2024年3月31日日曜日

勇気を奮い立たせて前に進む


私たちは、地上と霊界の間を行き来しながら、進化成長して行く存在です。

地上に生まれると、肉体によって自己表現するようになります。

それに伴って、地上の自我(以下自我)が生じます。



自我は、魂(霊)から生じた思念を、肉体によって表現するためにある媒体です。

けれども、思念は自我により忠実に表現されるとは限りません。

例えば、火事で建物中に取り残され、助けを求めている人がいたとします。

魂には神が内在しています。

そのため、助けようとする衝動が生まれます。

一方、自我は肉体と密接に関係しています。

そのため、肉体を守ろうとします。

魂からは助けようとする想い(愛)、自我からは死んでしまうかもしれないという怖れが生じて、両者の間で葛藤が起こります。

自我が勝ると助けるのを止めてしまいます。

このように、魂から生じている想いは、自我によって大きな制約を受けています。



自我に打ち克ち、自分の想いを表現するのは、地上に生まれて来た目的の1つと考えられます。

そのために必要になのは「勇気」です。

けれども、口で言うほど勇気を出すのは簡単ではありません。

不完全な物質の世界のため、上手く表現できる保証はなく、上手く表現できたとしても、受け入れられるかどうかも分かりません。


ヘレン・ケラー(1880-1968)出典:Wikipedia

ご存知のように、ヘレン・ケラーは見えない、聴こえない、話せない3重の障がいを持っていました。

幼少期の様子をこう語っています。

「濃い霧の海を航海したことがありますか?まるで、立ちはだかる白い闇のような霧。その中を、大型船が緊張と不安の中、水深をはかる「測鉛」を頼りに、手探りで岸に向かって進む。」

外界と隔絶され、不安と孤独の中で生きていたヘレン・ケラーの元に、サリバン先生が現れます。

出会った日のことを「私の魂が誕生した日」と言っています。



ヘレン・ケラーはサリバン先生の口に手を当て唇の動きや振動から、そして口の中に指を入れて舌の動きから発音の仕方と単語をマスターして行きました。

7回目のレッスンの後、「I am not dumb now(私はもう聾唖者ではない)」という文章を話せるようになっていました。

ヘレン・ケラーの記録動画を観る機会がありましたが、聾唖者とは思えない見事な演説でした。

「人生は二つに一つ。迷った時こそ勇気を。」ヘレン・ケラーは言っています。

どれくらいの勇気を奮い立たせて、絶望的と思われる障がいを克服し、自己表現できるようになったのか想像も付きません。



勇気を出すためにどうすれば良いのでしょうか?

自分を信じなければいけません。

本当の自分とは魂です。

自分を信じることは、内在する神を信じることになります。

たとえ神の存在を信じていなくても、自分を信じることで神とのつながりが強くなり、物事を成し遂げる力が得られます。



多くの人は、自我(エゴ)の働きが強くなっています。

そのために、本当の自分の想いに気付けなくなったり、気付いたとしても蓋をしてしまいます。

自分を見失い、自分を信じられなり、勇気を出せずに物事を成し遂げる機会が奪われています。



私たちは、一人で生きているのではありません。

地上にいる私たちを見守っている存在がいます。

どうしても自分を信じられない時には、その存在を信じましょう。

インスピレーションや援助の力を届けて、怖れや不安を払拭させてくれるでしょう。



霊界では肉体がありません。

思念が直接伝わるので、自己表現に失敗することはありません。

周りには同類の人しかいないので、受け入れてもらえないこともありません。

地上のような勇気を必要としない世界と考えられます。



思念の世界である霊界において、何よりも大切なのは意志です。

意志がなければ、何も変わらず、自発的に成長することもできません。

勇気とは、物事を成し遂げるための意志を強くさせるものです。

地上で勇気を出して物事を成し遂げることによって、霊界で周りのための何かをしようとする意志が強固なものになると考えられます。


ヘレン・ケラーですが、12歳の時に幽体離脱をしてアテネを訪れるという霊的な体験をして、魂の存在を信じるようになりました。

そして、死んだ後に障がいから解放された世界が待ち受けていることを知ります。

「私は、自分の障がいを神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障がいを通してだったからです。」(ヘレン・ケラー)

