2022年7月31日日曜日

後悔をしないために


「何のために生きているのだろう?」

若い時に、自分に問いかける時がありました。

慌ただしく生きて行く中で、そんなことなど考えなくなりました。

17年前に人生を変えるような出来事が起こりました。

そして、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)に出会いました.

その本の中に、若い時の問いに対する答えを見つけました。



私たちは、肉体を失っても生き続けます。

これは変えようのない事実です。

生きている目的は、地上でしか経験できないことを経験し、そこから大切な教訓を学び、成長するためです。

そのために、地上ではさまざまな出来事が起きるようになっています。



出来事が起きると、自分なりに対応します。

けれども、後になって「こうすれば良かった」「あんなことをしなければ良かった」と思うことも少なくありません。

人は皆、後悔のない人生を送ろうと思っていますが、後悔するような行動を取ってしまいます。

そんな未熟なところがあるからこそ、この世に生まれて来ているのかもしれません。


後悔しないように生きるのには、どうすれば良いのでしょうか?

自分に正直に生きることが大切と考えられます。



自分に正直に生きるとは、どういうことなのでしょうか?

心の奥から発せられている「本当の自分の声」に従うことだと思います。



声と言っても耳で聴こえるものではありません。

心の奥底で湧き上がる「想い」あるいは「衝動」と言って良いのかもしれません。

良心も、その声の一部です。



自分の進むべき方向を、その声は指し示しています。

けれども、その方向は困難や障害やリスクを伴うことが多いです。



人間は、「魂」「精神」「肉体」の複合体です。

本当の自分の声は、魂から発せられています。

魂から生じている思念を、肉体で表現するための媒体として精神が存在しています。

精神上に、パーソナリティーと言える「地上的な自我」(以下自我)が形成されていると考えられます。



地上では本当の自分の声だけでなく、自我の声も聴こえます。

自我の声は、本当の自分の声とは違う方向に進んで行かせようとすることがあります。

それは、決まって安全で楽な方向です。

自我と肉体が密接な関係にあるため、自分の身を守ろうとする傾向があるからです。

「きっと上手く行かない」

「(上手く行かなかったら)恥をかくのでやめておこう」

そんなことを考えては、本当の自分の声に抗おうとする時があります。

自分に正直に生きようとするならば、そんな自我の声に負けないようにしなければいけません。



通勤の時、駅の階段でうずくまっていた人を見かけたとします。

心の中で「助けよう」と声がします。

その後に「関わっている暇はない」と声がします。

助けるのか、立ち去るのか、葛藤する時があります。



日常の生活でも、葛藤を感じる時があります。

先日も、他者の不利益になるかもしれない行動をしようとする自分に、それで良いのかと咎める声がしました。

その後に、もっともらしい言い訳を考えて、咎める声を打ち消そうとする声がしました。

初めにした(咎める)声に従うと、後戻りしなければいけません。

大変になりそうなので、後からした声の方に従いたくなりました。

それでも、初めにした声に素直に従いました。

後悔しなくて済んだので、それで良かったと思います。



自我が強くなり過ぎて、本当の自分の声が聴こえなくなっている時があります。(強くなり過ぎた自我をエゴと呼んでいるものかもしれません)

