2015年4月21日火曜日

ガンは魂のかさぶた



ハッブル宇宙望遠鏡が地球の周りを回りながら、美しい宇宙の写真を送ってきています。

その中に、ハッブル・ウルトラ・ディープフィールドと呼ばれる夜空のエリアを撮影した写真があります。

地球から130億光年離れた銀河が一万個も写っていて、とても神秘的な光景です。

はるか宇宙の彼方に存在する世界は、私たちには関係ありません。

目には見えませんが、霊的次元の世界は存在しています。

霊的次元の世界は、彼方にある関係のない世界ではありません。

目に見えるこの世界と、目に見えない霊的次元の世界との間に距離はなく、重なり合っています。

私たちは、この世に生きていると同時に、霊的次元とつながりながら生きています。



人は肉体、精神、魂(霊)により、成り立っています。

目に見える肉体と、目に見えない魂が重なり合い、影響し合っています。

肉体と魂の重なりが、完全になくなった状態が死です。

死とともに肉体は崩壊しますが、魂は変わりなく存続します。



意識されませんが、人の行動(表現)全てに、思念(想い)が先行しています。

うれしいから笑顔になるのであり、悲しいから泣きます。

想いがないところに、行動(表現)はありません。



想い(思念)は大脳で生まれるのではありません。

大脳は、外界からの情報を受け取り、論理的な思考をして、肉体に指示を出す司令塔の役目を果たしています。

情報を処理し、肉体を動かしている、言わばコンピューターです。

そのコンピューターを動かしているのが魂であり、そこから想いが生まれます。



ピアノの演奏で喩えてみます。

ピアニストを魂とすると、ピアノはその媒体(肉体)であり、演奏は表現(行動)です。

ピアニストがいなければ、ピアノはただの物体です。

ピアノがなければ演奏はできず、ピアニストは表現手段を失ってしまいます。

肉体が自分だと思っている人は、演奏をしているのはピアノだという誤りを犯しているのと同じです。

演奏しているのはピアニストであるように、肉体を動かしている原動力は、意識的存在である魂です。



仕方のないことですが、この世では目に見える肉体ばかりに注意が行ってしまい、魂はほとんど意識されません。

日々の生活や、趣味や娯楽など外に関心が向いて、魂から絶えず生まれている想いに気を留める人はまれです。

鏡に映る身体は、この世だけの表現媒体に過ぎず、身体を見ている意識が本当の自分です。



人々を苦しめている病気の原因は、肉体、精神、魂(霊)のどこかの次元に存在しています。

感染症は、細菌やウィルスなど物質的原因で起こるので、除去されれば治ります。

胃潰瘍は、精神的次元の緊張が、肉体上に反映されたものなので、緊張のない生活を送れば治ります。

ガンの根本原因は、未だ解明されていません。

根本治療は確立されておらず、目に見える病変をなくすという対処療法しかありません。

これだけ科学が発展しているのに、いつまで経っても原因が見つからないのは何故なのでしょう?

