2024年11月17日日曜日

寿命は決まっている


小学生の夏休みに、公園でセミ取りをしたのを覚えています。

セミの寿命はせいぜい2週間です。

網の中でジージージーと暴れながらけたたましく鳴いている姿を見て、限られた時間を奪っているような気がして、子供ながらに罪の意識を感じました。


生き物には定められた寿命があります。

同じ哺乳類でも、フサオネズミモドキはわずか1ヶ月で、ホッキョククジラは200年以上も生きる個体があると言われています。



人間はどうでしょう?

生きている時間は人によって大きく違います。

100年を超える人もいれば、わずか数時間しか生きていない赤ちゃんもいます。

その違いはどこから来るのでしょうか?




生きる目的は、自らを成長させるためです。

目的を果たすと寿命が来るのは人間も同じです。




強く感じていることがあります。

それは寿命の短い人は、優しく、思いやりがあり、誰からも好かれる人が多いことです。

そんな人は霊的に成長しているため、地上で学ぶことも少なかったのではないかと考えています。



人間(魂)は多面的です。

どの面を磨かなければ(成長させなければ)ならないのかは、人それぞれ違います。

例えば、優しい面があるけれども強さに欠ける面もある人もいれば、強い面があるけれども優しさに欠ける面もある人もいます。

前者は強さを、後者は優しさを手に入れるための人生を歩むことになるでしょう。

目的を果たすために、それに相応しい出来事を経験することになります。




もし偶然に支配されているのなら、相応しい出来事を経験するまでに、気の遠くなるような長い時間が必要となるでしょう。

出来事は自然法則(因果律)の働きによって起こります。

無限の叡智の働きによって自然法則は創られています。

自然法則の働きによって、必要な出来事が完璧なタイミングで起きていると考えられます。

20年近く前に突如ヒーリングの力が出現し、霊的真理と巡り会い、絶望的な出来事が起きましたが、この人生を変える3つの出来事がわずか1ヶ月の間に最適な順番とタイミングで起きたので、シナリオ(計画)があることを確信しました。



人生のシナリオには、雲1つない晴れの時もあれば、嵐が吹き荒ぶ時もあります。

誰しも晴れを望みますが、それだけでは自分を成長させることができません。

もし成長できるのであれば、居心地の良い霊界を離れて地上に生まれる必要はありません。

晴れの日と嵐の日を織り交ぜて、シナリオは創られています。




起きた出来事は変えられません。

けれども、自分の心(意識)は変えることはできます。

成長するために起きている、必ず乗り越えられると強く信じれば、心の嵐は収まって来ます。

難しいでしょうが、感謝できるようになれば、心は晴れています。

そう変わることを期待して、出来事は起きていると思います。




すでに魂の多くの面が磨かれていて、いかなる出来事にも感謝できるような人は、長く地上にいる必要がありません。

そんな成長した人は、自分ではなく周りの人を成長させるために生まれて来るのかもしれません。

自分の存在を周りの人の魂に深く刻み込んで、成長を願いながら、早々と地上を去る人もいるでしょう。




人生最後の出来事が死です。

いつなのかは決まっているので、避けようがありません。

こうしていれば結果は違ったと悔いたりしますが、何をもってしても変えることはできません。




死には理由があります。

先に逝った人はその理由を知っているので納得しています。

地上の人に思い違いがあれば苦笑し、こちらに来れば本当のことが分かるのにと思っているでしょう。




地上にいるとどうしても地上を中心に考えてしまいます。

私たちの本来の住処は霊界です。

霊界で経験できないことを経験するために地上に生まれ、特別な時間を過ごしています。

目的を果たしたら霊界に戻り、経験が活かされる生活が始まります。

まだ磨かれてない面があることを自覚したら、再び地上に生まれることを志願するでしょう。

2つの世界を行き来しながら、私たちは完全(神)へと近づいています。




寿命は決まっていて、そこには神の完全なる公正が働いています。





2024年11月10日日曜日

霊界にいる人とつながるために


一昔前は、ガンになっても本人に余命は告げませんでした。

死は忌まわしく、恐いものに感じていた人が多く、ショックを与えないための配慮があったと考えられます。

今は、医者が余命を告げないと訴えられる可能性があります。

患者に知る権利があるにはもちろんですが、以前ほど死が恐いものに感じられなくなったせいもあるのかもしれません。



ここ十数年で「霊」や「魂」と聞いただけで拒絶反応を示した人が少なくなり、信じる人が増えて来たと感じています。

それを裏付けるデータがあります。

2017年のPew Research centerの調査によると、アメリカにおいて「無宗教」だがスピリチュアルな信念(魂の存在を含む)を持つ人が増えていて、特に1980年代生まれ以降の若年層(いわゆる「ミレニアル世代」や「Z世代」)では、「宗教を持たないが魂や霊的存在を信じる」人が急増していて、無宗教者の中でスピリチュアルな概念(魂の存在)を信じる割合は、過去15年間でおよそ30%以上増加したそうです。

死や霊的なことがタブーでなくなり、普通に語られるようになり始め、意識が変化しているのは確かなようです。



この変化は一過性のものではなく、永続的に進行して行きます。

何故なら、魂が存在しているのは紛れもない事実だからです。



魂の存在が信じられる人が増えて行ったらどうなるのでしょうか?

地上と霊界とのつながりが深まって行くと考えられます。



私たちは肉体を携えた魂です。

そのため霊的な感覚が生まれながらに備わっています。

ところが霊的な感覚は、肉体が持つ五感よりはるかに微弱です。

電車に乗った時に、合い向かいの長椅子に座っていた7人全員がスマホを見ていました。

日常生活において、スマホやパソコンを見たり、作業をするなど、五感を働かせて頭を使っている時間が極めて多いです。

五感を働かせて頭を使っている時は、相対的に霊的な感覚は弱くなっています。



もしそうならば、五感や頭の働きを弱めることで、霊的な感覚は強くなるはずです。

目や耳から入る情報が遮断される環境、静かな部屋で目をつむって、何も考えずにいるだけでも(五感や頭の働きは弱められて)霊的な感覚は強くなるはずです。

スマホやパソコンを見るのをやめて、心を空っぽにする時間を持つことは、霊的な感覚を保つために必要と思われます。



霊的な感覚が強くなっている時に、霊界とのつながりも深まっています。

つながりを通して、インスピレーション(思念)を受け取ることもあるでしょう。

インスピレーション(思念)を受け取ると、イメージとして浮かび上がることがあります。

ふと湧いたアイデアや概念は、霊界から届けられたものなのかもしれません。

私は眠りから覚める直前にインスピレーションを受け取ることが多いです。

忘れてしまうのを防ぐ、霊界にいる人の配慮と考えられます。



霊界の人が、地上の人に「うれしい」と伝えたいとします。

「うれしい」という言葉で伝えるのは、霊界にいる人にとって至難の業です。

言葉は五感を通して伝えるために存在する、地上だけの思念の代用品だからです。



「うれしい」の本質は想いです。

その想いは、霊的な感覚を通して伝えるしかありません。

霊的な感覚によって受け取った想いが、言葉に変換されなかったとしても、地上の人に何らかの変化をもたらすかもしれません。

何も考えていないのに、思わず笑みがこぼれた時は、うれしい想いが伝わって来たのかもしれません。

過去に地上の人を愛しむ霊界にいる人の想いが伝わって来た時のことですが、私には何の感情もないのにもかかわらず涙が溢れて来ました。

霊界にいる人の想い(愛)が、地上の人の涙によって表現されることがあります。



霊的なものが見えなくなる地上において必要なのは信じる心です。

「自分を愛してくれている存在といつもつながっている。」

そう信じることで、霊界にいる人とのつながりが深まります。

つながりが深まるほど、地上の人に想いを伝えやすくなります。



地上にいる人同士でも、言葉を超えて相手の想いが伝わって来ることがあります。

一卵性双生児の中には、相手の考えていることや望んでいることが分かる人たちがいます。

肉体だけでなく、魂も似通っているために同調しやすく、無意識の内に想いを交わし合っていると考えられます。



つながりが深まるのに従い、霊界の人から受ける影響も大きくなって行きます。

思いもよらずに行動してしまった、あるいは行動したくない衝動にかられた時は、霊界の人からの想いに知らずに反応している可能性があります。

良心の声に従わせるような想いを投げかけて来ることもあるでしょう。

霊界にいる人は、地上の人の成長を願っているからです。



霊的な能力がある人しか霊界からのメッセージを受け取れない時代から、特別な能力を持たない人でも受け取れる時代になって来ていると感じています。

地上全体が少しずつ霊的に進化して、霊界とのつながりが深まって来たからだと思います。



霊的な感覚は、五感とは別次元のものです。

いくら耳を澄ましても、想いを「聴く」ことはできません。

何も聴こえないからと言って、何も伝わって来ていないと判断するのは誤りです。

心が急に明るくなったり、内側から温かくなるのを感じたり、見守られているような気がした時は、言葉にならない想い(愛)を受け取っているのかもしれません。

そんな時は、次元を超えてつながっていること、変わらずに愛されていることを、霊界に向かって感謝しましょう。





2024年11月3日日曜日

持っているものを分け与える


霊界が最も憂いている地上の出来事は何でしょうか?

