2015年7月20日月曜日

健康と病気 ~霊的視点からの私見~



健康とは何でしょうか?

一般的には、肉体と精神に異常が認められずに、正常に機能している状態を指すと思われます。



しかし、人間を構成しているのは肉体と精神だけではありません。

生命の本質である魂が存在しています。

魂の存在を否定する人がいますが、存在しているのは揺るぎのない事実であり、論争するのは時間の浪費と考えています。

WHOで1998年に出された、「健康の定義」の改定案ですが、 「Health is a dynamic state of complete physical, mental,spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity(健康とは、単に病気または虚弱がないだけではなく、肉体的、精神的、霊的、そして社会的に健全で、活動的な状態である)」としており、文言に「spiritual」を加えているのは、画期的なことだと思います。

現代医学が、この定義にある「spiritual」を受け入れたなら、迷宮入りしている数多くの病気で苦しむ患者に、きっと朗報がもたらされると思います。



シルバーバーチの霊訓では、病気の原因は、肉体と精神と霊(魂)の不調和にあると明言されています。

当初、私はその意味がよく分かりませんでした。

魂が最上位にあり、その下に精神があり、最下位に肉体があると言われます。

確かに、(反射を除いて)精神が命令を出さない限り、肉体は微動だにしませんので、精神の支配下に肉体があるのは良く分かります。

魂の配下に精神があるのですが、両者ともに肉体(物質)とは次元が異なり、存在を確認できるものではないので、その違いを明確に意識できません。

想い(思念)が生まれるところが魂であり、その想いを言葉にしたり、肉体で表現するために命令しているのが精神と考えています。



また、シルバーバーチの霊訓では、この世に顕現しているのは「パーソナリティ」であり、その背後に「インディビジュアリティー」が存在していると書かれています。

パーソナリティとはペルソナのことで、日本語にすると仮面という意味だそうです。

人は、この世を生きている時に、パーソナリティという顔(仮面)を被っていてることになります。



パーソナリティはインディビジュアリティーを表現するためにある、この世の「顔」と思われます。

個々のパーソナリティは、生まれた国、性別、職業、信じる宗教、文化、知識、家族、友人など、この世で自分を取り巻いている環境により、形作られていくと思われます。

そして、パーソナリティはこの世を生きているうちに、外部からさまざまな影響を受けたり、環境が変わったりして、大きく変化していく可能性があると思われます。

肩書が付くと性格まで変わってきたり、住む国や信じる宗教により考え方が大きく変わってしまうことが良くあります。

生まれ育った環境や、外部からの影響により、時と共に変化していくパーソナリティはこの世の顔であって、真の自分ではありません。

その奥に控える、インディビジュアリティーこそが真の自分と思われます。

パーソナリティは変えられる表層の自分であり、インディビジュアリティーは変えられない深層の自分と言えるのかもしれません。

よく言われる「エゴ」とは、肥大化してしまったパーソナリティのことを指すのかもしれません。



肉体と精神と魂の調和が保たれた状態とは、パーソナリティがインディビジュアリティーの延長線上にあり、インディビジュアリティー(の想い)が、パーソナリティに妨げられずに肉体で素直に表現されている状態と考えられます。

蛇口を回すと、遮るものは何もなく、勢い良く水が流れ出ている状態です。

不調和な状態とは、パーソナリティが外部から影響を受けて大きく変わってしまい、インディビジュアリティーと乖離してしまったため、(インディビジュアリティーから)生じた想いが、パーソナリティに妨げられて表現しにくくなっている状態と考えられます。

蛇口を回しても、水道管が詰まっているために、水が出にくくなっている状態と考えられます。

また、パーソナリティによって、想いが歪曲化されたり、変質して表現されている状態も不調和と考えられます。

蛇口を回すと、水道管が汚れているために、濁った水が出ている状態と考えられます。

この様な不調和な状態が続いてしまうと、心身に病気が生じると考えています。



最近、「ありのまま」の自分でいることの大切さが、しきりに叫ばれています。

ありのままの自分を「インディビジュアリティー」に、この世の顔を「パーソナリティ」に置き換えてみてはどうでしょうか。

ありのままの自分を表現しようとしても、この世の顔が邪魔をしてしまい、できない時があるのではないでしょうか?

