私がこのブログを書いている大きな目的の1つは、「あの世」が存在することを、多くの人に知ってもらうためです。
しかし、「あの世」の存在を万人に判る形で証明するのは不可能です。
あの世は、この世とは次元が異なり、五感で認識することが出来ないからです。
それ以外にも理由があり、万人があの世の存在が判るようになってしまったら、大きな問題が生じてしまうからと考えています。
もし、最愛の人を亡くして「あの世」が存在し、そこで故人が生きていることが明確に判ったとしたらどうでしょう。
この世で生きるのを中断して、会いに行こうとする人がいるかもしれません。
過酷な試練に打ちのめされて、生きているのがつらくなった時に、あの世があることがはっきりと判ったとしたらどうでしょう。
つらいこの世から逃れて、行ってしまう人がいるかもしれません。
私たちは、何のために生まれて来たのでしょう?
自分を成長させるためです。
足りないところを補うためです。
そして、過去の過ちを償うためです。
そのためには、この世でふさわしい経験をしなければいけません。
無償で授かるのではなく、全て経験と引き換えです。
生まれる前の自分は、この経験をすればどれ位成長するのか、どんな教訓が得られるのか、そして罪が償われることが、予め判っています。
全てを承知して生まれて来たのです。
しかし、いざ生まれてしまうと、承知していた出来事の記憶はなくなってしまいます。
もし、予定されている出来事(経験)の記憶が残っていたらどうなるでのしょう?
病気、別れ、挫折、障害などが、自分の身に起きるのが判っていたら、多くの人は気になって今を精一杯生きられなくなってしまいます。
何とかして回避出来ないかと、必死になってしまうでしょう。
死ぬ時が判っていたとしたら、いつもの精神状態でいられる人は、どれほどいるのでしょうか?
この世を生きている人はそれほど強くないので、これから起きる出来事は神の配慮により、記憶から消し去られていると考えられます。
そして、自然法則は私たちを成長させる方向に導いています。
この世で経験している出来事により、私たちは成長をしているのです。
どんなに力を尽くしても、願いが叶わないことがあります。
たとえ願いが叶わなかったとしても、力を尽くすことにより、成長する目的は達成されています。
非情に思えてしまいますが、目的が達成されたのなら、神にとって地上的な結果は小さなことなのかもしれません。
その先に、成長した悦びが用意されているはずです。
最も大切な真理の1つに「乗り越えられない困難(出来事)は生じない」があります。
言い方を変えれば、乗り越えられるのは、神によって保証されていることになります。
私もこの言葉にしがみついて生きた日々があり、それが真実であることを確信しています。
今、大きな困難に直面しているのであれば、とりあえずこの真理の言葉を強く信じて生きてみましょう。
裏切られることは、絶対にありません。
ところで、「乗り越える」と言うことは、どのようなことを意味するのでしょう?
私は、苦しみから解放されることだと考えています。
では、どうすれば苦しみから解放されるのでしょうか?
