2015年12月20日日曜日

苦しみは自分を変えて行く



私が中学1年生、確かホームルームの時だったと記憶していますが、女性の担任が元同僚だった男性教師について話をしました。

その教師は、クラブ活動の指導中に首を骨折してしまい、首から下が完全に麻痺して動かなくなってしまったそうです。

担任は、「若いのに、本当に可哀想だった」と、しみじみと話をしていたのを覚えています。

そんな話を聞いても、全く知らない人だったので、別段、何も感じませんでした。



十数年の時を経た、90年代のある日、地元に新しい美術館が出来たと耳にしました。

その美術館に展示してあるのは、草花の水彩画とそれに添えた詩でした。

作者は口に絵筆を咥えて、絵や文字を書いていると聞きました。

そして、元教師で、学校での事故で、手足が麻痺して動かなくなってしまった人だと聞いて、もしかしたら、中学生の時に担任から聞いた、あの先生のことかもしれないと思いました。

予感は、当たっていました。

画家の名は、星野富弘さんと言います。



1946年生まれの星野さんは、子供の頃から、人一倍運動能力が優れていて、地元の大学を卒業した後、体育教師になりました。

赴任した中学校で、体操部の指導中、跳び箱を使った空中回転の着地に失敗をして、頚椎を折ってしまったそうです。

九死に一生を得ましたが、手や足は全く動かなくなってしまい、教師になって2年目の24歳で辞めざるを得なくなりました。



20代前半の若い男性が、いきなり首から下が動かなくなれば、どう思うのでしょうか?

想像するだけでも恐ろしいものがあり、同年代の私であれば、自分の人生は終わったと思うに違いありません。

悪い夢でも見てるような気分になり、現実に起きたことを認められないかもしれません。

星野さんは、学生時代に体操や登山で心身を鍛えていましたが、人に負けないと思っていた「根性」と「忍耐」は、過酷な現実を前にして、1週間で吹き飛んでしまったそうです。

そして、絶望の淵に沈んだまま、何回も死のうと思ったそうです。



星野さんに残されている死ぬ手段は、舌を噛み切ることと、何も食べないで餓死することでした。

舌を噛み切ろうと何回もしたそうですがだめで、食事を摂らずに餓死を試みましたが、やはりだめであり、後にこう語っています。

けがをして、もう一生首からしたを動かすことができないのだと分かった時に、「俺はもう生きている価値はない」と思いました。
夜は、「次の朝には死んでいたらいいのに」と思いながら寝るのですが、いつもどおりの朝が来て、看護婦さんが脈や血圧を測ると正常値なのです。食事を抜けば死ねるかと思って幾日か抜いてみたのですが、腹が減って減って・・・・・次の食事を腹いっぱい食べてしまいました。あの時のご飯、うまかったなあ。
その時、「いのちというものは、俺とは別にあるんだ、俺がいくら生きることをあきらめても、いのちは一生懸命生きようとしているのだ」と思いました。私の努力でいのちがあるのではなく、「いのちが一生懸命俺を生かしてくれている」と気づいたのです。
「自分は今、やさしくて大きなものに生かされているんだ、死にたいなんて、いのちに申し訳ない」、そう思いました。  『いのちより大切なもの』より



お父さんは既に他界していて、病室での介護は、お母さん一人に任されました。

自分の息子が、首から下が全く動かせない重度の障がい者となってしまった時の、母親の気持ちは、他の人にはとても理解できません。

しかし、星野さんは自分の現状に対する怒りの持って行き場がなく、「何で産んだんだ」と、お母さんを怒鳴ってしまったそうです。

それを聞いたお母さんの胸は、きっと張り裂けそうだったと思います。

入院当初の、介護するお母さんの様子を、こう語っています。

24歳でけがをして入院していた時、膀胱に留置カテーテル(管)を入れて尿を排泄していました。
最初の頃ですが、留置カテーテルに点滴と同じ細い管を接続していて、管が詰まってしまうことがよくありました。私は体が麻痺しているので、普段は尿意を感じません。
しかし、管が詰まり膀胱が大きく膨れてくると、体じゅうに汗が噴き出て、気づいた時には心臓の動悸が激しくなり、息が上がり、大変な状況になっています。そんな時は看護師さんを呼んで、管を洗浄してもらうのですが、とにかくよく詰まるので、そのたびに苦しい思いをしました。その時も看護師さんを呼んだのですが、忙しいのかなかなか来てくれません。
苦しがっている私をみかねて、母は、私の尿道につながっていたカテーテルを口にくわえ、息を吹き込んだり吸ったりして管の詰まりを取ってくれたのです。母は時々それをしてくれました。息子の苦しむ姿を見ていられず、思わず体が動いたのかもしれません。
母にしかできないことだと思います。  『いのちより大切なもの』 より

病室での星野さんとお母さん


つらい闘病生活を続けていましたが、星野さんにとって一番堪えたのは、治る見込みのない怪我であり、この状態が一生続くということだったと思います。

絶望的とも言える日々を過ごしていた星野さんは、受傷から2年経って、ある看護学生から口で文字が書けるかやってみましょうと言われました。

言われるままに、口にマジックペンを咥えて、「ア」という一文字を書いてみました。

手足の自由を奪われ無力だと感じていた星野にとって、たとえ汚い文字であっても書けたことは、予想外の大きな喜びであり、前に踏み出すきっかけとなりました。
初めて口で書いた文字
私たちは、当たり前のように手を使って字を書いていますが、星野さんは首から上に残された機能を使って書かなければいけません。

単純だけれども、難しい作業を、日々病室で繰り返していました。



そんなある日、見舞いの人にもらった花に目が留まりました。

改めて見ると、その色、その形の美しさに、驚かされ、すべてのものが神様が作ってくれたと思ったそうです。

花には一つとして余分なものも、足らないものもなく、色も形も調和を持っていて、そういうものを素直に写していれば、いい絵が描けるんじゃないかと考え、花を先生だと思って絵を描いてみようと思い立ち、花の絵を描き始めたそうです。

下の絵は初期の作品ですが、無我夢中で描いている様子が、伝わってくるようです。
百日草 (1975年)

入院は長期に及びました。

その間「あれがなかったら俺の人生は違っていた」と、何度も思ったそうです。

病室の天井を眺めながら、何のために生きているのだろう、何を喜びとしたらよいのだろう、これからどうなるのだろう、と思ったそうです。



ある日、大学時代の先輩が病室に見舞いに来て、三浦綾子さんの「塩狩峠」という本を貸してくれました。

内容は、北海道の鉄道員の話であり、連結器が外れて、暴走し始めようとする列車を、自分の身体を車輪の下に投げ入れて列車を止めて、乗客の命を救ったという実話です。

自分の身を犠牲にして、人を救うというところに、もの凄く惹かれたそうです。

主人公である鉄道員はクリスチャンであり、三浦綾子さんの小説を次から次へと借りて読んで、キリスト教に興味を持ち、それから2年後に、病室で洗礼を受けたそうです。



口で繊細な花を描くのは、並大抵の忍耐力と集中力はで務まらないと思いますが、マジックペンから絵筆に変えて、その後も、病室でたくさんの水彩画を描き続けて行きます。

そして、入院から9年目、描き溜めた絵が60枚になった頃、ある人から意外なことを言われます。

知り合いの身障者センターの所長さんから、展覧会をやってみないかと勧められたそうです。

星野さんは、とても人に見せられる絵ではないと、当初はしりごみます。

しかし、お母さんと二人三脚で描いた絵を通して、福祉で一番大切な心のつながりを紹介したいという所長さんの熱意に打たれ、承諾します。

1979年、初めての展覧会が開催されることになります。

どうせ見てもらうなら、ただ単に口で描いた絵を見てもらうという展覧会ではなく、ひとりの人間の「生きざま」の紹介をしてみてはどうかと言われ、初めて書いた文字、未完成の初期の絵も展示することに決めたそうです。

絵を描きながら思っていたことを二・三行の言葉にして絵に添えましたが、「書きはじめて私は、また自分の弱さやみにくさをさらに知らされるような気がした。本当の気持ちは書くことができず、自分を繕ってしまうのである。どんな冒険に立ち向かうよりも自分をさらけ出すことのほうが、ずっと勇気が必要なのではないかと思った」と、後述しています。

この展覧会は、多くの人々に感動を与え、反響を呼んで、作品は一人歩きをし始め、星野さんとお母さんの二人だけのものではなくなって行きました。



9年という長い入院生活を終えて、生まれ育った村に戻り、豊かな自然に囲まれた環境で、その後も絵を描き続けて行きました。

身の回りの世話や絵の製作の介助は、それまでお母さんがやっていましたが、大きな転機が訪れます。

1982年に、教会を通して知り合った昌子さんと結婚することになり、その役が引き継がれました。

重度の身障者との結婚は、介護の大変さや、経済的な面を含めて、苦労の絶えない人生になるかもしれません。

若い女性には、到底受け入れられないような気がしますが、昌子さんは星野さんからのプロポーズの言葉を聞き、こう思ったそうです。

愛する気持ちが大きくなってきたときに
逆の祈りをしている自分に気づいたんですね。
もうほんとにそれが大きくなって、
愛することをやめさせてくださいというような・・・・・・ 
         ~星野さんへ宛てた手紙より~

星野さんと昌子さんは、出会うべくして出会ったとしか思えません。

新たな気持ちで意欲的に絵を描いて行きますが、絵具の調合一つにしても、星野さんが納得できる色を作るまでに、昌子さんの苦労があったことを考えると、二人の共同作品と言ってもいいのかもしれません。



日々の生活で触れる自然の中に、驚きがあったり、発見があったりして、それを見つけた時の悦びを絵と詩で表現していったと思われます。

動くことの出来ない星野さんは、その場所から動くことのない花に対して、特別な感情を抱いていたのかもしれません。

動きはなくても、そのありさまは刻々と変化し、しっかりと生きている花の様子に、共感したのかもしれません。

花の想いの様なものを、五感を超えて感じ取っていたのかもしれません。

花を通して、自然の摂理を教えられ、魂が慰められていたのかもしれません。
                 


星野さんは、今でこそ穏やかそうな表情をされていますが、そこに辿り着くまでには、長い時が必要だったと思われます。

動こうとしても、動けないのは、想像をはるかに超えた苦難です。

自由に動ける人を見て、羨ましく思わないでいられるはずもなく、強い不満や劣等感は、根強く居座っていたと推察されます。

不満や劣等感が募っていくと、怒りや憎しみ、嫉妬の想いが生まれ易くなります。

そんな想いが内にあると、絵の中に正直に現れてしまい、人の心に触れる絵にはならないと思います。



醜い想いを抱いてしまうと、自然の摂理が働いて、苦しくなってしまいます。

自分の想いにより、自分が苦しんでしまう様子を、こう表しています。

「私は悲しい心をもって生まれてしまったものだと思った。
周囲の人が不幸になったとき自分が幸福だと思い、
他人が幸福になれば自分が不幸になってしまう。
自分は少しも変わらないのに、幸福になったり
不幸になったりしてしまう。
周囲に左右されない本当の幸福とはないのだろうか。
自分が正しくもないのに、人を許せない苦しみは、
手足を動かせない苦しみをはるかに上回っていた。」
  『星野富弘 ことばの雫』 より



