昔、ある国に王様がいました。王様は広大な領地を治め、金銀財宝を持っていましたが、なぜかいつも心が晴れず、不満や焦燥感に悩まされていました。宮殿の中で「どうして私はこれほどの富と権力を持っていながら幸せではないのだろう?」と考える日々を送っていました。
ある日、王様はその答えを見つけるために、王宮を離れて旅に出ることにしました。国中を歩き回りましたが、心が満たされることはありません。
旅の途中、一人の農夫に出会いました。彼は質素な服をまとい、麦畑で額から汗を流し、歌を口ずさみ微笑みを浮かべながら働いていました。働き終えた農夫が休憩をとっている時、王様は近づいて尋ねました。
「農夫よ、きつい仕事をしているのに、どうしてそんなに幸せそうなのだ?」
農夫は少し驚いた様子で、笑顔で答えました。
「陛下、それは簡単なことです。私は自分に必要なものがすべて揃っているからです。家族は健康で、毎日こうして畑を耕すことができ、食べ物を手に入れることができる。それだけで十分幸せです。」
王様は納得がいかず、さらに尋ねました。「だが、お金や豪華な衣装、大きな家を持ちたいとは思わないのか?」
農夫は再び微笑み、「もちろん、大きな家やお金があればうれしいかもしれません。でも、それがなくても私は十分に幸せなのです。毎朝太陽の光を浴びることができ、働ける健康な体がある。それ以上のものを求める必要はありません。」と言いました。
王様はその夜、農夫の言葉を思い返しながら宿に戻りました。農夫が何も持たずに幸せを感じられる理由が分からず、さらに悩みました。しかし、よく考えた末に気づきました。
「この農夫は、自分に与えられたものに感謝し、毎日の小さな喜びを見つけ、楽しむ習慣を持っている。私はすべてを手に入れようと焦り、今あるもののありがたさを見逃していたのだ。」
王様は宮殿に戻ると、今あるものに感謝する習慣を作り始めました。毎朝起きるたびに、健康であることや家族、臣下の忠誠を思い返し、それに感謝する時間を持つようにしました。すると次第に、不満や焦燥感が薄れ、心の平穏が戻ってきたのです。(終わり)
この逸話を読んで、目に見えるものを追い求めても幸せにはなれない、人は何かに感謝することで幸せを感じ、不平や不満を持つことで不幸せを感じるようになっていると思いました。
誰でも幸せばかりを感じていたいものです。
けれども、地上ではそうは行きません。
自分と似通った人たちばかりいる霊界と違い、地上は違う人たちに囲まれて生活しなければいけません。
そのため人間関係で苦労します。
人と比べては、羨ましがったり妬んだりもします。
霊界では自分が望むことだけをしていれば良かったのですが、地上はそれだけでは生きて行けません。
気が進まないこと、やりたくないこともしなければいけません。
そんなこともあり、つい不平や不満を口にして、自分が不幸せに思えてしまう時があります。
そんな地上に、なぜ生まれて来たのでしょうか?
霊界と地上で、明らかに違うところがあります。
霊界は一極の世界です。
真実しか存在しません。
光しか存在しません。
善しか存在しません。(地上近くは除く)
愛しか存在しません。(地上近くを除く)
地上は二極の世界です。
真実だけでなく偽りも存在します。
光だけでなく影も存在します。
善だけでなく悪も存在します。
愛だけでなく憎しみも存在します。
病気になって、健康のありがたさが分かると良く言われます。
冬の寒さがあって、春の温かさを感じることができます。
対極のものが存在して、初めて認識できるものがあります。
神は法則です。
法則を貫いているのは、完全なる愛です。
私たちは、法則に従って成長して行く存在です。
生きている究極の目的は、永遠の時をかけて完全な愛を表現できるようになることです。
霊界は想念の世界であり、愛に実体があります。
ありふれた存在となっているため、愛を学ぶのにはかえって難しいです。
愛は五感に触れるものではありません。
従って、地上では何もしないで認識することは困難です。
愛を想起させる出来事を経験することで、初めて認識できます。
あるいは、愛が波動として伝わって来て、魂が共鳴して認識することもあるでしょう。
怒りや憎しみなど比較対照となる地上ならではの感情があることによって、愛を鮮明に認識することができます。
「戦争」の対極にあるのが「平和」です。
「差別」の対極にあるのが「平等」です。
どちらが望ましいのか、言わずと知れています。
戦争や差別はあってはなりませんが、望ましい「片方」を学ぶために存在しています。
平和で平等な世界にするためには、互いを許し合い、認め合わなければいけません。
許し合い、認め合うためには、自我を鎮めて、全体を想う心(神の心)を表現する必要があります。
地上を悩ましている事象は、愛を表現することで根本的に解決することを、苦しみや痛みを味わいながら学んでいます。
大切な教訓を学ぶために、対極のものが存在する地上に生まれ、それに相応しい経験をしています。明るい日差しの中で、ロウソクの光を認識するのは難しいです。
暗闇の中で、輝き出します。
この世で不幸と言われる出来事を経験しなければ、見つけることのできない幸せがあります。
両者は一対であり、片方だけが欲しいと言っても、それはできないのです。
不幸とは心が作り出している実体のないものです。
実体がなければ、心で消し去ることができるはずです。
前述の逸話のように、今の自分にないものではなく、あるものに意識を向けて感謝することができれば、不幸として感じられなくなるはずです。
今の自分には何もないと言う人もいるかもしれません。
人は生れる環境を自分で決め、どのような人生を辿るのかも了承しています。
全ての出来事は、神の法則(因果律)の働きによって起きています。
そこに、偶然や運が入る余地はありません。
全責任を神が負った上で、出来事は起きています。
神の心は愛であるがゆえに、最後には悦びを感じるように取り計らわれています。
たとえ地上で悦びを感じることができなかったとしても、出来事は必ず清算されます。
本来の住処である霊界で、学び成長できたことに悦び感じ、そのために地上の出来事が起きていたことを理解します。
完全な公正が働いていたことを、神に感謝するでしょう。
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