感じていないのは、自分の病気を受け容れ、運命を恨んだり、人を妬んだりしていないからと考えられます。

苦痛の原因は外部の肉体にあります。

しかし、苦痛として感じているのは内部にある魂と精神であり、どのような状況にあるのかによって大きく変化すると考えられます。



病気は、様々な次元の原因によって起こります。

骨折や感染症は物質(肉体)的次元に原因がある病気です。

胃潰瘍は精神的次元に原因がある病気です。

M君兄弟の病気は先天性のものであり、受胎以前に原因が生じているので、霊的次元の病気と考えられます。


2人を見ていて、同じ霊的次元の病気であっても、原因はそれぞれ違うと思いました。

M君は肉体的な苦痛の他に、霊的な苦痛も感じているようです。

もしかしたら、過去生で何らかの過ちがあり、その身体に宿ることによって生じる苦痛によって、罪が償われているのかもしれません。

人に助けてもらわないと生きていけない人生を通して、人を助けることを忘れていた過去生の出来事を償っているのかもしれません。



弟さんは、肉体的な苦痛はあるでしょうが、M君のような霊的な苦痛から解放されているようです。

それは、過去生の償いのためではなく、さらなる魂の向上を目指して、あえて重い障害のある肉体に宿ったからなのかもしれません。

障害を乗り越えて生きる姿は、それを見ているM君の学びにもなっていると考えられます。

人に助けられて生きたこの世の経験は、強い奉仕の動機付けとなり、次の世界において活かされるはずです。



ある日、M君のベッドサイドにお母さんが来ていました。

M君を見つめているお母さんの表情から、M君に対してこんな体に産んでしまってごめんなさいと謝るような気持ちが窺えました。

しかし、お母さんのせいではなく、子供たちはそれぞれ理由があってこの肉体を選んで生まれて来たのは確かです。

M君兄弟の病気の意味を知り、少しでも苦しみを和らげて欲しかったので、シルバーバーチの霊訓の存在を伝えました。

母親になった目的は判りませんが、M君兄弟を通して大切なことを学んでいるのは間違いありません。



M君の病気が償いであったとしても、終わる時は必ず来ます。

その時が来たとしても、肉体が正常に戻り、障害がなくなるわけではありませんが、今のように生きることに苦痛は感じなくなると思います。

霊的な苦痛から解放された時に、病気になった目的の大半が果たせたことになり、それ以降は弟さんと同様に、大きく成長して行くと考えられます。




肉体上の病気が治った時ではなく、魂が癒やされた時に、霊的な苦痛から解放されます。

霊的な覚醒を促すための触媒として病気の苦痛があり、覚醒することで神とのつながりが強くなり、生命力がふんだんに流れ込んで魂が癒されます。

何らかの原因があって病気は生じますが、同時に成長を妨げている原因を取り除くために苦痛が存在していると考えられます。