苦しまずに済むためには、自然の摂理に適った物事の捉え方をしなければいけません。

星野さんの心が変化していく様子です。

「長い間、私は道のでこぼこや小石を、なるべく避けて通ってきた。
そしていつの間にか、道にそういったものがあると思っただけで、暗い気持ちを持つようになっていた。
しかし、(車椅子に付けた)小さな鈴が「チリーン」と鳴る、たったそれだけのことが、私の気持ちを、とても和やかにしてくれるようになったのである。
こんな小さなことにも喜べるんだったら、私は、体は動かないけれども何か自分で楽しく生活できることも出てくるんじゃないかと、そんなふうに思いました。
人も皆、この鈴のようなものを、心の中に授かっているのではないだろうか。
その鈴は、整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることはなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時、揺れて鳴る鈴である。
いやだと思っていたものが、美しく見えるようになった。
・・・・・それは、心の中に、宝物をもったようなよろこびでもありました。

苦しい時に踏み出す1歩は心細いものだけれど、
その1歩の所に、くよくよしていた時には想像もつかなかった世界が広がっていることがある。」
『星野富弘 ことばの雫』 より

苦しい思いをしたくないので、そんな想いが湧かない様な物事の捉え方をするようになり、自然に苦しさから解放されていったのかもしれません。

最初の一歩を踏み出すのは、口で言うほど簡単なものではなかったと思います。

でも、踏み出さない限り、同じ場所に留まったままです。

勇気を出して、踏み出した先にあったのは、気付きそうで気付かない大切なことであり、そんな宝物を、いくつも手にして行きます。

そして、それまで気にも留めなかったありふれた日常の中に、ささやかな悦びを見つけていくことで、心が次第に穏やかになっていったのかもしれません。



 
人は、ただ生きているのではなく、目的があってこの世を生きています。

さまざまな人生経験を通して、自分を成長させるためです。

楽しい経験では、成長にはつながらず、出来れば避けて通りたいような困難や障害を、もがきながらも乗り越えていく過程で、強く成長していきます。

苦しみや悲しみの経験は、決して無駄なものではなく、大切な宝物を手に入れ、自分を成長させるためにあります。

そんなものを手に入れるより、楽しい人生の方が良いと思うかもしれません。

もし、この世だけで終わってしまうのであれば、そう考えても仕方ありません。

しかし、死んで消えてなくなってしまう訳ではなく、次の世界で新しい生活が待っています。

新しい生活をするのに、知っていなければならない、守らなければならない、きまりのようなものがあり、それをこの世で学んでいます。

楽しいだけの人生は、学校を遊んで過ごしたことになり、卒業してから苦労することになります。

苦しみの多い人生は、苦労して多くのことを学んだことになり、成長した大きな喜びに包まれ、活かす機会が与えられます。



この世では、肉体しか見えないために、それぞれが独立した存在のように見えますが、次の世界に行くと肉体はなくなり、真の自分(魂)だけになり、途方もなく大きな存在とつながり、共に生きていることに気付きます。

途方もなく大きな存在から、生命力をもらって生きていることを実感します。


ところで、人は植物に親しむ気持ちがありますが、どうしてでしょう?

人も植物も共に自然の一部であり、「生命」と言うつながりを感じているからだと思います。

野に咲く花と、似せて造られた花を観て、どちらが綺麗でしょうか?

野に咲く花は、生命の輝きがあり、調和という美がありますが、人が造ったものに輝きはなく、美しさは足元にも及びません。

植物も動物も、途方もなく大きな存在から、生命力を受け取って生きています。



受け取っている生命力は、愛を帯びています。

花を美しく感じるのは、生命力が愛を帯びているからです。

同じ力が人間にも流れて、愛を表現しようとしますが、肉体があり、この世を生きるもう一人の自分がいて、思うようにできません。

途方もなく大きな存在は、この世でさまざまな出来事を経験させて、障壁となるものを取り除き、愛を表現させようとしています。

 
 
生きることは、愛することに限りなく近いと思います。




私の住んでいるところは、利根川という大きな河が流れています。

上流の方なので、河原には大きな石がごろごろしています。

穏やかな流れの時は、その場所に留まっていられますが、大雨が降り濁流になると、押し流されて、川底をゴロゴロと転がっていきます。

流れが緩やかになると石は留まり、再び流れが急になると、川底をまた転がっていきます。

転がりながら、少しずつ角が取れて、小さくなりながら流されていきます。

下流に行くほど川幅が広くなり、流れは緩やかになりますが、角が取れて丸くなった石は、逆らうことなく流れていくようになります。

すっかり角が取れて、小さくなった石は、やがて海に流れ込んで行きます。

人もさまざまな出来事を経験して、余分なところやひずんだところは削られていき、自然の流れに逆らわないように、丸く、小さくなって行くのかもしれません。

途方もなく大きな存在の力の前では、どんなに抵抗しても無駄であり、素直に流れに従うしかないと思います。

その力は、愛の力だと信じて。


ふと、そんなことを思いました。



利根川と合流する渡良瀬川を見ながら、星野さんはこんなことを感じたそうです。

怪我をして全く動けないままに、将来のこと、過ぎた日のことを思い、悩んでいた時、ふと激流に流されながら、元いた岸に泳ぎつこうともがいている自分の姿を見たような気がした。そして思った。「何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか・・・・流されている私に、今できるいちばんよいことをすればいいんだ」   『星野富弘 ことばの雫』 より



身近な草花や、自然の営みの中に、やさしさや、きまりのようなものに気付いていったのだと思います。

気付いたことを、他の人たちに伝えて、励ましたり、癒したりするのが、今できるいちばんよいことだと、星野さんは思ったのに違いありません。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

























2015年12月6日日曜日

人生のシナリオは自分を成長させるためにある



人生には、予め決まっているシナリオ(青写真)があると言われています。

そんなのあるわけがないだろうと言われたとしても、私はあると思います。



もし私が「あなたの人生で、大きな出来事は何ですか?」と、問われたならば、次の3つを答えるでしょう。

病気を癒す力の出現。

人生に革命をもたらした、シルバーバーチの霊訓と出会い。

人生で最も屈辱的で、つらい思いをした、仕事上の不祥事。



その3つが、わずか1ヶ月の間に、立て続けに起こりました。

偶然重なったとは、とても考えられません。

いくら鈍感な私でも、計画的に起きているとしか、思わざるを得ませんでした。



仕事上の不祥事により、追い詰められて行く中で、シルバーバーチの霊訓と出会い、貪るように読み進んで、慰められ、この世には見えない法則が働いていることを知りました。

そして、突然、出現した治癒力により、病が癒されるのを目の当たりにし、そこに秘められた意味について知りました。

3つのことは、密接に関連していて、どれ1つが欠けたとしても、今の私はないと思うと、シナリオがあるとしか思えないのです。



生まれて来た目的を果たすために、自分だけのシナリオが全ての人にあります。

今、書いているような、霊的な事実を広めるのが、私の主要なシナリオのようです。



若い頃、何のために生きているのか思い悩む時がありました。

死んで無になる存在であれば、虚無感に襲われます。

無にならないのであれば安堵しますが、肉体を超えた何かが存在していなければいけません。

もし、無になるのであれば、人生に永続的な目的などありませんが、生まれる前も、そして肉体が無くなった後も、何かが存在し活動しているのならば、生きている目的について、答えが見つけられそうです。



肉体を超えた何かが、真の自分であり、生命の本質です。

多くの人は、それを魂と呼んでいます。

目に見える肉体は、自分(魂)を表現する媒体に過ぎません。

肉体は年とともに老いて、やがて朽ちますが、魂は老いることも、朽ちることもなく、成長し続けます。


私たちは、成長するために生きています。

魂が成長するためには、何らかの体験が必要になります。

人生には、楽しいこと、うれしいこともありますが、つらいこと、悲しいこともあります。

誰もが、人生は楽しく生きたいと思っています。

どちらかを選べるのならば、ほとんどの人は楽しいことを選ぶでしょう。

つらいことはなるべく避けて、楽しい人生にして行くでしょう。

楽しいことは、良い思い出になります。

しかし、そこから学ぶものは、あまりないのかもしれません。



子供の頃ですが、自転車に乗って、友達と良く遊びに行きました。

自転車には、初めから乗れるはずもなく、何回も転んでひざをすりむきながら、乗れるようになりました。

何かを身に付けるのには、多少のつらさを伴うものですが、将来、活かせると思うので、人は苦しい思いや痛い思いをしながらも、身に付けようとします。

時に、絶対に起きて欲しくない、不幸や不運と言われるような出来事が起きます。

その苦しみや痛みが大きいのであれば、それだけ価値のあるものを身に付けようとしているのであり、今はとてもつらくても、大いに活かせる機会が待っていると思われます。

そして、何かを身に付けたり、学んだりするのが、魂が成長することであり、生きている目的だと思います。



もし、人生が何も決まっていなければ、ほとんどの人はつらい方ではなく、楽しい方を選んで進んで行ってしまうでしょう。

けれども、心の奥では、楽しいだけの人生では、自分が成長しないことも判っています。

魂は、自分の足りないところ、弱いところを自覚していて、克服し、成長することを希求していますが、この世では肉体があり、誘惑もあるため、そちらの欲求が勝ってしまうと、かき消されてしまいます。

人間は弱い存在であるがために、この世で確実に成長するため、弱点を克服して行くためには、ある程度、人生が決められている必要があり、そのために、最善のシナリオが自然の摂理の働きにより用意されることになります。

生まれる前に、全てを承知した上で、魂は母体に宿ります。

この世に誕生し、シナリオに沿って人生が展開されて行きます。



シナリオに沿った出来事が、人生のどこで、どのような形で生じるのか判りません。

事前に判っていれば、心の準備が出来て良かったと思うかもしれません。

しかし、判っていて平静に迎えられる人が、果たしてどれ位いるでしょうか?

大きな病気になると判っていたら、それを回避しようと必死になるような気がします。

もし、早く死ぬことが判っていたなら、勉強や仕事や結婚もしないかもしれませんし、あの人は長生きできるのに、どうして私は早く死んでしまうのと、強い不満を抱いたまま生きてしまうかもしれません。