成長を妨げているのであれば、因果律が働いて、苦しみや痛みを伴う出来事が起きる可能性があります。

人によっては病気になり、苦痛を経験することになります。

苦痛によって魂が目覚め、本当の自分の声が聴こえるようになり、再び成長が始まる人もいるでしょう。



後悔しないためには、今を真剣に生きなければいけません。

しかしながら、人は過去や未来に捉われてしまいがちです。

過去は完全に閉じられていて、変えることはできせん。

考えてもどうしようもない過去のことを、つい考えてしまいます。

そして、どうなるのか分からない未来のことを予測しては、怖れや不安を抱いたりします。

それらの情動も、自我の働きによるものと考えられます。



過去や将来に捉われるのがいけないのは、今を生きる力が奪われてしまうからです。

私たちがどうにかすることができるのは、今しかありません。

今をどう生きるかによって、未来の自分が決まります。

過去や未来ではなく、今に意識を向ける不断の努力が必要です。



不安や怖れを克服して行くことは、地上に生まれた大きな目的の1つだと考えられます。

元にいた世界は、(地上的な)自我は存在しないので、不安や怖れが生じません。

聴こえるのは本当の自分の声だけです。

自分の意志がなければ、何も始まらない思念の世界です。

自我から生じているさまざまな想いを克服して行くことは、元いた世界に戻った時に、より強い意志を持って生きることにつながると考えられます。



今を強く生きるために、こう思うようにしています。

出来事に偶然はなく、目の前の事象は因果律の働きによって起きている。

学び成長するために起きているので、必ず乗り越えられる。





2022年7月24日日曜日

今の自分は過去の結果



随分前の話になりますが、郊外の見通しの良い直線道路を車で走っていた時のことです。

突如、1台の車が側面を向けながら目前に迫って来ました。

何が起きているのか分からないまま、かなりのスピードで衝突しました。

あまりの衝撃に気が動転しながらも、携帯電話で警察を呼びました。

車は大破しましたが、幸いなことに同乗者に大きなけがはありませんでした。

その場で現場検証が行われましたが、衝突した車は側道からそのまま合流するのではなく、Uターンをしてこちら側の車線に入りたかったようです。

違反をしてでも、こちら側の車線に入りたかった理由ですが、釜飯で有名なドライブインがあり、急に食べたくなったからだそうです。

事故のきっかけとなった原因は、拍子抜けするようなささいなことでした。



起きた事象には、必ず原因があります。

事故もそうですが、病気もそうです。

肝臓病になる人の中には、お酒の飲み過ぎが原因の人もいるでしょう。

胃潰瘍に人なる人の中には、精神的なストレスが原因の人もいます。

起きた事象は結果です。




電卓で「1+1」と入力すれば、瞬時に「2」と表示されます。

入力されたものが、計算式に従って、出力されています。

それと同じ様に、自分が行ったこと、言ったこと、想ったことは、自然法則に従って、機械的に結果が出されます。




ただし、地上では結果が表に現れるとは限りません。

お酒を飲んでも、直ぐに肝臓病になるわけではありませんが、原因と結果の間には閾値のようなものが存在していると考えています。

自然法則に反した行いをしても、ある程度の範囲内で物質的次元に結果(変化)が出ないようになっているのは、地上の人が未熟なためと考えています。




地上では、因果関係がはっきりと判らないことが多いです。