その前に、もう1つ大切な真理があります。
人は苦しみに出会うと、じっと耐えたり、何とかしようと必死にもがいたりします。
そんな最中に、自分(魂)が成長していると言う真理です。
成長することによって、今までの苦しみが、苦しみとして感じにくくなって行くと思います。
いきなり10kmを走れば、誰でも苦しくなりますが、つらくても毎日走っていれば、10km走っても以前のような苦しみは感じなくなります。
苦しみに慣れるのではなく、苦しみに対して自分が強くなっていると考えられます。
生じた出来事は寸毫たりとも変えられません。
しかし、自分(魂)は絶えず変わっています。
自分の成長に伴って、出来事の捉え方が変わったり、大切な真実を見つけて、苦しみが和らいで来ると考えられます。
繰り返しになりますが、私たちは成長するために、この世に生まれて来ています。
出来事を通して成長し、真実を手に入れると言う目的が果たされれば、苦しみから解放されると考えられます。
なぜなら、出来事は苦しめるためではなく、魂を成長させ、真実を手に入れるために、自然法則の働きによって生じているからであり、目的が達成されれば必要なくなるからです。
時間の経過ではなく、自分の奥深い部分が変わって、今までの苦しみから解放された時、出来事が乗り越えられたと考えられます。
出来事は乗り越えようとして、乗り越えられるものではありません。
苦しみや、悲しみに耐えながら日々暮らす中で、息が切れるような上り坂が終わり、気付いてみたら平坦になっているように思います。
つらくても生きていれば、人知れず魂は成長して行き、穏やかな日々を過ごせる時が必ず来ます。
生まれる前の自分は、決して容易ではないけれども、出来事は乗り越えられると判断していたはずです。
もし出来事が偶然起きるのであれば、乗り越えられないことはないと断言出来ません。
しかし、全て自然法則(神の摂理)の働きによって生じているので、乗り越えられない出来事は絶対に起きないのです。
苦しみは、魂を成長させて、真実に気付くために存在する触媒です。
苦しみが大きいほど、高みに導ているのですが、その意味を知らなければ、ただ逃れたいと思うばかりです。
乗り越えて行くことを自分が承知していたにもかかわらず、その時になって逃れることは許されません。
どんなに苦しくても正面から受け止めて、肉体が自然に朽ちる時まで生きなければいけません。
志願して生まれ来たのに、中断してしまうのは、絶対に許されないのです。
私はあの世があると信じています。
この世しかないと信じている人もいます。
もし、あの世がないのならば、心臓が停止すればその人の全てが終わります。
意識は消えて「自分」は消滅し、周囲とのつながりは完全に断たれます。
そうだとしたら無になることに恐怖を感じます。
生きている意味など、どこにも見つけられません。
人生には喜びがあり、悲しみもありますが、それが何のためにあるのかが、全く判らなくなってしまいます。
死んで終わりならば、不合理とも思えるそんな感情などなくて良いはずです。
喜びや悲しみなど、心が大きく動かされる経験を通して、魂は熟成し豊かになって行く、そう考えた方が自然です。
想い(感情)を共有することによって人は1つになって行く、そのためにさまざまな経験をしている、私はそう考えています。
ところで、人は社会のために貢献したいと欲するのはどうしてでしょう?
死んで無になってしまうのであれば、今を、面白、おかしく生きれば良いのであり、自己犠牲を伴う行いをしようとする理由は見つけられません。
自己満足を得るため以上の、意味があると考えられます。
魂(霊)は過去から未来へと存在し続けています。
魂の成長にとって、大きな意味があります。
困難を乗り越えて行く以外に、人や社会のために奉仕することで真の悦びが与えられ、魂は成長して行きます。
成長する機会を得るために、この世に生まれて来たのであり、あの世に行ってからこの世で得たものが活かされます。
あの世の存在を信じていなくても、魂に成長したい根源的な欲求が内在しているために、人は苦しくても、つらくても生きようとするのだと思います。
しかしながら、あの世があるのがはっきり判ってしまうと、かなり多くの人が誘惑に負けて、安易にあの世に行ってしまうと考えられます。
あの世があるのかないのか判らない、死は怖いものと感じているからこそ、この世に留まっていられるのかもしれません。
あの世は、間違いなく存在します。
この世で成長してあの世で自分をより活かすため、過去に作った借りをきっちりと返すために生まれて来たのであり、その目的は絶対に果たさなければいけません。
苦しくても生きることで、この世に生まれた目的を果たしていることを忘れてはいけません。
あの世の存在と、生まれる前の記憶が判らないようになっているのは、今を精一杯生きるためです。
今を精一杯生きることで、最大限の成長が得られるからです。
あの世の存在が判れば大きな安堵が得られるが、人の成長にとって利益より不利益の方がまだ多い、神はそう考えていると思います。
あの世に行くと、この世がつかの間の夢のように感じるでしょう。
本来の住処であるあの世で悦びを感じて生きるために、この世で苦しみながらも成長を続けていたことがはっきりと判るでしょう。