人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2016年12月24日土曜日
クリスマスに思うこと
今日は、クリスマス・イブです。
明日は、言わずと知れた、イエス・キリストの誕生日です。
これほどまで、一人の人間の誕生を、世界中で祝う日はないのでしょうが、祝っていると言うよりも、プレゼントを交換したり、ケーキやご馳走を食べたりして、にぎやかに楽しく過ごす日という印象が強いと思います。
多くの人にとって、1年で最も幸せな気分に浸れる時かもしれませんが、世界中でお祭りのような日になっているのを、イエス・キリストは本当に喜んでいるのかと、ふと思ってしまいます。
浮かれている様子を見て、嘆いているのではないかと思う時があります。
キリスト教の信者でない私は、イエス・キリストに全く興味がありませんでした。
昔、ホテルの机の引き出しに聖書が置いてあるのを見つけて読んでみましたが、何のことが書いてあるのか、さっぱり判りませんでした。
宗教は弱い者がすがるものであり、神は人が作り上げた概念だとばかり思っていました。
ところが、霊的な力の出現と、挫折的な出来事をきっかけにして、霊的真理に親しんでいくうちに、イエス・キリストに対する考えは、大きく変わって行きました。
これほどまで霊性が高く、大きな愛を持って生まれてきた人はいないと思っています。
イエスは、さまざまな奇跡を起こしたことで知られています。
奇跡は、教えを信じ込ませるための作り話であり、科学万能の時代にあって、まともに信じる人の気が知れませんでしたが、さまざまな経験を経て現在は、霊力は間違いなく存在し、作り話などではなく、実際に起きていたと確信しています。
有名な奇跡としてイエスの「復活」があります。
イエスが生前予告した通りに、死後に弟子たちの前に姿を現して、それを見た弟子たちは仰天し、その後の人生を伝道に捧げたと言われていますが、オカルト的な話であり、にわかには信じられない人も多いと思います。
生命は、死と共に終わるものではありません。
復活とは、肉体から解放された魂(霊体)が、次の世界で生活を始めることです。
イエスが特別なのではなく、全ての人は死の後に、次の世界で「復活」しています。
イエスは心霊的法則に極めて精通していたと言われ、この世の人の目に映るところまで、幽体の波動を下げる、特殊な能力を発揮していたと思われます。
また、病気の癒しも有名です。
てんかんや、生まれつきの盲人、らい病、足が萎えてしまった人などに、イエスが手をかざしたら、癒やされたとされています。
盲目の人が見えるようになり、足が萎えてしまった人が歩けるようになったのならば、周りで見ていた人は、とても驚いたことでしょう。
一見すると、イエスが病気を癒したように見えますが、イエスを通して流れた霊的な力が、病人の魂に届いて、肉体や精神の病気が癒やされたと思われます。
時期が来ていた人が、イエスの元に導かれ、一瞬のうちに病気が完治した人も多かったと思います。
奇跡は、超自然現象と言われていますが、霊的な法則に則った自然現象に変わりはありません。
目に見えない世界から届く、目に見えない力の働きによって、目に見える形となって現れたのが、奇跡と呼ばれるものです。
目的は、霊力の存在を知らしめて、眠っている魂を目覚めさせるためです。
奇跡を目の当たりにした人たちは驚愕して、イエスの語る言葉を信じるようになったと考えられます。
イエスは、人類史上最高の霊能力者であったと思います。
約2000年前の地上で、神のごとく生きた人が、今、霊界でどれほど進化した存在となっているのか想像もつきません。
シルバーバーチの霊訓には、現在のイエス・キリストは、唯物的な考えに支配された地球に、キリスト教の教祖としてではなく、あらゆる宗教を超越した、人類の霊的覚醒を目的に組織された集団の中で、最高指揮官をしていると書かれています。
過去の人ではなく、今も、この世界と深く関わっているようです。
世界にはさまざまな宗教がありますが、その根底にあるものは実は同じです。
しかし、宗教にはドグマ(教義)があり、その相違により、大きな混乱が生じているようです。
宗教の名の下に、分断され、戦争が行われているのは、神が最も望まない、嘆かわしい行為だと思います。
現在のキリスト教ですが、残念なことに教義と儀式に縛られ、霊的な力が人々に届いてはいないようです。