科学の対象外となっている、霊的次元に原因があるからと思われます。

魂の存在を認め、原因がそこにもあることを、認識する時が来ていると思います。



以前のブログで、「ガンの正体は表現されなかった(摂理に反した)想いである」と書きました。

ガンは物質的(肉体)であり、想いは非物質的であり、全く関係ないように思えてしまうために、何のことか理解できない人がほとんどかもしれません。



また音楽で例えてみます。

調和のとれた演奏をしている時が健康であり、調和を失い乱れた演奏になっている時が病気です。

乱れた演奏は、楽器の問題ではなく、演奏者に原因があるのは明白です。

しかし、現代医学は乱れた演奏の原因は、演奏者ではなく、楽器に原因があると頑なに信じ、楽器を調べ続けている誤りを犯していると考えられます。

演奏者の想いが、楽器を媒体として表現されています。

愛の想いがあれば、演奏にその想いが表現され、聴く人を幸せにします。

怒りや憎しみの想いがあれば、聴く人を不穏にさせます。

目に見えない想いが、媒体により表現されて、周囲に伝わっています。

隅々まで楽器を調べてみても、原因は見つかりません。

楽器を何回修理したとしても、問題の解決にはなりません。

演奏者の中に、原因を探さなければいけません。

原因を見つけて対処し、演奏者が調和を取り戻したならば、演奏は元に戻ります。



肉体は魂を表現する媒体です。

外面に、内面の様子が表れています。

怒りの想いに支配されていれば、顔は紅潮し、脈拍は速くなり、表情は険しくなります。

霊的次元に原因がある病気は、魂の様相の変化が、肉体上の変化として反映されます。

魂に深刻な影響を与えるほど大きくなった(摂理に反した)想いは、時に身体を脅かしているガン組織として反映されると思われます。



肉体上のガンの様子を観察すれば、その想いがどんなものなのか推察できます。

周囲の組織を押しのけながら、秩序なく増殖していく様子は、調和を失い、利己的で攻撃的な意志を持っているように見えます。

そんな利己的で攻撃的な想いは、怒りや憎しみや妬みや貪欲、言葉にならない想いが混ざり合い、積み重なったものなのかもしれません。

表現できなかった想いは、ガンとなって自己主張しているように見えます。

もし、患者さんに「あなたの内にある想いが病気を作り出したのかもしれません。」と言ったならば、何を根拠にそんなことを言うのかと、きっと憤慨されるでしょう。

そして、「自分にはそんな想いなどない」と、言い返されるかもしれません。

少し前になりますが、『がん性格 タイプC症候群』L・テモショック、H・ドレイア(アメリカの心理学者)著、岩坂彰、本郷豊子訳(創元社)という書籍がありました。

入手できないため、他の記事からの転用になりますが、150人以上のメラノーマ(悪性黒色腫)患者を面接しその約4分の3に、以下のような共通の性格的特徴があることを認めたそうです。