人生を真剣に生きるために、シナリオは記憶から消去されていると考えられます。



そのような理由から、シナリオで決められていた出来事は、何の前触れもなく起きると考えられます。

人生を変えてしまうような出来事が、突然、身に降りかかってくれば、何が悪かったのだろうと、過去を振り返ったり、周囲を見回して原因を探します。

もし、原因が見つけられなければ、何も悪いことをしていないのに、何故、自分だけがこんな目に遭わなければいけないのかと嘆いたり、運命を恨んでしまうかもしれません。

理不尽さをぶつけるところはなく、神を呪ってしまう人もいます。

しかし、人を不幸にさせるためではなく、何かを学び、自分を成長させるために起きているのであり、自分自身で決めていたことを自覚しなければいけません。



この世の出来事には、シナリオではなく、今生での自分の想いや行いが原因となり、その結果として生じたものも多くあります。

また、他者の自由意志により引き起こされたものや、周囲に因果律が働いて生じたものもあると思います。

もし、はっきりとした原因が見つけられなかったら、シナリオに従って起きた可能性があると思われます。

子供の重い病気や、身近な人の不意の死は、本人のシナリオであると同時に、周りにいる人にとっても、予定されていたシナリオであるかもしれません。

シナリオは過去世に基づいて、魂を成長させるのに最も有効な手段が選ばれ、それが生じる環境が用意されると思われます。

シナリオにある出来事は、その人の魂を成長させる最適のタイミングで起こると考えられます。



過去の過ちを清算する償いとしてのシナリオもあります。

そして、周囲の人を啓発する使命を帯びたシナリオもあります。

偉人として有名なヘレン・ケラーがいます。

彼女は、3重苦という重い障害を乗り越えて行きました。

そして、弱者の視点に立って、社会福祉の推進と啓蒙に生涯を捧げました。

きわめて成長した魂が、さらなる成長を求めるのならば、彼女のような過酷で壮大なシナリオが用意されると思います。



乙武洋匡さんは「五体不満足」という本を書いて、それがベストセラーになりました。

身体障害を1つの特徴と捉えて、普通の人よりも明るく生きているように見えます。

社会的弱者ばかりでなく、生き方に悩む人が、彼の生き様や考え方を見聞きして、励まされていると思います。

自らが重い障害にも負けない強さや明るさを見せて、出会う人たちに困難に立ち向かって行く力を与えているように思えてなりません。

人一倍、力強く、明るく生きて行けるのは、周囲の人の魂を鼓舞させるというシナリオがあり、心の奥底で自覚しているからだと思います。



外面の内側に本当の意味が隠されています。

しかし、多くの人は外面だけを見て判断していると思われます。

身体的特徴や障害、地位や肩書きなどは、その人の外面を表しているだけであり、その人の本質ではありません。

不幸にしか見えない出来事の内側に意味があり、そこに学ぶべき大切なことが隠されています。

もし、学ぶものが何もなければ、病気はいたずらに人に苦痛を与えたり、死に追いやるだけのものになります。

別れの悲しみには、何の意味もありません。

そもそも、悲しみなどなくて良いはずです。

学ぶものがなければ、戦争は果てしなく続くことになるでしょう。

怒りや憎しみが世界を支配して、憎しみ合うために生まれて来たことになってしまうかもしれません。

不可解極まりない、矛盾に満ちた世界となり、人が生きていく価値など、どこにも見出せないでしょう。

しかし、現実は違います。

(肉体的な)命にかかわる病を患ったのであれば、生きていることに感謝して、以前より人生を大切にしている人が多いようです。

愛する人を喪い、深い悲しみに中で、大切なものは見えるものの中にないことに、気付く人もいます。

戦争で街が破壊され、人が死に傷ついていくのを経験したならば、怒りや憎しみの表現がいかに愚かな行為であり、悲しみや憎しみしか生み出さないことに気付く人がいます。



いくら考えてみても、解決方法が見つからない出来事であれば、今まで働いていた頭(脳)は鳴りを潜め、それまで眠っていた魂が目を覚まします。

本当の自分が目覚め、進むべき方向を指し示します。

その方向がシナリオに沿ったものであり、魂の成長を促すことになります。

迷うことなく、そちらに進むべきです。

無我夢中で、その方向に進んで行くと、やがて道が開け、その先に学ぶべき真実を見つけた瞬間、明るい光が差し込んできます。

起きて欲しくはなかったと思うような出来事は、奥底にある魂にまで響いて、目覚めさせ、大切なものに気付かさせますが、真相は、この世で大切なものに気付くために、魂に響くようなが出来事が、シナリオに沿って生じていると思われます。



世の中には、不幸(と言われるよう)な出来事の只中にいる人もいれば、幸せを感じながら生きている人もいます。

この世だけの人生であれば、それでは不公平であり、不平等です。

しかし、人生はこの世だけでなく、過去もあり、未来もあります。

幸せを感じながら生きている人の中には、過去(世)に同じ様な出来事を経験し、すでに学んでいて、今があるのかもしれません。

そして、これからも別の経験して、学び、成長していくことになると思います。

まだ、学んでいない人には、この先、いくつもの出来事が待っているでしょう。

この世は、さまざまな過程の人が混在し、人生の一断面を見ているに過ぎません。

他の人の姿は、過去の自分の姿であり、未来の自分の姿なのかもしれません。

足りないものを学び取り、自分(魂)を強くするために、その人にとって必要な人生を、今、生きています。

学び取ることが違えば、それぞれ人生は違っていて当然であり、自分と他人を比較すること自体が誤りです。



病気、不意の別れ、争いなど、決して経験したくありませんが、シナリオには、そんな出来事が多く含まれています。

それは、この世にしか病気、不意の別れ、戦争は存在せず、あの世では学べないからです。

あの世にないものが、この世に存在しています。

暗闇の中で、光が輝くように、この世は比較対照となるものが存在することにより、大切なことが際立ちます。

比較対照となるものがない、あの世では学びにくいのです。

喪うものがないから、学びにくいのです。

この世にしかない苦痛を通して、学んでいるのです。



本当に大切なものは、見えません。

人に教えてもらうものではなく、魂が目覚め、内から得心するものです。

何もないような人生では、魂は目覚めず、この世で大切なものが何も学べないことになります。



ブログを書いていて、私はいつも驚いていることがあります。

苦痛を与える病気も、悲しい別れも、悲惨な戦争も、そこから学ぶものは、いつも1点に集約されてしまうのです。

それは「愛」です。

目に見えない「愛」の大切さを、この世でしか出来ない体験を通して学び取っているとしか思えません。

一見すると、愛とは関係ないように見える出来事もありますが、愛を表現するためには、より強くならなければならず、勇気と、強い意志が試される時もあると考えられます。



どのような出来事も、愛により、乗り越えていくことができるはずです。

全ての苦しみは、愛により終わりにすることができるはずです。

なぜなら、愛を学ぶために、出来事が生じていると考えられるからです。



人は、いつの日か死にますが、この世でつらい思いをして学んだ人は、その時にきっと胸をなでおろすと思います。

あの世は、魂の世界です。

肉体がないために、隠し立てができません。

目に見えていた肉体(物質)が見えなくなり、目に見えなかった魂と、そこから生まれる想いが露わになります。

美しいものは美しく、醜いものは醜い、ありのままの世界であり、それは自分(魂)から生まれる想いにより決まります。

さまざま想いが光となり、魂から放たれていますが、最も美しい輝きを放っているのは愛の想いであり、醜い想いに光輝はありません。

魂は成長して行くと、高い愛を表現できるようになって行きます。

この世の出来事がシナリオに従って生じるのは、有為転変を経験して、魂が浄化され、濁りのない美しく強い光輝を放ちながら、愛を表現するためです。



愛とは1つになろうとする力であり、調和を生み出す力です。

この世では、想いが全く見えません。

苦しみ、悲しんでいる人の見えない想いを、自分のことにように感じて、共有することにより、世の中が1つになっていくと信じています。

人の想いを、自分のことのように感じるようになるには、それぞれの人が苦しみや悲しみの経験をしなければいけないのかもしれません。

楽しいことだけでなく、苦しみや悲しみを、お互いが共有する中で、強く1つにまとまって行くと思います。

この世の中で起こる出来事は、それぞれの魂を成長させ、魂と魂を愛という力で強く結び付かせ、1つになるためにあると言えます。

個だけでは調和は生まれず、全体の中で調和が生まれます。

個々の魂が、この世の出来事により磨かれて、全体に調和が生まれて行きます。

調和が生まれ、全体の美しさを増していくためには、より高い愛が求められ、そのためにシナリオが用意され、個々の魂は出来事を経験しなければいけません。



多くのことを学びながら、魂を完成させていきます。

この世は、自分に足りない魂のパーツを見つけに来ているようなものかもしれません。

少しずつ見つけながら、完成させて行きます。

誰かにありかを教えてもらうのではなく、経験をしながら見つけ出します。

何のパーツを見つけるのかは、自分でも判りません。

けれども、生まれる前の自分は、はっきりと判っています。

当てもなく探しても見つけられないため、人生の大まかなシナリオが用意されます。

シナリオには、パーツを見つけるための出会いや出来事が、散りばめられています。

不慣れな場所で、見当はずれの方向に行かないために、あの世からの導きも受けます。

出来事には、楽しいこと、うれしいこと、つらいこと、悲しいことなど、さまざまです。

楽しい出来事の時は、周囲は明るくなり、この世のものがはっきりと見えます。

つらく、悲しい出来事の時は、周囲は暗くなり、この世のものは何も見えなくなります。

暗闇に包まれ、立ち止まってしまった時に、ふと上を見上げると、美しい星空が目に留まります。

夜空にひと際輝いている星が、探していたパーツであり、宇宙の真理です。

宇宙の真理は、明るい時には見えず、真っ暗闇の時に光り輝いています。



起きた出来事により、どちらに向かうのかは、本人に任されています。

向かう方向によって、出来事の意味は、大きく変わってきます。

迷わず、自分を成長させる方向に、向かって行きましょう。

なぜなら、自分が承知していた出来事であり、覚悟を決めて、乗り越えて行く約束をしているからです。





参考ページ: 「この世の出来事の意味を知る時」





2015年11月21日土曜日

この世は想いが肉体で表現される世界



1960年代の日本では、子供にピアノを弾かせるのが流行っていたようです。

私も、5,6歳の頃、習わされていました。

椅子に座って、じっと練習するのがいやでいやで仕方がありませんでしたが、世の中にはそれが全く苦にならなかった人もいるようです。



ピアニストの辻井伸行さんも、その一人です。

ご存知の方も多いかもしれませんが、彼は生まれながらにして全盲であり、2歳の時におもちゃのピアノを買ってもらったのがきっかけで、演奏に目覚めました。

その後、卓越した音楽的才能を開花させて、20歳の若さでヴァン・クライバーン・コンクール(米国)で、日本人として初めて優勝しました。

全盲の人が、ミスタッチもなしに最高難度の曲を弾いてること自体が驚異ですが、その音色が純粋かつ透明で、心に響きます。



目が見えれば、人の動作や表情から、何を考えているのか読み取ろうとします。

しかし、一旦、目を閉じてしまうと、顔や姿は見えなくなり、声だけしか聞こえません。

発せられる声から、込められた想いを察するしかなく、否が応でも感性は研ぎ澄まされて行くような気がします。

音楽は音の世界です。

目が見えなければ、日常生活に大きな支障をきたしますが、視覚的な情報に振り回されずに、音だけに集中できるので、音楽家にとって不利にはならないのかもしれません。

音符や鍵盤は見えませんが、心の眼は開かれていて、音から作曲家の想いを、深く読み取っていているのかもしれません。



後世にまで残る名曲は、作曲家の創作力により生み出されていると思っていました。

しかし、シルバーバーチが芸術家は一種の霊媒と言っているように、名曲の源泉は霊界にあり、そこから投げかけられるインスピレーションを作曲家がメロディーとして受け取り、それを音符に変換していると、今は思っています。

送り手である霊界の人と、この世の人の魂が同調すれば、ラジオを受信するように、降ってきたメロディーを受け取ることができると思われます。



音に込められた想いを、正確に読み取って演奏すれば、それは霊界の想いが地上に表現されたことになり、この世のものとは思えない、すばらしい演奏になると思います。

 すばらしい演奏を聴くと、一時的であっても、喧騒から逃れられ、安らかで、穏やかな気持ちになれるのは、霊界の愛と平和に満ちたありさまが、音楽によって表現されているからだと思います。

最も大切な「愛」や「生命」、そして「神」の存在が、この世では物質に遮られて見えなくなってしまっているので、音楽を通して魂に伝えようとしていると思います。



音楽を通して伝えたいのは想いであり、音は媒体です。

会話も同じであり、相手に想いを伝えたいのであり、言葉は媒体です。

人間は行動する生き物ですが、想いを表現するために行動していると言えます。

肉体は、想いを表現している媒体に過ぎず、道具でしかありません。



しかし、肉体が自分だと思い、魂の存在に全く気付いていない人が、たくさんいます。

本当の自分を見失ってしまい、魂から生まれている想いに気付かずに生きている人は、とても多いと思われます。

そんな人が死ぬと、困った問題が起こります。

死んだ後も意識があるので、この世でまだ生きていると錯覚してしまいます。

表現媒体である肉体を失っているにもかかわらず、そのことが全く分っていませんので、相変わらず、この世の人に接触して来ます。

しかし、この世の人の目には全く映らず、触られている感覚もないため、無視され続けます。

自分の置かれている状況が、理解できずに、途方にくれます。

そんな人でも、生前、亡くなった親しい人が目の前に現れたり、葬式が執り行われ、棺の中で横たわっているのが自分だと判ると、ようやく死んだことに気付くようです。

それでも、どうしても死んだことが認められない人は、周囲との関係が断絶されて、孤立するようです。

周囲の人も、なす術がないために、気付くまで放って置かれるようです。

偏見に満ちた人や、物理的証拠を示せないことを理由に、魂の存在を頑なに否定する人たちが多くいますが、そんな人たちを信じてしまうと、真実が見えなくなってしまい、遠回りしてしまうことになります。

