人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年11月30日日曜日
ガンの正体は表現されなかった想いである
無知と言う暗闇は、人に恐怖を与えます。
先になにがあるのか何も見えず、自分の置かれている状況が分からないからです。
手探りでは、足がすくんでしまい、どこに行っていいのかもわからなければ、一歩前に進むことはできません。
知識は、周囲を明るく照らす光です。
自分が進むべき方向を、指し示してくれます。
周りが照らされ、進むべき方向が分かれば、迷いや怖れはなくなります。
すべての病気に原因があります。
難治性の病気の多くは、未だ原因が解明されていません。
ガンという人々に恐怖を与える病も、何らかの原因があってが生じているはずですが、全容は残念ながら解明されていません。
原因があって、結果が生じるのは、病気に限ったことではありません。
交通事故は、不注意が原因となって、起きることがあります。
私が、7年前に行政処分を受け、今まで味わったことのない思いをしたのは、良心の声に耳を傾けずに、不正請求という過ちをしてしまったためです。
人に親切にして、動物にやさしくして、社会のために奉仕すれば、人生に実りがもたらされます。
人や動物を傷つけたり、社会に迷惑をかけてしまうと、償いをしなければいけません。
実に単純明快なルール(神の摂理)が、人が生きている地球のみならず、宇宙の隅々まで支配しています。
人に親切して、喜んでもらうと、ちょっと恥ずかしくもなりますが、うれしくなり、気持ちが良いものです。
気持ちが良く、あたたかくなるような気がするのは、神の心である「愛」を表現することで、神からの愛を自分が受け取っているからだと思います。
人に冷たくしたり、傷つけてしまうと、後悔をしたり、とても嫌な気持ちになってしまいます。
神の心に反した想いを抱いて、それを表してしてしまったために、因果律が働き、心苦しさを感じてしまうのだと思います。
原因があって結果が生じる「因果律」は、神の摂理の根本原理であり、万物を支配していています。
社会の法律は、人の行為または言葉に対し適用され、犯せば罰せられるために、ほとんどの人は守って生活をしています。
しかし、神の摂理は言動のみならず、自らの「想い」にまで働いていて、表に出さず、人に知られなくても、厳格に結果をもたらします。
痛みや苦しさを感じさせる出来事は、偶然や不運ではなく、摂理に反した想いを抱いたり、行い(表現)をしてしまったために、生じています。
何かしら、愛に反する行いをしていたり、愛に反する想いを抱き続けていたために、それが過ちであることを知らせるために、痛みや苦しさを感じさせる出来事は生じます。
時に、耐えがたいほどの苦痛により、心身がぎりぎりのところまで追い詰められることもありますが、崖から突き落とされて、再起不能となってしまうようなことはありません。
苦痛の経験は、愛に反する行いや想いの償いであるとともに、大切なことに気付いて、生き方や考え方を変えるためにあるからです。
人それぞれに、この世で学ぶべき、大切なことがあります。
最適な時期に、最適な形で、苦難や悲劇と言われる出来事が生じています。
降って湧いたような、悲惨な出来事であっても、目的があって生じています。
その目的とは、償いであったり、何かを学び取ることだと思います。
苦難や悲劇が身に起きれば、何とかして乗り越えようと必死になり、余計なことは考えなくなります。
必要のないものは、ことごとく削ぎ落とされていきます。
そして、最後に残ったものが、本当に大切なものであり、この世で学び取るものだと思われます。
苦しみ、痛み、悲しみを十分すぎるほど味わい、崖っぷちまで追い詰められて、初めて大切なことに気付きます。
眠っていた魂がようやく目覚めて、大切なことに気付きます。
苦しみ、痛み、悲しみは償いであるとともに、魂に目覚めさせる触媒であるため、大切なことに気付いたのならば、終わる時は近づいていると思われます。
償いが終わったならば、今までの苦しみや痛みがうそのように引いていき、つらい出来事から解放されると思われます。
生き方や考え方が変わり、新しい人生、本当の人生が始まり、前の自分に戻ることはありません。
世の中には、病気により、つらい生活をされている人がたくさんいます。
苦痛が償いとしてあるのならば、苦痛から解放される時が、必ず来るはずです。
しかし、現実には病気が進行して、亡くなってしまう人も多くいます。
大切なことに気付くとともに、病気が癒やされ、生まれ変わったように、この世で新たな人生を歩んで行く人もいれば、さあこれからが始まりだと思っていたのに、亡くなってしまうが人がいます。
死は敗北を意味するのではありません。
生が幸運で、死は不運と考えるのは、間違いです。
亡くなった人にとって、死は新たな始まりであり、前世で身を持って学んだことを活かすような人生を歩むために、この世にまた生まれてくるでしょう。
しかし、この世で新たな人生を歩むべき人が、間違った方向に進んでいき、亡くなってしまうことが、少なからずあるように思えます。
病気の本質を良く知らないために、ガンは死に至る病という、大きな誤解が生まれています。
死に対する怖れが生まれて、それを解消するために、ほとんどの人は医者にすべてを託します。