1.怒りを表出しない。過去においても現在においても、怒りの感情に気付かないことが多い。

2.ほかのネガティブな感情、すなわち不安、恐れ、悲しみも経験したり表出したりしない。

3.仕事や人づきあい、家族関係において、忍耐強く、控えめで、協力的で譲歩を厭わない。権威に対し従順である。

4.他人の要求を満たそうと気をつかいすぎ、自分の要求は十分に満たそうとしない。極端に自己犠牲的になることが多い。

メラノーマ(ガン)になった人は、怒りの感情に気付かないことが多く、怒りなどのネガティブな想いがあったとしても表現しない傾向がありそうです。

外から見れば、感情的にならない分別のついた大人であり、周囲に協力的な良い人そうです。

しかし、忍耐や従順、自己犠牲の影に、自分でも気付いていない許せない、認めない、拒絶する想いが存在していたのかもしれません。

そんな想いがあったために、つぎつぎと大小の怒りやネガティブな感情(想い)が生み出されていたのかもしれません。

表現されない想いが、少しずつ蓄積していったと思われます。



良くストレスが溜まるとガンになると言われます。

一般的には、ストレスにより免疫機能が低下したため、コピーミスによって生じたガン細胞が死滅されすに大きくなってしまうと考えられています。

ストレスとは、抑圧された感情とも言えますが、本体は表現されないネガティブな(摂理に反した)想いだと考えています。

ストレスが溜まった状態とは、ネガティブ(摂理に反した)な想いが溜まった状態と考えています。

ガンになった人の多くは、怒りなどのネガティブな想いに気付かなかったり、気付いてもうまく表現できないために、想いが蓄積しているのではないかと推察されます。



この世に生きる私たちにとって、想いに実感はありません。

時間とともに消えてしまう泡のようなものに思えてしまいますが、霊的次元においては実在であり、即座に具現化します。

想いは、精神を経由し、肉体を媒体として表情、言葉、行動となって表現されています。

想いは、表現する「力」と言えるのかもしれません。



日常生活を円滑にするために、自分の意見や感情を出すのを、抑えながら人は生きています。

思ったままのことを言い、やりたいことを好きなようにできる人は、独裁者でも無い限り無理であり、少なくとも私の周囲には見かけません。

つらい出来事があっても、想いを表に出さずに過ごさなければならない時もあります。

大なり小なり、滞った想いは誰にでもあると思います。

1つ1つは小さな想いでも、長い年月をかかて蓄積されて、大きくなっていくのかもしれません。



問題なのは、表現されない想いが溜まり過ぎてしまうと、人生で出会う出来事から生まれる想いに影響を与えてしまうことです。

怒りや憎しみの想いが溜まっている状態で、人にやさしくしたり、労わったりすることはできません。

本当はやさしくしたいのに、溜まっている想いに縛られて、思いがけず冷たい態度を取ってしまうかもしれません。

感謝しなければいけないのに、不満を見つけ出して、相手を非難してしまうかもしれません。



生きている目的は、魂を成長させるためです。

困難を乗り越えていくことで、魂は成長していきます。

そして、人や動物、社会のために奉仕する、愛を表現することで、魂は成長していきます。

その機会が訪れても、溜まっている想いのため利己的になり、逃してしまうかもしれません。

表現されなかった想いがあるために、魂が成長が妨げられて、この世を生まれてきた意味を失っていることになります。

これは霊的に成長していくことを定められた人間にとって、看過できない事態であると思われます。

しかし、想いが大きくなってしまうと、自分の力ではどうしても解放できなくなります。

そして、神の摂理である因果律が働き、肉体上にガン組織として表現されると考えられます。

ガンは、突発的なミスにより生じ、死に至らせるものではなく、表現されなかった想いに気付くため、そして解放させるためにある、自然法則の1つだと思います。

魂の成長を妨げている想いは、因果律の働きによりガンとなり、苦痛の経験をすることにより、本当の自分(魂)が目覚め、想いが解放されていくと思います。

解放させる力は、生命力という神の力であり、愛の力です。



想いは考えている以上に大切です。

どんな想いを抱こうとも自由であり、人から干渉されることはありません。

しかしながら、自由には責任が伴います。

神の摂理は、目に見えない想いにまで働いています。

摂理に適った想いは愛の想いであり、怒り、憎しみ、恨み、妬み貪欲などは摂理に反しています。

従って、自分の言動に注意を払うのと同じ様に、自分の想い(思念)にも注意を払わなければいけません。



イエス・キリストでさえ、怒りの想いを抑えられなかった出来事(神殿の境内で商売をする者を追い払った)があったそうです。

シルバーバーチの霊訓の中にも、怒りの感情がなかったら、もはや人間ではないとも書かれています。

この一文に、救われる思いがしました。

この世に生きている限り、怒りは避けられない感情であるということです。

同時に、イエス・キリストは「右のほほを打たれたら、左のほほを差し出しなさい」とも言っています。

昔は、この意味が分かりませんでしたが、怒りに任せて暴力的な行為で返すと、その行為に対して因果律が働き、さらに痛い思いをしなければならないため、相手に愛の想いを返すのが最も賢明であると、現在は解釈しています。

