2019年6月23日日曜日

背後にいる霊と共に今生を生きる



今から、20年前の自分を振り返ってみると、一人よがりな生き方をしていたと思います。

何かをして上手く行った時には、自分の実力の結果と過信をしていたようです。

多くのことは、自分の力だけではなく、周りの協力があって成し遂げられます。

周りに感謝することによって、私の様な傲慢な考えを持つのを防げます。



地球にたった一人だけ取り残されたとしたら、どうでしょう?

人間らしく生きて行くことは、とても出来ません。

人は人によって生かされています。

それゆえに、日頃から周りに感謝しなければならないと思います。

周りに感謝すれば、温かい気持ちで満たされ、幸せを感じられると思います。



実は、私たちは周りにいる人以外からも、多大な援助を受けています。

援助している存在は、「守護霊」とか「背後霊」と呼ばれていますが、この世の存在ではないので、当然ですが五感では認識されません。

認識している、していないに関わらず、私たちの人生に深く関わっているのは、紛れもない事実です。



なぜ、守護霊は付いていてくれるのでしょうか?

盲導犬は目の視えないご主人の目の代わりになって、危険を回避させています。

守護霊は、物質的な世界で霊的に物事を判断できなくなっている地上の人に、無用な禍が降りかからずに、生まれて来た目的を成就させるために付いています。


親は子供を守り育てますが、大人になり独立すれば、その役目は終わります。

友達は自分の思いを聞いてくれて、助言をしてくれますが、いつでもいるわけではありません。

どんなに親しい間柄の人でも、肉体を介在した関係なので、距離や時間の制約を受けますが、守護霊にはそれがありません。

一生涯に渡り、私たちの傍に寄り添い、導き、援助の力を与え続けています。



では、どんな時に導いているのでしょうか?

私たちは、さまざまなことを決定しながら生きています。

予定されていた方向、霊的に成長する方向に進んで行くように、守護霊は導いています。

地上の人が道を踏み外しそうになった時に、「それはいけない」と思わせる思念を送って、制止するように働きかけています。

霊的な成長は、人や社会のために奉仕をすること、困難や障害を乗り越えることで得られます。

その機会が訪れた時に、後ろから背中を押してくれているのが守護霊です。

地上の人に「やってみよう!」と思わせる思念を送って、決断を促していると考えられます。



守護霊から届く思念は、耳から人の声として聴こえるものではありません

心の中に突然、概念やイメージや言葉となって生まれます。

自分の思考と識別するのは容易ではありませんが、思考の場合はコンピューターと同じで入力があるはずです。

入力されたものが、知識や経験を元に大脳で計算(思考)されて、答えとして出力されます。

1+1と入力がなければ、2は出力されません。

霊界から届く思念は、大脳での思考とは全く関係ない、無から生まれるインスピレーションと考えられます。



思念によって導いているのなら、はっきり判るようにして欲しいと思ってしまいます。

しかし、はっきりと判ってしまえば、何でも守護霊に頼りたくなってしまうかもしれません。

決断をして、結果責任を負うのは、あくまでも地上の人ですが、不本意な結果に終わったら、守護霊のせいにしてしまうかもしれません。

地上の人は未熟なので、明確に判らない形で導いていると考えられます。



何かに挑戦する時に、多くの人は不安や心配に駆られます。

自分の前に現れる事象は、全て乗り越えられるはずですが、失敗した時のことをつい考えてしまいます。

そんな時に、守護霊は思念を送って、不安や心配を吹き飛ばし、前に向かって進んで行かせようとしています。

決めるのはあくまでも地上の人であり、霊界の人は干渉できません。

前に進んで行く決断を促し、いざ決断したら成就できるように、励ましたり、勇気付けたりしていると考えられます。

時に、自我(エゴ)が出しゃばり過ぎると、霊界から届く思念が受け取れず、横道に逸れてしまうこともあるでしょうが、今の自分があるのは、守護霊の導きのお蔭と思って間違いありません。



悩みや不安が大きくなり、心が暗くなっている時、何もしていないのに、急に目の前が明るくなった経験はないでしょうか?

難題が降りかかり途方にくれた時に、理由もないのに、何とかなりそうな気持ちになったことはないでしょうか?