戦争と飢餓だと思います。

9人に1人が飢餓状態にあり、毎日2万5千の人が飢えで亡くなっていると言われています。

さまざまな要因により起こりますが、根本には霊的な知識の欠如があると考えられます。



聖書に書かれている「金持ちとラザロ」の話を思い出します。

豪華な衣装をまとい、毎日贅沢な生活を送っていた金持ちがいました。

そこに貧しく病気に苦しんでいたラザロが訪ねて来ます。

ラザロは食卓から落ちるパン屑を求めましたが、金持ちは無視し続けました。

やがてラザロと金持ちは亡くなります。

死後、ラザロは天使に連れられてアブラハムの元に行き、慰めを受けるようになります。

一方、金持ちは地獄で苦しみ、遠くに見えるアブラハムとラザロに助けを求めます。

金持ちは、自分の舌をラザロに冷やしてもらうことを願いますが、アブラハムは立場が逆転したことを説明し、両者の間には大きな溝があるため、行き来することはできないと告げます。

自分の家族に警告するためにラザロを送ってほしいと金持ちは懇願しますが、アブラハムはたとえ死者が復活して伝えても信じることはないだろうと断言します。(ルカによる福音書より)



地上に生まれると、五感を頼りに生きるようになります。

そのために、目に見えるものが全てと錯覚してしまいます。

お金よりも大切なものはないと思っている人は少なくありません。



目に見えるものには永続性がありません。

お金や肉体は消えてなくなる運命です。

目に見えないものに永続性があります。

生命の本質である魂は不滅です。

魂から生じている愛も不滅です。

愛より大切なものは、この宇宙に存在しません。



目に見えない法則(因果律)が働いています。

自分の行ったこと、言ったこと、想ったことに対して、相応の結果がもたらされます。

金持ちは、この(霊的な)知識がなかったために、死後に苦しむことになります。

持っている者は、持たざる者に分け与えなければいけなかったのです。



なぜ分け与えなければいけないのでしょうか?

肉体は独立して存在していますが、生命(魂)は霊的につながっています。

けれども、普段通りの生活をしていて、つながりを意識することはありません。

何かの出来事をきっかけにして意識することがあります。



2011年3月11日に東日本大震災が起きました。

津波により多くの人が亡くなり、街全体が流されました。

その後「絆」という言葉を良く耳にしました。

それは、悲惨な出来事を経験して、眠っていた魂が目覚めて、目に見えない霊的なつながりを意識するようになったからだと考えています。



他人の身体の痛みは分かりません。

けれども、心の痛みが分かる時があります。

想いを共有することもできます。

もらい泣きや、もらい笑いをしてしまうのは、霊的につながっているため、想いが伝わって来たと考えられます。



離れた場所にいても、ヒーリングはできます。

携帯電話同士が電子的につながっているので会話ができるように、人と人は霊的につながっているので力を伝えることができます。


地球は大きいです。

けれども無限大の宇宙から見れば点のような存在です。

宇宙の中で、地球は1つのユニットとして創られたと考えられます。

地球上の全ての生命は、全体のために何らかの役割りを果たしています。

それぞれが役割りを果たすことで、神が計画した通りに全体が機能します。

植物は動物のために、動物は植物のために、お互いに役割りを果たしています。

全体のために必要とされていない生命は地球に存在しません。



神の心は、全体を想う心です。

全体のために役割りを果たすことで、神の心を表現していることになります。

神の心を表現することで、ばらばらに存在している生命に調和が生まれて、霊的に一体となって行きます。



金持ちが苦痛を味わったのは、(全体のために)分け与えなかったのが、神の心に反した行いだったからです。

地上にはすべての人に行き渡るだけのものがあります。

現実はラザロのような人がたくさんいます。

持っている者が、持たざる者に分け与えていないからであり、同じ罪を犯していることになります。



霊的真理は、お金よりもはるかに価値のある財産です。

持っている者は、持たざる者に分け与えなければいけません。

持っていることで満足していると、金持ちと同じようになってしまいます。

地上を悩ましている出来事は、真理が広まれば根本的に解決されることから考えると、それ以上の罪になるのかもしれません。



真理を伝えたいと意念を発することで霊界が動き始めます。

必要としている人が導かれて来て、自身に起きていること話し始めるでしょう。

そんな時こそ、持っているものを分け与える絶好の機会です。



何よりも大切なのは、伝えたいと言う想いです。

想いがあれば、インスピレーションにより適切な言葉が自然に生まれることも多いでしょう。

それを素直に伝えれば良いのです。





2024年10月27日日曜日

予定している人生を歩むために


今から数十年前、都内の幹線道路を車で走っていた時のことです。

信号待ちで止まっている時、ふとルームミラーに目をやると、後続車がかなりのスピードで迫って来るのが見えました。

危ないと思った次の瞬間追突し、私の車ははじかれて前の車に追突し、前の車もはじかれてその前の車に追突しました。

いわゆる4重衝突です。

車は壊れましたが、むち打ちなどのケガは全くありませんでした。

そのことをある人に話したら「守護霊に護ってもらったのよ」と言われました。

霊の存在を信じていなかった私は、聞き流していました。 



霊的真理を知り、考えは変わりました。

その人の言っていたことは正しかったのです。

追突する直前、守護霊はインスピレーションを送ってルームミラーを見るように促していたと考えられます。

迫って来る後続車を見つけて身構えられたので、ケガをせずに済んだのです。



この世界を一人ぼっちで生きているのではありません。

私たちには守護霊が付いています。

地上の人に危害が加わらないように守りながら、予定されている人生を歩むために導いています。



守護霊が付いているのなら、もっとはっきりと存在を示してくれたら安心するのにと思う時があります。

守護霊は霊的な存在です。

そのために五感で認識することはできません。

地上の人も霊的な感覚を持っているので、守護霊の存在やそこから届くインスピレーションを認識できるはずですが、目や耳などの五感から入る情報が圧倒的に多いために、気付きにくくなっています。



仮に守護霊と意思の疎通がスムーズにできたとしたらどうでしょう?

きっと人生の指南役のような存在になるでしょう。

迷った時、悩んだ時、苦しい時など、守護霊に頼る人も少なくないと思います。



地上の人生は、地上の人のものです。

守護霊が干渉してしまうと、それは地上の人の人生にはなりません。

自分で決めて、自分で責任を取ります。

どのような決定をするのかを、じっと見守るしかありません。



守護霊は、地上の人が予定している人生を知っています。

首尾よく予定していた方向に進んで行くことができたのなら、成就させるために惜しみのない援助を始めます。

思念を送り、それを地上の人が受け取ることによって、前に進んで行こうとする力が湧いたり、勇気が出たりします。

間違った方向に進んでしまったのなら、これ以上進みたくない、戻りたくなるような思念を送り続けます。



地上の人の成長に重要な役割りを果たす人が現れたら、特別なものを感じさせるような思念を送るでしょう。

目に飛び込んで来た文字、気になる言葉があれば、守護霊によって印象付けられている可能性があります。

急に頭の中に浮かんだイメージや概念も、守護霊からの思念が地上の人に投影されたものかもしれません。

気のせいにしないで、そこから意図(目的)を感じ取るようにしましょう。

地上の人に危害が加わりそうな時は、胸騒ぎを生じさせる思念を送って、回避させようとしています。

そんな時は、一度立ち止まってみましょう。



自分の思考と霊界からのインスピレーションの判別はつきにくいかもしれません。

もし思考であれば、頭を使って考えているために、答えが出るまでに多少の時間がかかります。

それに対して、インスピレーションは電光石火です。

あるいは、忘れた頃に伝わって来ることもあります。

何も考えていない、感情にも捉われていない、空っぽの頭に思い浮かんだイメージや概念や言葉であれば、霊界からのインスピレーションと考えるようにしています。



守護霊を含む背後霊に、気にかかっていることはどうなのかと、想いを投げかけてみることがあります。

直ぐに「大丈夫」という言葉が思い浮かぶことがあります。

自分の希望的観測ではと思いましたが、守護霊には結果が分かっていますので、その通りになります。



地上の人のほとんどは、生まれる前の記憶を忘れています。

後悔のない人生を歩むためには、守護霊とのつながりを強くすることが望まれます。

そのためには、守護霊の存在を心から信じなければいけません。



信じることができたのなら、親愛の想いを守護霊に送りましょう。

「いつもありがとうございます」と言う感謝の想いでも結構です。

守護霊の愛により、地上の人は導かれています。

お互いの愛によって、霊的なつながりがさらに強くなり、導きやすくなります。



地上の人が失敗や挫折したとしても、守護霊は慌てることはありません。

何かを学んで、立ち直って行くと信じているからです。

それが生れて来た目的でもあり、成長につながるのを知っています。



守護霊にとって1番厄介なのは、地上の人の恐れや不安です。

思念を送っても遮られてしまうからです。



恐れや不安や心配が生じた時には、守護霊の存在を思い出しましょう。

そして、つながっていると強く信じましょう。

そうすれば安らかな気持ちを取り戻すことができるかもしれません。



現実を変える力は、守護霊にはありません。

けれども、守護霊から送られて来る思念には、地上の人の心のありさまを良い方向に変える力が秘められています。

心が急に明るくなったり、前向きになれたとしたら、それは霊界から届く想いが魂に届いていたのかもしれません。



守護霊と共に生きていることを忘れないで下さい。

信じて、親愛(感謝)の想いを向けていれば、霊界からの恩恵を受けやすくなり、予定している人生を歩んで行くことができます。




2024年10月20日日曜日

神に向かって成長を続ける



受験の時、神社にお参りに行き合格を祈願しました。

そうは言っても、神の存在を信じていたわけではなく、儀礼的に手を合わせていただけでした。




それから数十年後に霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に出会いました。

「神は人間的存在ではありません。法則です。それが全生命を支配しているのです。法則なくして生命は存在しません。」

それまで抱いていた神のイメージとは全く違うものでした。




宇宙は法則の働きによって秩序と公正が保たれています。

太陽の周りを地球が回っているのも、水が100℃で沸騰するのも法則の働きによるものです。

うれしいと笑顔になるのも、悲しくなると涙が出るのも法則の働きによるものです。

私たちが地球に生まれて来たのも、死んで行くのも法則の働きによるものです。

起きていることに偶然は存在しません。




神に向かって祈る人は多いです。

その祈りが法則に適っているかが問われます。

地上的な欲望を満足させる祈りは無意味です。

霊的な成長に結びつく祈りであれば届きます。

神社にお参りに行った時に「役立つために努力する力を与えて下さい」と祈るのが正解だったのかもしれません。

神は法則の働きによって、進化成長して行く方向へと私たちを導いているからです。




人間と神との関係について、シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

人間は霊的存在であり、神の分霊であり、永遠に神とつながっている。私たち霊団が携えてくるメッセージは、いつもこれだけの単純な事実です。神とのつながりは絶対に切れることはありません。時には強められ、時には弱められたりすることはあっても、決して断絶してしまうことはありません。人間は向上もすれば、堕落もします。神のごとき人間になることもできれば、動物的人間になることもできます。自由意志を破壊的なことに使用することもできますし、建設的なことに使用することもできます。しかし何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人間に宿っております。