原因は五感によって認識できるものとは限らないからです。

人の想いが原因であれば、黙っていれば判りません。

原因が判らないと、偶然や運として片付けてしまう人もいるでしょう。

「何でこんなことになるんだ」と、不満や憤りをぶちまける人もいるかもしれません。




原因と結果の連鎖を繰り返しながら、人生は営まれています。

これまで生きて来た結果として、現在の自分がいます。




誰のせいでもありません。

自分でいくつものことを決めながら、これまで人生を歩んで来たはずです。

これからも、たくさんのことを決めて、その結果を享受しながら、生きて行くことになります。




死んだ後、この世の人生を総括する時が来ます。

生まれた時がスタートで、死ぬ時がゴールです。

自分で決めて来たことの全てが魂に刻まれています。

あの時、こんな想いになり、こうすると決めた。

その結果として、この事象が起きた。

その事象が起きて、こう想い、こう行動した。

その結果として、この事象が起きた。

地上では判らなかった因果関係がはっきりと判るようになります。

原因と結果の連鎖を繰り返しながら、次へとつながっているのが判ります。

スタートからゴールまでが一つながりになって、現在の自分に至っているのが判ります。

いくつものことを自分の意志で決めながら生きて来た姿を目の当たりにして、それまであった疑問や不満はなくなるはずです。




人は、およそのシナリオを決めて生まれて来ます。

自分に足りないところを補うため、自分の弱さを克服するために、オリジナルなシナリオが立案され、それを了承しています。

シナリオに沿って人生を歩むことで、予定された学びや成長を得ることができます。




そのことをすっかり忘れている地上の人のために、例外なく守護霊が付いています。

シナリオに沿った決断をするように、インスピレーションによって導いています。

しかし、最終的な意志決定は、あくまでも地上の人がすることになっています。

守護霊は干渉できません。

その理由は、自分の人生は、自分で責任を取るためと考えられます。




何の脈絡もなく、降って湧いたように出来事が起きることがあります。

奈落の底に突き落されるような出来事であれば、「何で自分が」と神を恨んだりする人もいるかもしれません。

そんな出来事であっても、自分で決めてきたことが、魂の成長にとって、最善のタイミングで起きている可能性があります。




過去生で作った原因が、因果律の働きにより、今生で結果となって現れている可能性もあります。

前に進んで行くために、その結果を耐え忍びながら生きることを、自分で決めて来たのかもしれません。

生まれる前に決めていたことならば、原因など見つけられるはずもありません。




冒頭の交通事故ですが、警察の見分では大けがをしていても、おかしくなかったそうです。

もし大けがをして、身体の自由を奪われてしまったとしたらどうでしょう。

私には、全く原因(過失)はありません。

その後の人生が、つらく苦しいものになれば、運命を呪いながら生きるようになるかもしれません。

そうなると、精神的な苦しさは、身体的なもの以上になってしまうでしょう。




身体的、精神的な苦しさが極みに達した時に、奥底に眠っていた魂が目覚めることになるかもしれません。

目覚めた魂が、苦しみから救ってくれる大切な真理を見つけるのかもしれません。

人生のシナリオから逸脱してしまい、予定されていた学びが得られなくても、それに代わる経験をすることによって、霊的に価値のあることを学び、成長が得られるようになっていると考えられます。

