2024年5月26日日曜日

神の心


神の存在は信じていませんでした。

宗教上の産物であり、一生無縁と思っていました。

20年前に霊的真理と出会い、その考えは一変しました。



神は存在しています。

ただ、宗教で言われているような、第3者的な存在ではありません。

霊的真理(シルバーバーチの霊訓)で「神は法則」と知りました。



もし法則がなければどうなるでしょう?

石を空に向かって投げると、ある時は地面に落ちて来て、ある時は大気圏外まで飛んで行ってしまいます。

この世界は偶然に支配され、極めて不可解なものになるでしょう。

宇宙の秩序は、法則の働きによって保たれています。



全宇宙と全法則の総称を神と考えています。

神のエネルギーによって全てが創られ、神の法則の働きによって全ての事象が起きます。

神とは全てです。



神には心があります。

神の心を一言で表現するならば「愛」です。

私たちは神の心を表現する、神の一部として存在しています。

人を傷つけたくない、人を助けてやりたい、誰に教えられたわけでもなくそう思うのは、生まれながらに良心と言う神が宿っているからです。



神の心は、法則の働きの中にも顕現しています。

神の心(愛)に反した行いをすると、法則の働きにより苦痛が生じます。

わがままばかり言っていると、仲間外れにされて、孤独という苦痛を味わいます。

神の心(法則)に適った行いをすると、喜びが生じます。

人を助けて喜ばれると、自分まで喜ばしい気持ちになります。

私たちは、痛みと喜びを通して法則の働きを学びながら、愛を表現する方向へと導かれています。



愛は五感に触れません。

地上ならでは経験を通して、愛を認識することになります。



病気や障がいによって、愛の大切さに気付くことがあります。

ベートーヴェンは音楽家としてこれからと言う時に聴力を失いました。

絶望の中で死も考えましたが、苦しみの末に家族や友人そして自分自身への愛を見い出し、生き続けることができたそうです。(第九の中にその過程が表現されていると思います)



医学で為す術がなくなり、追い詰められた人がいます。

ヒーリングを受けて病気の痛みから解放された人の中には、人智を超えた神の愛に感謝する人もいるでしょう。

苦しみや痛みや悲しみの経験は、愛を認識するために、欠くことのできない触媒になっています。



作家の三浦綾子さんの代表作の1つに「塩狩峠」があります。

主人公の青年を乗せた汽車が、峠の頂上に差し掛かった時に連結部が外れてしまい、客車がゆっくりと下り始めてしまいます。

鉄道員でありクリスチャンでもある主人公が、暴走を防ごうとレールと車輪の間に自分の身体を挟んで、大惨事になるのを防いだという物語です。

これは実話であり、イエスの説く自己犠牲を究極の形で体現したものとして書かれていますが、実際に客車に乗っていて命が助かった人たちは、愛について深く考えさせられたのに違いありません。

死によって、愛の意味を知る人もいます。



神の心(愛)を表現すると、神と同調して、神的なエネルギーが流れ込みます。

人に優しくすると、自分の心がほのかに温かくなるのを感じるのはそのためです。



東日本大震災があった直後のワールドカップで、なでしこジャパンは奇跡的な優勝を果たしました。

ダメージを負った日本のためにと奮闘している時、神の心と同調して、神的なエネルギーが流れ込んで、想像以上の力が発揮されたと考えています。



塩狩峠で殉死した青年ですが、乗客を助けようと言う想いが、神の心と同調して、神的なエネルギーが流れ込んで、死の恐怖から免れていたと考えられます。

イエスの「全き愛は恐れを知らない」と言う真理を実践していました。

これ以上、地上を生きる必要がないほど、霊的に進化していたと考えられます。


死んで霊界に行くと肉体はなくなり、五感は消滅します。

地上で視えている物は視えなくなり、地上で視えない思念が視えるようになります。

愛が光輝となって、魂から放たれているのが分かります。



地上で愛を深く知ることで、より高い愛を表現できるようになっています。

試練を乗り越えて来たことで、より強い愛を表現できるようになっています。

生れる前より光輝を放つようになっていたのなら、地上の経験は活かされたことになります。



愛を表現することが何故必要なのでしょう?