神は独立した存在ではありません。

私たちも神の一部であり、神とつながっています。




数日前の朝のことです。

犬の散歩をしていたら、近所に住む一人暮らしのおばあさんが庭の植え込みの中に倒れていました。

意識はありましたが、受け答えは緩慢であり、手も冷たくなっていたので、直ぐに救急車を呼びました。

倒れているのを見つけた時に「何とかしなければ」と思いました。

私にも良心があるからです。

良心とは魂に宿る神です。

神が取るべき行動を私に指し示していました。



宇宙は目に見える物質と目に見えない非物質により構成されています。

どちらもが神的なエネルギーによって創られていて、神の法則の働きによって経綸されています。

宇宙全体が神です。

私たちは全体を構成する一部として、神とつながっています。




神は完全なる愛であり、完全なる叡智です。

私は神の一部であるはずなのに、あまりに未熟です。

溺れている人がいて、助けようと良心(神)が訴えていても、恐れを抱いて行動に移すのを拒んでいる自分がいます。

私は神を宿しています。

けれども、地上では未熟な媒体(自我)が存在し、神の心を表現するのを妨げています。




死んで霊界に行くと、肉体はなくなります。

意識は全体へと向かい、神とのつながりを実感するようになります。

神の心を表現するのを妨げていた、未熟な媒体(自我)から生じていた感情はなくなります。




地上を生き、霊界に帰るのを繰り返しながら、霊的に進化して行きます。

進化に伴って表現媒体は精妙になって行き、より忠実に神の心を表現できるようになります。

さらに精妙になると形態を取らなくなり、光り輝く存在となります。




その点について、シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

質問「最後にはどういう形態になっていくのでしょうか?」


答え「美はどういう形態をしているのでしょう。愛はどういう形態をしているのでしょう。光はどんな形態をしているのでしょうか」

質問「形態を超越してしまうと色彩が認識の基本になるのでしょうか?」

答え「その通りです。ただし地上世界の基本的色彩となっているものが幾つかありますが、私たちの世界にはあなた方の理解力を超えた別の色彩の領域が存在します。私たちは高級界からの霊の姿が発する光輝、そのメッセージとともに届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することができます。形態というものがまったく無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです。」


神界の存在は形態のない霊であり、シルバーバーチもその1人だと思います。


霊界にいる者にとって、神界の存在は光り輝いていて、憧憬の念を抱いているのかもしれません。





例えが適切かどうか分かりませんが、私は玉ねぎを思い浮かべます。

魂を中心(核)にして、幾重にも媒体が包み込み、霊的な成長に伴いその1つ1つが剥がれ落ちて行き、内部に宿る神が徐々に露わになって行く、それが生命が辿る行程と考えています。




人間には、成長しようとする根源的な欲求があります。


その欲求を満たすために地上に生まれて必要な経験をしています。


神界にいるであろうシルバーバーチはこう励ましています。


「ご自分の人生を振り返ってごらんなさい。最大の危機、最大の困難、お先真っ暗の時期が、より大きな悟りを開く踏み台になっていることを知るはずです。日向でのんびりと寛ぎ、何の心配も、何の気苦労も、何の不安もなく、面倒なことが持ち上がりそうになっても自動的に解消されて、あなたに何の影響も及ぼさず、足もとに石ころ一つなく、自分でやらねばならないことが何一つないような人生を送っていては、向上進化は少しも得られません。困難に遭遇し、それに正面から立ち向かって、自らの力で克服していく中でこそ、成長が得られるのです。」




生まれる前より強く優しくなるために、地上でさまざまな経験をしています。

艱難辛苦を味わった人ほど、神の心が表現できるようになり、魂は光り輝いているはずです。




2024年10月13日日曜日

この戦争を終わりにするために



今、中東で起きていてる戦争が拡大しそうです。

この戦争は、私が生まれる前から続いています。

どちらが正しい悪いと単純に決め付けられないこと、いくつもの原因と結果が折り重なっていることが、この戦争が終わらない理由になっていると思います。



イスラエルに住む人の多くはユダヤ教徒です。

ユダヤ教の聖典(出エジプト記)には「もし損害があれば、命には命を、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を」と書かれています。

自分が受けた危害と同じものを相手に与えるという意味だと思っていましたが、実際には損害を受けた分を公正に保証してもらうという意味合いが強いようです。

ところが、今起きていることは、目を傷つけられたら、相手の目だけではなく歯も耳も鼻も傷つけようとしているように感じられます。



ユダヤ人には、ホロコーストで何百万人も殺された忌まわしい過去があります。

その時に誰にも助けてもらえなかったという悔しい思いがあります。

傍目からは過剰な攻撃に見えますが、自分の身は自分で守るしかないという意識が強く、それを当然と考えているのかもしれません。

やり返さなければ、相手の為すがままになってしまうという強い怖れが、このような行動に駆り立てているのかもしれません。



今から2000年前、イスラエルの地はローマ軍の支配下にありました。

抑圧されたユダヤ人は、怒りや憎しみが渦巻いていたでしょうが、強大なローマ軍の前に為す術がありませんでした。

昔のユダヤ人は、今のパレスチナ人の境遇と似ている気がします。



そんな時代に、イエス・キリストが現れました。

「汝の敵を愛せよ」

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」と言いました。

当時のユダヤ人にとって、これまでとは全く違うこの教えは、極めて新鮮に感じられたと思われます。



現実に、このような対応をするのは極めて難しいです。

けれども、やられたらやり返すのでは、さらに傷つくだけです。

報復の連鎖から抜け出すためには、この「愛」の精神がどうしても必要となって来ます。



人は自分が受けた被害にばかりに目が行ってしまいます。

相手はどのような理由でその行為に及んだのかを知ろうとはしません。

そこには、大切な人を殺された怒りや憎しみや悲しみ、住む土地を追われた絶望があるはずです。

激しい憎悪を感じる相手にも、自分たちと同じ感情があり、それによって突き動かされている同じ人間であることに気付くでしょう。



ユダヤ教もイスラム教も、神は唯一絶対で全知全能の存在と言っています。

それ自体は間違っていませんが、人間から超越していて、全く別の存在と考えるのは誤りです。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

私たちもミニチュアの神としてもちろん大いなる慈悲を宿してはいるのですが、地上の人間性という覆いをかぶっているがために、それをきわめて不完全にしか表現できていないからです。



全ての人間に神が内在しています。

地上の人間は、内在する神性を表現しようとする存在です。

けれども、表現媒体(肉体や精神)が未熟なため思うようにできません。

神性は閉じ込められ、エゴから生まれる怒りや憎しみの感情に支配されています。

その感情を表現してしまうと、相手にも同じ感情が生まれ、エゴの連鎖が始まります。



人を傷つける行為は、神を傷つけようとする愚かな行為です。

人を傷つけた者は、神の法則(因果律)によって、自らが傷つきます。

憎しみに燃えて、やり返さなくても、宇宙を支配している神の法則により、等価の報いを受けるようになっています。



相手を愛する行為は、神を愛する行為です。

敵を愛する行為は、最大限に神を愛する行為です。



あらゆる感情に優越する力が愛です。

エゴから生まれる感情は、愛によって打ち消すことができます。

愛を表現することで、エゴの連鎖は止められますが、少なからず自己犠牲が伴うので、簡単ではありません。

それでも、許すことで愛を表現しなければ、この戦争を終わりにすることはできません。

愛を表現することのできた者が真の強者であり、勝者であると考えています。



私はミサイルが爆発した音を聞いたことはありません。

住む家を失ったり、戦争で傷ついた人を直接見ることもありません。

死の恐怖を感じたこともありません。

戦争を止めさせるために、何かできるわけでもありません。

けれども、同じ地上を生きている同胞として、想いを共有しようと努めることはできます。



肉体を使って意念を具現化しているのが地上の人間です。

意念はエネルギーです。

1人の人間から放たれる意念は弱くても、より多くの意念が集まれば、この物的世界においても具現化する方向に向かって動き出すと信じています。

1947年にインドはイギリスから独立しました。

ガンジーが放つ「非暴力と不服従」の意念は神の法則に反することなく、その意念に多くの国民が同調することで、独立を勝ち取ったと考えられます。

同じ意念を発することで、世界は具現化する方向へと変わって行きます。



多くの人が神に平和を祈っています。

戦争の最中にいる人は「もう終わりにして欲しい」と切望しています。

もし、世界中の人たちが想いを共有し「この戦争を終わりにする」という同じ意念を一斉に放つことができたとしたら、具現化する方向に動き出すと思っています。

意念は地上的労苦の代用とはなりませんが、何もできない現状において、有効な手段になり得ると考えています。


2024年9月29日日曜日

役割りを果たすために生まれて来た


ちょっとグロテスクに感じる方もいるかもしれませんが、私はこんな光景を毎日眺めながら仕事をしています。



下あごの右側の奥歯(第1大臼歯)のクローズアップ写真です。

矢印に示す通りに、歯には何本もの溝があり、その1つ1つに名前があります。

それでは、この溝は何のためにあるのでしょうか?

