人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2015年7月20日月曜日
健康と病気 ~霊的視点からの私見~
健康とは何でしょうか?
一般的には、肉体と精神に異常が認められずに、正常に機能している状態を指すと思われます。
しかし、人間を構成しているのは肉体と精神だけではありません。
生命の本質である魂が存在しています。
魂の存在を否定する人がいますが、存在しているのは揺るぎのない事実であり、論争するのは時間の浪費と考えています。
WHOで1998年に出された、「健康の定義」の改定案ですが、 「Health is a dynamic state of complete physical, mental,spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity(健康とは、単に病気または虚弱がないだけではなく、肉体的、精神的、霊的、そして社会的に健全で、活動的な状態である)」としており、文言に「spiritual」を加えているのは、画期的なことだと思います。
現代医学が、この定義にある「spiritual」を受け入れたなら、迷宮入りしている数多くの病気で苦しむ患者に、きっと朗報がもたらされると思います。
シルバーバーチの霊訓では、病気の原因は、肉体と精神と霊(魂)の不調和にあると明言されています。
当初、私はその意味がよく分かりませんでした。
魂が最上位にあり、その下に精神があり、最下位に肉体があると言われます。
確かに、(反射を除いて)精神が命令を出さない限り、肉体は微動だにしませんので、精神の支配下に肉体があるのは良く分かります。
魂の配下に精神があるのですが、両者ともに肉体(物質)とは次元が異なり、存在を確認できるものではないので、その違いを明確に意識できません。
想い(思念)が生まれるところが魂であり、その想いを言葉にしたり、肉体で表現するために命令しているのが精神と考えています。
また、シルバーバーチの霊訓では、この世に顕現しているのは「パーソナリティ」であり、その背後に「インディビジュアリティー」が存在していると書かれています。
パーソナリティとはペルソナのことで、日本語にすると仮面という意味だそうです。
人は、この世を生きている時に、パーソナリティという顔(仮面)を被っていてることになります。
パーソナリティはインディビジュアリティーを表現するためにある、この世の「顔」と思われます。
個々のパーソナリティは、生まれた国、性別、職業、信じる宗教、文化、知識、家族、友人など、この世で自分を取り巻いている環境により、形作られていくと思われます。
そして、パーソナリティはこの世を生きているうちに、外部からさまざまな影響を受けたり、環境が変わったりして、大きく変化していく可能性があると思われます。
肩書が付くと性格まで変わってきたり、住む国や信じる宗教により考え方が大きく変わってしまうことが良くあります。
生まれ育った環境や、外部からの影響により、時と共に変化していくパーソナリティはこの世の顔であって、真の自分ではありません。
その奥に控える、インディビジュアリティーこそが真の自分と思われます。
パーソナリティは変えられる表層の自分であり、インディビジュアリティーは変えられない深層の自分と言えるのかもしれません。
よく言われる「エゴ」とは、肥大化してしまったパーソナリティのことを指すのかもしれません。
肉体と精神と魂の調和が保たれた状態とは、パーソナリティがインディビジュアリティーの延長線上にあり、インディビジュアリティー(の想い)が、パーソナリティに妨げられずに肉体で素直に表現されている状態と考えられます。
蛇口を回すと、遮るものは何もなく、勢い良く水が流れ出ている状態です。
不調和な状態とは、パーソナリティが外部から影響を受けて大きく変わってしまい、インディビジュアリティーと乖離してしまったため、(インディビジュアリティーから)生じた想いが、パーソナリティに妨げられて表現しにくくなっている状態と考えられます。
蛇口を回しても、水道管が詰まっているために、水が出にくくなっている状態と考えられます。
また、パーソナリティによって、想いが歪曲化されたり、変質して表現されている状態も不調和と考えられます。
蛇口を回すと、水道管が汚れているために、濁った水が出ている状態と考えられます。
この様な不調和な状態が続いてしまうと、心身に病気が生じると考えています。
最近、「ありのまま」の自分でいることの大切さが、しきりに叫ばれています。
ありのままの自分を「インディビジュアリティー」に、この世の顔を「パーソナリティ」に置き換えてみてはどうでしょうか。
ありのままの自分を表現しようとしても、この世の顔が邪魔をしてしまい、できない時があるのではないでしょうか?
