2022年10月30日日曜日

1番大切なもの


「神はサイコロを振らない」

これは相対性理論を発見したアインシュタインの言葉です。

起きている現象に偶然はないという意味です。



生まれて来たのも死ぬのも、偶然ではありません。

どちらも自然現象であり、何らかの自然法則が働いた結果です。



それぞれの目的(原因)があって、人は生まれて来ます。

目的の根幹にあるのは、魂の成長です。



困難や障害を乗り越えること、他者のために何かをすることで、魂は成長して行きます。

それぞれの目的(原因)に対し自然法則(因果律)が働いて、困難や障害を伴う出来事が起き、奉仕の機会が訪れます。

偶然としか思えないのは、自然法則の働きが分からないからです。



魂の成長とは、霊性を高めることです。

より高い次元の愛を表現するようになることです。



自分を愛する、これは自己保存的な欲求です。

肉体を持つ地上の人には、多かれ少なかれ誰にもあります。

幼い時は、自分が中心です。

学校に入る頃に、少しずつ変わって行きます。

わがままを言うと、咎められたり、仲間外れにされます。

苦痛を覚えて、いけないことに気付き、周りのことを考えるようになります。



大人になると、社会のために働くようになります。

そして、結婚すると配偶者のために何かをしなければいけません。

子供ができれば、育てなければいけなくなります。

自分から他者へと意識が向き、少しずつ他者のためにしなければいけないことが増えて行きます。



他者を愛するのは、簡単なことではありません。

自分を愛する欲求を犠牲にしなければならないからです。



夕方の電車の中で、お年寄りが前に立つと、仕事で疲れていても席を譲る人がいます。

それも自分を犠牲にする行為であり、ささやかな愛を表現していることになります。

その時、ささやかな悦びが感じられます。



生活して行くために、仕事をしなければいけません。

家族のために、家事をしなければいけません。

その中に、役に立つ悦びが感じられることがあります。

人は他者のために何かをすると、自然法則の働きによって、悦びが感じられるようになっています。



その悦びは霊的なものです。

好きな物を買ったり、旅行へ行ったり、お金を通して得られる地上的な悦びとは、次元が違うものです。

自分の中にいる神が悦んでいます。



誰しも苦痛を感じたくありません。

悦びを感じたいものです。

さまざまな行動をして、その結果から生じる悦びと苦痛を通して、人は自然法則の働きを学んでいます。

そして、最終的に悦びを感じる方向に進んで行くようになります。

その方向に進んで行くことによって、人は成長して行きます。



地上では、さまざまな人間が一緒に暮らしています。

考えや価値観が違う人間と接すればいさかいが起きる可能性があります。

そうならないためには、相手のことを認めなければいけません。

過ちを許さなければいけません。

その時、自分の欲求を抑えているので、間接的に他者に愛を表現していることになります。



アウシュビッツ強制収容所に入れられた人たちは、1日に1枚のパンしか与えられなったそうです。

たった1枚のパンを、お腹を空かせた子供たちに分けてしまう人がいたそうです。

自分を犠牲にして、他者に愛を表現しているのですが、なかなかできることではありません。



「汝の敵を愛せよ」と、イエス・キリストは言いました。

罪を着せられ、十字架にかけられてローマ兵から容赦なく鞭を打たれましたが、憎むではなく、敵が赦されるように祈りました。

どれだけの経験をしたら、このような境地に至るのかわかりませんが、これ以上次元の高い愛の表現はないのかもしれません。



死んだら本来の住処に戻ります。

そこは思念の世界です。

同じような思念を放っている魂が、親和力により集まって生活をしています。



肉体がなくなり五感は消失します。

霊的な感覚しかないので、人の思念が分かるようになります。

魂が剥き出しになる世界です。



霊界には無限の界層が存在します。

高い界層にいる魂ほど霊性が高く、高い次元の愛を表現しています。

高い界層にいる魂が、低い界層にいる魂たちのために現れることがあるようですが、表現している愛により、霊性の高さがわかるようです。

高い次元の愛を表現して、悦びに満たされている姿を見ると、自分も成長して同じような悦びを感じたいと思うようになるのかもしれません。



愛は光輝であり、霊界では視えるものです。

魂で感じられるものです。

愛が視えなくなり、感じにくくなる地上に生まれるのは、さまざまな出来事を経験し、そこから生じる悦びや悲しみや苦しみを通して、1番大切なものは何かを改めて見い出し、魂にしっかりと刻み込むためです。



