2021年6月6日日曜日

神性を表現する方を選ぶ


新型コロナウィルスの流行が続いています。

そんな状況下にもかかわらず、世界のどこかで争いが起きています。

少し前には、イスラエルがパレスチナに向かってミサイルを打ち込みました。

長い争いの歴史があり、もちろんイスラエルだけが悪いわけではありませんが、弱者であるパレスチナを支配しているのは事実です。

一方で、世界で1番ワクチン接種が進んでいる国もイスラエルです。

ミサイルではなく、パレスチナの人たちにワクチンを打ったのならば、両者の融和は進んだろうと残念に思うのは、私だけでしょうか。



全ての人に、神性があります。

その分量に大きな差がありますが、誰もが他者を大切にしよう、認めようとする気持ちを持っているはずです。

それができないのは、地上にいる時には自我(地上的自我)が存在しているためと考えられます。



生まれる前は、霊的自我がそのまま表現されています。

地上に生まれると、霊的自我は肉体と言う媒体を介して表現されます。

霊的自我と肉体の間で、橋渡しの役割をしているのが、地上的自我です。

地上的自我は、霊的自我が色濃く反映されていますが、肉体からの影響も強く受けています。

自分の肉体を守り、安全快適に生きるための役割りを担っているので、自己中心的、自己保存的な性質を帯びています。

そのために、自我同士はぶつかり合い、時に争いが起きてしまいます。



世の中には、自我が強い人がいます。

そんな人と、相対する時は、自然と自分の地上的自我も強くなります。

それは自分を守るため、不利益を被らないための、地上ならではの防御反応です。

似通った人たちしかいない霊界では、自分を守る必要はありません。



もし、自分を傷つけようとする人がいれば、それに抵抗するの当然です。

自分で自分を守らなければなりませんが、それができない場合もあります。

子供の心を傷つけるのが罪なのは、自我が未発達で、自分を守ることができないからです。



元々、皮膚が厚くて強い人もいれば、薄くて弱い人もいます。

外部の力によって、傷つきやすいのはどちらなのかは明白です。

大人になっても、自我の働きが強い人もいれば、弱い人もいます。

自我の働きは、自助努力で発達するものではなく、生まれながらにしてある程度決定していると思われます。

その働きが弱い人ほど、外部の力(思念)によって、子供のように容易に心が傷ついてしまいやすいと考えられます。



生まれ育った環境によって、自我の働きの強さが変化することがあります。

子供の頃、傷つけられた経験のある人は、自分を守ろうとする意識が強く働いています。

そのために、自我の働きが強くなる傾向があると考えられます。

また、親から愛情を受けていなかった人は、守られている意識が希薄になります。

そのために、自分を守ろうとする意識が強くなり、自我の働きが強くなる傾向があると考えられます。



守ろうとする意識が過剰になり、自我の働きが強くなると、攻撃的な性質を帯びてしまう時があります。

あるいは、傷つけられるのを怖れるあまり、人を信じなくなります。

そうなると、外部との間に軋轢や対立が生じたり、孤独になりがちです。



地上の争いの多くは、自我と自我がぶつかることによって起きます。

集団的、国家的な自我がぶつかると戦争になる可能性があります。

自我は、相手の自我により強い影響を受けます。

やられたら、やり返したくなります。

そんなこともあり、強くなった自我の働きにより、本来の自分とは違う言動をしてしまうことがあります。

こんなことを言うつもりではなかった、するつもりではなかったと後悔することがあります。

もし、自然法則に反した行いをしたならば、その先で償いが生じてしまうので、気を付けなければいけません。



地上的自我は、地上の顔です。

その奥に控えている霊的自我が、本来の自分です。

霊的自我の本体は魂です。

魂(自分)は、神によって創られた、神の一部であり、神性が宿っています。

魂は神性を発揮しようとしますが、表現媒体である地上的自我や肉体が不完全なために、思うようにできません。