ありのままの想いが、この世の顔に妨げられて表現できないのは、日常的に起きていると考えられます。
それは精神衛生上良くないと言うよりも、病気の原因になっていると思います。
妥当なのかどうか分りませんが、1つの例を挙げてみます。
2011年3月11日、福島第1原子力発電所に大津波が襲いました。
その津波により、建物は破壊され、原子炉を冷却する水は完全に不足しました。
冷却する水がなければ、原子炉は異常高温となり、その結果メルトダウンを起こして、放射性物質が拡散してしまいます。
その発電所の最高責任者は、多くの人を放射線被曝から守るために、直ちに海水を注入し、原子炉を冷却しようと思いました。
しかし、海水を注入したならば、その原子炉は2度と稼動できず、廃炉となります。
彼は電力会社の1社員であり、自分の決断により、会社に多大な損失が生まれることも承知しています。
それでも、彼は良心の声に従い海水注入を断行しました。
その後、国家と会社上層部から海水注入の中止命令が出されましたが、命令に従わず注入を続けました。
結果的に、メルトダウンが起こり、放射能汚染は防げませんでしたが、その規模は彼の英断により、格段に小さくなったと言われています。
彼のインディビジュアリティー(魂)は、迷うことなく海水注入を指示しています。
しかし、彼のパーソナリティ(この世の顔)は1国民であり、1社員であり、国家や上司の命令に従わなければなりません。
インディビジュアリティーとパーソナリティの間に、途轍もない不調和(葛藤)が生じていたことになります。
彼は事故の翌年、58歳の若さで、食道がんで亡くなりましたが、この極限状態での、両者の不調和(葛藤)が原因に思えてなりません。
若くして亡くなったことは家族にとって大きな悲しみとなりますが、亡くなった本人は魂の声に忠実に従って本当に良かったと、胸をなでおろしていると思います。
もし、自己保身など、利己的な理由で魂の声に従わなかったのなら、死後の後悔は計り知れないものになったと思います。
以上は、極端な例ですが、現代社会においては、この様な局面はいくらでもあると考えられます。
こんなことを書いている私も、以前は世間に認められる仕事をして、より良い生活をすることが幸福と考えていました。
いつも頭ばかりを使った、慌ただしい生活をしていたと思います。
そんな時に、仕事上の不正が発覚し、徹底的に追い詰められていく日々が始まりました。
当初は、頭を使えば、どうにか乗り切れるだろうと思いました。
しかし、事態は悪化していくばかりで、いくら考えても、どうすることも出来ない窮地に陥りました。
そんな時に、心の奥底から、こんな想いが湧き上がってきました。
「正直に生きろ」
心の奥底からの想いは、頭で考えたことと正反対でしたが、躊躇なく従おうと思いました。
心の奥底の想いは、本当の自分、魂からの声だと思ったからです。
それまで、本当の自分である魂から想いが生じているなどと、思いもせずに生きてきました
直感みたいなものを感じる時はありましたが、それは思いつきであり、偶発的に頭から生まれていると思っていました。
パーソナリティの声は「今の自分を守れ」であり、インディビジュアリティー(魂)の声は「正直に生きろ」です。
大きく違っていましたが、インディビジュアリティーの声に従い、正直に生きました。
その結果、今の自分は守れずに、(社会的に)最悪の結末を迎えました。
しかし、そこから多くのことを学びました。
「魂」、「生命」、「因果律」、そして「愛」。
これで良かったと、心から思っています。
その学びこそが、この世に生まれた意味であると今は考えていますので、後悔は全くありません。
もし、パーソナリティの声に従っていたなら、今の自分は守れたかもしれません。
しかし、インディビジュアリティー(魂)の声ではなく、パーソナリティの声に従ってしまうと、得られるものが得られずに、(死後の総括の時に)大きな後悔をすることになると思われます。
あるいは、本当の自分の想いを無視し続けたのなら、不調和により病気になっていたかもしれません。
ほとんど人は、思考や行動の源は、すべて頭脳にあると思っています。
確かに、日常生活は、事務的、機械的な作業や、感情を伴わない会話に費やされているので、ほとんどは頭脳で考え、身体を動かしています。
しかし、心の奥底まで響く出来事が起きた時、いくら考えても解決できない深刻な問題が生じた時は話は別です。
その様な事態が起きると、それまでパーソナリティの影に隠れて、眠っていたインディビジュアリティー(魂)が目覚めて働き出します。