愛によって1つになって行く、それが神の目的と考えています。

その目的を達成するために、より次元の高い愛を表現する方向に導かれています。






2022年10月23日日曜日

なぜ地上に生まれるのか


生命は永遠です。

そうは言われても、物心ついてから今までの自分しか知らないので、俄かには信じられない人がほとんどです。

過去にも地上を生きた経験があるのですが、その時の記憶は、理由があって思い出せないようになっています。



死んだ後も、生命の本質である魂は存続しています。

そして、必要であれば、何度でも生まれて来ます。

地上でしか、経験できないことがあるからです。



地上と霊界の違いは、大きく2つあります。

1つは肉体があること。

もう1つは、様々な人たちと同一平面で暮らすことです。



肉体があるので、食べて行くために、働かなければいけません。

霊界に行くと肉体はなくなり、働かなくても生きて行けます。

何もしない、あるいは自分の好きなことだけをしていれば良いのですが、それでは成長することができません。

神の心である「愛」を表現していることにならないからです。

誰かのために何かをすることで、人は成長するようになっています。



地上に生まれるのは、誰かのために何かをする中で、役に立つ悦びを見い出すためです。

何もしなくても生きて行ける霊界では、奉仕をすることに悦びを見い出さない限り、成長することができません。



霊界に行くと、周りには自分と似通った人しかいません。

性格、考え方、価値観はほとんど同じです。

争いのない平和な世界です。



一方、地上では自分と違う人たちと一緒に暮らさなければいけません。

そのために、いさかいが起きやすくなります。

平和に暮らすためには、お互いの違いを認め合い、許し合うことが求められます。

地上でしかできない経験を通して、奉仕をする悦びを見い出し、平和に暮らす術を学んでいます。



成長したくなければ、地上に生まれて来ることはありません。

立案された計画に従って、さまざまな経験をすることになります。

苦しみや痛みや悲しみを感じながら、私たちは大切なことを学んでいます。

そして、決められた時(寿命)が来たら地上を去ります。



しばらくして、地上でどれだけ学び、成長できたのかを検証する時が来ます。

予定されていた成長ができたのであれば、悦ぶでしょう。

できなかったのであれば、悔しがるでしょう。

自我に負けて、霊的な罪を作ってしまったのであれば、愕然とするでしょう。



私たちは、永遠に成長して行く存在です。

予定された成長ができた人は、さらに成長しようと思います。

できなかった人は、今度は達成しようと思います。

罪を作ってしまった人は、早く償いたいと思います。



それぞれの目的に合わせた地上の人生が立案されます。

それを了承し、相応しい環境に再び生まれることになります。



いざ生まれてしまうと、目的のことなどすっかり忘れてしまいます。

忘れてしまう地上の人のために、守護霊が付いています。

インスピレーションを送って、目的を達成させるように導いています。

地上の人はインスピレーションを受け取ると、導こうとしている方向に進んで行きたくなる衝動を覚えます。



死んだ後に、地上を検証する時が来ます。

目的が達成できたのであれば、深く満足するでしょう。

前生で達成できなかったことが、今度はできたのであれば安堵するでしょう。

償いが済んだ人は、再び成長して行くことができるようになります。



どれくらい経ってからでしょうか、自分に足りない部分、未熟な部分が強烈に意識されるようになります。

その部分を、何とかしたいと言う願望が生まれます。

その願望を叶えるための人生が立案されて、再び地上に生まれて来ます。

このようにして、地上と霊界の行き来を繰り返しながら、人は成長して行きます。



大学生に足し算を解かせても意味はありません。

どうにか解けるくらいの難しい問題が与えられて、初めて実力を発揮することができます。

神の叡智は完璧です。

成長の度合いに合わせて、たとえぎりぎりであったとしても乗り越えて行ける人生が立案されます。

成長した魂ほど、克服するべき困難や障害が多い人生となるのは当然と言えます。



ヘレン・ケラー女史は3重苦でした。

生きて行くだけでも大変な状況なのに、苦労して学問を修めました。

その後の人生を、社会福祉や人権活動に捧げました。

想像を絶する障害を克服し、人や社会のために生きた、極めて成長した魂と考えられます。

もし、生まれる前にこのシナリオを提示されたのなら、ほとんどの人はしり込みをしてしまうでしょう。

生前、彼女はこんなことを言っていました。

「真の知識を得ようと望むものは、誰でも艱難(かんなん)の山を一人で登らなければならず、頂上への王道がない以上、私は曲がりくねりながら登らねばならぬことに気付いたのです。」



