ソンブレロ銀河 |
どうすれば、こんな美しい造形が出来上がるのでしょうか。
私たちの宇宙は、138億年前にビックバンにより誕生したと考えられています。
突発的に誕生したのか、それとも計画的であったのか?
その疑問に、科学者は答えてくれません。
宇宙は計画的に誕生したと、私は信じています。
宇宙創造には、何らかの意図が隠されいると信じています。
ちっぽけな私に、その意図など判るはずもありませんが、想像をはるかに超えた、とてつもなく大きな存在が背後にいるのは間違いないと思っています。
多くの人は、その存在を神と呼んでいます。
私たちは広大な宇宙を構成する一部です。
とてつもなく大きな存在である神によって、宇宙が創造されたのであれば、私たち人間も神によって創造されたことになり、両者は密接不可分の関係あると考えられます。
神によって創られた、神とつながっている一部と考えて良いのかもしれません。
けれども、私たちは、完全な神とは遠くかけ離れています。
あまりにも不完全です。
そんな不完全な私たちを、神はなぜ創造したのでしょうか?
完全は不動のものであり、変化はありません。
不完全なものを創り、それが完全に向かって変化して行く過程を、同時に創造したと考えられます。
進化とは、生命が完全へと向かって行くことを指すと考えられます。
より完全な方向へと、自然法則(神)により、導かれていると思います。
完全に向かうためのエネルギーを、神から受けながら、進化していると思います。
本を正せば、あらゆる存在は1つの莫大なエネルギーだったと考えられます。
一つであったものを、何故ばらばらにしたのか?
ばらばらになったものを、再度1つにさせようとする意図があると考えています。
完全であったものを、ばらばらにして不完全にさせ、再度1つの完全なものにする意図があったと考えています。
私たちが五感で認識しているのは、物的な宇宙です。
物的な宇宙よりも高次に、五感に触れない霊的な宇宙が存在し、そこには無限の界層があると考えられます。
霊的な宇宙の中で、ばらばらになった限りなく小さな一分子が、生命(魂)と考えられます。
物的な宇宙は、膨張、拡散を続けています。
霊的な宇宙は、ばらばらになった生命(魂)が、1つになる方向に向かっていると思います。
今から数千年前、自分の住処から山1つ隔てれば、そこは未知の世界だったと考えられます。
1つの小さな集落の中で、一生が完結していた人が、ほとんどだったと思います。
しかし、人間には好奇心、探求心があり、外の世界を覗いてみたくなります。
山を越え、海を渡り、未知の世界に足を踏み入れて行ったと思います。
そこで、言葉や文化や生活習慣の異なる人たちと出会います。
最初は、驚き、警戒したでしょうが、次第に、外の世界との交流は盛んになり、活動範囲は拡がって行ったと思います。
ある者は、周囲を力により服従させ、支配して行ったでしょう。
また、ある者は、友好関係を結び、共存して行ったでしょう。
歴史を振り返ってみれば、1つのまとまりは、時代と共に、大きくなっているのは明らかです。
集落は共同体という形で1つにまとまり、長い年月をかけて、現在の国家と言う単位になって行ったと思います。
もし、1つのまとまりが大きくなる方向に進んで行っているのであれば、はるか先には、地球が大きな1つのまとまりになると考えられます。
小さなものがまとまって集団となり、集団の集まりが国家になり、国家が集まり、間にある障壁が取り払われた時に、地球が1つにまとまると思います。
それは、ばらばらになったものを、1つにさせると言う神の意志によるものであり、神の創った自然法則の働きにより、必ず成就されると考えられます。
1つになって行くために必要なものは、何でしょうか?
力によって、ばらばらなものを、見かけ上ですが、1つにすることは出来ます。
しかし、それは永続的なものにはなりません。
自然法則に反しているため、同じ力によって、いづれ元に戻ってしまいます。
永続的に1つになるためには、何が必要なのでしょうか?
それは愛です。
私たちは、愛により1つになれます。
愛を表現すれば、自然法則の働きにより、お互いの生命(魂)は引き付けられ、1つになります。
神は無限の愛であり、無限の叡智です。
1つの魂(人間)は、霊的な宇宙の中で、極小の存在であっても、神が創った一分子に変わりありません。
魂が神的な一分子であるならば、初めから愛を帯びていると考えられ、愛を表現して1つになろうとしているはずです。
しかし、地上の人には肉体という表現媒体があります。
そのために肉体的欲求が生まれてしまい、それを満足させなければいけません。
満足させるために、地上的自我を発達させて行くようになります。
地上的自我が発達して、肉体的欲求を満足させようとすれば、外部への関心は薄れて、軋轢が生じ易くなります。
それが高じてしまうと争いとなり、苦痛を伴う出来事が起きることになります。
地上的自我が発達してくるのに従い、霊的自我(魂)は奥に押し込められて、1つになろうとする欲求は掻き消されてしまいます。
人は、霊的な存在であることを、忘れてしまっています。
人の本質は、肉体ではなく、魂(霊)であることを、忘れてしまっています。
内在されている神の愛が、地上的自我に阻まれて、表現されにくくなっています。
地上的自我は、目に見えるものだけを信じて生きようとします。
目に見えない愛を感識することは出来ず、物質的なものを頼りに生きようとします。
しかし、物質的なものは本質ではないので、いくら手に入れても、虚しさや、孤独や、不満がなくなることはありません。
霊的自我(魂)は、目に見えないものを感識できます。
目に見えない愛は、魂により感識され、悦びやあたたかさになり、充足感が得られます。
地上的自我が占拠してしまうと、霊的自我(魂)は埋没してしまい、そこから生まれている自分本来の想いを表現出来なくなってしまいます。
内在している愛の想いを表現できなければ、魂の成長は出来ず、生まれてきた目的を成就出来ません。
地上的自我と霊的自我のせめぎ合いの中で、地上的自我が勝てば軋轢が生まれ、争いとなり、苦痛を伴う結果が生じます。
苦痛は誰もが避けたいものですが、魂にまで響き、目覚めさせるという深甚な意味があります。
地上的自我は吹き飛ばされて、霊的自我(魂)が主導権を握り、内在する愛に気付き、それを表現しようとする欲求が生まれて来ます。
苦痛により霊的自我が目覚めると、1つになる方向に向かい始めます。
遠い過去から、その行程が絶え間なく繰り返えされ、今に至っています。
全ての人が、霊的自我に目覚めれば、地球は1つになります。
けれども、肉体を持つ不完全な存在であるために、さらなる苦痛が必要と思われます。
ばらばらになった生命(魂)が1つになるのは神の意図であるために、はるか先になりますが、必ず成就されます。
1つになるためには、愛し合わなければいけません。
その前に、お互いを信じなければいけません。
信じることは水路のようなものであり、その水路を通して、愛と言う水が流れます。
水路がなければ、たとえ水がたくさんあっても、流れることは出来ません。
間にある障壁は、信じ合うことにより消滅します。
とても単純ですが、容易ではありません。
それまでの苦痛や悲しみが、悦びに変わる経験を通して、信じることの意味を魂に刻んで行きます。
お互いの存在(魂)を信じ合えれば、いつの日にか、愛し合えるようになります。
愛し合えるようになれば、隔てるものはなくなり、1つになります。
1つになったものが、またばらばらになることはありません。
なぜなら、信じ合い、愛し合うために、1つのものがばらばらになったからです。