地上的自我を前面に出している相手に、自らも地上的自我を前面に出し対抗したら、ぶつかり合ってしまう可能性があります。

そんな時には、霊的自我の働きを強める必要があります。

霊的自我は、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛等の神性を表現しようとします。

それらを表現することによって、相手とぶつかり合うことは避けられます。

相手に対抗して、地上的自我を強くするのではなく、霊的自我を前面に出して対応すれば、どちらも傷つかずに済みます。

神性を表現するとは、愛を表現することです。

愛を表現することにより、戦争だけでなく、貧困や差別など、地上で生じるほとんどの問題は解決できると考えられます。



より多くの神性を表現するためには、自分は神の一部である、神であることを強く意識することが必要です。

自分の中に神がいることを信じます。

信じることによって、神とのつながりが強められ、より多くの神性を表現することができます。



地上的なものに捉われない自分、感情に流されない自分がいます。

死んで次の世界に行くと、地上的自我は取り払われて、本来の自分(霊的自我)が表現されるようになります。

本来の自分を、地上にいながら表に出すのには、地上的自我の働きを意識的に弱めなければいけません。

瞑想なども、その1つの手段です。



相手の自我に影響されて、地上的自我が強く働くと、時に本来の自分とは違う、摂理に反した言動をしてしまい、後悔することもあります。

人には自由意思が与えらえています。

どんなにつらく感じても、敢えて神性を表現する方を選べば、必ず良い方向に向かいます。



地上で起きる出来事に翻弄されて、自分を見失いそうになった時には、本来の自分でいられるように祈ることが大切です。

祈る対象は、自分の中にいる神です。

神とのつながりの中に、安らぎを見い出せるようになります。




追記:コロナワクチンを受けてみて

(経過)

去る5月10日に1回目のワクチン接種を受けました。

ファイザー社製のm-RNAワクチンです。

左の二の腕の外側に注射されましたが、インフルエンザワクチンよりも痛みは少なかったです。

15分ほど会場に留まって、アナフィラキシー等の症状がないことを確認して帰宅しました。

当日は、注射した部位の痛み以外に、特に変化はありませんでした。

次の日の朝も、特に変わったところはなく仕事に行きましたが、午後から怠さを感じました。(微熱があったのかもしれません。同じ日に接種した複数のスタッフも怠さを感じていて、1名は早退しました。)

翌朝には、完全に回復していました。

それから3週間後の5月31日に2回目の接種を受けました。

今度は、左肩に注射をされました。

当日は、注射した部位の軽い痛み以外は、特に変化はありませんでした。

翌朝、起きてみると1回目よりも強い怠さを感じました。

注射した部位の痛みもやや強く、左手が挙がりにくかったです。

体温を測ってみると、平熱が36.0度くらいのところ、36.7度でした。

風邪を引いた時に近い感覚で、食欲もやや減退しましたが、外出は可能でした。

夜になっても、引き続き怠さを感じました。

翌朝は、ほぼ回復していました。

5日後の6月5日から、軽い怠さと背中の痛みと胃腸の不快感を感じていますが、ワクチン接種との関係は不明です。

(感想)

2回目の接種の後に副反応がありましたが、予想の範囲内でした。

副反応の強さは個人差が大きく、全く何も感じない人もいれば、強く出て数日間、行動が制限される人もいます。

2回目の接種の次の日は、可能ならば仕事を休みにした方が無難です。

ワクチンについては不安なところがありましたが、接種したことにより安心感が得られたのは事実です。

より多くの人が接種することにより、諸事情により接種できない人をウィルスから守ることにもつながります。

何かの参考になれば、幸いです。



7 件のコメント:

ラッパ吹き さんのコメント...