パーソナリティで対応できないほど衝撃的な出来事が身に起きた時、埋もれていたインディビジュアリティーが表に出てきて主導権を握ると考えられます。、
この状態のことを、「魂が目覚めた」と言うのかもしれません。
インディビジュアリティーから想いは生まれています。
しかし、その想いはパーソナリティが大きくなってしまうと、その声に掻き消されて、判らなくなってしまうことが多くなります。
社会では所属する組織の利益を優先するため、物事を円滑に運ぶため、家庭でも他者の意見を尊重し、軋轢をなくすために、多くの人はインディビジュアリティーに蓋をして生活しています。
蓋をして生活していると、インディビジュアリティーの存在は徐々に希薄になり、この世の顔であるパーソナリティが自分だと思ってしまいます。
パーソナリティにより隠されてしまった想いは、表現されずに滞ることになります。
自己と他者との価値観、考え方に相違がないはずはなく、ぶつかり合えば、そこに葛藤が生まれ、何らかの想いが生まれます。
また、経験したことのない衝撃的な出来事から、言葉にできない強い想いが生まれます。
パーソナリティが大きくなると、インディビジュアリティーから怒り、悲しみ、憎しみ、恨み、喜び、嫉妬など、言葉にならない想いが生まれていても、気付きにくくなってしまいます。
もし、気付いたとしても、人間関係が悪化したり、道徳的、法律的に反する行為となってしまうので、パーソナリティに妨げられて表現はなかなかできません。
誰かにひどい仕打ちを受けて、強い怒りの想いが生まれたとします。
その想いを、外に向かって表現してしまうと攻撃的なものとなり、捕まったり、そうでなくても関係が悪くなるので、留まることになります。
しかし、表現しなかったとしても、怒りの想いは肉体には少なからず影響を及ぼしています。
怒りがこみ上げれば、脈は速く打ち、血圧は上昇して、顔は紅潮していくのが判ります。
想いは、肉体を変化させるエネルギーになると考えて良いと思います。
もし、怒りよりも強い、恨みや憎しみの想いは、肉体上にどのような影響を与えるのでしょうか?
恨みや憎しみを、身体を使って外に向かって表現するならば、相手への暴力や攻撃になると考えられます。
今、世界中で起きている戦争の根本原因は、怒りや憎しみや恨みの想いであり、それが外に向かって表現されていると考えられます。
嫉妬の想いはどうでしょう?
憎しみや恨みに近い想いであり、相手を陥れたり、不幸にさせる行為につながるかもしれません。
そんな相手を傷つけたり、不幸にさせようとする想いを、抱き続けていて良いはずがありません。
自然法則(神の摂理)とは、物理(物質)的法則だけではありません。
精神的、そして霊的な法則が存在しています。
言動だけに、気を付けていればいいのではありません。
自分の想いにも、霊的な法則が厳格に働いています。
どんなことを想っても、人に知られることはありません。
人から非難されたり、法律で罰せられることもありません。
しかし、自然法則は1つ1つの想い(思念)を、見逃すことはありません。
その想いが、摂理(愛)に反したものであれば、相応の償いが、必ず生じます。
累積した愛に反する想いは、因果律の働きで心身に病気として表現され、苦痛によりその過ちを償うことになるかもしれません。
現代医学で原因不明とされる病気の多くは、霊的次元に根本原因が存在し、表現されなかった(愛に反した)想いが、別の形で表現されたものと考えています。
想いは、自分そのものであり、常に責任が問われていることになります。
外に表現されなかった相手を攻撃し傷つけようとする想いは、因果律の働きにより、内に表現され自分自身が攻撃され傷つけられる結果を生み出します。
自から出た想いは、肉体で具現化する力となって、自分に戻ってくると言うことです。
自分の想いにより、自分が傷ついて、苦痛を味わうのは、その様な摂理(愛)に反する想いを抱くことが過ちであることに気付くためです。
そうであるならば、霊的次元に原因がある病気の人は、自分の奥底から生まれる想いに耳を澄まして、愛に反する想いが生じないように、細心の注意を払うべきだと考えられます。
降りかかる出来事から、愛に反する想い、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬が生まれそうになったら、とても難しいことですが、寛大になり、その対象を許すしかありません。
