2019年9月29日日曜日

傷つきやすい人



世の中には様々な人がいます。

怒りっぽい人、涙もろい人、良く笑う人、恐がりな人、心配性な人、優しい人、性格的特徴は、実にバラエティーに富んでいます。



人に酷いことを言われたり、されたりしても、あまり堪えない人もいます。

その逆に、すぐに心が傷ついてしまう人もいます。

これは性格的な違いではなさそうです。

個々の感受性の差によるものと考えられます。



感受性とは一体何でしょうか?

辞典で調べると、「環境内の事象の変化を刺激として感受する能力を感度、刺激に対して興奮しやすい性質」と何やら難しいことが書かれています。

私は、他者の言葉や行いを通して、そこに込められた「想い(思念)」を認識する能力だと考えています。



感度の高いラジオは、低いラジオに比べて、電波を強く受信します。

人も同じで、感度の高い人は目に視えない想い(思念)を強く受け取り敏感に反応し、感度の低い人は鈍感で思念に影響されにくいと思います。



想い(思念)を受け取っているのは、肉体(五感)ではなく魂です。

受け取りやすい人は、霊的な感覚が鋭敏であり、他者から放たれている思念を遮るものが少ないと考えています。

思念を遮るのものとは、地上的な「自我」であり、魂を取り囲むように存在していると考えられます。



自我とは、精神上に作られた、思念を表現するための媒体です。

同時に、他者からの放たれた思念を、直接、魂(霊)が受けるのを防ぐ、バリアのような役割を果たしていると考えています。

自我と言うバリアが厚い人は、外部からの思念の影響を受けにくいのですが、魂から生じている自分の本当に想いは表現されにくくなり、自我が希薄な人は、外部からの思念の影響を受けやすいのですが、自分の想いは表現されやすいと考えられます。
       
       