溝があることによって、上下の歯は緊密に噛み合わさり、食べた物は効率良く粉砕されるようになっています。




のどの入り口には、口蓋垂(のどちんこ)という組織があります。

ある人が、要らないと思い、手術をして切り取ってしまったそうです。

そうしたらどうでしょう? 食べた物が気管に入りやすくなり、むせるようになってしまったそうです。

何のためにあるのか分からない組織ですが、誤嚥を防ぐという大切な役割りがあったのです。



これらの人体の構造は遺伝子によって決められています。

一人の人間の細胞内にある遺伝子をつなぎ合わせると、太陽系をはるかに超える長さ(740億km)になります。

そんな長大かつ精緻な遺伝子が、偶然が重なって出来上がるはずはありません。

無限なる叡智によって設計され創られたと考える方が、遥かに自然です。

人体に無駄なものがないのはそのためです。



生命が生まれるのも死ぬのも自然現象の一環です。

自然現象は自然法則の働きによって起こります。

地球上には800万種以上の生命がいると言われています。

この世に存在している全ての生命は、無限なる叡智によって創られた自然法則の働きによって生まれて来ています。

生命に無駄なものは存在しません。



少し強引かもしれませんが、地球上の生命を人体に見立てたとします。

人類は人体の一部の組織であり、個々の人間は組織を構成する細胞と言えます。

その他の大部分の細胞は、人類以外の生命によって構成されています。

それぞれの細胞が協調的に働くことによって、生命活動が営まれています。



全ての細胞は同じ血液が流れることによって生かされているように、全ての生命は同じ生命力が流れることによって生かされています。

生命とは霊です。

全身の細胞は、同じ血液が流れてつながっているように、全ての生命は同じ生命力が流れて「霊的」につながっています。



それぞれの細胞に何らかの役割りがあるように、それぞれの生命に何らかの役割りがあります。

必要とされて存在していますが、全体があまりにも大きく、お互いの関係が分からないためにそう思えません。



自然法則の働きの中に、神の心が顕現しています。

神の心の根底にあるのは「愛」であり「調和」です。

全体のために役割りを果たそうとする力が愛です。

愛は魂に内在する神から発せられています。

愛を表現することによって、全体に調和がもたらされます。



悲しいことに、地球で最も進化している人間が調和を乱しています。

同胞(人間)と争い、他の生命を虐げています。

まるで、周囲の組織を押しのけて増殖する利己的なガン細胞のように感じられる時があります。

地球温暖化の影響で餓死しかけているシロクマ


なぜそのようなことが起きるのでしょうか?



全体が見えていないからです。

生命のつながりが分からないからです。




地球は強烈なオーラを放つ1つの生命体のように見えます。

この星に生まれて来たのは偶然ではありません。

自らが成長する最適な場所として選んでいます。



全体のために役割りを果たすことで、個々は進化成長します。

難しいことではなく、良心に従って行動することで、役割りを果たしていると考えています。

それにより調和が促され、霊的に美しい世界となって行きます。



2024年9月22日日曜日

霊的真理を伝える


大学時代の友人たちと一泊二日で温泉に行って来ました。

山間の一軒宿で、湯舟に浸かりながら旧交を温めることができました。

帰りは隣県に住む友人の車に乗せてもらいましたが、時間があったので思い切って霊的真理の話をしてみました。

その友人は、20年前の私と同じく、霊的なことに関心はありません。


20年近く前、ある日突然、病気を癒す力が出たことから話を始めました。

縁のある人に無報酬でヒーリングを行っていること、医学的に説明できない治癒が起きることを話しました。

迷いましたが、霊界にいる人からのメッセージを伝えていることも話しました、

具体例があった方が良いと考え、友人も知っている交通事故の被害者のご両親に、お子さんからのメッセージを受け取り手紙で伝えたこと、しばらくしてご両親は加害者を許すことができたことを話しました。

人は死んでも生きているのは、紛れもない事実です。

この世に生まれて来たのは自分(魂)を成長させるためであり、困難や障害を乗り越えること、他者に奉仕をすることで成長すると伝えました。

起きることに偶然はなく、何かしら原因(目的)があるという「因果律」についても話をしました。

望んでもいなかったのに、霊的な力が与えられたのは、この真理を伝えるためだと話しました。



たくさんのことを話しましたが、車中で友人は静かに耳を傾けてくれました。

話し終わると、肯定も否定もせずに「それも1つの考えだな」と言いました。

昔の私を知っている友人は、きっと意外に思ったでしょう。

嘘を付く人間ではないが、にわかには信じることはできない、やり取りをする中でそんな想いを感じました。

そこで「真実かどうかは、いづれ(死んだら)分かることだから、心の片隅にでも置いといて」と言いました。

ひたすら患者さんのために働いて来た人間なので、「今まで通りに仕事を精一杯していれば間違いはないよ」と最後に伝えました。



霊的真理を伝えた時に、友人と同じような反応を示す人が少なくありません。

霊的なこと(スピリチュアル)に興味がある人はたくさんいます。

けれども、霊的真理を受け入れられる人は限られてしまいます。

生きて行く上で、そこまで必要としていないのです。



「生命の本質は魂」

これは真理の根幹を為すものの1つです。

必要としていない人にとって、この真理は大きな意味を持っていません。

けれども、必要としている人、例えば最愛の人を亡くした人にとって、極めて大きな意味を持っています。



人は必ず死にます。

誰もが経験することなのに、死んだ後の世界(あの世)について正確に知っている人は少ないです。

知らなくても生きて行けるからです。

それでも、知っておいた方が、死が恐くなくなり、この世に生まれた意味も分かるようになります。



あの世では肉体がなくなるので、食べて行くために働く必要もなければ、病気になる心配もありません。

周りにいるのは、(魂が)似通った人たちです。

人間関係の煩わしさや悩みから完全に解放されています。

例えてみるのなら、相性の良い気心の知れた人と、好きなことをして1日中過ごしているようなものでしょうか。

望めば、それがずっと続きます。



そんな居心地の良い世界を離れて生まれて来たのは、この世でしか果たせないことがあったからです。

あの世で出来ない経験を、この世ですることにより、学び成長するためです。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「苦しみはなくてはならない大切なものなのです。なぜなら、それを通じて魂の目が開かされ、隠れた力が呼び覚まされ、その結果として霊的に、時には身体的に、いっそう強力になってまいります。そうなるべきものなのです。多くの人にとって苦しみは、全人生をまったく別の視点から見つめさせる大きな触媒となっています。」

楽しみを求めて生きている人にとって、苦しみの意味など知る必要がありません。

必要のない人にいくら力説しても、きついたとえですが「豚に真珠」です。



そんな人でも、知りたくなる時が来るかもしれません。

自身に苦難が降りかかり「何でこんな目に遭わなければいけないんだ?」と自分に問うようになった時です。

この世の人は例外なく、生涯に一度は必ず魂が目覚めるチャンスに巡り会えるようになっています。

いくら考えても解決できず、徹底的に追い詰められて、魂が目覚めて、問いに対する答えを見つける人もいるでしょう。



「往々にして最大の危機に直面した時、最大の難題に遭遇した時、人生で最も暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台になっていることを発見されるはずです。いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みもなく、困難が生じても自動的に解決されて何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ1つ転がっておらず、征服すべきものが何1つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを1つひとつ克服して行く中にこそ得られるのです。」(シルバーバーチの霊訓より)

真っ暗闇の経験をして、霊的真理に辿り着き、乗り越えて来た人は、この文章の意味が理解できると思います。



全ての真理は、魂に仕舞われていると思います。

この世の経験と引き換えに、必要としている真理が内から引き出されると考えています。



主要な真理を網羅しているのが、シルバーバーチの霊訓だと思います。

経験を通して1つの真理を受け入れることができたのなら、他の真理も受け入れることはできるはずです。

そうすれば、無用な経験をしなくても済みます。

そんな親心から、この世に霊的真理が行き渡ることを霊界は願っていると思います。




2024年9月15日日曜日

変わらなければいけないところが苦しみを生みだしている


中学校の同窓会の打ち合わせ会に出席しました。

卒業して40数年ぶりに会い、すっかり変わり誰だか分からない人もいましたが、何故かしゃべり方だけは当時のままの人が多かったです。

生意気だった級友も、年月を経て丸くなっていました。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「我々は皆人間的存在です。と言うことは内部に不完全であるが故の欠点を宿していると言うことです。もし完全であればあなたは地上に存在せず、私は霊界に存在しないでしょう。」

私たちは、自分を成長させるために地上に生まれて来ていますが、それは霊的な欠点を正すためと言えるのかもしれません。



欠点なのか?それとも個性なのか?