シルバーバーチが言う「埋め合わせの原理」とは、このようなことを言っているのかもしれません。




どんな出来事であっても、自然法則の働きによって起きているので、良きに計られています。

地上的なものを失っても、霊的なものを手に入れることで、公正は完全に保たれています。








2022年7月17日日曜日

奥底にある動機を問いながら行動する


先週の日曜は選挙に行ってきました。

国のために、一所懸命に働いてくれそうな人に投票しました。

私もそうですが、その人が何を語っているのか、何をして来たのかを参考にして選んでいる人は多いと思います。



しかし、地上はやっかいなところです。

語っていることと、想っていることが一致しない人がいます。

口では国民のためにと言っておきながら、実は権力やお金を手に入れたいために選挙に出る人もいます。



もし霊界で選挙があったのなら、そうは行きません。

自分の本当の想いが、光となって周囲に放たれるからです。

何を想っているのかが一目瞭然になります。

嘘やごまかしはききません。

ありのままの自分でしかいられませんので、霊界には偽善者は存在しません。


人生に苦悩している人がいたとします。

2人の人が、「どうしたのですか?」と、同じ様に声を声をかけたとします。

行動は同じでも、動機はさまざまです。

1人は、悩んでいる様子を見かねて、力になれないかと声をかけました。

もう1人は、これを機に、自分が入っている宗教に勧誘できないかと声をかけました。



人間には、自由意志が与えられています。

それと引き換えに、自分の行いには霊的な責任が生じます。

自然法則に反した行いをすると、霊的な罪が生じて、自動的に霊性が下がります。



自然法則は行いにだけ働いているのではありません。

(行いをする時の)動機に対しても働いています。



その人の力になろうと声をかけたのであれば、その動機は自然法則(愛)に敵っています。

霊性を高めることにつながるでしょう。

けれども、宗教に勧誘するためであれば違います。

自分が入っている宗教組織のため、あるいは自分の評価を高めるためならば、その動機は利己的です。

霊性を高めるどころか、貶める結果となります。

同じ行いでも、その動機によって、霊的な結果は大きく違って来ます。



自分で死を選ぶのは、霊的に罪なことです。

ただし、例外的なこともあります。

例えば、ペアを組んでロッククライミングをしている最中に、足をすべらして絶壁で宙吊りになったとします。

2人分の体重を支えるのに、ハーケンは耐えられそうにありません。


そこで1人が、自分の身体をロープから切り離しました。

自分で死を選んだことになりますが、罪を問われることはありません。

その動機が、もう1人の命を救うためであり、自然法則(愛)に適っているからです。

地上を卒業することが許されるだけの、高い霊性が発揮されたとも言えます。




行動をする時に、その動機が問われます。

何のためにするのかを、心を鎮めて検証する必要があります。

良心の訴えに従ったのなら、その動機は霊的であり、神の心に適っているはずです。

けれども、地上の人は動機に蓋をしながら、行動することがあります。

誰かのためになる行動であっても、人から良く思われたかったのであれば、その動機は利己的であり、神の心に適っているとは言えません。




本心が知れています。

神(自然法則)をごまかすことはできません。

心の奥底から、初めに生まれた想いが最も重要であり、そこに自然法則が働いています。




何を想っても自分の勝手と言う人がいます。

それも大きな間違いです。

口に出さなくても、想っていることには自然法則が働いています。

心の中で憎んだり恨んだりしても、地上では形として表れませんが、その想いは少なからず魂に影響を及ぼしています。




動機は行動の発火点となるエネルギーです。

動機により精神は作動し始め、精神は肉体を動かして具現化して行きます。

未来を変える力を、動機は秘めています。




オリンピックに出場する選手にとって、大きな目標はメダルを取ることです。

それが動機付けとなり、選手は厳しい練習に耐えています。

昔は今よりも、国を背負っているという重圧を感じながら、参加していたと思います。

国を意識し過ぎると、意識が自分の責任に向いてしまう傾向があり、結果が出せなかった時のことを、つい考えてしまいます。

そうすると、心の中に不安や怖れが生じてしまいます。

不安や怖れは、霊力の流れを阻害します。

霊力は想いを具現化させるためにある力ですが、その流れが阻害されてしまうと、肉体による十分な表現(パフォーマンス)ができなくなってしまいます。

期待された結果を出せなくなります。




一方、最高の結果を出す選手もいます。

もちろん実力や才能はあるのですが、それ以上の力が発揮されたと感じることがあります。

そんな選手はよく、具体的な名前を挙げながら、「○○のために頑張りました」と言っているのを聞きます。

また、観ている人を勇気付けたかった、励ましたかったと言っている人もいます。

結果を出すことは自分の目標であると同時に、そんな他者へ向けた動機が付加されているように感じます。




動機が神の心と一致していると、心の中の不安や怖れはなくなります。

神の心と同調することにより、霊力がどっと流れ込み、持てる力以上のものが発揮され、期待された以上の結果になったと思われることがあります。

同じ実力ならば、自分のためよりも、誰かのために臨んだ人の方が、勝者となる確率が高いと感じています。




動機が利他的であれば、良い結果が出ると思います。

私も仕事で難しいことに挑戦しなければならない時があります。

その前に「〇〇さんのために成功させる」と想いながら臨むようにしています。

そうすると、不安や怖れはなくなり、上手く行くことがほとんどです。




同じことをするのなら、他者のためにと想いながら臨んだ方が賢明です。

その動機は自然法則の働きと一致しています。

霊力が流れ込み、成就する方向に進んで行くはずです。







追記

先週、日本中を震撼させた銃撃事件が起きました。
犯人は、ある宗教団体に強い恨みを抱いていました。
母親が入信し、家族がめちゃくちゃになったと供述しています。
その母親も、同情するべき過酷な人生を歩んでいましたが、その宗教団体よりも先に、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に辿り着いていたのならと思わずにいられません。