地上で不幸と言われる事象は、魂を目覚めさせ、生まれて来た目的を成就するために、神によって計画されたものと考えられます。



「乗り越えられない困難や障害は与えられない」

ヘレン・ケラーはこの霊的真理を実践して世界中の人に示した偉大なスピリチュアリストです。

私たちにも、彼女と同じ神が宿っています。

だめかもしれないと思った時は「神がいるので絶対に大丈夫」と強く信じて下さい。

そして、勇気を奮い立たせ、前に進んで行きましょう。


ヘレンケラーとサリバン先生 (出典:サライ jp)



2024年3月24日日曜日

この人生で終わりではない


3月15日に父が永眠しました。

永眠と言っても、もちろん眠り続けているわけではありません。

向こうの世界で意識が目覚め、先に逝った肉親や友人と、しばしの間再会の歓びに浸っていたと思います。



喪主である兄のあいさつで、初めて知った事実がありました。

父は大学のある大阪にずっといたと思っていましたが、終戦前の一時期、北九州の小倉に住んでいたそうです。

当初、アメリカ軍は広島の次に北九州の小倉に原子爆弾を投下するつもりでした。

ところが、小倉上空は視界不良だったため、急遽予定を変更し、長崎に投下しました。



その時、B29が飛んでいる音を、父は聞いていたのでしょうか。

もし晴れていて、予定通り原爆が投下されていれば、命を落としていた可能性は高いと考えられます。

何か思うところがあって、そのことを死ぬまで話さなかったのでしょう。



命を落としていれば、私は子供として生まれて来るはずもありません。

違う親の元に生まれて、違う人生を歩んでいると思います。

今の自分があるのは、両親がいたからです。

改めて感謝しています。



私たちは、環境(親)を選んで、生まれて来ています。

もしそうならば、誰もが恵まれた環境で、愛情深い親を望むような気がします。

けれども、世の中はそんな環境(親)ばかりではありません。



ベーブ・ルースは、スポーツ界の英雄です。

ルースは1895年、メリーランド州ボルチモアの貧しい家庭に生まれました。

9人兄弟でしたが、成人したのはルースを含めて2人だけであり、育った環境が悪かったことが想像されます。

そのためでしょうか、ルースは幼少期から窃盗など非行に走るようになります。

手に負えなくなったルースは、7歳の時に全寮制の矯正施設に預けられます。

そこでマティアスという神父に出会い、野球の手ほどきを受けます。

野球の面白さを知ったルースは、めきめきと上達して行き、試合を観に来ていた球団関係者の目に留まり、大リーグに入ることになります。

その後の活躍は、言わずと知れています。



私たちは、目的があって地上に生まれて来ています。

望むような環境と、目的を果たすための環境は違います。

ルースは、野球を通して世界中の人に夢や希望や勇気を与える目的(使命)を持って生まれて来たと考えられます。

周りから不幸に見えても、目的を果たすために、その環境でなければならなかったと考えられます。

目的に向かって、全てが一直線で結ばれています。

どれ1つでも欠けていたとしたら、「野球の神様」は誕生しなかったでしょう。



楽しいことばかりが起きる人生を、多くの人は望みます。

けれども、それだけでは成長しません。

成長するためには、それに相応しい経験が必要です。

困難や障害を経験し、それを乗り越えようとすること、(肉体を持つことによって生まれる)自我に打ち克って、他者に愛を表現することで、霊的に成長して行きます。

霊界にいては経験できないことを経験するために、私たちは地上に生まれて来ています。