ありのままの想いが、この世の顔に妨げられて表現できないのは、日常的に起きていると考えられます。

それは精神衛生上良くないと言うよりも、病気の原因になっていると思います。



妥当なのかどうか分りませんが、1つの例を挙げてみます。

2011年3月11日、福島第1原子力発電所に大津波が襲いました。

その津波により、建物は破壊され、原子炉を冷却する水は完全に不足しました。

冷却する水がなければ、原子炉は異常高温となり、その結果メルトダウンを起こして、放射性物質が拡散してしまいます。

その発電所の最高責任者は、多くの人を放射線被曝から守るために、直ちに海水を注入し、原子炉を冷却しようと思いました。

しかし、海水を注入したならば、その原子炉は2度と稼動できず、廃炉となります。

彼は電力会社の1社員であり、自分の決断により、会社に多大な損失が生まれることも承知しています。

それでも、彼は良心の声に従い海水注入を断行しました。

その後、国家と会社上層部から海水注入の中止命令が出されましたが、命令に従わず注入を続けました。

結果的に、メルトダウンが起こり、放射能汚染は防げませんでしたが、その規模は彼の英断により、格段に小さくなったと言われています。

彼のインディビジュアリティー(魂)は、迷うことなく海水注入を指示しています。

しかし、彼のパーソナリティ(この世の顔)は1国民であり、1社員であり、国家や上司の命令に従わなければなりません。

インディビジュアリティーとパーソナリティの間に、途轍もない不調和(葛藤)が生じていたことになります。



彼は事故の翌年、58歳の若さで、食道がんで亡くなりましたが、この極限状態での、両者の不調和(葛藤)が原因に思えてなりません。

若くして亡くなったことは家族にとって大きな悲しみとなりますが、亡くなった本人は魂の声に忠実に従って本当に良かったと、胸をなでおろしていると思います。

もし、自己保身など、利己的な理由で魂の声に従わなかったのなら、死後の後悔は計り知れないものになったと思います。



以上は、極端な例ですが、現代社会においては、この様な局面はいくらでもあると考えられます。

こんなことを書いている私も、以前は世間に認められる仕事をして、より良い生活をすることが幸福と考えていました。

いつも頭ばかりを使った、慌ただしい生活をしていたと思います。

そんな時に、仕事上の不正が発覚し、徹底的に追い詰められていく日々が始まりました。

当初は、頭を使えば、どうにか乗り切れるだろうと思いました。

しかし、事態は悪化していくばかりで、いくら考えても、どうすることも出来ない窮地に陥りました。

そんな時に、心の奥底から、こんな想いが湧き上がってきました。

「正直に生きろ」

心の奥底からの想いは、頭で考えたことと正反対でしたが、躊躇なく従おうと思いました。

心の奥底の想いは、本当の自分、魂からの声だと思ったからです。

それまで、本当の自分である魂から想いが生じているなどと、思いもせずに生きてきました

直感みたいなものを感じる時はありましたが、それは思いつきであり、偶発的に頭から生まれていると思っていました。



パーソナリティの声は「今の自分を守れ」であり、インディビジュアリティー(魂)の声は「正直に生きろ」です。

大きく違っていましたが、インディビジュアリティーの声に従い、正直に生きました。

その結果、今の自分は守れずに、(社会的に)最悪の結末を迎えました。

しかし、そこから多くのことを学びました。

「魂」、「生命」、「因果律」、そして「愛」。

これで良かったと、心から思っています。

その学びこそが、この世に生まれた意味であると今は考えていますので、後悔は全くありません。

もし、パーソナリティの声に従っていたなら、今の自分は守れたかもしれません。

しかし、インディビジュアリティー(魂)の声ではなく、パーソナリティの声に従ってしまうと、得られるものが得られずに、(死後の総括の時に)大きな後悔をすることになると思われます。

あるいは、本当の自分の想いを無視し続けたのなら、不調和により病気になっていたかもしれません。



ほとんど人は、思考や行動の源は、すべて頭脳にあると思っています。

確かに、日常生活は、事務的、機械的な作業や、感情を伴わない会話に費やされているので、ほとんどは頭脳で考え、身体を動かしています。

しかし、心の奥底まで響く出来事が起きた時、いくら考えても解決できない深刻な問題が生じた時は話は別です。

その様な事態が起きると、それまでパーソナリティの影に隠れて、眠っていたインディビジュアリティー(魂)が目覚めて働き出します。

パーソナリティで対応できないほど衝撃的な出来事が身に起きた時、埋もれていたインディビジュアリティーが表に出てきて主導権を握ると考えられます。、

この状態のことを、「魂が目覚めた」と言うのかもしれません。



インディビジュアリティーから想いは生まれています。

しかし、その想いはパーソナリティが大きくなってしまうと、その声に掻き消されて、判らなくなってしまうことが多くなります。

社会では所属する組織の利益を優先するため、物事を円滑に運ぶため、家庭でも他者の意見を尊重し、軋轢をなくすために、多くの人はインディビジュアリティーに蓋をして生活しています。