医者は、病気の一側面を深く知ってますが、全体像を把握しているわけではありません。
ガンの根本原因は、未だ解明されていないにもかかわらず、大きな侵襲を伴う対症療法が一般的になっています。
外科手術はガンの根治療法だと言われますが、原因不明の病気に、果たして根治療法は存在するのでしょか。
根本治療は、根本原因が分かって、初めて確立されます。
悪いところがあれば取り除くという治療は、根治療法とは程遠いと感じるとともに、時として、悲劇をもたらしていると思います。
自然科学に基づく西洋医学は、検証可能な物質次元を対象としているため、魂(霊)の存在を認めていません。
人類の叡智を結集しても、未だにガンの根本原因を突き止められないのは、科学の対象となる物質次元ではなく、霊的次元に原因が存在すると、考えてはいけないのでしょうか。
もし、証明できないものを、否定するのであれば、「生命」も存在しないことになってしまいます。
どんなに否定されようとも、真実は1つであり、魂は間違いなく存在します。
魂の存在と、霊的法則を認めれば、ガンと言う病気について、合理的解釈が可能です。
人は肉体だけでなく、目に見えない精神(心)があり、そして精神(心)を生み出している源に、魂があります。
一人の人間は、肉体と精神、そして魂から成り立っています。
病気は、肉体次元、精神的次元、霊的次元のどこかに原因が存在して、心身に発症します。
ガンは、肉体次元(放射線、遺伝子、発ガン物質等)に要因も存在しますが、主因は霊的次元にあると考えられます。
霊的次元の原因とは、「表現されなかった想い」であり、それは摂理に反した、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などの想いです。
魂から生じた想いは、肉体で表現されています。
人生で出会う、人や出来事により、さまざまな想いが生じています。
喜びの想いであれば笑顔となり、悲しみの想いであれば涙となり、肉体で表現されています。
しかし、まだ幼かったり、あまりに衝撃的な出来事であったりすると、生じた想いを、肉体で表現し切れなくなります。
表現できなかった想いは、魂に滞ることになります。
滞った想いがあると、魂の様相は変わり、摂理に反した、怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いが生じ易くなります。
魂の向上を目的として、この世に生まれてきたはずなのに、滞った想いがあるために、向上を妨げる想いが、次々と生じています。
そして、想いが徐々に大きくなり、魂の様相がさらに変わってしまうと、因果律の働きにより、病変(ガン)が出現します。
魂に滞っている、表現されなかった想いがガンの正体であり、肉体上に見える形になって表現されています。
そうでもしなければ、目に見えない、自分の想いに気付くことはありません。
想いが、神の摂理に反したものであるので、相応の償いが生じます。
病気の痛みや苦しさ、つらい日々は、その償いとしてありますが、同時に、魂が目覚め、大切なことに気付くための触媒となっています。
大切なことを、一言に集約すると「愛」です。
最も大切なのは愛であることに気付いたのならば、神の心と同調し、つながりは深まり、生命力はふんだんに魂に流れ込みます。
病気になる前の自分とは違い、魂から生じる想いは大きく変わり、哀れみや同情など「愛」を帯びたものになります。
愛の想いにより、魂の様相は変わっていき、滞っていた怒りや、憎しみや、恨みなどなどの(摂理に反した)想いは“異物”となり、解放され、本来の姿を取り戻します。
肉体は魂の表現媒体であるため、追従し、本来の健康な姿を取り戻していきます。
肉体にふんだんに流れ込む生命力により、免疫機能は高まり、肉体上にあるガンは、異物として認識され、排除されていきます。
十分すぎるほどの苦痛と、生きているつらさを味わい、周囲の支えや思いやりに深く感謝し、病気が治ったら必ず恩返しをしようと強く思っている人は、たくさんいます。
しかし、ガンの増殖が止められずに、無念にも亡くなってしまう人がいるのが現実です。
もし、病気が大切なことに気付き、生き方や考え方が変えるためにあるのならば、癒される時が来てもいいはずです。
ガンは、「想い」あるいは「感情」の病と言っていいのかもしれません。
そのため、肉体上のガンは、今の自分の想いや感情に、敏感に反応してしまうと考えられます。
心穏やかにしていれば、ガンも穏やかにしていると思われます。
ガンの正体は、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などの摂理に反した想いの塊だと思われますので、日々の出来事から、このような想いが生じてしまうと、肉体上のガンに反映してしまうと思われます。
ガンに対し、敵意を抱き、攻撃的な想いを抱くと、結果としてガンは攻撃的になり、増殖し、肉体を蝕んでいくと思われます。
ガンを消滅させようとすれば、自分を傷つけることになり、因果律の働きで、苦しみを味わうことになります。
抗ガン剤は、自然治癒力を肉体上で発現させるためにある免疫機能に大きなダメージを与えてしまうために、魂に目覚めて、より多くの生命力が流れ込んできても、十分な機能を発揮できなくなり、身体からガン細胞の排除は困難になってしまいます。