創造的なエネルギーが物的なエネルギーに変換された瞬間、宇宙が誕生したと考えています。

物的なエネルギー(肉体)に、霊的なエネルギー(魂)が宿った瞬間、生命体が誕生したと考えています。



物的な存在が引力により引き付け合うように、霊的な存在は愛により引き付け合います。

ばらばらになった個々の生命が、愛によって引き付け合い、霊的に1つになって行く、それが宇宙を創造した神の意志と考えています。



愛が引き付け合うのに対して、愛に反する想いは反発し合います。

今、世界で起きている争いは、愛に反する想い(怒り、憎しみ、恨み)が表現された結果です。


怒りや憎しみの想いに駆られて争いをしている人たちに、宇宙空間から地球を眺めてもらいたいです。

地球が1つの生命体であり、強烈なオーラを放っているのを感じるでしょう。

人を傷つけるのは、自分を傷つけるのと同じであり、最も愚かな行為であることに気付くでしょう。



個々の生命は、全体のためになくてはならない存在です。

運命共同体であり、霊的につながっています。

全体が見えなくなってしまうと、そのことに気付けなくなります。



苦しみや痛みを伴いながら、愛を表現する方向へと向かっています。

長い、長い年月をかけて、法則の働きによって、世界は1つになって行きます。




2024年5月19日日曜日

神とのつながり


昔は、調べ事があると図書館まで行ったものです。

欲しいものがあれば街まで出かけました。

今はスマホがあるので、居ながらにして用が済みます。



生活に欠かすことのできないスマホですが、もし百年前の人に見せたとしたらどうでしょう?

薄べったい物体にしか見えません。

遠くにいる人とやり取りができるなど、想像もしないでしょう。


私たち人間も想像を超えた存在です。

目に映っているのは肉体ですが、それを動かしているのは精神です。

その内奥に魂(霊)が存在しています。

異なる次元に存在する、肉体、精神、魂(霊)の3者の複合体が地上の人間です。

千年後には、そのことが当たり前のように認知されているでしょう。



死んで霊界に行くと、物質的次元の肉体は失われます。

五感もなくなり、言葉を介さない思念のやり取りによって、コミュニケーションが行われるようになります。

スマホでコミュニケーションができるのは、ネットワークでつながっているからですが、思念のやり取りができるのも、魂と魂が霊的につながっているからです。



地上の人も同じで、霊的につながっています。

何を根拠に?と言う人もいるでしょう。

約20年前にヒーリングの力が出現し、遠く離れた場所にいる人に癒しの力を届けられるようになりました。

メールはアドレスを入力すれば届きます。

ヒーリングの力は名前も住所も分からない人にも届きますが、霊的なネットワークが張り巡らされていて、受ける人に意念を向けた瞬間、霊的なつながり(リンク)ができると考えられます。