世の中には、救いを求めている人たちがどれ位いるのでしょうか。
霊的真理の在りかを提示することは、極めて大切なことだと、改めて思います。



2022年7月10日日曜日

自分の中にいる良心と言う神



小学生の時に、交換ノートというものがありました。

学級内の生徒が順番で大学ノートに自由に文章を書いて、それに担任の先生がコメントを返します。

しばらくして、自分の番になりました。

文章を書いた後です。

いたずら心が芽生えてしまい、友達が書いた文章の表題を、おもしろおかしく書き換えてしまいました。

後になり、先生がそのことに気付き「誰が書いたんだ」と叫びました。

教室がシーンと静まり返ります。

ただならぬ雰囲気に、「自分です」と言い出せなくなりました。

男子だけが別室に集められて、名乗り出るまで、授業を受けさせないと告げられました。

自分のせいでえらいことになってしまったと慌てましたが、それでも今更、名乗り出ることは怖くてできません。

しばらくの間、葛藤が続きましたが、とうとう耐え切れなくなり、先生の所に行き、自分が書いたと白状しました。

子供ながらに良心の呵責を強く感じた出来事であり、今でも鮮明に記憶に残っています。



良心とは何なのでしょうか?

辞書で調べてみると、"何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識"と書かれています。

悪いことをしたという意識があると、気持ちが苦しくなってしまうのは、良心の呵責が生じているからです。



何が悪いのかは、誰かに教えてもらったり、本で学んでいるわけではありません。

例えば、嘘を付くのは悪いことだと思うのは、親から言われたのもあるでしょうが、自分自身に咎めるものを感じるからです。

人を傷つけてはいけないと思うのは、法律的に罰せられるのもあるでしょうが、自分自身が後味の悪い思いをするからです。



善悪の判断は、学習して身に付けているのではありません。

自分の中にある良心が判断しています。

悪いことはしてはいけないと、心の中で働きかけているのを感じます。



良心はどこにあるのでしょうか?

善悪を判断を、頭(大脳)で考えてしているわけではありません。

怒りや、悲しみのような感情とも違います。

心の中で、瞬間的に生じています。

良心は、意識の本体である「魂」から、直感となって生じていると考えられます。



精神上に自我が形成されています。

自我から出された指令は、大脳によって信号となり、肉体を動かしています。

指令が肉体に出される前に、魂(良心)によって計られています。



それでは、何のために良心が存在するのでしょうか?

