2017年5月28日日曜日

信じ合い、愛し合うことで1つになって行く




ソンブレロ銀河
ハッブル宇宙望遠鏡で捉えた外銀河の写真を見ると、神秘的な美しさに圧倒されます。

どうすれば、こんな美しい造形が出来上がるのでしょうか。



私たちの宇宙は、138億年前にビックバンにより誕生したと考えられています。

突発的に誕生したのか、それとも計画的であったのか?

その疑問に、科学者は答えてくれません。



宇宙は計画的に誕生したと、私は信じています。

宇宙創造には、何らかの意図が隠されいると信じています。

ちっぽけな私に、その意図など判るはずもありませんが、想像をはるかに超えた、とてつもなく大きな存在が背後にいるのは間違いないと思っています。

多くの人は、その存在を神と呼んでいます。



私たちは広大な宇宙を構成する一部です。

とてつもなく大きな存在である神によって、宇宙が創造されたのであれば、私たち人間も神によって創造されたことになり、両者は密接不可分の関係あると考えられます。

神によって創られた、神とつながっている一部と考えて良いのかもしれません。

けれども、私たちは、完全な神とは遠くかけ離れています。

あまりにも不完全です。

そんな不完全な私たちを、神はなぜ創造したのでしょうか?



完全は不動のものであり、変化はありません。

不完全なものを創り、それが完全に向かって変化して行く過程を、同時に創造したと考えられます。

進化とは、生命が完全へと向かって行くことを指すと考えられます。

より完全な方向へと、自然法則(神)により、導かれていると思います。

完全に向かうためのエネルギーを、神から受けながら、進化していると思います。



本を正せば、あらゆる存在は1つの莫大なエネルギーだったと考えられます。

一つであったものを、何故ばらばらにしたのか?

ばらばらになったものを、再度1つにさせようとする意図があると考えています。

完全であったものを、ばらばらにして不完全にさせ、再度1つの完全なものにする意図があったと考えています。



私たちが五感で認識しているのは、物的な宇宙です。

物的な宇宙よりも高次に、五感に触れない霊的な宇宙が存在し、そこには無限の界層があると考えられます。

霊的な宇宙の中で、ばらばらになった限りなく小さな一分子が、生命(魂)と考えられます。



物的な宇宙は、膨張、拡散を続けています。

霊的な宇宙は、ばらばらになった生命(魂)が、1つになる方向に向かっていると思います。



今から数千年前、自分の住処から山1つ隔てれば、そこは未知の世界だったと考えられます。

1つの小さな集落の中で、一生が完結していた人が、ほとんどだったと思います。

しかし、人間には好奇心、探求心があり、外の世界を覗いてみたくなります。

山を越え、海を渡り、未知の世界に足を踏み入れて行ったと思います。

そこで、言葉や文化や生活習慣の異なる人たちと出会います。

最初は、驚き、警戒したでしょうが、次第に、外の世界との交流は盛んになり、活動範囲は拡がって行ったと思います。

ある者は、周囲を力により服従させ、支配して行ったでしょう。

また、ある者は、友好関係を結び、共存して行ったでしょう。



歴史を振り返ってみれば、1つのまとまりは、時代と共に、大きくなっているのは明らかです。

集落は共同体という形で1つにまとまり、長い年月をかけて、現在の国家と言う単位になって行ったと思います。

もし、1つのまとまりが大きくなる方向に進んで行っているのであれば、はるか先には、地球が大きな1つのまとまりになると考えられます。

小さなものがまとまって集団となり、集団の集まりが国家になり、国家が集まり、間にある障壁が取り払われた時に、地球が1つにまとまると思います。

それは、ばらばらになったものを、1つにさせると言う神の意志によるものであり、神の創った自然法則の働きにより、必ず成就されると考えられます。



1つになって行くために必要なものは、何でしょうか?

力によって、ばらばらなものを、見かけ上ですが、1つにすることは出来ます。

しかし、それは永続的なものにはなりません。

自然法則に反しているため、同じ力によって、いづれ元に戻ってしまいます。



永続的に1つになるためには、何が必要なのでしょうか?

