2021年3月28日日曜日

感謝の気持ちを表現する


感謝の気持ちを表現するのは人間だけである。

そうなのでしょうか?

今から20数年前のことです。

道端にツバメのヒナが落ちていました。


後で知ったのですが、ツバメのヒナはそのままにしておくのが良いそうです。

落ちているヒナの近くには親鳥がいて、餌を運んで来るそうです。

そんなこととは知らずに、このままでは死んでしまうと思い、家に連れて帰りました。



幸いにも、ヒナは人間の手から餌を食べてくれました。

すくすくと成長し、部屋の中を元気に飛び回るようになりました。

ある日、窓を開けておいたら、空に向かって勢い良く飛んで行きました。


数日後のことです。

居間にいると、窓の外でバタバタとホバリングをしている鳥の姿が見えました。

こんなところで何をしているんだろうと近寄ってみると、何と部屋から飛んで行ったツバメみたいです。

数秒間、部屋の中を覗くように見ていて、しばらくするとどこかに飛んで行きました。



餌をもらっていたので、ここを巣のように思っていたのでしょうか?

そうではなく、私には何かを伝えに来たように見えました。

不思議な体験でした。



相手が自分にしてくれたことに対するお礼の意を表すことが感謝です。

言葉にすると「ありがとう」になります。



けれども、相手がしてくれても、感謝の気持ちを口にしない時もあります。

例えば、職場で部下に当たる人に指示をして、何かをやってもらったとします。

上司の指示通りに部下がやるのは当然と思ってしまうと、ありがとうの一言が出なくなってしまいます。



地上では、何かしらの肩書が付いて回ります。

仕事では、課長、部長、社長などの肩書があり、上下関係が存在します。

家庭では、父親、母親、夫、妻、兄、弟、姉、妹などの関係性が存在します。

部下だから、夫だから、妻だから、やってもらうのが当然と思うと、感謝の気持ちは薄らいでしまいます。



私たちが、次に行く世界はどうでしょう。

地上的な肩書は、全てなくなります。

肩書がなかった人も、絶大な権力を有する肩書の人も同列になります。

もし、高い役職にいて命令ばかりをしていた人が、地上時代と同じ態度で他の人に接すれば、大きな恥をかくことになります。

意味もないものに拘り続けているように見え、哀れに思われるかもしれません。



次の世界で、その人を計る物差しは魂であり、霊性です。

魂から放射されているオーラには、その人の全てが刻み込まれています。

オーラの色によって、どんな想いでいるのかも知れてしまいます。

剥き出しになった自分(魂)を隠すものは、もうありません。



肉体がなくなると、状況は一変します。

食べて行くために働く必要はなくなります。

ローンや家賃、その他の金銭的苦労もなくなります。

想像するのが難しいかもしれませんが、思念が実体の世界なので、衣服や家など、必要と思ったものが直ちに具現化されます。

生きて行くために必要だった労力は、大幅に軽減されます。

そのために、自分から周囲に意識が向くようになります。

周囲のために何か役に立とうとする気持ちが、地上にいた時よりもずっと強くなると考えられます。



霊界は無限の界層が連なっています。

上の界層に行くほど役に立とうとする想いが強くなり、人々の光輝は増して行きます。

人のためになろうとする想いに満ち溢れている世界は、きっと天国のように感じられるでしょう。



全宇宙に、不変の自然法則が貫いています。

基幹をなしているのが因果律の働きです。

原因と結果であり、自分のやったことが、自分に返って来ます。

誰かのために何かをすれば、因果律の働きにより、誰かが何かをしてくれます。

感謝の意念がインスピレーションとして伝わって来ることもあるでしょう。



それに比べて、地上は不完全な世界です。

因果律の働きの顕現も不完全です。

誰かのために何かをしても、何も返って来ない時も多くあります。



霊界では、自分の想いは相手に直接伝わります。

地上では、言葉など肉体で表現しなければ伝わりません。

きわめて煩わしい世界に生きているのですが、それが当たり前と思い込んでいます。