学ぶべきものが、人それぞれあります。

偶然に委ねていては、学ぶのに相応しい経験をするまで、どれくらいかかるのか想像も付きません。

計画的かつ効率的に学ぶために、無限の叡智(神)によって、最適なシナリオが創られます。

成長を願う、神の愛の御業です。



死んで無になるのであれば、成長する必要などありません。

成長することを望むのは、この世で終わりではなく、生き続けることを心の奥底で知っているからだと思います。

精一杯生きようとするのは、死んだ後に後悔したくないからだと思います。



私たちには自由意志があります。

決められていたことが起きても、逃げ出してしまうこともできます。

生まれる前の記憶を失ってしまう地上の人が、無事に目的が果たせるように、守護霊が生涯に渡って付いて、導きや援助の力を与えています。



どんな経験であっても、地上を去れば終わります。

全く新しい環境が、目の前に開けて来ます。

しばらくすると、地上の全人生を振り返ります。

大切なことを学ぶために、この経験がどうしても必要であり、自らが志願していたことを知ります。

魂の成長として報われていて、これからの人生に活かされることを知り、無限の叡智に向かって感謝するでしょう。



周りの人と比べても、全く意味がありません。

今生で学ぶことは、それぞれ違います。

学ぶことが違えば、人生も自ずと違って来るのは当然です。



物心付いてから現在までの人生しか、私たちは知ることができません。

実際は、生まれる前にも人生があり、死んだ後も人生は続いています。

学ぶことがあれば、何度でも地上に生まれて来ます。



今、自分がしている経験を、前の(地上の)人生でしている人もいるでしょう。

次の人生でする人もいるでしょう。

どこかで、誰もが経験しなければならない、大切な学びがあると思います。


途中の1章しか読んでいないのに、物語全体を理解するのは不可能です。

それと同じで、この人生だけで、全てを判断するのは不可能であり、愚かなことです。



今の章は、前の章からつながっています。

前の章に原因があり、今の章で結果が生じていることがあります。

生じた結果をどう対処するかによって、次の章が変わって来ます。



偶然ではありません。

原因と結果を繰り返しながら、今の自分がいます。



誰の責任でもありません。

自分で決めて来た結果として、今の自分がいます。



これは余談です。

ご存知でしょうが、ルースは打者だけではなく、投手としても活躍していました。

けれども、精神的、肉体的負担があまりにも大きいために、しばらくして打者に専念するようになりました。

そのことに悔いがあり、今度こそ両方をやり遂げたいと志願して、100年の時を経て日本の地に生まれて来たのでは・・・。

大リーグと投手への強いこだわり、摂生に徹底した生活(不摂生だったルースが反省して)、両者とも子供が大好きなことから、ふとそんなことを考えてしまいました。


ベーブルース(出典:Wikipedia)


大谷翔平選手(出典:Full-Count)





2024年3月17日日曜日

この世も思念の世界


この世とあの世の大きな違いは、肉体のあるなしです。

肉体があるかないかで、コミュニケーションの仕方が大きく変わって来ます。

この世では、思念を言葉にして発しています。

発せられた言葉は、相手の五感を通して伝わって行きます。



ただ、想いを言葉にした時点で、齟齬が生じている可能性があります。

例えば「よろこびを感じている」と伝えたとしたらどうでしょう?