許すことは、自己犠牲を伴う、相手への愛であるために、愛に反する想いは生まれないからです。
想いは頭で意識されにくいものであり、自分にはそんな想いはないと思っていても、身体が反応してしまっている時があります。
自分では怒っていないと思っていても、興奮して声が上ずったり、眉間にしわが寄っていれば想いが必ずあるはずです。
悲しくないと思っていても、想いがなければ、知らないうちに涙が頬を伝って落ちることなどないはずです。
想いが溜まっていると、遭遇する出来事から同様の想いが生じやすくなります。
怒りの想いが溜まっていると、ささいなことで怒りやすくなります。
悲しみの想いが溜まっていると、ふとしたことで悲しくなり、涙ぐんでしまいます。
私は、まだ未熟なために、怒りまではいかないにしても、その一歩手前の想いが生じている様です。
平静は保たれているように思っていても、想いが溜まっていると、知らないうちに物事を良くない方に解釈しがちになります。
ささいなことが気になったり、素直に受け取れなくなったり、疑ったりしてしてしまう様な気がします。
また、自分は相手を怒らせるような言動はしていないのに、相手から怒りをぶつけられる時があるかもしれません。
そんな時は、まず自分の中に意識されない怒りの想いがないか、問い質すようにしています。
(自分の中に)怒りの想いがあって、それが相手の魂に伝わり、同じ想いが生じて、返されているかもしれないからです。
知らない内に自分が種を蒔いていて、それを刈らされていることが、意外に多いと感じています。
その逆に、相手は怒らせる言動は何もしていないのに、何故か相手に対して怒りの想いが生まれてしまうこともあります。
そんな時は、相手に怒りの想いがあって、その想いを魂が受け取ってしまい、同じ想いが自分に生じている可能性があります。
想いは、人にも自分にも影響を与える目に見えない力です。
そして、人生は想いが起点となって綴られていきます。
自分の想いに、気付かなければいけません。
そして、大切にしなければいけません。
深刻な病気であればあるほど、隠されている強い想いがあるのではないかと思います。
しかし、自分を守ろうとするパーソナリティから生じる不安や怖れが大きいと、(インジュビアリティから生じた)想いが、見つけにくくなるかもしれません。
不安や怖れを鎮めて、心を穏やかにして、内にある想いに気付くことが、病気を癒やすための第一歩だと思います。
そして、病気を生じさせた、愛に反した想いを、解放させてやらなければいけません。
神の摂理は愛です。
愛の表現とは、人を愛することだけではありません。
人そして出来事を許すことも、自己犠牲を伴うために愛が必要です。
自分を許せずに、苦しんでいるのであれば、自分に向けられた愛が足りないと思われます。
許すことで、憎しみから解放され、憎しみから解放されれば、苦しまずに済みます。
愛に反した想いは、自らの愛の想いでしか、解放できないと思われます。
病気は突発的に生じて、苦痛を与えるだけのものではありません。
魂の成長と深く関係しています。
生まれる前から病気になることが決まっている人がいますが、病気を通して周囲の人とともに、大切な事を学び、魂を成長させるためにあると思われます。
また、この世に生まれてから出会った出来事により生じた想いが、決められていた人生のシナリオを書き換えてしまうほど大きくなってしまったために、病気が生じている人もいます。
いづれにしても、大切なことを学び、魂を成長させるためにあります。
魂の成長とは、より次元が高く、強い愛を表現できるようになることと、考えています。
亡くなった後に、この世の人が赴く世界は、物質(肉体)が介在しない、想い(思念)の世界です。
地位、財産、名誉など、この世で手に入れたものはすべて置いて、魂ひとつで向こうに行きます。
この世の顔であるパーソナリティは剥ぎ取られてしまい、インディビジュアリティー(魂)がむき出しになります。
魂を隠す肉体はないため、ありのままの自分、裸の自分になります。
ありのままの自分である魂は、想いという光を放っています。
美しい光とは、相手を思いやり、やさしくしようとする、愛の想いです。
愛に反する想い、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬、貪欲などの想いは、美しさに欠ける光となります。
想いのすべてが、知れてしまいます。
魂のすべてが、知れてしまいます。
向こうの世界は、自分を偽れない実存の世界であり、この世は、自分を偽った虚像が存在する世界です。