表現して伝えるのは、気力と勇気がいるので、魂と精神を鍛錬する意味もあるのかもしれません。

どんなに思っていても、言葉や行動で示さない限り、地上では感謝の気持ちは伝わらないのです。



印象的な人がいました。

仕事でお会いしたご老人ですが、感謝の気持ちを会う人会う人に言葉にしていました。

この人は一体 1日に何回「ありがとうございます」と言うのかと考えてしまうくらいです。

しかも、口先だけの言葉ではなく、心のこもったものでした。

自分が受けるものを、何でもありがたいと感じられる徳性を持った人なのでしょう。



そんな人は幸せになれると感じました。

人は感謝されると、悦びのようなものを感じます。

その人のために何かをすると感謝されて悦びを感じるために、もっと何かしてやりたいと思います。

多くの人に感謝する人は、因果律の働きにより、多くの人から良くしてもらえます。

別に期待しているわけではありませんが、自然にそうなります。

けれども、いろいろな人がいて、そうなるとは限らないのも、また地上です。



もし、感謝と言う概念がなかったとしたらたらどうでしょう?

車を運転していると経験しますが、道を譲るとハザードランプを点滅させてお礼をされます。

それがないと、何か物足りないような感じがする時もあります。

求めてはいけないのですが、お礼をされた方が気持ちが良く、次も同じことをしようとする気になれるのは確かです。



ふと、思ったことがあります。

地上の人には、霊的に成長し、歩むべき人生を歩むように、一生涯に渡って守護霊が付いています。

物事が上手く行った時や、危険が回避された時など、無形の援助を受けている可能性が高いです。

それは守護霊に与えられた役割なのですが、同じ人間の心を持っているので、地上の人から感謝されればうれしいに決まっています。(霊性の高い霊ほど感謝は神に捧げることを望むようです)

地上の人との関係はより強固のものとなり、その先も喜んで守り導いてくれるでしょう。

お陰様で、という言葉をよく使います。

「陰」とは、神や背後にいる霊のことを指していて、先人はそのことを知っていて感謝していたと考えています。



良く考えてみると、食べている物のほとんどは、自分では作れません。

着ている服も、自分で作ることも出来ません。

この世界は、1人では生きて行けないのです。

自分が出来ることをしたり、自分が出来ないことをしてもらいながら、この世界は営まれています。

お金を払っているのだから、役割だから当然と考えてしまうと、感謝の気持ちを伝えるのを止めてしまいます。

自分が出来ないことをしてもらった時に、素直に感謝の気持ちを表現できるようになりたいものです。

何故なら、当たり前のようにお互いを活かし合う次の世界において、感謝の意念は円滑に生活を営むために必要不可欠なものであり、周囲との間に調和を生み出すと考えられるからです。



愛に唯一の報酬があるとすれば、それは感謝の意念かもしれません。

愛と同じく、感謝も神の属性だと思います。

そうであるならば、神が内在している魂(生命)には、元々感謝の気持ちが備わっているはずです。

あの時のツバメは、お礼をしに来たと思っています。







2021年3月21日日曜日

魂が目覚めるとは?


東日本大震災から10年の月日が経ちました。

先日のニュース番組で、津波で小学生6年生のお子さんを失ったご両親へのインタビューが流れていました。

その中で「あれから時間が止まったまま」と、お父さんは言っていました。

当時、小学校6年生であれば、生きていればもう成人しています。

しかし、ご両親の心の中でお子さんの姿は10年前のままです。

成長が止まっているお子さんと共に、ご両親の時間も止まっていると思いました。



亡くなった人は、跡形もなく消えていなくなりました。

存在を感じることは、もう出来ません。

それにもかかわらず、残された人の中に「見守ってくれている」、「また会える」と口にする人がいます。

いなくなってしまった、もう会えないと思うと、いたたまれなくなるので、希望を持つためにそう考えるようにしているのでしょうか?