「汝の敵を愛せよ」も、同じ意味だと思います。

生きている限り怒りが生まれるのはやむを得ませんが、想いに振り回されてはいけないと思われます。

さまざまな出来事に出会い、痛い、苦しい、悔しい、悲しい思いをしながら、怒りや憎しみを少しずつ愛に変えていくために、この世に生きているのかもしれません。



ガンになった不運を嘆いたり、怒りや憎しみや妬みの想いを抱くのは、やめましょう。

その想いが、ガンの正体であるために、活性化させて、痛みはさらに強くなると考えられます。

消滅させようとする攻撃的な想いは、ガンをより攻撃的にさせると思われます。

想いに気付かせるため、痛みとともに解放させるために、ガンが神の摂理としてあるのならば、むしろ感謝しないといけないのかもしれません。

偶然ではなく、何かの意味があるのならば、それは魂の成長しかありません。

簡単に言えば、強く、やさしくなるためです。

この世の試練を乗り越え、愛を表現して、魂を成長させていくためです。





ガンは魂のかざぶたです。

魂が傷つけられ、そこから想いが溢れ、表で塊となりました。

その塊は、魂のかさぶたであるので、無理やりはがしてはだめです。

外から見ると醜いのですが、魂の傷を癒やすために必要なものです。

魂の傷が癒えて元に戻れば、用がなくなり、自然にはがれていきます。



                                                  ハッブル・ウルトラ・ディープフィールド



参考ページ: 「ガンは愛により癒される」









2015年4月12日日曜日

ガンは想いを解放する



ガンの原因は、残念ながら解明されていません。

細胞分裂時のコピーミスによって生じると言われていますが、大自然の営みである細胞分裂に、ミスはないと考えています。

遺伝子の異常は、さまざまな因子により影響を受けて生じますが、それだけでは説明し切れない要因が存在しているはずです。

現代医学で解明されていない未知の領域に、大きな要因があると考えています。

もし、ガンがウィルスや細菌と同じように、体外からの侵入者であれば、消滅させれば問題は解決します。

ガン細胞は無秩序に細胞分裂を繰り返していきますが、変異してはいるものの自分の一部であるため、治療を困難にさせています。

変異した組織を切除したり、薬で消滅させるのは、あくまでも対処療法です。

根本治療には、変異させた原因を究明し、取り除いていかなければなりません。



人体は肉体と精神により成り立っていると、科学では考えられています。

精神とは何か?科学でははっきりと分かっていないのも事実です。

大脳生理学では、個性や感情について説明することはできません。

個性や感情を生み出しているのは大脳ではなく、科学では検出できない「魂」と考えれば説明は容易になります。

魂に個性があり、感情は魂から生み出されると考えれば、とても自然です。

近年、物質の定義もきわめて曖昧になってきたと感じています。

物質は素粒子の振動であることは証明されていますが、素粒子とは何なのでしょうか?

魂は検出できないほど速い振動、高いエネルギーを持った存在と考えても、それほど違和感はないはずです。

20世紀前半の英国において、オリバーロッジやクルックスなど第1級の科学者が、真摯に魂(霊)の存在を検証しています。

検証の結果、彼らは魂の存在を全面的に認めています。



人は魂(霊)、精神、肉体から構成され、それぞれが互いに影響を及ぼし合っています。

魂から生まれた想い(思念)が、精神で司令として出され、肉体で表現されています。

魂との関係が断絶し、脳や肉体が全く動かなくなった状態が死です。

ガンは肉体、精神、魂(霊)それぞれの次元に要因があり、関連し合って生じると考えています。

肉体的な因子として、遺伝的因子、環境的因子があります。

遺伝的因子が影響しているものに大腸ガンや乳ガンなどがあり、環境的因子として発ガン性物質、放射線などが知られています。

精神的因子は、ガンの増殖と進行に関与していると思われ、不安や恐怖、心配などは、防御機能である免疫細胞の活性を低下させます。

ここまでは、エビデンス(科学的根拠)に基づいた周知の事実となっています。



霊的な原因についてはどうでしょうか?

魂は科学の対象外であるため、ガンと霊的な原因を研究したエビデンスは残念ながらありません。

主観的な意見となりますが、ガンは「想い」や「感情」に深く関係した病気だと考えています。

物質を支配する物理的法則があるように、魂(霊)を支配する霊的法則が存在しています。

霊的法則に基づいて、ガンという病を解釈していくと、原因が少しずつ見えてくると思います。

ガンに苦しむ人が、霊的法則を知り、少しでも病気が癒されることを願って書いています。



肉体は魂(霊)を表現する媒体です。

うれしければ笑顔になり、悲しければ涙を流して泣き、怒ると顔を赤くして怒鳴ってしまうように、内から生じた想いが、外にある肉体で表現されています。

思ったことは、肉体で表現されて、他の人に伝わります。

さまざまな想いが魂から生まれ、精神で指令となり、肉体で表情、言葉、行動となり表現されています。

想いは精神を動かし、肉体で具現化させる力と言えます。



生きていると、さまざまな出来事に遭遇します。

その出来事から、さまざまな想いが生まれます。

うれしい出来事であれば、喜びの想いが生まれ、思わず笑顔になります。

許せないようなことが起きたら、怒りの想いが生じて、高じると憎しみや恨みの想いに変わってしまうかもしれません。

人それぞれに出会う出来事があり、そこから想いが生まれ、行動(表現)しながら、人生が紡がれていきます。

この世の中は、楽しいこと、うれしいことばかりではありません。

不本意なことや、納得できないこと、認められない出来事も、たくさん起こります。

もし、そんな出来事が起きて、怒りの想いが湧き上がってしまったら、怒鳴ったりして行動で表現してしまえば、気分はスッキリするかもしれません。

しかし人間関係を悪くしたくなかったり、良心が咎めたりすると、言動による表現は控えるようになります。

そうすると想いは外に表現されずに、内に留まります。

ストレスが溜まっている状態とは、表現できない想いが溜まっている状態とも言えます。

想いが溜まってしまうと、心身に良くないと本能的に思うために、何かをして吐き出そうとします。

おしゃべりをしたり、酒を飲んで愚痴を言ったり、スポーツをして発散したり、趣味に没頭したり、これらは内に溜まっている想いを外に出しているのであり、健康を保つための自然な行為です。