イクミさん、
素晴らしい投稿をありがとうございます。

自分の中に神がいること、本当の安らぎは神とのつながりにあること、そこにしかないこと、それを知るためにこの世の苦しみや悲しみはあるのかも知れませんね。。

閑話休題、、
頻繁に見る夢があるんです。今朝方にもまたそんな夢でうなされて目が覚めました。
あまりにもひどく汚らしいのでとても書けませんが、どこか知らない場所にいて切羽詰まって汚くて奇妙で居場所がない、、そんな夢です。

今回初めてですが、もしかしたら私はこの物質界をそんな所だと感じているのかもしれない、と思いました。
断続的な浅く短い睡眠の間に霊界に帰っていて、また戻らなければならない時の嫌悪感が目覚める時にその汚くて辛い奇妙な夢になるのかもしれない、私はこの物質界に帰りたくないと駄々をこねているのかもしれない、と。

もしそうなら、何故私はそんなにも嫌っている今生にまた望んで生まれてきたのだろう?
そう思った時に、これまでに漂っていたいくつかの思いがつながって浮かびました。

“お前が自分を罰している。”
“お前を苦しめているのは、お前自身なのだよ。”

だからなのか。だから、そんなこの世に私は自分を罰するために生まれてきたのか??

ヒーリングいただいた時にMikiさんが受け止めてくださった守護霊様の言葉「己を許し、慈しめよ。」の意味。。
鬱になったのは本当の自分をないがしろにしてきたためだった。。

そうつながって。。

そしてふと「お前の罪は許された。」と。(だから「己を許し、慈しめよ。」と??)
何でしょう。。
自分を許すのは、とても難しいのかもしれません。。

すみません。まるで、何か、シュールレアリズムの、マグリットやダリの絵画やわボリス・ヴィアンの小説「うたかたの日々」みたいですね。。(どれも大好きなんです。マグリットの「大家族」とか。。)

訳がわからないコメント、どうか、どうか、お許しください。誰も傷つけていませんように。。

ラッパ吹き

イクミ さんのコメント...

ラッパ吹き様

こんばんは。
早速読んでいただき、ありがとうございます。

夢でうなされて目が覚めるのですね。
眠っている時は霊界に行っていますが、肉体に戻る時に躊躇う人もいると思います。
地上は成長するための場です、
そのために、苦しい時も多いのですが、神とのつながりを深めることで、安らぎを得られると思います。
苦しみを通して、神への理解と信頼を深めていると考えられます。

地上的自我が、本当の自分を痛めつけているような気もします。
自分自身を傷つけるのは、人を傷つけるのと同じで摂理に反しているので、因果律が働いて苦しみが生じているのかもしれません。
これまで頑張って生きて来たご自身を褒めて下さい。
心から慈しむことができた時に、苦しみから解放されるのかもしれません。

かすや さんのコメント...

2年前より記事やコメントを拝見し、学びに活かさせていただいております。ありがとうございます。
私は、幼少時より死は終わりではないと少し感じておりましたが、日々生活が忙しかったこともありそんなことは頭の片隅に追いやっていました。
しかし、大切な人を突然亡くし、それをきっかけにシルバーバーチに出会い、死後の証拠を求め霊媒巡りをしました。良いか悪いかは別としましてこんな人間もいるということでご参考までに・・・。
しかし、今現在思うことは、結局は自身の信仰心が大事なのでは?いうことです。
死後の世界は100%あるとか逆に100%ないなどという方が巷にはいますが、我らは生きている人間であり、未だ理解できていないことが山ほどあります。人は100%全員死ぬということ以外には「100%」というものは世の中に存在しません。そこは謙虚になり、良い面も悪い面も持つ人間として、シルバーバーチを指針(目標)にしながら生きています。やはり苦しみ等が日々襲い掛かってきますがそんな自分を否定せずシルバーバーチを読み踏ん張っています。

ところでイクミ様は、大切な人を失った方々のご相談に乗られていますが頭が下がる思いです。ご自身もそのような経験を乗り越えられたのだとお察しします。是非ともその時の体験を教えていただけると幸いに存じます。

イクミ さんのコメント...