正しい知識を、できるだけ早く身に付けておくのに、越したことはありません。



人間は肉体だけの単純な存在ではなく、目に見えない精神と、その上位にある魂から成り立っています。

肉体を動かしているのが精神であり、精神に働きかけているのが魂であり、その3つが緊密に連携し合った三位一体の存在です。

魂が、本当の自分であり、生命そのものです。



魂の存在を認めてもらえれば、生きる目的が明確になります。

生きる目的は、魂を成長させるためです。

魂を成長させるために、この世では、さまざまな出来事を経験するようになっています。

苦しい経験ほど、悲しい経験ほど、魂は成長すると言われています。

つらい出来事を経験した後に、人の痛みが判るようになるのは、魂が成長した証だと思われます。

苦難に出会っても、前に進んで行かなければならないと思うのは、立ち止まっていると、自分は成長しないままで、生まれてきた目的を失ってしまうことを、魂は知っているからだと思われます。



そうは言っても、魂は目に見えるものではありません。

実感があるのもでもありません。

説明できる言葉は見つかりませんが、五感から受け取ったものに対して、主観的な回答を出しているのが魂だと思います。

茜色に染まる空を見て、綺麗だと感じているのは魂です。

にっこりと微笑む赤ちゃんを見て、かわいいと思うのも魂です。

溺れている人を見て、命がけで助けようとするのも、魂の発露です。

科学では、何故、感情や意志が生まれるのか、説明できません。

大脳を超えた魂から想いが生まれ、精神に投影されて感情や意志となり認識されていると考えられます。



現代医学も、科学に依存しているため、魂の存在を認めていません。

きわめて重大な事実を認めないために、袋小路に入ってしまっているように見えます。

人は肉体、精神、魂(霊)から構成されていて、それぞれの次元に病気の原因があるのですが、現代医学で解明が可能なのは、肉体次元に原因がある病気だけです。

従って、医学により治癒が期待できるのは、肉体次元に原因がある病気だけと言うことになります。

原因不明とされてしまう病気の多くは、霊的次元に原因がある病気であり、肉体次元で治そうとする手術や投薬等の治療は、すべて対症療法となります。

手術や薬で病気が治るのではなく、霊的次元の原因が取り除かれて、生命力が流れ込むことによって治癒が起こると考えられます。



魂の存在を認めなければ、そこから想い(思念)が生まれているのも認めないことになります。

人間は、想いを肉体で表現しながら生きています。

想いとは、肉体を突き動かす素であり、具現化させる力と言えます。

想いが心身に多大な影響を与えているのは、間違いありません。

怒りが生じれば、顔は紅潮し、脈拍は上がり、血圧も高くなります。

怒りを通り越して憎しみになれば、それ以上の影響を心身に与えていても、不思議ではありません。



宇宙の秩序が保たれているのは、自然法則が働いているためです。

石を空に向かって投げると、必ず地面に落ちてくるのは、万有引力という自然法則の働きであることを、多くの人は知っています。

けれども、人の言葉や行いの1つ1つにも、自然法則が働いてることは、あまり知られていません。

暴力を振るうと法律により罰せられるように、自然法則に反した行いには、機械的に償いが生じます。



言葉や行いには、必ず素となる想いがあります。

たとえ行動に移さなかったとしても、想いは霊的次元において実在であり、自然法則が厳格に働いています。



想いには、自然法則に適ったものと、反したものがあります。

自然法則に適った想いとは、やさしさや、思いやりや、労りといった他者が悦ぶ想いであり、また認め合い、許し合って、1つになろうとする想いです。

自然法則に反した想いとは、怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、貪欲といった、他者に苦しみや悲しみを与える想いであり、また相手を認めず、許さず、調和を妨げる想いです。



自然法則に反した想いを外に表現すれば、周囲との間に不調和が生まれ、因果律の働きにより、苦痛を伴う結果が生じます。

例えば、相手の意見を聞かずに、自分の意見ばかりを言っている人を見かけますが、その行為は協調性に欠け、利己的であり、自然法則に反しているため、因果律の働きにより、疎外され、孤独と言う苦痛を味わうことになります。

また、今、世界中で起きている争いは、自然法則に反した怒りや憎しみや恨みの想いを表現しているので、因果律の働きにより、双方に大きな苦痛をもたらす結果が生じています。



しかし、想いを外に出さなければ良いという訳ではありません。

想いを外に表現しなければ、内に溜まって行きます。

イライラや、少し位の怒りが生まれても、おしゃべりをしたり、運動したり、趣味に興じている内に、発散(解放)されます。

しかし、深刻な出来事によって生じた想いは解放され難く、滞ることになります。

滞った想いは、魂の様相を変えて、同様の想いを生じ易くさせています。

強い憎しみの想いが内に滞っていれば、ささいな出来事でも怒り易くなります。

徐々に、そんな想いが溜まっていけば、内部に不調和が生まれてしまい、肉体に変化が生じてきます。

病気となり、結局は苦痛を味わうことになります。



世の中には、言いたいことを言って、やりたいようにやって、生きている人がいます。

そんな人は内に想いを溜めることが少ないので、大きな病気にならないかもしれません。

しかし、そのことで周りの人を苦しませたり、悲しませたりしているのであれば、病気よりも大きな償いが、後に生じてしまうのは明らかです。



想いにはさまざまあり、内に溜まると、相応の変化を心身にもたらすと考えています。

怖れや不安の想いは、心身を萎縮させるとともに、生命力の補給が円滑に行われなくなり、それに伴い精神(心)を活動させている力が不足し、精神により隠されていた、過去の怖れや不安や怒りなどの想いが表在化されます。

内に溜まった怒りや憎しみの想いは、肉体上に暴力的かつ攻撃的な細胞に、変異させる力となります。

自分を責める想いは、外敵から守っている防御機能に変化を生じさせ、自らを攻める病態となって肉体上に表現されます。

肉体は想いを表現する媒体であるため、想いの様相は肉体上に病態として表現されます。

内にある想いが、肉体上で具現化されたものが(霊的な)病気であり、すべては自然法則(因果律)が働いた結果であり、偶発的な病気は何1つとしてありません。

想いという、原因が必ず存在しています。



よって、現代医学で原因不明とされてしまう霊的な病気は、内に溜まった想いに気付くことが、根本的に治すための第一歩となります。

今までの人生の中で、最も衝撃的と思われる出来事を、いくつか思い出して下さい。

未だに信じられず、納得も出来ず、自分の中で消化されていない出来事はなかったでしょうか?