ありのままの自分を出しても、恥ずかしくないように修養する世界がこの世と考えられます。
魂は、より高く、強い愛を表現できるようになるのを望むために、最適な環境を選んでこの世に生まれて、さまざまな経験を通して魂を成長させていきます。
多くの人は望みませんが、楽しいことよりも、逃げ出したくなるようなつらい経験ほど、魂を成長させています。
しかし、時につらい経験から、愛に反する強い想いが生まれてしまいます。
その想いはが表現されずに滞ってしまうと、その後の人生で遭遇する出来事から、同様の想いが生じ続けてしまいます。
予定されていた魂の成長を妨げてしまうほど、想いが大きくなってしまっても、この世では五感に触れないために判りません。
そのために因果律が働き、病気という五感に触れる形となって、想いが表現されます。
病気には苦痛が伴います。
その苦痛にも意味があり、愛に反する想いを抱き続けたことに対する償いであり、想いを解放させて魂を浄化します。
(肉体の)生命にかかわる深刻な病気であれば、それまで自分だと思っていたパーソナリティでは対応しきれなくなり、奥に控えていた本当の自分であるインディビジュアリティーが表に出てきます。
本当の自分である、魂に目覚めます。
病気とは魂を目覚めさせ、本当に大切なものは、生命そして愛であることに気付くためにあります。
意識には上りませんが、生まれる前に自分にした約束があり、それを、もう1度思い出させるためにある、神の摂理(愛)です。
病気になったのは不幸ではありません。
この世にいるうちに生まれ変わり、憎しみではなく愛を表現して、生まれてきた目的を成就させるためにあります。
参考資料: 「日本を救った男―吉田昌郎元所長の原発との壮絶な闘いと死」
参考ページ: 「霊的な病気の意味」
2015年7月3日金曜日
向こうにいる人の想い
数年前になりますが、高校時代の友人の家を訪れた時に、ある小学生の女の子とそのおばあさんと知り合う機会がありました。
友人は、奥さんを30代後半の若さで病気で亡くし、二人の子供の子育てに奮闘中です。
女の子のお母さんは、亡くなった友人の奥さんと学生時代からの親友で、家に良く遊びに来ていたようです。
女の子には、やや重度の知的及び身体的な障害がありました。
障害は生まれながらのものであり、改善は難しいと思われましたが、少しでも良くなればと思いヒーリングを行いました。
しばらくすると、女の子の表情が穏やかになるのが見て取れました。
後日、女の子のお母さんから連絡があり、続けてヒーリングをして欲しいと言われましたので、日曜の午前中にお会いする約束をしました。
お母さんにお会いすると、快活で明るい性格でしたが、女の子の対応に追われ、とても気を張っているように見えました。
女の子は、言葉をしゃべることが出来ず、小さくうなるような声で、何かの意思表示をお母さんにしています。
その想いを、お母さんが必死に汲み取ろうとしています。
言葉で伝えられない想いを、かろうじて判ってやれるのは、世界中でお母さんしかいないと思いました。
数週間おきに、ヒーリングを続けて行いましたが、その時にお子さんの障害と今お母さんがされている苦労の意味について話をして、シルバーバーチの霊訓の書籍を差し上げました。
気のせいでしょうか、お母さんのピンと張つめていた心が、少し緩んできた様に思えました。
ある日、何故だか亡くなって向こうにいる友人の奥さんに、こう想いを向けてみたくなりました。
「(親友のお母さんに)何か伝えたいことはありますか?」と。
すると、向こうからメッセージのようなものが伝わってきました。
まず、亡くなった奥さんと親友であるお母さんが、他校の文化祭に出かけて楽しそうにしている高校時代のイメージが見え、その時のお母さんの想いも同時に伝わってきました。
そして、こんなメッセージが伝わってきました。
「こちらは、思ってたよりも楽しいところで、こちらに来た時にいろいろ連れて行ってあげる。」
いくつかのメッセージの中で、特に印象的なものがありました。
それは、「子供と想いを通い合わせられないのが、どれほど大変なものなのか良く判った。」と言うものでした。
障害のある子供と言葉で意思疎通が出来ない親友の気持ちが、向こうに行って(死んで)初めて判ったということでした。
お母さんが来た時に、書き留めたメッセージを手渡しました。
夫である友人と2人の育ち盛りの子供を残して、若くして向こうに行った奥さんは、今どうしているのでしょうか?