日々の生活で、意見の衝突や、相手の過ち、心障を害する言動を、たびたび経験します。

怒りが生まれることもありますが、その多くは時と共に治まっていくと思われます。

しかし侮辱や軽蔑、あるいは差別など受けたり、裏切られたり貶められたりすると、強い怒りが生まれます。

それが憎しみや恨みとなってしまうと、気持ちが鎮まるのは難しくなります。

想いが強いほど、表現は難しくなり解放されずに、内に滞ってしまうことが多いと思われます。

滞った想いは、魂の様相を変えていく力となり、自分(魂)から生まれる想いは変化していくと思われます。

人に裏切られて憎む想いが滞っていれば、人を信じられず、許せないため、ささいなことでも似た想いが生まれやすくなってしまいます。

愛する人を喪い、悲しみの想いが滞っていれば、ふとしたことで悲しくなり、涙が出てしまいます。

解放されない想いは、その後の人生で出会う出来事から生まれる想いに、大きな影響を与えていきます。

想いにとらわれてしまうと、本来の自分の想いを表現できにくくなります。

本当はこうしたいのだけれども、どうしてもできないと思うことがあれば、解放されていない想いがあり、それに縛られていると思います。

犬に咬まれて怖い思いをすると、可愛くて撫でてやりたくても、躊躇してしまいます。

子供を好きになれずに悩んでいるお母さんがいますが、もしかしたら、滞っている過去の想いがあるのかもしれません。



この世の人生には、およそのシナリオがあります。

そのシナリオを承知した上で、生まれてきています。

そのシナリオに沿って生きていれば、予期した魂の成長が得られて、この世に生まれた意味が成就されます。

想いは行動となって人生を織り成して行きますので、想いが変わってしまえば、その後の人生はシナリオとは違ったものになってしまうかもしれません。

シナリオ通りに成長していくためには、滞っている想いを解放して、本当の自分の想いを表現できるようにしなければいけません。

しかし、その想いは5感に触れるものではないので、解放するどころか、気付いていない人がほとんどと思われます。

気付いていなければ、どうすることもできません。



自然法則の根本原理に「因果律」があります。

原因があって結果が生じる、言い方を変えると、あらゆる出来事に原因があります。

当然のことながら、いかなる病気にも必ず原因があります。

現代医学で難病とされている病気の多くは、霊的次元に原因があり、「想い(思念)」が関与していると考えています。



肉体は、魂で生まれる想いを表現する媒体であるため、魂(霊)の変化は、肉体の変化として表現されます。

怒りや憎しみや恨みの想いが表現できずにうっ積していくと、平和や協調や調和を乱す攻撃的な想いとなります。

その想いを、外に表現すれば、当然のことながら争いが起きます。

内に秘めれば、平和や協調や調和が乱され、内部に争いが起きます。

魂と(愛に反した)滞った想いのせめぎ合いが、肉体上で身体とガン組織のせめぎ合いとして表現されています。

肉体上のガン組織の増大は、滞った想いが、さらなる(愛に反した)想いを生んでいき、大きくなっていく様子を表しています。

表現されなかった怒り、憎しみ、恨み、嫉妬などが攻撃的な想いとなり、肉体上で生体を攻撃するガンとして反映されています。

想いは目に見えないために、因果律の働きにより、肉体上に見えるかたちとなり表現されます。



ガンは生命にかかわる病気です。

生命にかかわる病気になれば、否が応でも生命と正面から向き合うことになります。

生命とは魂です。

生命と向き合うことは、魂と向き合うことです。

魂とは、本当の自分です。

ガンになれば、本当の自分と向き合うことになります。



ガンは強い苦痛を伴う病気です。

それは経験した人でなければ分からないほど、つらいものと思われます。