そんな時は、守護霊から援助の力が届いていたのかもしれません。

守護霊は、物質的次元の存在ではありませんので、五感を通してではなく、魂に想いを伝えています。

想いは、地上の人の心境を一瞬にして変化させる力があると考えられます。



私たちは、一人で生きているのではありません。

目に視えませんが、背後にいる霊と共に生きています。

大切なのは、そのことを信じて、意識しながら生きることです。

意識した方が、より援助を受け取ることが出来て、安心して人生を歩んで行けます。

背後にいる霊の共通した願いは、地上の人が学ぶべきことを学び、予定通りに成長して、この世に生まれて来た目的を成就させることです。



ヒーリングや故人のメッセージを伝えるなど霊的な奉仕は、背後に霊がいなければ成り立ちません

仕事や家事や育児も奉仕の一環であり、魂の成長に関わっているので、援助を受けていると考えられます。

芸術家は、背後の霊から受け取ったインスピレーションを、物質的次元に変換して表現していますが、霊的な成長に伴い、より高い界層の霊からのインスピレーションを受け取れるようになると考えられます。

以前、アメリカ在住の日本人脳神経外科医の仕事ぶりがテレビで紹介されましたが、神業とも言われる精緻な手術を見て、地上時代に卓越した技術を持っていた霊界の人と同調し、インスピレーションを受けながら、メスを動かしているのではないかと思いました。

人や社会のために貢献しようとする地上の思念に、想いを同じくする霊界の人が引き付けられて、援助の力やアイデアが与えられて、持っている以上の力が発揮されると思います。

数年前に山の中で迷っていた幼い子供を、ボランティアに励む男性が発見しましたが、霊界からのインスピレーションに従って行動した結果のように思えました。

私たちは、守護霊や背後霊からのインスピレーションを受け取って、無意識に行動していることが多く、その結果として願望が成就されると考えられます。

思い付きやひらめきとして感じているものの多くは、霊界からのインスピレーションと考えています。



何か問題が生じた時に、こちらから霊界に尋ねる時があります。

応答は、尋ねた直後、または被るようにして返って来ることが多いです。

もし、私の思考の産物であるならば、答えを出すのに時間がかかるはずです。

少し前ですが、問題が生じて思案している時に「大丈夫」と心の中で声がしました。

根拠がないのに大丈夫と言われても信じられませんでしたが、霊界では問題(原因)が起きた時点で結果が視えているようであり、結局はその通りになりました。

安心させてくれる助言を、何度となく受け取りましたが、これまで外れたことはありません。

最近では、大丈夫と思念を送ってくれた上で、解決方法と思われるイメージを送ってくれました。

それが正しいのか、まだ判りませんが、素直に信じて実行したいと考えています。



何でも尋ねれば応えてくれるのではなく、地上の人の成長にとって有益だと判断された時だと思います。

物質的な欲望を満たすために尋ねても、応えてはくれないでしょう。

たくさんのお金が入れば、地上的な満足は得られるでしょうが、霊的な成長にとって好ましくないからです。

もし、返答があったとしたら、それは守護霊や背後霊からのものではないと考えられます。



地上の人は、取り越し苦労をすることが多いようです。

無闇悩んだり心配すると、霊界とのつながりが弱くなってしまい、無形、無償の援助が受けにくくなってしまいます。

起きた事象は、必ず乗り越えられるはずです。

しかし、それは霊界からの援助も加味されてのことであり、出来なくなると予定通りに行かなくなるのかもしれません。

成長を妨げてしまう想いを払拭して、地上の人を安心させ、力付ける思念を送って自信を持たせて、目の前に立ちはだかる事象を乗り越えさせようとしています。




背後にいる霊からの援助を得るために(あくまでも個人的な見解です)

1、霊的真理を学び、実践する
2、魂の存在、背後にいる霊の存在を心から信じる
3、親愛の想いを向けて、一体化するように願う
、成長して行くため、乗り越えるために、力を与えて下さいと願う
5、援助が得られたと感じたら感謝する