当然のことながら、家族のことが何より心配で、生きていた時と同じ様に、家の中で過ごしていると思います。
子供たちの様子を見ていて、「こうした方がいいのに!」、「それじゃだめでしょ!」、「何でそうするの!」と、気を揉んだりしているでしょう。
時には、「良く頑張ったね」、「えらかったね」と、褒めたりしていると思われます。
もちろん、肉体がないために耳で聴こえる声は出せません。
亡くなったお母さんは、子供たちの魂に向かって、想いを必死に投げかけていると思います。
残念なことに、この世にいる友人と子供たちは、お母さんは死んでいなくなってしまったと思い込んでいます。
「お母さんはいつも傍にいてくれるよ」と、声をかけてくれる人はいるでしょうが、言った人が本当に信じていなければ、子供たちは慰めとしか思わないでしょう。
自分の目で姿を確認しない限り、傍にいるとは思わないのは、大人も子供も変わりありません。
見えないからいないのではなく、見えないけれどもいることに気付くのは、とても難しいことです。
数年前の私もそうでしたが、ほとんどの人は死んだ後の世界について何も知りません。
臨死体験者は、垣間見た向こうの世界について語りますが、多くの人はおとぎ話のような世界に思えてしまい、現実のものとは考えないかもしれません。
世界中の全ての科学者が否定しようと、肉体は死んでも魂は生きています。
生前と変わらぬ性格のままで意識は存在し、愛する人の傍にいるのは、紛れもない事実です。
お母さんの魂が投げかけた想いを、子供たちは心の奥でフッと湧く「思いつき」みたいなものとして感じていますが、無視してしまっていると思われます。
すぐ傍にいて、必死に想いを伝えようとしていることに、悲しいことに全く気付かないでいます。
愛する子供に、想いが上手く伝わらない母親の、もどかしさ、つらさはどれほどのものでしょうか。
そんな子供たちでも、悩んだり、迷ったり、助けてもらいたい時に、こんなことを思う瞬間がきっとあるはずです。
「お母さんだったら、何て言うだろう?」
「お母さんだったら、どう思うだろう?」
傍で見守っているお母さんは、この時とばかりに、子供たちの魂に自分の想いを吹き込みます。
子供たちは、心の奥でフッと湧く想いを、あの世からのものだとは思っていませんが、お母さんが言いそうなことなので、素直に受け入れていると思います。
例えば、仲の良い友達と学校でケンカをして帰って来ます。
一人家の中でポツンとしていて、急に少し寂しくなり、お母さんのことを思い浮かべます。
その時、心の中で「今すぐ会って、仲直りしなさい」と、誰かに言われたような気がします。
「やっぱり!そうしよう!」と思い、仲直りしに友達のところに会いに行きます。
お母さんの想いが、上手く伝わった瞬間です。
向こうで喜んでいるのは間違いありません。
この世とあの世は次元が違うために、言葉でのコミュニケーションは不可能です。
この世の人は肉体を携えた魂であり、あの世の人は肉体のない魂ですが、魂と魂は同じ次元に存在しているため、そこから生まれる想いは、本来は自由に伝えられるはずです。
しかし現実には、あの世にいるお母さんの想いは、この世にいる子供にきわめて伝わり難くなっています。
学校で勉強するのは仕方ありませんが、家に帰ってきたらテレビを見たり、ゲームやスマホなどをしている時間が多く、頭を使うことばかりしています。
頭脳が活発に働いている時は、魂は活動していません。
頭脳が起きている時は魂は眠っていて、頭脳が眠っている時に魂は起きていると言えます。
太陽が西の空に沈み、群青色に染まってくると、それまで見えなかった星は輝き始めます。
頭脳が休止し、穏やかな心境になると、魂が活動を始めます。
何も考えず、あらゆる感情から解放され、頭が空っぽの時に、向こうからの想いを受け取る魂のアンテナが張られ、受信感度は良くなっています。
そして、少し難しいけれど、お母さんからの想いを受け取りたいと欲してはいけないのです。
無欲無心で、受け身でいなければいけません。
お母さんの魂と子供たちの魂の間に、隔てるものは何ひとつありません。
そこにあるのは、愛のみです。
お母さんの姿を思い浮かべ、隣にいるように語りかければいいだけです。
お母さんは、それをしっかりと受けとめ、子供の魂に自分の想いを吹き込んでくるはずです。