霊的法則によって判別されると思います。

例えば、わがままな人がいたとします。

わがままは利己的であり、神の心(法則)に反しているので、個性ではなく欠点です。

従って、正すべきものと言えます。



子供の時、自我は未発達です。

持って生まれた性分が露わになり、わがままな人(魂)は、わがままなまま自己表現を始めます。

わがままな自己表現をすると、周りの子供たちから、嫌われたり、避けられたりします。

無視されたり1人ぼっちになるの誰でも嫌で、仲良くしたいです。

いけないことに気付くと、それを正そうとします。



不寛容であることも、霊的な欠点です。

人のミスを許せない不寛容な人は、因果律の働きにより、自分がミスをした時に許してもらえなくなります。

痛い思いをすることで、良くないことに気付いて、正す人もいるでしょう。

地上では、自分の欠点が表に出ると、周りの人の良心(神)が反応して、因果律の働きにより苦痛を伴う結果が返って来ると考えられます。



表に出でなければ良いと言うわけではありません。

不寛容さから生じた怒りなどの感情が内に溜まり続けると、心身に変化が生じて病気になることがあると考えられます。

病気の苦痛により魂が目覚めて、それまでの生き方を正す人もいるでしょう。



臆病なのも、個性ではなく欠点です。

その多くは身の可愛さから出るものであり、利己性を帯びています。

臆病になり現実から逃げてしまうと、成長する機会を逃してしまう可能性があります。

「愛が倒錯したのが憎しみであり、勇気が倒錯したのが臆病です。どちらも同じ棒の両端を表したものです。(中略)臆病を勇気に、憎しみを愛に変えることが出来るのです。」とシルバーバーチは言っています。

目の前の現実に立ち向かうことで、勇気に変えて行くことができると考えられます。



欠点が表現されても、地上ならではの要因によって、苦痛を伴う経験をしないで済む場合があります。

社長がわがままな言動をしても、それを咎める社員は少ないでしょう。

絶対的な力を持っていれば、自分に返って来る結果(苦痛)を封じ込めることができます。

権力や地位や富を持つことによって、欠点が増長して行く可能性があります。



欠点が正されないこともあります。

自我が発達して来ると、自分の欠点を意識して隠そうとする人もいます。

欠点を隠してしまえば、苦痛を伴う経験することはありませんが、正すことも難しくなります。

良くも悪くも、ありのままの姿で生きるのは、自分を変えるために必要なことなのかもしれません。



自分の欠点が表現されて、苦痛を伴う結果が返って来たとしても、エゴが強いとそれを受け入れようとしません。

適当な言い訳や理由を考えて、正当化しようとします。

どんなに正当化しても、神の法則は誤魔化せません。

残るのは、変わることができなかったという事実です。

そのいきさつは魂に刻まれ、人生を振り返った時に思い出されます。

あの時、素直に受け入れていればと、後悔することになります。



自分の欠点を指摘されると、怒り出す人もいるでしょう。

怒りが生じると、変わろうとする意志(力)が削がれてしまいます。

正面から受け止めて、どうあるべきかを、自分自身に問い質さなければいけません。



自我を働きを鎮め、内なる声に従うことで、私たちは望ましい方向に変わって行きます。

内なる声に従う時に、怖れや不安が生じることが多いです。

神(法則の働き)により、良きに計られると強く信じて進んで行くしかありません。



他者には自分が望むように変わってもらいたいのに、自分は変わりたくないという身勝手な生き物が人間です。

変わりたくない人間を強制的に変えるものが、地上での経験であり、それに伴う苦痛です。



生きて行く上で、苦痛が生じているのならば、どこかに変わらなければいけないところがあるのかもしれません。

変わることができれば、苦痛が生じている意味はなくなり、解放されるはずです。





2024年9月8日日曜日

この世界は良い方向に向っている


小学生の頃でしょうか、歩行者専用信号が青の時にメロディーが流れるようになりました。

それ以前は、目の見えない方がどのようにタイミングを見計って渡っていたのか、想像もつきません。

駅のホームや歩道には、黄色の点字ブロックが埋め込まれて行きました。

視覚に障がいのある方にとって、外出は命の危険を伴うものでしたが、安全に配慮されるようになって来ました。


昔は、女性は結婚して職場を離れて家庭を守るのが当たり前でした。

今は、女性がトップに就いている企業も多くなりました。

近いうちに女性の首相が誕生するかもしれません。



残念なことに、人種差別は依然としてあります。

ただ100年前と比較すれば、隔離や法律によるあからさまな差別をしている国は見られなくなりました。



悲しいことに、今も戦争は続いています。

ただ世界中を巻き込むような大きな戦争は80年近く起きていません。



この変化は偶然ではなく、自然法則の働きによるものです。

自然法則を創ったのは「神」と呼ばれる存在です。

神の心が自然法則の中に顕現しています。



私たちの魂にも神が宿っています。

より多くの神性が表現されるほど、この世界は良い方向へと向って行きます。

エゴが大きくなり神性が閉じ込められてしまうと、調和が乱れて争いが起こります。

争いによる苦痛を味わうことで魂が目覚め、閉じ込められていた神性が表に出て、平和な世界を築こうとします。

一進一退を繰り返しながら、平和で平等で優しい世界になって行きます。



一昔前は、死は怖く、忌まわしいものでした。

臨死体験者により、死後がどのような世界なのか語られるようになり、恐いものではなさそうだと思う人が増えて来ました。



霊的なことはオカルトの範疇でした。

話題になるのは、(地上近くにいる低級霊が関係している)心霊現象のことばかりでした。

今は、私たちを良い方向に導いている守護霊や高級霊の存在についても語られるようになりました。



死は人間の本質である魂が肉体から完全に分離する現象です。

愛情で結ばれた人と死後に再会できることが、多くの人に認知されるようになりました。

魂の存在を信じない人は相変わらずいますが、そんな事実を自然に受け入れられる人が増えて来たと感じています。



留まることなく、世界は変化しています。

そして意識も変化しています。

目に見えない世界に意識を向ける人も多くなりました。

それに伴い、真理を求めている人も多くなっています。

求めている人に、対話やネットや書籍を通して伝えることになります。

地道な行程のため、世界中の人に行き渡るのには、膨大な年月がかると思っていました。



シェルドレイクの仮説」という論文がイギリスで発表されました。

個人の記憶や体験が、時間と空間を超えて他者に伝搬し影響を与えると言うのが、その内容の一部ですが、発表当時は科学的根拠のない学説と非難されました。

1983年、テレビ局の協力により大規模な検証実験が行われましたが、立てられた仮説の通りの現象が起きました。

唯物的な科学では説明できませんが、霊的な観点(生命のつながり)から考えると、不思議なことではありません。

この仮説が正しければ、ある一定数以上の人に真理が伝わると、どこかでブレークスルーが起こり、急速に広まって行く可能性があると言うことになります。



魂に準備が整わないと真理は受け入れられないので、ブレークスルーが起きる可能性は高くないのかもしれません。

ただ、真理が広まることで、全体の意識が変わり、この世界が良い方向に向って行くのは確かです。

1人でも多くの人に伝えようとする意志を持ち続けることが大切です。






2024年9月1日日曜日

何のために生きているのか?


若い時に「何のために生きているのだろう?」と、ふと思うことがありました。

その答えは見つからないまま、日々の生活に追われて生きて来ました。



20年近く前に、ヒーリングの力が突如出現しました。

その力の正体を知ろうとしていたところ、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に出会いました。

そこに、見つからなかった、生きる意味の答えが書かれていました。



もし、この世しかないのであれば、生きる意味を見つけるのは困難です。

死んで無になってしまうのであれば、何をしても無意味に思えてしまいます。



無になるのは肉体だけです。

生命の本質である魂は変わりなく存在しています。

意識も失われません。



生きる意味は、自分(魂)を成長させることにあります。

死ぬと霊界に行きます。

肉体はなくなり、周りにいるのは自分と似通った人たちです。

肉体的、精神的な苦痛から解放された快適な世界なのですが、そこに留まっていては大きな成長は望めないようです。



シルバーバーチの霊訓には、地上生活の意味がこう書かれています。

「あなた方には、まだまだ発揮されていない力ーそれまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されているのです。それは楽な人生の中では、決して発揮されません。苦痛と困難の中にあってこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことが出来ないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないのです。それ以外に方法がないのです。」

快適な霊界を離れて生まれて来たのは、この世でしか経験できないことを経験して、学び成長するためです。



何故、そこまでして成長しなければならないのでしょうか?

何か目的があるはずです。


知らない人にとってスマホは、薄べったい物体にしか見えません。

実際は、目に見えない電子的なネットワークでつながっています。

私たち人間は、独立した存在のように見えますが、それは物質的次元の話です。

霊的次元から見ると、目に見えないエネルギーによって、全体(宇宙)とつながっています。



人は人と関わり合いながら生きています。

関わり合っているとは、全体とつながっていることを意味します。

私は誰とも接していないので、関わっていないと言う人もいるでしょう。

そんな人でも、誰かが作った家に住み、誰かが作った物を食べています。

そう言うと、無人島で家を建て、そこで自給自足の生活をしていれば、関わっていないと主張する人もいるでしょう。

そんな人でも、魚や植物を食べています。

人は生命との関わりなしに、地上を生きて行くことはできません。



人は全体のために、何らかの役割りを果たしています。

多くの人は、社会や家族のために働くことで役割りを果たしていますが、何もできなくてもいるだけで、役割りを果たしている人もいます。

体を動かすことができない人は、生きて行くために世話をしてくれる人が必要です。

世話をする人は、その人がいることで、自分の役割りを果たすことができます。

生命のつながりがりを通して、自分の役割りを果たすことができます。



地上では、争いが絶えることがありません。

根本原因として同胞意識の欠如があります。

同じ国、同じ人種、同じ宗教の人など、自分と共通しているものを持つ人のことを同胞と言い大切にしようとします。

一方、違う国、違う人種、違う宗教の人を自分たちと区別して、時に排除しようとします。



人類全体は同種の生命であり、同じエネルギーでつながっているので同胞です。

そのことが全く分かっていないので、争いが起きてしまいます。

同胞を傷つけるのは、自分を傷つけるのと同じであり、因果律の働きにより、痛みを伴う結果が返って来ます。



生命とは魂です。

魂には神が宿っています。

魂の成長とは、神の心である神性をより発揮するようになることです。



神性の神髄は「愛」です。

戦争、差別、貧困、環境破壊など人類を悩ましている問題は、一人ひとりが神性(愛)を発揮することで全て解決します。



個は神性を発揮することで成長します。

個が成長することで、全体が成長します。

全体が成長することによって、さらに多くの神性が発揮されるようになり、平和で平等な望ましい世界へと変わって行きます。



自分だけが幸せになろうとしても限界があります。

個は全体と霊的につながっているからです。

私たちが成長を続けて行った先には、慈しみ合う悦びに満ちた世界が待っています。

そんな世界で生きることこそが、真の幸せです。




全体のために何をすべきかを考えなければいけません。

思い付かないのであれば、良心に従って生きることです。

自分の中にある神性は良心となって顕在しているからです。




何のために生きているのか?
 