背後にいる霊は、地上に生きる私たちと愛で結ばれているので、いつでも力になりたいと思っています。





2019年6月9日日曜日

苦しみの本質



今年の4月に東京で痛ましい事故が起こりました。

87歳の老人が運転する車が、青信号で渡っていた幼い子供と母親をはねて死亡させてしまいました。

家族を失った男性は記者会見で、現実を受け入れられないと言っていました。

事故に遭う1時間前まで、いつものように電話で会話をしていたそうなので当然です。

そんな様子を見ていて、一刻も早く霊的真理に巡り合って欲しいと思いました。

姿は視えなくなったけれども、生きていて傍にいることを知って欲しいです。



私自身も、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に巡り合って、救われました。

果律の働きによって、大きな苦痛を伴う出来事が生じましたが、真理を受け容れるために必要でした。

真理は、この世で起こるあらゆる事象に深い理解をもたらし、問題解決のための示唆を与えてくれます。

あれから10数年、繰り返し読んでいますが、未だに矛盾点は見つからず、経験則から真実性を確信するばかりです。

それでも、本当なのか?と思うことありました。

それは「理解が行き届かないから苦しい思いをする、十分な理解が行けば苦しまなくなる」と書いてあったことです。

あまりにも理不尽な事故で最愛の家族を失った先のご主人のような人でも、十分な理解が行けば苦しまなくなるのでしょうか?

悲しみ、怒り、後悔の念に襲われて、生きていること自体が地獄のような苦しみの人でも、解放される時が来るのでしょうか?



もし、この世で終わりと考えるならば、存在がなくなってしまうことになります。

死は永遠の別れであり、2度と会うことは出来ません。

現実は、死んだ後にも世界があり、肉体とは全く異なる媒体で自己表現をして生きています。

視えなくなりましたが、親愛の情で結ばれた人との間に、別れは存在しません。

無になってしまったと事実誤認をしている人は、余分な苦しみを抱えて生きなければなりません。



たとえ、あの世があると信じていても、亡くなった人は一人ぼっちで、寂しくしていると思うと、いたたまれない気持ちになってしまいます。

実際には、この世を去った直後に、先に亡くなった親族、生前親しかった人たち、小さい子供は情愛に溢れた人たちが出迎えてくれて、寂しい思いをすることはありません。

その後は、元いた住処に戻り、霊的に親しい間柄の人たちとの生活が始まります。

自分のことを哀れに思い、嘆いている地上の人たちを見て、大きな勘違いをしていると伝えたくなるほど快適な世界にいます。



突然の事故や事件でこの世を早く去れば、さぞ悔しい思いをしているのではないかと思ってしまいます。

現実は、埋め合わせの原理(神の法則)が働いていて、地上の人が考えているような悔しい思いをしていることはありません。



罪を犯しておいて、裁きも受けずに、反省も償いもしない人がいます。

そんな人が、何事もなかったかのように生きていると、やり切れない思いに苛まれてしまいますが、死んだ後に自分の行いと、それに伴う結果を見せられ、罪の意識に苛まれることになります。

そこから逃れるためには、この世にもう1度生まれて、相応の苦痛を味わう人生を歩み、償うしかありません。



何で自分だけが、こんなつらい経験をしなければならないと思えば、持って行き場のない憤りが生じてしまいます。

人生はこの世だけではありません。

何度もこの世に生まれて、多種多様な経験をしながら、人は学び成長しています。

今、平穏な人生を送っている人たちも、過去(生)においてつらい経験をしていたのかもしれません。

あるいは、これから先に待ち受けているのかもしれません。

過去に過ちを犯して、その罪を償うために出来事が生じている人もいるでしょう。

この世は、極めて不公平に思えることが、たくさんあります。

しかし、過去の人生、未来の人生を視ることが出来たのなら、自然法則の働きにより、完全な公平が保たれているのがはっきりと判り、憤りは消えてしまうと考えられます。



現実は、何一つ変えることは出来ません。

しかし、霊的真理を知ることによって、苦しみは和らぐと思います。



人生は楽しい、それとも苦しいものなのでしょうか?