もし、ガンの治療法を説明され、迷ってしまったら、「自分や家族が同じ病気になった時に、私に勧めている治療を施しますか?」と、医者に問いかけみるのが賢明だと思います。
患者に勧め、自分達は受けないのであれば、それは偽善の治療ではないかと思います。
そんな治療は、決して受けるべきではないと思います。
ほとんどの医者は、次の世界に行き、生命の姿、病気の本質に、初めて気付くことになると思われます。
ガンの原因が、思いもよらぬところに存在し、自らが施した行為が、人を助けるどころか、苦痛を与え、自然の摂理が働くのを妨げていたのを知り、大きな後悔をしているのかもしれません。
この世で、ガンの治療に苦しむ人たちに、次の世界からこう語りかけているのかもしれません。
「抗ガン剤は、自らを傷つける薬であり、その行為自体が摂理に反するため、苦痛を味わうことになる。」
「薬では、ガンは治せないことを、十分に理解しなければいけない。」
「多くの医者が、この世を去り、患者に行ってきた治療を後悔をしている。」
「何も益を成さない。苦しめるだけの治療だった。」
「神の摂理に背く治療であり、神の摂理が働くのを妨げてしまう。」
「ガンを含め病気の意味を知らないために、間違った治療が行われている。」
「肉体を治すことにこだわりすぎて、大切なことを忘れてしまっている。」
「病気は人間を治すものであり、人間が病気を治すのではない。」
「医者のおごりが、患者を不幸にさせている。」
「即刻、このような人道に反する治療は、なくすべきである。」
「学ぶべきものを学べば、病気は自然に治る。」
どうしても伝えたいことが、たくさんあるのだと、私は感じます。
医学の父と呼ばれた、かの有名なヒポクラテスは、興味深い言葉を残しています。
「まず何よりも、害をなすなかれ」
「病気は人間が自らの力をもって自然に治すものであり、医者はこれを手助けするものである。」
現代医学に対する、警鐘に思えてなりません。
肉体上に表れたガンは、自分の想いの反映であり、その想いを生じさせたのは自分です。
ガンを生じさせたのは自分であるにもかかわらず、ガンと敵対し消滅させようとする行為は、明らかに間違っています。
自分の過ちは、自分で償わなければいけません。
誰かに頼って、過ちを帳消しにすることは、許されません。
逃げ場がなくなるほど追い詰められて、眠っていた魂が目を覚まして、そこから本当の人生が始まります。
それが神の摂理であり、痛みと苦しみの日々は、そのためにあります。
ガンは肉体を死に至らせる病ではなく、本当の自分の想いに気付くためにある病です。
近道は許されませんが、痛みや苦しみを味わい、見合った償いをしたのならば、癒される時は必ず来るはずです。
大切なことに気付き、本当の自分の想いを、素直に表現できるようになったのならば、ガンの存在する理由はどこにもありません。
病気になり、学んだことを忘れない限り、ぶり返す心配は全くありません。
2014年11月21日金曜日
ガンは本当の自分に出会うためにある
ガンと言う病気を、医者から告知された時の気持ちは、経験した人でなければ分からないと思います。
目の前が真っ暗になり、心は真っ白になってしまい、その後の記憶が抜け落ちてしまっている人もいると聞きます。
それくらいの衝撃が患者さんを襲い、言い知れぬ恐怖に包み込まれてしまうのでしょう。
ガンから連想されるものが、限りない苦痛の末に待ち受けている死だとすれば、当然、そうなってしまいます。
ガンを人体に入ってきた侵入者と考えれば、異物であるため、取り除かれるべきです。
しかし、ガンは異物ではなく、変化して協調性を失った、生きている自分自身です。
自分の一部には変わりないので、排除のみを目的とした医学的処置には、疑問を感じざるを得ません。
少数ですが、(西洋)医学的治療に頼らずに治癒している人がいるのは、興味深い事実です。
変化した自分を排除するよりも、何が原因で自分(細胞)が変化してガンが生まれたのかを探る方が、根本的な治癒につながる可能性があり、より大切だと考えています。
人はガンを知っているようで、実は何も知らないのかもしれません。
血液検査、レントゲン検査、病理検査等からは、ガンの本質を知るための情報は、何も得られません。
知らないために、怖れや不安が生まれて、対応の仕方を誤ってしまう可能性があると考えています。
そのために、日本で年間30万人以上の人が、この病気で亡くなっていると思われます。
西洋医学は、病気を診断して治療を行いますが、診る対象は肉体に限られています。
近年になり、精神は病気に関係していると認めつつありますが、定量化できず、客観的評価も難しいために、治療の対象とはなっていません。
多くの病気は、客観的評価ができる物質(肉体)次元ではなく、内的で主観的な次元に根本的な原因があると思われます。
解剖学書を開くと、人体の隅々まで調べられ、細部まで名称が付けられているのが分かります。
しかし、人を成り立たせているのは、骨や筋肉、脳や臓器などで構成される、人体だけではありません。
医学書には書かれることのない、人体とは次元を異にする、魂が存在しています。
生命の本質であり、精神と人体を支配し活動させている、本当の自分です。
実に単純明快なのですが、唯物的な科学手法では、魂の存在を証明できないため、否定され続けています。
けれども、証明されなければ存在しないと結論付けるのは、大きな誤りです。
