2022年11月27日日曜日

神性を信じる

霊界と地上の違いは何でしょう?

たくさんありますが、霊界では周りに自分と似通った人たちしかいないのに対して、地上では自分と違う人たちに囲まれている点を私は挙げます。 

もう1つは、霊界では想ったことが直ぐに相手に伝わるのに対して、地上では伝えようとしなければ伝えられない点です。



地上では、自分とは違う生き方や考え方の人たちと接しながら生活をしています。

そんなことから、相手のことを理解できなかったり、自分のことを理解してもらえなかったりします。

また、何かを伝える時には、心の中にあるものを言葉に変換して、身体を使って表現しなければいけません。

言葉という媒体を介しているので、完全に伝えるのは不可能です。

たとえ上手く伝えられたとしても、相手に受け入れてもらえるとは限りません。

わかり合えるのが難しい世界に生きていると言えます。



私も時々失敗をします。

相手はこれを望んでいるだろうと思い行動すると違っていることがあり、意思の疎通が十分に取れていなかったと反省することがあります。

コミュニケーションをしなければわかり合えない世界にいることを忘れてはいけません。



今は、メールなどでコミュニケーションをすることが多くなっています。

文字だけでは、細かな想いや考えまで伝えられません。

便利にはなりましたが、意思の疎通は以前より難しくなっているように感じられます。



意思の疎通が取れなければ、相手を理解することはできません。

相手の意図が理解できないまま、自分に不利益な行動をされたらどうでしょう?

「どうしてこんなことをするのだろう?」と思います。

そんな時、地上的な自我(以下エゴ)が働き出すかもしれません。



エゴは自分を中心に考えます。

自分の思っている通りにならなかったり、考えていた行動を相手がしなかったりすると憤りが生まれる時がありますが、それはエゴの働きによるものです。

その感情をぶつけてしまうと、因果律の働きにより、相手から同じような感情が返って来る可能性があります。

するとエゴの働きがさらに強くなり、より強い感情をぶつけてしまうかもしれません。

些細なことからエゴの働きが徐々に強くなり、争いに発展してしまうことも、決して少なくありません。



そうならないために、どうすれば良いのでしょうか?