生まれたばかりの赤ちゃんは、自我がほとんど形成されていません。

魂が剥き出しの状態であり、他者からの思念に対して無防備と言えます。

赤ちゃんは、誰が見てもが可愛らしく感じます。

それは、怒りや憎しみなど、好ましくない思念が赤ちゃんに向けられるのを防ぐ、神の配慮だと思います。

もし、怒りや憎しみなどの強い思念を、無防備な魂が受け取ってしまったら傷ついてしまい、その後、何らかの影響が現れるかもしれません。

思い当たることがないのに、何かに怯えたり、過剰な反応をしてしまうことがあれば、過去に強い思念を受け取っていたのかもしれません。

理由もなく涙が流れるであれば、悲しみの思念を多く放っていた人が、傍いたのかもしれません。




子供の時に、最も必要なものは「愛情」です。

十分な愛情を受けていた人は、自分は守られていると言う意識を持つことが出来るので、心穏やかに、安心して過ごすことが出来ます、

しかし、愛情が不足している子供は、守られていると言う意識が希薄なために、不安になり、自分で自分を守ろうとします。

そのために、無意識の内に、強固な自我を形成していることが多いと考えられます。

不良と呼ばれる子供たちの多くは、幼少期に親(大人)から十分な愛情を受けていなかっために、不安感や恐怖心を抱いている可能性があると思います。

そのために、強い自我を前面に出して自分を守ろうとしていますが、その意識が過剰になると、人が怖れる行動を取ったり、攻撃的になることがあると考えられます。

威嚇や攻撃などの行動は、不安や怖れの裏返しである可能性が高いと考えられます。

もし、愛情に包まれて、安心感が得られたのならば、不安や怖れは解消し、問題となる行動は改善されると思います。

守られていると言う安心感を、物質的な力によって得ようとしている人がいます。

独裁者の多くは、常に不安や恐怖心にかられているために、強大な権力や武力を持つことに固執し、自分を守ろうとしていると考えられます

人は、外部から非物質的な侵襲を受けると、内部が傷ついてしまう恐れがあるので、非物質的な部分な自我の働きを強くして防御していると考えられます。

相手から責められたら反論し、殴られそうになったら反撃する、そんな防御的な反応も自我の働きによるものと考えられます。



一方、自我の働きが弱い人たちも存在します。

そんな人は、他者の思念を遮るものが希薄なので、その分、感受性が高くなっていると考えられます。

他者の言動に対して敏感に反応してしまい、人を傷つけるような思念をぶつけられると、容易にダメージを受けてしまう可能性があります。

それが嫌なので、人と会うのを避けたり、外部とかかわりを持ちたがらない人もいると考えられます。

子供のような、繊細な心を持った人と言えるのかもしれません。



そんな人は、温かで、優しい思念が放たれている場所は安心していられますが、怒りなど不穏な思念が放たれている場所は、不安や怖れが生じてしまうので避けたがります。

人が何を想っているのかを察知しやすく、言われなくても先回りをすることが出来るので、周りからは良く気が付く人と評価されることもあります。

人の想いが自分のように感じられるので、他者と想いを分かち合うことが出来ます。

また、言葉や行動の裏に隠された思念を感じ取ってしまうと、表と裏、本音と建て前が視えてしまい、その人の本質が判ってしまうかもしれません。

動物の想いに敏感になれば、肉が食べられなくなるかもしれません。




人の本質は肉体ではなく魂(霊)です。

そして、思念は魂から生じています。

地上の人は、五感に触れない思念(想い)を、精神の働きにより言葉や行動に変換して、五感に触れるような形にして、相手に伝えています。

伝えられた人は、どの様な想いなのかを、言葉や行動から察知することになります。

感受性の高い人は、言葉や行動から、そこに込められた想い(思念)を強く感じます。

時には、言葉や行動を伴わなくても、察知することもあると考えられます。

私たちが死んで次の世界に行くと、直接思念のやり取りをして、コミュニケーションをするようになります。

感受性の高い人は、地上にいながら次の世界に行った時と近い状態になっていると考えられます。

次の世界では、自分の周りには同類の魂しかいません。

放たれている思念も、似通ったものになるので、安心していられます。

しかし、地上ではさまざまな思念が放たれています。

感じたくない思念までも受け取ってしまい、心が乱されたり、疲れてしまったり、心身に不調が現れることもあります。



また、他者の思念を受け取り、同調をしやすいと考えられます。

怒っている人の傍にいると、イライラしてしまったり、涙を流している人の傍にいると、もらい泣きをしてしまうかもしれません。

相手から怒りなどの想いを受け取ると、同じ想いを相手に返そうとします。

つい返してしまうと、それは自分(魂)が望んではいなかったことなので、後悔してしまいます。

初めから自我の働きを強くして、好ましくない思念が入って来ないようにすれば良いのですが、それでは本来の自分とは違う想いが表現されてしまいます。

そのため、我慢してしまうことが多くなります。

想いが表現されずに溜まってしまうと、調和が乱れて、心身に症状として現れるかもしれません。



思念という霊的な波動が錯綜するこの世で、感受性の高い人が生活するのは、つらいものがあります。

しかし、その様な状況において、人や社会と関わり合いを持ちながら生きるのにも、何かしら大切な意味があるはずです。



霊的な感受性は誰もが持っていますが、五感に頼り切った生活をしているので、鈍くなっています。

頭で考えてばかりいる人は、五感を通しての情報しか認識されなくなり、目に視えるもの、地上なもので物事を判断するようになります。

そのために、誤解や差別や偏見が生まれてしまいます。

自我の働きが強くなると、打算的になり、自己を優先してしまいます。

そのために、争いが生じやすくなります。



地上の人は、言葉や行動によってコミュニケーションをしていますが、感受性の高くなれば、言葉や行動に込められた想いが正確に察知されるようになり、人と人の間に誤解は生じにくくなると思います。

言葉を超えたところで判り合えれば、怖れや不安から生じる争いも少なくなるでしょう。

の想いが判るようになると、痛みや苦しみに無関心でいられなくなり、手を差し伸べたくなります。

お互いを助け合う、好ましい世界に変わって行くはずです。

はるか先ですが、言葉を介さずに他者の想いが察知されるようになり、伝えたいことに即応してもらえる世界が訪れるかもしれません。

それは霊界に近い、居心地が良く快適な、より進化した世界と考えられます。



人の想いを察知し、応えられるのは好ましい特性です。

自分の想いを判ってくれた人は、うれしさやありがたさを感じ、今度は、自分が他者の想いを判ろうするでしょう。

他者の想いを判ろうとすれば、自分の想い(考え)を押し付けることは少なくなるでしょう。

少なくても、人の嫌がること、傷つけるようなことはしなくなります。



自我の働きを強めることなしに、外から受ける思念の影響を少なくするためには、どうすれば良いのでしょうか?