それは愛です。

私たちは、愛により1つになれます。

愛を表現すれば、自然法則の働きにより、お互いの生命(魂)は引き付けられ、1つになります。



神は無限の愛であり、無限の叡智です。

1つの魂(人間)は、霊的な宇宙の中で、極小の存在であっても、神が創った一分子に変わりありません。

魂が神的な一分子であるならば、初めから愛を帯びていると考えられ、愛を表現して1つになろうとしているはずです。



しかし、地上の人には肉体という表現媒体があります。

そのために肉体的欲求が生まれてしまい、それを満足させなければいけません。

満足させるために、地上的自我を発達させて行くようになります。

地上的自我が発達して、肉体的欲求を満足させようとすれば、外部への関心は薄れて、軋轢が生じ易くなります。

それが高じてしまうと争いとなり、苦痛を伴う出来事が起きることになります。

地上的自我が発達してくるのに従い、霊的自我(魂)は奥に押し込められて、1つになろうとする欲求は掻き消されてしまいます。



人は、霊的な存在であることを、忘れてしまっています。

人の本質は、肉体ではなく、魂(霊)であることを、忘れてしまっています。

内在されている神の愛が、地上的自我に阻まれて、表現されにくくなっています。

地上的自我は、目に見えるものだけを信じて生きようとします。

目に見えない愛を感識することは出来ず、物質的なものを頼りに生きようとします。

しかし、物質的なものは本質ではないので、いくら手に入れても、虚しさや、孤独や、不満がなくなることはありません。

霊的自我(魂)は、目に見えないものを感識できます。

目に見えない愛は、魂により感識され、悦びやあたたかさになり、充足感が得られます。



地上的自我が占拠してしまうと、霊的自我(魂)は埋没してしまい、そこから生まれている自分本来の想いを表現出来なくなってしまいます。

内在している愛の想いを表現できなければ、魂の成長は出来ず、生まれてきた目的を成就出来ません。

地上的自我と霊的自我のせめぎ合いの中で、地上的自我が勝てば軋轢が生まれ、争いとなり、苦痛を伴う結果が生じます。

苦痛は誰もが避けたいものですが、魂にまで響き、目覚めさせるという深甚な意味があります。

地上的自我は吹き飛ばされて、霊的自我(魂)が主導権を握り、内在する愛に気付き、それを表現しようとする欲求が生まれて来ます。

苦痛により霊的自我が目覚めると、1つになる方向に向かい始めます。

遠い過去から、その行程が絶え間なく繰り返えされ、今に至っています。



全ての人が、霊的自我に目覚めれば、地球は1つになります。

けれども、肉体を持つ不完全な存在であるために、さらなる苦痛が必要と思われます。

ばらばらになった生命(魂)が1つになるのは神の意図であるために、はるか先になりますが、必ず成就されます。



1つになるためには、愛し合わなければいけません。

その前に、お互いを信じなければいけません。

信じることは水路のようなものであり、その水路を通して、愛と言う水が流れます。

水路がなければ、たとえ水がたくさんあっても、流れることは出来ません。

間にある障壁は、信じ合うことにより消滅します。

とても単純ですが、容易ではありません。