相手の意図が理解できなかったとしても、信じる必要があります。

そんな簡単には、人を信じられないと言う人もいるでしょう。

騙されたり、裏切られたりした経験のある人ならばなおさらです。



地上では、魂(本質)が肉体に隠されています。

本性は判らなくなり、嘘や裏表などが存在するようになります。

なので、信じられずに警戒をしてしまうのも、仕方がないような気もします。

それでも、信じようとしなければ、好ましい方向に向かって行くことはありません。




宇宙は神が顕現したものです。

私たち人間も、宇宙の極小の一部です。

神の心(神性)を表現しようとする存在です。

けれども、(表現媒体が)未熟なために、利己的になったり、嘘を付いたり、過ちを犯したりして、神の心とは程遠いことを表現しています。



地上では神性が表現されている人と、そうでない人がいますが、どんな人にも神が宿っているのは確かです。

神が宿っているからこそ、人を助けようとしたり、世の中のために役に立とうと思う気持ちが生まれます。



相手の神性を意識するようにしましょう。

エゴに意識を向けてしまうと、自分のエゴの働きも強くなり、好ましくない感情に支配されることになります。

被害妄想的になり、時に怒りが生じ、それが憎しみへと変わって行くかもしれません

相手の神性を信じることで、霊的な意識が強くなると同時にエゴの働きは弱くなり、良い方向へと向かうはずです。



信じなければ、接点は生まれません。

接点がなければ、互いを知ることができません。

お互い知ることができなければ、認め合うことはできません。

もちろん、許すことなどできません。



今、起きている戦争は、相手のことを許せなくなっています。

ひどいことをしておいて、許すことなど到底できないと言うでしょう。

許せないようなことをする人は、自分に宿っている神に裁かれ、相応の報いを受けることになります。

エゴに意識を向けるのではなく、神が宿っていると強く信じることで、許す方向へと向かって行くはずです。



自分にも神は宿っています。

どんな状況に置かれたとしても、相手を信じることは可能です。

なぜなら、神は信じることを望んでいるからです。

信じることなしに、神の心が表現されることはないからです。



多くの怖れ、不安、怒りが、信じられないことから生まれています。

相手にも神が宿っている、そして自分にも神が宿っていると信じることで、エゴの働きが抑えられ、それらの感情は鎮まって行くはずです。



霊界と違って、地上は完全に判り合えない世界です。

そんな世界に生きているからこそ、信じることが必要になります。

信じることで、物的な障壁が取り除かれて、人と人はつながることができます。

そのつながりを通して愛が行き渡り、神の意図した通りに、私たちは1つになることができます。










2022年11月20日日曜日

苦しみが変化をもたらす


先天性無痛無汗症という病気があります。

名前の通り、痛みを感じず、汗もかかない遺伝性の疾患です。

身体に痛みを感じないのであれば、良いことじゃないかと考える人もいるでしょう。

ところが、そのことが命に関わります。

事故などで大きな傷を負ったとしても、痛みを感じなければ、自分に何が起きているのか判らず、出血死してしまうかもしれません。

私は歯医者をしていますが、痛みを感じなければ虫歯になっても気付かず、放置されてボロボロになってしまう可能性があります。

痛みは誰もが感じたくないものです。

けれども、身体の異常を知らせるために、なくてはならないものです。



痛みを感じるのは肉体だけではありません。

精神(心)も痛みを感じます。

傷つくことを言われれば、心に痛みを感じます。



病気になり苦痛が生じているのは、何か原因があるからです。

同じように、何か自分に原因があって、精神的な苦痛が生じることがあります。



全ての行為に、自然法則(以下法則)が働いています。

法則に反した振る舞いをすると、苦痛を味わうことがあります。

たとえばわがままな言動をした時です。



神の心は愛です。

その心が、法則に反映されています。

わがままな言動は利己的な行為であり、神の心(愛)に反しています。



人の心には、良心と言われる神が宿っています。

わがままな言動をすると、咎められたり、仲間外れにされることがありますが、それは他者の心の中にある神の部分が反応しているからです。

法則の働きによって、苦痛として自分に返って来ると、慎むようになります。

意識する、しないに関わらず、地上にいる私たちは心身に感じる苦痛を通して、法則の働きを学んでいます。



もし、苦痛を感じなければどうでしょう。

怪我や病気が見過ごされてしまうように、法則に反した行いをしても気付くことはありません。

「嘘は泥棒の始まり」と言われますが、知らないうちに大きな過ちへとつながって行く可能性があります。



このように、地上における苦しみや痛みは、神の心(法則)に適った生き方や考え方をするように、現状から変化することを促していると考えられます。

けれども、変化することに抵抗するものがあります。

地上的な自我(エゴ)です。

エゴは肉体と密接に関連しています。

そのために、安全で楽な方向を指向し、変化をすることを好みません。



自分の未熟さを指摘されて、プライドが傷つけられ、憤りが生じることがあります。

それもエゴの働きによるものです。

苦しみや痛みを感じると、無意識に自分を変えようとしますが、エゴが正当化する言い訳を見つけると、変わるのを妨げてしまいます。



世の中には、周りが変わるのを期待したり、強要する人がいます。

そんな人ほど、自分を変えようとしないものです。

自分が変わらずに、周りを変えようとする行為はエゴの働きによるものであり、法則に反しているので上手く行きません。

エゴから出たものは、相手のエゴを呼び覚まします。

苦しみや痛みを伴う結果として、結局は自分に返って来ます。

人だけではなく、国家にも同じことが言えます。

今、起きている戦争も、周りを力により変えようとするエゴが原因で起きているような気がします。

苦痛となって、自らに返って来ることになります。



相手の言葉が神の部分(良心)から発せられたものであれば、自分の神の部分(良心)に響きます。

苦しみや痛みを感じる時もあるかもしれませんが、真摯に受け止めるべきです。

受け止められずに正当化している自分がいたとしたら、それはエゴの働きによるものです。




勢い良く流れる川の中で、立ち止まっているのは大変です。

法則の働きは、川の水の流れのようなものです。

留まっているのを困難にさせ、自然の流れに従うことを促しています。

頑なに従わなければ、(法則に逆らっているので)苦しみや痛みが続いてしまいます。



私たちは、神の力である生命力によって生かされています。

その力は、私たちを変容させる力でもあります。

その触媒として、苦しみや痛みが存在していると考えられます。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「ある段階以上に進化をすると(中略)苦しみを感じず、幸せを感じるようになります。難しいことですが真実です。苦しみを何とも思わない段階まで達すると、どんな環境にも影響されなくなります。」

