2018年8月19日日曜日

あの世は存在する



私がこのブログを書いている大きな目的の1つは、「あの世」が存在することを、多くの人に知ってもらうためです。

しかし、「あの世」の存在を万人に判る形で証明するのは不可能です。

あの世は、この世とは次元が異なり、五感で認識することが出来ないからです。

それ以外にも理由があり、万人があの世の存在が判るようになってしまったら、大きな問題が生じてしまうからと考えています。



もし、最愛の人を亡くして「あの世」が存在し、そこで故人が生きていることが明確に判ったとしたらどうでしょう。

この世で生きるのを中断して、会いに行こうとする人がいるかもしれません。

過酷な試練に打ちのめされて、生きているのがつらくなった時に、あの世があることがはっきりと判ったとしたらどうでしょう。

つらいこの世から逃れて、行ってしまう人がいるかもしれません。



私たちは、何のために生まれて来たのでしょう?

自分を成長させるためです。

足りないところを補うためです。

そして、過去の過ちを償うためです。



そのためには、この世でふさわしい経験をしなければいけません。

無償で授かるのではなく、全て経験と引き換えです。

生まれる前の自分は、この経験をすればどれ位成長するのか、どんな教訓が得られるのか、そして罪が償われることが、予め判っています。

全てを承知して生まれて来たのです。

しかし、いざ生まれてしまうと、承知していた出来事の記憶はなくなってしまいます。


もし、予定されている出来事(経験)の記憶が残っていたらどうなるでのしょう?

病気、別れ、挫折、障害などが、自分の身に起きるのが判っていたら、多くの人は気になって今を精一杯生きられなくなってしまいます。

何とかして回避出来ないかと、必死になってしまうでしょう。

死ぬ時が判っていたとしたら、いつもの精神状態でいられる人は、どれほどいるのでしょうか?

この世を生きている人はそれほど強くないので、これから起きる出来事は神の配慮により、記憶から消し去られていると考えられます。



全ての出来事は偶然ではなく、自然法則の働きによって生じています。

そして、自然法則は私たちを成長させる方向に導いています。

この世で経験している出来事により、私たちは成長をしているのです。



どんなに力を尽くしても、願いが叶わないことがあります。

たとえ願いが叶わなかったとしても、力を尽くすことにより、成長する目的は達成されています。

非情に思えてしまいますが、目的が達成されたのなら、神にとって地上的な結果は小さなことなのかもしれません。

その先に、成長した悦びが用意されているはずです。



最も大切な真理の1つに「乗り越えられない困難(出来事)は生じない」があります。

言い方を変えれば、乗り越えられるのは、神によって保証されていることになります。

私もこの言葉にしがみついて生きた日々があり、それが真実であることを確信しています。

今、大きな困難に直面しているのであれば、とりあえずこの真理の言葉を強く信じて生きてみましょう。

裏切られることは、絶対にありません。



ところで、「乗り越える」と言うことは、どのようなことを意味するのでしょう?

私は、苦しみから解放されることだと考えています。

では、どうすれば苦しみから解放されるのでしょうか?

その前に、もう1つ大切な真理があります。

人は苦しみに出会うと、じっと耐えたり、何とかしようと必死にもがいたりします。

そんな最中に、自分(魂)が成長していると言う真理です。



成長することによって、今までの苦しみが、苦しみとして感じにくくなって行くと思います。

いきなり10kmを走れば、誰でも苦しくなりますが、つらくても毎日走っていれば、10km走っても以前のような苦しみは感じなくなります。

苦しみに慣れるのではなく、苦しみに対して自分が強くなっていると考えられます。



生じた出来事は寸毫たりとも変えられません。

しかし、自分(魂)は絶えず変わっています。

自分の成長に伴って、出来事の捉え方が変わったり、大切な真実を見つけて、苦しみが和らいで来ると考えられます。



繰り返しになりますが、私たちは成長するために、この世に生まれて来ています。

出来事を通して成長し、真実を手に入れると言う目的が果たされれば、苦しみから解放されると考えられます。

なぜなら、出来事は苦しめるためではなく、魂を成長させ、真実を手に入れるために、自然法則の働きによって生じているからであり、目的が達成されれば必要なくなるからです。