直感的にそう感じていると、私は思っています。

これ以上ない悲しみの中で、魂が目覚める人がいます。

目覚めた魂が、霊的な事実を見い出すことがあります。



それでは、魂が目覚めるとは、どんな状態のことを指すのでしょうか?

魂は生命そのものであり、永遠の存在です。

偶然ではなく、それぞれに目的があって、私たちは地上に生まれて来ました。

生まれたばかりの赤ちゃんは肉体をまとっていますが、少し前まで霊的な世界にいて、魂(霊的な自我)が剥き出しになっているように見えます。


しばらくすると、「地上的な自我」が形成されて行きます。

地上的な自我は、その人のパーソナリティとも言っても良い存在です。

魂(霊的な自我)から生じた思念を、パーソナリティである地上的な自我を通して、肉体を使って表現しています。

表現が適切か判りませんが、魂が外界と接触するためにある、地上だけの「顔」と考えられます。



地上的な自我は「顔」であると同時に、環境から自分を守ったり、より快適に過ごすために、重要な役割を果たしていると考えられます。

自己防衛本能と地上的な欲望を併せ持った存在と言えます。

危険を察知して逃避するのも、地位やお金を得ようとするのも、地上的な自我の働きと考えられます。

俗に「エゴ」と呼ばれているものは、地上的な自我のことを指していると思います。



日常生活のほとんどは、地上的な自我の働きにより営まれています。

仕事や作業をしたり、頭を使って考えている時は、地上的な自我が優位になっています。

そのために、多くの人は普段、表に出ている地上的な自我を自分自身だと思っています。



本当の自分とは、その奥に控えている霊的な自我(魂)です。

表には出て来ませんが、霊的な自我には生まれる前の記憶がしまわれています。

そして、生まれて来た目的、予定されている人生、寿命を自覚しています。

死ぬと、地上的な自我は消えてなくなり、霊的な自我が直接表現されるようになります。



普段の自分(地上的な自我)に取って代わり、霊的な自我が表に出て来る時があります。

目の前で溺れている人を見て、助けようとする時がそうです。

また、良くないことをしようとして、ためらっている時もそうです。

霊的な自我には良心(神)が内在されていて、そんな局面において呼び覚まされます。



私たちには、生まれる前に決めていた、およそのシナリオがあります。

決めていた人との出会いや、成長を促すような機会が巡って来た時に、何かひらめくものを感じるかもしれません。

予定された人生を歩むために、重要な局面が訪れた時に、霊的な自我が表に出て来て、道を指し示すと考えられます。

そんな時は、頭で考えないで、直感で行動しています。



他にもあります。

深刻な出来事が起きた時です。

日常生活のちょっとした出来事が起きたら、普段の自分(地上的な自我)で対処しています。

しかし、普段の自分で解決不能な出来事が起きた時に、霊的な自我が表に出て来て主導権を握ると考えられます。



朝、元気だった人が、物言わぬ姿となって帰って来る、これほど信じがたく、過酷な現実は見当たりません。

目の前にある現実は、寸毫たりとも変えることは出来ません。

役に立たない地上的な自我に代わり、霊的な自我が表に出て来た人も、多いはずです。