自分を成長させると同時に、良心に従って生きることで、今いる世界を望ましい方向へと変えるためと言えます。




2024年8月25日日曜日

本当の自分の想い


霊界は思念の世界と言われています。

地上にいる私たちには理解しがたい現象が、そこでは日常的に起きています。

その1つとして、思念が立ちどころに具現化することが挙げられます。

例えば、車に乗りたいと思えば目の前に車が現れ、食べたいと思えば食べたいものが目の前に現れます。

そして、想ったこと(思念)は波動となって相手に直接伝わります。

まるでSF映画の世界のようです。



地上では、想うだけでは何も始まらず、何も伝わりません。

物質(肉体)を介して表現しなければいけません。

地上は労力を使って自己表現しなければならない煩わしい世界ですが、そこに生きる意味があると思います。



そんな世界に生まれて来たのは、自分を成長させるためです。

降りかかる困難や障害を乗り越えることや、人や動物や社会のために何かをすることで成長します。

生きている限り、困難や障害が次々と生じます。

仕事や家事など、誰かのために何かをしなければ生活が成り立ちません。

今いる環境を精一杯生きているだけで、自然に成長していると思います。



地上の人間は、肉体、精神、魂(霊)により成り立っています。

肉体と魂の間に精神(地上的な自我)が介在し、自己表現しています。

地上的な自我は、肉体と深く結びついていて、安全に快適に生きること志向しています。

崖の上に立つと怖くなるのは、地上的な自我が肉体を守ろうとしているからです。



霊界に行くと、肉体はなくなり霊体になります。

魂と霊体の間には霊的な自我が介在し、自己表現するようになります。

霊的な自我は、魂と深く結びついていて、神の心(神性)を表現しようとします。



地上の人間には肉体と目に見えない霊体があり、地上的な自我と霊的な自我の両方が存在しています。

霊的な自我から生じた思念は、地上的な自我によって具体化されて、肉体で具現化されています。

その行程が円滑に行われているのが健全な状態です。


福島原発を襲った津波 出典:朝日デジタル
2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。

福島原発は津波に襲われて、機能が停止しました。

高熱を発している核燃料を冷却できないと、炉心溶解(メルトダウン)を起こし、放射能汚染を引き起こします。

それを防ぐためには、一刻も早く海水を注入して冷却するしかなく、原発の所長は会社の上層部にそのことを伝えます。

けれども、海水を注入すると廃炉になってしまうために許可されません。



良心に従って海水を注入することを、所長の霊的な自我は強く訴えていたと考えられます。

けれども、地上的な自我は会社組織における自分の立場を考え、上層部の命令に従おうとします。

命令を無視すれば会社から責任を問われてをクビになる可能性があり、命令に従えば深刻な放射能汚染を引き起こします。

両者の自我の間で、激しい葛藤が起きていたと想像されます。

翌日になって、所長は上層部の命令を無視して海水を注入します。



所長ですが、事故から1年後に脳卒中となり、2年後には食道がんになり、58歳の若さで亡くなりました。

唯物的な医学ですが、近年になり精神が肉体に及ぼす影響を認めるようになったので、病気になった原因を、事故当時のストレスと片付けるかもしれません。

そうではなく、内部で激しい葛藤が起きて、表現できない思念が蓄積したために病気になったと私は考えています。



思念はエネルギーです。

霊的な自我から生じた強い思念が、地上的な自我に遮られて表現できずに内部に滞り、それが閾値を超えると、因果律の働きによって肉体を変化させるエネルギーになることがあると考えています。

先程の原発の所長は極端な例かもしれませんが、社会のために貢献したいと思っている人が、自社の利益しか考えない会社で働いていると、体調を崩したり、病気になることは良くあると考えられます。

もし私が公務員になって保健所に配属され、動物たちを殺処分するガス室のボタンを押す仕事を任されたとしたら、きっと病んでしまうでしょう。

現代社会において、本当の自分(霊的な自我)の想いに忠実に生きられずに病気になる人は少なくないと考えています。



地上の人生には、学び成長するための計画があります。

誰かのために何かをしたり、困難や障害を乗り越えようとするのは、霊的な自我の働きによるものです。

一方、お金を儲けて贅沢に暮らそうとしたり、安楽な方向に進もうとするのは、地上的な自我の働きによるものです。

地上的な自我の働きが強くなり過ぎてしまうと、生まれる前に立てられた計画から逸れて、学びや成長とは関係のないことに貴重な地上の時間を費やしてしまう可能性があります。



ガンになり医者から見放された人の中に、医学的に説明のつかない治癒をした人たちがいます。

その人たちに共通しているのは、今までの生き方や考え方が根本から変わったことです。



病気は自然現象です。

偶然はなく、そこには自然法則の働きがあります。

神の意図が、病気に隠されていると思います。



病気により、肉体は苦痛を味わい、精神は追い詰められます。

そして、それまで眠っていた魂が目覚めます。

地上的な自我に代わって霊的な自我が主導権を握り、計画されていた人生を再び歩み始めます。

病気が消滅したのは、本来の姿を取り戻したからです。

本当の自分の想いに気付かせてくれた病気に、心から感謝している人も多くいます。



神の心は愛です。

人を苦しめたり痛めつけたりするためではなく、自然法則の働きを学び、成長する方向へと導くために、病気は創られたと考えられます。





2024年8月18日日曜日

残された人のために生まれて来た子


以前、読んだブログが心に残っています。

そこには、生まれてから十数分で、お母さんの胸で息を引き取った赤ちゃんのことが書かれていました。

長くは生きられないことを、そのお母さんは承知していました。

どんな気持ちで我が子を産んで、そして看取ったのか、想像もつきません。



生まれて直ぐに死んでしまうのであれば、こう思う人も少なくないでしょう。

「この子は何のために生まれて来たのだろう?」



死に偶然はありません。

100歳を超えて亡くなるのも、生まれて十数分で亡くなるのも、その人の寿命です。

この世での目的を果たした時に、寿命が訪れます。



私たちは、学び成長するためこの世に生まれて来ています。

そのために、この世でしかできない経験をしています。

十数分しか生きられなかったのであれば、この世での経験はほとんどありません。

学ぶことも、成長することもできなかったことになります。



生れて来たことに意味はなかったと、そのお母さんは思えるはずもありません。

どうにかして、生まれて来た意味を見つけようとするでしょう。

悲しみ、苦しみ抜いた末に、ある結論に行きつくかもしれません。

「自分の成長のためではなく、残された人の成長のために生まれて来た。」



子供を失うのは、最も過酷な試練の1つに違いありません。

そのつらさは、経験した人でなければ分かりません。

もし、あの世で生きているとしたら、つらいこの世に別れを告げて、会いに行きたい衝動に駆られる人は少なくないでしょう。



けれども、どうしてもそれができません。

その理由は、あの世に帰ってから、はっきりと分かります。

衝動を抑えて、この世を生き抜くと、生れる前の自分が誓っていたのかもしれません。

生きる意味を見失いながらこの世を生きることが、生まれて来た目的の1つなのかもしれません。



赤ちゃんが母体に宿るのは自然現象です。

偶然ではなく、自然法則の働きによるものです。

自然法則の働きは、神の御業であり、そこに失敗や欠陥が入る余地はありません。

従って、耐えられない魂に、赤ちゃんが宿ることありません。

親子になれたのは、耐えられる魂だったからです。



この世で学び成長する必要の少ない人ほど、早く逝くと感じています。

お母さんの胸に抱かれながら、十数分で逝った赤ちゃんは、極めて成長した魂である可能性が高いと考えられます。

自分との別れを通して、大きく成長するであろう魂を、親として選んだと考えられます。

また、格段の成長を願って、この世で親子となり早く別れる人生を選んだ似通った魂もいると思います。



もしそうならば、長く生きられなかったと嘆いたり、自分を責めたりするのは全くの見当違いです。

明確な目的があったので、哀れむ必要もありません。



親は、我が子の健やかな成長を願っています。

早く逝った子は、親の霊的な成長を願いながら見守っています。

高い愛がなければ、お母さんに宿ることも、早く逝くこともできません。

限られた時間の中で、眩しいほどの愛を放っていたはずです。

死によって両者の関係性が失われることはありません。

これからも、目に見えない愛に包まれながら、生きて行くことになります。




平坦な道から、きつい坂道に変わってしまいました。

坂道は続くでしょう。


果てしなく続くと思われた坂道ですが、終わりになる時が来ます。

坂道が終わった瞬間、視界が広がります。

そこで、片時も忘れることのなかった、あの時のままの子と再会するでしょう。


ふと周りを見ると、きつい坂道を長い間歩いて来た分、高みに導かれていたことに気付きます。

平坦な道を歩いて来た人とは違う景色を見ることになります。


それまでの苦しい道のりが、魂の学びや成長として報われていたのを知り、時に恨むこともあった神に深く感謝するでしょう。

もう、悲しい別れを経験する必要はありません。







2024年8月11日日曜日

神性でつながっている



小学校低学年の時、道端でないていた子猫を、家に連れて帰ったことがあります。

直ぐに母親に見つかり、元いた場所に帰して来なさいと言われました。

しょうがなく元の場所に置いて来ましたが、しばらくするとその子猫は家に戻って来てしまいました。

どうしても飼えなかったので、自転車に乗せて隣町まで行き、後ろめたさを感じながら置いて帰った覚えがあります。



可哀想に思えたのも、後ろめたさを感じたのも、子供心に良心があったからです。

そもそも良心とは何でしょうか?