イエスを神の子として奉ることに重きを置いてしまい、伝えようとしていた肝心の真理が埋もれてしまっているようです。
イエス・キリストは、いくつものシンプルな真理を遺しています。
昔は、何のことやら判りませんでしたが、霊的真理を学ぶうちに、少しですが理解が進みましたので、稚拙ですが、自分なりに解釈してみました。
「神は愛なり」
神の心は愛であり、その心は法則として顕現していて、私たちを究極の悦びの世界へ導こうとしている、という意味に捉えています。
「右の頬をうたれたら、左の頬を差し出しなさい」
初めて聞いた時は、それでは相手への服従になってしまうと思ってしまいましたが、頬をうち返したら、相手はさらにうち返してくるので、相手の行為を許し、左の頬を差し出して親愛の情を示せば、(自然法則の働きにより)うち返してこれないので、賢明であると解釈しています。
霊的真理の根幹をなす、「因果律」の働きを表現していると思います。
「人はパンによって生きるものにあらず」
人は食べて寝るだけの存在ではなく、もっと有意義な人生を送らなければいけないと、解釈していましたが、その先に「神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる」と続きがあるようです。
神の口から出るひとつひとつのの言葉とは、法則(摂理)を指していて、食べ物で養われるのは肉体だけであって、人の本質である魂は、神の力(生命力)と自然法則の働きによって生かされていると言う意味にとっています。
「豚に真珠」
真珠とは霊的真理で、豚とは真理の価値を理解できない人たちのことを指すと思います。
真理を受け入れる時期が来ていなければ、何をしても無駄であると、弟子たちに伝えていたのかもしれません。
きつい喩えだと感じましたが、イエスが生きた時代は、真理を嘲笑う人たちが多くいたのかもしれません。
「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える 」
結婚式で牧師さんが言っているのを良く聞きますが、愛は人の成長を妨げるあらゆる感情や欲望から解放させ、人生を正しい方向に導き、あらゆる苦難を乗り越えさせてくれる、と解釈しています。
もっと簡単に言えば、愛はすべてを超越した神の力である、なのかもしれません。
「受けるより与えるほうが幸福である」
人から愛をもらうと、誰でも幸せな気分になりますが、より幸せになれるのは愛を与えた人である。
なぜなら愛を与えることで魂は成長し、この世を生きる意味が成就され、神の国に入れるからである、と言いたいのだと思います。
「愛は摂理の成就なり」
いろいろな解釈があると思いますが、命あるものは摂理(法則)の働きによって、お互いを愛し合うようになり、最後には1つになる、と考えています。
イエスが生きた時代のイスラエルは、人を導き、救うべき宗教が、時の権力(ローマ帝国)と癒着し、堕落してしまい、民衆の不平、不満は、とても大きかったと考えられます。
殺伐とした世の中で、神の御心は愛であり、やさしく、思いやりの心を持って生活していれば、貧しくても天国に行けると言うイエスの教えは新鮮であり、多くの人の心を捉えたと思います。
「目から鱗が落ちる」ということわざを、良く耳にします。
語源はイエスを迫害していたサウロという人が、ある日、目が見えなくなってしまい、イエスの使者が赴いて、手を置いたところ、目から鱗のようなものが落ちてきて、見えるようになったことから来ているそうです。
遠隔ヒーリングを行って、見えるようになったと思われますが、このようにイエス自らが、敵をも愛する行為を実践している様子を見て、周りの人は次第に信用していったと思います。
イエスはお金や財産などについて、この様に語っています。
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」
物質的な財産は、時と共に価値が失われたり、人に奪われたりする上に、結局は手放さなければならないので、蓄えても意味がない。
真の財産とは、やさしさや思いやりや奉仕により、あなたの魂に蓄えられ、成長させるものであり、永遠に失われない。
もっと手短に言ってしまえば、あの世で豊かに暮らすために、この世で徳積みに励みなさい、と言いたいのではないでしょうか。
そして、イエスはこんなことも言っています。