何度生まれ変われば、そのような境涯に達するのかは判りませんが、苦しみは魂の進化(成長)と密接不可分の関係にあるのは確かです。



霊訓には「乗り越えられない困難は与えられない」と書かれています。

もしかしたら「乗り越える」とは「変わる」ことなのかもしれません。

自分の中で何かが変わった瞬間、苦しみや痛みが和らいでいるのかもしれません。

苦しみや痛みが魂を成長させ、自分を変えるために存在しているのであれば、当然そうなります。



変わるために、勇気や意志が必要な時があります。

それこそが、この世の経験を通して、私たちが高めている資質と考えられます。

私たちが死後に赴く霊界は、思念の世界です。

勇気や意志がなければ、何も始まらない世界です。

高められた資質は、取り巻く環境を良い方向に変えて行くために、如何なく発揮されることになります。



霊界は、地上のような苦しみや痛みや悲しみが取り払われています。

極めて居心地が良いのですが、自力で自分を変えるのには困難な世界です。

自分を大きく変えるために、苦しみや痛みや悲しみを経験することのできる地上に、自らが志願して生まれて来たと考えられます。






2022年11月13日日曜日

人生は続いている


人は死後も生き続けます。

残念ながら、そのことを客観的に証明する手段はありません。

今は、それで良いと思っています。



人は成長するために生きています。

楽しいだけの人生では成長は叶いません。

困難や障害を乗り越える中、他者への奉仕をする中で、人は成長して行きます。



地上の人生には、学び成長するためのシナリオがあります。

シナリオに沿って、さまざまな出来事が起きます。

あまりのつらさに、現実から逃げたくなるような出来事も起こります。



そんな時に、あの世があることが証明されていたらどうでしょう?

現実から逃れて、そちらに行ってしまう人が続出してしまうような気がします。



人の寿命は予め決められています。

その時が来るまで、生き続けなければいけません。

自分の行為には、法則が働いています。

自らの意思で地上の人生を中断してしまう行為は、法則に反しているので許されません。



私たちは、肉体を携えた魂(霊)です。

肉体が有する五感以外に、霊的な感覚も持ち合わせています。

けれども、五感から入る情報が圧倒的に多いために、霊的な感覚から入る情報に気付きにくくなっています。



霊的な感覚が弱くなっている地上の人の多くは、視えている世界が全てだと思っています。

それは事実誤認です。

肉体を失った後に待ち受けている世界が、私たちの本来の住処です。



本来の住処を離れて、この地上に生まれて来たのは偶然ではありません。

明確な目的があってのことです。

しかし、生まれる前のことは、意図があって思い出せないようになっています。



この世が全てと思い、感情に捉われて苦しい思いをしている人がいます。

(出来事が起きて)自分はもう終わったと嘆く人もいるでしょう。

理不尽さに憤りを覚える人もいるでしょう。

運命を呪う人もいるでしょう。

人を妬んでしまう人もいるでしょう。

それらの感情は、適切な知識がないために生じています。

この人生で終わりではありません。

計画された通りに出来事が起きています。



お金や地位や名誉と言った地上的なものに捉われ、大切なものを見失っている人は少なくありません。

捉われたまま、あの世に行く人もいます。

死んだ後に、この世の人生を振り返る時が来ますが、そんな人は、成長に乏しい意味のない人生だったことに気付いて愕然とします。



今度は成長すると誓って、再び地上に生まれて来ることになるでしょう。

成長するためには、大切なものを自分で見い出さなければいけません。

見い出すための出来事が組み込まれた人生のシナリオが立案され、相応しい環境に生まれることになります。



当初は、前生と何も変わっていません。

再び地上的なものを追い求めることになりますが、多くを手に入れ有頂天になっている時に因果律が作動して、予定されていた出来事が起こります。

その出来事は病気かもしれません。

生命を脅かすような病気になれば、これまで必死に追い求めていたものは何の役にも立たず、意味がないことに気付きます。

不安や孤独に襲われている時に、勇気付けられたり、励まされたら、生きる力が湧いて来るでしょう。

心身が弱っている時に、優しく介抱してもらえれば心が安らぎます。

経験を通して、大切なものに気付くことになります。



病気になり、生き方が大きく変わった人がいます。

そんな人は、魂が目覚めて、目に視えない大切なものに気付いたと思います。

病気になって大切なものに気付いたのではなく、大切なものに気付くために病気になったと考えられます。

最悪のタイミングで最悪の出来事が起きたように見えて、霊的には最善のタイミングで最善の出来事が起きています。



物語の1つの章を読んだだけでは、内容を理解することはできません。

前の章から通して読んで、初めて内容を理解することができます。

私たちが認識しているのは、物心がついてから現在までの自分です。

このわずかな期間で全てを判断しようとするのは、1つの章だけを読んで物語全体を理解しようとするのと同じです。




偶然としか思えない出来事は、生まれる前に原因(目的)があったのかもしれません。

原因が判った方が納得しますが、死後の生が証明されないのと同じで、成長にとって有益でないために、知らされないと考えられます。

たとえ知らされたとしても、自尊心が傷つけられるのを嫌い、都合の良いことしか信じないのであれば、受け入れるのは困難です。



霊的に大切なことは、頭で理解するものではありません。

魂にまで響く出来事を経験して、魂が得心するものであり、そこから新たな成長が始まります。

そして、この世の先に待ち受けている世界で活かされることになります。







2022年11月6日日曜日

あの世で成長するために


自分の想いを伝える時はどうしているのでしょうか?