「よろこび」と言っても、文字にすると「喜び」、「悦び」、「歓び」、「慶び」などがあり、その意味は微妙に違います。

けれども、音声(口頭)で受け取ったとしたら、その判別はできません。



この世では、相手が発している言葉と、想っていることが違う場合もあります。

お世辞を言うことも、嘘を付いてしまうこともできます。



言葉で表現できない想いも存在します。

感極まると、言葉にできません。



人間の本質は魂です。

魂で生じた思念は、精神で言葉となり、肉体を使って表現されます。

五感を通して受け取った言葉は、精神で認識されて、相手に新たな思念が生じます。

この世では、そんな煩わしい行程を繰り返しながら、コミュニケーションをしています。



一方、あの世では、想い(思念)は直接に相手に伝わります。

言葉にする必要がないので、ありのままの想いが相手に伝わります。

嘘が付けません。

真実の世界と言われる所以です。



ところが、この世においても、言葉を介さずに想いが伝わる時があります。

言葉がしゃべれない赤ちゃんが何を訴えているのか、お母さんは察しようとします。

気心の知れた人が、何を想っているのか、分かる瞬間があります。

目を見ただけで、相手の想いが伝わって来ることもあります。



五感を介さなくても、想いが伝わって来るのは、私たちは肉体を超えた存在だからです。

思念を受け取る受信器があるからです。



その受信器により、あの世から様々な思念を受け取っています。

芸術家のインスピレーションもそうです。

音楽家がメロディーが降ってきたと表現する時があります。

それは頭で考えたものではなく、この世の人と同調しているあの世の人から送られて来たメロディーをインスピレーションとして受け取っていると考えられます。



「してはいけない」あるいは「するべきだ」と、心の中で囁いているのを感じる時があります。

そんな時は、見守っているあの世の人から、思念が伝わって来ているのかもしれません。

先(結果)が視えるので、行く末を心配しているのです。



この様に、ふと考えが思い付いたり、心の中で囁きを感じた時は、あの世から思念が伝わって来ている可能性があります。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「人間の心に浮かぶ思念が全て、霊界からのものとは言いません。それは明らかに言いすぎでしょう。しかしその多くは、背後霊が精神と魂を豊かにしてあげようとする努力の反映です。」

思念を受け取って、無意識の内に行動していることは少なくないと思います。



あの世にいる人から多大な恩恵を受けているにも関わらず、物質を超えた世界が存在することを認められない人が多くいます。

そんな人たちも、喜びや悲しみ、怒りなどを感じながら生きています。

それらの感情は、明らかに物質を超えています。

存在は証明されていませんが、誰もが実感しているので、否定する人はいません。

感情の存在を認めているのであれば、物質を超えた思念の世界が存在するのを認めても良いはずです。



想い(思念)はエネルギーです。

波動となって相手に伝わります。

喜び、悲しみ、怒りなどの感情には、それぞれの波長があります。

喜びの感情を出している人と、悲しみの感情を出している人の波長が違うので、双方の想いが交わることはありません。

悲しみの涙を流している人の傍にいると、こちらまで悲しくなる時があります。

笑い転げている人の傍にいると、こちらまで可笑(おか)しくなる時があります。

もらい泣きや、もらい笑いをするのは、音叉の原理と同じで、傍にいた人の想いが伝わって来て、共鳴していると考えられます。



感情を超越した波動が愛です。

何もないところに悦びを生じさせます。

どのような感情が生じていたとしても、愛は伝わります。

怒りに震えている人をなだめ、悲しみに打ちひしがれている人を慰める力を持っています。

愛は魂から生じているので、精神(自我)から生じている感情より優っているのです。



この世で伝えてくれる人がいなくても、愛は伝わって来ています。

あの世から見守っている存在を忘れてはいけません。

いつ、どこにいても、私たちは見えざる人たちに愛されています。



神に愛されていると良く言われます。

けれども、その実感はありません。

私たち神の一部であり、つながりは永遠不滅です。

神の力によって創造され、神の力によって生かされています。

そして、神の創った法則の働きにより進化し続け、悦びの世界へと導かれています。

今、こうして生きていること自体、神に愛されている結果です。



私たちを生かしている力の本質は愛です。

その力を受け取った魂は、愛を表現したくなるのですが、この世で自己表現している媒体(自我)が不完全なために、ままなりません。

愛の表現について、シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「私の言う “愛” とは、慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者のために、自分の能力の範囲内で精一杯援助しようとする心を言います。愛を表現していることになります。自分のことをかえりみず、助けを必要とする人のために、出来る限りのことをしてあげようとする心、それが愛です。」