そのつながりを通して、ヒーリングの力は伝わって行きます。



思念とは波動(エネルギー)です。

音叉の原理と同じで、思念を受け取ると同じ思念が生じます。

地上ではさまざまな思念が放たれていますが、五感から入る情報が圧倒的な存在感を持っているため、感識するのが難しくなっています。

霊的な感受性の高い人であれば感じ取れるでしょうが、それほど高くない人でも、無意識の内に受け取り、少なからず影響を受けていると思われます。

もらい笑い、もらい泣き、あるいは集団(群衆)心理と呼ばれるものは、放たれている思念の影響を受けて、同じような反応をしてしまうことだと思います。

地上の人も、霊的につながっているのです。




子供の時の夏休みに、家族で海の近くに泊まりました。

夜、1人で抜け出して海を見に行きました。

浜辺で寝そべると、それまで見たことのない数の星空が広がっていました。

しばらくすると、宇宙と一体になったような不思議な感覚になりました。

1人で真っ暗なところにいるのに怖くないどころか、何とも言えない安心感がありました。



私たちは独立している存在のように思えます。

それは物質(肉体)に限った話です。

霊的には宇宙と一体です。

真っ暗な場所で、宇宙と自分だけしか認識できなくなり、一体感が蘇ったと考えられます。

安心感が得られたのは、何か大きな存在に見守られている感じがしたからです。



私たちは、神とつながっています。

何を根拠に?と言う人もいるでしょう。

怪我をすると血が流れます。

しばらくすると血が固まって止まります。

固まった血はカサブタとなり、数日経つとはがれ落ちます。

その下には新しい皮膚ができています。

この一連の現象は、自然法則の働きによって起こります。

傷が治って行くのは、自然治癒力の働きによるものです。

ここで言う自然が神です。

神とのつながりなしに、存在しているものはありません。



個々の細胞は全身の一部としてつなっがっているように、個々の生命は宇宙(神)の一部としてつながっています。

個々の細胞に同じ血液が流れているように、個々の生命に同じ力が流れています。



「神と一体であり、神の力によって生かされている。」

死んで霊界に行くと、この感覚が取り戻されます。

肉体があり、霊的な感覚が著しく鈍くなっている地上では、そう信じるしかありません。



信じることにより、神とのつながりが強くなります。

流れ込む生命力によって、地上を生きる怖れや不安や怒りは和らいで、穏やかな心でいられるはずです。




2024年5月12日日曜日

守護霊の存在を信じる


一人でいても、一人ぼっちではありません。

地上を生きている人には、守護霊が付いています。

一生涯、守護霊は変わることはありません。

片時も離れることはありません。



私たちは、自分を成長させるために、地上を生きています。

そのために最適な人生が計画されています。

計画に沿って生きることで、予定されていた学びや成長が得られます。



けれども、地上の人には自我(エゴ)があります。

エゴに負けて、計画されていた人生から逸れてしまうことがあります。

そうならないように、守護霊は地上の人を導いています。



霊界からの導きは、インスピレーションの形を取ることが多いです。

私事ですが、20年近く前に仕事で不祥事が起こり、行政機関に呼ばれて事実確認されることになりました。

行政の判断によっては、仕事が立ち行かなくなり、廃業の可能性がありました。

それを避けるためには、不都合な事実を隠すしかありません。



その時、私の心の中に浮かんだのは「正直に全てをさらけ出せ」と言うものでした。

少し前に、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会っていました。

そこには「乗り越えられない困難は起きない」と書かれていました。

その言葉を信じて、インスピレーションに従い、全てをさらけ出しました。



その結果、想定された中で最も重い処分が下されました。

明日をも知れぬ、暗闇の日々が続くことになります。



処分を受けたのも、元へと言えば自分が原因です。

霊的真理に書かれていた「因果律の働き」を、この経験から痛いほど学びました。



あの時、嘘をついていたらどうなっていたのだろう?と想像する時があります。

処分は軽く済んだと思われ、胸を撫でおろしたでしょう。

運が良かったと思いながら、それまでと同じような生き方をしていると思われます。



私たちは寿命が来ると、肉体から離れて霊界に行きます。

そこで地上の人生を振り返ります。

何を思いながら、何をしたのかを、全て思い出します。

あの時、処分を逃れるために嘘を付いたことが、いかに愚かな行為だったのかに気付くことになるでしょう。

インスピレーションに従わなかったために、魂が目覚める機会を逸してしまったことを知るからです。

せっかく出会った霊的真理は目の前を素通りしています。

ヒーリングの力の意味を知らないまま、利己(金銭)的な目的のために使って、霊界から見放されてしまうかもしれません。

生まれる前に決めて来たであろう、霊的真理を多くの人に知ってもらうという目的を果たせずに地上の人生が終わってしまったことに気付き、深い後悔の念に襲われるでしょう。



地上での後悔を晴らすのは、地上しかありません。

今度こそは決めたことをやり通すと覚悟して、さらに過酷な試練を経験する人生を承知して生まれることになると思います。



地上で凶事や不幸と言われる出来事は、魂が目覚めさせるために起きていて、そこから目的を果たす人生が始まることがあります。

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「魂は肉体の奥深くに埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸などは地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。」