かすや様

初めまして、イクミです。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

大切な人を亡くしたことをきっかけに、シルバーバーチの霊訓に出会ったのですね。
死後の証拠を得るために、霊媒巡りをされたそうですが、確証は得られたのでしょうか?
多くの人にとって、死後の世界があっても、なくても、今の生活に関係なければ、どちらでも良いのだと思います。
必要としている人が、霊的真理と巡り合うようになっていると思います。
霊的なことを、信じるのも信じないのも個人の自由であり、自分の考えを押し付けるのは望ましくありません。
ただ、正しい知識を持っているのに越したことはないと思います。
人生で出来事が起きる理由、苦しみの本当の意味を知っているだけでも、背負った荷が軽く感じられるからです。

私自身は、人生を変えてしまうような別れを、今生で経験したことはありません。
このブログを通して、本当にたくさんの大切な人を亡くされた人と出会いました。
深い悲しみの中にいる人の多くは、霊的真理をまだ知りません。
死んでいなくなってしまった、もう会えないと悲嘆に暮れる人に、視えなくても魂となって生きている、愛する者同士は離れることはなくそばにいる、そしてまた会えるという事実を、どうしても伝えたかったのです。
そんな気持ちを持っていると、必要としている人が、霊界によって本当に導かれて来ます。
その人たちを通して、最愛の人との別れが、どれほどつらいものなかを教えてもらいました。
真理を受け入れることよって、悲しみや苦しみが和らぐことを教えてもらいました。
信じることが何よりも大切であることを教えてもらいました。
相談に乗っているようで、実は私が大切なことを教えてもらっているのです。

あなたの様に、大切な人を亡くされて辿り着いた人こそ、同じ想いをしている人の心を開き、真実を届けることが出来ます。
普遍の真理を伝えられるのは、とても素晴らしいことだと思います。

ラッパ吹き さんのコメント...

イクミさん、かすやさん、

この世の悲しみも苦しみも、自分の限界を超えたものがいくつもあります。
自分だと思っていた「自分」の限界を遥かに超えてそれらはやってきます。。

自分に耐えられる(大嫌いな言葉ですが、いわゆる「想定内」の)悲しみや苦しみでは、真理が心底から本当に身に染みることはないのかもしれません。

限界を遥かに超えて、自分にはまったく制御不能な苦しみや悲しみを、自分自身をどうすることもできずにどん底で悶え苦しんで、初めて真の愛が解るのではないでしょうか。。

何もかもが意味を失って、初めて、本当に大切なものは愛だけだったと、思い知るのではないでしょうか。。

辛いです、とてもとても辛いですが、それは神の賜われた大切な贈り物なのだと、信じます。
大切な人は、次の世界、本来の住処で光り輝いて幸せに生きていらっしゃるのですから。

ラッパ吹き

イクミ さんのコメント...

ラッパ吹き様

こんばんは。
そうですね、霊的真理を受け入れるためには、魂が目覚めないといけません。
シルバーバーチは、まるでこの世から希望が消え、絶望の淵にいる思いがして、ドン底に突き落とされて、這い上がる可能性がないように思える恐怖を味わっている時に目覚めると言っています。
イエスをたとえに、ゲッセマネの園を通らずして、変容の丘にたどり着くことは出来ないとも言っていますが、それだけに価値があるものと思います。

魂が目覚めるとは、生命に目覚めることであり、愛に目覚めることだと思います。
大切なものを失って、この世界で最も大切なものが愛であることに気付く人も多いと思います。
地上的なものを失って、霊的なものを手に入れるようになっていて、神の公正は完全に保たれていると思います。

大切な人は次の世界で生きてるという事実が、どれほど価値があるものなのか、このブログを通して改めて判った次第です。

かすや さんのコメント...

イクミ様、ラッパ吹き様

お礼が遅くなりすみません。

イクミ様、一番の大切な人との死別体験はされていなかったとのこと、大変失礼しました。
であれば、尚更素晴らしいことです。なかなか普通の人には出来ないことです。
私なんぞは、自ら死別体験をしてようやく他の死別者の方の気持ちが分かったくらいです。
それでも、人それそれ故人との関係性や亡くした際のシチュエーションは違いますから理解はほんの一部でありましょう。死別者に対し、その人を完全に理解していなくて発した言葉で傷つけてしまうことがあったので気を付けています。
私の霊媒巡り体験は、残念な結果でしたが、最終的には自分の信念だろうと思います。

お二人とも、ご親切にお話していただきありがとうございました。
世の中辛いことだらけですが、不屈の信念で前進いたします。