苦痛は、(愛に反した)想いを抱き続けたことへの償いです。

それとともに、魂にまで響き、目覚めさせるという大きな意味があります。

魂に目覚めるとは、本当の自分に目覚めることです。



眠っている魂にまで響き、本当の自分に目覚めるために、ガンは存在すると思います。



本当の自分(魂)に目覚めれば、愛の大切さに気付いて、魂は愛を帯びたものになり、滞っている想いとの親和性は失われていきます。

神とのつながりが深まり、生命力がふんだんに流れ込み、滞った想いは解放されていきます。

想いが解放され、魂が浄化された結果として、肉体上のガンもなくなっていくと考えられます。



目には見えませんが、神の摂理が隅々にまで働いています。

ガンの真の姿は、(愛に反した)想いであるため、自分の想いに注意を払いましょう。

摂理に適った想いを抱くようにしましょう。

摂理とは愛です。

許すことも、愛です。



許すことはできず、その想いを表現できない人が、ガンになり易いと思います。

ただ、(摂理に反した)想いを表現してしまうと、魂と同化してしまいます。

その行為(表現)は魂に刻まれ、ガン(病気)にはならなくても、それ以上の償いが生じるのは間違いありません。

表現せずに、想いが魂に同化されなかった人が、病気を通して想いを解放することができます。

ガンになった人は、苦しく痛い思いをしますが、魂は守られていて、元に戻ることが出来る人です。

ガンは、想いに気付き、解放させるためにある、自然法則の一環です。

本当の自分に目覚め、この世で魂を向上させるためです。



全ての魂は、成長していくことが義務付けられています。

ガンは肉体を蝕み、死に至らせるものではありません。

魂の成長を妨げている想いを、取り除いていくのものです。

妨げている想いを、内から外に出して行くプロセスとして、肉体上のガンは存在しています。

従って、怖がる必要はありません。



十分な苦痛を経験し、つらい日々を送った人であれば、償いが終わり、魂の向上と共に想いは解放され、病は癒やされるはずです。

心配はいりません。



養生訓を書いてみました。

1. 心、穏やかに過ごす。
2. 寛容になるように努め、なるべく腹を立てない。
3. 小さなことにも感謝する。
4. 日々の中に、ささやかな喜びを見つける。
5. やさしさ、思いやり、いたわりの気持ちを表現する。
6. 笑顔でいる。



参考ページ: 「ガンを治す」

         「ガンは愛により癒される」












2015年4月5日日曜日

早世した子どもたち



一昨年の12月に、長男を交通事故で亡くした友人の姿を、今も見ていません。

中学時代の同級生でもあり、仕事上でも付き合いが数十年続いて、少なくても1ヶ月に1度は顔を合わせていました。

はっきりと物を言う性格であり、依頼した仕事はきっちりとこなし、とても信頼できる人間です。

仕事の関係は前と変わらず続いていますが、事故の後と前で、質が変わったということを全く感じません。

かなり強気の性格で、自分の弱いところを他人には見せたくないところがありました。

そして、同情の言葉をかけられるのが、何より大嫌いなのだと、私は思っています。



先日、病気でお子さんを亡くされた人たちが書き込むブログを見ました。

周りの人が想像している悲しみ、苦しみとは、次元が違うことだけは、はっきりと分かりました。

亡くなった事実は確定され、寸分も変えることはできません。

いくら泣いたとしても、悲しみに終止符が打たれることはありません。

経験してない人には、その悲しみや苦しみは、とても分かりません。

心から慰めることのできるのは、同じ経験をした人だけです。



多くの子供たちは何事もないように、学校に入り、社会に出て、結婚をして家庭ができて、苦楽を味わいながら成長していく中で、どうして我が子だけがいなくなってしまったのか。