大切な人を失った人は、津波が悪魔の様に思えるかもしれません。

全ての現象は、自然法則の働きにより起きています。

津波は自然現象の一部であり、自然法則の働きによって起きています。



自然法則を創造したのは神です。

従って、神は津波によって作り出された現実の、全ての責任を負っていると考えられます。



神は、完全なる愛であり、完全なる叡智です。

神が完全なる愛であり、宇宙の隅々まで行き渡っているのであれば、大切な人を津波で奪い、絶望の淵に陥れる、こんな惨い現実を作り出すとは考えられません。

神の叡智が完全であるならば、ある人は津波を逃れ、ある人は巻き込まれて亡くなってしまう、こんな不公正な現実が作り出されるはずはありません。



もし、命が地上だけに限られているのならば、神などいないと思っても仕方がありません。

希望でも、慰めでもなく、亡くなった人たちは、生まれる前にいた境涯に戻り、元気に暮らしています。

自然法則の働きによって、地上を去ると生まれる前にいた境涯に戻ります。



最初は、何が起きたのか判らずに、戸惑ったかもしれません。

しばらくして、起きたことを理解し、その境涯で思う存分に自分を表現しながら、満ち足りた生活を送っていると考えられます。

生まれる前にいた境涯は、地上よりはるかに自由で快適な世界です。

神の公正は完全に保たれているのです。



もし、地上に戻りたいと思う時があるとすれば、それは未来が奪われてしまったと、嘆き悲しんでいる愛する人の姿を見ている時です。

願いは1つです。

元気でいて、未来は全く奪われていないと言う事実を、知ってもらうことです。



地上に残された人たちにも、自然法則は働いています。

突き付けられた解決不可能な現実により思考が停止し、それに伴って地上的自我の働きが弱くなります。

代わって霊的な自我の働きが強くなります。

深い悲しみは、心の奥深くに働きかけて、魂を目覚めさせます。



魂が目覚めると、地上的な自我が求めていた、地位やお金などはどうでも良くなります。

生命や愛など、霊的なものに意識が向くようになります。

自分を守るために、バリアのような役目を果たしていた地上的な自我の働きが弱くなると、相対的に霊的な感受性が高くなります。

目に視えないものを感じたり、霊界からインスピレーション(メッセージ)を受け取りやすくなります。


「見守ってくれている」、「また会える」と言っているのは、その人の希望ではありません。

変わることのない現実、そこから生まれる悲しみにより、魂が目覚めて、意識の焦点が変わり、直感的洞察力により霊的な真実を感じ取っていると考えられます。

理屈ではありません。

その人のオーラを感じたり、無意識の内に想い(インスピレーション)を受け取っていることもあるでしょう。

そこはかとなく存在を感じている人は、決して少なくないと思います。



いくら頭で考えても、分からないことがあります。

向こうにいる人たちの切実な願いは、地上の人の魂が目覚めて、霊的な真実を分かってもらうことです。



参考ページ:「魂(生命)に目覚める意味」





2021年3月14日日曜日

苦しみの中で変わって行く


何のために生きているのだろう?

