人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年4月17日木曜日
神の摂理
私は神を信じていませんでした。生きていく上で、自分には関係ないと思っていたからです。神を信じる人は、どこかの宗教に属する、少し変わった人だと思っていました。
今、私は神を信じています。神の概念を語るには、あまりにも未熟ですが、すべてを考案し、創造し、統率している何者かがいるはずであり、それが神だと、おぼろげに分かります。自然が美しいのは、神の心が表れているためであり、秩序が保たれているは神の摂理(法則)が存在するためだと、思っています。
神は必要のないものを、創り出すはずもなく、すべてのものは明確な意味を持って存在していると考えられます。
地球上に生きる、人、動物、植物の1つ1つが、かかわり合い、調和しながら、意味を持って存在していると思います。
この世に存在しなくても良さそうな、戦争や病気はどうなのでしょうか?
戦争や病気を、不幸なことと片付けてしまえば、そこでお終いです。何らかの意味を持つものとして捉え、(神の)目的を理解するように努めた方が、前に進んでいけると考えています。
戦争は、決してあってはならないものです。人が傷つき、国土が破壊され、多くの悲劇が生みだされれます。そんな無益な戦争が起こってしまうのは、当たり前のことなのですが、集団や国家が協調や調和の精神を忘れ、自己の主張や利益を優先したためと考えられます。国家が神の摂理である「愛」を忘れたために起こり、その結果、国民に苦痛がもたらされます。
もし、神の摂理に適った「愛」が発揮されたのなら、飢えや貧困に苦しんでいる弱者に手を差し伸べる側となり、世界はもっと、やさしく、あたたかく、平和となり、戦争など起きるはずはありません。
戦争で、大きな苦痛を味わった人たちほど、心の底から平和を希求し、他国との友好を尊重するようになると考えられます。代償は大きいのですが、戦争により、友愛、調和や協調と言った、神の摂理(心)に気付くことになるとも言えます。
病気にも、明確な目的があると考えられます。すべての病気は結果であり、原因があります。その原因として環境や遺伝が挙げられますが、現代医学では説明ができない、原因不明の病気も数多くあります。
人を構成しているのは肉体だけはありません。肉体に命令を下している精神があります。その上位には、生命そのものであり、真の自己である、魂があります。五感には触れませんが、実在しています。
肉体は物理法則に支配されていますが、精神そして魂も、それぞれの法則(摂理)により支配されています。現在、西洋医学の対象は肉体だけであり、魂(霊)の存在は認めていませんので、精神的、霊的次元での原因は、残念ながら解明されていません。
見えないもの、検出できないものは存在しないと決め付けてしまうのは簡単ですが、病気の原因は精神的、霊的次元にあることが多いと思われ、多次元的に病気を理解することが、病気の治癒のため重要と思われます。
良くストレスが溜まると病気になると言われます。それは事実だと思いますが、正確には、ストレスにより生じた、表現されなかった想いが溜まると、魂(霊)が変化をきたし、その変化が病気として精神や肉体上に表れると言うことになります。
肉体は魂を表現している媒体です。想いが生まれ、精神を経由して、肉体で表現されています。おかしければ笑い、悲しければ泣きます。内の想いが外に表現されています。もし、魂(霊)のありさまに変化があれば、肉体のありさまに変化として表れます。
人生にはさまざまな出来事が起こり、さまざまな想いが生まれます。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、その他にも、たくさんの想いが生まれ、表情や言葉、そして行動となり、常に表現されています。
しかし、何らかの原因で抑制が働き、その想いを肉体で表現できなくなると、想いだけがうっ積していきます。心にいつもひっかかるもの、心に重くのしかかるものを感じるのは、うっ積した想いがあるからなのかもしれません。
想いを解放するために、話(想い)を聞いてもらったり、文章にしたり、からだを動かすのも有効です。
人によっては、うっ積して耐え切れなくなると、想い(感情)を爆発させることもあります。うっ積した想いを、一気に表現して手放すことになりますので、周りの人は大変ですが、本人はさっぱりします。
しかし、生きていると、そんなわけにはいきません。生活していくのに悲しんでいられない、理不尽なことをされても立場上文句は言えない、つらい胸の内を聞いてもらえる人が側にいないなど、想いを表現できない時は、いくらでもあります。
また、想いが強ければ強いほど、うまく表現ができなくなります。
表現されなかった想いが滞り、蓄積してしまうと、魂に影響を与えて変化が生じてしまい、その変化が、肉体上に病気として表れるとことになるかもしれません。
この世では、想いには実体はなく、影響力はないと考えてしまいますが、霊的次元は思念の世界であり、想いが実体であり、影響を及ぼしています。うっ積した想いが、怒り、憎しみ、妬み、恨み、貪欲といった、神の摂理に反したものであれば、魂に相応の変化が生じてしまいます。
病気は、変化した魂の反映であり、苦痛はその償いです。同時に、苦痛には、「生命」や「愛」といった神の摂理に気付かせるという大きな意味があります。摂理に気付けば、神とのつながりは深まり、魂は浄化され、肉体の病気は癒されていくと考えられます。
人生にはいろいろなことが起きます。想いを表現できない時もあると思います。では、どうすれば良いのか?
摂理に反した、怒り、憎しみ、妬み、恨み、貪欲といった想いを抱かないようにするしかありません。仕打ちを受けても許す、すべての事実を受け入れる、自分と違っていても認める、とても、とても難しいことですが、そうなれるように努力することが、生きている意味の一つだと思います。
時として、許すこと、受け入れること、認めることは、苦痛そのものとなりますが、もし、出来たのであれば、「愛」を表現していることになり、魂の向上が図られます。もし出来ずに、摂理に反した想いを抱いてしまえば、病気になるかもしれません。
繰り返しになりますが、病気は、神の摂理である「愛」に気付かせるため、生命の危機にさらされて、魂を目覚めさせるためにあります。
決して死に追いやるものではありません。
少し遠回りしたことになりますが、魂が向上した結果、今度同じことが起きたとしても、許せなかったことが許せるようになり、認められなかったことが認められるようになり、拒絶したことが受け入れられるようになると思われます。
どちらに進んだとしても、神とのつながりは絶たれていません。
神の摂理は完璧であり、自らに近づけるように導いていると思います。
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