自分を中心に考えようとする自我に打ち克って、他者に愛を表現することは、この世に生まれて来た大きな目的の1つです。







2024年3月10日日曜日

神は全てを慈しむ意識


太陽系が所属している銀河系には、2000億個を超える恒星が存在しています。

宇宙全体では、そのような銀河が数千億から数兆個存在すると言われています。

無限に広がる宇宙には、無数の生命体が存在すると考えられます。

宇宙空間を航行している生命体が、地球を見つけたとしたら、その美しさにきっと驚くでしょう。

接近して、観察し始めるかもしれません。

良く見ると、最も知性のある地上の生命体が、互いに傷つけ合い、殺し合っています。

さらに、知性の劣る生命体を虐げています。

自分たちが住んでいる惑星の環境を破壊しています。

そんな様子を見て、地上に降りるのを止めて、ひっそりと立ち去っているかもしれません。



シルバーバーチの霊訓にはこんなことが書いてあります。

「地球は宇宙の惑星の中で最も進化の程度の低い部類に属します。」

人間よりも進化した生命はいると思っていましたが、最低の部類だと知り、がっかりしました。



進化とは、知性の向上ではありません。

霊性が高まって行く過程を指します。

月に行けるようになるよりも、争いがなくなり平和になって行くのが、真の進化です。

同じ星の中で、傷つけ合い、殺し合っている人間が、高度に進化しているわけがありません。

進化していると驕っている時点で、程度が知れてしまいます。



全ての生命は、進化して行く宿命を持っています。

それは何億光年離れた星でも、死んだ後に赴く世界においても同じです。



突然ですが、上の画像は何でしょうか?

いくら見ても、さっぱり分からないと思います。

一部分を切り取ったものだからです。

少し離れたところから観ると、全体が分かります。

全体が分かると、何であるのかが、ようやく分かります。


私たち人間も、同じような気がします。

自分を中心に考えて、視野が狭くなると、一部分しか見えなくなります。

一部分しか見えないと、自分が何者で、何のために存在しているのかが分かりません。

もし、全体を見渡すことができたのなら、分かるようになると思います。



地上に生まれて肉体を持つと、自我により自己表現を始めます。

自我の働きが強くなると、自分を中心に考えてしまいます。

全体が見えなくなるために、戦争や飢餓や環境破壊などが生じてしまいます。

         




話は変わりますが、人間の1つの細胞には、46本のDNAが折り畳まれています。

46本のDNAをつなぎ合わせると、約2メートルになるそうです。

もし人体にある全てのDNAを1本につなぎ合わせたとしたら、どれくらいの長さになるでしょう?

人体には37兆個の細胞があるので、何と740億キロメートルになります。

太陽系で最も遠い惑星である海王星までの距離は45億キロメートルなので、その十数倍先まで達します。

jamstec Baseから一部引用

DNAは人体の設計図です。

偶然の積み重ねによって、このような想像を絶するほど微細で緻密な構造からなる設計図が造られたとはとても思えません。

計り知れない叡智(神)によって、人間が創造された考える方が、遥かに自然です。



NGC2275 NASA公開画像
宇宙は、神によって創造されています。

私たちは、宇宙を構成している一部分です。

神的エネルギーによって創られていて、神的エネルギーによって生かされています。



神的エネルギーの吹き出し口となっているのが魂です。

魂には神の意識(心)が埋め込まれています。




神の意識が発揮されるほど、全体に調和がもたらされます。

けれども、地上では不完全な意識(自我)により自己表現しているために、神の意識が発揮されにくくなっています。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「あなたはもともと完全な光をお持ちです。が、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。(中略)まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというのに過ぎません。それを、光が不完全だ、光は悪だとは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で”悪”と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している”不完全さ”を意味するに過ぎません。



神の意識は、自然法則の働きによっても顕現しています。

生命の進化を促し、より多くの神の意識が発揮されるように導いています。

進化の行きつく先は神と考えられますが、到達するには永遠の時が必要です。



神とは全体を慈しむ無限の意識であり、それにより完全な調和がもたらされた状態を指すと思います。





2024年3月3日日曜日

怖れから解放されるために

 