それまでの苦痛や悲しみが、悦びに変わる経験を通して、信じることの意味を魂に刻んで行きます。



お互いの存在(魂)を信じ合えれば、いつの日にか、愛し合えるようになります。

愛し合えるようになれば、隔てるものはなくなり、1つになります。



1つになったものが、またばらばらになることはありません。

なぜなら、信じ合い、愛し合うために、1つのものがばらばらになったからです。







2017年5月14日日曜日

子育ては知識ではなく愛情



私の家には、「しろ」という名の7歳の雑種の犬がいます。

しろは生まれてすぐに、5匹の兄弟犬と一緒に捨てられ、保健所に収容されていました。

このままでは、死んでしまうかもしれなかったので、家族で5匹を引き出して、育てることにしました。

母犬はいなくても、生まれたての子犬たちは、人間が与えるミルクで順調に育ちました。

しばらくして、里親が見つかり、全匹もらわれて行きました。



しばらくして、しろの様子を伺おうと、飼い主になった人に連絡を取ったのですが、つながりませんでした。

義父が亡くなった直後で、妻は大変な時でしたが、そのことがとても気になっていました。

何気なく、保健所に収容されている犬を掲載しているホームページを見たら、そこに大きくなったしろらしき写真を見つけたそうです。

実家から戻った妻は、早速、その犬を確かめに行きましたが、やはりしろでした。

穏やかでやさしい犬なのに、ウーっと唸り声を上げていたそうです。

会えたうれしさと、何でもっと早く迎えに来なかったのかとの想いが、入り混じっていたような気がします。

偶然ではなく、霊界から働きかけがあって、見つけられたと考えています。

飼い主になった人は、その後、精神を病んで動物を飼える状態ではなくなってしまい、しろが逃げ出してしまったようです。



飼い主の家を出て、しばらく放浪していたため、やせ細っていました。

そして、生後8ヶ月しか経っていませんでしたが、妊娠していました。

1才にもなっていない犬が、子犬を産んで育てられるのか、少し心配でしたが、しろのお腹はどんどん大きくなって行きました。

そして、動物の出産を初めて見る時が来ました。

犬は安産の象徴と言われますが、産まれる瞬間は「キャイーン」と痛そうに啼いていました。

2匹の子犬を産んだ直後に、羊膜をきれいになめて取り除いていました。

誰に教えてもらうのでもなく、子犬にフンやおしっこを促したり、お乳を飲ませたりして、1歳にも満たないしろの子育てが始まりました。

母犬から引き離され、子育ての仕方を全く知らないしろでしたが、無事に子犬を育てることが出来ました。

その様子を毎日見ていて、子育ては知識ではないと思いました。

動物の持つ本能と言ってしまえばそれまでですが、子育ては愛情表現そのものと思いました。



生命(魂)は、神の一部であり、常に神とつながっています。

 もちろん、神とつながっているのは、体感的に認識されていません。

目に見える肉体は、口から取り入れる栄養によって活動していますが、目に見えない霊的次元の魂(霊)は、大始源である神から生命力を受け取り活動しています。

魂が受け取った生命力は、出来事を経験することにより思念(想い)となり、精神的次元で思考や感情に変換され、最終的に肉体的次元で表現されて、完結していると考えられます。