その時に感じたことを、言葉で表現して下さい。

もし言葉に表せないほどのものであれば、その出来事から強い想いが生じていて、内に滞っている可能性があります。



そんな表現できなかった想いが、心の奥にあることを、気にも留めずに生きてきましたが、今になり因果律の働きにより、肉体上に病気として表現されました。

その想いがあるために、人生に大きな影響を与えているからです。

生まれる前に決めていた、シナリオに沿った人生を、歩めなくなってしまうからです。

社会に奉仕したり、人にやさしくするどころか、むやみに怒ったり、憎んだり、妬んだりして、成長ののない人生を送ることに、つながってしまうからです。



人は、いつかは死にます。

死とともに、肉体は消滅し、自分の内にあった想いが露わになります。

そして、この世の人生を振り返る時が訪れます。

想いに引きずられ生きてしまい、予期したほどの魂の成長が得られず、生まれてきた意味を十分に果たせなかったことに気付き、後悔することになります。



(霊的な)病気は、この世に生きている内に、内にある想いに気付かせ、人生を軌道修正させるためにあります。

生まれ変わって、もう1度やり直すのではなく、この世に生きている内に、生まれ変わるためにあります。

それが許された人が病気になるのであり、新しい人生の始まりが、その先に待っているはずです。



肉体はつかの間の存在であり、魂は永続的な存在です。

なのに、この世に生きていると、魂を忘れてしまい、目に見える肉体に執着してしまいます。

肉体は、魂に従います。

魂が先で、肉体が後です。

想いが解放され、魂が癒されて、はじめて肉体上の病気が癒されます。

自分の本質は魂であり、肉体は魂を反映しているだけです。

肉体上の病気が消失するよりも、魂から想いが解放され、本来の自分を取り戻す方が、はるかに大切です。



気付かない内に、想いが膨らんでしまって、自分ではどうすることもできないほどになっていたのです。

病気という、神の摂理の働きが必要だったのです。

内にある想いに気付くためには、眠っている魂が目を覚まさなければいけません。

苦痛は、魂にまで響き、目を覚ますための準備を整えていきます。

そして、魂が目覚めれば、想いにも目覚めます。

魂から生まれている想いと、内にある想いに気付いた時、病気の目的は果たされたと言えます。

本来の自分を取り戻し、予定されていたシナリオの通りに生きて行けるようになるからです。



病気を治そうとするのでなく、内にある想いを解放して、本来の自分を取り戻して行けば良いはずです。

想いを解放させる力は、愛という生命力です。

愛でしか、解決は出来ません。

言葉にならない想いが生まれた出来事を、心から許すことにより解放されます。


許すことは、自分に愛がなければ出来ません。

病気のつらい経験は、魂は成長させるという大きな意味があります。

魂が成長した分だけ、高い愛が表現できるようになり、許せなかった出来事を、許せるようになります。

出来事を許し、前に進んで行くことが許されます。


どんなに強い怒りや憎しみの想いであっても、未熟な人間から生まれたものであり、愛という神の力には敵いません。

愛の力の前では、病気を生じさせた想いの力など、無に等しいものです。

無限に広がる宇宙の中で、限りなく小さい存在であっても、魂は神の一部としてつながっていて、愛の力を存分に受け取れます。



神に祈れば、愛という生命力が流れ込んでくる訳ではありません。

神と同調することにより、魂に流れ込みます。

神の心に、自分の心を合わせれば、同調します。


私たちはこの世のさまざまな経験を通して、大切なものに気付きます。

つらく、苦しい病気の経験を通して、愛より大切なものはないことに気付きます。

そのことに気付いた瞬間、神との同調が成立し、愛という生命力が魂に流れ込みます。



周りのものに、感謝しましょう。

そして、慈しみましょう。

とても難しいのですが、全てを許しましょう。



たとえ小さくても、少しずつであっても、愛を表現し続けていれば、内にある想いは魂との親和性を失い、自然法則の働きにより、やがて消えていくと思います。



自然法則の働きにより、愛の想いから悦びが生まれ、愛に反する想いからは苦痛が生まれます。

苦痛を通して、人を遠ざけてしまう想いではなく、愛を選択し、悦びを感じながら生きるために、この世に病気は存在します。


























2015年11月8日日曜日

神は自分の中にいる



子供の時、悪さをして良く叱られていました。

小学生の時のことです。

私の家の隣に、小さな駐車場がありました。

夜、外へ出てみると、駐車場の方で何か動物が走っているのが見えたので、何を思ったのか、小さな石を拾って、そちらに向けて投げつけました。

次の朝、通学時に駐車場を通ると、1台の車のフロントガラスが蜘蛛の巣状に白くなって、割れていました。

それを見た瞬間、昨夜、投げた石が原因で、ガラスが割れてしまったとすぐに判り、とんでもないことをしてしまったと、怖くなりました。

学校に行っても、割れたフロントガラスのことが頭から離れず、気になって仕方がありませんでした。

学校から帰宅すると、そのことが近所で話題になったのか、母親から「駐車場に置いてあった車のガラスが割られたみたいけど、何か知っている?」と、聞かれました。

まずいという気持ちが表情に出たのでしょうか、母親に問い質されました。

観念して、昨夜のいきさつを話しました。

当然のことながら叱られて、車の持ち主に謝りに行って、親がガラス代を弁償することになりました。



当時の心境を振り返ってみると、悪いことをしても、ばれなっかたので、その時は胸をなでおろしました。

しばらくすると、妙に不安になり、後ろめたさが付きまといました。

結局、ばれてしまい、叱られて落ち込みましたが、不安や後ろめたさはなくなりました。

このように心が揺れ動いたのは、子供であっても良心があったためと思われます。



良心とは、善悪を判断して、行動を規制しているものです、

しかし、教えられて身に付くものではなく、生まれながらにして、人に備わっていると考えられます。

人には、それぞれの良心がありますが、一様なものではありません。

住んでいる国や文化、宗教、そして育った家庭により違い、環境により少なからず影響を受けて、変化していくものと思われます。

動物の肉を食べるのをためらう人もいれば、全く気にしない人がいるように、ある人にとって良心が咎めるものが、ある人にとっては何でもないことがあります。



良心とは、どこから生まれるのでしょうか?

「やってはいけない」と、良心が咎めるのは、頭で考えているのではなく、直観的なものであり、自分の深いところから、湧き上がって来るようです。



人のために何かをして喜んでもらうと、うれしくなります。

何故うれしくなるのかを、説明するのはとても難しいです。

もしも、人が生まれて、死んで行くだけの存在であれば、苦もなく楽しく生きるのが一番かもしれません。

自分のことだけを考えて生きていればいいのであり、人のために何かをする気持ちは、起こらなくていいはずです。

そうは言っても、人や社会のために、何かをしたいと思う気持ちがあるのは確かです。



昔、駅のホームから転落した人を助けようと思い線路に下りたところ、入ってきた電車に巻き込まれて、二人の若い男性が亡くなるという事故がありました。

事故で亡くなった人の勇気を、多くの人が褒め称えました。

自分の身体(生命)を守ろうとする気持ちは、とても強いものですが、それに逆らって、行動しようとした力は、それよりも強かったはずです。

自分の身を省みず、人を救おうとした衝動は、愛という強力な力によって引き起こされたと考えられます。

自己を犠牲にして、他者のために尽くす想いが愛であり、それは誰かに教わって身に付いたものではありません。

教わらなくても備わっているものに本能がありますが、本能は自己を守るためにあり、自己を犠牲にする愛とは、根本的に違っています。



良心と同様に、愛は生まれながらにして人に備わっているものであり、自分の深いところから湧き上がってくる想いと考えられます。



電車の中で座っていて、目の前にお年寄りが立つと、サッと席を譲る人がいます。

別に考えてではなく、ごく自然にしている様に見えます。

やさしさや、思いやりは、愛の1つの表現であり、そんな想いは誰もが持っていると思います。

しかし、自分が身体が疲れている時には、行動になかなか移せません。

想い(愛)を表現しようとしても、自分の肉体が大きな障壁となっている気がします。

また、他の人は席を譲ってないじゃないかとか、誰かが席を譲るだろうと思えば、行動に移そうとする気持ちはそがれてしまいます。

頭でいろいろ考えてしまうと、自分の想いが素直に表現できなくなるようです。



良心も愛も、内から湧き上がる直感的なものです。

しかし、頭でいろいろと考えているうちに、揉み消されてしまうことが多いようです。



直感は、頭脳の働きによるものではないとすると、どこから生まれのでしょうか?

直感が生まれるところは、頭脳の影に隠れて、普段は意識されることのない魂と思われます。

本当の自分の想いが魂から生まれ、直感として認識されています。



もし、良心が魂から生まれるとしても、何のために必要なのか疑問が残ります。



この世を生きている目的は、魂を成長させるためです。

死んであの世に移っても、生きる目的は魂を成長させるためです。

この世とあの世を行き来しながら、自分に足りないところを自覚し、さまざまな経験を通して学びながら成長を続けています。

この世で降りかかる困難は、誰しも避けたいものですが、乗り越えて行く過程で、魂は強く成長していきます。

また、人や周りのために、自分を役立てることで、魂は美しく成長していきます。

肉体は時と共に老いていき、やがて朽ちます。

しかし、魂は老いることなく、成長を続けて行きます。



この世に生きているのは、足りないところがある、未熟な人間だという証です。

学ぶことがないほど、完成された人間であれば、この世に生まれる必要はありません。

いざ生まれてしまうと、霊的な目は閉ざされ、目に見えるものが全てと勘違いしてしまいます。

生まれてきた目的を忘れてしまい、脇道にそれてしまいがちになります。

良心は、人間が生まれてきた目的を果たし、無事に成長していくためにある、警告装置のようなものと考えられます。



こんなことを書いている私も、今から約10年前に、良心の警告を無視して、仕事上で不正な行為をしてしまいました。

その時、自分の心の中で「本当にそれでいいのか」と、良心は確かに問いかけていました。

しかし、身勝手な言い訳を考えてしまい、その問いかけを揉み消して、行動に移してしまいました。

不正な行いが発覚し、それに対して自分が想像していた以上の処分が下されました。

その処分は、さらにさまざまな結果を生んでいき、大きな苦痛をもたらしました。

しかし、この苦痛の経験は霊的真理の受け入れにつながりました。

因果律という自然法則は、過ちの償いのためだけではなく、魂を目覚めさせ、大切なことを学ぶために働いていると言えます。

1つの出来事は、何重にも意味があることを知りました。



良心に従わなければ、いずれ後悔することになります。

自然法則に反した想いや行いは、たとえ、この世では誰にも知られず、逃げ果せたと思っても、魂にしっかりと刻まれています。

あの世に行った時に、この世の全ての想いや行いがスクリーンのようなものに映し出されます。

その時に、はっきりと自覚して、後悔します。

もし、大きな過ちをしてしまったならば、来世で償いとなる出来事を経験しなければならないかもしれません。



そんな過ちを犯して、遠回りをしないために、魂に良心が存在して、働きかけていると思います。

予定されたシナリオに従って生きて行くため、償いが生じるような誤った方向に行かないために、良心はあると思います。



それ以外にも、ありがたい働きかけがあります。

生まれてから死ぬまで、生涯に渡って見守っている存在がいます。

この世で出会い、愛してくれた人の想いは、死によって変わることはありません。

愛でつながっている、見えない存在たちから、インスピレーション(直感)として想いを受け取り、導かれています。

導きとは、あの世からの愛の表現です。

良心と、あの世からの導きは、この世を生きる人にとって、灯台のような役割を果たしていますが、もったいないことに、見過ごしてしまうことが多いと思われます。

気付いたとしても、正直になれず無視してしまったり、私のように言い訳を考えて揉み消したりしています。



良心も導きも、魂を成長させるためにありますが、なぜ魂は成長していかなければならないのか疑問が湧きます。

魂が成長することにより、より次元の高い愛が表現できるようになります。

愛とは、すべての差異を乗り越えて、1つになっていくための力だと思います。

ばらばらになったものを、1つに結び付ける力です。

すべてを結び付けている力は愛です。



すべてのものは、元は1つです。

1つのものから、別々になりました。

別々のものが、愛により、また1つになっていきます。

愛とは1つになろうとする、根源的な力です。



人と人の間にも、差異があります。

人と動物の間にも、差異があります。

完全な調和とは、別々のもの同士が差異を乗り越えて、認め合い、1つになった時に訪れます。

大きな差異を乗り越え、認め合うためには、より次元の高い愛が必要になります。

魂が成長していく目的は、完全な調和を目指し、すべてが1つになるためと考えられます。



この世界では、さまざまな出来事が起こります。

その結果、心身の調和が乱され、病気になることがあります。

また、人と人、国と国の間で調和が乱され、戦争になることがあります。

原因は複雑そうに見えて、単純なのかもしれません。

人は、愛だけでなく、怒りや憎しみや嫉妬と言った、愛に反する想いも生まれています。

怒りや憎しみなど、愛に反した想いが生まれ、それを内に秘めると、心身に不調和が引き起こされ、(霊的な)病気になると思います。

生まれた怒りや憎しみなどの想いを、外に向かって表現してしまうと、周囲との間に不調和が引き起こされ、争いになると思います。

自然法則(神の摂理)に適った想いは愛であり、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬や貪欲などは自然法則に反した想いです。

そんな想いを溜めてしまうと、因果律が働き(霊的な)病気となり、外に吐き出してしまうと争いになります。

自然法則の働きにより、愛の想いは喜びと成長が、怒りや憎しみの想いには苦痛による償いが生じるようになっていると思われます。



どちらを選ぶか、自由は与えられています。

怒りや憎しみを選べば、どこかで苦痛を伴う出来事を経験します。

しかし、誰もが苦痛を味わいたくありませんので、最終的には、愛を選ぶようになっていくと思われます。

苦痛とは、償いであり、愛を選択させる学びとなっています。

愛の大切さを学び、それを表現するようになれば、周囲との調和は取り戻されます。

病は癒えて、争いは治まってくるはずです。



春の暖かさは、きびしい冬の寒さを経験した人ほど実感します。

平和の尊さを深く知っているのは、戦争を経験した人たちです。

自由の価値を知っているのは、長い間束縛されて自由がなかった人たちです。

大切なことを学ぶために、正反対のものが用意されているのが、この世であり、正反対のものがあるからこそ、大切なものがはっきりと判るのだと思います。



目に見えている世界が全てと思ってしまうと、生きている意味や、この世で起こる出来事の意味は見つけられません。

私たちは、愛を学び、そして表現するために、生きていると思われます。

愛は、好きという感情から始まって、自己犠牲による奉仕に至ります。

仕事も、家庭も、奉仕を学ぶためにある、格好のシステムであり、表向きは、お金のためや生活のためですが、真相は、他者への奉仕に変わりありません。

この世での修練により、魂を成長させて、次に行く実存の世界での生活に備えています。

生きている目的は、魂を成長させるためであり、経験する出来事は魂を成長させる意味があります。

以前は怒りや憎しみの想いを抱いてしまった出来事を、今は許せるようになっているのであれば、それは魂が成長した証拠であり、経験は無駄ではなく、この世に生まれた意味を1つ果たしたと考えられます。



忘れてしまいたい、恥ずかしい過ちでさえも、とても大切な意味がありました。

全く必要のないように見える病気や戦争も、大切なことを学ぶために生じていると思います。

もしそうであれば、人には判らないだけで、この世で起きる出来事に、意味のないものはないのかもしれません。

そして、この世界を創造したのが、無限の叡智であり、無限の愛である神ならば、すべてに渡って自然法則が行き届いていて、完全な公平と公正が保たれているはずです。



神の存在は、証明できません。

しかし、私はこう思います。

自分の中に良心があるのは、神が内在していることの証です。

自分の中に神が内在し、その心を表現したいからこそ、愛する気持ちが生まれます。













2015年10月24日土曜日

魂(生命)に目覚める意味

 
 
