永久の別れと聞いて思い浮かぶのは何でしょうか?
「死に別れ」という人が多いと思います。
死ぬと、肉体は全く動かなくなります。
動かなくなった肉体は荼毘に付され、骨だけになります。
今まであった肉体がなくなると、存在自体がなくなってしまったと思う人も少なくありません。
そんな理由から、永久の別れと思ってしまうのも、仕方がないかもしれません。
人間を構成しているのは肉体だけではありません。
肉体を動かしているのは精神であることは、誰もが知っています。
その精神を動かしているのが、さらに高次に存在する魂です。
人間は、肉体、精神、魂(霊)の複合体です。
魂は生命そのものであり、その人の本質です。
死んで肉体は骨になっても、意識は変わりなく存在しています。
「完全にいなくなった」と誤った認識をすると、無用な苦しみに襲われてしまいます。
「遠いところに行ってしまった」と言う人がいますが、それも正しくはありません。
亡くなった人がどうしているのか?
自分が死んだ時のことを考えれば、容易に想像が付きます。
大切な人を放っておいて、遠くに行ってしまうでしょうか?
「どうしているのだろう?」
「大丈夫だろうか?」
きっと、気になるのではないでしょうか。
肉体がないだけで、他は生前と何も変わっていません。
親愛の想いがあれば、傍にいたくなるのは、自然の成り行きです。
視えなくなったけど生きている。
たったそれだけのことですが、信じるのはなかなか難しいようです。
今まで目に視える世界が全てだと思っていた人が、急に魂の存在を信じなさいと言われても戸惑うだけです。
証明されない限り信じないのは、理性を持つ人間であれば当然なのかもしれません。
愛は目に視えず、存在を証明することもできません。
それでも、ほとんどの人は存在すると思っています。
愛が存在しているのを信じている人であれば、魂の存在も信じられるはずです。
なぜなら、愛が生まれる場所も、感じる場所も魂だからです。
亡くなった人の肉眼は失われているために、地上の人の肉体は視えません。
しかし、肉眼に変わって霊的な眼が見開かれて、魂が視えるようになります。
魂から生じている地上の人の想いは、手に取るように判るようになっています。
一方、地上の人は、亡くなった人の想いが全く判らなくなっています。
両者の状況は正反対です。
遠いところに行ってしまうわけなどありません。
物理的な制約がなくなり、生前よりも近くにいられるようになります。
「死者の力~津波被災地「霊的体験」の生死学~」(高橋 原、堀江宗正著 岩波書店)という本があります。
遺族の霊的体験をインタビュー形式でまとめたものですが、その中にこんな一節があります。
「夫を亡くした女性は、心のなかに夫がいて、話しかけると答えてくれるような感じがし、メッセージを受けたと喜んでいる。たまに気配を感じ、見守られていると思う。彼女は、どちらの家系の先祖も熱心に拝んでいる。『誰も死んでいない、人の魂は死後どこにも行かず、生きている人たちと一緒にここにいる』と話す(70歳女性、2014年談)」
魂の存在を否定する人は、この文章を読んで、悲しみの果ての妄想あるいは錯覚と片付けようとするでしょう。
けれども、この人以外にも同様の経験をしている人がたくさんいます。
多くの人が霊的体験によって、悲しみや痛みが癒されています。
誰にでも起こっている現象ですが、それを感じ取れるかどうかの差と考えられます。
「魂でもいいからそばにいて~3・11後の霊体験~」(奥野修二著 新潮文庫)には、数多くの霊的現象が書かれています。少し長くなりますが、その中の1つを引用します。
「津波で逝った(長男)の康生くんがそばにいると感じたのは、震災から2年経った頃だという。あの子は言葉は思い出すのに声が出てこない。幼稚園で撮ったビデオを見ればいいのに、怖いのと見れば悲しくなるのがわかっているから見ることもできない。康ちゃんどうしているんだろう、逢いたいなあ…、由理さんのそんな思いが頂点に達した時だった。
「2013年のいつでしたか、温かくなり始めた頃でしたね。あの日、私と中学生の娘と主人と、震災の翌年に生まれた次男の4人で食事をしていたんです。康ちゃんと離れて食べるのもなんだから、私が祭壇のほうを振り向いて、『康ちゃん、こっちで食べようね』そう声をかけて『いただきます』と言った途端、康ちゃんが大好きだったアンパンマンのハンドルがついたおもちゃの車が、いきなり点滅したかと思うと、ブーンって音をたてて動いたんです」
「『このおもちゃ、勝手に動くの?』どうやったってスイッチをオンにしないかぎり動かないのに動いたのです。その時みんな『アッ、康ちゃんだ』と叫びました。『康ちゃん、こんなとこさ、遊んでんだ』そう思ったらうれしくて仕方がありません。それから何日か経ったある日、主人が次男をお風呂に入れていた時でした。『康ちゃん、もう一回でいいからママにおもちゃを動かして見せて』心の中でお願いしたんです。そしたらまた動いたんですよ『康ちゃん、ありがとう』こんな近い距離で私たちを見ているんだ。そう思った時、昔から私に『笑って、笑って』とひょうきんな顔をしたのを思い出しましてね、そうだ、私も笑わなきゃだめだ、頑張らなきゃだめだと思ったのです。
奥のキッチンから、長女が料理しているのか、カタカタと音がする。由理さんは、すっかり冷たくなったお茶をすすった。」(『ママ、笑って』より)
言葉では伝えられないので、想いを感じ取って欲しいのです。
愛があるからこそ、いろいろな方法で地上の人に存在を示したり、想いを伝えようとしています。
残念ながら、そのことに気付かないのがほとんどです。
運よく気付いたとしても、気のせいや思い付きとして片付けてしまいます。
泣きじゃくっている子供に、何を言っても無駄な時があります。
感情で心が一杯になっている人に、存在に気付いてもらうことも、想いを感じ取ってもらう余裕もありません。
悲しみのオーラが壁のように感じられ、近づけなくなります。
重苦しい肉体から解放されて、自由に何でもできるようになっています。
物理的な制約がなくなり、近くにいられるのを喜んでいます。
しかし、そのことが全く判らない地上の人は、いなくなったと嘆き悲しんでいます。
両者の想い(波長)があまりに違うために、接点はほとんどありません。
同じ屋根の下で暮らしながら、心が全く通い合っていない人がいます。
法律的に1番近い関係である夫婦でも、お互いの都合でそうしている人たちもいます。
別れとは、想いが通い合わなくなり、つながりが断たれた状態を意味します。
触れ合うほど近くにいたとしても、霊的には別れています。
死んだ後に、再会することもないでしょう。
そんな人こそ、永久に別れているのかもしれません。
同じ次元で生きているか、いないかは関係ありません。
死は永久の別れと思っている人がいますが、とんでもない誤解です。
誤解が苦しみを生んでしまいます。
肉体はなくても、心は失われていません。
視えなくなっても生きている、想いは変わっていないと、強い意思を持って信じることが必要です。
信じることは愛することです。
魂は再びつながり、愛せない苦しみから解放されます。
愛は魂を引き合う力です。
死によって、その力はいささかも失われないので、引き裂かれることはありません。
親愛の想いで結ばれている人たちに別れは存在しません。