自らが、愛念を放つように心がけていれば良いはずです。

怒りや憎しみなど、好ましくない思念を放つ人がいたとしても、こちらが愛念を向けていれば、同調することも、影響されることもありません。

あらゆる思念の中で最も強いのは愛であり、勝るものは宇宙に存在しないからです。



神は、自らの中に存在しています。

神と結ばれていることを強く意識すれば、内から神の愛が湧き出し、その愛に包まれていれば、思念が入り込むのを防いでくれると思います。

また、自分を守護している視えない存在に思いを寄せて一体となり、オーラで包み込んでもらうように祈るのも良いのかもしれません。

自我ではなく、愛に包まれていれば、自分らしく生きられ、外からの思念の影響は受けにくくなると考えられます。



傷つきやすい人は心の弱い人ではありません。

感受性の高い人であり、霊的には望ましい特性であり、先駆けなのかもしれません。




2019年9月15日日曜日

この人生で終わりではない



私は50代の後半になりました。

年を取るのに従い、肉体の衰えを感じます。

ちょっと悲しいですが、これも自然の摂理です。



肉体の衰えが限界に達した時に、人は死を迎えます。

それが何時なのか、大体は決まっていますが、知ることは出来ません

死んだ後、どうなるのかも、知ることは出来ません。



もし、死んで終わりになるのであれば、こう考えてもおかしくありません。

人生なんか意味はない。

どんな生き方をしようと関係ない。

所詮、無になってしまうのだから。

たった1度きりの人生。

たくさんのお金を稼いで、好きなことをするのが最高の人生。

苦しいことなど、何の得にもならないので逃げてしまおう。

自分さえ幸せならば、それで良い。

神様なんていないので、ばれなければ悪いことをしても構わない。



けれども、そう思っていない自分がいて、こう言っているようです。

金持ちになり、好きなことだけをしていても、幸せにはなれない。

苦しくても、逃げたくはない

自分さえ幸せならば良い、それは間違っている。

ばれなくても、悪いことはしたくない。



確かに、好きなものを食べて、好きなものを買って、好きなところへ行っても、一時は幸せな気持ちになれますが、ずっと心が満たさるわけではありません。

苦しいことから逃げてしまうと、後で後悔します。

自分さえ幸せならば良いと言う考えは、利己的で好ましくありません。

悪いことをすると、良心の呵責に苛まれます。



どうして、心の中にそんな思いが生まれて来るのでしょうか?