時間の経過ではなく、自分の奥深い部分が変わって、今までの苦しみから解放された時、出来事が乗り越えられたと考えられます。



出来事は乗り越えようとして、乗り越えられるものではありません。

苦しみや、悲しみに耐えながら日々暮らす中で、息が切れるような上り坂が終わり、気付いてみたら平坦になっているように思います。

つらくても生きていれば、人知れず魂は成長して行き、穏やかな日々を過ごせる時が必ず来ます。



生まれる前の自分は、決して容易ではないけれども、出来事は乗り越えられると判断していたはずです。

もし出来事が偶然起きるのであれば、乗り越えられないことはないと断言出来ません。

しかし、全て自然法則(神の摂理)の働きによって生じているので、乗り越えられない出来事は絶対に起きないのです。


苦しみは、魂を成長させて、真実に気付くために存在する触媒です。

苦しみが大きいほど、高みに導ているのですが、その意味を知らなければ、ただ逃れたいと思うばかりです。

乗り越えて行くことを自分が承知していたにもかかわらず、その時になって逃れることは許されません。

どんなに苦しくても正面から受け止めて、肉体が自然に朽ちる時まで生きなければいけません。

志願して生まれ来たのに、中断してしまうのは、絶対に許されないのです。





私はあの世があると信じています。

この世しかないと信じている人もいます。

もし、あの世がないのならば、心臓が停止すればその人の全てが終わります。

意識は消えて「自分」は消滅し、周囲とのつながりは完全に断たれます。

そうだとしたら無になることに恐怖を感じます。

生きている意味など、どこにも見つけられません。

人生には喜びがあり、悲しみもありますが、それが何のためにあるのかが、全く判らなくなってしまいます。

死んで終わりならば、不合理とも思えるそんな感情などなくて良いはずです。

喜びや悲しみなど、心が大きく動かされる経験を通して、魂は熟成し豊かになって行く、そう考えた方が自然です。

想い(感情)を共有することによって人は1つになって行く、そのためにさまざまな経験をしている、私はそう考えています。



ところで、人は社会のために貢献したいと欲するのはどうしてでしょう?

死んで無になってしまうのであれば、今を、面白、おかしく生きれば良いのであり、自己犠牲を伴う行いをしようとする理由は見つけられません。

自己満足を得るため以上の、意味があると考えられます。

魂(霊)は過去から未来へと存在し続けています。

魂の成長にとって、大きな意味があります。

困難を乗り越えて行く以外に、人や社会のために奉仕することで真の悦びが与えられ、魂は成長して行きます。

成長する機会を得るために、この世に生まれて来たのであり、あの世に行ってからこの世で得たものが活かされます。

あの世の存在を信じていなくても、魂に成長したい根源的な欲求が内在しているために、人は苦しくても、つらくても生きようとするのだと思います。

しかしながら、あの世があるのがはっきり判ってしまうと、かなり多くの人が誘惑に負けて、安易にあの世に行ってしまうと考えられます。

あの世があるのかないのか判らない、死は怖いものと感じているからこそ、この世に留まっていられるのかもしれません。



あの世は、間違いなく存在します。

この世で成長してあの世で自分をより活かすため、過去に作った借りをきっちりと返すために生まれて来たのであり、その目的は絶対に果たさなければいけません。

苦しくても生きることで、この世に生まれた目的を果たしていることを忘れてはいけません。



あの世の存在と、生まれる前の記憶が判らないようになっているのは、今を精一杯生きるためです。

今を精一杯生きることで、最大限の成長が得られるからです。

あの世の存在が判れば大きな安堵が得られるが、人の成長にとって利益より不利益の方がまだ多い、神はそう考えていると思います。



あの世に行くと、この世がつかの間の夢のように感じるでしょう。

本来の住処であるあの世で悦びを感じて生きるために、この世で苦しみながらも成長を続けていたことがはっきりと判るでしょう。









2018年8月5日日曜日

病気は成長するために存在する


病気は人間が自らの力をもって自然に治すものであり、医者はこれを手助けするものである」これは古代ギリシャの医者であるヒポクラテスの言葉です。

パックリと開いた傷口を、医者は縫って元の様に戻します。

もし、自らの力で治すことができなければどうなるでしょうか?