誰かに教えてもらったわけではありません。

生まれながらに備わっているものです。



地上の人間は、「肉体」「精神」「魂(霊)」から成り立っています。

魂(霊)から生じた意念は、精神を介して、肉体によって表現されています。

魂と肉体の間に形成された精神(自我)からは、感情や欲求が生じています。



生まれながらに備わっているものに「本能」と呼ばれるものがあります。

肉体と最も密接に関係した精神的な欲求が本能と言えます。

身に危険が迫ったら、回避しようとするのは、自己防衛本能と呼ばれるものです。



「神の御国はあなた方の中にある」

イエス・キリストはこう言いましたが、私たちの魂には神が宿っています。

神性が、良心という形で顕現しています。



ほとんどの人は、自分の神性を意識せずに生きていますが、ふとしたきっかけで表に出て来ます。

20数年前、駅のホームから転落した人を助けようとして、2人の青年が亡くなりました。

身の危険を冒してまで助けようとしたのは、神性が顕現したからです。

人を助けようとする神性と、自分を守ろうとする(自己防衛)本能は、相反する働きをしていますが、神性が優ったのです。

自己防衛本能から生まれる死の恐怖は、神性(愛)により駆逐されたと考えられます。



子供の時、我が儘な言動ばかりをしていると、友達から仲間外れにされます。

我が儘な言動に対して、友達の神性が反応しています。

人の言動が、自然法則の働きに反しているかどうかを神性は瞬間的に判断し、そのような行動が取られると考えられます。



成長に関わる局面においても、神性は表に出て来ます。

成長を妨げてしまうような、悪い(法則に反した)行いをしようとすると、言語を超えた抑制する力が働いて、押し留められる時があります。

その力の中に、神の心を感じることができます。

私たちは成長する方向へと導かれているのです。



神性の真髄は愛です。

シルバーバーチの霊訓には「霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されてはじめて成長するのです。」と書かれています。

誰かのために何かをすることで成長が得られます。

寛容の精神は、他者を認め、許すことにより発揮されますが、その行為は間接的に他者に愛を表現していると考えられます。

多くの仕事は社会奉仕や貢献につながっていて、困難や障害を伴うものが少なくないので、それを仕上げ(乗り越え)ようとする中で、神性が発揮されると思います。



シルバーバーチはこうも言っています。

「あなたの奥にはいわゆる”神“の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発しそれを原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何1つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の務めなのです。それは容易なことではありません。」

神的エネルギーによって、宇宙は創られています。

そして、同じ神的エネルギーによって、私たちは生かされています。

宇宙全体から見れば、私たちは極小の存在です。

しかしながら、全体を構成する一部に変わりありません。

同じ神的エネルギーによって、全体とつながっています。

そして、無尽蔵にある神的エネルギーを全体から受けることができるので、克服できないことはないと解釈しています。



私はヒーリングを行います。

エネルギーが流入し、外部に放たれて行くのがはっきりと分かります。

全体からエネルギーを受け取ることなしに、ヒーリングは成立しません。



全ての人(生命)も同じです。

意識できなくても、全体からエネルギーを受け取っています。

そのエネルギーによって、生命活動が営まれています。



今、オリンピックが行われています。

メダルを取った選手がインタビューで良く口にする言葉があります。

それは「自分を信じて頑張った」です。

自分を信じるのは、自分の神性を信じることに通じています。

たとえ神を信じていなくても、自分を強く信じることによって、全体からより多くのエネルギーを受け取り、想像以上の力を出せることがあります。



私たちは1人で生きていると思っています。

それは肉体(物質)的次元の話です。

霊的次元では、同じエネルギーが流れることによって、全生命はつながっています。



死んで霊界に行くと肉体が見えなくなります。

それまで分からなかった霊的なつながりが、はっきりと分かるようになります。



個は全体に包み込まれています。

個は全体の一部として、他の個を包み込んでいます。



全体に心(意識)が存在していることを実感します。

その心を、より発揮できるようになるために生きていることを思い出します。



いざ地上に生まれてしまうと、霊的な眼が閉ざされ、物質しか目に映らなくなり、それが分からなくなります。

だからこそ、私たちは霊的な存在であり、同じ神性でつながり一体であると、強く信じる必要があります。

信じることで、神的エネルギーの恩恵に与ることができます。

生きる不安や心配が和らぎ、力強く生きて行くことができるはずです。





2024年8月4日日曜日

信じることは愛すること


死を不幸だと思っている人はたくさんいます。

少なくても、死んだ人にとって不幸ではありません。



死後も、変わりなく意識は存続しています。

そこで新たな生活が始まります。



その世界では、生きるために働く必要がありません。

人間関係で苦労することもありません。

それだけでも、地上より快適な世界であることが窺えます。



死を不幸だと思っている人は、亡くなった人のことをこう言います。

「まだやりたいことがあっただろう。可哀想に。」



霊界にいるシルバーバーチはこう言っています。

「霊の本来の探求心を心ゆくまで満足できるようになった人をなぜ悼むのでしょう。」

さまざまな制約があり、やりたいことができないのが地上です。

心ゆくまでできるのなら、これほど幸せなことはありません。



発想の転換が必要です。

死んだ後の世界こそ、本来の住処です。

その世界において、自分の役割りを果たすのに必要な資質を身に付けるために、この世に生まれて、さまざまな経験をしています。

死は、目的を果たした人が、元いた世界に戻る自然現象です。



死んで、想いが変わるはずがありません。

地上の人の想いが知れるようになるので、愛しさはむしろ強くなっていると考えられます。



愛しさにより、魂は引き付けられます。

傍に寄り添うのは自然の成り行きです。

残念ながら、地上の人にその様子は全く見えません。



薄ぼんやりとでも、寄り添っている姿が見えたのなら、地上の人は安心するでしょう。

けれども、話しかけても、声帯は失われているために、返答はありません。

抱きしめようとしても、両腕は身体を素通りしてしまいます。

余りのもどかしさに、いっそのこと向こう行ってしまおうと考える人もいるでしょう。

自ら行ってしまうのは自然法則の働きに反しています。

会えなくなるのも知らずに行ってしまう過ちを犯さないために、神の配慮により分からないようになっていると考えられます。



存在が判り、話しができるのであれば、別れの意味は希薄になります。

深い悲しみや孤独を味わうことで、魂が目覚めます。

目覚めた魂が、大切な教訓を学んでいます。

その教訓は、向こうに持って行ける霊的な財産となります。



肉体がなくなっても生きているのは、私にとって揺るぎのない事実ですが、客観的に証明することはできません。

確かな能力のある霊媒の元に行けば得心できるでしょうが、その機会に恵まれなければ信じるしかありません。



地上にいる人と、向こうにいる人の違いは、肉体があるかないかだけです。

人の本質は魂です。

信じることによって、地上にいる魂と向こうにいる魂はつながることができます。

つながれば、想いを受け取ることもできます。

ふと心の中に思い浮かんで来たものがあれば、それは伝わって来た想い(インスピレーション)かもしれません。

どうぞ、気のせいにしないで下さい。



信じることができれば、愛し合うことができます。

愛せない苦しみから解放されます。

愛されていないという錯覚からも解放されます。



地上に生きている人を愛するのと、向こうにいる人を愛するのでは、どう違うのでしょうか?

目の前にいるのなら、存在を信じる必要はありません。

言葉や行動によって、想いを窺い知ることができ、想いを伝えることもできます。



向こうにいる人は、五感に触れません。

五感に触れなければ、どうしても頭で存在していないと考えてしまいます。

存在を否定するのを、信じようとする意志によって打ち消す必要があります。



信じようとする意志は、向こうにいる人にとって、愛されているように感じられます。

その上で、想いを向けてもらえれば、地上にいた時よりも愛されていると感じるでしょう。



その想いに応えて、地上の人を導いてくれます。

導くことは、地上にいる人への愛情表現です。



いつの日か、向こうに行く時が来ます。

不公平や不公正が存在していないことに気付きます。

愛を学び、成長するために、無限の叡智によって計画されていたことを知ります。

次元の違いを乗り越えて、信じ続けたことは、深い愛で結ばれることによって、完全に報われています。



心に残った記事がありました。

ある男性に「死ぬ時に持って行けるものが1つあるとすれば、何を持って行きますか?」と聞きました。

その男性は「花束」と言いました。

「なぜ花束なのですか?」と尋ねると、「先に逝った妻と久しぶりに会うから」と答えました。

その男性は信じているのでしょう。

向こうにいる奥さんは、信じてもらえていることが、何よりうれしいのに決まっています。





2024年7月28日日曜日

霊界で成長するために


「魂は肉体の奥深くに埋もれているために、それを目覚めさせるにはよほどの体験を必要とします。」

これはシルバーバーチの霊訓の一節です。


今月、アメリカ合衆国の大統領候補であるトランプ氏が銃撃されました。

弾丸は右耳をかすめ、流血していました。

興味深かったのは、銃撃後の最初の演説でした。

それまでの険しい表情は影を潜めて、とても穏やかそうに見えました。

「これは、私に与えられた国を一つにまとめるチャンスだ」だと言って、準備されていた対立候補を批判する内容から、団結や協調を訴えるものに変更されました。

その様子を見て、九死に一生を得た体験によって、トランプ氏の魂が目覚めたのではないかと思いました。

「魂を目覚めさせるためのチャンスは地上の人間の一人ひとりに必ず訪れています。神は完全です。誰一人忘れ去られることも無視されることも見落とされることもありません。誰1人として自然法則の行使範囲からはみ出ることはありません。その法則の働きによって、1つ1つの魂に、目覚めのためのチャンスが用意されているのです。」と、シルバーバーチは言っています。

「神に護られた」と言っていましたが、間一髪で助かったのも、守護霊の働きかけがあったのかもしれません。

そのままでいて欲しかったのですが、その後の演説を聴くと、以前のトランプ氏に戻ってしまったようです。

「目覚めるまでに至らなかったとすれば、それは本人が悪いというべきではなく、せっかくのチャンスが活用されなかったと言わねばなりません。」と、シルバーバーチは続けて言っています。