ホッキョクグマが氷の上で遊んでいるのではありません。

地球温暖化が進んで、北極海の氷が溶け出してしまい、餌を求めて氷上を移動しているクマが、行く手を阻まれています。

このまま地球温暖化が進んでいくと、近い将来、ホッキョクグマは絶滅してしまうかもしれません。

もちろん、ホッキョクグマに何の落ち度もなく、すべての責任は温室効果ガス(二酸化炭素)を出し続けた人間にあります。




人間の暮らしは、自動車やコンピュータを初めとした発明により、とても快適で便利になりました。

しかし、その恩恵は人間に限られていて、年々深刻さを増す環境破壊により、地球上の動物や植物は大きな損害を被っています。




動物たちには、環境を修復する知性や自由を与えられていません。

この先の運命は、全て人間に委ねられています。

このまま突き進んで、多くの生命を絶滅の危機に追いやるのか、生命を尊重して軌道修正を図るのか、重大な岐路に立たされていると思います。




人間同士の間でも、争いが絶えません。

人種や宗教、文化などの相違から争いは絶えることなく、多くの人が傷ついています。

一握りの権力のある者、富のある者が強者となり、多数の弱者が虐げられています。

十分な食べ物が行き渡らず、適切な医療が受けられないために、多くの子供たちが亡くなっています。







思うのですが、もし宇宙の彼方から知的生命体が訪ねて来て、環境が破壊され、強者が弱者を傷つけている地球の現状を見たならば、この美しい星に住む人間は、何て愚かで野蛮な生き物なのかと、思うに違いありません。




地球上には、人間だけでなく、多種多様の生命が存在しています。

人の身体は1つ1つの細胞が集まり組織を形成し、組織は何らかの役割があって、他の組織と密接に関係しながら存在しています。

身体に1つとして無駄な細胞はないように、地球を1つの共同体と考えると、無意味な生命は存在しないと思われます。

1つ1つの役割は私には判りませんが、どの生命も全体を構成する一部として欠かせない存在であり、その価値に上下はないと思っています。




価値に上下はありませんが、生命の進化の程度はさまざまです。

最も進化しているのは、もちろん人間です。

シルバーバーチの霊訓を読むまでは、進化とは知性の発達と思っていましたが、実は霊性の向上を指します。

生命の本質は、頭脳でなく魂(霊)なので、当然かもしれません。




霊性とは神性であり、愛を表現しようとする心と言えるのかもしれません。

そのため、自己を犠牲にして、他者のために尽くせる者ほど、霊性が高いと言えます。

そして、霊性が高くなると、ふさわしい高い知性と、より大きな自由が与えられると考えられます。




ふさわしい高い知性と、大きな自由が与えられるのは、全体のために尽くし、共に繁栄するためなのですが、人間は自分たちの利益のためにしか活用していない様に見えます。

罪のない動物たちを窮地に追いやっていて、人間は地球上で最も進化した生命とは言えないと思います。

同胞間で、いたずらに傷つけ合っている動物は人間以外に存在しません。




なぜ、このような事態になってしまったのでしょうか?




人は霊的な存在であることを、すっかり忘れてしまったからだと思います。

目に見えるものだけを信じてしまい、魂の存在を無視し続けたためと思います。

さらに言えば、魂から生まれている想いに気付かなくなってしまったためだと思います。




多くの人は、目に見えて触れられる肉体が、自分と確信しています。

存在を実感できるので無理はありませんが、本当の自分とは、実感できない魂です。




10年前の私がそうだったように、実感できない魂の存在を、頭ごなしに信じろと言っても、それは無理な話です。

人間は、霊的な力(生命力)を魂が受け取って生かされているのですが、残念ながらこの世では感得できません。

しかし、霊的な力の働きにより、常識では考えられない現象が引き起こされる時があります。

長い間、病気で苦しんでいた人が、霊的な力により癒される現象は、聖書の中だけの話ではなく、現代においても起きています。

愛する人を喪い、深い悲しみの最中にいる人が、霊の働きにより、故人の想いを知らされ、癒される現象が現実に起きています。

そんな経験をした人の多くは、霊的な世界が実在していることを知り、魂の存在を信じるようになります。

魂の存在を信じる人たちが、まだ信じていない人たちに、真実を広めて行けば、世の中は確実に変わって行きます。




人間を含め、地上の生物は、次元の異なる魂と肉体から構成される、2元的な存在と言えます。

魂が上位に位置し、肉体は魂の表現媒体(道具)に過ぎません。

精神は魂と肉体の間に介在し、両者の橋渡しの役割を担っていると思われます。

次元が異なると言うと、全く別の隔絶された世界に思えてしまいますが、両者には連続性があるので、バイブレーションの違う世界と言った方が、適切なのかもしれません。

当たり前のことですが、AMラジオの受信機でFM放送は聴けません。

周波数と言うバイブレーションが違うからです。

紫外線や赤外線は、目に見えません。

目に見える光線のバイブレーションから、外れているからです。

同じく、バイブレーションの高い魂(霊)は、バイブレーションの低い肉体(物質)では感知できません。

魂は存在しないのではなく、肉体(眼)で認識されないだけです。




人と人は、言葉でコミュニケーションをしています。

物事を詳細に伝えるためには、言葉が介在しなければいけません。

言葉なしには、社会生活は成り立ちません。




伝えているのは、物事だけではありません。

自分の想い(感情)を周囲に伝えなければ、円滑に生活が出来なくなります。

赤ちゃんは一人では生きて行けないので、全身で想いを表現して、親に伝えています。

私の家の犬は、自分の想いを、しっぽや表情、鳴き声などで表現して、周囲に伝えています。

この世は、魂から生じた想いを、肉体を使って表現して伝える世界と言えます。

人間は成長するのに従い、身体ではなく言葉により、想いを表現するようになっていきます。

喜びを言葉で表現するのは、比較的簡単かもしれませんが、怒りを相手の気分を害さずに、上手に言葉で伝えるのは至難の技です。

嫉妬の想いを、表現して伝える言葉はあるのでしょうか?

深い悲しみを表現する妥当な言葉は、見つけられるのでしょうか?

この世は、自分の想いを、正確に相手に伝たえるのが困難な世界と言えます。




相手に正確な想い(気持ち)が伝わらなければ、お互いの認識にズレが生じます。

ズレが大きくなると、誤解が生じ易くなります。

誤解が積み重なっていくと、苛立ちが生まれ、怒りとなってしまうかもしれません。

怒りが大きくなり、限界を超えると、争いとなってしまう可能性があります。

私たちは、お互いの想いを理解するのが難しい世界に生きて、争いを回避するには、お互いの想いを理解しようとする姿勢が必要なのかもしれません。




さらに人間は、大脳を働かせた生活を強いられています。

私の1日の行動を振り返ってみても、朝から晩まで、頭(大脳)を使った生活をしています。

パソコンに向かって事務的な作業をしたり、スマホでメールをしたり、文字や数字を追いかけながら書類を書いたり、何気なく毎日している仕事でも、常に頭が働いています。

大脳が活発に働いている時は、人の想いを感受している魂は、ほぼ休眠状態となっています。

現代に生きる人は、1日中、大脳ばかりを働かせている生活をしているために、人の想いに気付けなくなっていると思います。




日常生活において、習慣となっている動作や、事務的な思考などは、精神と肉体の活動で行われていると考えられます。

しかし、深刻な出来事が身に起きると、魂にまで響いて、何かしらの想いが生まれているはずです。

そんな時、人は頭を働かせて対処しようとするために、生じている想いになかなか気付きません。




さらに、科学は目に見えない、非物質である魂の存在を、否定し続けています。

ところで、目に見える物質とは何なのでしょうか?

数十年前、私の学生時代には、物質は原子と電子から成り立っていると教えられました。

物理学に詳しいわけではありませんが、物質は素粒子という、これ以上細分化できない粒子が振動して、形態として認識されるという、難解な理論が、今では定説となっているようです。

どうやら物質は、私たちがイメージしているものとは大きく異なり、振動しているエネルギーの一種のようです。

難しいことを書くつもりはありませんが、科学的な常識は、時と共に覆されているのは確かなようです。

もしかしたら、目に見える物質と、目に見えない魂の間には、大きな隔たりはないのかもしれません。




生命とは何なのでしょうか?

活動し、個を維持し、種を後世に残していくものには違いありませんが、最先端の科学をもってしても、生命の実体は見出されていません。

多くの優秀な科学者が、日々研究しているにもかかわらず、糸口さえも掴めていません。

その理由は、科学の対象となる肉体(物質)の中には、生命の本質は存在していないからだと思います。




魂(霊)こそが、生命です。

この事実を認めない限り、人を悩まし続けている死や病気を、理解するのは不可能です。

多くの人は、死後の世界を夢物語のように感じています。

しかし、この世から消えてなくなってしまった人が、次の世界で生きているのは、明白な事実です。

現代医学で原因不明とされる病気は、このままでは解明されないと思っています。

なぜならば、多くの病気の原因は霊的次元にあり、研究対象である物質(肉体)を調べても、無意味と思われるからです。

物質の概念が時代と共に大きく変化してきたように、どれ位先になるかは分りませんが、生命の概念も大きく変化する日が必ず来ます。

物質という枠が取り払われ、魂の存在が公然の事実となり、死も病気も怖れるものではなくなる日が来ると思います。




科学は、心や感情を、全て大脳の働きで説明しようとして、頓挫しています。

魂が投影され認識されたものが心(精神)であり、想いが表在化したものが感情と、私は思っています。

もしそうであれば、魂の存在を否定すれば、そこから生まれている言葉にならない想いを無視してしまうことにつながるのではないかと思います。

この世は、元々想いが伝わりにくい世界であるのに、現代の生活は頭を使った生活を強いられ、科学は魂の存在を否定しているために、他者の想いに極めて鈍感になってしまったと思います。




動物も、当然ですが魂があり、想いは生じています。

動物は、進化の程度に応じた想い(感情)を持っていると思います。

人と共に生活している動物には、悲しみ、寂しさ、恐れ、喜び、同情、嫉妬と言った、人間のような想いが芽生えていると考えています。
ぼくはどうなるの?