抜糸をしたら、傷口はまた開いてしまいます

生命力によって、断裂した細胞組織が賦活化されて修復されています。

風邪になると医者に行き、注射をしてもらったり薬を出してもらいます。

しかし、それは症状を和らげているに過ぎません。

治しているのは免疫力であり、それを発現させているのは生命力です。



病気には必ず原因が存在します。

この世の人間は、肉体、精神、魂(霊)が一体となった存在であり、それぞれの次元に原因が存在します。

現代医学によって完治が期待できるのは、肉体的次元に原因がある病気です。

肉体的次元に原因がある病気として代表的なものは感染症であり、多くの細菌感染症は抗生物質により死滅させ、完治させることが可能です。

精神的次元に原因がある病気は、医学的処置が有効とは限りません。

ストレスで胃潰瘍になったのであれば、薬で良くなったとしても、再発する可能性があります。

それでは、霊的次元に原因のある病気はどうでしょうか?

代表的な疾患として、ガンや膠原病が挙げられます。

肉体上の病変は、手術や投薬により消失あるいは寛解するかもしれませんが、根本的に治ったわけではありません。

現代医学の対象は肉体次元のために、行っているのは対症療法に過ぎないからです。



霊的次元に原因がある病気について再度書いて行きます。

実証することは不可能ですが、その原因は大きく分けて、誕生後に生じていたものと、誕生前に生じたものがあると考えられます。



まず、誕生後に生じた原因について説明します。

人生では色々な出来事が起こり、様々な想い(思念)が生じています。

その想いを、肉体を使って外に向かって表現しています。

うれしいことが起これば、ニコニコとした笑顔になります。

悲しいことが起これば、涙を流して泣きます。

嫌なことをされたら、「やめろ」とか「やめて」と言うかもしれません。

納得の行かないことをされたら、「ふざけるな」とか「バカヤロー」などと叫び、憤りをぶつける人もいるでしょう。



もし、言葉や行動にして表現できなかったとしたらどうなるでしょう?

生じた想いは内に溜まってしまいます。



想いが溜まってきたら、人はどうするのでしょうか?

スポーツジムで体を動かしているのは、体力増進のためだけでなく、内にある諸々の想いを、の形にして、外に出そうとしていると考えられます。

仕事帰りに酒を飲んで、大きな声で叫んでいる人を良く見かけますが、アルコールの力を借りて、日中に溜まった想いを、外に吐き出していると考えられます。

心身とって良くない思念を、ストレス発散と称して、無意識に外に出そうとしていると考えらます。



そんな想いを外に出せず、鬱積してしまうとどうなるのでしょうか?

思いもよらぬ行動を取って、一気に晴らそうとする人がいるかもしれません。

攻撃的、暴力的なものになれば、世間を騒がす事件になってしまうかもしれません。



思念(想い)はこの世では目に見えません。

しかし、霊的次元では実在であり、肉体次元で具現化するためのエネルギーと言えます。

魂から生じた思念は、精神を経由して、肉体で表現されることによって外に向かって放散され、完結します。

積した想いは塊となって、エネルギーの自然な流れを妨げていると考えられます。



それでは、具体的にどのような状態になるのでしょうか?

簡単に言えば、自分が思うこと、望んでいることが出来なくなってしまいます。

怒りや憎しみの想いが鬱積していると、人や社会のために何かをしようとしても、行動に移せなくなってしまいます。

怖れや不安の想いが鬱積していると、何かに挑戦しようとする時に、二の足を踏んでしまいます。



の世に生まれて来たのは、大きく成長するためです。

人や社会のために奉仕をする(愛を表現する)こと、困難や障害を乗り越えて行くことで成長して行きます。

従って、怒りや憎しみ、あるいは恐れや不安などの想いが鬱積していると、知らない内に成長が妨げられていることになります。

人は成長するために生まれて来たので、妨げているものがあれば、由々しき問題です。

しかしながら、鬱積している想いに気付かないまま生きている人がほとんどです。



自然法則は、人を成長させる方向に向かわせるように働いています。

鬱積した想いと言うエネルギーは、因果律の働きによって、肉体に変化を生じさせます。

肉体は魂を表現する媒体ですが、想いは全く別の形となって肉体上に表現されることになります。

怒りや憎しみの想いであれば、反発的で攻撃的な組織となって表現されるかもしれません。

自分を責めていると、自分が傷つけられ、自分を否定する想いが生じてしまいますが、それが常態化してしまうと、自己を拒絶する病態となって表現されるかもしれません。

外面に現れている変化は、内面に起きていることの反映であり、病気にならない限り気付くことはないと考えられます。

それが霊的次元に原因がある病気の正体と考えられます。



ところで、溺れている人を助けようとする衝動はどうして起きるのでしょうか?