ある施設に、重い身体障がいでベッドの上で身じろぎもせず、1点を見つめながら過ごしている人がいました。

カルマがあったので、このような肉体に宿ったのだろうと考える人もいるでしょうが、私にはそう思えませんでした。



肉体は動かせなくても、自分に起きていることを認識しています。

どんなに酷いことをされても、抵抗できません。

苦しくても、痛くても訴えることはできないので、耐え忍ぶしかありません。

自分に起きることを、ただ受け入れるしかありません

自由を奪われ、自己表現できずに一生を終える、これほど難易度の高い人生はありません。



1人では数日も生きられません。

生涯に渡って人に助けられて生きることになれば、他者への感謝の想いは計り知れないものになると想像されます。

蓄積された感謝の想いは、霊界で誰かのために何かをしようとする強い意志に変わるでしょう。

地上で得られたものは、本来の住処である霊界で活かされることになります。



経験なしに、学びは得られません。

苦難は地上では不幸と呼ばれて、忌み嫌われます。

けれども、死んで霊的な眼が見開かれると、見方が一変します。

苦しい経験ほど、より魂を成長させています。

それにより、神の公正は完全に保たれています。



何回も生まれ、さまざまな経験を積み重ねながら、難しい人生に挑戦して、地上で学ぶことがなくなった魂は、霊界において自律的に向上進化して行けるようになります。








2022年10月16日日曜日

今を生きるために


「人生の秘訣は今を大切に生きることです。明日を思い煩ってはいけません。」

シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。



「今を大切に生きる」解釈はいろいろあるでしょう。

私は、過去や未来に捉われないで生きることだと思っています。



けれども、これがなかなか難しいと感じています。

あの時こうしておけば良かったと、過去を振り返り、悔やむ時があります。

ただ、良く考えてみると、その通りにしていたら、どうなっていたのかは判りません。

誰にも判らないことを、悔やんでみても仕方がありません。



悔やむだけでなく、怒りもそうです。

例えば、ある人から仕打ちを受けて、怒りを感じたとします。

その人の自由意志によるもので、自然法則に反している行為であれば、自分が苦しんだ分、その人も苦しむことになります。

もしかしたら、忘れている、あるいは気付いていないだけで、過去の自分の言動に原因があり、時を経て返って来ているのかもしれません。

どちらにしても、因果律の働きにより、全てが公正に解決されて行きます。

そう考えると、怒っても仕方がないような気がします。



悔いや怒りを感じているのは、過去に起きたことに対してです。

それらの感情に捉われている時、今ではなく過去に生きていることになります。

割り切ることができないのが人間ですが、できれば捉われたくはありません。



この人生で終わりではありません。

死んだ後、この世とは全く違う世界で生きることになります。

そして、目的があって、また地上に生まれて来ます。

果てしなく続く生命の営みの中で、この人生の、この場面で、この決断をして、この経験をすることが、学びや成長あるい償いのために、予め決められていたのかもしれまんせん。