目を閉じ、心の目をいっぱいに開き、大空に向かって両手を広げるように、心で両手を広げて、思い浮かぶ言葉やイメージを、ただ受け取ればいいだけです。
考えてもいないのに、ふっと何か思い浮かぶはずなどありません。
それは、お母さんからの想い(メッセージ)です。
お母さんから受け取った想いに、素直に従えば、きっと上手く行くはずです。
お母さんは1つ高い次元から見ているので、この世の人よりも視野が高く、広く見渡せるために、どのような結果になるのか良く判るからです。
正しい方向に進んで行こうとするならば、後押しするような想いを投げかけ、誤った方向に進みそうになれば、思い留まらせるような想いを投げかけます。
あの世は想いの世界であり、この世にいる子供に想いを伝えて導こうとしています。
親であれば、自分の想いを子供に伝えたいし、子供の想いを知りたいと思うのは当然です。
子供のことを誰よりも愛し、より良く生きて欲しいと願っているのは、生前と何も変わりありません。
変わったのは肉体がないところだけです。
この世にいる子供たちは、お母さんの姿が見えず、声も聞けず、からだにも触れられない寂しさや悲しみがあります。
あの世のお母さんは、肉体がないため声は出せません。
肉体を失ったお母さんが、この世にいる子供に想いを伝えるには、耳を介してではなく、魂に想いを伝えるしかありません。
思うように想いを伝えられないもどかしさを、覚えていると思われます。
心身に障害があり、言葉で伝えられない子供の想いを、お母さんが察知するのは、きわめて難しいことです。
言葉で意志疎通できない子供を持つお母さんの悩みは、向こうから子供に想いを伝えられないお母さんの悩みの裏返しです。
向こうに行って初めて、親友である女の子のお母さんと、同じ想いを共有出来たのだと思います。
メッセージを受け取ったお母さんは、どう思ったのでしょうか?
もし、メッセージを信じてもらえたなら、向こうにいる親友の気持ちは痛いほどわかるはずです。
そして、苦労は絶えないけれども、子供と一緒にいられる幸せを、十分に噛みしめなければならないと思ったかもしれません。
もっと子供に触れて、たくさん声をかけて、抱きしめてやらなければと思ったかもしれません。
死んだ人がいるあの世は、遠い所のように思えますが、そうではありません。
この世にいる人次第で、遠くにもなれば、近くにもなります。
頭を使った、慌しい生活をしていると、魂は眠ったままとなり、霊的な世界は感じられません。
雑念を払い、感情を鎮め、思考が停止すると、眠っていた魂は目を覚まして、愛する人がいる世界は身近に感じられると思います。
その世界を身近に感じられたなら、愛する人の魂がすぐ傍にいるのが判るかもしれません。
傍にいるのが判れば、愛する人から想いを受け取るのは、それほど難しくありません。
この世の人は、死んで見えなくなってしまうと、いなくなってしまったか、どこか遠い所に行ってしまったと思っています。
しかし、あの世にいる人は全く逆で、肉体と言う障壁がなくなり、この世の人をより身近に感じています。
両者の認識に、とても大きな隔たりがあります。
この世の人は肉眼で見るため、肉体(物質)は良く見えますが、網膜に映らない魂(霊体)は全く見えません。
あの世の人に肉眼はないため、この世の人の肉体は見えませんが、魂(霊体)とそこから生まれる想いは、はっきりと判かります。
この世の人は、肉体が見えなくなり、それぞれが隔絶された世界にいると錯覚しています。
あの世の人は、肉体がない分、愛する人の魂に寄り添うことが出来ます。
この世の人は、愛する人との間に、無限の距離を感じているかもしれません。
あの世の人は、愛する人との間に、距離を全く感じていません。
あの世の人が引き付けられるのは、この世の人が放つ自分へ向けた愛の想いです。
この世の誰が自分に愛の想いを向けているのか一目瞭然であり、愛する想いは引力のように、あの世の人を一瞬にして引き付けます。
愛する人が、一人涙を流しているのを見ていられません。
傍に寄り添って抱きしめているのに、自分の(霊体の)腕は、この世の身体と波長が違うために、素通りしてしまいます。
しっかりと抱きしめているのに、悲しいことにこの世の人は何も感じません。
悲しみにより、向こうからの愛を受け付けなくなっています。
こちらからの愛は、向こうの魂とつながり、喜びとなりますが、こちらの悲しみは、向こうの魂の障壁となり、むなしさとなります。
