2015年10月11日日曜日

この世の出来事には意味がある




遠い昔の話ですが、小学生の頃、1度だけ父親に連れられて、映画を観に行った覚えがあります。

確かショーン・コネリー主演の007シリーズの映画だと思いますが、映画館に着くと、本編はとっくに始まっていて、半分以上過ぎていました。

私の父親は、じっと待っているのが嫌いな性分なので、途中にもかかわらず、私を連れて中に入って行きました。

中に入ってスクリーンを見ると、迫力のあるカーチェイスのシーンであり、子供ながらに映画はクライマックスに差し掛かっていると感じました。

しかし、それまでのストーリーを知らないので、今、展開されているシーンの意味はさっぱり分かりません。

しばらくして映画が終わり、ほとんどの観客は外に出ましたが、私たち親子はそのまま残って、見逃した前半のストーリーを観ました。

今度は、最初から見たので、内に入った時のシーンの意味や、そこまでのストーリーは分りましたが、結末はすでに知っているので、後半は面白くありませんでした。



人生も同じような気がします。

この世に生まれてきた時には、すでに物語は始まっています。

しかし、私たちの記憶は、物心付いた時から、現在までしかありません。

そのためでしょうか、すべては誕生と共に始まるものと、多くの人は錯覚しています。

途中から映画を見始めると、スクリーンで展開されているシーンの意味が分からないのと同じで、自分に起きている出来事の原因が、この世に存在しなければ、その意味や目的が分からなってしまうのは当然です。



私が休日に訪問している施設では、さまざまな程度の心身に障がいを持つ人たちが、共同生活をしています。

重度の身体障がいを伴った、先天性の病気の人も少なくなく、中には生まれてから死ぬまで、ベッドの上で過ごす人がいます。

医学では、病気には必ず原因があると考えています。

慢性肝炎になった人が、毎日浴びるほど酒を飲んでいたのなら、原因はアルコールにあると判断できます。

しかし、病気が生まれつき(先天性)のものであれば、原因を説明できなくなり、突発的あるいは原因不明として片付けるしかありません。



この人生が、全てではありません。

肉体が消滅した後も、生命は存続しています。

人はどう思おうとも、確証がありますので、少なくても私にとっては事実です。

魂とは生命の本質であり、自分そのものと言って、差し支えないと考えています。

死後にも生があるように、過去にも生があり、この世の生と密接に関り合いながら、つながっています。



生まれつきの病気であれば、原因は生まれる前にあります。

先天性の病気の原因は、過去世にあることになりますが、生まれる前の記憶は、魂の奥に封印されているので判りません。

過去世を知ることができたなら、この世で起きた出来事の原因が明らかになり、多くの人は悩まずに済むかもしれません。

しかし、知らされた過去世が、正しいと立証するものは何もなく、自分が納得できるものでなければ、信じようとしないのかもしれません。

そして、霊的な成長が伴わないうちに、過去世が明かされたとしたら、恩恵よりも弊害が多く生まれてしまうと思いますので、魂の存在を、ようやく意識し始めた現時点では、特別な場合を除いて、明かされることはないと考えています。