私たちは、この人生の過ぎ去った部分しか認識できません。

従って、全体から起きたことを評価することができません。

一部分で評価してしまうために、さまざまな感情に捉われることになります。



過去に起きたことを変えることはできません。

難しいでしょうが、感情に捉われないためには、自分が変らなければいけません。

捉われていなければ、過去に生きていることにはなりません。



未来に対してもそうです。

心配や不安や怖れは、未来を想像することで生じます。

頭の中で想像したものには、実体などありません。

実体がないものに、感情を抱いても全く意味がありません。



考えたり、思ったりすることができるのは1つです。

悔いや怒りや心配や不安などの感情に捉われてしまうと、今をどう生きれば良いのかを考えられなくなってしまいます。



何もしていないと、過去や未来に意識が向かい、感情に捉われてしまいがちです。

目の前にあることをする、あるいは考えることで、意識は今に向かいます。

難しいことではありません。

散歩をする、深呼吸をする、何でも良いです。

自分の意志で、何かをしていれば、今を生きていることになります。



ただし、過去や未来のことを考えながらするのでは意味がありません。

心の中を空っぽにして、目の前にあることだけに集中をしなければいけません。

何かをしていれば、心に余分な感情が入る隙間がなくなります。



仕事に集中していたり、趣味に没頭していると、感情から解放される時があります。

歌を唄う、本を読む、料理をする、また食べるのもそうです。

重要なのは無心になってすることです。

そうすれば、今を生きていることになります。



羊の数を数えると、眠れると言われるのは、他のことが考えられないようになるからです。

能動的に何かをするしかありません。

自分の意志が存在していないと、感情に捉われてしまいます。



過去や未来のことに心が奪われてしまうのは、限られた地上の人生で無駄な時間を費やしていることになります。

起きたことから生じる感情に捉われているのは苦しいものです。

苦しみは、自分を変えるために、神が与えた触媒と考えられます。

捉われない自分に変わるように促されています。



死んだ後に赴く世界は、地上のような時間はなく、永遠の現在と言われています。

地上で表現していた自我もなくなり、ありのままの自分でしかいられません。

例えば、醜い心を抱くと、それが瞬時に容貌全体に現れて、結果として霊格が下がるのが分かるそうです。

原因が生じれば、結果がすぐに現れるので、地上のような時間の経過がないと考えられます。

すぐに結果が出るので、過去を悔いることも、未来を心配することもないと考えられます。



今を生きるように努めなければならないのは地上だけです。

過去や未来のことから生じる感情に捉われないために、自分の意志で何かをしなければいけないのは、地上での大切な修練と考えられます。



次の世界は思念が全てです。

何もしなくても生きて行ける世界において、最も重要なのは意志(思念)です。

意志がなければ活動はなく、活動がなければ成長はありません。

地上でのさまざまな経験を通して、私たちは意志を強くしていると考えられます。



小学生の息子さんを、交通事故で亡くされたご両親がいました。

道路を渡っている時に、車にはねられてしまいました。

小さかったので「横断禁止」と漢字で書かれた標識の意味が分からなかったそうです。

ご両親は、小さな子供でも分かるような標識に変える運動を始めました。

それが実を結び、全国の道路標識にひらがなで「わたるな」が加えられました。



身が引き裂かれるような悲しみや苦しみを感じていたでしょう。

交通事故で亡くなる子供、自分と同じ様な思いをする家族がいなくなって欲しいと言う強い意志がありました。

その意志により、苦しめられていた感情から少なからず解放されていたと考えられます。



最高の意志とは他者を愛することです。

他者を思いやることで、神からの愛をご両親は受け取り、魂は癒されていたと思います。

過去から解放されるためには、意志を持って今を生きるしかありません。





2022年10月9日日曜日

あの世で役に立つために


空が一層高くなり、秋が深まって来ました。

私は今、60歳なので、1番好きな季節である秋を経験できるのは、あと何回でしょうか。



その後に待っているのは、四季のない世界です。

そう言うと、変化に乏しい、単調な世界のように聞こえますが、そんなことはありません。

地上のどんな景色よりも素晴らしい、生命力の輝きに満ち溢れた世界が広がっているはずです。



肉体は年と共に衰えて行きます。

頭の回転は遅くなり、物覚えも悪くなります。

けれども、解決するべき問題が生じないわけではありません。



次の世界に行くと、肉体はなくなります。

食べる必要がなくなり、働く必要もありません。

人間関係の煩わしさから解放され、肉体の老いや病気の苦しみもありません。

この世から見れば夢のような快適な世界です。

そのことを知っているので、早く行きたいと思う時がありますが、寿命が来る時まで生きなければいけません。


あたたかい日差しを浴びながら、気持ち良さそうに日向ぼっこをしている猫を見ていると、微笑ましく、羨ましいなと感じる時があります。

それでも、1日中日向ぼっこをしていれば、退屈してしまいます。

何十日も続けるとしたら、きっと苦痛になるでしょう。



私たちは、神(全体)から生命力を受け取って生きています。

生命力は活動するために与えられているので、何もしないでいると苦痛のようなものを覚えます。

牢獄にいるのが罪の償いになるのは、そのためだと思います。