そんな問いかけを、お子さんを亡くされたお母さんたちは繰り返されている様でした。



その中に、病気によりわずか生後2週間で、お子さんを亡くされたお母さんがいました。

この世に生まれた意味があったのかと、自問されていました。

もし、時間で計るのであれば、2週間という期間は長く生きた人の何百分の一、いや何千分の一しか、生きていた意味がないことになります。

功績で計るとしたら、まだ何もしていませんので、意味はなかったということになります。



不摂生をして病気になるのは自分に原因がありますが、生まれたばかりのお子さんに、落ち度があって病気になるとはとても考えられません。

落ち度がないにもかかわらず亡くなったので、責任は自分にあるのでははないかと、お母さんたちはとても苦しまれていました。



お子さんの死が、お母さんに深い悲しみを与えたことは、紛れもない事実です。

不幸のどん底に突き落とすのであれば、むしろ生まれてこなかった方が良かったと、考える人がいるかもしれません。

どんなに短くても、この世に生まれて来たのは、きっと意味はあるはずであり、その意味をお母さんは必死に探しているように思えました。



ご家族にとってお子さんの死は、悲劇以外の何者でもありません。

悲しみや苦しみを一生背負って生きていくとしたら、とても不幸な人生に思えてしまいます。

死んですべてが終わりなら、人生の敗北が決定されたように感じ、耐え難い不公平感に襲われるでしょう。



しかし、生命は肉体の死をもって完結せずに、死後も生は続いているとしたら、話は大きく変わってきます。

死後の生は、科学では証明されていない魂が存在していることが前提となります。

魂の存在については、賛否両論があるのは仕方ないと思っています。

必要とする時期が来た人に真実はもたらされますが、魂は存在し死後の生があることは間違いのない事実です。



あの世は、この世のおまけのような世界ではありません。

想い(思念)の世界であり、ありのままが表現されてしまう世界です。

ありのままが表現されても、恥ずかしくないように準備するのが、この世です。

想いを表現する媒体が肉体であり、死とは肉体という媒体からの解放です。

想いが実在であり、肉体のないあの世こそ、偽りのない実在の世界です。

実在の世界で、愛するお子さんは、さみしい思いをすることなく、元気に楽しく生きています。

あの世で楽しく生きているお子さんと、この世で悲しみにくれて生きているご家族のギャップがあまりにも大き過ぎます。

そのギャップを、少しでも埋めていくためには、正しい知識を持つしかありません。

お子さんへの愛がなくならない限り、再会は必ず果たせます。

これは夢や希望ではなく、間違いなく訪れる現実です。




もし、死んだ後にも生があるのであれば、生まれる前にも生(過去生)があると考えるのが妥当です。

しかし、過去生の記憶は魂の奥に仕舞い込まれて、魂の向上に必要と判断された時以外は、現生で引き出すことはきわめて困難と思われます。

仮に今、過去生を知らされたとしても、正しいと保障するものは何もありません。

たとえ、正しかったとしても、自分に納得のいかないものであれば、安易に受け入れられるものではありません。

従って、過去生があることだけを、承知していれば良いと思われます。




人生の出来事は、すべて因果律の働きで起こります。

お子さんが亡くなった原因は、誰一人として同じではないと考えられます。

2週間という短い人生を終えたお子さんの病気が、先天性(生まれつき)のものだとしたら、次の2つのうちのどちらかです。

1つは、病気は偶発的に生じたのであり、それ以上のものは何もない。

もう1つは、病気は偶発的なものではなく、何らかの原因があって生じた。

もし、偶発的に生じたのであれば、運が悪かったとしか言いようがありません。

原因があって生じたのであれば、受精した瞬間に病気は決定していたので、その原因は現生にはなく、受胎前の過去生にあると言うことになります。

過去生については、具体的に知るすべはありませんが、病気を生じさせた原因(目的)について、私なりに考えてみました。



病気は、自然法則に反した想いや行い、言い方を変えると不自然な生き方や考え方をしていたことが原因で、その結果として生じます。

病気には苦痛が伴いますが、(自然法則に背いた)償いであるとともに、魂を目覚めさ、成長させるという意味があります。

償いとしてではなく、さらなる向上を目指して、あえて苦難の人生を選択して病気の肉体に宿る、進化した魂の場合も考えられます。

どちらにせよ、病気は魂の向上のために存在していることになります。



苦痛を経験して償いをしたり、さまざまな経験を通して大切なことを学びながら成長してくためには、わずか2週間のこの世の生では、あまりに短すぎます。

では、2週間という短いこの世の生に、目的はあったのでしょうか?