当たり前ですが、言葉にして相手に伝えています。

霊界に行くと、肉体はなくなります。

思念(想い)は言葉と言う媒体を介さずに、直接魂に伝わるようになります。

地上は、精神と肉体を働かせて、自分の想いを言葉に変換しなければいけない、煩わしい世界なのです。




人から発せられる言葉の本質は、言葉そのものではありません。

そこに内在している概念や想いです。




人間も全く同じです。

人間の本質は、目に視える肉体そのものではなく、内在している魂です。



地上に生まれた目的は、魂(自分)を成長させるためです。

困難や障害を乗り越えて行くことで、魂は成長して行きます。



地上の人生には、魂を成長させるためのおよそのシナリオがあります。

それに沿って出来事が起こりますが、その多くは苦しみや悲しみを伴います。


普段、運動をしていない人が10キロを走るとどうなるでしょう?

疲労困憊してしまい、途中であきらめてしまうかもしれません。

それでも、毎日走っていれば、走れるようになると思います。

筋力や心肺機能や持久力が増して、身体が変わって来るからです。



苦しみもそうかもしれません。

苦しみは心で感じています。

苦しみは魂に働きかけ、内面の変化を促しています。

自分の中で何かが変わると、苦しみが和らぐと思います。



変わる力が、感情に転化されてしまう時があります。

病気になり、自分の運命を呪ったりすると、変わることができずに、苦しみが続いてしまうかもしれません。

自分が変わるために、病気になった可能性があります。

言葉にできない何かに気付いて、自分が変わった時に、病気が癒されているかもしれません。

変わった時に、その出来事を乗り越えているのかもしれません。



人はなぜ、苦しみを乗り越えて行かなければならないのでしょうか?

私たちの本来の住処は霊界です。

そこは思念の世界です。

地上のような苦難や障害が取り払われていて、自分のペースでゆっくりと歩んで行けます。



一方、地上ではさまざまな出来事が起きます。

歩くわけには行かなくなり、全力で走らなければならない時もあります。

肉体の鍛錬になるのは、歩くよりも走る方です。

それと同じで、肉体的、精神的に負荷がかかる地上の方が、魂を鍛錬するのに適しています。

苦難や障害はつらいものです。

逃げたくなる気持ちを抑えて、もがき苦しむ中で、少しずつ魂は強くなって行きます。



何かをやろうとする時に意志が必要なのは、地上も霊界も変わりありません。

ただ、地上では、実行するには肉体的、精神的労力を必要とし、危険も伴います。

たとえば、人が溺れていたとします。

助けるためには、肉体を使って行動しなければならず、自分が溺れてしまう怖れもあります。

それに打ち克ち、助けるためには、相応の意志が必要となります。

地上ではさまざまな出来事に遭遇しますが、それに対処して行くことで、少しずつ意志が強くなって行くと考えられます。



霊界では、地上的な苦難や障害が取り払われています。

そこで成長して行くためには、他者に愛を表現しなければいけません。

霊界において意志とは表現そのものです。

どんなに愛を秘めた魂であっても、意志がなければ表現されず、成長は叶いません。

魂を鍛錬して、意志を培うのも、地上に生まれる目的の1つと考えられます。



霊界で行われていることは、ヒーリングをする時に実感できます。

ヒーリングの力を伝えるには、初めに意志のようなものが必要です。

自分の意志によりつながりが生じます。

そのつながりを通して力が伝わります。

相手のことを想う気持ち(意志)が強いほど、流れる力も強くなるように感じられます。



奉仕することで霊性が高められます。

苦難や障害を乗り越えることで意志が強くなります。

地上でさまざま経験をして霊界に戻ると、より高く、強い愛を表現できるようになっています。



つらかった経験ほど、自分を大きく成長させていたことに気付きます。

全てが報われていることを知り、背後に感じる途轍もなく大きな存在に、思わず感謝するでしょう。


Arp248  出典NASA