目覚めかけていた魂は再びエゴに覆い隠されチャンスを逃してしまったように感じられました。



地上の人間は、「肉体」「精神」「魂(霊)」の3者が一体となった存在です。

地上に生まれると、肉体と魂の間に精神(地上的な自我が形成され、活動するようになります。



眠ると魂は霊界に赴きます。

肉体に代わって霊体で自己表現するようになり、霊体と魂の間に存在する精神(霊的な自我)によって活動するようになります。



普段の生活では地上的な自我が優位に働いていますが、いざ深刻な出来事が起きると状況は一変します。

俗に言う「魂が目覚めた」状態となり、それまで陰に隠れていた霊的な自我が前面に出て来ることがあります。

傍から見ている人にとって、別人になったように感じられますが、そうではありません。

眠っている時に自己表現している、本来の自分表に出て来ただけです。



地上的な自我は、肉体と密接に結びついています。

そのために、自己保存的な欲求が強いです。

断崖絶壁の上に立つと怖くなるのは、地上的な自我の働きによるものです。

もし地上的な自我が存在しなければ、高所にいても全く怖さを感じないために、崖から落ちてしまう可能性があります。

お金が少なくなると心配になるのも、地上的な自我の働きによるものです。

地位があれば、生きて行く上で有利になるので、地上的な自我の欲求は満たされます。

地上的な自我は、肉体を守り、快適に生きるためになくてはならないものですが、その働きが強くなり過ぎると、生まれて来た目的を果たせなくなる可能性があります。



地上に生まれて来た目的は、自分(魂)を成長させるためです。

生れる前に立てられた人生計画に従って生きて、魂に内在している神性を発揮することにより成長して行きます。

地上的な自我の働きが強くなると、相対的に霊的な自我の働きは弱くなり、神性は発揮されにくくなります。


朝、目覚めると、霊的な自我から地上的な自我に切り替わり、今日の仕事の内容が頭の中に浮かんで来ることが多いです。

難しい仕事があったりすると、地上的な自我の働きがさらに強くなり、心配が生じる時があります。

シルバーバーチは「取り越し苦労」をしてはいけないと何度も言っています。

そうは言っても、地上は不完全な世界であり、思うように行かない時もあります。

あらゆる事態を考えておくのは必要です。

けれども、それに付随して負の感情を抱いてしまうと、守護霊をはじめとする霊界の存在からの援助を受け取りにくくなるので、気を付けなければいけません。


VV191  NASA公開画像より

自然法則の働きによって、宇宙は経綸されています。

私たち(生命)は、法則の働きに従って、進化成長しています。



困難や障害を乗り越えようとする意志は、自然法則の働きに適っているので、成就させるための力が魂に流れ込みます。

その意志を、霊界にいる存在がキャッチすると、インスピレーションを送って支援します。

自分を信じることで、内在する神とつながりが強くなり、進んで行く力が湧き上がります。

勇気を出して、自分を信じて進んで行けば、2重3重の援助が得られるので、何とかなるのです。



大切なのは、霊界とのつながりを常に意識しつつ、強い意志を持つことです。

生れて来た目的を果たすために、感情に打ち克って、前に進んで行かなければならない時があります。

地上的な自我から生まれる「感情」よりも、霊的な自我から生まれる「意志」が優ります。

進もうとする意志を持つことで、感情に打ち克つことができます。



肉体を使って表現しないと何も始まらないのが地上です。

表現する意志を持つことが、生きて行くために求められます。

死んで霊界に行くと状況は一変します。

思念は直ちに具現化するために、地上のように(肉体で表現するための)意志は必要なくなります。

意志を持たなくても、生きて行くことができます。



私たちを生かしているのは、神的なエネルギーです。

そのエネルギーによって個々の生命は進化成長して行きます。

霊界は何もしなくても生きて行ける世界ですが、何もしなければ進化成長もしません。

進化成長しようとしないのは、神の意志に明らかに反しています。



そのことに気付いた魂は、因果律の働きによって、地上に生まれます。

何かをしなければ生きて行けない地上を生きることで、霊界で成長するために必要な意志を培っていると考えられます。



地上で意志を培うには、魂が目覚めた方が有利です。

どん底に突き落とされたり、危機的な状況に陥る経験により、魂が目覚めて、何をしたかったのか、何をしなければいけないのかに気付いて、自分の意志で生き始める人がいます。



地上では、霊的なものが全く見えなくなります。

経験することでしか、霊的に大切なものは見つけられません。



最も大切なのは、誰かのために何かをすることです。

誰かのために何かをしようとする意志を持つことは、地上に生まれて来た大きな目的の1つであり、その意志が培われることで、霊界で自律的に成長できるようになります。





2024年7月21日日曜日

神的エネルギーによって生かされている


愛の対極は憎しみと言われます。

ただ、愛と憎しみが生まれるところは違うと考えています。



地上の人間は、肉体、精神、霊から成り立っています。

霊は霊的次元、精神は精神的次元、肉体は物質的次元にあるので、私たちは3つの次元にまたがった存在ということになります。



霊の核心である魂は、神の心(意識)の一部です。

表現が適切でないかもしれませんが、魂は愛を帯びた神的エネルギーの噴き出し口と私は考えています。



霊からは、意志(思念)が生じています。

精神(自我)は、その意志(思念)を肉体を使って表現するためにある媒体です。

肉体と密接に結びついているために、自己保存(利己)的な性質を帯びています。



魂から生じた意志は、精神を活動させるエネルギーとなります。

そのエネルギーにより、精神で思考が行われ、肉体に指令が出され、表現されて完結します。


火事で建物の中に取り残され、助けを求めている人がいたとします。

その光景を見た瞬間、魂から噴き出している神的エネルギーによって「助けなければ」と言う意念が生じます。

ところが、肉体を守ろうとしている精神(自我)は「助けに行くと自分まで死んでしまう」と考えます。

助けようとする意念は、精神(自我)の働きによって、怖れへと変わります。



魂から生じている意念が、精神の働きによって感情に変わることは良くあります。

夫婦のどちらかが不貞を働いて、一方が裏切られたと知った時、愛情は一瞬にして怒りや憎しみに変わることがあります。

大切な人が亡くなると、愛情がたちまち悲しみに変わります。

「神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。」とシルバーバーチは言っています。

怒りも悲しみも、神的なエネルギーが形を変えたものと言えます。


ガザに暮らす人たち

多くの人が怒りや憎しみ、そして悲しみや怖れを抱えながら生きています。

地上を生きて行く上で、精神(自我)はなくてはならないものです。

しかしながら、精神(自我)から生まれる負の感情に支配されていると、成長の妨げになります。



肉体、精神、魂の3者の間には、ヒエラルキーが存在します。

肉体より高位に精神があるので、肉体は精神に従います。

精神より高位に魂があるので、精神は魂に従います。



イエス・キリストは「全き愛は恐れを締めだす」と言っています。

愛は魂から生じているエネルギーで、精神から生じている恐れ(感情)のエネルギーよりも強者なので、締め出すことができます。

また「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とも言っています。

怒りや憎しみを抱えて苦しんでいる人は、(非常に難しいのですが)対象を愛することによって、苦しみから解放されると伝えたかったのではないかと考えています。



人間だけではなく、動物も同じです。

以前、山中を放浪していたラブラドール犬を見つけ、捕獲しました。

ジョン君と名付けて、家で保護することにしました。

怒鳴られたり、追い回されていたからでしょうか、しばらくの間、私たちのことが信じられず様子を窺っていました。

幸運にも、飛び切り愛情深いご夫婦の家族として迎え入れてもらえました。

数年後には、怖れは完全に払拭され、今までの孤独な日々を取り戻すかのように甘えるようになっていました。

愛は負の感情を取り除く力を秘めていると、改めて感じました。

安心して甘えるようになったジョン君



愛は自分で作り出すものではありません。

同調することで神とつながり、そのつながりを通して魂に流れ込んで来ると考えられます。

自分以外のために、何かしようと想うことで、同調すると考えられます。

神とのつながりが強くなるほど、ふんだんに愛が流れ込みます。

流れ込んできた愛によって、肉体によって表現したくなる衝動が生まれます。



自分を成長させる方向に進んで行く時もそうです。

勇気を出して挑戦しようと一歩を踏み出した時に、それを成就させるための神の力が流れ込んで来ます。

神の意志は、私たちを進化成長させることにあります。

魂から生じた意念と、神の意志が一致した時、神の力が流れ込んで来ると考えられます。


神とのつながりを強くするためには、まず神の存在を信じなければいけません。

神は全存在であり、全法則と考えられます。

全存在の中に神が存在しています。

もちろん、自分(魂)の中にも神が存在しています。



神を信じるとは、自分を信じることかもしれません。

自分を信じることは、自分の中にいる神を信じることにつながり、困難や障害を乗り越えて行く力を受け取ることができると考えられます。



自分を信じるのは簡単そうで難しいです。

精神(自我)が過去を思い出したり、取り越し苦労をして、信じるのを妨げるからです。



信じる意念は、魂から生まれています。

精神(自我)は魂に従います。

強く自分を信じることで、自我の働きによって作り出された考えや感情は一掃されます。



意念(意志)を持つことで、精神(自我)から生じる思考や感情に振り回されずに済みます。

意念を出している時、例えば仕事を成し遂げようとしている時には、捉われていた感情から解放されています。



人間は神的エネルギーによって生かされています。

そのエネルギーにより、魂で何らかの意念(意志)が生じ、肉体を活動させています。

同じエネルギーによって、世界全体も活動しながら進化して行きます。



同じ場所に留ろうとすると苦しく感じるのは、進化している全体の流れに逆らっているせいかもしれません。

神的エネルギーによって生かされているのであれば、苦しくても進んで行かなければいけません。



私たちは、神の法則に従って、永遠に進化成長して行く存在です。

神的エネルギーに内在する神の意志に、抗うことはできません。