頭で考えて、そう思っているわけではなさそうです。



人は肉体だけではなく、精神が存在しています。

そして、精神の上位に魂が存在しています。

地上の人は、肉体と精神と魂(霊)の複合体です。

魂から生じた思念が、精神に反映されて、肉体を媒体として表現され、具現化しています。

人の本質は魂です。



魂に課せられている宿命は、成長です

この世に生まれて来た目的も、魂を成長させるためです。

逃げてしまうと後悔するのは、成長する機会を逃してしまうからです。



人生で遭遇する出来事は、全て自然法則の働きによって生じています。

自然法則は、無限の叡智、無限の愛によって創造され、不備は一切なく、その働きは完璧です。

自然法則の働きにより、宇宙の秩序が保たれています。

そして、自然法則の働きにより、宇宙は進化しています。



生命の進化とは、知性(頭脳)の発達ではなく、霊性の向上です。

魂が成長して、より多くの神性が発揮されるようになることです。

自己を犠牲にして他者に愛を表現すること、そして自己に打ち克ち困難や障害を乗り越えることで、魂は成長て行きます。



進化させる目的を持って自然法則が創造されたのであれば、自然法則の働きによって起きた出来事は人を進化(成長)させているはずです。

つらく、苦しく、逃げ出したくなるような出来事であっても、私たちを成長させるために起きているはずです。

成長させる目的があるのならば、乗り越えられない出来事が起きるはずはありません。

出来事が起きた時点で、乗り越えられることが、無限の叡智によって保証されていることになります。



乗り越えられないと思っているのは、この世で作り上げて来た自分(自我)です。

自我は、この世で自分(魂)を表現をするために存在していますが、肉体と密接に関係していて、地上の環境から自分を守るために、安全で楽な方向に進んで行こうとします。



本当の自分(魂)は、成長をするために乗り越えようとしますが、自我は安全で楽になる方向に進んで行こうとするので、両者の間で葛藤が生まれます。

どちらが主導権を握るかで、進んで行く方向が決まります。

逃げるように囁いている自我に打ち克って、覚悟を決めて一歩前に進んで行くのが正解です。

そうすれば、必ず乗り越えられるので、迷わずに前に進んで行きましょう。

起きることの全ては、成長するかけがえのない機会となっています。



苦しみから逃げれば良いはずなのにそうしたくない理由は、魂が成長することを希求しているためと考えられます。

つらくても、苦しくても乗り越えようとするのは、その過程において魂が成長するからであり、この世に生まれた目的を果たそうとしていると考えられます。



利己的になったり、わがままはいけないと思うのは、理屈ではありません。

自分のことだけを考えて生きていても、人は成長しません。

人を蹴落としたり、傷つけてしまえば、それは自然法則に反した行いになり、償いが生じてしまいます。

人や社会や動物の悦びのために何かをすることで、魂は成長します。

そのことを、本当の自分(魂)は承知しているので、自分だけが幸せになろうとはしないと考えられます。



悪いことをしようとすると、心の中の何者かが止めさせようとしています。

それが良心です。

良心とは、魂に内在している神です。

良心を無視して実行すると、神の忠告を無視したことになり、自然法則に背いて罪を犯していることになります。

罪を犯してしまったのならば、相応の苦痛による償いが必要になります。

そして、償いをしている間は、成長は許されません。

悪いことをしてはいけないと思うのは、魂に内在する良心の働きによるものであり、それを無視して行動に移すと、自然法則に背いたために償いが必要となり、成長が出来なくなるからです。



人生は、誰一人として同じではありません。

同じ人間なのに、何故ここまで違うのかと、不満を感じてしまう時があるかもしれません。

自分(魂)には、いろいろな側面があります。

成熟しつつある側面、未熟な側面もあり、人それぞれ違っています。

この世の人生で、未熟な側面を通して自己表現をすると、苦しみや痛みを伴う結果が生じます。

人は誰しも、苦しみや痛みを味わいたくありませんので、未熟な側面を変えて行くしかありません。

未熟な側面を変えて行く過程が、地上で繰り返されて、魂は少しずつ成熟(完成)して行きます。

人から教えてもらって変えるのではなく、自らが苦痛の経験によって、自然法則の働きを学ぶことで、変わって行きます



魂の1側面である、寛容さが足りない人がいたとします。

寛容さが足りないと、周囲の人や出来事が許せなくなり、そのために怒りが生じます。

その想いは、神の心に反しているために、自分の中に苦しみが生れると同時に、因果律の働きにより、周囲から自分が許されなくなり、その苦しみも味わうことになります。

苦しみによって、自分に足りないものに気付き、寛容さを身に付けながら、魂は成長して行きます。



死んだ後も、生命は続いています。

次に赴く霊界においても、引き続き魂は成長し続けます。

霊界には同類の魂しか周りにいません。

煩わしい肉体もありません。

人間関係で苦しんだり、病気になることもなく、地上的な苦痛が完全に取り払われています。

平和で快適な世界ですが、そんな世界で自分を変えるのは難しいのかもしれません。

人は成長して行かなければならない宿命があります。

再び地上に生まれて、霊界にはない苦痛の経験を通して、自然な形で自分が変わって行くと考えられます。


人は目的を持って、この世に生まれて来ます。

共通しているのは魂の成長です。

自分に課した目的を果たすために、それぞれが相応しい経験をしています。

それぞれ目的が違うので、違う人生になるのは当然です。

従って、他者の人生と比べても全く意味がありません。



苦難が多い人生は、不幸な人生ではありません。

苦しければ苦しいほど、自分が大きく変わり、成長します。

大きな負荷がかかり、心身はきしみ、悲鳴を上げますが、その負荷こそ自分(魂)を変えて行く原動力になります。


限界は存在しません。

揉まれて、しごかれて、どん底に突き落とされて、魂が目覚め、これまでにない大きな力を出した瞬間、魂は成長しています。

自分の限界が拡がり、表現する力がより強くなっています。

絶望的で悲惨な状況になっている人を見て、世の中の多くの人は不幸な人として、哀れんだりします。

しかし、それは見当違いかもしれません

記憶にはありませんが、大きく成長する人生を選んでいる、あるいは償いを自分に課している可能性が高いからです。

地上の苦しみは、霊的な成長として報われることで、完全な公平、公正が保たれています。

この世の人生が終わった後に、大きな成長と学びを手にした深い悦びを味わいながら、偉大な存在に感謝するはずです。



心身に大きなハンディーキャップを持っている人がいます。

当然のことながら、生きて行くのに常に困難が付きまとい、周囲の援助が必要になります。

逃れることができないので、生きているだけで、魂は着実に成長しています。

肉体から解放された瞬間、自由に表現出来る大きな悦びを味わい、今度は思う存分、周囲に奉仕をして返すようになるのかもしれません。



この人生で終わりになるのであれば、生まれて来た意味を見つけるのは困難です。

消えてなくなってしまうのかもしれないのに、人は正直であろうとし、目標に向かって努力し、苦しみや悲しみに必死に耐えて生きようとしています。

その事実こそが、この人生で終わりにならないこと、自分を成長させるために、この世に生まれて来たことを証明しています。