蓋をして生活していると、インディビジュアリティーの存在は徐々に希薄になり、この世の顔であるパーソナリティが自分だと思ってしまいます。

パーソナリティにより隠されてしまった想いは、表現されずに滞ることになります。



自己と他者との価値観、考え方に相違がないはずはなく、ぶつかり合えば、そこに葛藤が生まれ、何らかの想いが生まれます。

また、経験したことのない衝撃的な出来事から、言葉にできない強い想いが生まれます。

パーソナリティが大きくなると、インディビジュアリティーから怒り、悲しみ、憎しみ、恨み、喜び、嫉妬など、言葉にならない想いが生まれていても、気付きにくくなってしまいます。

もし、気付いたとしても、人間関係が悪化したり、道徳的、法律的に反する行為となってしまうので、パーソナリティに妨げられて表現はなかなかできません。



誰かにひどい仕打ちを受けて、強い怒りの想いが生まれたとします。

その想いを、外に向かって表現してしまうと攻撃的なものとなり、捕まったり、そうでなくても関係が悪くなるので、留まることになります。

しかし、表現しなかったとしても、怒りの想いは肉体には少なからず影響を及ぼしています。

怒りがこみ上げれば、脈は速く打ち、血圧は上昇して、顔は紅潮していくのが判ります。

想いは、肉体を変化させるエネルギーになると考えて良いと思います。



もし、怒りよりも強い、恨みや憎しみの想いは、肉体上にどのような影響を与えるのでしょうか?

恨みや憎しみを、身体を使って外に向かって表現するならば、相手への暴力や攻撃になると考えられます。

今、世界中で起きている戦争の根本原因は、怒りや憎しみや恨みの想いであり、それが外に向かって表現されていると考えられます。

嫉妬の想いはどうでしょう?

憎しみや恨みに近い想いであり、相手を陥れたり、不幸にさせる行為につながるかもしれません。



そんな相手を傷つけたり、不幸にさせようとする想いを、抱き続けていて良いはずがありません。



自然法則(神の摂理)とは、物理(物質)的法則だけではありません。

精神的、そして霊的な法則が存在しています。

言動だけに、気を付けていればいいのではありません。

自分の想いにも、霊的な法則が厳格に働いています。

どんなことを想っても、人に知られることはありません。

人から非難されたり、法律で罰せられることもありません。

しかし、自然法則は1つ1つの想い(思念)を、見逃すことはありません。

その想いが、摂理(愛)に反したものであれば、相応の償いが、必ず生じます。

累積した愛に反する想いは、因果律の働きで心身に病気として表現され、苦痛によりその過ちを償うことになるかもしれません。

現代医学で原因不明とされる病気の多くは、霊的次元に根本原因が存在し、表現されなかった(愛に反した)想いが、別の形で表現されたものと考えています。



想いは、自分そのものであり、常に責任が問われていることになります。

外に表現されなかった相手を攻撃し傷つけようとする想いは、因果律の働きにより、内に表現され自分自身が攻撃され傷つけられる結果を生み出します。

自から出た想いは、肉体で具現化する力となって、自分に戻ってくると言うことです。




自分の想いにより、自分が傷ついて、苦痛を味わうのは、その様な摂理(愛)に反する想いを抱くことが過ちであることに気付くためです。

そうであるならば、霊的次元に原因がある病気の人は、自分の奥底から生まれる想いに耳を澄まして、愛に反する想いが生じないように、細心の注意を払うべきだと考えられます。

降りかかる出来事から、愛に反する想い、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬が生まれそうになったら、とても難しいことですが、寛大になり、その対象を許すしかありません。