自分のためではなく、ご家族のために生まれてきたのではないでしょうか。

もしかしたら、亡くなった赤ちゃんは、周りの人よりも向上した魂で、この世で学ぶべきものはすでになかったのかもしれません。

目的は、ご家族がこの世で大切なものを学び、成長するためであり、喜びの中で生まれ、確かな足跡を残し、役目を果たして直ちにあの世に旅立ったのかもしれません。

不幸にさせるためではなく、残されたご家族の魂を目覚めさせ、そして成長を促すために、もっとも深い悲しみを与えるタイミングで亡くなったと、思えてなりません。



残されたご家族にとっては、信じらない出来事であり、現実を否定してしまうかもしれません。

しかし、お子さんの死は確定された事実であり、現実を認めざるを得ません。

現実から、とめどもなく悲しみや苦しみが生まれて、その苦痛から、無意識に逃れようとしているかもしれません。

いくらかでも悲しみや苦しみが和らぐような、望みを持つのは、当然の成り行きです。

「きっとまた逢える」という望みは、暗闇の中の光となり、この世を生きて行く、いくばくかの力になるのかもしれません。

その望みを叶えるためには、魂として生きているという前提が必要です。

ほとんどの人は、魂の存在など意識せずに生きていますが、お子さんを亡くしたご家族にとって、魂の存在が否定されれば、「また逢える」という望みが叶うことはありません。

お子さんの(魂の)存在を直感的に気付いているお母さんもいますが、多くのお母さんは魂となって、天国で生きていると信じたいと思っています。

魂とは何なのか?

生命とは何なのか?

いくら頭で考えてみても、答えは見つかりません。

それでも問い続けていると、それまで眠っていた自らの魂が呼び覚まされ、魂からの声(インスピレーション)の中に、その答えを見つけるかもしれません。

根拠など何もなく、少しでも心の平穏を得るためにそう信じるしかなかったとしても、長い間、強く信じるようにしていると、自分の中で徐々に真実になっていくのかもしれません。

絶え間ない悲しみ、苦しみや痛みには意味があり、神の摂理により、真実にたどり着けるようになっていると思います。

生命とは魂(霊)という真実に。




これ以上ないと思われる悲しみは、自分へ向ける限りない愛であることを、お子さんは十分に分っていると思います。

いくら泣いてもかまいませんが、お子さんの姿は目に見えなくても、魂は傍にいることだけは忘れないで下さい。

やさしく声をかけて下さい。

想いをそっと返してくれるでしょう。

しっかりと魂で受け取って下さい。




ところで、向こうで待っているお子さんは、どんなお母さんに逢いたいでしょうか?

きっと、成長したお母さんに逢いたいはずです。

無理をしなくても、生きているだけで、成長しています。

悲しみや苦しみに耐えて、この世に生きていること自体、成長しています。

今すぐ逢いたいと思う気持ちを抑えて生きることも、成長につながっています。

悲しみ、苦しみは行き場を失った愛であり、いつの日か、人をいたわり思いやる想いに変わっていくかもしれません。

その想いを表現すれば、さらに成長していきます。

亡くなったお子さんの分まで生きようとする気持ちは、お子さんが託した願いそのものであり、大きな成長につながっています。



泣いてばかりでも、少しずつ前を向いて進んでいけると、お子さんは信じています。

信じていなければ、愛するご家族を残して向こうに行ってしまうことはなかったでしょう。

お子さんがこの世に生まれたのは、お母さんがこの世に生まれた目的を果たすのを助けるためでもあります。

悲しみや苦しみに耐えて生きてさえいれば、自然に強く、優しくなっていき、お子さんが逢いたいお母さんになれるはずです。

数十年してお子さんと再会した後に、思い悩ませている問に対する答えをはっきりと知り、きっと大きな喜びに包まれるでしょう。



その日は、遠い先のように思えますが、少しずつ近づいています。

その手で、もう1度、思い切り、抱きしめられます。



悲しい別れは、無上の喜びのためにあります。

喪って悲しい思いをした分、より大切なものを手にします。

すべては魂の成長のために配慮されていて、計画通りに進んでいます。

最も大切なものは愛であることを教えてくれたのは、お子さんの生命です。

お子さんの生命は、愛そのものです。




参考ページ:       お母さんへ

                                   「生きている!そばにいる!」

         「亡くなった愛する人とつながる」

         「ママへ」
 
                                    「最愛の子を亡くした人へ」



参考HP:「最愛の我が子やご家族を また愛する人を亡くされた方へ~死の真実を求めて」一人息子さんを亡くされたお母さんのHPです。