あの世に行くと、何もしなくても生きて行けます。

自分の好きなことが、いくらでもできます。



日向ぼっこと同じで、何もしないでいると、あの世でも退屈を感じてしまうと思います。

かと言って、好きなことばかりをしていても、何か物足りなさを感じようになると思います。



生きる目的は自分を成長させるためです。

困難や障害を乗り越えて行くことで成長します。

何も心配することもなく、好きなことだけ出来る次の世界はとても居心地が良いのですが、その分、成長がしにくくなります。



人には成長しようとする欲求があります。

成長が乏しい状態が続くと、ある種の苦痛を感じるようになると考えられます。

そこで、大きく成長できる、この世に生まれることを志願するようになります。

成長を期待できる、困難や障害を乗り越えて行く人生が立案され、それを了承して、最適な環境の母体に宿ります。



地上で生活するために、何かをしなければいけません。

生活するためにはお金が必要であり、そのために働かなければいけません。

結婚したり、子供が生まれると、自分以外の者のために、何かをしなければいけなくなります。




誰かのために何かをすること、奉仕をすることで、人は成長します。

地上でしかできない経験を通して、誰かのために何かをする習慣を身に付けています。

身に付けた習慣は、次の世界で活かされます。

自分以外のために何かをしなければいけない地上の経験は、何もしなくても生きて行ける次の世界において、より自然に奉仕ができるようになります。

自律的に成長して行けるような習慣を、地上で身に付けています。



子供の時、自分のことしか考えないで行動すると、友達から反発されたり、仲間外れにされたりします。

自分のことしか考えない人だけが集まったら、調和は生まれず、時に争いが起こります。

他者のことを思いやる人だけが集まったら、調和が生まれ、争いは起きません。

これらは自然法則の働きによるものであり、地上にしかない経験をしながら、他者のことを思いやる気持ち、神の心を学んでいます。



次の世界には完全なヒエラルキーが存在します。

地上ではお金や権力がある人が上に立つことが多いのですが、次の世界では消えてなくなります。

持っていけるのは自分の魂だけです。

霊性の高い人ほど、他者へ愛を表現できる人ほど、自然法則の働きによって上の世界に行きます。

水は上から下へと流れます。

上にいる者が下にいる者を思いやることで、神の愛が全体に行き渡るようになっています。



人には、上の世界に行きたい欲求があります。

そうでなければ、地上には生まれて来ないでしょう。

地上でしか経験できない、苦しみや悲しみの出来事を通して、魂は成長して行きます。

より高く、強い愛を表現できるようになった魂は、生まれる前よりも上の界層に行くことになります。

役に立つことに、より悦びを感じられるようになっています。




写真3 <a href="https://jp.freepik.com/free-photo/_2760681.htm#page=3&query=%E5%AE%B6%E4%BA%8B&position=20&from_view=search&track=sph">著作者:rawpixel.com</a>/出典:Freepik

2022年10月2日日曜日

真理を伝えるために



世界には、信じられない制度が今もあります。

インドのカーストです。

カーストとはヒンズー教の身分制度であり、昔ほどではありませんが、農村部を中心に根強く残っています。

カーストがあるために起こる事件には、いつも胸を痛めます。

先日も10代の女の子がレイプされて、生きたまま焼き殺されたそうです。

この女の子はカーストに入らない、「不可触民(ダリット)」と呼ばれる最下層に属していました。

また、ダリットに属するある若者が、カーストの上位にいる人たちの前で食事をしたというだけで殺されたそうです。

インドではこのような事件が、度々起きています。

こんな凄惨な事件が起きても、警察はまともに取り合ってくれないそうです。




約3000年前に作られた制度が、今も脈々と受け継がれています。

詳細はわかりませんが、作った人間にとって都合が良い制度だったと思います。

上位にいる者の既得権益は守られ、下位の者を服従させるための理由付けになっています。




ヒンズー教では輪廻転生の考えがあります。

それを逆手にとって、事件を起こした加害者は、こんな信じられないことを言います。

「被害者は前世の行いが良くなかったのでダリットとして生まれることになった。罪深い人間なので、このような仕打ちを受けて当然だ。」




カーストの最上位にいるのがバラモンです。

バラモンとは司祭階級の人たちであり、いわば宗教家です。

宇宙の真理に精通した人とされています。




もし宇宙の真理に精通しているのであれば、制度や階級は地上だけのものであり、必要のないものと判っているはずです。

即刻、廃止をして、真理に反した蛮行は止めるように働きかけるはずです。

そうしようとしないのは、制度があった方が自分に都合が良いからではないかと考えてしまいます。




日本では仏教が普及しています。

私も親しみを感じていますが、何を1番伝えたいのかが、未だにわかっていません。

伝えることよりも、儀式の方が大切になっているような気がします。

死後の世界に精通しているのなら、戒名は全く不要で、お墓もそれほど重要なものでないことが分かっているはずです。

「故人の魂は生きていて見守っています」と、遺族に伝えてやる方が、よっぽど大切だと思います。




ロシアはキリスト教国家です。

自国のウクライナの侵攻をどう思っていたのでしょうか?