人間には自由意志が与えられています。

自分の好きなように行動することが許されています。

その代わりに、自分の行動に対して責任が問われます。

もし、その行動が自然法則に反しているのならば、自動的に罪が生じます。

罪が生じると、それを償わなければなりません。

限られた時間を、そのために費やさなければならなくなります。



肉体を持つと、どうしても意識が自分に向いてしまいます。

自分がかわいくなり、利己的な行動をしやすくなります。

利己的な行動は、神の心である「愛」に反しています。

わがままや自分勝手はいけないと思うのは、神の心に反していると、良心が訴えているからです。

因果律の働きにより、後で痛い思いをするのを、魂は知っているからです。



神は人間に自由意志を与えました。

しかし、霊的にまだまだ未熟です。

そのために良心となって心の中に顕現して、地上の人間の行動を制御していると考えられます。

良心が咎める時、その行動は法則に反しています。

行動に移してしまったら、罪が生じてしまいます。



今年の2月、ロシアがウクライナに侵攻しました。

ロシアの大統領には、踏み留まる選択肢もありました。

けれども、侵攻する方を選びました。



問われるのは、行動を起こした時の動機です。

自国が他国の脅威にさらされ、土地や国民を守るためであるならば、正当防衛に当たります。

よって、自然法則に反しているとは言えません。

そうではなく、他国に対して過剰な怖れを抱き、疑心暗鬼になっていたのかもしれません。

自分の地位や権力を守ろうとしていたのならば、動機は明らかに利己的です。



戦争は法則に反した行いです。

行動に移す瞬間まで、踏み留まるように良心の声がしていたはずです。

しかし、その声は強大になった自我(エゴ)に遮られてしまい、聴こえなくなっていたと考えられます。



霊的な無知ほど恐ろしいものはありません。

後で裁かれることを知らないので、こんな出来事が起きるのです。


死んで肉体がなくなると、霊的な感覚だけになります。

途轍もなく大きな存在(神)を意識するようになります。

宇宙全体が神です。

自分の中にいる良心と言う神と向き合う時が来ます。



神は法則でもあります。

自分の行いは、法律ではなく、法則によって裁かれます。

自然法則に照らし合わされ、自動的に罪の重さが決まります。



どれくらいの人が殺され、傷ついたのでしょう。

どれほどの、要らぬ苦しみ、悲しみ、怒り、憎しみが生まれたのでしょう。

結果が目の前に映し出されて、愕然とし、自責の念に悶え苦しむことになります。



その罪はあまりに大きく、償い切れないように思えてしまいます。

自分が与えたものを、自分が受けなければならないのであれば、何度、苦痛の中で生きる人生を繰り返さなければいけなくなるのでしょうか。

想像しただけでも恐ろしい現実が、因果律の働きで、自分の身に降りかかって来ます。

一刻も早く終わりにすべきです。



しかしながら、自我の働きは、時にやっかいです。

「自分ではなく相手が悪い」、「自分は間違っていない」、「面子が潰れてしまう」など、さまざまな言い訳を考えては、良心の声を打ち消そうとします。

自我が発する言い訳と、良心の声の間でせめぎ合いが起こり、それが心の葛藤として感じられます。



良心は神です。

自分の中に神がいるのです。

いくらもっともらしい言い訳を考えたとしても、神の声の方が正しいのです。



私たちは、魂を成長させるために、この世に生まれて来ました。

成長にとって望ましい方向を、良心は瞬時に指し示します。

その声に逆らったり、無視してしまうと、自分の中にいる神を裏切ったことになり、後で後悔します。

いばらの道に思えたとしても、素直に従いましょう。



神は内にいます。

良心と言う形で顕現しています。

自我を鎮めて、心の中で響く声に耳を澄ませ、その声に忠実に生きていれば、霊的な感性が極めて弱くなっている地上の人間も、生まれて来た目的を果たせるようになっています。





2022年7月3日日曜日

愛により1つになる


宇宙は、138億年前にビッグバンが起こり、始まったと言われています。

なぜ、起きたのかを説明できる人はいません。



全ての現象は、法則に従って起きています。

従って、ビッグバンも何らかの法則に従って起きたはずです。



法則がなかったとしたらどうでしょう。

宇宙は無秩序で、不可解なものになってしまいます。

宇宙が美しいと感じられるのは、隅々まで自然法則が行き渡り、調和が保たれているからだと思います。

NASA提供



宇宙を経綸している法則が、偶然生まれたとは考えられません。

何者かが、何かの目的を持って創ったと考えられます。



法則を創った存在を、神と呼ぶことにします。

何故、神は法則を創り、宇宙を誕生させたのかは判りません。

判っているのは、宇宙はエネルギーであり、法則に従って、刻々と変化していると言うことです。


携帯電話は、離れたところにいる人とコミュニケーションをすることを目的に、人間の手によって作られました。

私たち人間は、偶然が重なって、誕生したと言う人がいます。

けれども、携帯電話よりはるかに精緻な人体が、偶然誕生したなどとは、とても考えられません。

窺い知ることのできない目的があって、神によって創られたはずです。

                                              