私たちが生きている目的は、魂を成長させるためです。

さまざまな人生経験を通して、大切なことを学び、自分に足りないところを補い、成長していくために生きています。



以前の私は、自分の仕事や生活にしか、関心はありませんでした。

障がいのために、一生寝たきりの人を見ても、ただ哀れに思うだけでした。

しかし、現在は見方は一変し、明確な目的があって、障がいがある身体を選んで生まれてきていると思っています。



この世を生きている人は、いずれ死にます。

死んだ後に、地上の人生を振り返る時が来ます。

想ったこと、言ったこと、行ったことが、スクリーンのようなものに映し出され、この世の全人生を検証します。

その時に、自分のした行為が、どのような結果をもたらしたかを、知ることになります。

もし、自分の言動で、誰かが傷つき、つらい思いをしたのであれば、それを知って、後悔や自責の念を持ちます。

今までに、ひどいことを言ったり、ひどいことをしてしまった経験はあるかもしれませんが、良いこともしているので、それほど悔やむ必要はないと思います。

ただ、人生を大きく変えてしまうほど、ひどい仕打ちをしてしまったのなら、その罪を償わなければいけなくなるかもしれません。

償わない限り、良心の呵責から逃れることは出来ず、魂の成長は許されないからです。



ベットの上で、身じろぎもせず、一点を見つめたままの人であっても、自分の置かれている状況を承知しています。

さまざまな想いが生じていますが、身体を動かして表現することはできません。

どんなにつらくても、痛くても、言葉で伝えられません。

何が起きようとも、自分で逃げ出すことはできません。

想像も出来ないほど、過酷な状況に置かれていると思います。



周りにいる人たちは、さまざまです。

やさしい人たちばかりとは、限りません。

意地が悪かったり、残酷な人もいるでしょう。

そんな人たちから、動けないことを良いことに、ひどい仕打ちや侮辱的な行為を受けるかもしれません。

障がい者となって味わう苦しみは、過去に他者に与えた苦しみの償いである可能性があります。

過去に蒔いた種を、今生で刈り取るために、この人生を選んだのかもしれません。



過去の過ちの償いばかりではありません。

障がいと共に生きて、魂をより大きく成長させて、その貴重な体験から、多くのことを学んでいる人も、たくさんいると思います。



自分が病気になって、動けなくなった日のことを、思い出してみました。

身の回りの世話をしてもらうと、とても有難く、うれしかった覚えがあります。

気遣ってくれるやさしさを、身にしみて感じます。

たった数日間、病気で寝込んでいても、自分を助けてくれる人に恩を感じます。



身動きが出来ない人たちが生きていくためには、すべてに渡って人の助けが必要です。

助けがなければ、数日も生きていけないと思われます。

毎日、たくさんの助けを受けながら生活を送っています。



障がいにより、身体は動かず、五感からの情報は受け取りにくくなっているかもしれませんが、魂は活発に働いていて、さまざまな想いを受け取っていると思います。

長い間、助けてもらう立場にいるなら、他者の行為に込められた想いに、とても敏感になっていると考えられます。

助ける行為を事務的に行っているのか、想いが込められているのか、受ける人たちに伝わっていると思います。

何よりもうれしいのは、やさしさや、労わりや、思いやりの想いが、伝わってきた時です。

身体を動かせない人にとって、その想いが喜びであり、生きていく力となっているのかもしれません。



この世では、身体を動かせないのであれば、何も学ぶことはできないと思う人がいるかもしれません。

しかし、人を喜ばすものは何か、人を悲しませるものは何か、健常者が気付かないことを、動かせない身体を通して、日々学んでいるのかもしれません。



身動きの出来ない人にとって、助けてくれる人は、たとえそれが仕事であっても、自分を生かしてくれている、命の恩人のように思えるのかもしれません。

人によって生かされていると、思わずにはいられません。

感謝の想いを、いつも伝えたいと思っているのでしょうが、それも叶いません。

そんな日々が、一生続いたのならば、その想いは想像もつかない位、大きくなっていると思います。



身動きが出来なかった人が、死によって、肉体から解放された時、どんな心境になっているのか、私なりに想像してみました。

鉛のように重たく、動かなかった肉体から解放されて、何でも自由にできる素晴らしさや悦びを、そして表現できなかった感謝の想いを、誰かに伝えずにはいられなくなるのかもしれません。

この世で、一生涯に渡って助けてもらったので、今度は自分が誰かを助けてやりたいと、強く思う気がします。

人や社会のために奉仕をして、恩返しをしていく一生を、懇願してもおかしくありません。

弱者の想いを全人生をかけて深く学んでいるので、物言えぬ人たちのために、精力的に動き回り助けていくシナリオが、次に用意されるのかもしれません。

健全な肉体に宿って生まれ、願いを叶えて行くと思います。



全ての出来事に、意味があると良く言われます。

しかし、どこをどう探しても、意味を見つけられないことがあると思います。

そんな時は、その出来事から何かを学んで、未来で活かすために起きていていると考えられます。

今の苦しみや悲しみは、未来のためにあったとしても、全貌は明らかにされないため、失望感や絶望感に襲われてしまいます。

どんな出来事であっても、自分に必要なことが起きていると固く信じて、つらく、苦しくても、今を精一杯、生きるしかありません。

この経験は決して無駄なものではなく、未来に活かされるはずです。



ところで、一生涯、身動きができない今生のシナリオを、生まれる前に提示されたとしたら、どう思うでしょうか?

ほとんどの人は、自分にはとても耐えられないと思い、拒否してしまうかもしれません。



レベルの高いクライマーは、高く、険しい山を目指します。

低く、なだらかな山では物足りなく、レベルが向上しないからです。

無理に思えるくらい、大変だと思うくらいの山に挑戦して、初めてレベルは向上すると思います。



それと同じく、レベルの高い魂も、より高みを目指して、険しい人生を選択して、この世に生まれてくると考えられます。

平凡な人生では、魂に負荷がかからず、物足りません。

苦難のシナリオに挑戦するのは、その苦難に耐えられるだけの、進化をしている魂です。

目的は1つであり、さらに魂を成長させるためです。

大切な真実を手に入れて、より次元の高い奉仕をするためです。



反対に、苦労もなく、前世よりも楽な一生を送る人生を、生まれる前に提示されたとしても、ほとんどの人は拒否するでしょう。

意外に思うかも知れませんが、楽しいだけの人生からは、得るものはなく、成長しないことを、生まれる前の魂は分っているからです。



この世では、苦労もなく、毎日を楽しく過ごしている人たちは、幸せな勝利者のように見えます。

一方、苦難が降りかかり、悪戦苦闘している人たちは、不幸な敗者のように見えます。

この世だけが全てと思ってしまうと、大きな見誤りをしてしまいます。

死んだ後に待ち受けているのは、肉体や物質が取り払われた魂の世界であり、この世の真相が明らかになります。

楽しかった経験は、楽しかった思い出に過ぎず、魂の成長にはつながっていなかったのが判ります。

避けて通りたかった、苦難の経験や、悲しみの体験が、魂を大きく成長させていたのが判ります。

苦難が降りかかり悪戦苦闘している、不幸な敗者のように見えた人たちが、一転して勝利者となります。

全人生が苦難と思われるような人は、実はこの世で見違えるほどの成長を遂げた、大勝利者となります。



魂の成長している姿は、この世では見えません。

見えるのは、外を包んでいる肉体だけです。

しかし、私には、大きな苦しみや悲しみを乗り越えてきた人の表情は、とても晴れやかで、穏やかに見えます。

そう見えるのは、自らに課した苦難を乗り越えた自信と、魂の成長という目的を果たした悦びと安堵感が、外面に現れているためと思います。



本当に大切なものほど、手に入れるのは難しいようです。

苦難の経験をした者にしか、手にすることのできない真実があり、魂を輝かせる永遠の宝物となるようです。

その真実を手に入れるためには、魂の成長が必要であり、そのためにこの人生を選んでいるはずです。

手に入れた真実を携えて、さらに高みにある真実を手に入れていくのだと思います。

それを繰り返しながら、より魂は成長していき、完全に近づいていくのだと思います。





参考ページ: 「この世の出来事の意味を知る時」









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