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。 」
金持ちは、お金に執着するあまりに利己的な人生を送ってしまうため、利他的な神の国(天国)に入るのは限りなく難しくなってしまう。
お金の存在は、人の理性を狂わせ、魂を貶めてしまうような生き方に変えてしまい易いので、強く戒めていると思います。
昔も今も、お金が何よりも大切と思っている人は、とても多いと思います。
やさしさや思いやりは大切だと判っていても、自分にとって何の得にもならないと思っている人も、少なくありません。
目に見えないものよりも、目に見えるものを、どうしても頼りにしてしまいます。
もし、この世で終わってしまうであれば、価値観の相違として許されるのかもしれません。
しかし、死の後も、私たちは生き続けるのは、厳然とした事実です。
あの世は思念(想い)の世界であり、想像するのが難しいかもしれませんが、この世で目に見えたものが見えなくなり、見えなかったものが実在していることに気付きます。
地上の財産は跡形もなく消滅してしまい、それまで五感に触れなかった愛が、ひしひしと実感されるようになります。
イエスが、一貫して伝えようとしていたのは愛の大切さです。
愛こそがすべてと、言い切ってしまっても良いのかもしれません。
イエスは十字架の上で、自分を磔にした人たちのことを、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしてるのか知らないのです」と、祈ったそうです。
もし、これが事実ならば、イエスは究極的な愛を実践しながら、死んで行ったと言えます。
そんなイエスが、地上で盛大に誕生日を祝ってもらっても、うれしいはずがありません。
助けを求めている人たち、忘れ去られている人たち、涙を流している人たちに目を向けて欲しいのに決まっています。
そして、世界中で起きている戦争に心を痛め、富めるものがますます富み、貧しいものがますます貧しくなる摂理に反した社会を憂い、病気や栄養不良で死んで行く地上の子供たちを見て涙を流しているような気がします。
「自分を愛するがごとく、隣人を愛せよ」
もし、全ての人がこの言葉を実践できたなら、地上から地獄のような光景は消え、直ちに地上天国が実現すると思います。
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16 件のコメント:
イクミ 様
お久しぶりです。
今年も少しとなり、こうして健康で穏やかに新しい年を迎えることに感謝しています。
シルバーバーチの霊訓にも引例されるイエスの言葉は、どう解釈したら良いのか?…と思うことも多くあります。
イクミ様の説明で、実生活に結びついた理解ができ、とても参考になりました。
病を得てから3年半…イクミ様のブログを通してシルバーバーの霊訓を知り価値観も変わりました。
昨年から緩和ケア病棟のボランティア活動をしています。
先日、アロママッサージを差し上げた患者様から「あの日は気持ち良かった、楽になった」と後日聞き、深い喜びがじんわりと心に広がっていきました。
こちらの方が、こんなに温かい愛を頂いているのだと思いました。
まだまだ愛について分からない事だらけですが、この世界を卒業するまで学んでいきたいと思います。
今年も心のこもったブログをありがとうございました。
良いお年をお迎え下さい。
はなの
はなの様
おはようございます。
ブログを続けてお読みいただき、ありがとうございます。
健康で、穏やかに新しい年が迎えられそうで、何よりと思います。
シルバーバーチの霊訓を読むと、イエスの偉大さが良く判ります。
そして、霊的真理≒イエスの言葉≠キリスト教 だと感じています。
愛が最も大切なのは、両者に共通していることです。
去年から緩和ケア病棟で、ボランティアをされているのですね。
患者様の言葉を聞いて、深い喜びが心に広がってきたそうですが、幸せは探し求めるものではなく、他者の悦びの中にあるのと思います。
患者様の想いは、同じ病気になった人でなければ察することが難しいと思います。
アロママッサージに、はなの様の患者様を慈しむ想いが込められていたので、それが伝わったのでしょう。
私も、まだまだ愛について判らないことだらけですが、他者に愛を与えると、神からそれ以上の愛が与えられると考えています。