携帯電話は物質です。

使う人がいて、初めて電話として機能します。

人体も物質です。

人体を動かしている存在があって、初めて人間として機能します。

動かしている存在とは、非物質である魂(霊)です。

生命とは魂です。

人体と魂が結合したものが、地上の人間です。



いづれ死ぬ時が来ます。

その瞬間、魂と肉体の結合は解除されます。

魂がいなくなった人体は動かなくなり、生気を失ってやがて朽ち果てます。



目に視えるこの世界が全てだと、つい思ってしまいます。

それは誤りです。

肉体を持たないで生きる世界が存在しています。

本来の住処は、その世界です。

目的があって、肉体で自己表現をする地上に生まれて来たのです。



魂から意識が生じています。

意識によって肉体は動いています。

魂と肉体の間には精神が存在し、地上だけに存在する意識(自我)が作り上げられています。



自我は肉体との結びつきが強いために、地上的なものに意識が向く傾向にあります。

自分の身の安全を何よりも優先するのはそのためです。



意識は、地上的なもの、霊的なもののどちらかに向いています。

地上的なものに意識が向いた時は、「物」や「お金」や「自分の肉体」など、目に見えるものに関心が行きます。

霊的なものに意識が向いた時は、「生命」や「愛」や「友情」など、目に視えないものに関心が行きます。



溺れている人がいれば、助けようとします。

そんな時は、地上的なものではなく、「命」という霊的なものに意識が向いています。

自分のことを忘れて助けようとするのは、霊的な意識の中に神が存在しているからです。

神が顕現すると、誰かのために、何かをしようとする衝動が生まれます。

悪いことができないのも、神が良心となって顕現しているからです。



人間の本質は霊(魂)です。

本来は、霊的なものに意識が向いています。

誰かのために、何かをしてやりたい気持ちを持っているのですが、肉体があるために、どうしても地上的なものに意識が向いてしまいます。



生まれて来た目的は、自分(肉体)に打ち克って、霊的なものに意識を向けることです

より多くの神性を顕現させるためです。

その過程において、人は進化成長するように定められています。



霊的な存在である私たちは、霊的なエネルギーによって活動しています。

しかし、五感が優位になっているので、エネルギーが流れているのを実感できません。



エネルギーの源泉は神です。

宇宙は神的なエネルギーが顕現したものです。

宇宙全体が神であり、神は宇宙全体です。

人間は宇宙の極小の一部です。

神の一部であるために、私たちには神性があります。



全ての生命に、同じ神的なエネルギーが流れています。

そして、宇宙の一部としてつながっています。

生命が独立しているように見えるのは、地上(物質)的なものに意識が向いているからです。



1つ1つの生命は、何らかの役割りがあって存在しています。

何1つ無駄なものは存在しません。


道端のタンポポはどうでしょう?

日を浴びて光合成をして、酸素を放出しています。

放出された酸素を吸って、動物は生きています。

何気ない自然の営みですが、タンポポは地球全体のために役立っています。



生命は全体から恩恵を受け、全体に恩恵を与えながら生きています。

相互扶助の関係にあり、つながっています。



霊的な意識は、全体によって生かされていることを知っています。

そして、全体のために自分を活かそうとします。

霊的な意識が高まると、神的なネルギーが多く流れ込みます。

そのエネルギーは愛を帯びているので、全体のために何かをしたくなると考えられます。



全体のため何かすると、全体から何かを受けます。

全体から何かを受けると、全体のために何かをしたくなります。

因果律(自然法則)の働きによるものです。

愛を帯びたエネルギーは、因果律の働きによって、全体へと広がって行きます。



愛はお互いを引き付ける力です。

宇宙が創造され、バラバラになった個と個は、愛が全体に広がることにより、再び1つになって行きます。

それが神の意図のように思えてなりません。



遠い昔、人と人とのつながりは小さなコミュニティに限られていました。

時間の経過と共に、小さな枠組みから、大きな枠組みへと変化しています。

今は、愛に反した行い(争い)により分断が生じ、後退しています。

苦痛を伴いながら、新たな枠組みが構築されるでしょう。

隔てる障壁は徐々になくなって行き、遠い先になりますが、地球の人間としての枠組みだけになります。

人間の愛が、他の生命にも広がって行き、最終的には地球の生命は一体となる時が来るはずです。



宇宙を創ったエネルギーは、愛を表現するエネルギーでもあります。

生命は進化を続け、より高い愛を表現するようになり、他者と調和しながら、1つになる方向に向かっています。