動物たちは、魂に従って生きていますが、人間は頭でいろいろと考え、そこから多くの選択肢が生まれ、直観として魂が指し示す方向に進むとは限りません。

魂が指し示す方向に従って生きれば、他の生命と協調し、調和を保ちながら、平和な生活ができるのですが、自分たちのことだけを考えて生きれば、それは自然法則に反しているために、周囲との間に不調和が生じてしまいます。

環境破壊も、戦争も、自分たちのことばかりを考えて行動してしまったことが根本原因であり、他者や動物たちのことを考えて行動していれば、このような結果は生まれなかったでしょう。




世の中で起きる全てのことは、自然法則の働きによるものです。

自然法則に逆らうと、苦痛を伴う出来事が生じて、その過ちを償わなければなりません。

問題なのは、原因を作った当事者が苦痛を感じているのではなく、何の罪もない人や動物が、苦痛を味わっていることです。

他人事のように感じてしまいますが、本来は当事者たちが味わなければならいものです。

私も車に乗り、パソコンを使い、恩恵を享受している当事者側にいるので、大きなことは言えません。

少なくても、人や動物の想いには、敏感でいたいと思っています。




人や動物を不幸にしてまで、自分が幸せになりたいとは思いません。

自分だけの幸せは、ありえません。

本当の幸せは、他者の喜びの中にあります。

今の私に出来る事は限られていて、ささやかなものですが、継続していきたいと思っています。




魂が存在するか、しないのか論争する時間はありません。

疑う余地のない事実です。

魂に目覚めるとは、本当の自分に目覚めることです。

そして、人や動物たちの想いに気付くことです。

喜びだけでなく、悲しみや痛みも共有することです。

悲しみや痛みを共有することにより、そこから思いやる心が生まれ、言葉や行動を通して愛が伝わっていき、傷ついた者が癒されます。




より多くの人が、魂の存在、自分の霊性に気付けば、世の中は明るい方向に進んで行きます。

見えるものだけが全てだと思えば、悲惨な方向に進んでしまいます。




魂が目覚めれば、神とのつながりが深まり、地上に愛が行き渡ります。

地上から地獄のような風景は消え、笑顔と安らぎに満ちた天国のような風景に変わって行きます。





 



















  
 

2015年10月11日日曜日

この世の出来事には意味がある




遠い昔の話ですが、小学生の頃、1度だけ父親に連れられて、映画を観に行った覚えがあります。

確かショーン・コネリー主演の007シリーズの映画だと思いますが、映画館に着くと、本編はとっくに始まっていて、半分以上過ぎていました。

私の父親は、じっと待っているのが嫌いな性分なので、途中にもかかわらず、私を連れて中に入って行きました。

中に入ってスクリーンを見ると、迫力のあるカーチェイスのシーンであり、子供ながらに映画はクライマックスに差し掛かっていると感じました。

しかし、それまでのストーリーを知らないので、今、展開されているシーンの意味はさっぱり分かりません。

しばらくして映画が終わり、ほとんどの観客は外に出ましたが、私たち親子はそのまま残って、見逃した前半のストーリーを観ました。

今度は、最初から見たので、内に入った時のシーンの意味や、そこまでのストーリーは分りましたが、結末はすでに知っているので、後半は面白くありませんでした。



人生も同じような気がします。

この世に生まれてきた時には、すでに物語は始まっています。

しかし、私たちの記憶は、物心付いた時から、現在までしかありません。

そのためでしょうか、すべては誕生と共に始まるものと、多くの人は錯覚しています。

途中から映画を見始めると、スクリーンで展開されているシーンの意味が分からないのと同じで、自分に起きている出来事の原因が、この世に存在しなければ、その意味や目的が分からなってしまうのは当然です。



私が休日に訪問している施設では、さまざまな程度の心身に障がいを持つ人たちが、共同生活をしています。

重度の身体障がいを伴った、先天性の病気の人も少なくなく、中には生まれてから死ぬまで、ベッドの上で過ごす人がいます。

医学では、病気には必ず原因があると考えています。

慢性肝炎になった人が、毎日浴びるほど酒を飲んでいたのなら、原因はアルコールにあると判断できます。

しかし、病気が生まれつき(先天性)のものであれば、原因を説明できなくなり、突発的あるいは原因不明として片付けるしかありません。



この人生が、全てではありません。

肉体が消滅した後も、生命は存続しています。

人はどう思おうとも、確証がありますので、少なくても私にとっては事実です。

魂とは生命の本質であり、自分そのものと言って、差し支えないと考えています。

死後にも生があるように、過去にも生があり、この世の生と密接に関り合いながら、つながっています。



生まれつきの病気であれば、原因は生まれる前にあります。

先天性の病気の原因は、過去世にあることになりますが、生まれる前の記憶は、魂の奥に封印されているので判りません。

過去世を知ることができたなら、この世で起きた出来事の原因が明らかになり、多くの人は悩まずに済むかもしれません。

しかし、知らされた過去世が、正しいと立証するものは何もなく、自分が納得できるものでなければ、信じようとしないのかもしれません。

そして、霊的な成長が伴わないうちに、過去世が明かされたとしたら、恩恵よりも弊害が多く生まれてしまうと思いますので、魂の存在を、ようやく意識し始めた現時点では、特別な場合を除いて、明かされることはないと考えています。



私たちが生きている目的は、魂を成長させるためです。

さまざまな人生経験を通して、大切なことを学び、自分に足りないところを補い、成長していくために生きています。



以前の私は、自分の仕事や生活にしか、関心はありませんでした。

障がいのために、一生寝たきりの人を見ても、ただ哀れに思うだけでした。

しかし、現在は見方は一変し、明確な目的があって、障がいがある身体を選んで生まれてきていると思っています。



この世を生きている人は、いずれ死にます。

死んだ後に、地上の人生を振り返る時が来ます。

想ったこと、言ったこと、行ったことが、スクリーンのようなものに映し出され、この世の全人生を検証します。

その時に、自分のした行為が、どのような結果をもたらしたかを、知ることになります。

もし、自分の言動で、誰かが傷つき、つらい思いをしたのであれば、それを知って、後悔や自責の念を持ちます。

今までに、ひどいことを言ったり、ひどいことをしてしまった経験はあるかもしれませんが、良いこともしているので、それほど悔やむ必要はないと思います。

ただ、人生を大きく変えてしまうほど、ひどい仕打ちをしてしまったのなら、その罪を償わなければいけなくなるかもしれません。

償わない限り、良心の呵責から逃れることは出来ず、魂の成長は許されないからです。



ベットの上で、身じろぎもせず、一点を見つめたままの人であっても、自分の置かれている状況を承知しています。

さまざまな想いが生じていますが、身体を動かして表現することはできません。

どんなにつらくても、痛くても、言葉で伝えられません。

何が起きようとも、自分で逃げ出すことはできません。

想像も出来ないほど、過酷な状況に置かれていると思います。



周りにいる人たちは、さまざまです。

やさしい人たちばかりとは、限りません。

意地が悪かったり、残酷な人もいるでしょう。

そんな人たちから、動けないことを良いことに、ひどい仕打ちや侮辱的な行為を受けるかもしれません。

障がい者となって味わう苦しみは、過去に他者に与えた苦しみの償いである可能性があります。

過去に蒔いた種を、今生で刈り取るために、この人生を選んだのかもしれません。



過去の過ちの償いばかりではありません。

障がいと共に生きて、魂をより大きく成長させて、その貴重な体験から、多くのことを学んでいる人も、たくさんいると思います。



自分が病気になって、動けなくなった日のことを、思い出してみました。

身の回りの世話をしてもらうと、とても有難く、うれしかった覚えがあります。

気遣ってくれるやさしさを、身にしみて感じます。

たった数日間、病気で寝込んでいても、自分を助けてくれる人に恩を感じます。



身動きが出来ない人たちが生きていくためには、すべてに渡って人の助けが必要です。

助けがなければ、数日も生きていけないと思われます。

毎日、たくさんの助けを受けながら生活を送っています。



障がいにより、身体は動かず、五感からの情報は受け取りにくくなっているかもしれませんが、魂は活発に働いていて、さまざまな想いを受け取っていると思います。

長い間、助けてもらう立場にいるなら、他者の行為に込められた想いに、とても敏感になっていると考えられます。

助ける行為を事務的に行っているのか、想いが込められているのか、受ける人たちに伝わっていると思います。

何よりもうれしいのは、やさしさや、労わりや、思いやりの想いが、伝わってきた時です。

身体を動かせない人にとって、その想いが喜びであり、生きていく力となっているのかもしれません。



この世では、身体を動かせないのであれば、何も学ぶことはできないと思う人がいるかもしれません。

しかし、人を喜ばすものは何か、人を悲しませるものは何か、健常者が気付かないことを、動かせない身体を通して、日々学んでいるのかもしれません。



身動きの出来ない人にとって、助けてくれる人は、たとえそれが仕事であっても、自分を生かしてくれている、命の恩人のように思えるのかもしれません。

人によって生かされていると、思わずにはいられません。

感謝の想いを、いつも伝えたいと思っているのでしょうが、それも叶いません。

そんな日々が、一生続いたのならば、その想いは想像もつかない位、大きくなっていると思います。



身動きが出来なかった人が、死によって、肉体から解放された時、どんな心境になっているのか、私なりに想像してみました。

鉛のように重たく、動かなかった肉体から解放されて、何でも自由にできる素晴らしさや悦びを、そして表現できなかった感謝の想いを、誰かに伝えずにはいられなくなるのかもしれません。

この世で、一生涯に渡って助けてもらったので、今度は自分が誰かを助けてやりたいと、強く思う気がします。

人や社会のために奉仕をして、恩返しをしていく一生を、懇願してもおかしくありません。

弱者の想いを全人生をかけて深く学んでいるので、物言えぬ人たちのために、精力的に動き回り助けていくシナリオが、次に用意されるのかもしれません。

健全な肉体に宿って生まれ、願いを叶えて行くと思います。



全ての出来事に、意味があると良く言われます。

しかし、どこをどう探しても、意味を見つけられないことがあると思います。

そんな時は、その出来事から何かを学んで、未来で活かすために起きていていると考えられます。

今の苦しみや悲しみは、未来のためにあったとしても、全貌は明らかにされないため、失望感や絶望感に襲われてしまいます。

どんな出来事であっても、自分に必要なことが起きていると固く信じて、つらく、苦しくても、今を精一杯、生きるしかありません。

この経験は決して無駄なものではなく、未来に活かされるはずです。



ところで、一生涯、身動きができない今生のシナリオを、生まれる前に提示されたとしたら、どう思うでしょうか?

ほとんどの人は、自分にはとても耐えられないと思い、拒否してしまうかもしれません。



レベルの高いクライマーは、高く、険しい山を目指します。

低く、なだらかな山では物足りなく、レベルが向上しないからです。

無理に思えるくらい、大変だと思うくらいの山に挑戦して、初めてレベルは向上すると思います。



それと同じく、レベルの高い魂も、より高みを目指して、険しい人生を選択して、この世に生まれてくると考えられます。

平凡な人生では、魂に負荷がかからず、物足りません。

苦難のシナリオに挑戦するのは、その苦難に耐えられるだけの、進化をしている魂です。

目的は1つであり、さらに魂を成長させるためです。

大切な真実を手に入れて、より次元の高い奉仕をするためです。



反対に、苦労もなく、前世よりも楽な一生を送る人生を、生まれる前に提示されたとしても、ほとんどの人は拒否するでしょう。

意外に思うかも知れませんが、楽しいだけの人生からは、得るものはなく、成長しないことを、生まれる前の魂は分っているからです。



この世では、苦労もなく、毎日を楽しく過ごしている人たちは、幸せな勝利者のように見えます。

一方、苦難が降りかかり、悪戦苦闘している人たちは、不幸な敗者のように見えます。

この世だけが全てと思ってしまうと、大きな見誤りをしてしまいます。

死んだ後に待ち受けているのは、肉体や物質が取り払われた魂の世界であり、この世の真相が明らかになります。

楽しかった経験は、楽しかった思い出に過ぎず、魂の成長にはつながっていなかったのが判ります。

避けて通りたかった、苦難の経験や、悲しみの体験が、魂を大きく成長させていたのが判ります。

苦難が降りかかり悪戦苦闘している、不幸な敗者のように見えた人たちが、一転して勝利者となります。

全人生が苦難と思われるような人は、実はこの世で見違えるほどの成長を遂げた、大勝利者となります。



魂の成長している姿は、この世では見えません。

見えるのは、外を包んでいる肉体だけです。

しかし、私には、大きな苦しみや悲しみを乗り越えてきた人の表情は、とても晴れやかで、穏やかに見えます。

そう見えるのは、自らに課した苦難を乗り越えた自信と、魂の成長という目的を果たした悦びと安堵感が、外面に現れているためと思います。



本当に大切なものほど、手に入れるのは難しいようです。

苦難の経験をした者にしか、手にすることのできない真実があり、魂を輝かせる永遠の宝物となるようです。

その真実を手に入れるためには、魂の成長が必要であり、そのためにこの人生を選んでいるはずです。

手に入れた真実を携えて、さらに高みにある真実を手に入れていくのだと思います。

それを繰り返しながら、より魂は成長していき、完全に近づいていくのだと思います。





参考ページ: 「この世の出来事の意味を知る時」









2015年9月27日日曜日

あの世からの導き


 
私の友人は40代で奥さんを亡くしました。

二人の子供の子育てに、奮闘中です。

現在、仕事は多忙を極め、心身ともに悲鳴を上げているのが、傍で見ていて良く分ります。

 
 