人を愛すれば愛するほど、神から愛されると思います。
病気にならなければ、手に入れることはなかったであろう大切な真実は、愛を表現すればするほど、輝きを増して来ると思います。
大切なものに気付いて、次の世界に行く人もいれば、この世で生まれ変わって生き続ける人もいます。
どちらが幸運とかではなくて、気付くことが何より大切であり、はなの様はこれからの人生で実践して行くのが予定されていたシナリオだと思います。
魂を成長させるために人生の出来事はあり、乗り越えられない出来事は決して起こらない、それを知っているだけでも、とても幸運なことです。
いつの間にか、この世の人生の折り返し地点は、とっくに過ぎてしまったようです。
笑顔で向こうに行けるように、たくさんの愛を表現して、生きましょう。
赤ちゃんです。いつも、相談して頂きありがとうございます。
今回は、エホバの証人、ものみの塔の宗教の勧誘についてです。
対応を優しくすると、態度がしつこくなるので、少し、厳しい感情を出しながら断るとなんとか来なくなります。しかし、しつこく来ます。
私がいない時に、以前、母と同居していたら、私がいないときを見計らって来ます。
一度だけ、以前住んでいた所で、私は、さけていましたが、一人で住むようなり、珍しく勧誘にきました。
断るのですが、すこし、興奮して、どうしたらいいですか?なんとかなりませんか?と男性の信者の対応が恐ろしいです。
今日、今住んでいる所に勧誘にきて、少し、キツく、宗教ですか?いい加減にして下さい。と断りましたが、そうですか?でした。
誇大妄想の霊に取り憑かれている方々から、恐怖が芽生えます。
今後、どのように対応したら1番いい方法なのか、知りたいです。
私は、そのときに、サファイアのペンダントをしていたら、目の色を変えていました。
話しも聞き出そうと必死みたいでしたか、こちらから、宗教ですか?というと、ハイというので、厳しく断りましたが、以前、興奮してどうしたらいいか?とのめり込み感じで、怒り気味で怖かったです。
赤ちゃん様
こんばんは。
エホバの証人の勧誘はそんなにしつこいとは知りませんでした。
30年位前、子供が交通事故に遭い、信者の親が輸血を拒否して死んでしまった事件がありました。
子供の生命よりも、自分の信条を優先することに驚いた覚えがあります。
エホバの証人の教義が正しければ良いのですが、間違っているところが、かなり多いと思います。
間違った宗教に勧誘して、そのことで信者になってしまった人がいたとしたら、その罪を償わなければいけなくなります。
そのことを知らずに熱心に布教するのは、実に怖いことです。
私が勧誘を受けたとしたら、私が信じているものはこれですと言って「シルバーバーチの霊訓」見せるでしょう。
これに優る真理はないと考えていますと伝えます。
それでも、自分の宗教の方が正しいと主張するのであれば、可哀想な気もしますが、霊的真理に照らし合せて、教義の間違いを指摘します。
人間が作った教義は霊的真理にはかないません。
怒って帰ってしまい、2度と訪ねて来ないでしょう。
時期が来ている人であれば、教義の間違いに気付くはずです。
背後霊に導かれて、訪ねて来た可能性も否定できないと思います。
ありがとうございました。しかし、私には、シルバーバーチの本をみせる勇気がありません。余計にしつこくなるのかと、一切言わず、厳しい態度で断われば大丈夫だと確信しました。何かあれば、イエスさんが守ってくれます。霊力を送りました。いつも、エホバたちは、私が、サタンに取り憑かれていてと感じで救おうと勧誘に必死になるのでしょう。
それに、みた印象が霊的で普通の人じゃないと言われるのもあるのかと思いました。霊の話は氷山の一角でして、スマホでは話ししきれないです。
スピリチュアル普及でも、ヒーリングをお願いしたことがあるので、そちら様で、私のことはよく説明したので、ご承知のはずです。
背後霊に導かれるとは、私の霊に導かれたのですか?
それは、何故?
エホバの証人なら、神と繋がる聖霊を感じるならば、やはり、私の対応によって、疑問?が浮かぶからでしょうか?
しかし、何故?もし?は、サタンのじょうとうくとなっている故に難しいかもしれません。
しかし、宝石から違うものを感じたなら別格かもしれません。
たしか、宝石は、霊はやどるなどは否定していて、みにつけたらいけなかったのではなかったでしょうか?