若い時に、漠然とこんなことを考えることが良くありました。

しかし、答えは見つかりません。

その答えを宗教が示してくれるのかもしれませんが、良いイメージがなかったので、関わることはありませんでした。



そんな疑問などすっかり忘れて生きていましたが、40代半ばに差しかかった時に、突然、ヒーリングの力が出現しました。

直後に「シルバーバーチの霊訓」(霊的真理)に出会い、続けざまに人生を揺るがすような出来事が起きました。

無我夢中になって読んだその本の中に、若い時に抱いていた疑問に対する答えが書かれていました。



生きている理由は、至って単純でした。

自分を成長させるためです。

本当の自分とは、目に視える肉体ではなく、目に視えない魂です。

生命そのものである魂を成長させるために、私たちはこの世に生きています。



宇宙の中には、無数の知的生命体がいると考えられます。

その中でも、人類は高度に進化していると多くの人は思っています。

実際は、そこそこの知性と、未熟な霊性を併せ持つ、進化の程度の低い存在のようです。

その証拠に、同じ惑星の中で争いは絶えず、多くの生き物たちが虐げられています。



霊性の進化に伴って、知性が高まって行くようです。

霊性が未熟なのに、知性ばかりが発達してしまうと大きな問題が生じます。

その最たる例が、原子爆弾です。

アインシュタインに知的なインスピレーション(E=mc²)を与えるのが早過ぎたと、霊界はきっと悔やんでいると思います。



未熟な霊性を、少しずつ進化させて行くことが、生命に課せられた宿命です。

神と同じ霊性に到達したならば、進化の過程は終わりますが、それには永遠の時が必要なようです。

地上で生きる年月は90年位です。

死んで次の世界(霊界)に行きます。

次の世界においても、霊性を進化させる行程は続きます。



地上と霊界の大きな違いは、肉体があるかないかです。

肉体があると、意識が自然に自分に向いてしまいます。

霊界に行き、肉体から解放されると、意識は周囲に向かい始めます。



地上では肉体しか視えないので、個々の存在はそれぞれ独立しているように思えます。

霊界では、個々の存在の間に霊的なつながりを感じます。

自分は独立した存在ではなく、全体の中の一部であることが認識されます。




オーケストラは、それぞれの楽器がお互いに活かし合い、美しいハーモニーが生まれます。

人間も同じであり、お互いを活かし合う中で、全体に調和が生まれます。

死んで霊界に行くと、調和の大切さが身に沁みて感じられ、全体の中で自分をどう活かすかに意識の焦点が向きます。

より活かすためには、それ相応の資質を身に付けなければいけません。



霊界には周囲に自分と同じような人たち(類魂)しかいません。

お互いに考えていることが判り、同じような想いを共有しています。

人間関係の煩わしさは全くなく、生活は快適そのものです。



一方、地上は生き方や考え方が違う人たちの集合体です。

そのため、人と交わると自分との違いを感じます。

生まれる前にいた境涯がそれぞれ違うので、やむを得ないことです。



肉体を持つと、それに付随した精神(地上的な自我)が生まれます。

地上的な自我は、地上を安全に快適に生きることを志向しているので、多かれ少なかれ自己中心的な性質を帯びています。

そのために、自我を主張し合うと、相違から反発が生まれます。

反発を受けると、精神的な苦痛として感じます。

精神的苦痛を回避するために、自我を抑えて、周囲と協調することが求められます。



地上では、自分とは違う意見を認めて、尊重しなければいけません。

同類の人たちしかいない霊界では、自分と違う意見を認める行為はありません。

違いを認めるのは、ある種の苦痛を感じる行為であり、その中で魂の資質である寛容性が身に付くと考えられます。



地上では、肉体があるが故の苦痛が存在します。

電車の中で見知らぬ人に足を踏まれ、痛かったら、思わず怒鳴りたくなるかもしれません。

怒鳴ったら、周囲の調和を乱してしまうために、多くの人は我慢します。



中には、わざと苦痛を感じさせるような人もいます。

そんな人には、どうしても怒りが抑えられなくなってしまうでしょう。

相手に報復をすれば一瞬、怒りが治まるかもしれません。