もしそうであれば、「生命」そして「心」の本質は、未だ証明されてないため、存在しないことになってしまいます。
科学はミクロの世界を探求し続け、物質は原子と電子から構成されるという概念からさらに進み、素粒子の振動という域にまで踏み込んでいます。
質量はヒッグス粒子が作り出す、動きの抵抗のようなものであることも分かってきました。
固体(物質)は中身がぎっしりと詰まっていようですが、実際はスカスカであり、素粒子の振動が作り出す錯覚により、そう見えているだけです。
質量が、素粒子により作り出されていると、誰が想像したでしょうか。
魂が存在する事実よりも、物質である人体は素粒子の振動により形態を作っているという事実の方が不可解であり、私の理解を超えています。
目に見える光粒子の振動を可視光線と呼びますが、目に見えない振動域に、赤外線や紫外線が存在しています。
肉体は低い振動をしているので目に見え、魂は高い振動をしているので目に見えないだけであり、現代科学ではその振動を検出できないと考えるのは、無理があるのでしょうか。
新たな事実は、その時代の理解の一歩先に在るために、容易に受け入れられないのは、歴史を振り返れば明白です。
人々を苦しめているガンについても、現時点で分っているのは一側面です。
全体像を知るためには、視点を変えて、視野を広くする必要があるのかもしれません。
きわめて重要な事実が、徐々に明かされていったとしても、残念ながら、受け入れられるのは、もう少し先になると考えられます。
今日、常識と思われていたことが、近い将来、非常識となる可能性があることを、十分に承知していなければいけません。
医学的に見たガンは、遺伝子のコピーミスにより無秩序に分裂を繰り返す細胞の集合体と言えます。
放置すれば、肉体は死の転帰を辿る病と考えられています。
ガンを肉体的次元から見ればそうなります。
私は、多くのガンの原因は、霊的次元の魂に存在していると思っています。
魂に存在する原因の結果として、ガンが生じていると思っています。
魂が癒されると、肉体上のガンも癒されると思っています。
ガンを作ったのは自分であるので、治していくのも自分だと考えています。
死に至らせる病ではなく、自分を変えるためにある病だと考えています。
人は何のために、生きているのでしょうか?
肉体が自分と考えると、その答えは見つけられません。
生まれて、生きて、死んでいくだけです。
魂が自分と考えると、答えは見つかります。
肉体は死んでも、生命は魂であるため、生き続けます。
死とは、肉体と魂の分離であり、魂の去った肉体は土に帰りますが、肉体から解き放たれた魂に、何も変化はありません。
宗教的概念ではなく、誰もが経験する自然現象であり、神の法則の働きによるものです。
この世を生きているのは、本当の自分を成長させるためです。
本当の自分は、鏡に写るその身体ではなく、その身体を見ている精神(心)のさらに奥にある、魂です。
この世で苦難に出会うのは、乗り越えていく中で、本当の自分を成長させるためです。
そして、「愛」という最も大切なことに気付くためです。
愛を表現していくことで、本当の自分は成長していきます。
この世では、魂から生じた想いを、肉体で表現しています。
想いは脳で作られるのではありません。
想いは魂から生まれ、精神に投影され、脳内で物質(電気)的に変換されて指令となり、肉体を動かして表現されます。
肉体を動かしているのは魂であり、肉体がひとりでに表現することはできません。
肉体は魂に従い、すべての肉体的表現は魂から生じる想いによるものです。
原因不明の多くの病気は、霊的次元(魂)に原因があり、魂のありさまが、肉体上に表現されたものと考えています。
平和、協調、調和を欠いてしまった魂のありさまが、平和、協調、調和を欠いたガン組織として肉体上に表現されています。
魂のありさまの変化は五感により知ることができませんが、肉体の変化として表現されれば、五感により知ることができます。
魂が平和、協調、調和を欠いてしまうのは、肉体により表現されることのなかった、たくさんの想いが滞っているためです。
その想いは、喜びではなく、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲といった、「愛」に反する想いです。
滞っている、想いのしこりがあるために、魂のありさまが変わってしまい、さらに摂理に反する想いが生じ続けています。
この世は、さまざまな出来事を経験するようになっており、それを正面から受け止め、乗り越えていかなければいけません。
それが自分を成長させることにつながり、この世を生きる意味そのものであるからです。
魂のありさまがかわってしまうと、人生で起きた出来事から生じる想いは、乗り越えようとするものではなく、怒ったり、憎んだり、恨んだり、妬んだりと言った、自分の成長を妨げる想いに転化されてしまいます。
その想いを、外に向かい表現してしまえば、人を傷つけてしまったり、憎しみの種を植えつけてしまうかもしれません。
これでは、魂が成長するどころか、新たに罪を背負ってしまいます。
しかし、表現されなければ、魂に滞り、さらに大きな想いのしこりとなっていきます。
そして、魂のありさまは、本来の姿は失われ、より異質なものとなっていきます。
肉体は魂を表現する媒体であるため、肉体上のガンは、魂に滞っている想いの反映ということになります。