赤ちゃん様
言葉が足りなかったようです。
エホバの証人を信じている人にも、背後霊が付いています。
背後霊は、地上の人が間違った宗教を信じていることを憂いています。
何とかして、間違いに気付いて欲しいのです。
霊的真理を知っている人の居場所も、霊界の人たちには分かっています。
エホバの証人を信じている人の背後霊が、真理を知っている人のところに、導いている可能性があると言いたかったのです。
古い宝石などには、過去に身に付けていた人の思念が残留していることがあるかもしれません。
それでも、サイコメトリーの能力がなければ、その思念を感じる取ることはできません。
霊的なことを、心配する必要はないと思います。
ありがとうございました。失礼さました。私も言葉足らずでした。
エホバの証人達は、宝石の霊を信じると、偶像崇拝になり、罪になると、確か、エホバのパンフレットで読んだことがありました。
イクミさん、今日は、ゴールデンはいかがお過ごしですか?私は、ピアノとシルバーバーチを読んでいます。
シルバーバーチに出会うまでは、カトリックでしたので、カトリックは、崇敬物や礼拝の対象になるものを置きます。
今は、全く置かなくなりました。
ロザリオの祈りにも拘っていなく、持たないし卒業しました。
しかし、最近、芸術品としてはすばらしく、十字架を愛の象徴として飾ろうと思ったのですが、それならいいとおもうのでしょうが、どうなのでしょう?
あれもこれもはよくないので、燭台など→礼拝の対象ではなく、
部屋に綺麗な十字架を飾りたいです。
赤ちゃん様
こんにちは。
私は自宅でゆっくりと過ごしています。
儀式は無意味であり、教義は真理を覆い隠してしまうものです。
ご質問の件ですが、ロザリオを見て、カトリックの信仰(教義)を思い出すのではなく、イエスの愛に貫かれた生き方を思い出すのであれば、問題ないと考えています。
ありがとうございました。正しくその通りですね。
幼少の頃に、近所の同年の女友達がいっている、キリストのお告げがあり女性でカトリックの教義で会を結集して、無料でやっていて、家にきていました。親にないしょで、少し、通いましたが、おやつ代を500円頂いていて、3千円寄付してくれいると、年金を、もらっているから無料ですと、全くの超能力があり、皆、女性でシスターの姿をして善意でやっていて、その時にみた、霊的存在者や、奇跡が、ありました。イエスさんなど、→その方のキリスト用品も芸術的に素敵ですが、神と繋がっているので、美しい光などに溢れていたからです。
統一教会などとは無縁ですが、善意でこのような方々に出会うことは今でも、鮮明に覚えています。
今日は、赤ちゃんです。スピリチュアル普及活動のホムペで、聖書で悪霊をブタに憑依させて除霊した話しを見ました。
疑問に思うことがあります。
❶なんの罪もない豚が憑依させて殺すのはどういうことか?
❷動物は純粋なのに、悪霊を憑依させることができるのか?
❸除霊の為に、殺された豚を殺したので罪にならないのか?
赤ちゃん様
この逸話は詳しく知りませんでしたが、霊的真理に照らし合わせると疑問を感じます。
神にとって、豚も人間も同列です。
憑依させることができるのかは別として、同列である豚を人間の除霊のために憑依させて2千匹も殺すのは罪になると思います。
イエス・キリストがそんな罪を犯すとは考えられず、憑依させなくても浄霊することは可能なはずです。
真偽は判りませんが、弟子たちによって(イエス・キリストの力を誇示するために)脚色された話のような気がします。
そりぁ、霊的真理とは関係ないことは、霊界からできるのでしょうが、霊的な力の使い型に興味を抱くから、謎にしてあるのは、解りますが、スピリチュアル普及会の記述によると、そのようにしていたような記載でしたので、疑問でした?何か間違えでしょうか?
10.憑依現象とスピリチュアル・ヒーリングに豚の話がでてきます。マイヤースの見解もあります。
否定してあるようなのか、でも、イエスがした除霊法として紹介してますが、はっきり、しません。
ニュースレター23号
10.憑依現象とスピリチュアル・ヒーリング
――スピリチュアル・ヒーリングは最高の除霊・浄霊法
驚くべきイエスの除霊法
ですが、よくわかりません。
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