それでも、あの世の人は、この世にいる人よりも、はるかに楽観的です。
なぜなら、いずれ再会できることが、はっきりと分かっているからです。
今の、悲しみ、寂しさ、苦しさはやがて終焉を迎え、一瞬にして喜びに変わることを知っているからです。
残して来た人の、今の悲しみ、苦しみに意味があることも、判っています。
判っているからこそ、向こうから励ましています。
望んでいることは、頑張って生きることではなく、その人らしく生きることです。
つらい時は休んでいい、悲しければ泣けばいい、無理をして欲しくないと望んでいます。
意志の疎通は、魂と魂の間で出来るはずです。
悲しくならずに、思い出す時間を作って欲しいと願っています。
その時が、想いを向こうから伝えるチャンスになります。
心を鎮め、魂を研ぎ澄まし、こちらの想いに気付いて欲しいと願っています。
愛は、消えてなくなるものではありません。
死んで消えてしまうどころか、一層強くなっているはずです。
愛は死によって滅びずに、つながりを深めていく力となっています。
愛する想いが続いていることは、魂が生きている何よりの証です。
もし、存在が消えてしまったのであれば、愛はとっくに消滅しています。
魂と魂がつながっていて、お互いの愛を感じ合っています。
向こうから愛する想いを受け取り、それに呼応して自分の魂に愛が呼び覚まされています。
呼び覚まされた愛は、向けるべき対象を喪ってしまったと錯覚すると、一瞬にして悲しみに変わってしまいます。
「どうか、いなくなってしまったと思わないで。」
「こんなに近くにいるのだから。」
「生きている者は全て、こちらに来るの。」
「私が少し早くこちらに来ただけ。」
「どうしても、そのことは分って欲しい。」
「愛する人よ、あなたの傍にいて、見守っています。」
「あなたの気持ちは痛いほど判ります。」
「何も言えずに逝ってしまったのは、すまないと思っています。」
「愛する人よ、私はあなたの気持ちと全く同じ。」
「どれほど、耳に届けたいか。」
「残してきた愛する人よ。」
「二人はいつも一緒でした。」
「私も離れたくなかった。」
「しかし、どうしても先に来なければならなかった。」
「その訳を今聞いても、納得はしないし、余計悲しくなるだけだろう。」
「これだけは、約束できる。今の悲しみ、苦しみが二人のために必要であり、次に活かされることを。」
「私はあなたの想いが分かるから、1つも寂しくない、うれしいだけ。」
「何て伝えればいいのだろうか。」
「出会い、早く別れることは生まれる前から決まっていたこと。」
「運命を恨まないで、自分を責めないで、愛する人よ。」
「私が一番悲しいのは、いなくなってしまったと思われること。」
「いなくなったわけじゃない、こんなに近くにいるのに。」
「顔を上げて、両手を伸ばして、私の想いを抱きしめて。」
「その伸ばした手から、あなたの魂に想いは入り込んで行きます。」
「眠っているのだったら、起きてあなたの魂。」
「そうしなければ、想いは届かない。」
「悲しみは想いが外に溢れ出すだけで、こちらからの想いを受け取れなくなる。」
「私の好きだった歌を唄ってみて。」
「一緒に唄おう。涙を流さずに、笑って。」
「ほら、楽しく、大きな声で。」
「聞こえているよ。」
「こっちでも唄っているよ。」
「想いを一緒にしなければいけないんだ。」
「同じ想いにならなければ、伝えられないんだ。」
「伝えたいんだ。自分の想いを。正確に。直に。」
「愛する想いは、とても心地が良く、傍にいたくなるけれども、時々悲鳴のような助けを求める想いを感じる時は、為す術がなく、とても悲しくなってしまう。」
「いなくなったのだから仕方ないけど、あまり感じたくない。」
愛は向けるべき対象を見失ってしまうと、悲しみとなります。
しかし、向けるべき対象は、見えなくなっても、失われた訳ではありません。
こちらにいる人が前と同じ様に愛されたいように、向こうにいる人も前と同じ様に愛してもらいたいのです。
見えなくなってしまったけれども、愛する人はそばにいます。
前と同じ様に、ただ愛し合いたいだけです。
魂と魂で、愛し合いたいだけです。
どうか気付いて下さい。
本当の私は、魂であり、愛し合うことが出来ることを。
参考ページ: 「向こうにいる人を愛する」
「この世の出来事の意味を知る時」
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