断崖絶壁の上に立つと、恐怖を感じて足がすくんでしまいます。

ところが、命綱なしで断崖絶壁を登って行く人もいます。

そんな人は、勇気があるというよりも、恐怖を感じにくいのかもしれません。



いわゆる自己防衛本能は地上の自我(以下自我)の働きによるものです。

恐怖が生じるのもその一環です。

自我により、私たちは自己表現をしています。

同時に、自我は肉体を守ろうとします。

もし、恐怖が生じなかったとしたら、身の危険を感じなくなり、崖から落ちてしまうかもしれません。



地上は物質的な世界です。

表現媒体である物質(肉体)は不完全です

そのため、思念を完全に表現することはできません。

自分の思いを、言葉にできないこともあるでしょう。

思い通りに行かずに、失敗することもあるでしょう。

失敗して被る不利益を想像すると、怖れを感じてしまうこともあります。



地上では自分とは違う人たちに囲まれながら生きています。

そのため、人から思いもよらぬ言動を受けることもあります。

傷つけられてしまうと、その後、人を怖れてしまうこともあるでしょう。



怖れは、地上を生きるために必要な感情です。

けれども、必要以上に怖れが生じると、成長の妨げとなります。



生まれる前にいたのは、思念の世界です。

肉体を介さずに思念が表現されるので、地上のような失敗はありません。

周りには、自分と同じような人間しかいないので、傷つけられる心配もありません。

怖れから解放されています。

平和で安全な世界を離れて、怖れが生じる地上に生まれて来たのには、理由があるはずです。



私は中学同窓会の幹事をしています。

以前ですが、同窓会を開くことになり、クラスメートに電話連絡をして、参加するかどうかを確認しました。

クラスの中心的存在で、みんなに好かれ人気者の男子がいましたが、意外にも出席を拒みました。

後になって他の同級生から、別のクラスの生徒からいじめを受けていたと聞き、それが原因だと思いました。

それから、いくら声をかけても参加することはありません。



怖れは、苦痛を伴う過去の出来事から生じていることが多く、根深い感情です。

クラスメートに生じていた怖れは、今も消えていないのかもしれません。

怖れの裏に、怒りや憎しみの感情が隠されているのかもしれません。

身の危険を感じるような状況では、怒りや憎しみを通り越して、怖れが生じます。

戦争もそうです。

近くに爆弾が落ちている時は、怖れしか感じません。



地上を生きている限り怖れは付きものですが、好ましい感情ではないので、どうにかしたいものです。

「全き愛は恐れを締め出す」これはイエス・キリストの言葉です。

さまざまな解釈があるでしょうが、私はこう思います。

恐れ(怖れ)は、自我(精神)から生じています。

愛は、精神より高次の魂から生じています。

魂が主で、精神はそれに従います。

怖れよりも愛の力の方が優るので、締め出すことができると考えられます。



けれども、怖れを抱いている対象を愛そうとするのは困難です。

こう考えるようにしています。

自分も怖れを抱く対象も、本質は同じです。

どちらも神が創造した、神を宿した、神(宇宙)を構成する一部に変わりありません。

本質は同じですが、自我の進化の程度は違います。

自我から生まれる言動もさまざまです。

未熟な自我が作り出した言動は虚像であるので、真に受けてはいけません。

怖れも、未熟な自我が作り出した虚像です。

虚像には、実体はありません。



魂から生じているものは真実であり、実像です。

実像には、実体があります。

目に視えない愛は、実体があります。



実体が視えなくなる地上では、信じることが必要になります。

信じることで、個と個はつながり、そのつながりを通して、愛が行き交います。

全ての人に神が宿っていると強く信じるほど、怖れは生じないようになります。



あらゆる事象は、自然法則の働きによって起きています。

今まで自分に起きた事象もそうです。

神の心は、自然法則の働きによって顕現して、私たちを成長進化する方向へと導いています。

今起きている事象、これから起きる事象は、良い方向に自分を向かわせていると、強く信じるほど、怖れは生じないようになります。



魂に宿る神の存在、宇宙を支配する自然法則の働きを信じるほど、怖れと言う苦しみから解放されます。



最後に、シルバーバーチの霊訓の1節をご紹介します。

あなた方はいったい何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神に、なぜ身を委ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心を我が心とするのです。心の奥を平静に、そして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。そうすれば自然に神の心が、あなたを通して発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば、何事もきっと成就します。