できれば避けたかった出来事を通して学んだ教訓は、次の世界に持って行ける貴重な財産となります。



生れる前の自分は、地上の人生を承知していたのですが、そのことをすっかり忘れています。

もし、覚えていたとしたら、どうにかして回避しようと躍起になってしまうでしょう。

忘れてしまう地上の人のために、守護霊が付いているのですが、自我(エゴ)の働きが強くなると、影響力を行使しにくくなります。

自我(エゴ)を認識しておく必要があります。



もっとはっきりと分かるように、守護霊が導いてくれたら良いのにと思う時があります。

守護霊は、家族でも友達でもありません。

魂を成長させるための同志です。



学校で宿題が与えられ、大変だからと親が代わりにやってしまったら子供のためにはなりません。

それと同じで、守護霊が安易に助けてしまったら地上の人ためになりません。

地上と同じように意思疎通ができたならば、頼り切ってしまう人も少なくないでしょう。



守護霊は地上の人の決断には干渉できません。

エゴに負けてしまう時もあります。

摂理に反した行いをすれば、後で痛い思いをしますが、そこから摂理の働きを学んでいます。

摂理に適う決断ができたのなら、目的が果たせるように、惜しみのない援助の力を送り続けるでしょう。

存在をはっきりと示さないのは、自分で決めて自分で責任を取らせるためであり、それが地上の人の学びや成長につながるからです。



守護霊の存在を信じていた方が、インスピレーションを受けやすくなるのは確かです。

ある局面に差し掛かった時に、送ってくれるかもしれません。

送ってくると、地上の人の心の中に、突然アイデアや概念やイメージが浮かんで来ます。

理由もなく、急に何かをしなければいけない衝動にかられた時も、思念を受け取っている可能性があります。



昨日ですが、同業者(歯医者)の患者への気を遣う手術がありました。

朝から体調不良で、上手く行くか心配していたところ、心の中に「25」という数字が何度も浮かんで来ました。

予定通り手術を行い、終わりかけてホッとした時に、ふと置き時計に目をやったところ午後3時24分でした。

1分の違いはありましたが、「見守っている」という確信を深めるための霊界からのメッセージであり、今、書いているブログの内容を後押しさせるものと感じました。

気付く、気付かないに関わらず、想像以上にインスピレーション(メッセージ)は伝わって来ていると考えられます。



心の中に浮かんで来たことは、地上の人の全てを知っている守護霊からのインスピレーションかもしれません。

繰り返し浮かんで来たのなら、その可能性はさらに高いと思われます。

インスピレーションに従うことで、今よりも苦しい状況になるかもしれませんが、そこから何かを学ぶことができ、自分の成長につながります。

後悔することはないので、迷わずに進んで行きましょう。




2024年5月5日日曜日

地上的な欲求、霊的な欲求

 

人間にはさまざまな欲求があります。

マズローの「欲求5段階説」

心理学者のマズローは、5段階の欲求があると提唱しています。

一番下にある生理的欲求は、食欲や睡眠欲など、生命を維持するための欲求です、

その上には、経済的な安定や健康な身体を保つなど、安全に、安心して暮らすための安全欲求があります。

その上には、友人や家族などの小さな集団から、会社や組織などの大きな集団まで、何らかの集団に所属しようとする社会的欲求があります。

さらに上には、他者に認められたい、または自分を認めたいという承認欲求があります。

一番上にあるのは、望んでいる自分になりたいという自己実現欲求です。



マズローによると、下位の欲求が満たされると、上位の欲求を満たしたくなるようです。

食欲などの生命を維持する欲求が満たされると安定した生活を求めるようになり、安定した生活ができるようになると人とのつながりを求めるようになり、人とのつながりができるとその人たちから認められたいと言う承認欲求が生まれるようです。



承認欲求は誰にでもあります。

会社に入ると、上司や同僚に認めてもらいたくなります。

子供は親に褒めてもらいたいです。

自分が高く評価されて、気分を悪くする人はいません。



承認欲求は、形を変えて広範囲に存在しています。

「プライド」もそうです。

プライドをくすぐられるとは、承認欲求が満たされることを指すと考えられます。

自己承認欲求が満たされないと「劣等感」が生じることがあると考えられます。

金持ちになりたい、有名になりたい、偉くなりたいなどの願望も、承認欲求から生じている場合ことがほとんどです。



欲求が満たされないと、苦しみのような感覚を覚えます。

そこから何とか抜け出したくなります。

空腹は苦しいものであり、どこかで食べ物を調達しようとします。

家に引きこもっている人は、社会的欲求が満たされていないため現状に苦しみを感じて、外に出て社会と関わりを持ちたくなります。



叱られたり、あるいは褒められたりすると、承認欲求が一気に高まることがあります。

上司に叱られると、仕事を頑張ろうとする人もいるでしょう。

もっと褒めてもらうために、一生懸命に努力をする子供もいるでしょう。

このように欲求は自分を高めることにもつながるので、無用なものではありません。



SNSでつながっていないと不安になる人がいます。

つながっていても、自分について書き込まれたことが気になります。

私自身も自院の検索サイトの口コミが気になり、見ることがあります。(初診の患者さんの数割は口コミの評価が受診理由になっています)

