「神はサイコロを振らない」
これは相対性理論を発見したアインシュタインの言葉です。
起きている現象に偶然はないという意味です。
生まれて来たのも死ぬのも、偶然ではありません。
どちらも自然現象であり、何らかの自然法則が働いた結果です。
それぞれの目的(原因)があって、人は生まれて来ます。
目的の根幹にあるのは、魂の成長です。
困難や障害を乗り越えること、他者のために何かをすることで、魂は成長して行きます。
それぞれの目的(原因)に対し自然法則(因果律)が働いて、困難や障害を伴う出来事が起き、奉仕の機会が訪れます。
偶然としか思えないのは、自然法則の働きが分からないからです。
魂の成長とは、霊性を高めることです。
より高い次元の愛を表現するようになることです。
自分を愛する、これは自己保存的な欲求です。
肉体を持つ地上の人には、多かれ少なかれ誰にもあります。
幼い時は、自分が中心です。
学校に入る頃に、少しずつ変わって行きます。
わがままを言うと、咎められたり、仲間外れにされます。
苦痛を覚えて、いけないことに気付き、周りのことを考えるようになります。
大人になると、社会のために働くようになります。
そして、結婚すると配偶者のために何かをしなければいけません。
子供ができれば、育てなければいけなくなります。
自分から他者へと意識が向き、少しずつ他者のためにしなければいけないことが増えて行きます。
他者を愛するのは、簡単なことではありません。
自分を愛する欲求を犠牲にしなければならないからです。
夕方の電車の中で、お年寄りが前に立つと、仕事で疲れていても席を譲る人がいます。
それも自分を犠牲にする行為であり、ささやかな愛を表現していることになります。
その時、ささやかな悦びが感じられます。
生活して行くために、仕事をしなければいけません。
家族のために、家事をしなければいけません。
その中に、役に立つ悦びが感じられることがあります。
人は他者のために何かをすると、自然法則の働きによって、悦びが感じられるようになっています。
その悦びは霊的なものです。
好きな物を買ったり、旅行へ行ったり、お金を通して得られる地上的な悦びとは、次元が違うものです。
自分の中にいる神が悦んでいます。
誰しも苦痛を感じたくありません。
悦びを感じたいものです。
さまざまな行動をして、その結果から生じる悦びと苦痛を通して、人は自然法則の働きを学んでいます。
そして、最終的に悦びを感じる方向に進んで行くようになります。
その方向に進んで行くことによって、人は成長して行きます。
地上では、さまざまな人間が一緒に暮らしています。
考えや価値観が違う人間と接すればいさかいが起きる可能性があります。
そうならないためには、相手のことを認めなければいけません。
過ちを許さなければいけません。
その時、自分の欲求を抑えているので、間接的に他者に愛を表現していることになります。
アウシュビッツ強制収容所に入れられた人たちは、1日に1枚のパンしか与えられなったそうです。
たった1枚のパンを、お腹を空かせた子供たちに分けてしまう人がいたそうです。
自分を犠牲にして、他者に愛を表現しているのですが、なかなかできることではありません。
「汝の敵を愛せよ」と、イエス・キリストは言いました。
罪を着せられ、十字架にかけられてローマ兵から容赦なく鞭を打たれましたが、憎むではなく、敵が赦されるように祈りました。
どれだけの経験をしたら、このような境地に至るのかわかりませんが、これ以上次元の高い愛の表現はないのかもしれません。
死んだら本来の住処に戻ります。
そこは思念の世界です。
同じような思念を放っている魂が、親和力により集まって生活をしています。
肉体がなくなり五感は消失します。
霊的な感覚しかないので、人の思念が分かるようになります。
魂が剥き出しになる世界です。
霊界には無限の界層が存在します。
高い界層にいる魂ほど霊性が高く、高い次元の愛を表現しています。
高い界層にいる魂が、低い界層にいる魂たちのために現れることがあるようですが、表現している愛により、霊性の高さがわかるようです。
高い次元の愛を表現して、悦びに満たされている姿を見ると、自分も成長して同じような悦びを感じたいと思うようになるのかもしれません。
愛は光輝であり、霊界では視えるものです。
魂で感じられるものです。
愛が視えなくなり、感じにくくなる地上に生まれるのは、さまざまな出来事を経験し、そこから生じる悦びや悲しみや苦しみを通して、1番大切なものは何かを改めて見い出し、魂にしっかりと刻み込むためです。
愛によって1つになって行く、それが神の目的と考えています。
その目的を達成するために、より次元の高い愛を表現する方向に導かれています。