ガン細胞が増殖しているは、表現されない想いがさらに大きくなっているからと考えられます。
不運を嘆いたり、将来を悲観するのはやめましょう。
つきまとう恐怖や不安を、追い払いましょう。
ガンは死に追いやる病ではありません。
想いを表現できずに、押し殺して生きてきた自分に気付くためにある、神の摂理です。
神の摂理が働き、ガンという病気にならない限り、本当の自分を取り戻すことは困難だったと思われます。
本当の自分に出会うために、必要だったのです。
人生のシナリオは、「本当の自分」を主役として書かれてます。
本当の自分が主役でなければ、シナリオ通りの成長は得られません。
周りを注意深く見ながら、合わせて、表面をなぞるように生きようとする、「この世を演じている自分」もいます。
この世を演じている自分と、本当の自分がいて、同じ肉体を通して、2つの表現をしています。
この世を演じている自分と、本当の自分の間に、埋められないほどの隔たりが、知らず知らずのうちに出来てしまっています。
人生の主役は、この世を演じている自分ではなく、本当の自分であるべきです。
残念なことに、この世を演じている自分が主役になってしまっていることが多いと思われます。
そうすると、本当の自分から生まれた想いを、この世を演じている自分は封印していまい、表現されなくなります。
本当の自分からは、絶え間なく想いが生まれていますが、この世を演じている自分は、その想いを無視して、主役を演じ続けます。
この世を演じている自分は、人生のシナリオ通りに出来事が生じた時に、怒りや憎しみや恨みや嫉妬の想いや、不平不満をまき散らすだけで、逃げようとします。
まき散らしたその想いは、別の出来事に形を変えて、この世を演じている自分に降りかかります。
その降りかかった出来事により、この世を演じている自分は耐え難い苦痛を感じます。
そして、頼るものは何もないところまで追い詰められ、この世を演じている自分は、ついに逃げ出します。
ひっそりと隠れていた、本当の自分が表舞台に出てきます。
本当の自分が、やっと人生の主役につきます。
本当の自分(魂)は、人生のシナリオのすべてを知っています。
人生のシナリオには、魂を成長させる、さまざまな出来事が散りばめられています。
その1つ1つの出来事を乗り越えながら、大切なことを学んで行きます。
自分(魂)を成長させるのは、楽しい出来事よりも、つらく、悲しい、悲劇や苦難とも言える出来事だと、本当の自分は知っています。
つらく、悲しい出来事にも、本当の自分は悠然と立ち向かい、無事に乗り越えて行けるようになっています。
なぜなら、人生のシナリオを考案したのは神であり、乗り越えられないほどの苦難は、決して生じないからです。
どんなに無理に思えても、必ず乗り越えて行けることを、本当の自分は知っています。
2014年11月13日木曜日
人生にはシナリオがある
先日、「アイーダ」というオペラを初めて観ました。
音楽もさることながら、シナリオや舞台も美しく、とても感動しました。
どのような劇でも、拍手とともに幕が降りてしまえば、お終いになります。
しかし人生は、死という幕が降りても、お終いにはなりません。
生命は魂であるため、次の幕がすぐ始まります。
肉体は死んで骨になっても、本当の自分である魂は、何も変わりはありません。
死んだらお終いと、頑なに信じている人が、まだたくさんいます。
そんな人は、死んだ後にも意識は存在し、生き続けているという現実と、固定観念との間に、大きな矛盾が生じるため、混乱状態となってしまうかもしれません。
生きているうちに、真実を知っておかなければいけないと思います。
この世に生まれてきたのは、大切なことを学び、人間を成長させるためです。
人間の本質は魂であるため、魂を成長させるためと言うことになります。
大切なことを学びながら、魂を成長させるために、さまざまな出来事が、人生で展開されていきます。
仕事が休みの日に、障害者施設に行っています。
多くの障害者は、自分の不具を受け入れて、前向きに、精一杯生きていて、私がいつも元気をもらっています。
その中に、様子がどうしても気になるM君がいます。
M君は先天的な病気(奇形)により、重度の身体障害があります。
食事、排泄、着替え、入浴など日常生活のすべてに、介助が必要です。
寝返りも打てず、蚊にさされてかゆくなっても自分で掻くことはできません。
知的障害は全くなく、会話が普通にできます。
しかし、口にするのは、嘆きや、他の人への不満や批判と、無用な心配ばかりであり、いつも険しい顔をしています。
時折、私に「死にたい」ともらしますが、その裏には「こんな身体で、生きていてもしょうがない」という、思いがあると推察されます。
M君の立場になれないので、M君の気持ちは正直、私には分かりません。
想像力を働かせ、M君の置かれている状況に私が置き換わってみると、変わることのない将来への絶望と、強い現状への不満と、不平等に対する恨みを抱いてしまう様な気がします。
自由にどこへでも行き、好きなことができる私には、半畳ほどのベットの上で、身体を曲げたまま身じろぎもせず、1日、いや一生を過ごすことになるであろうM君の気持ちは、分かるはずもありません。
周りにいる人も、本人にしか気持ちは分からないと思うと、かける言葉を失ってしまい、離れていくためなのか、彼はいつも部屋に一人でいます。