しかし、因果律の働きにより、さらに怒りが生じる様な出来事が起きてしまう可能性もあります。



怒りは厄介な代物です。

神の心(愛)に反しているために、非がなくても苦しみとして感じてしまいます。

苦しみから逃れるためには、報復するのではなく、怒りを鎮めなければなりません。

そのために、神の摂理の働きを学ぶ必要があります。



全ての行いには、神の摂理が厳格に働いています。

(報復しなくても)その行為に対する相応の苦痛を伴う償いが、因果律の働きによって生じます。

神と神の摂理の働きに、全幅の信頼を置けたのならば、摂理に反した想いを抱いて苦しむことはなくなります。

怒ったり憎んだりするのではなく、無知を哀れむことを、神は望んでいると思います。



自分と違う人たちに囲まれて生活することに、地上に生まれた意義があります。

苦しみから解放されるために、周りではなく、自分が変わることが求められます。

変わって行く過程において魂は成長し、霊界でより周囲と調和するための資質が身に付けられて行くと考えられます。



病気や障害の苦しみも、地上だけのものです。

多くの病気の原因は自分にあり、正すために生じていると考えられます。

病気の苦痛は、長い間自我に埋もれていた魂を目覚めさせ、本来の自分を取り戻すためにある触媒と言えます。

魂が目覚めると、今まで大切に思えたものがどうでも良くなり、霊的に大切なものが視えて来ます。

霊界の人たちと同じ様に、周囲のために役に立ち、調和を意識した生活を送るようになる人もいるでしょう。



障害は、一生付き合わなければならない場合も少なくありません。

その苦しみは、経験した人でなければ理解できません。

現実は、どうしても変えられません。

変えることが許されているのは、自分だけです。

自分自身が、苦しみを感じないような生き方や考え方に変わって行くしかありません。

生きているだけで負荷がかかっています。

霊界に行って解放された時、地上で培った忍耐力、寛容性が如何なく発揮されて、周囲との調和が計られるはずです。



もし、償いによって病気や障害が生じているのであれば、時期が来るまで変われないと考えられます。

しかし、償いが終わったならば、外面は変わらなくても、内面が変わることで、精神的苦痛から解放されるはずです。



スポーツの世界で向上しようと思ったら、練習しなければいけません。

厳しい練習を積むことで、スキルが向上して、精神的な面も鍛えられます。

楽しいばかりの練習では、向上は望めません。



人生も同じです。

試練を乗り越えようとする中で、成長するようになっています。

楽しいばかりの人生では、向上は望めません。



子供の時に読んだ、「アリとキリギリス」の話を思い出します。

アリが毎日苦労をして食糧を貯えているのは、冬に備えてです。

苦労を経験しているのは、来るべき次の世界での生活に備えてです。

そのために計画されていた出来事を、今、経験しています。

キリギリスを羨んではいけません。



神の摂理の働きは完璧です。

不公正は一切ありません。

苦しみの果てに待っているのは、成長した悦びです。

その悦びを、霊界で待っている人たちと分かち合います。

魂の成長として実を結び、次の世界で活かされます。

全てが報われます。



経験することでしか、学べないことがあります。

そして、共有出来ない想いがあります。

地上で学んだことが、周りのために活かされ、深く想いを共有することで、全体の調和が促されます。



向上進化には苦しみが付きものです。

今生の苦しみは、次に待ち受けている世界で、より神の心を表現し、調和する悦びを味わうためにあります。






2021年3月7日日曜日

ドリームボックスについて


日本には、いくつもの「ドリームボックス」があります。

私の住む県にも、人里離れた山奥にあります。

○○県動物愛護センター、あるいは○○県動物管理センターと呼ばれる施設の中にあることが多いです。

各市町村の保健所に収容されている犬猫たちがその施設に集められ、期日が来ると自動追い込み式炭酸ガス装置、俗称「ドリームボックス」に入れられて、この世の最期を迎えることになります。(薬剤投与で殺処分を行う自治体もあります。)