ロシア正教のトップは、プーチン大統領と親密な関係にあり、侵攻を支持しています。

少し前に「侵攻で戦死した人の全ての罪は清められる」と言っていました。

たしなめるべき人が、権力に迎合してしまったようで、哀れみを感じます。




人は苦しい時に救いを求めます。

しかし、求めて辿り着いた宗教が間違ったことを教えていれば、害悪になります。

1度洗脳されてしまえば、そこから抜け出すのは極めて困難です。




あの世は存在しているのか?

生きる目的は何なのか?

そこが宗教の核心だと思います。

ドグマ(教義)で塗り固められて、真理が見えなくなってしまった、宗教に携わる人たちを、霊界の人たちは見限っていると考えられます。




本来、宗教など必要ありません。

自分自身が神の一部です。

本気で望むなら、自分(魂)の中に仕舞われている真理を見つけることができます。




人生のどこかで、1度は魂が目覚める機会が訪れると言われています。

深刻な病気になった時、大切な人を失った時、あるいは絶体絶命の窮地に陥った時がその好機と考えられます。

その時、強力にアシストするのが霊能者の役目です。

眠っている魂に、霊力を吹き込み、目覚めさせます。

目覚めた後に、受け入れられるのが真理です。

しかし、肝心の真理を知らない霊能者が多いため、せっかくの機会を逸してしまい、霊界も嘆いていると思います。




真理の根幹をなすのは「因果律」です。

因果律の働きを知らない人が権力を振りかざして、愚行を重ねています。

動機が自然法則に適っていなければ、最終的に頓挫します。

力でねじ伏せようとしたら、力によりねじ伏せられます。




自分が想ったこと、言ったこと、行ったこと、全てに因果律が働いています。

過ちを犯したら、苦痛によって償わなければいけません。

高い立場にいて、影響力の大きい人ほど、功罪は大きなものとなるので、真理を知っておかなければいけないのですが、残念ながら全く知らないようです。




ところが、霊的なことを教える立場にいる人の多くが真理を知りません。

そのために、宗教を介さないで、直接、1人1人に真理が伝えられるように方向転換されたと考えられます。




戦争、虐待、貧困、差別など、心を痛める出来事の多くは、霊的無知から起きています。

宗教とは関係ない真理を知っている者への期待は、想像している以上に大きいかもしれません。

同時に、責任も重いのかもしれません。




必要としている人が、いかにしたら真理に辿りつけるのかが重要な問題です。

多くの人は自分に必要な知識をインターネットで見つけようとします。

さまざま情報が錯綜する中で、何が正しいのか判らないのが実情だと思います。




人には正しいもの、間違っているものを判別する直感的な能力が備わっていると思います。

背後霊も、真理に辿り着くように導いています。

辿り着いたら、これだと思わせるようなインスピレーションを送り、素通りさせないようにしていると思います。




ホームページ、ブログ、ツイッター、インスタグラム、なんでも良いので、伝えるための受け皿を作っておく必要があると思います。

内容ですが、初めはプロフィールで、次に霊的真理に辿り着くまでの軌跡でも良いと思います。

何よりも必要なのは、伝えたいと言う想いです。

その想いに霊界が感応して、インスピレーションを送ってくれると思います。

頭の中に浮かんで来たものを文字にして行けば良いと思います。

文字にしたものを、霊的真理に照らし合わせて、正しいと判断したのなら、アップすれば良いと思います。





霊界の人たちは、真理を必要としている人、受け入れる時期が来た人が判っています。

真理を伝えようとしている、地上の人も判っています。

両者をつなぐために、あらゆる可能性を模索していると考えられます。

受け皿が増えることで、必要としている人は見つけやすくなり、つながる確率が高くなります。

それによって、真理に辿り着く人が増えます。

伝えようとする人が現れなければ、霊界は導きようがありません。




それとは別に、自分の生活圏にいる人で、真理を求めていると思われる人がいたら、積極的に伝えて行きたいです。

必要なかったとしても、その後の人生で必要な時が来たら、連絡があるかもしれません。




霊的真理の実践で最も大切なことは、まだ知らない人に真理を伝えることだと思います。

伝えようとする人が、真理に適う生き方をしているほど、説得力があります。




必要としている人がたくさんいるのに、真理を伝えられる人があまりに少ないことを、霊界は憂いていると思います。

伝えられるように祈れば、霊界の計らいにより、その機会が必ず訪れます。

その時のために、自分の受け皿を準備しておきましょう。




繰り返しになりますが、霊的な知識の深さよりも、真理を伝えたい、真理で救ってやりたいという想いの強さの方が大切です。

それさえあれば、あとは霊界が何とかしてくれます。