神は無限の愛です。

生命力は神から受け取っているために、愛を帯びています。

従って、本来人間は、愛を表現するために生きていると思います。

しかし、肉体や(この世の)自我を持っているので、それを満足させることを優先してしまい、愛を表現することを、つい忘れてしまいます。

誰かのために何かをしようとすると、自分の持っている力以上のものが発揮される時があります。

それは、誰かのためにという愛の想いにより、神と同調し、つながりが強くなり、より多くの生命力が魂に流れ込んでいるためと考えられます。

生命力と共に、愛を表現するための叡智が与えられていると考えています。



愛情表現を通して、動物の魂は、神と強く結ばれていると思います。

動物を見ていて、子育てに必要なことは、神から全て伝わって来て、ただそれを行動に移しているだけのように思えてなりません。

そう考えると、同じ動物である人間を育てるのも、知識ではなく、愛情があれば心配ないのかもしれません。

知識は、あくまでも補助的なものであり、詰め込むほどかえって混乱し、不安になってしまうような気がしてなりません。

肝心の愛情がなければ、いくら持っている知識を実行に移しても、上手く行かないのかもしれません。

赤ちゃんが泣いていたら、何故泣いているのかを考えるのではなく、抱き上げて、心を鎮め、その瞳を見つめていれば、何かしらの理由が浮かび上がって来るのかもしれません。

一人で生きているように見えますが、私たちは常に神とつながっています。

頭で考えて行動するのではなく、愛情を持って行動していれば、霊界から直感として答えをもらい、それに従って行動すれば、良い結果が生まれるような気がします。



世の中には、子供に対する愛情を持てないと、悩んでいる人がいます。

そんな人は愛情がないのではなくて、何らかの原因があって、表現できなくなってしまっていると思われます。

原因の多くは、トラウマと呼ばれるものですが、それは過去の出来事の記憶ではなく、生じていた想いによって引き起こされると考えられます。

過去に生じていた想いが障害となって、素直な愛情表現が出来なくなっていると考えられます。

最も信頼するべき存在、愛情を注いでもらえる存在から、ひどい仕打ちをされて、表現できないような強い想いが生じていたと思います。

安心や満足が生まれるところが、恐怖や不安や不満が生まれてしまったと考えらます。

時を経て、自分が親になった時に、記憶として残っていない過去の恐怖や不安が呼び覚まされ、心が縛られて、身動きできなくなってしまっている可能性があります。

あなたが悪いのではなく、物心も付いてない時に受けた行為により、愛情表現が出来なくなっているだけです。

従って、自分を責めたり、愛情がないと嘆く必要は全くありません。



心の奥でうごめいている何者かは、表現が出来なかった想いです。

生きづらくしている、自分の想いを表現しにくくさせている、内にある過去の想いを解放させてやりましょう。

簡単に、誰でも出来るやり方を試してみましょう。

幼かった時のあなたを心の中に思い描いて下さい。

当時の写真があれば、もっと良いです。

その時の自分を、やさしく、包み込むような気持ちで、「もう大丈夫だよ」と、微笑みながら声をかけ、目を閉じて心の中で抱きしめてやりましょう。

その時、注いでもらえなかった愛情を、今のあなたが代わって注いでやりましょう。

少しずつで良いですから、毎日続けてみましょう。



この宇宙を創ったのは神です。

神は無限の愛であり、愛に勝る力は、この宇宙に存在しません。

恐怖、不安、怒り、他のあらゆる想いは、愛の力により解放させることができます。

屈折してしまっている愛の表現は、想いが取り除かれることにより、本来の表現を取り戻します。



ところで、人は何故、愛を表現しなければいけないのでしょうか?

愛を表現することで、自分(魂)が成長するという自然法則があるからです。

そして、魂は成長して、神に近づくように、定められているからです。

愛を表現するように、自然法則により導かれているのですが、何らかの原因で表現できなくなってしまうと、成長が出来なくなってしまいます。

そして、成長が出来なくなると、自然法則の働きにより、苦痛が生じるようになっています。

人は、生まれる前に決めていた試練として(霊的な)病気になることがありますが、それ以外は、今生で生じていた原因で病気になると考えられます。

今生で生じた原因の多くは、肉体で表現できなかった、内に溜まっている想いと考えられます。

病気に伴う苦痛は、魂を目覚めさせ、内に溜まっている想いに気付かせると言う意味があります。

そして、苦痛によって魂は成長し、成長した魂から生まれる愛によって、内に溜まっている想いは解放されます。

原因があって病気になりますが、その原因を取り除いて行くのも病気です。

多くの病気は、自分の成長を妨げている想い(原因)に気付き、それを排除するためにある、神の摂理の1つと考えられます。



与えられた試練以外の苦痛は、愛に反する行為により作り出されたものです。

愛に反する行為を受けたことにより、恐怖や不安が生じていて、愛が表現できにくくなっていて、成長が妨げられています。

自分は悪くないのですから、苦痛から解放されて、自分(魂)から生じている愛を、自然に表現できるようになれるはずです。



子供を育てるのは、成長するために与えられた試練であり、悦びです。

自己を犠牲にすることで魂は成長し、愛情を表現することで悦びとなります。

もし、子育てが悦びにならないとしたら、親としての義務感が優先されて、愛情が表現されていないのかもしれません。

頭で考えるのではなく、湧き上がってくる直観に従えば良いのかもしれません。

神の摂理によって子供を授かったのであれば、神の摂理に守られて子供は育つはずです。

そこに愛情があれば十分なはずです。



しろ