そんな、孤独なM君を見ていると、つい色んなことを考えてしまいます。
この世に生きているすべての人に、あらかじめ決められたシナリオ(青写真)があると言われています。
今生で、大切なことを学び、魂を成長させるために、完全なる叡智により創作されたシナリオです。
生まれる(受胎)前の自分は、シナリオの内容を、十分に承知していたはずです。
いざ生まれてしまうと、肉体が前面に出てきてしまうために、魂の奥にしまわれたシナリオのことなど、すっかり忘れてしまいます。
そのシナリオに逆らわずに生きていれば、予定通りに魂は成長していくと考えられます。
しかし、人には自由意志が与えられているために、予定通りに行くとは限りません。
世の中は、さまざまな次元の摂理(法則)が働いています。
ほとんどの人は、科学的に証明されている、万有引力などの物質的な法則の働きは認めています。
しかし、霊的な法則(摂理)が存在するなど、思ってもいません。
そのために、摂理に反した想いを抱き、行いをしてしまうために、因果律が働いて、その償いのために苦痛を伴う出来事が生じてしまいます。
憎しみの想いからは争いが生じ、愛の想いからは平和が生まれます。
何となくそうなっているのではなく、厳然とした霊的な法則(摂理)が存在して、それが働いた結果です。
人生で起きる出来事も、必ず原因は存在しています。
蒔いた種を、後になって自分が刈り取っているだけです。
しかし、出来事を生じさせた原因を、これまで生きている間に、どうしても見つけることができなければ、その原因は過去世にあるのかもしれません。
M君は、生まれた時から障害があるので、原因は過去世にあります。
生まれながらに抱えている心身の障害や病気、そして何の前触れもなく生じた人生を変えるような出来事の中にも、過去世に原因が存在している場合があると考えられます。
出来事を生じさせた過去世の原因は、魂の奥にしまわれていて、現世では分かりません。
変えられない過去は、知らなくても良いのだと思います。
過酷なシナリオの人生に宿るのは、そのシナリオに耐えうるほど向上した魂か、過去世の償いを一刻も早く済ませたいと望む魂の、どちらかだと思います。
もしかしたら、M君は後者かもしれません。
すべての魂は、向上(成長)するように定められ、向上していくことを希求しています。
しかし、過ちを犯したのならば、相応の償いをしない限り、向上は許されません。
そのシナリオは償いであるとともに、大切なことを学び、同じ過ちを2度と犯さないためにあると考えられます。
M君にとって大切なこととは、「一人では生きていけない」と言うことなのかもしれません。
あるいは、「周りに支えられて生きている」と言うことかもしれません。
そんなことなどどうでもいいと、M君に怒られてしまうかもしれませんが、肉体が不自由であればあるほど、長い時間であればあるほど、深く学ぶことができると思われます。
さまざまな形となって、人生で出来事は生じますが、学ぶべき大切なことは「愛」に集約されると、信じています。
知的障害や言語障害により、想いを表現するのが不自由、あるいは全くできない人がいる中で、M君には自分の想いを、言葉で表現する手段が残されています。
しかし、M君から出る言葉は、いつも変わらず、不平不満ばかりです。
何かをしてもらったら、素直に「ありがとう」と言えば、お互いに気持ちが良いし、何か変わってくると思うよと、話したこともあります。
しかし、M君の想いが変わらない限り、表現する言葉が変わるはずもありません。
先日、M君に会いに部屋に行きましたが、姿が見えません。
職員に、どうしたのかと尋ねたところ、肺炎になり大きな病院に入院していると言われました。
呼吸がしにくくなったために、気管切開をして管を入れたそうです。
身体が不自由な上に、気管切開をされたと聞き、M君はどんな想いでいるのだろうかと思いました。
このまま逝ってしまった方が、楽に決まっていますが、償いが残っているのであれば、引き続き生かされることになると思います。
この経験も、M君にとって何か意味があるはずです。
気管切開により失われたものは、M君の言葉です。
不自由な身体であるために、今までいろいろな人に支えられ、たくさんの愛情を受けてきたにもかかわらず、感謝の思いではなく、不平不満の思いを言葉で表現し続けてしまったため、因果律が働いたのではないかと、考えてしまいました。
つらく、過酷な状況に置かれているとしても、1つ1つの想い、1つ1つの言葉、1つ1つの行いのすべてに、神の摂理が働いていて、冷厳に結果をもたらしているのではないかと、考えたりもしました。
自分の想いを表現できる、唯一の手段である言葉を失ったのは、M君とってとてもつらいことだと思います。
そのつらい経験により、何か気付くことがあり、M君の想いや言葉が変わるのかもしれません。
前のままかもしれません。
病気が治り、管が外された後に、どんな言葉を口にするのか。
想いが変わり、「助けてくれて、ありがとう」と、言って欲しいです。
参考ページ: 「人生のシナリオは自分を成長させるためにある」
2014年11月3日月曜日
生命力が病気を治す
大きな病気になると、ほぼすべての人は医者にかかります。
医者は、患者を診て、病気を診断し、治療をしていきます。
そして軽快すると、医療行為により病気が治ったと考えます。
果たして、医療行為により病気は治ったのでしょうか?