「32743」この数は2019年度に、日本で殺処分された犬や猫の数です。

平成元年度を調べてみると、信じられないことに100万匹を超えていました。

少なくはなりましたが、0にならなければいけない数字です。

ショッキングな画像がありますので、現実を知りたい方だけご覧になって下さい。



数百年後の子供たちには、戒めの気持ちを込めて、きっとこう伝えられると思います。

「あの時代の人たちは、アウシュビッツの悲劇は2度とあってはならないと言いながら、全く同じ行為を罪のない動物たちにしていた」と。



以前の私は、保健所に収容されている動物たちが辿る運命を知っていても、ただ可哀想と思うだけでした。

霊的真理を受け入れてからは、何とかしなければと強く思うようになりました。



少し前の話です。

出身高校の同窓会の懇親会がありました。

その会に私の住む街の市長が同席していて、たまたま話をする機会がありました。

この機会を逃してはいけないと思い、動物たちが置かれている現状や、自分の思いを率直に伝えました。

急にそんな話をされて、びっくりしたでしょうが、耳を傾けてくれたようです。

しばらくして、「後で市長室に来なさい」と言われました。



またとない機会を得たので、動物愛護に特に力を入れている自治体のことを調べました。

そこで判ったのは、自治体によって大きな温度差があると言うことです。

力を入れてない自治体が多く存在する中で、目覚ましい成果を上げているところもありました。

その当時、際立っていたのが熊本市です。

熊本市は、保護された犬猫たちの命を、積極的に助けようとしていました。

保健所の職員の人たちは、休日返上で収容した動物たちの世話をして、新しい飼い主を見つけるための譲渡会を開いていました。

その努力により、殺処分する犬猫の数が0を達成していました。

こんな保健所が、日本にもあるんだと思いました。



後日、私の妻と妻が所属する動物愛護団体の代表の3人で、市役所を訪ねました。

市長室の広さに少々驚きましたが、長いテーブルの隅に市長とともに座りました。

持参した資料を見てもらいながら、熊本市を中心に動物愛護に力を入れている自治体の取り組みを説明しました。

しばらくした時、何か思うところがあったのでしょうか、急に秘書を呼んで「熊本市の資料を集めるように」と伝えていました。

人だけではなく、動物たちの命も考えてもらうことを願いながら、市役所を後にしました。



そんなことなどすっかり忘れていました。

しばらくして、変化があったことに気付きました。

私の住む市でも、保健所が主催する犬猫の譲渡会が開かれるようになりました。

市が発行している広報にも犬猫の譲渡会の記事が載り、市民の知るところとなりました。

多くの市民が譲渡会に足を運び、保健所にいた犬猫たちに、新しい家族が決まりました。

聞くところによると、職員数名を熊本市に派遣して、動物愛護事業のモデルにしたそうです。

市長に熊本市の話をしたことがきっかけで、この様な展開になったのかは定かではありませんが、もしそうであれば、思い切って話をして本当に良かったと心から思いました。



シルバーバーチの霊訓に、こんな一文があります。

「霊界から大々的に援助を受けていると言う事実を分かって欲しいのです。」

「皆さんは自分で気づいている以上に、霊界からいろいろと援助を受けています。」

振り返ってみると、懇親会で市長に会った時、何の躊躇もせずに動物たちのことを話そうと思ったのも、市長室で慣れないプレゼンテーションが無事に出来たのも、自分の力だけではなく、霊界の援助があったと思います。

こいつの話をもう少し聞いてみようと市長が思ったのも、熊本市と同じことをやってみようと決断したのも、霊界の働きかけがきっとあったと信じています。



人の力には限界があります。

「何をしても現状は変わらない」「やっても無駄」と、理由を付けて最初から諦めてしまうこともあります。

しかし、地上の人の想いと霊界にいる人の想いが一致したのならば、視えない援助の力が加わります。

ある時はインスピレーションの形となり、ある時は内から湧き出す力となって、一歩を踏み出たしたり、前に進んで行く力となります。

必要な人と、出会わせてくれることもあるでしょう。

地上の人は霊界の援助を受けて、持っている以上の力が発揮されて、思っていた以上の結果が得られることがあります。



霊界の人たちは、地上の人間の犯す過ちをたくさん見ています。

その中でも、罪のない動物に対する酷い仕打ちには、心を痛めていると思います。

人間と動物は、生命として同列です。

しかし、勝手に優劣を付けて、動物たちを蔑ろにしています。

搾取、虐待、屠殺、その他不当な扱いを受けている地上の動物たちの悲鳴(想い)は霊界に届き、何とかしなければならないと、強く思っているでしょう。



もし、動物愛護に関わる人がこのブログを観ているのであれば、伝えたいことがあります。

動物愛護に協力している霊界の存在はたくさんいます。(その先頭に立っているのが、アッシジの聖フランチェスコと言われています)