 
先日、同じ職場の年の若い事務系の女性と、付き合っていると話がありました。

奥さんを知っていた私は、素直にそれは良かったと言うことが出来ませんでした。

そんな私に友人は、普通の暮らしをしてみたいと、ポツリと言いました。

 
 
 
奥さんを亡くした後、精神的にボロボロになりながら、仕事は容赦なく忙しくなり、家に帰れば子育と家事に追われて、心休まる時間のほとんどない友人は、このままでは身が持たないと感じていたようです。

そんな友人の心境は、普通の生活をしている人達に判るはずはなく、もし、その女性が家に入り、友人が癒されるのであれば、反対する理由はどこにもありません。

 

 
ただ、二人の子供のことは気がかりです。

その女性は、お母さんの代わりにはなれません。
 
家族として、認めてもらえるのでしょうか。

まずは、父親に言えないことを、気軽に話せて、助言してもらえるような、お姉さんのような存在になってもらえればと思います。

 

 
そして、今も家族を見守っている、奥さんはどう想っているのか気になります。

「(死んだら)いい人を見つけて欲しい」と言い残して、友人の誕生日に亡くなりました。

しばらくしてから、奥さんから友人に向けたメッセージを私が受け取りました。

印象的だったのは、友人を「この世でただ一人愛せた人」と表現していたことです。

その言葉を、神妙な面持ちで聞いていたのを覚えています。

 

 
友人のことを、変わらずに愛していると思いますが、今、奥さんがいるのは、想いの世界です。

この世の人が想っていることが、判ってしまいます。

自分に向けられていた友人の親愛の想いは、徐々に自分の知らない女性に向けられていくのを、しっかりと感じ取っているのかもしれません。

あの世に行くと、肉体があった時のような、嫉妬心や独占欲はなくなると言われています。

疲労困憊している様子を傍で見ていて、自分が生きていた時の様に、友人がその女性により家庭で癒されて、仕事に打ち込めるのなら、喜んで家に招き入れたいと想っているのかもしれません。

 


それよりも心配しているのは、残してきた子供のことです。

元気に、明るく育って欲しいと、常に願っていると思います。

その女性が、子供たちを可愛がってくれるのか、大切にしてくれるのか、そればかりが気になっていると思います。

友人は私に、「この前、彼女を家に連れてきたら、仲良さそうに遊んでいた」と、話しをしていました。

しかし、友人は子供たちの、言葉や態度や表情から、気持ちを窺い知るしかありません。

奥さんには、本当の気持ちが見えています。

楽しそうな、うれしそうな子供たちの想いが伝わってきたなら、とても安心するでしょう。

けれども、この人とは一緒に居たくないという想いが伝わってきたなら、何とかしなければと想うでしょう。

父親に本当の気持ちを伝えるように促す思念を、子供たちに投げかけるかもしれません。

この女性の、子供たちに向けている想いも筒抜けになっています。

家族に向けるような、親しみの想いを感じたのなら、とてもうれしくなるでしょう。

けれども、無関心や嫌うような想いを感じたなら、どうにかしなければと強く想い、友人に一緒に暮らすのを思い留まらせるような思念を、送り続けるでしょう。

 

 
亡くなった奥さんのことを思い浮かべながら、この文章を書いている時に、一本の電話が自宅に入りました。

当の友人からであり、歯の具合が悪いので診て欲しいとのことでした。

休診日でしたが、急いで仕事場に向かい、治療を済ませしたが、その後に、例の女性の話を友人が始めました。

一通り聞いた後で私は、「奥さんは子供たちのことが心配なので、子供たちのことを1番に考えるように」と、はっきり伝えました。

友人が私に会うように、私が友人に伝えるように、奥さんがタイミングを見計らって導いていたと、思わざるを得ませんでした。

 

 
普段、人は頭で考えて行動しています。

頭に蓄えた知識や経験を頼りに、日々の仕事をこなしています。

頭を使わなければ、日常生活は成り立ちません。

行動する前には、考えが先行しています。

 

 
それとは別に、何かの衝動にかられて、気付くと行動している時があります。

考えていた訳でもなく、フッと頭の中に何か湧き上がるものを感じて、どうしても行動に移したくなる時があります。

思いつきや、気まぐれとして片付けてしまいがちです。

そんな時は、もしかしたら、あの世からの思念(想い)を受け取っていて、無意識に身体が動いてしまっているのかもしれません。

 

 
この世を生きる人には、例外なく、一生涯に渡って守り導く存在(守護霊)が、側に寄り添っています。

 

 
約25年前に、私は車に乗って信号待ちをしている時に、追突事故に遭いました。

衝突する直前に、ふとルームミラーに目をやると、かなりのスピードで迫ってくる車を認めたため、思わず身構えました。

次の瞬間追突し、大きな衝撃を受けましたが、幸いなことに怪我はなく、鞭打ち症にもなりませんでした。

今、考えてみると、ルームミラーを見る衝動にかられたのは、守護霊からの働きかけではないかと思っています。

気付かないだけで、そんな局面が今までの人生で、たくさんあったのかもしれません。

 

 
この世の人に守護霊が付く目的は、無用な危害が加わらないためだけではありません。

生まれる前に決めていた人生に沿って生きるためであり、予定した通りに魂を成長させるためです。

 

 
この世の人は、魂を成長させるために、自ら志願して、この人生を選択したことを忘れてしまっています。

忘れてしまったと言うより、知っていると将来が気になってしまい、今を大切に生きられなくなるので、封印されていると言った方が正しいのかもしれません。

守護霊は、この世の人が忘れてしまった人生の内容を知っていて、それを全うさせるために、あの世から導いています。

 

 
この世の人は、目の前に大きな苦難や障害が立ちはだかると、自分には乗り越えられないと諦めてしまいそうになります。

そんな時に、解決策につながるインスピレーションや、勇気を与えるような想いを投げかけて、何とかして乗り越えさせようとしています。

志願した人生から外れそうになってしまうと、そちらに進ませないように、良心の呵責が生まれるような想いや、悲惨な結果となるイメージを伝えることもあると考えられます。

 

 
この世とあの世では、出来事の捉え方が、真逆になることがあります。

もし、労せずして大金が入ったのなら、この世の人は大喜びして、楽しく遊んで暮らすかもしれません。

しかし、あの世の人から見ると、仕事をしないで、遊んでばかりいるのは、魂の成長につながらないばかりか、堕落してしまうかもしれないので、喜ぶどころか、大いに心配していると思います。

 身に降りかかる苦難や障害を、この世では不幸や不運として捉える人が、ほとんどかもしれません。

あの世では、魂を成長させる大切な機会として捉えています。

 

 
この世の人は、自分が取った言動が、どの様な結果をもたらすのか判りません。

あの世の人は、この世の人が取った行動に対する結果が見えています。

 

 
1つ高い次元から、守護霊はこの世の人生を見渡しています。

そのために、この世の人の魂が成長して、生まれて来た目的を成就させる方向に、導くことができます。

とても有難い存在なのですが、目には映らないので、童話やおとぎ話のように思えてしまうかもしれません。

しかし、紛れもなく実在しています。

 


この世の私たちは、目先のことしか見えず、誘惑に負けやすく、くじけやすい存在です。

物質だけが目に映ってしまい、その奥にある生命や愛という本質が見えない世界に生きています。

さまざまな経験を通して、自分に足りないところを補っていく、修練の場であることを忘れてしまっています。

自分を見失い、生きている意味を見失いやすい世界に生きています。

迷いや、悩みは、どうしても生じてしまいます。

 


心に迷いが生じた時、どちらに進んでいいのか悩んだ時、答えが出ない問題を抱えた時に、そっと影から、支えてくれているのが守護霊だと思います。

謙虚な気持ちになり、守護霊に静かに問いかけてみてはどうでしょうか。

ただし、守護霊は魂の成長のためにいるので、この世の利益(お金や出世等)を得ようとする問いかけや、世の中や人のためにならない問いかけは、絶対にしないで下さい。

 

 
「あなたが良いと思う方向に導いて下さい」

「私が成長する方向に導いて下さい」

であれば、聞き届けられると思います。

 

 
回答は、直ぐにインスピレーションとして魂に伝わり、進むべき方向を指し示してくれるかもしれません。

あるいは、しばらく経って、忘れかけていた頃に、伝えてくるかもしれません。

それは自分の望んでいる方向ではないかもしれません。

指し示す方向は、魂を成長させる方向に決まっているので、どちらかと言えば、楽な方向よりも、困難な方向と思われます。

自分にとって最善の方向と確信して、迷わずそちらに進んでいきましょう。

指し示した方向に進むのを、適当な理由を付けて逃げてしまうほど、守護霊を落胆させることはありません。

導きを求めたのであれば、回答の通りに素直に進んでいきましょう。

 

 
こちらの問いかけに対して、回答がない時もあります。

この世の人が、どのような方向に進むのか、どちらを選択するのか、じっと見守っているだけで、任せる時があるようです。

自分自身で決めて、進んで行かなければいけません。

そんな時は、挑戦する方向、自分よりも他者のためになる方向に進んで行くのが正解であり、魂の成長につながるので、傍で見守っている守護霊もきっと喜ぶでしょう。

回答として1つの出会いがあり、後に魂を成長させるような出来事が起きるかもしれません。

 

 
あの世から、導くためのインスピレーションは、私たちが想像している以上に送られてきているのですが、この世の人に受信する態勢が整っていないと思われます。

とても大きな損失をしていると思います。

導くための、あの世からのインスピレーションは、魂が受け取ります。

しかし、現代に生きる私たちは、1日中、頭を回転させて、時間に追われながら、慌しい生活をしています。

頭が活発に働いている時は、その影に隠れ、魂は休眠状態になっています。

何もせずに心穏やかに過ごしている時には、頭の活動は弱まり、魂が前面に出てきています。

そんな時に、インスピレーションに気付きやすいと思われます。

瞑想状態とまで行かなくても、静かな音楽を聴きながら、波立つ心を鎮め、雑念がなくなり、頭がからっぽになる時間を作り、守り導いている存在に親愛の想いを向けていれば、ふと浮かぶ想い(インスピレーション)に気付くようになるかもしれません。

伝わってきたインスピレーションに全幅の信頼を置き、素直に従ったのなら、予定されていた人生が全うされると思います。

 

 
自分の想いなのか、あの世からの想いなのか鑑別できなくても、もともと親(ちか)しい魂同士なので、気にしなくても良いのかもしれません。

湧き上がる想いに素直になって生きれば、後悔することはなく、どの様な出来事が先に待っていたとしても、必ず乗り越えられ、予期した魂の成長は得られると思います。

 

 
一人で生きているのではなく、目に見えない存在が常に見守っていて、必要な時には導いてくれると確信して、生きていきましょう。

それは、この世に生まれる前に交わした約束でもあり、必ず果たしてくれるはずです。

 

 
先のことは何も心配せずに、安心して、今を生きましょう。






参考ページ:「あの世からの愛の表現は守り導くこと」