昔は知ることのなかった自分の評価が、電子媒体によって知れるようになりました。

良く見られたいという承認欲求を満たすために、私たちは大きな労力を払っているような気がします。



承認欲求が強い人の中には、幼少期に十分な愛情を受けていなかった人もいると考えられます。

十分な愛情を受けた人は、自分は守られているという安心感を潜在的に持っています。

受けていない人は、他者から認められることで安心感を得ようとする傾向があると思います。



私たちは、自我によって自己表現してます。

自我には、肉体を使って自己表現するための自我(以下地上的な自我)と、死んで霊界に行った時に自己表現するための自我(以下霊的な自我)があると考えています。

地上的な自我は、安全に快適に生きることを志向しています。

承認欲求が満たされると、周囲との関係が安定し、安心して生きられると感じられます。

このことから、承認欲求は地上的な自我から生じていると考えられます。



あの世に行くと肉体がなくなります。

同時に地上的な自我もなくなり、それと共に多くの欲求が消滅します。

ありのままの自分が認められる世界なので、承認欲求もなくなります。

残っているのは、自分を成長させたいという霊的な欲求と考えられます。



地上は霊界と違い、自分と違う人たちと共に生きる世界です。

違う人たちと共に生きるためには、お互いに認め合わなければいけません。

認めてもらわなければ、疎外されたり、時に敵対関係になってしまい、生きて行くのに不都合が生じます。

認めてもらいたい承認欲求は、地上を安全に、安心して生きるための欲求でもあるために、そこから逃れるは困難です。



認めて欲しくても、認めてもらえるわけではありません。

世の中には、因果律が働いています。

まず自分が相手を認めることによって、相手も自分を認めてくれるかもしれません。

20年位前でしょうか、私の医院にある言葉を多用する高齢のご婦人が訪れました。

その時のやり取りを再現すると

私「奥歯に虫歯がありますので、これから治療します。」

ご婦人「ありがとうございます。」

治療が終わった後の私「今日は奥歯の治療をしました。次回は前歯の虫歯の治療をします。」

ご婦人「ありがとうございます」

私「お大事にして下さい」

ご婦人 深々と頭を下げながら「ありがとうございます。ありがとうござます。」

通常は「はい」と答える人がほとんどですが、そのご婦人は笑顔で、気持ちを込めて、スタッフにも受付にも「ありがとうございます」と繰り返していました。



礼儀正しいと思うと同時に、そのご婦人に対して、もっと良くしてやろうという気持ちが生まれました。

何故、そんな気持ちが生まれたのか、今になって分かりました。

「ありがとう」という言葉によって、私の承認欲求が満たされたのです。

自分が満たされたので、因果律の働きによって、相手も満たしてやろうと言う気持ちが生まれたと思います。

相手を認める最も有効で簡便な方法は、感謝の意を伝えることかもしれまぜん。

認められたと感じると、相手を認めたくなるものです。



世の中には、飢餓で苦しんでいる人がいます。

そんな人たちを見て助けてやらなけばいけないと思っても、(段階は違いますが)それぞれの人に欲求があり、それが満たされなければ苦しみが生じます。

自分が苦しんでいるのに、人のことまで構っていられません。

飢餓や戦争がなくならないのは、そんな理由もあると考えています。



地上的な欲求には際限がありません。

自我から生じる地上的な欲求は、魂から生じる霊的な欲求を満たすことで、生じなくなります。

神の心を表現する、誰かのために何かをすることで、霊的に満たされます。



第2次世界大戦中のアウシュビッツ強制収容所での話です。

そこでの1日の食料は、パン1枚だったそうです。

ある男性は、そのたった1枚のパンを、お腹を空かした見知らぬ子供に手渡したそうです。

男性の生理的欲求(食欲)は全く満たされていません。

けれども、神の心を表現することで霊的な欲求が満たされていたので、地上的な欲求から生じる苦しみから免れていたと思います。



全体のために、1人ひとりが存在価値を持っています。

地上の苦しみから少しでも解放されるためには、自分の存在価値を果たす以外にありません。

それは特別なことでなく、今いる環境で良心に従って生きれば良いのだと思います。