もちろん、楽しいこともありますが、苦しいことも避けられません。

何故なら、この世は次に待ち受けている本番の世界で、より良く生きるために修練するためにあるからです。

修練は苦しいものです。

もし、楽しかったとしたら、自分の資質を高めたり、新たに獲得することは出来ません。

スポーツの世界でも、苦しい練習に耐えている時に運動能力や技術が向上し、本番で良い結果を出すことが出来ます。

人生も同じであり、苦しい日々に耐え抜いた人が、身に付けた資質を本番の世界で十分に発揮することが出来ます。

「苦労は買ってでもしなさい」と昔から良く言われますが、それは成長として報われるからです。

苦労の多い人生を送った人は、地上的に見れば不幸な人になりますが、霊的に見れば成長する機会が多く与えられた、幸せな人と言えるのかもしれません。


苦しみと悦びは、表裏一体です。

苦しみに耐えて生き抜いて来た人が、あの世で成長した悦びを味わいます。



苦しみとは何でしょう?

現状に適応出来ていないことから生じると考えられます。

空気の薄い高所に行くと、息苦しくなりますが、それは肉体が環境に適応出来ていないからです。

けれども、しばらく滞在すると、酸素を運ぶ赤血球が増えることによって適応し、息苦しさは解消されて行きます。

環境が変わらなくても、肉体には変化を起こす力が秘められていて、苦しさから脱することが出来ます。



精神的な苦しさも同じです。

苦しいのは、置かれた状況に自分(魂)が適応出来ていないためです。

しかし、自分の内部には変化を起こす力が秘められていて、適応して行くことにより、苦しさから脱することが出来ます。

苦しみは、精神や魂を変えて行く力になると言えます。



苦しみは感じるものであり、主観的です。

同じ状況に置かれても、人によって苦しみの程度に差があります。

ある人はさほど苦しくないことでも、ある人とっては大きな苦しみとして感じることがあります。

それは、過去において、それ以上の経験をしているのか、していないかの差と考えられます。



苦しみを感じなくなるには、自分が変わるしかありません。

それを成長と言うのかもしれませんが、変わりたくても、どうしても変われないのであれば、過去の過ちを償っている可能性があります。

しかし、償いが終わると同時に、変われない苦しみから解放されます。



人は苦しさを感じると、つい置かれている状況を変えようとしてしまいます。

逃げてしまえば、苦しみはなくなるかもしれませんが、自分が変わる(成長する)機会を逸していることになります。

また、苦しみを怒りや憎しみに転化してしまえば、結局は苦しみとなって自分に返って来ます。



苦しみは成長を促し、成長することで手に入れる真理(叡智)があります。

真理を手に入れるとは、頭で知識を獲得するのではなく、言葉を超えた法則を魂が得心することです。

簡単に言えば、悟ることです。


苦しみは自分が変わるために存在し、変わる必要がなくなれば解放されます。

地上に生まれた1つの目的は、真理(叡智)を手に入れながら、さまざまな苦しみから解放されて行くことです。


苦しみは神のものであり、神の心を表現する方向に私たちを導いています。

自分(魂)が変わり、神の心を表現するようになれば、苦しみはなくなります。

地上における真理を全て手にした人は、何が起きても苦しまなくなるはずです。

何が起きても苦しまなくなった人は、地上に存在する理由がなくなり、霊界で向上進化して行くと考えられます。

そして、真理は無限であるため、次元を超えて永遠に生き続けることになります。





愛する家族を失ったご主人の苦しみは、まだまだ続きます。

もしかしたら、苦しみが終わらないうちに、ご家族と再会することになるかもしれません。

再会した瞬間、苦しみはなくなります。

今までの苦しみは何だったのだろうと振り返る時、これほど自分を成長させるものはなかったことに気付くでしょう。

最も過酷な苦しみを経験したので、多くの人が苦しみと感じることも、感じないようになっているでしょう。

再会した悦び、大きく成長した悦び、双方の悦び感じながら、完全な公正が保たれていたことを知り、神に深く感謝すると思います。

地上では不幸な人と呼ばれていましたが、霊界では極限に近い苦しみに耐えて生き抜いた人生の勝者として祝福を受けて、さらに幸せな境涯へと上がって行けるのかもしれません。



自分が変わらなければ、苦しみが続いてしまいます。

変わろうと思って変われるものではありませんが、少なくても人や社会のせいにしたり、怒りや憎しみや嘆きに変えてしまえば、自分を変える力として働くことはありません。

自暴自棄になってもいけません。

真正面から享受して、自分にとってどんな意味を持つのか、静かに思いを巡らせましょう。


ゲッセマネの園