それは人(魂)に神性が内在しているからです。

しかし、人には(この世だけの)自我もあります。

自我は自分が溺れてしまうと心の中で囁いています。


自我と魂が葛藤する中で生きていますが、自我の存在が大きくなり勝ってしまうと、魂の自由な表現が抑えられてしまいます。


あるがままの自分が表現出来なくなり、行き場を失った想いが鬱積して行きます


話を戻します。

肉体上に現れた病気は、当然のことながら心身の苦痛を伴います。

苦痛は本来、肉体の異変を知らせるものですが、霊的には魂を目覚めさせると言う、深甚な意味があります。

病気により魂は目覚め、それまで前面に出ていた自我は後退します。

自我の足枷が外れて、魂はあるがままの想いを、肉体で表現できるようになります。

そうすると、魂から精神、精神から肉体へのエネルギーの変換が円滑に行われ、3者に調和が生まれて、魂に生命力がふんだんに流れ込むようになり、鬱積した想いは解放されて行きます。

想いが解放されれば、因果律の働きによって、肉体上の病気は消退して行くはずです。



誕生後に生じた霊的次元の原因は、表現されずに鬱積した想いですが、因果律の働きによって肉体上に生じた病気によって解放されて行きます。

あるがままの自分が表現出来るようになり、本当の自分が望んでいる生き方が出来るようになると考えられます。



もし、自己を拒絶する病態が現れている人がいるなら、他者と同じように自分を責めない、他者と同じように自分を大切にする、そんな単純なことで、病気は癒されるかもしれません。

自分を責めることは、他者を責めるのと同じであり、神の摂理に反しているからです。

自分を大切にするのは、他者を大切にするのと同じであり、摂理に適っているからです。



以上のことから、常々思っていることがあります。

健康でいるために大切なこと、それは想いを溜めないこと。

そして、あるがままの自分を認め、表に出してやること。



次に、誕生前に生じていた原因について説明します。

人生は1度だけではありません。

記憶にはありませんが、この世の前にも人生があります。

たとえば、富や名声を得ることが、人生の目的と信じて生きて来た人がいたとします。

その人が死んで向こうの世界に行くと、手に入れたものはことごとく消えてなくなります。

もし、間違ったものを信じて生きて来たために、摂理に反する行いをしたのであれば、苦痛の経験によって、その罪(カルマ)を清算しなければいけません。

そのために、人生のどこかで病気になるシナリオを承知して、この世に生まれて来るかもしれません。

シナリオの通りに病気が生じ、苦痛の経験によって、カルマは清算されて行きます。

苦痛により魂が目覚め、そして生命の危機に晒されたなら、富や名声は大して価値がないことに気付きます。

生きる意味を必死に探している中で、人は自分のためではなく、人のために生きている、そんな大切な真実に辿り着くかもしれません。



そして、成長した魂がより成長するため、価値のある教訓を得るために、苦痛や障害の大きい過酷な病気になるのを承知して生まれて来ることもあると思います。

身動きが出来ないまま一生を終える人がいますが、成長した魂でなければその試練に耐えられず、自己表現が極限まで抑えられた長い年月の中で、価値のある教訓を魂に刻み込んでいると思います。



「何故こんな良い人が」と、多くの人に嘆かれながら、病気になり逝ってしまう人がいます。

そんな人も成長した魂であることが多く、この世で予定されていた役割を果たして、向こうの世界に移行するために、病気になったと思われます。

いづれにしても予め決められていたことであり、誕生前に(病気の)原因が存在していたと言えます。



何のために病気になったのかを自問する時に、魂の存在、そして成長を抜きにして答えは見つかりません。

魂の表現を妨げている、あるいは成長を妨げている原因が存在し、それを取り除くために病気になる人がいます。

償いのため、さらなる成長のため、そして向こうの世界に移行するために、病気になる人もいます。

病気は自然法則の一環であり、私たちを成長させるために存在しています。