それは、大きな誤りであり、自然治癒力という、本来生命に備わっている力が、病気を治したのです。
ぱっくりと開いた傷口を縫い合わせるのは医療行為ですが、細胞レベルで傷口を閉鎖させているのは自然治癒力です。
では、医療行為は無駄なものかと言うと、そうではありません。
体内での細菌やウィルスの増殖を抑える、抗生物質や抗ウィルス剤は、外敵から人体を守るために、きわめて有効な手段となっています。
また、骨折や裂傷などの外傷は、早期に整復や縫合をすることで、良好な治癒が得られます。
血管からの出血、あるいは詰まってしまう梗塞は、適切な医療が施されないと、生命の危機につながります。
私は歯科医師をしていますが、虫歯の苦痛は生活の質を著しく低下させます。
もし、放置したならば歯は失われ、咀嚼という機能が低下します。
痛みを取り除くため、歯を失わないため、失われた機能を回復するため、回復された機能を生涯にわたって維持していくために、医療行為は必要です。
医療がなければ、多くの人が命を落としたり、生活に支障をきたしたりするのは、目に見えています。
しかし、感染症や外傷などに対して大きな威力を発揮する医療も、ガンや膠原病、糖尿病などの慢性疾患を根本的に治癒させるのは、残念ながら困難です。
現代医学は、目に見える物質次元の原因を除去することを目的としています。
ガンや膠原病など、難治性の疾患の多くは、目に見えない次元、霊的次元に根本原因があると考えられ、現代医学では原因を除去できないために、治療は手術を含め、対症療法となります。
人は、肉体と、精神(心)と、魂(霊)により構成されています。
生きる力である生命力は、魂に流れ込み、想いという力に変わり、精神に投影され、肉体で表現されています。
魂から精神そして肉体へと、力が常に流れています。
魂で生まれた想いという力が、肉体で表現され、外に向かい放散されています。
さまざまな想いが、魂から生まれます。
生命力は神の力であり、愛の力です。
魂に流れてきた生命力は、愛の想いとなり、肉体で表現されるはずなのですが、私たち人間は魂の進化の発展途上にあり、それがなかなかできないと考えられます。
人生で起きるさまざまな出来事により、魂に流れてきた力は、愛の想いではなく、それとは反対の憎しみや恨み、嫉妬などの想いが生じてしまうことがあります。
それらの想いは、神の心である愛と対極にあり、摂理に反する想いです。
摂理に反する憎しみなどの想いを、言動(肉体)で表現してしまう人もいますが、そうすればさらに罪は大きくなってしまいます。
魂は、そのことを知っているので、多くの人は(肉体で)あえて表現しようとしません。
自分を抑えて、我慢します。
ストレスが溜まっていくのは、この状態だと思われます。
表現されない想いが、解放されず、滞り続けてしまうと、次第に魂のありさまを変えていきます。
怒りを感じているのにもかかわらず、それを外に出さないでいれば、イライラとした精神状態になってしまいます。
ささいなことで口論となり、人によっては相手を暴力的に攻撃したりするかもしれません。
生きる目的は、自らの魂を向上させることにあり、愛を表現することで成就します。
しかし、想いが滞っているために、思いもよらず人を傷つけてしまい、罪を作ってしまうならば、とても大きな問題と言えます。
魂は、目に見えるものではありませんので、想いが滞り、好ましくない様相に変わってきても、わかりません。
魂は肉体の上位にあるため、肉体は魂に従います。
従って、魂に何らかの変化があると、それが肉体に反映されることになります。
魂の様相の変化が、肉体上の変化として表われたものが、(霊的次元に原因がある)病気と考えられます。
ガンや膠原病の多くは、これに当たると思われます。
想いは実体がなく、瞬間的に消えてなくなりそうですが、霊的には、実在そのものであり、想いが表現されなければ、消えることなく魂に残っていると考えられます。
想いは、表情や言葉そして行動する力となって、具現化されていきます。
生きることは、表現することと言ってもいいほど、想いを表現することは、生命にとってきわめて重要だと考えられます。
想いは、肉体をも変えてしまう、力を秘めています。
イエス・キリストを崇拝する信者の手のひらから出血する、スティグマ(聖痕)は、その良い例です。
失敗のイメージにとらわれていると、実際に失敗してしまうことがあります。