許すことは、自己犠牲を伴う、相手への愛であるために、愛に反する想いは生まれないからです。




想いは頭で意識されにくいものであり、自分にはそんな想いはないと思っていても、身体が反応してしまっている時があります。

自分では怒っていないと思っていても、興奮して声が上ずったり、眉間にしわが寄っていれば想いが必ずあるはずです。

悲しくないと思っていても、想いがなければ、知らないうちに涙が頬を伝って落ちることなどないはずです。



想いが溜まっていると、遭遇する出来事から同様の想いが生じやすくなります。

怒りの想いが溜まっていると、ささいなことで怒りやすくなります。

悲しみの想いが溜まっていると、ふとしたことで悲しくなり、涙ぐんでしまいます。



私は、まだ未熟なために、怒りまではいかないにしても、その一歩手前の想いが生じている様です。

平静は保たれているように思っていても、想いが溜まっていると、知らないうちに物事を良くない方に解釈しがちになります。

ささいなことが気になったり、素直に受け取れなくなったり、疑ったりしてしてしまう様な気がします。



また、自分は相手を怒らせるような言動はしていないのに、相手から怒りをぶつけられる時があるかもしれません。

そんな時は、まず自分の中に意識されない怒りの想いがないか、問い質すようにしています。

(自分の中に)怒りの想いがあって、それが相手の魂に伝わり、同じ想いが生じて、返されているかもしれないからです。

知らない内に自分が種を蒔いていて、それを刈らされていることが、意外に多いと感じています。



その逆に、相手は怒らせる言動は何もしていないのに、何故か相手に対して怒りの想いが生まれてしまうこともあります。

そんな時は、相手に怒りの想いがあって、その想いを魂が受け取ってしまい、同じ想いが自分に生じている可能性があります。



想いは、人にも自分にも影響を与える目に見えない力です。

そして、人生は想いが起点となって綴られていきます。

自分の想いに、気付かなければいけません。

そして、大切にしなければいけません。



深刻な病気であればあるほど、隠されている強い想いがあるのではないかと思います。

しかし、自分を守ろうとするパーソナリティから生じる不安や怖れが大きいと、(インジュビアリティから生じた)想いが、見つけにくくなるかもしれません。

不安や怖れを鎮めて、心を穏やかにして、内にある想いに気付くことが、病気を癒やすための第一歩だと思います。

そして、病気を生じさせた、愛に反した想いを、解放させてやらなければいけません。



神の摂理は愛です。

愛の表現とは、人を愛することだけではありません。

人そして出来事を許すことも、自己犠牲を伴うために愛が必要です。

自分を許せずに、苦しんでいるのであれば、自分に向けられた愛が足りないと思われます。

許すことで、憎しみから解放され、憎しみから解放されれば、苦しまずに済みます。

愛に反した想いは、自らの愛の想いでしか、解放できないと思われます。



病気は突発的に生じて、苦痛を与えるだけのものではありません。

魂の成長と深く関係しています。

生まれる前から病気になることが決まっている人がいますが、病気を通して周囲の人とともに、大切な事を学び、魂を成長させるためにあると思われます。

また、この世に生まれてから出会った出来事により生じた想いが、決められていた人生のシナリオを書き換えてしまうほど大きくなってしまったために、病気が生じている人もいます。

いづれにしても、大切なことを学び、魂を成長させるためにあります。



魂の成長とは、より次元が高く、強い愛を表現できるようになることと、考えています。



亡くなった後に、この世の人が赴く世界は、物質(肉体)が介在しない、想い(思念)の世界です。

地位、財産、名誉など、この世で手に入れたものはすべて置いて、魂ひとつで向こうに行きます。

この世の顔であるパーソナリティは剥ぎ取られてしまい、インディビジュアリティー(魂)がむき出しになります。

魂を隠す肉体はないため、ありのままの自分、裸の自分になります。



ありのままの自分である魂は、想いという光を放っています。

美しい光とは、相手を思いやり、やさしくしようとする、愛の想いです。

愛に反する想い、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬、貪欲などの想いは、美しさに欠ける光となります。

想いのすべてが、知れてしまいます。

魂のすべてが、知れてしまいます。

向こうの世界は、自分を偽れない実存の世界であり、この世は、自分を偽った虚像が存在する世界です。

ありのままの自分を出しても、恥ずかしくないように修養する世界がこの世と考えられます。



魂は、より高く、強い愛を表現できるようになるのを望むために、最適な環境を選んでこの世に生まれて、さまざまな経験を通して魂を成長させていきます。

多くの人は望みませんが、楽しいことよりも、逃げ出したくなるようなつらい経験ほど、魂を成長させています。

しかし、時につらい経験から、愛に反する強い想いが生まれてしまいます。

その想いはが表現されずに滞ってしまうと、その後の人生で遭遇する出来事から、同様の想いが生じ続けてしまいます。

予定されていた魂の成長を妨げてしまうほど、想いが大きくなってしまっても、この世では五感に触れないために判りません。

そのために因果律が働き、病気という五感に触れる形となって、想いが表現されます。



病気には苦痛が伴います。

その苦痛にも意味があり、愛に反する想いを抱き続けたことに対する償いであり、想いを解放させて魂を浄化します。

(肉体の)生命にかかわる深刻な病気であれば、それまで自分だと思っていたパーソナリティでは対応しきれなくなり、奥に控えていた本当の自分であるインディビジュアリティーが表に出てきます。

本当の自分である、魂に目覚めます。




病気とは魂を目覚めさせ、本当に大切なものは、生命そして愛であることに気付くためにあります。

意識には上りませんが、生まれる前に自分にした約束があり、それを、もう1度思い出させるためにある、神の摂理(愛)です。

病気になったのは不幸ではありません。

この世にいるうちに生まれ変わり、憎しみではなく愛を表現して、生まれてきた目的を成就させるためにあります。





参考資料: 「日本を救った男―吉田昌郎元所長の原発との壮絶な闘いと死」


参考ページ: 「霊的な病気の意味」
















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