思い切って行動に移してみると、何か変わるかもしれません。

1人の力は小さくても、動物を慈しむあなたの想いに、霊界の存在が引き付けられ、援助の力が加わり、好ましい結果が生まれると考えられます。

動機が動物のためであれば、動きそうにないものが、動くことがあります。

最初の一歩を踏み出すのは、地上の人の意思です。

踏み出した後は、霊界から惜しみのない援助が得られ、想いは具現化して行きます。



話は変わります。

「ペットは死後も生きている」(シルビア・バーバネル著・ハート出版 絶版)という本があります。

その中に、イギリス有数の霊媒であるレナード女史が幽体離脱をしている時に垣間見た、動物たちの死後の様子が書かれています。

ちょっとショッキングな内容になりますが、転載します。

「ある夜、肉体から出たあと私は、いつものように上昇して行かないで、無理やり水平飛行をさせられているような、重苦しい感じがした。気がつくと、暗くて狭い通りに立っていたーというよりは、立っている姿勢を保っていただけで、地面に足をつけていなかった。足元が汚泥で気持ち悪かったからである。

 あたりを見回すと、家畜小屋のような汚い建物が密集していて、建物と建物の間は人間がやっと通れるほどしか空いていない。が、ところどころ、広く空いているところがあり、そこから囲いのある広い敷地へと通じている。

そこから中をのぞいてみると、そこには動物の群れがいる ー仔牛、豚、羊などー が、みんな死んでいる。いや、生きているー地面に横たわったまま身体を動かしているのだ。私はピンと来た。今しがたと畜(殺)されたばかりなのだ。

私は、ありたけの精神力をふりしぼって、その光景を見つめた。よほどの精神力がないと、とてもみられたものではなかった。それほど惨たらしい雰囲気に包まれていたのである。私はこれまで、平均的人間が死後に赴く世界をたびたび訪れてきたが、この場所はそれとはまったく異なり、一種異様な恐ろしさが漂っていた。が、それが一時的なものであることは私にも分かっていた。が、ともかくも私にはこれ以上その状態を叙述する気にはなれない。

そのうち誰かが語りかけているのを感知した。姿は見えず、遠いところにいるような感じがした。あとでその声の主は私の背後霊団の一人であることが分かったが、その霊が教えてくれたところによると、その動物たちが置かれている場所は地球と幽界との中間に位置しているとのことだった。

あの惨たらしい雰囲気は、人間の食糧として毎日のようにおびただしい数の動物が物的身体を奪われていく、その忌むべき行為から生まれるもので、物質界にきわめて近接した界層にあり、本格的な幽界に入らない中間地帯であるという。

その恐怖と苦痛、それに、誰をということもない恨みの念があたりに渦巻いていて、それが建物や壁よりもなお強い存在感もって迫ってくる。さきほどの背後霊は、その念、その感情の波動を何とかしなければならないのだと言っていた。

それは動物たちがどれほど苦痛を味わっているのかの指標であるばかりでなく、それが地上界も霊的ならびに精神的大気を汚し、人間生活を毒し、進歩を阻害しているからだという」

レナード女史は、この経験をしてからは、動物の肉を食べるのを止めたそうです。それまでの女史は、肉を食べながらそれが、かつては人間と同じ大気で呼吸しながら大地を闊歩していたのだということ、そして、殺される時は人間と同じ苦痛と恐怖を抱いたのだということに思いが至らなかったと述べています。(転載終わり)




動物たちは、最期の瞬間の想いのまま、あの世に移ります。

「ドリームボックス」の中に入れられた犬や猫たちは、どんな想いであの世に行ったのでしょうか?

恨んでいたのでしょうか?

裏切られて悲しんでいたのでしょうか?

それとも、愚かな人間を哀れんでいたのでしょうか?


1人でも多くの人に現実と霊的真理を知ってもらい、地上からこんな過ちが早くなくなることを祈ります。





私たちにも出来ること


・肉を食べない

・皮革製品を買わない

・ペットを飼いたい時は、買うのではなく、保健所や動物愛護団体から譲渡してもらう

・飼いたいと言っている人がいたら、保健所や動物愛護団体から譲渡してもらうように勧める



参考ページ:「人は肉を食べる生き物ではない」