それと同様に、成功を強くイメージしていると、その通りになるような気がします。
想いが、具現化されているのだと思います。
すべての肉体的表現に対し、想いが常に先行しています。
病気も、肉体的表現の一種です。
想いにより、魂の様相は変化していき、それが肉体的な変化として表現されたのが、病気だと思われます。
摂理に反した想いを抱き続け、表現されず滞ってしまえば、その想いの滞りが、肉体上にガンとして表現されると考えられます。
病気の苦痛は、憎しみ、恨み、嫉妬、貪欲など、摂理に反する想いを抱き続けた、償いとしてあります。
そして、苦痛の経験は、魂を目覚めさせて、愛の想いに変えていきます。
想いが適切に表現されなければ、行き場を失った力は内に向かい、肉体や精神を変化させる力となったり、機能を変化させる力となります。
魂から生じる想いを、納得のいかない、不本意な表現をし続けていると、悔いや自責の念が生じてしまい、肉体上では免疫機能の変化として表れ、膠原病を発症するかもしれません。
そのことに気付き、変えていくために、膠原病になったのかもしれません。
苦痛の経験は、魂を目覚めさせ、ありのままで自分にふさわしい表現をしていくようになります。
魂から生じる想いを、愛の想いに変えていき、自分にふさわしい表現をさせていくのが、病気の本質です。
偶然や、不運ではなく、魂を成長させ、生きる意味を成就させるためにある、神の摂理である「因果律」の結果です。
生命力は細胞内のミトコンドリアが作り出しているわけではありません。
始源である神から、生命である魂に流れ込んでいますが、全く意識されることはありません。
その力は魂で想いとなり、肉体に伝わり表現する力となります。
魂は神の一部であり、神の愛を表現するためにあります。
生命力は、神の心である愛を表現するためにある力ということになります。
その力が、摂理に反した想いになったり、表現になってしまうと、因果律の働きにより、病気や苦難が生じます。
苦痛の経験は、償いであるとともに、神の摂理に気付かせる触媒となっています。
病気になると、肉体上の病変を切除したり、薬で症状を緩和させようとしますが、霊的次元に原因があれば、解消したことにはなりません。
霊的次元に原因があれば、まず想いを変えていかなければいけません。
少しずつ、少しずつ、愛の想いに変えていきましょう。
やさしくする、思いやりを持つ、親切にする、同情する、励ます、慰める、いたわるなどは、愛の想いの表現です。
許すことや、違いを認める寛容の精神も、愛の想いです。
人や動物そして社会が、喜ぶこと、助かることは、愛の表現だと思います。
愛の想いを表現をすると、喜びを感じるのは、摂理に適っているからであり、神からのささやかな褒賞だと思います。
自分にふさわしい形で、その想いを表現していきましょう。
想いを素直に表現できるようになれば、神から生命力はよどみなく流れ、魂から肉体に行き渡ります。
ふんだんに流れ込む生命力により、魂が癒され、そして肉体が癒されていくと思います。
愛を表現すればするほど、神との繋がりは深まり、より多くの生命力が魂に流れ込むと思われます。
そればかりか、愛の表現は他者の魂にも影響を与え、今度は受け取った人や動物そして植物が、愛を表現しようとします。
人は受けた愛を誰かに返して、動物は穏やかに従順になり、花は美しく咲き、実をつけます。
すべての魂はつながっていて、愛の想いは伝搬していくと思われます。
それが連鎖して、拡がっていき、世界が愛で満たされていくことが、神の心だと信じています。
繰り返しますが、神から流れ込む生命力の本質は愛です。
生命は、愛を表現するために存在しています。
人間には自由意志が与えられているため、どんな想いを抱いてもかまわず、それを自由に肉体で表現できます。
それは同時に、自分の想いや表現に責任が問われるということを意味します。
病気を治すのは医者ではありません。
自分の考え方(想い)や生き方(表現)を変えていくことで、病が癒やされると考えています。
なぜならば、魂を向上させる考え方や生き方に変えさせるために、病があると思われるからです。
自らの魂に流れ込む、生命力により病気は治ります。
神の力であり、愛の力だからです。
愛の力により生かされているのだから、素直に、自分にふさわしい愛の表現をしていかなければいけません。
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